国立音楽大学日本文芸思潮ゼミナールの記録集『森鴎外の歴史小説』 (1971.4) 所収


  鴎外と“あそび”の精神


    幸徳事件のさなかで

 無前提に“あそび”の精神というようなことを言うと、それは何かこう悟りすました東洋的精神のことか、傍観者のただのディレッタンティズムのこと言っているみたいな印象になるかもしれない。鴎外と、“あそび”の精神、鴎外の、“あそび”の精神というふうに言ってみても、その印象はあまり変わらないだろう。ゼミ記録集『森鴎外の歴史小説』表紙
 鴎外といえば、まずだれでも『舞姫』(一九八〇年)の作者森鴎外のことを想うだろうが、その鴎外は、主人公(太田豊太郎)を現実の問題の場面からてい よく逃避させた鴎外である。晩年の『高瀬舟』(一九一六年)あたりの鴎外のことを想ってみても、どうも「知足安分」(足るを知り分に安んずる)の境地にあったかに思われる鴎外像が浮んできてしまうのである。だから、『舞姫』なり『高瀬舟』なりその辺のところに鴎外のイメージを固定させて考える限り、それが傍観者の諦観を言い表わす言葉であるという印象になるものある程度やむを得ないことなのかもしれない。
 だが、しかし、ここに言う“あそび”――それは、大逆事件あるいは幸徳事件の名をもって呼ばれている、政府・検察・裁判所三者一体の共謀による(民権抑圧を目的とした)事件のフレーム・アップが進行する中で、この事件に寄せる深い関心とともに彼の口にした言葉であったことを思ってみる必要があるだろう。* それは、いわば、この事件を契機に今後ますます激しさを増し加えて行くであろう体制側のしめつけ の中で、息切れすることなく粘り強く民衆の抵抗を支えていく、民衆の人間主体内部の精神のありようについて語ったものだ。

* この事件に寄せる深い関心、云々〜たとえば、一九一〇年(明治四三)十一月の『沈黙の塔』、同年十二月の『食堂』などの短編や、そのころ雑誌「スバル」に連載中の大作『青年』(一九一〇年四月〜一一年八月)などについてみれば、そのことは明らかだろう。(ちなみに、幸徳事件は、一九一〇年五月の宮下太吉たちの検挙に端を発し、翌一一年一月の幸徳秋水たち十二名の絞首刑を含む関係者の処刑をもって一応終結した。その概要については、小著『現代文学にみる日本人の自画像』所収の「幸徳事件をめぐる一連の詩作品」など参照。)

 直接“あそび”という言葉を鴎外が口にしているのは、一九一〇年(明治四三)八月、雑誌「三田文学」に掲載された『あそび』という題名の短編小説においてである。この作品自体は一種の心境小説にすぎない。が、(1)上記『青年』のモティーフなりモティヴェーションを側面から語るものとして、深く私たちの関心をそそる。さらにまた、(2)『阿部一族』(一九一三年一月)や『佐橋甚五郎』(同年四月)以降の一連の歴史小説に至って顕在的なものになる、現実把握・解明の解き口や語り口――おしなべてその文体的発想のベースに横たわるものが何であったかを、この作品は端的に解き明かしてくれる。そういう意味で一読をおすすめしたいのである。


    「厭ならよしな、である。」(太宰 治)

  ――「木村は官吏である。」
 この作品(『あそび』)の冒頭の一文である。
  ――「木村は文学者である。」
 この作品の比較的最初の部分に位置づけられている一文である。
 つまり、木村というこの作品の主人公は官吏で文学者である。読者はそこでいやおうなしに、この木村の存在に鴎外その人を意識せざるを得なくなる。さらにまた、木村に対して浴びせられている文壇人が実際に鴎外に向けて発した言葉とほぼ同じだ、というような若干の知識が読者に用意されるならば、それはなおさらのことである。
 このようにして、木村の心境は、すなわち鴎外の心境である。そう思って読むほかないのである。むしろ、この作者が読者に向かって求めているものは、そういう前提に立ってこの作品に接してくれることだろう。

