資料:鑑賞主義論争――「鑑賞主義論争」の前後
「日本評論」(日本評論社刊)1946年8-9月合併号掲載

 回想十五年 ―国文学界を中心に―        近藤忠義

「日本評論」1946.8-9 表紙 十数年に渉(わた)った今度の戦争が、単に国外の民主主義に対する挑戦であったのみならず、国内に於ける民主主義への非道な殺戮戦であったことは言う迄もないが、此の間、われわれの国文学がどのような活動をして来たか、反動への加担者であったか人民の味方だったか、については今こそ厳正な批判がなされねばならぬのだが、本稿では取敢えず、戦時中の日本文学研究部面に現れた特徴的な諸現象を、ひとわたり年表的に鳥瞰して置き、他日に備えたいと思う。

 昭和六年
 世界資本主義の最も弱い一環としての日本帝国主義は数年来の激しい不況からの血路を求めてもがいていたが、この年九月十八日いわゆる満州事変に突入して、みずからの墓穴を掘る最初の決定的な鍬をおろした。(…略…)
 国文学界では反動はまだ表面化せず、遅ればせながら進歩的な学風が、学界のよどんだ空気の中に漸く生長しはじめようとしていた。この年の春、東大国文科出身者によって「明治文学会」が成立せられ、会の一部には未熟ながらも唯物史観を学び入れようとする新しい学風が芽ぐみ初め、翌七年には大体そうした学風に拠る者たちが分離して「明治文学談話会」を創立した。しかしこれらの芽生えは、会そのものとして纏った勢力となることが出来ず、二つの会の方向は次第に歪められて、旧国文学の伝統たる瑣末な文献学・実証主義に偏ってゆき、作家の自筆原稿のせんさくや、筆跡による精神分析などのまで墜ちて行った。また六月から出はじめた岩波講座「日本文学」は学界の大家中堅新進を糾合し、文献学を主流とする国文学の当時としての最高水準を示すものであった。

 昭和七年
 情勢は漸次緊迫して来、五・一五事件、警視庁特高警察の強化(六月)、満州国承認(九月) (…略…) 等が記憶される。この年、国民精神文化研究所が設けられたことは、唯物論研究会が創められたことと対比して意味深い。五月から「資本主義発達史講座」の刊行が始まったことも注目に値する。
 国文学界では、昭和二年頃から立案着手せられていた「日本文学史大辞典」がこの年六月にその第一巻を世に出し、在来の国文学の正系と考えられていた文献学的研究の集大成を行い、ここに国文学研究史上一段落が与えられて、学の新たなる展開が予想せられるに至ったことは特筆すべきことである。

 昭和八年
 一月末にヒトラー内閣を成立せしめた。三月には日本は国際連盟を脱退し、運命の軌道にその侵略主義の車輪をしっかりとはめてしまった。五月には京大に瀧川事件が起り、六月には佐野学・鍋山貞親が獄中から転向を声明した。学界では「文学」が創刊せられ、当時まで唯一の国文学専門雑誌であった「国語と国文学」(大正十三年創刊)の悪しき専門化に対して、新鮮に対立するかに見えたが、いくばくもなく時代感覚と歴史的視野との欠如の故に、旧い国文学雑誌として凝固してしまった。(…略…)

 昭和九年
 共産党リンチ事件(一月)、商相中島久万吉の足利尊氏問題による辞職(二月)、各地に催された建武中興六百年記念祭(三月)、 国語審議会による国号呼称「ニッポン」の決定(同月)、全国小学校教員精神作興大会の親閲(四月。なおこれに類する行事は此の頃から漸くその頻度を加えはじめる)、 「忠犬ハチ公」の銅像除幕式の挙行(同月)、宮崎市に於ける「神武東遷二千六百年」記念大祭に秩父宮台臨(十月)等々、軍国主義日本の支配者による仮面劇の上演に、国民大衆は絶え間のない拍手を強いられはじめたのである。
 この年前年の「資本主義発達史講座」に収められた、山田盛太郎氏「日本資本主義分析」及び平野義太郎氏「日本資本主義社会の機構」がそれぞれ単行本として刊行せられた。翌十年十月これらに対する向坂逸郎氏の駁論をきっかけとして、所謂「講座派」対「労農派」の「資本主義論争」が始まることとなったのは特筆せらるべきである。
 国文学界では岡崎義恵氏が「日本文芸学の樹立」(「文学」十月号)を提唱し、旧い国文学に手套
(てぶくろ)を投げて日本文芸の芸術としての研究を主張し、その限りに於て新しい世代の共感を獲たが、芸術性文化性を抽象的・超越的に理解する点に於て、知らずしらずして国文学ファッショ化の苗床となる危険を予約した。

