「解釈学主義」批判 −国語教育・文学教育理論の根柢を問い直す−                      
 
 
  解釈学的国語教育の源流、『国語の力』
   ――「国語教育」臨時増刊号('82.12)をめぐって      山下 明   

【「文学と教育」bP24 (1983.5) 掲載】



  「垣内松三『国語の力』について」という一文を、私は、本誌の前々号(122号/'82年11月)に書いたばかりであった。 にもかかわらず、再び垣内理論を批判する表題を掲げたのは、そのすぐ後に、垣内理論を称揚する潮流がはっきりと表に出てきたからである。'82年12月、雑誌「教育科学/国語教育」(明治図書)が、「『国語の力』をこう読む」(国語教育研究所編)という特集の臨時増刊号を出したのである。


   文教研全国集会での報告

  「垣内松三『国語のカ』について」という短い文章は、第31回文教研全国集会('82年8月)での、私の“報告”の要約であった。
  そこにおいて私は、〈文学史と文学教育史の接点〉ということをとりあげ、井伏鱒二によってもたらされた近代文学史における対話精神の樹立が何故、今日まで正当に評価されなかったのかという問題を、“創造の完結者としての読者”がまっとうに育っていなかったという点において考えてみたのであった。そこに、豊かであるべき文学の対話を疎外 しつづけてきたものとして位置づくのが、「作品解釈」や「読解指導」の国語教育であり、そのような「国語教育における解釈学の祖のひとりとして垣内松三氏(明治11〜昭和27)をあげ」て、批判を試みたのであった。
  『国語の力』(大正11)からいくつかの章句を引きながら、私はそこで、垣内氏の所説が「言語実体説と生の哲学に基づく、追体験の解釈学である」ことを明らかにした。そして、この“垣内理論”の持つ問題性を次のように指摘したのである。
――が、問題は、ともかくもそこに打ち出された垣内理論なるものが、文学認識論の立場から正しく批判されなければならなかったはずなのに、さらに石山脩平氏らに受け継がれてより明瞭な形で「生の哲学」を基礎とする「解釈学」として構築され、主として師範学校系の「国語科教育法」を通じて教育現場にも定着し、現在もなお国語教育の中で「読解主義」として主流を占めている、ということである。
  そこへもってきて、今回の、「『国語の力』をこう読む」 という、「国語教育」の臨時増刊号であった。垣内松三氏は、まさしく、〈国語教育における解釈学の祖〉として、〈主として師範学校系〉の国語教育学者によって、私たちの“現在”に担ぎ出されてきたのである。