 「木村は文学者である。」つまり、彼は日常創作に従事している。ところで、そういう彼は「文壇では折々退治られる。」いっぱし批評家づら をした連中が、彼の著作に対して実にしばしば無責任な悪罵を浴びせるのである。能なしな人間が、相手の足をひっぱることで自分が浮び上がろうとするような調子で、そういうことをやるのである。「木村はただ人が構わずにおいてくれればいいと思う。見当違いに罵倒したりなんかせずにおいてくれればいい、と思うのである。そして少数の人がどこかで読んで、自分と同じような感じをしてくれるものがあったら、しあわせだ、と心のずっと奥の方で思っているのである。」
 しかし、木村=鴎外は鴎外であって太宰治ではないから、「厭ならよしな、である。」というような言いかたはしない。また、「私の作品を無理に批評しようとしないでください。」(同上、太宰治)というような、シニカルな言いかたはしない。その点、太宰とは違う発想だが、しかし新聞などで、「わがこと、ひとのことと言わず、くだらないものが讃めてあったり、面白いものがけなしてあったりするのを見て、不公平を感ずるのである。もちろん、自分が引き合いに出されている時には、いっそう切実に感ずる」のである。反論を書きたい気持がないわけではないが、そんな暇があったら仕事がしたい。時間が惜しいし欲しいのである。


    実践への志向

 そういう心境にある木村に向かって、職場の同僚が尋ねる。
「きみは、どう思って作品を書いているのか」と。彼は答える。
「どうも思わない。作りたいときに作る。まあ、食いたいとき食うようなものだろう。」
 「本能かね。」
  ――「本能じゃない。」
 「なぜ。」
  ――「意識してやっている。」
 “あそび”の精神は本能ではない。それは意識的な行為の精神である。むしろ、よりよき実践への志向である。それは、たとえば次のようなことである。「ガンベッタの兵が、あるとき突撃をしかけて矛(ほこ)がにぶった。ガンベッタがラッパを吹けと言った。そしたら進撃の譜は吹かないでréveilの譜(起床ラッパ)を吹いた。イタリア人は生死の境に立っても、“あそび”の心持がある」云々。
 この場合、進撃の譜を吹いてみたところで、多分、士気は鼓舞されはしなかったであろう。紋切り型の行為が効を奏するのは偶然がさいわいした場合だけである。ところで、まったく予期しない起床ラッパを耳にした兵士たちは、一瞬の笑いと同時に、そのすくんだ気持にあるゆとり を取り戻したことだろう。固さがほぐれ、失いかけた闘志をそこに回復させたに違いない。
 進撃の譜にかえて起床の譜を吹く……それは、やろうとしてやれることではない。と同時に、意識しないでやれることではない。「生死の境に立って」そういうことが意識してやれる、というのが“あそび”の精神である。それは、笑いの中に自己をつき放し相手をつき放して冷徹に問題のありか を探る、という喜劇精神とも通じるものがある。いや、喜劇精神というのは本来、このような“あそび”の精神に志向され媒介された精神のことである。
 さらに上記のことに加えて重要なことは、ラッパ兵のすぐれた“あそび”の精神については言うまでもないとして、彼のこのような行為に反応しうるような“あそび”の精神が全軍の兵士たちのものとして先在し先行していた、という点に関してである。ギュヨーも言っている、「表現された感情を理解できるためには、受け手は、あらかじめ、その感情を自分のものとして所有していなければならない」と。
 そこで、次のように言えるのかもしれない。彼に起床の譜を吹かせたものは周囲の兵士たちの“あそび”の精神であった、というふうにである。少なくとも、ガンベッタやなかま の兵士たちの抱く“あそび”の精神に対する信頼と期待の念を欠いては、彼は彼自身の“あそび”の精神を発揮することは出来なかったろう。鴎外が「心のずっと奥の方で」「少数の人がどこかで読んで、自分と同じような感じをしてくれる」ことを期待していたというのも、このラッパ兵の想いに通じるものであったろう。