 昭和十年
 永く公認の学説となっている美濃部達吉博士の天皇機関説が俄然問題化し、一月以降紛糾を重ねた。五月二十五日には全国各地に大楠公六百年大祭が催され、八月及び十月には岡田内閣によって「国体明徴」の声明が繰返され、同じく八月には陸軍省軍務局長永田鉄山少将が刺殺され、十月には青年学校が全国一斉に開校十一月にはアナ系分子の大検挙、十二月には大本教主の「不敬事件」による検挙が行われた。
 この年文壇では所謂「行動主義」・「能動精神」の流行が見られたが、それには社会的混迷による小市民知識層の不安動揺・理性の喪失がまざまざと反映せられ、「日本的」な育ちを身につけている知識人の、ファッシズムへの急速な歩み寄りが物語られていた。
 岡崎義恵教授の「日本文芸学」がこの年十二月に単行本として刊行せられた。

 昭和十一年
 一月十五日ロンドン軍縮会議に於て日本代表は正式脱退を通告した。二月二十一日には美濃部博士が狙撃された。それより五日の後には青年将校らの一団が手兵を率いて叛乱した二・二六事件が勃発している。 (…略…) 東京には戒厳令が布かれ人心は極度に緊張したが、叛徒は二十九日に至って鎮圧された。三月九日広田内閣成立、平生文相はしきりに「知育偏重」を唱え、あたかも真の知育がかつての日本に存在したかの如き錯覚を与え、その当然の結果として、知性・理性の蔑視、精神主義への偏向、ファシズムへの地ならしを準備した。配属将校・体操教師・生徒課学生課員・青年団幹部・その他街の素人教育家が一斉に氾濫して総がかりで日本の知性を袋叩きにし、無知な粗野な放埒無頼な「魂」の教育・「腹」の教育を押売りした。三月には大本教が大弾圧を蒙って壊滅し、ついで類似の「邪教」が根こそぎにされて行った。これらの「邪教」には、治安維持法・不敬罪が適用され得るという点に注意しなければならぬ。九月には日本諸学振興委員会が設置された。十一月二十五日には、日独防共協定が締結せられ、同じ月にはナチス宣伝相ゲッベルスが、理性に訴えるべき芸術批評を禁止して鑑賞を之に代えしめるよう命令を発した、という情報が日本の文化界に話題を投げたのも、まことに興味が深い。
 国文学界に於ても、この頃主として「日本文芸学」の主唱を直接の対象として、所謂歴史・社会的方法―弁証法的唯物論に拠る若い学派が、鑑賞の問題・芸術性の問題・芸術評価の問題・文芸史の問題等を取上て活発に闘いはじめた。この「歴史・社会学派」は、相手の理解能力を計算に入れて説得力を充分に持った立論をする余裕も無く、性急な攻勢を取った為に、論的に一人合点の粗雑な理解を許す結果となったのみならず、最も悪いことには、論敵たちは、がっちりと理論で四つに組むことをせず、当時の政治的・社会的情勢の防壁に隠れて、だしぬけに「彼等は赤だ!」「マルクス崩れだ!」と叫ぶことによって、話を片づけようとする悪い癖を持っていた。さきに年表的に瞥見して来たような、当時のあの気狂いじみた情勢の中で、「赤」だの「唯物論」だの「マルクス主義」だのと呼び立てられることが、およそどういう結果を生むことになるかは誰にも明白なはずであった。しかし「歴史・社会学派」が相手とした敵たちは、論争として正しく解決することをせず、そういう卑俗な「政治」の君臨する場所にすぐさま相手をおびき出して、理論闘争以外の飛び道具や落とし穴で謀殺しようとするのであった。歴史を正しく前方に推し進めようとする意味での政治性を文学に認めようとする「歴史・社会学派」の行き方を「政治的」だと難じ、みずからは「政治」から独立した「文芸自体」を守護すると称しながら、知らぬまに悪しき「政治」――歴史を逆行させようとする反動支配の暴力としての政治に助太刀を求めるのが、これらの者たちの常套手段であった。興奮した群衆の真中で「泥棒だ」と指さし絶叫されることは致命的である。「歴史・社会学派」の活動は、だから、社会情勢の切迫と共に、次第に学界の表面からその姿を隠してゆく結果となるのであって、昭和十一・十二の二ヶ年が最も溌剌たる活躍を示した年であったと言える。

