資料:鑑賞主義論争
「国文学 解釈と鑑賞」 昭和11(1936)年11月号掲載  


鑑 賞 の 意 味
                 吉田精一

      

 鑑賞は国文学の研究に於て不要なもの、排除すべきものである、という論が出て来た。一方鑑賞を本質的なものの把握には欠き得ないもの、もしくは学的研究の予備的な階次として必須である、とする論もある。このように様々の異論の立ち得るのは鑑賞ということばの意味、内容の曖昧さに起因している。甲が鑑賞に於て意味するところは、乙がこの語から受けとるものとちがうのである。それゆえ、私達が鑑賞の価値を云々する前に、すなわち、鑑賞に関する学的研究を行う前に、学的研究の対象としての鑑賞そのものをの確立せねばならない。鑑賞の意味内容を明かに規定せねばならない。鑑賞という具体的体験が含む一般的意味の、内在的分析がなされねばならないのである。(中略)
 

 (1) まず鑑賞はすくなくともこのような概念的 な認識に対して、観照的 (直観的)でなくてはならぬ。(2) 次に認識がその内容に於て精緻となり、分析が部分的に微細をきわめるにつれて、いわばその認識形式の発展につれて、対象の現実的体験としての色彩がますます希薄になるに反し、鑑賞は却って直接的なる体験からはなれてはならず、常にそれを保留しなければならない。あく迄も具体的直観の領域にとどまるものでなくてはならない。要するに、鑑賞というものの本質、内容は、美的な* もの、美的意識である。私達の意識体験を美的形式に於て形成したのが鑑賞であるということが出来る。
* この場合、芸術は美でなくして真実をうつしたものであるという説が、表現学あるいは西田幾多郎先生の思想を祖述する人々からあらわれるかも知れない。又唯物史観に立脚する人も別の立場からそのような説を出すであろう。しかし私はこの意味に於ける真実と美とは相反するものではなく、相覆うものだと思う。美の形式は、カントも説き、フィイドラアもいうように、観照性という位の意味であって、常識的な狭義な「美」ではあり得ないことは、すこしく美学をのぞいたものの熟知するところである。私もこの意味で、美の概念をもちいるのである。

     