   特集「『国語の力』をこう読む」

  この臨時増刊号について、一応の内容紹介をしておこう。
  まず巻頭郡分に、次の四つの論文を載せている。
『国語の力』と日本の国語教育……石井庄司
国語教育史における垣内松三……野地潤家
垣内理論と今日の国語科教育……輿水 実
垣内松三の源泉 ………………… 木藤冬樹
  次いで、《『国語の力』をこう読む・こう読ませている》 というタイトルをとって、大学の国語科教育の現場人がそれぞれに稿を寄せている。その顔ぶれは、田近洵一(東京学芸大)、浮橋康彦(広島大)、湊吉正(筑波大)、高橋和夫 (群馬大)、甲斐睦朗(愛知教育大)、中洌正堯(兵庫教育大)、広瀬節夫(静岡大)、小林和彦(北海道教育大)、小森茂(高知大)の諸氏である。
  その後に、《回想の垣内先生》ということで、石森延男、波多野完治、井上敏夫、倉沢栄吉、滑川道夫氏ら、垣内の生前に交渉のあった人たち二十人の回想記が載せられている。そして、《死後出版された垣内先生の本の紹介》というコーナーがあって、巻末には、《付録/三つの『国語の力』》として、『国語の力』・『序説 国語の力』・『国語の力(再稿)』からの抜粋を掲載する、約三〇〇ページにも及ぶ構成である。
  なにしろ、この特集についての前書きに類するものが何もないので、読者としてはこの錚々たる顔ぶれを前にしていささかめんくらうのであるが、この企画が、故人への単なる追懐や、先達の遺徳の称揚にとどまるものでないことは、読みすすめるにつれはっきりしてくる。それは、「垣内理論を新しい国語教育の状況の中に生かす」(輿水実)という立場からの、現状への積極的なデモンストレーションになっているのである。
  一つ一つの論文について触れる余裕がないので、こういう言い方しかできないが、それらの論文は総じて、まず、『国語の力』との出会いの感激から書き起こされ、それぞれに、その現代的意義の大なることを確認して終わっている。その中には、「現在、私は大学の教壇で、小・中・高の国語教師の養成に当たっているが、垣内先生の本質的根拠をしっかり教育することが任務だと思って努力中である」(S氏)というのもある。
  そうした中にあって、「垣内理論の問い直し」の必要を打ち出した論文は、私の読んだかぎり、田近洵一氏の「私にとっての『国語の力』――私的回想風に」の一編だけであった。そこにおいて氏は、「垣内の解釈理論が読み手主体を欠落させていることは、読みの理論あるいは読みの指導理論としての決定的な弱点」であることを指摘し、さらに、「形象理論と言い、解釈学と言い、結局は、作品の完璧さを前提として、作者の思想や心情への同化をめざすものであって、それは、戦時中の国粋主義的な感化教育の中に完全に組み込まれる危険性を内在したものであったと言えよう。」と述べている。そして、「作品を絶対視し、限りなく作者に近づいていけばよしとする読みの理論」としての『国語の力』には、「教材論がない」と言うのである。同感である。私はやっと少し救われたような気がした。
  そこで私も、再び、垣内理論そのものの検討に入らねばならない。


   “垣内理論”と称ばれるもの

  垣内理論といえば、「センテンス・メソッド」と「形象理論」ということばで知られている。
  『国語の力』(大正11)で垣内の提唱した「センテンス・メソッド」は、言語観というよりも、新しい読み方の方法として受け容れられたようだ。ヒユーイー(Huey)の言うところの、“sentence method ”に学んで、文を断片的に取り扱う訓詁注釈を否定して、「言語の有機的統一」としての文の全体を対象とすべきだというのである。その主張を垣内は、芦田恵之助の『読み方教授』に収められた、芦田の「冬景色」の授業記録を再構成しながら具体的に展開し、一つの指導過程論として組み立てているのである。その、現場性といおうか、指導の場面に即した具体性が、この書物を普及させた、一つの魅力であったろう。
  が、実は、芦田恵之助の立脚点と、垣内のそれとは、かなり食いちがっていたはずである。垣内自身が引用している部分でも、芦田はこう言っている。
 ――読み方教授は自己を読ませるのが目的である。自己を読むとは他人の文章によつて、様々の思想を自己の内界に画き、未知の真理を発見しては之を喜び、悲哀の事実には同情の涙を灑ぎ、かくして自己の覚醒せらるるを楽しむ義である。

  ここでは、あくまで読み手としての児童が中心である。ところが垣内にあっては、「自分はかう読んだ、かう思ふ、かく感じたといふことが始めて解釈の生ずる起点である」としながらも、いつの間にか、「自己を主観を雑へざる純真なる自然の態度に置くこと」によって、「更に作者と一致して文の実相を感得する」ことが要求されてくる。このようにして、センテンス・メソッドの論は、次第に神秘性を加えて、「言語の生命」「言語の活力」の探究へと向かっていくのである。
  ところで、垣内には『言語形象性を語る』(昭和15刊)という書物がある。「自叙伝風に」というサブタイトルを持つこの著作で、彼は『国語の力』について、又、「形象理論」について語っている。
  それによると、垣内の言う「形象」は、「芸術史及び芸術理論に於ける形象の概念ではなく、心と語との動力的統一の関係を明かにする意味を潜めて居る」と言う。『国語の力(再稿)』に見える「形象 Gestalt 」という記述と思い合わせてなるほどとうなづける。垣内の場合、「形象」は Bild のことではない、ということをはっきりさせておくことが案外に大切なことではないかと思われる。
  さて、それで、垣内は次のようなことを語っている。自分は早くから英米の文学形態学とドイツの精神科学とに関心を待ち摂取してきたが、独自に、「心と語との動力的統一の関係」を明らかにしようとし、「主として解釈の力を中心として、これを学問の研究及び教育の問題にさし向けようとするのが、国語の力の目ざした点であった。」と。
 ――言語と精神の相関関係を「カ」と認め、それを解明するために、其の「動力的統一の構造」を「形象」と名づけ、その全構造としての「形象性」を研究する理論的操作を組織的に、体系的に整序するために、幾多の学説と、多年の経験とを駆使して、この考察に当つたのであつたが、当然その中心に於てそれを統率する根源性を把握することが究竟の問題であると考えた。
  これが『国語の力』の追求したものであった。そこにおいて、既に、ことばは実体であり、また「客観的精神」であった。