 昭和十二年
 二月から六月にかけては林銑十郎内閣の時期で、文字通りの「神がかり」時代であった。「祭政一致」・「滅私奉公」などという言葉が濫発されたのも此の頃だ。二月十一日には文化勲章令が制定公布された。およそ文化というものとは縁の薄かった政府が、この年になって文化勲章などを思いついたことが、決して文化を尊重する気になったからなぞではないことは、中学生にでもよくわかっていた。六月には近衛内閣が成立し、長い間の粗暴野蛮な内閣の連続に腐っていた国民が、この名門出身の瀟洒なインテリ宰相の出現に、且又、その「社会正義」論の標榜に、一種の好感を持たされたことも、さて国政をとらせて見れば、やはり大地主・大資本家と官僚・軍閥との手にある日本はどう変りようも無く、同じ目標の方へずるずる引張ってゆかれるのを感じて失望したことも、どちらも本当であったろう。そうして七月七日には遂に日支事変に辷り込んだ。その月の二十一日には教学局の官制が公布されている。十二月に公布された参与の顔触れには、和辻哲郎・作田壮一・田辺元・西晋一郎・橋田邦彦・関谷龍吉・三上参次・松浦鎮次郎・長与又郎・浜田耕作・田所美治・西田幾多郎・筧克彦・山田孝雄・田中穂積・小泉信三の諸氏の名が見える。 十一月にはムッソリーニの伊太利が日独防共協定の仲間入りをし、十二月一日には、つい最近までスペイン叛軍と呼んでいたフランコの政権を承認した。この月、東大経済学部の矢内原教授はその著書「民族と平和」及び雑誌論文「国家の理想」を各方面から問題にされたため辞表を提出、右著書は発禁処分に付された。支那大陸では同じ月の十日、南京総攻撃・同入城式、十二日米国砲艦パネー号事件等が起っている一方、国内では所謂人民戦線派の大検挙が行われた。すなわち十五日以降、日本無産党・日本労働組合全国評議会及び、労農派の幹部約四百名が治安維持法違反被疑者として捕われ、その結社禁止命令が発せられた。犠牲者中主なる人々は、山川均・猪俣津南雄・大森義太郎・向坂逸郎・岡田宗司・黒田寿男・加藤勘十・鈴木茂三郎・荒畑寒村・高津正道・中西伊之助・青野季吉・小堀甚二等の諸氏であった。
 学界関係では、右のような政治面・社会面での反動の攻勢と呼応するかのように、まず七月には「新日本文化の会」が誕生した。松本学・佐藤春夫・中河与一・林房雄・らの諸氏によって創められ、役員には林房雄・萩原朔太郎・芳賀檀・中河与一・保田与重郎・藤田徳太郎・浅野晃・佐藤春夫・三好達治らの人々が就任している。ついで九月には「透谷会」が島崎藤村・佐藤春夫・武者小路実篤・与謝野晶子・中河与一・萩原朔太郎・吉江喬松・戸川秋骨氏によって創立、透谷賞が設定せられた。 (…略…) 反動陣営の結集・攻勢に対応して、日支事変勃発直後の八月「歴史・社会学派」によって「文芸復興」が創刊された。この派はさきに小冊子「国文学誌要」を持っていたが、ここに国文学界外の進歩的な文化人をも執筆者陣に糾合して、滔々たるファッショ化の風潮に戦いを挑み、当面の問題jとしては「日本文芸学」批判の矢を向け文芸科学樹立のための処女地の開拓につとめた。国文学界内部の執筆者には(もっとも、後日この陣営からも、さまざまな経緯で、脱落する者を少からず出しはしたけれども)、石山徹郎・羽仁新五・榊原美文・重友毅・風巻景次郎・佐山済・潁原退蔵・熊谷孝・乾孝・吉田正吉・猪野謙二・永積安明の諸氏および近藤忠義らがあった。しかし、事変勃発以来、言論集会に対する圧迫は日を追うて加重され、論的は又さきに述べたように文学論外の政治社会情勢を楯として誣告を事とするに至ったため、遂に四号を以て休刊せざるを得ぬこととなった。その後この学派からの発言は愈々狭められ阻まれ続けたため、辛うじて「書叢日本古典読本」や合同執筆による「日本文学入門」等の中に極めて僅かの陣地を占め、相倚って孤塁を死守するという状態であった。それでも敵は、例の使い馴れた飛び道具に、百パーセント物を言わせて、出版社あての脅迫的投書や、書評に隠れた人身攻撃や、当局への密告などで、執拗に食いさがって来た。それはまことに、相手を斃すためには良心も矜持も悪魔に売り渡していささかも悔いないという程のものでさえあった。ここにその典型的な一二の例を引用して見よう。まず次の引例は「作品」昭和十二年十二月号所載の「野合」と題する藤田徳太郎氏の時評である。
 岩波講座「國語ヘ育」の第十二囘配本に收められてゐる岡崎義惠氏の「古典及び古典ヘ育について」といふ論文は、種々の點で興味の深いものであつた。その中にかういふ事が書いてある。 