 此の美的観照(Ästhetisch Betrachtung)を、私達は厳密な意味での、鑑賞の中核となるものと考える。一般的にいえば鑑賞とは見ることと感じることの統一である。見かつ感じる意識の運動が鑑賞である。感じることのない「見る」という体験は単なる抽象概念にすぎない。芸術作品が単に一つの造られたものとして考えられるならば、それは死んでいる、と
コオエンはいう。芸術がある生命をあらわすというのは、私達が美的観照の境地に於て見ているからである。見かつ感じる意識の運動に於て私達があるからである。この場合の運動の内容をなすものは、コオエンによれば、純粋創造の感情であり、いいかえれば、それが芸術の純粋性をなす純粋感情である。絵画とか音楽とか、文芸とかを対象とし、それらに内在する種々の芸術の原理にもとづいて世界を構成し、これに従って、目に於て、耳に於て、又は想像に於て一つの制作をすることが観照である。このように作品を追体験し、もしくは作家に導かれて表現する場合、その収獲としてあらわれる感情が美的享楽とよばれるものである。この二つのものは離しがたいものではあるが、論理的には区別なし得るのである。コオエンはこの区別を強調して、芸術を楽しむことと、芸術を「共に経験する」ことに於て純粋感情の生命をよび起すこととは、ことなるといっている。たとい芸術の享楽が、激情のともなわないしずかな情緒の内に成立するものであるにしても、観照にともなう快、不快感は、美的感情の本質に参加出来ないというのである。
 私はここで鑑賞という語に附属する二種の誤解についてといて置こう。その一つは作用としての鑑賞の本質は主観的であって、客観性をもたないということである。まことに現実に於ける鑑賞は、しばしばコオエンのいう意味の享楽に重点を移動し勝ちである。其処に今日の鑑賞に対する批難が生れる一要因があったと思う。
近藤忠義氏が「鑑賞とは主観的、現代的享受」(本誌・七月号)であるという定義を下したもの、一面此の意味からであろう。この説き方は、今日 に於けるある人々の鑑賞の存在様態 を問題とする限り、正しい規定であるかも知れぬ。しかしこのような考え方では、鑑賞一般の本質は視野の外にある。
 いま近藤氏の言葉を機会に、一言いわゆる「主観的」なる観照が客観性として成立する可能性についてふれて置こう。私達の観照といえども、享受といえども、ことごとく主観的でないものはない。私達についてさえ、同じ対象を昨日の如く、今日も見ることは不可能である。一つの林檎でさえも正確には昨日と今日とは同じものではない。それだのに私達が一人一人ことなりながら何ゆえにひとしき観照がゆるされるのであるか。何ゆえに主観的な観照に於てありながら、客観性を要請となし得るのであるか。これに対して
カントは次の如くにこたえている。時間空間の先天的形式、即ち知覚の構成原理によって、私達の観照界が形成される。それは一切の知覚表象の入り来る世界に於て、私達自身の感覚を資料として、私達のうちに先天的に作用する観照性の形式によって構成されるのである。客観性は彼になくして、我のうちに構成原理としてある。ここに主観的なる観照が、客観性を得る認識論的根拠があるわけである。
 次に第二の誤解についていうならば、現実に於ける鑑賞については、しばしば、作品の理解ののちに鑑賞が来るというように考えられている。宮島新三郎氏の「日本文学大事典」に於ける「鑑賞」の説明もその様であった。この説き方は、絶対に誤りであるとはいえないまでも、甚だあいまいである。(1) 理解ということが、美的立場に於ける理解という意味ならば、理解ののちに鑑賞が来るという考え方は間違いである。美的態度に於ては理解することが即ち鑑賞することである。画に於て一つの色、一つの線をたどること、それが味わうことであり、鑑賞することである。作品も亦
(また)読過のあらゆる刻々に於て、理解と共に観照され、享楽されているのである。全部通読の後に、全体の構造や関係が反省されてなり立つものは、も一つ別の理解であり、別の鑑賞である。(2) 理解ということが、知的態度に於ける意味であるならば、これは立場の次元をことにするものであって、先後を一概に論じることは出来ない。「雪が白い」という文章を、「雪は白いものである」という風な知識の判断としてうけとることは、この文章の意味に対する知的立場からの理解である。一つの主観の直接体験から、対象の普遍妥当性、客観性をくみとろうとするよみかたである。昨日私は二科の絵画展覧会で、ゴヤのエッチングを見た。ゴヤの画いた闘牛の図、フランス軍のスペイン掠奪(りゃくだつ)、強姦等々の図をその実際の事情や環境、歴史的事実の照し合せて、如何なる場合の図であるかと理解につとめるのは知的態度である。鑑賞にあらわれるものは、かかる判断や知識に対し、判断や知識の根拠になるものの姿である。私達が一つの芸術作品や一つの絵画に於て、それに含まれた理論や観察の正否を考察するのは、已(すで)に理知の立場に於てなしているのである。この二つは世界の構成を別とすると考えねばならぬ。

 私達が純粋な意味での鑑賞、すなわち美的観照に於て何を意味するかは、その輪郭は、ほぼ今までの説明で明
(あか)らめられたと思う。次に私達はこの鑑賞という意識の対象 及び内容 の内面的分析をこころみてその一般的性質を演繹したいと思う。この場合の対象とは、鑑賞という作用によって、又はそれを通じて、意識されるものであり、内容とは、鑑賞作用に於て、又はその中に 意識されるものを意味するのである。今、鑑賞の対象を論じたものとしてクリスチャンゼンの説をひくことが出来、内容を論じたものとして、ガイガア及びリップスにきくことを得るのは、私達の幸とする所である。


     


 まず、鑑賞という働らきに於ける対象となるものについてのべれば、
クリスチャンゼンが説く所は次のようである。
 私達の美的観照の直接の対象となるものは、作品としての物質的素材、(絵具、文字、大理石)などではなく、又知覚の形式や、対象の意義表象でもなく、この作品の感情内容でもない。それらを統一した高次の形式であって、これらすべての要素を主観の溶炉に投入して還元したものである。これを情趣印象となづけるならば、この精趣
ママ、情趣 ヵ〕印象こそ、観照の際の直接対象でなければならぬ。いわば、それは美的観照に於ける独自な主観及び客観の一種の本質的な関係を意味するものである。個々の情趣印象は、現実の美的対象に対して照応する主観的要素をみとめ、これを直接的に観照することによって得られるのである。然らば何ゆえに、このような情趣印象が客観性をもつか。その美的に綜合される原理は何処にあるかといえば、それは、対象の一種の内面的合目的性にある、と答えるのである。