 “あそび”の精神とは、「子供が好きなあそびをするような気持」でいっさいのことに立ち向かうところから生まれるものだ、と鴎外は語っている。いわば“あそび”に賭けるのである。賭けは成功する時もあれば失敗する時もある。だから、“賭け”なのであり“賭ける”のである。ガンベッタの兵士が起床の譜に賭けたように、である。
 その意味では、“あそび”なのだから、失敗したところで、どうということはない。そこまで割り切らないと“あそび”にはならない。“あそび”に徹するのである。“あそび”の精神には「真剣も木刀もない」、「あらゆるしごとに対する“あそび”の心持」が、いつかわれわれにこの“あそび”の精神をはぐくんでくれる、と木村(鴎外)は考えるのである。
 それは、夢中になって石ころや折れ釘などを集めてさも大事そうにしまい込む、子どもたちのガラクタ集めの遊びの心に通じるものである。それは、いわゆる意味の有用・無用の観念を離れるところから生まれる“あそび”の心である。実益はなくとも面白いものは面白いのである。その、面白いもの、面白いことを楽しむ、というところに“あそび”があるわけなのだ。


    鴎外の考証癖といわれるもの

 そういう鴎外であったことを思ってみるとき、彼の歴史小説において特に顕著な、例の“考証癖”と言われているものも、それは単に好事家(こうずか)的な趣味・嗜好を言い表すものであるよりは、彼のこの“あそび”の精神に基く営為であると考えられてくるだろう。たとえばの話が、『阿部一族』の冒頭のあの“考証”は、どうか。
 肥後熊本の領主、細川忠利の「嫡子六丸は六年前に元服して将軍家から光の字を賜わり、光貞と名のって、従四位下侍従兼肥後守にせられている。今年十七歳である。(中略)
 二男鶴千代は小さい時から立田山の泰勝寺に遣ってある。京都妙心寺出身の大濶和尚の弟子になって宗玄と言っている。(後に、護国寺山妙解寺の住持となる。)三男松之助は細川家に旧縁のある長岡氏に養われている。四男勝千代は家臣南条太膳の養子になっている。女子は二人ある。長女藤姫は……」云々。
 家譜・家系についての“考証”はこの先、延々と続くのである。ところで次男鶴千代までは別として、三男以下娘や伯父・伯母・祖父などに至ってはこの作品に取材されている事件とは無関係である。その無関係な人物ひとりひとりについて、鴎外は倦むことなく考証を続けていく。
 何を意図してそういうことを書き連ねるのかと言えば、それは作者自身にも解っているところと解らないところがあるのだろうと思う。はっきり無意味だと判断されることは書かないのは当然のこととして、有用か無用か、有意味であるのか無意味なのか作者自身に判然としないことは、やはり書きとめておく、という姿勢ではなかろうかと思われる。そういう意味での“歴史そのまま”の叙述らしいのである。
 さらに言えば、こういうことだろう。今の自分にはハッキリつかめないけれども、それは何ぞ大きな意味を持つことらしく思われる。いつか自分もそれの持つ意味に気づく時があるだろう。また、たとえ、自分は気づかなくとも読者が――読者が気づいてくれるかもしれない。そういう未知なるものへの関心と読者への期待(あるいは読者に期待する心)が、この“歴史そのまま”の文章のありようを規定している、と考えられるのである。
 そういう読者への期待、期待する心は、ガンベッタのラッパ兵の心ではないだろうか。未知なるものへの関心に根ざすガラクタ集め(いわゆる考証癖)こそ、また“あそび”の心ではないだろうか。
 そこに集められたガラクタ知識(考証)は、ところで読みを深めるにつれて読者にさまざまのことを考えさせてくれる。たとえば、である。忠利の長子は長子なるがゆえに、やがて肥後五十四萬石の太守に、次男は次男なるがゆえに細川家菩提所の住職に、さらに三男ともなり四男ともなれば完全に臣下の列に……である。四男勝千代は、四男に生まれたがゆえに、長兄光貞を主君として仰がねばならぬのである。
 三代将軍家光治世の寛永年間は徳川幕藩体制の確立期であった。確立期はまた同時に固定化の時期――封建耐性・封建的家族制度の固定化の時期であった。その固定化の様相が、諸侯中五指に屈する雄藩細川家の場合に即して具体的に語られている。個人の運命は――たとえば長子光貞の、また末子勝千代の運命は、いわば生まれながらにして決まっている。
 揺がぬそのような体制の中で、もしも変動がありうるとすれば、当主の逝去による代替わりの時であろう。(かりに当主が若年にして世を去るということでもあれば、たとえば鶴千代のように僧侶となった弟があり、松之助のように他家の養子になっている弟があるとして、その弟が跡目を相続するというようなことがないわけではない。それに連れて、家臣団の間にもおなずから浮き沈みが生じようというものである。)したがって、忠利の死による代替わりに当って、若殿つきの林外記のような人物が急にのさばり、彼のような官僚が実験をにぎり、そのこととの絡まり合いにおいて、先代の勢力圏に所属する重臣阿部一族の反乱がこのような代替わりの時期に現象した、ということは一つの歴史の必然であった。
 上記の鴎外による“考証”は、そうした歴史的必然を、いわば偶然的・現実的所与の諸条件との統一において自他に向けて解明する契機を提供したものになっている。その考証の部分はそれ自体としては説明 である。しかし、その説明が、描写 としての機能において読者の心をつかんだとき、それは、内藤長十郎や五助や、阿部弥一右衛門など殉死者たちの心情をその内側からふくよかに準体験していく上の足場を提供するものになるのである。