 然も、かゝる見地は今日所謂國文学界においては歴史的社會的立場として認められてゐる。歴史といふものを持續的なものとして見ず、社會といふものを階級的限界内のものとして見ようとする立場が此處にある。……中にはかなり極端な左翼的位置に立つ者も此一類に見出されるのである。思ふにこれはマルクス主義の亞流である。左翼分子の活躍した頃の論文に見られる口調が、此處には著しく面影を留めてゐる。今日では餘程僞裝して居り、軟化しても居るが、尚蔽ふ事の出來ない赤化思想への傾きを見出さないわけにはゆかない。唯物論研究といふ雜誌とも聯絡があるようであり、ソヴィエツト文藝学への追隨の跡も認められる。此派を行く所まで行かせると、當然赤化行動に迄進むに相違ない。……「歴史的意義の評價」なるものは、かかるプロレタリヤのイデオロギーに理論的基礎を與へるやうな、階級闘爭に役立つた文藝の実踐力を明かにする事ではなからうかと私は考へる。これについては此派の人々は強ひて十分な説明を施さないやうであるが、私の想定は誤つてゐるであろうか。若し誤つてゐないとすれば、かゝる立場に立つ潜行的マルクス主義者が、國文学界に活躍し、ヘ育界に巣食ふといふ事は、いかやうに考へてよいものであらうか。
 此の一節などは殊に僕の興味をそそつた。
 此の論は、どうかと思ふ所もあるが、恐らく或程度の眞相をうがつてゐるやうだ。(圏点
-このHP上では太字・イタリック体-は藤田) 
 ついでこの誣告者・告発人は、暗に「日本文学原論」――刊行間際に持出された出版者の希望を容れ且又当時の学界の情勢からそうする事の無難なのを考慮に入れて、共著者であるべき藤村作博士の名で出版することとなった私の処女論著――に対する、悪意に満ちた誹謗を行った後、更に私もその執筆者の一人に加わっていた講座に言及して、次のように言うのである。
 近頃、日本講座といふ講座が出るさうで、僕はこれに期待を持つてゐる。所で、その執筆者の顔ぶれを見ると、岡崎氏の言の如く「唯物論研究などといふ雜誌とも聯絡があるようであり」であるが、併し、それはそれでよく、むしろそれなればこそ、溌剌たる理論が展開せられるであらうと思つて、大いに期待せられるのであるが、さてその推薦者の顔ぶれを見て、これはこれはと驚いた。井上哲次郎博士の推薦文をはじめとして、お歴々の名が並んでゐる。これは書店の商略もある事であらうが、左翼の理論家も、かういふ所にまで來てゐるのかと、そぞろ今昔の感に堪へなかつたのである。岡崎氏の言ひ草ではないが「今日では餘程僞裝しても居り、軟化しても居るが」の一現象かなと思つた。それとともに、又そこに名を並べてゐる諸家がどういふ考を持つてゐるかを忖度すると、これ又、微苦笑の浮び來るを禁ずる事が出來なかつたのである。畸型的な両頭蛇が案外多いことだ。(傍点-このHP上では太字・イタリック体-近藤)
 また、この評者は、石山徹郎氏が、「實証主義者は、合理性と法則性とに導かれない實証の仕事が、結局のところ何を齎らし、何に仕へるものであるかを省みるべき」だとしたのに対して、次のように滑稽な反発ぶりを示すのであった。 
 「何に仕へる」の一言は不問に附すべからざるものである。「何に仕へる」か。僕ははつきりいふ。僕は日本國民として、至尊に仕へ奉るものである。それ以外の誰にも仕へるものではない。但し、これでも官吏のはしくれだから、官吏服務規程によつて秩序を守り、上長に服従するの義務を有してゐる。(石山氏も多分その筈だと思ふが)。云々〔解釈と鑑賞十三年一月号〕
 もはやこれ以上この種の痴呆的で而も卑賤な評言を引用し解説する必要はないであろう。
 尚、上掲藤田氏によって引用せられた所でも明らかなように、「歴史的社会的」立場を「潜行的マルクス主義」等々として拒否しつづけて来られた岡崎義恵教授が、終戦後執筆せられたものでは、――勿論此の歴史的社会的立場への性急な理解のもとにではあるが――右の立場への氏従来の評価を改訂し、それへの一種の歩み寄りを示されて、
 私は嘗て日本文藝學の提唱者として戰爭前から自己の進路を拓きつつあつた。當時社會歴史派とは對立する如くであつたが、實はその派の學風を理解することが相當深かつた爲に、その缺點をも感じたのである。國學者などは初めから社會主義者と沒交渉のまま反目してゐたのであるが、日本文藝學はそのやうな偏狭なものではなかつたのである。それで今後の日本文藝學は社會主義的立場の長所をも採入れて進むことを考へ得るのである云々〔「日本文芸学の将来」・国語と国文学 本年三月特集号『国文学の新方向』所収〕
 とせられていることは、実に、さまざまな意味で興味深々たるものがある。(…略…)
 日支事変の勃発という形で表現せられた社会的政治的急迫は、国文学界に漸く生長して来た科学的な合理的な研究方法に対して、自然な発育を拒み、学的な論争の自由を奪い、だしぬけに「左翼」のレッテルを貼りつけることによって万事を片づけたのであった。
 さて、その後の事態を急いで鳥瞰して置こう。