 この考え方が、鑑賞という体験に於ける対象となるもの
(ノエマ)を説いたものとすれば、逆にその作用的側面(ノエシス)をといたものに、ガイガアの現象学的芸術論に於ける、美的享楽の説がある。彼は現象学的態度に於て鑑賞という直接体験の内面的反省を行おうとする。すなわち、現実の鑑賞という意識状態の内面的反省ではなく、鑑賞、特に美的享楽という概念の一般的意味そのものの体験、いいかれば、美的享楽の志向 体験を反省することによって、主体的体験に即しながら、猶(なお)普遍妥当的な意味を確立しようとするのである。彼はこの立場に於て、美的享楽を次のように論じた。
 (1) 美的享楽には根拠はあっても、動機は存在しない。画を美しいと思う人に、「何故」という感動動機を発見することは出来ない。
 (2) 美的享楽は観照
(ベトラハトング)という態度にもとづく。観照は、対象と自我との間が離れていることを必要とする。絵を見る場合にも、その画の中に没頭するのでもなく、又これを分析解剖するのでもない。
このような観照の場合の対象と自我との間の内的運動は、受容という作用である。それは自我より対象に向うのではなく、むしろ対象が自己の中に侵入して来るのである。全くうけ身の態度、純粋な受容的体験である。この受容的契機が容易に享楽と結合する所以(ゆえん)である。(3) 外部からの感覚の印象に対して、内方集中(インネレコンツエントチオン)と外方(アウセン)集中の二つの態度がある。後者は、内面的に対象に対し、これを享楽しつつ把握するのである。内方集中は、音楽をきく場合、音楽に開発された私達の自己の情緒そのものに自我が集中する場合である。これは対象の享楽というより、自分自身の感情を享楽しているのであるから、本来の対象のない陶酔というべきで、美的とはいえない。すなわち、観照が、美的享楽の中心をなすのである。(クリスチャンゼンの情趣印象も、勿論この意味の観照に立脚する。)要するに美的享楽に於ては、対象と把握の作用とが対立し、この作用は、対象にぶつかって、享楽となって再び自我に返って来るのである。
 ガイガアの説明は、ほぼ上記のように考えられる。それは鑑賞の作用を、あく迄観照と受容とを根本的態度とした、静的、消極的なものである。しかるにリップスは同じ作用を、別の立場から、もっと積極的なものと考えているのである。
 
リップスによれば、
美は感情移入によって生じた物象の価値である。このような美を純粋に鑑賞する為の態度、即ち美的態度は次のようでなくてはならぬ。第一に私達の注意を他に導くような一切の関係を遮断し去って、対象そのものの中に生き、心的活動の一切を傾けて対象に聴かねばならぬ。その為には対象をその性質のみに従って観照することによって、あらゆる意味の現実から遮断した純粋な独立の世界を構成しなければならぬ。(ここ迄先にあげたガイガアと大同小異である。)第二に単に対象を観照することは、静止した自己を以て生き動く対象の世界に対することではなく、自己も亦(また)対象と共に動かねばならない。(此処に至って積極的・能動的な意味が生じる。)
 さてこのような美的観照の論理的順序を、リップスは次のようにに説明している。先ず私達が対象に感情移入をなす時、(1) はじめに美的対象を観念化し、(美的観念性) (2) 次に美的対象は現実ばかりからではなく、観念的存在、認識からも区別されるようになる。(美的偏在性) (3) かくして美は主観的存在にすぎぬけれども、認識的判断を超越して一種の客観性をもつようになる。(美的客観性) これ迄がほぼ消極的な感情移入であって、主観から客観への関係と見ることが出来るが、これからは積極的に、客観から主観への方面が考えられる。即ち、このように美的態度が純粋になる時には、(4) 美的内容さえも単なる表象ではなくなって、現実的感情に於て実在化される。(美的実在性) (5) 更にその対象に没入して、内容が深まり、その内容の源泉たる人格性の深奥に徹するようになる。(美的深さ) ここに至って、美の底に人格的価値が認識されるのである。
 この考え方を現象学的に見れば、(1)-(3)は内面的対象性としての対象獲得の経路であり(ノエマ的)(3)-(5)は、主体的な体験として、積極的能動的な活動(ノエシス的)であって、この底に一貫する観照という心的態度は、ガイガアに於けるよりも遙かに、アクティヴなものを含んでいる。単に自我と対象を離隔するはたらきにとどまらないことになって来る。そうなると美的観照と創作(表現)作用との関係が問題となり、観照の機構と表現の機構との比較考察にすすまねばならぬ。


