熊谷 孝著作デジタルテキスト館  デジタルテキスト化:山口章浩氏) 
  
  熊谷 孝著
 
文学教育
 
国土社 1956年11月10日発行
  
第二章を追加しました。(2004.7.6)
第三章を追加しました。
(2004.7.29)
第四章を追加しました。(2004.7.31)
第五章を追加しました。(2004.7.31)
第六章を追加しました。(2004.8.3)
第七章を追加しました。(2004.8.3)

※『文学教育』の原本は、縦書き、1ページ16行、1行43文字、全334ページ。
※ 漢字の旧字体は、大部分、新字体になおした。
※ くりかえしの記号(「ゝ」や「ゞ」)は対応する仮名になおした。
※ ふりがなは、多くの場合省略した。
※ あきらかにまちがいだと判断できるカッコやカギカッコはけずった。
※ 圏点部分はイタリック体太字にした。



目 次

第一章  問題史的展望 
一 大正デモクラシーと文学教育
   1 童心主義の二面性/2 芸術教育と生活綴り方教育/3 片上伸の文学教育論
二 プロレタリア教育と生活綴り方教育
   1 歴史はくりかえす/2 階級的文学教育の実際/3 生活綴り方への反省
三 形象理論と文学教育
   1 マルキシズム以後/2 西尾実氏の所論をめぐって/3 ヴァリエーションABC
四 文学の教育性・教育的機能──三〇年代への回想(1)──
五 抵抗の国語教育──三〇年代への回想(2)──
   1 文学教材としての民話/2 神話をこんにちどう生かすか
六 鑑賞主義論争と文学教育──三〇年代への回想(3)──
   1 暗い谷間の文芸学/2 注目すべき文学教育論
七 戦前から戦後へ
   1 良心のともしび/2 児童文学運動のなかから/3 言語教育か文学教育か
八 問題意識喚起の文学教育
   1 起点/2 展開
九 文学教育の到達点──日文協・一九五四年度大会報告をめぐって──
   1 文学と文学教育、その独自性/2 教育的機能と文学機能と/3 未解決に終った問題
一〇 若干の補足
   1 理論的と実践的と/2 文学教育の基礎科学とは何か
  
第二章 課題と方法 
一 新しい課題の自覚──文学教育のめざすところ──
   1 内面と環境/2 女がそんな口のきき方をするものではない/3 偉大な読者の創造/
   4 文学教育の季節/5 集団製作とサークル活動──文学教育への期待──
二 文学的思考と文学教育と
   1 文学による教育/2 文学的思考への教育/3 指導計画の変更──その実践的意義──/
   4 子どもの現実と文学教育/5 明日の文学を決定するもの
三 文学教育の方法を規定するもの
   1 文学的思考をささえとして/2 文化主義の功罪/3 文学教育プロパア/
   4 観念から思想へ
四 文学教育に何を求めるか
   1 論理的思考の二つの側面/2 民族愛の教育/3 一つの成果
五 文学教育の問題点
   1 経験主義と文学教育/2 経験主義との対決/3 生哲学と文化主義/
   4 文化主義を媒介にして/5 文学教育の必要はどこからくるか/6 文学教育とは?
六 古典教育と第二芸術論
   1 新型の芸術永遠論/2 古典を読むということ/3 古典教育とは?/
   4 古典教育の実際
七 誰にでもできる文学教育を──視聴覚的方法の提唱──
八 現在の時点に立って
   1 新教育の功罪/〔経験主義と言語主義とはウラ・オモテ〕/〔復古はいけない〕/
   2 “安藤社会科”このかた/〔問題の焦点がぼかされている〕/〔“修身”の復活〕/
   3 文学教育の方向/〔系統学習か問題解決学習か〕/〔抵抗教育への反省〕

第三章 文芸学と文学教育  
一 認識としての文学
   1 文学の表現を成りたたせるもの/2 日常性・非日常性/3 典型の認識/
   4 何が抽象的で何が具体的か/5 主体性論争をめぐって/6 “実感”の分析
二 文学教育の底流
   1 文学教育の必然的前提/2 “文芸学は可能か”の問題/3 文学論の起点/
   4 実存的孤独/5 あぐらをかいたニヒリズム/6 現代非合理主義/
   7 “美”とインタレスト/8 無意味な反語
三 文学研究と文学教育
   1 文学教育と言語教育との統一/2 方法と過程を規定するもの