 昭和十三年
 唯物論研究会の解散(一月)・機関誌「唯研」は第六十五号を以て廃刊(三月号)。所謂教授グループの検挙(二月)。陸軍大将荒木貞夫が文部大臣となり(五月)、文化統制愈々厳しく、大学の自治また、平賀東大総長時代に全く崩壊。河合栄治郎氏筆禍事件(十月)。日独文化協定成立(十一月)。おおむね自由主義者を以て「評論家協会」が成立したが(十二月)、いくばくもなくそのメンバーの多くが締出されて、「言論報国会」に変貌せしめられ、国文学界からは藤田徳太郎氏が幹部に連らなった。この年、斎藤清衛博士の門下生たる広島文理大出身の蓮田善明・栗山理一・池田勉・清水文雄の四氏によって「文芸文化」が創刊され(七月)、「日本文芸学」・「日本浪漫派」等と同質の基盤に立つ学風を示して活動した。保田与重郎氏の「戴冠詩人の御一人者」が刊行され(九月)透谷賞が与えられた(十二月)。

 昭和十四年
 日独文化協定(三月)、ノモンハン事件(五-九月)。独蘇不可侵条約締結・平沼内閣崩壊(八月)。この年、津田左右吉博士の諸著が「原理日本」に拠る簑田胸喜・三井甲之らの諸氏によって執拗に糾弾し続けられ、博士は早大教授を辞した。谷崎潤一郎氏による「源氏物語」の現代語訳(本年一月より刊行)また彼等告発常習人の標的となった。岡崎義恵氏の「日本文芸学の様式」が刊行され(九月)、透谷賞を授与された(十二月)。