    細川忠利と阿部弥一右衛門

 あなたは、ところでまた、この『阿部一族』に描かれている細川忠利のなかに“あそび”の心根を感じないだろうか。そのような心情の持ちぬしとして忠利の人間形象が造型されているのではないか、という意味である。
 一日、狩に出た忠利は岫雲院という寺で休息した。「その時忠利はあごひげの伸びているのに気がついて住持に剃刀はないかと言った。(中略)忠利は機嫌よく児小姓にひげを剃らせながら、住持に言った。『どうじゃな。この剃刀では亡者の頭をたくさん剃ったであろうな』と言った。住持はなんと返事をしてよいか分からぬので、ひどく困った」云々。
 茶目っ気(け)たっぷりで、いたずらっぽい忠利の表情が見えるようである。「この時から忠利は岫雲院の住持と心安くなっ」た、とそこでは書かれている。また、忠利は荼毘所(だびしょ)をこの寺に決めた、とも書かれている。“あそび”の心を解する者同士の、心と心との触れ合いを思わされるものがある。
 忠利の苦手は反対に“あそび”の心を解しないマジメ人間である。側近の内藤長十郎が酒の上の失策をした時などは、「あれは長十郎がしたのではない、酒がしたのじゃ」と笑ってすませた忠利が、「この男ほど精勤をするものはなく、万事に気がついて、手ぬかりがナイ」マジメ人間、阿部弥一右衛門に対しては、まるで人が違ったみたいに冷たい。
 弥一右衛門が「まだ猪之助といって小姓を勤めていた頃も、猪之助が『御膳を差し上げましょうか』と伺うと、『まだ空腹にはならぬ』と言う。外の小姓が申し上げると、『よい、出させい』と言う。忠利はこの男の顔を見ると、反対したくなるのである。」そして、ついには忠利には「弥一右衛門の言うことはきかぬ癖」がついてしまった。
 弥一右衛門は弥一右衛門で、次第に意地だけで奉公するようになって行った。「聡明な忠利は」とこの作者は書いている。「聡明な忠利はなぜ弥一右衛門がそうなったのかと回想して見て、それは自分がしむけたのだということに気がついた。そして自分の反対する癖を改めようと思っていながら、月が重なり年が重なるに従って、それが次第に改めにくく」なって行った。
 どうも、どちらがいい、どちらが悪いという問題ではなさそうである。「人には誰が上にも好きな人、厭な人と言うものがある。そしてなぜ好きだか、厭だかとせんさく してみると、どうかすると捕捉するほどの拠りどころがない。忠利が弥一右衛門を好かぬのも、そんなわけである。」
 「しかし」とこの作者は言うのである。「弥一右衛門という男はどこかに人と親しみ難い処をもっているに違いない。それは親しい友だちの少ないので分かる。誰でも立派な侍として尊敬はする。しかしたやすく近づこうと試みるものがない。まれに物ずきにちかづこうと試みるものがあっても、暫くするうちに根気が続かなくなって遠ざかってしまう」のである。それは、ある同僚の言葉を口移しにして言うと、この男には「どうもつけ入る隙がない」からである。
 そこで結局、作者その人がシンパシーを感じているのは弥一右衛門に対してではなくて、忠利に対してである、ということになりそうである。「……そこらを考えてみると(というのは弥一右衛門のそういう性格を考えると)、忠利が自分の癖を改めたく思いながら改めることの出来なかったのも怪しむに足りない」云々。