    『国語の力(再稿)』

――勿論、この課題は、後になつて見ると、既にディールタイ及びその学派の人によつて取り上げられてゐる問題であつたのであるが、その事についても、その当時は全く知らなかつた。
  自分が追求していた問題が、実は、ディルタイらによって「生の哲学」として大成されていたことを知った垣内は、やがて、『国語の力(再稿)』(昭和23)を書くことになる。「再稿」とは言っても、いわゆる改訂版ではない。ディルタイの生の哲学と解釈学、フッサールの現象学などを組み込んだうえで、さらにそれを、本居宣長や富士谷御杖などの日本的汎言語主義の伝統にもつなげたところで、一つの世界観として体系づけようとしていたようである。それはそれとして、垣内理論はディルタイ流の生哲学であり解釈学だ、というその内容がどんなものか、例えば次の部分からもはっきりとうかがえよう。
――教典・法典・古典・詩編などはいづれも強い体験流から生み出されたものであるからこそ、心から心へ、生から生へ強い体験流として律動するのである。いかに複雑さうに見えてもわれわれの心的――精神的生活はかかる共体験の人格的統一に於て営まれるのである。それ故にこれをまとめて見ると、一者は表現によりて、自己の内にあると同じやうな、他者の内にあるものを開示するのである。他者はそれを外からもちこまれるのでなく、自己の内にある生そのものから、一者の内にある我を見るのである。
――彼(注・ディルタイ)に於て、生の内化は体験といはれ、生の外化は表現と呼ばれ、両者の綜合としての生の再内化には理会が置かれて、ここに生の三方位が決定されてゐる。(中略)かかる思潮は、ここに、文学作品をば最広義に於ける生の外化又は客観化として考えてゐるのであることは言ふまでもない。