 昭和十五年
  「皇紀二千六百年」に該当する年。第二次近衛内閣成立(七月)、文相に橋田邦彦氏就任、「科学するこころ」と「精神主義」とが同時に説かれはじめた。「新協劇団」・「新築地劇団」の「自発的」解散(八月)。「日本出版文化協会」の創設(九月)。日独伊三国同盟締結(同月)。「大政翼賛会」が成立し(十月)、「新体制」が流行し、隣組その他の「自治」機関が組成された。二千六百年式典挙行(十一月十日)。岡崎氏の第三論著「美の伝統」はこの年九月に刊行。

 昭和十六年
  「大日本青年団」結成・政党解消(一月)。国民学校令実施(三月)。独蘇開戦(六月)。学生修業年限短縮・東条内閣成立(十月)。対米英宣戦布告(十二月八日)。かくして軍国主義日本は自らの死を宣告するに至った。久松潜一博士の「国学――その成立と国文学との関係――」、岡崎義恵氏の「芸術論の探求」、保田与重郎氏の「後鳥羽院」・「近代の終焉」等がこの年に刊行された。
 昭和十七年六月十八日、社団法人「日本文学報国会」が成立、形式上全文学者を打って一丸とし、情報局の指導監督下に、文字通り戦争に協力した。その国文学部会の主なる役員は、部会長橋本進吉、理事折口信夫、幹事長久松潜一、常任幹事塩田良平・暉峻康隆・藤田徳太郎・船橋聖一、幹事石井庄司・小池藤五郎・佐藤信彦・守随憲治・高崎正秀・筑土鈴寛・西尾実・西角井正慶・蓮田善明・藤森朋夫・柳田泉・山岸徳平の諸氏であった。かかる機構性格を持つこの会が実質上何らの文学的建設をもなしえなかった事は自明の理であり、むしろ「文芸撲滅団体」(岡崎氏・前掲「国語と国文学」)として、日本文化史上希有の罪科を犯すに至った事は既に周知の通りである。
 かくして終戦に至るまでの日本文学研究部門は、文学報国会幹部諸氏・雑誌「文学界」に拠る人々・日本浪漫派及びその同伴者たち・文芸文化派・基本的には前二者とその思想的拠りどころを同じくする日本文芸学派、関係部門では京都哲学派、等々が公然隠然たる教化・組織に尽瘁し、「公論」・「文芸世紀」等々が狙撃者・暗殺人として跳梁した。政治と文学との正しい相関は、かくして遂に完全に見失われ、中世以来の封建日本に伝統した政治と文学との孤立分離は、ここに全く痼疾化し、両者の統一的把握の無いところに、その当然の結果として、政治主義と文学主義とが、粗笨・頑迷に自己主張し、しかもその両者は期せずして同一の「政治」に奉仕したのである。政治と文学との関係、特に文学における政治性の問題の正しい理解の為の努力が、今や最も切実に要求せられる時か来たことを知らねばならぬであろう。(四六・五)
  

資料:鑑賞主義論争