     


 この場合に応じるべき、説々の
ママ、種々の ヵ〕説をあげることが出来る。(1)作家の観照の後に創作が来るという説、もしくは作家の創作がおわって、観照がはじまるという説。(2) 創作と観照とは相類似し、ただ強さと働く方向がちがうという説。(ディルタイ) (3) 観照は不完全なる創作作用であるとする説(フィイドラア) (4) 創作と観照とは共に共通なる同一の核をもっているとする説。(5) 観照即表現とする説。(クロオチェ) 今はこれらについて深入りをする場合ではないから、その何れに於ても創作と観照に、内面的な親近性をみとめている、というだけを付言するにとどめよう。(心理学的見地から説いたものには、非天才的作家と天才的作家に即して、創作過程の心理的体験を記述したブレンターノの研究をもあげ得るのである。)
 さて、私達は先にあげた、三様の立場からの、美的観照及び美的享楽の内容の分析について統一し、鑑賞の内容を綜合すべきであるが、それは已に読者にまかせてよろしいであろう。クリスチャンゼン及びリップスの説はそれぞれ批評の余地もあるのであるが、これも今はあずかって、ただ
ガイガアの美的享楽の説について一言感想をつけ加えることによって、この一文を結んで置きたい。ガイガアの美的享楽の分析は、その態度に於て、心理主義美学の因果的説明を避けると共に、コオエン等の先験主義的美学にある羇絆(きはん)的側面をも除き、美的態度の主観的作用的方面を、現象学的態度に於て、美的観照(エスティテッシュベオラハトング)にともなう美的享楽(エスティテッシュゲヌツス)を、対象として、追求したものである。この美的享楽は経験的、個別的な直接体験に於ては、必ずしも客観的なものではあり得ない。げんにガイガアも、美的享楽の深さは対象の価値とは別である。対象の価値が高いほど、美的享楽の高い場合もあり得るが、逆に自己の美的享楽体験の深さから、対象を評価する場合もあると説いている。鑑賞が主観的であり非科学的であるとされるのは、この美的享楽の要素をうんと強調した場合であると思われる。その時には、(ガイガアが非現実な自己陶酔としてしりぞけた)自己の情緒への自我の集中の場合と、相去ること遠くない結果を招くであろう。観照をともなわぬ享楽ではないまでも、観照から浮いた享楽となり得るのである。この意味ではそれも真に「美的な」享楽ということは出来なくなる。学的態度に於て鑑賞を云々する場合には、厳密な意味での「美的 観照」及び「美的 享楽」を綜合したものとして考えるか、或いは、このような誤解をまぬがれる為に、コオエンの如く、しばらく美的享楽(Äs.Genuss)をとりのけ、「美的観照」を以て、鑑賞という文字に代行したらどうかと思う。この意味での美的観照は、即ち作品享受の際の根源的な直接体験として、芸術作品というような非理論的対象を獲得するに必須なる体験となるであろう。*
* 私は本誌に於て、鑑賞を論じて、簡単に「学的研究の予備階次として芸術作品を獲得するに必須なるもの」(八月号という意味の定義を下して置いた。鑑賞という体験の内在的分析をすれば、ほぼここにあげたようになると思われる。私の一文に対して批評されたものかと思うものも瞥見(べっけん)したが、十分に私の説を理解されたように見えぬので、更にくわしく鑑賞の本質の分析をこころみたのである。鑑賞という体験の本質がどういうものであるかということについて略述したのが、この拙稿であるから、私の趣意という所をよく了解した上での、批評がいただければ幸いである。
   

資料:鑑賞主義論争熊谷孝 人と学問次頁