  解釈学的国語教育批判の視点

  以上の考察を以て、戦前において国語教育界に広く滲透 していた(『国語の力』は40版を重ねた)垣内理論なるものが、言語実体説と生の哲学に基づく、徹底した追体験の解釈学であることは、おわかりいただけたかと思う。
  では、そのことが現実にどのような問題をもち、わたしたちの現代にどのようにかかわってくるのか、――その問いに最も明確に答えてくれるのが、熊谷孝氏の『文体づくりの国語教育』(昭和45/三省堂)である。氏はそこで、戦前・戦後を通じての問題として、「解釈学的国語教育」への根底からの批判を展開されている。垣内理論が直接にとりあげられてはいないが、そのことは当然、射程内に入れての批判である。少し長くなりそうだが、再確認の意味も含めて引用させていただくことにする。
――戦前の国語教育が天皇制臣民教育のひとつのケルン(核)として、汎言語主義的な世界観と、汎言語主義の言語観を前提としたものてあったことについては、機会あるごとに語ってきた通りである。/汎言語主義的世界観――つまり、ナイーヴな精神主義、観念論の世界認識・世界観である。/汎言語主義の言語観・国語観――つまり、また、ナイーヴな言語実体説=言霊(ことだま)思想である。(中略)そこでは、「ヤマト民族のことばにはヤマトダマシイが宿っている。」というのであった。その ことば、その 文章、その 作品には、その 送り手(=作者)の意図・志向が内容として封じ込められている、というのであった。“ことば”は、事物の意味の等価物ではなくして、事物の等価物、むしろ本質(=実体)である、とそこでは考えられているのであった。
――ところで、当時の支配体制とそのイデオローグたちは、こうした言語観・国語観と、そうした観念・想念に基づく国語教育を、国際的な(という印象を一応与えることのできそうな)学問的理論の装いで粉飾する必要があった。他に対して、また自分に対してである。そのような必要というか需要に対して理論的素材の供給源の役割を果たしたのがドイツの生哲学、とりわけW.ディルタイを中心とする生の解釈学であった。
――戦後一時期の日本の国語教育思想(思潮)は、ところで、 戦前・戦中の生の解釈学に代わって、プラグマティズムの発想に基づく経験主義・言語技術主義によって、ほとんどまったく支配し尽くされるに至った。(中略) これは、確かに、解釈学的国語教育からの大幅な転換であった。“ことば”はそこでは、もはや「言霊」などではなくて「手段」「道具」であった。しかも、消耗品 という意味での道具であった。それは、素朴・卑俗な意味での、まさにコミュニケーション・メディアとして考えられるに至った。(中略)にもかかわらず、見のがされてならないのは、解釈学的国語教育に代わってイニシャティーヴをとるに至った、プラグマティズムの言語理論と教育理論が――むしろ、プラグマティズムそのものが――生哲学のアメリカ的形態以外のものではなかった、という点である。
――さて、一九五八年の教育課程の改定から六八年の再改定へかけての時期についてである。体制側の国語教育理論は現在、いわく因縁のある、あの生の解釈学=解釈学的国語教育をいわばタテ軸とし、そして言語技術主義をヨコ軸としたもののようだ。(中略)ところで、最近では、この解釈学の指導過程の実際の適用には、国語教育の「近代化」とか「現代化」と称する、実用主義的にモダナイズされた技術を媒介しているのが一般のようである。体制側の指導的理論家である輿水実氏が、「今後の国語指導法は、いわば、もっと戦前の形象論的、あるいは解釈学的な指導過程を取り入れることになるだろう。」と言いながらも、「もちろん、それは、戦前のまま、昔のままというわけではない。」ということばを添えているのは、多分そのことをさすのだろう。
  ほんとうに長い引用になってしまって恐縮だが、ここでの熊谷氏の指摘によって、私たちは、〈国語教育の現在〉をとらえ直す確かな視点が与えられよう。今回の臨時増刊による特集も、解釈学的国語教育の潮流の八十年代における一つの突出である。
  なお、生の解釈としてのディルタイの想像力理論がどのようなものであり、どのような問題を持っているか、については、小学館『教育学全集』第五巻=「言語と思考」に、熊谷孝氏の明晰な論文が収められている。参照してほしい。


   いまも進行しつつあるもの

  前に紹介したように、田近洵一氏は、垣内の解釈理論に「読み手主体」が欠落し、「教材論」がないことを指摘した。実は、それに加えて、〈媒介者としての教師の主体〉が、 すっぽり脱落しているのである。では、いったいそこに何が在るのか? 実体としての言葉だけである。
  生徒たちは、訓練・訓練、スキル・スキル、自己を空しうして、そこに封じこめられているはずの「正解」に到達する術を身につけるために勤しむ。教師は、どこかの「権威」者の御託宣をそっくり教室に持ちこんで、自己とは全くかかわらないところで、「だれにでもすぐできる国語の授業」を進める。――戯画化が過ぎたかもしれぬ。だが、これが「読解指導」ではないのか。教師の主体を通すこともなく、どのような文体刺激をもたらす作品であるかも問わず、読み手の主体的な感動を疎外し、現実への変革の意欲をも眠りこませてしまうような、人間不在の授業、――そのような授業のくりかえしだとしたら、それに、青少年がどこまで耐えられるだろうか。その不満がくすぶりはじめたとき、その便宜主義・実用主義の背後から顔を出すのが“言霊”であるとしたら、それは恐しい話だ。
――わたしは、基本的には垣内先生の研究に立っている。先生が書かれてしまったものを問題とするだけでなく、書こうとなさったもの、めがけられたものを、めがけている。(風間章典氏の引用したものに拠る)
  垣内学説を最も忠実に継承し、教育現場に定着させるに功のあった輿水実氏のことばである。                                                                                                                     
   (桐朋高校)
    

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