 この作品の中で鴎外が最も愛情とシンパシーをもって書いている人物は、細川忠利のような気がする。しかし、その忠利は、自分の最も苦手とするマジメ人間、阿部弥一右衛門とその一族を絶望と惨死の極限状況に追いやってしまった。いや、結果的にその最初のモティヴェーションをつくり出してしまった、ということなのである。この作者は実はその点に個人の限界を越えた歴史の制約を見ている、ということになりそうなのだが、今はその点に言及する時間と紙幅を持たない。



  これからのゼミのために――   談・熊 谷


 ゼミにはひとつのルールがある。それは、報告を中心として討論が行なわれる、ということである。従って、報告者側の人はもちろん、その他の人も積極的に作品ととりくんでこなければならない。「報告者側からは、Aという問題が出されたが、Bという問題もあるのではないだろうか。」などと、いろいろな意見が出て、しかもそれが選択・整理されて討論に入る。このように進んで行かなければ、ゼミは成立しない。ただ意見を言いあうだけならば、それは座談会である。ゼミには方向性がなければならない。
 さて、今回のゼミは、活発に討論が行なわれた反面、カタコトの発言も多かったように思う。カタコトの発言。これは「話し方」の問題であると同時に、「発想の展開のし方」の問題でもある。発想そのものに「あまさ」があったり、その展開の途中に飛躍があったりすると、発言は当然カタコトのようになる。このことは出来る限り避けてほしい。今回のゼミでは、この種の発言による時間のロスが多少あったように思う。発言は単なる“思いつき”ではいけない。
 自分の発想を確かなものにして行くには、どうしたらよいだろうか。それには「文章化」という作業が大いに役にたつ。
 授業やゼミのメモ。これは、だれでもすることだと思うが、それをただのメモに終らせないで、文章にしてみる。そして出来あがった文章を読んで、自分の発想を確かめる。この繰返しが、発想の「あまさ」を防ぎ思考を鍛えることになると思う。
 「文章化」の作業は、そのままレポートを書く作業につながって行く。今回のレポートには、正直なところ、何を言っているのかわからないようなものもあった。これもせんじつめれば、発想の「あまさ」と「発想の展開のし方」の問題になってしまうのである。
 レポートを書く場合、上手な文章、というよりもまず、読み手によくわかる 文章ということを念頭においてもらいたい。
 レポートの中には、明らかに人のものを写したとみられるものがあった。たとえ、拙くとも自分の言葉で書き、「人のもの」を乗り越えてほしいと思う。

これからのゼミをよりよいものにするため、今回のゼミの反省も加えて熊谷先生にお話していただいたものです。(文責・菊池)

熊谷孝 人と学問昭和10年代(1935-1944)著作より昭和20年代(1945-1954)著作より1955〜1964(昭和30年代)著作より1965〜1974(昭和40年代)著作より