第四章 実践をめざして(T)──小学校の場合──
一 教科をこえて
二 作品享受と指導の実際──『空気がなくなる日』を子どもはどう受けとめたか──
   1 モデルの提示/2 それそれの受けとめ方/3 読書の効果・逆効果/4 認識即表現
三 良書と悪書──抵抗力をつくる文学教育──
   1 野放しにしておくと/2 ある程度の指導がともなえば
四 民話と詩──小学校文学教育の実際(1)──
   1 漁師と金のさかな/2 どこがおもしろかったか/3 いまにひどいめにあうぞ
五 読んで話しあおう──小学校文学教育の実際(2)──
   1 『雨ごいの村』/2 ひきくらべて読む
 
第五章 実践をめざして(U)──中学校の場合── 
一 言語教育の側面から──東京都中学校国語教育研究会・一九五五年度大会に参加して(1)
   1 語彙と構文の指導/2 文法力と読解力/3 言語教育の問題点
二 文学教育の側面から──東京都中学校国語教育研究会・一九五五年度大会に参加して(2)
   1 『たけくらべ』をめぐって/2 俳句の指導をどうするか/3 季感諷詠的自然観に疑問がある/
   4 考える子どもをつくる文学教育
三 子どもはどんな読みそこないをするか──『あたたかい右の手』(壺井栄)をめぐって──
四 文学の鑑賞指導──『蜘蛛の糸』その他──
五 “禁じられた遊び”──中学生のために──

第六章 実践をめざして(V)──高等学校・大学場合── 
一 高校生の読書遍歴と文学学習
   1 高校時代は日本の作品が/2 何が心の糧となったか──高校時代──/3 教科書の問題/
   4 小学校時代にはアンデルセンを/5 文学教育は国語教室の専売ではない/
   6 日本の作品に読みふけった中学生時代/7 問題は文学と教科書のあり方/
   8クラブ活動と文学教育
二 作家と文学教育
三 小説のよみ方──高校生のために(1)──
   1 文学への道/2 体験と文学
四 夏休みと読書──高校生のために(2)──  
五 評論をどう読むか──大学生のために──
   1 美文に足をすくわれるな/2 これが文学の正数か/3 文学に用のない文学青年/
   4 評論家を甘やかすな

第七章 家庭と文学教育
一 農村の主婦に──農村の子どもと読書──
   1 読書以前の問題/2 幸福をつくりだすために/3 人間をつくり変えるために/
   4 組織活動を通じて
二 子どもに何を──母親へのよびかけ──
   1 文化主義をこえて/2 筋道のとおった力強い読みものを/3 隠された毒針
三 PTA活動と文学教育
   1 コミュニケーションも問題/2 すぐれた話し合いの場をつくりだすために

小学校から大学教養課程まで・文学教材五〇〇選(リスト省略)

あとがき


頁トップへ



第一章 問題史的展望    


一  大正デモクラシーと文学教育  

1 童心主義の二面性
 年代を追って、文学教育の足どりをパノラマふうにのぞいてみよう、と云うのではない。直接こんにちに問題を投げかけるような、過去の理論的成果や実践的動向を、ここに掘り起こそうというのである。問題取材の上限をいちおう一九三〇年代にかぎったのも、一つにはわたし自身の不勉強のせいもあって、そこをさかのぼることは、資料の面ですでに自信がもてなかった、というようなこともある。
が、そのこと以上に、こんにちの文学教育が直接その成果を受けつぐべき過去の遺産は何かと考えた場合、三〇年代のプロレタリア教育のそれが大きな画期となっていることに気づかされたからである。
 が、線を三〇年代に引くとしても、プロレタリア教育そのものの歴史的な時点を明らかにするためにも、いちおうは二〇年前後(大正六・七年−昭和初年)の“芸術教育としての文芸教育”の意義にふれておかなくてはなるまい。
 問題作『赤い蝋燭と人魚』が『東京朝日新聞』に掲げられたのは、一九二一年(大正一〇年)のことであった。それは、「子供等の代弁者となり、ために抗議し、主張し、またその世界のいっさいを語らなければならぬ」と考える小川未明氏によって書かれた。「世俗的な下卑た子供の読みものを排除して、子供の純正を保全開発するために」(『赤い鳥』の巻頭言)という、子どもを守る文学運動としての『赤い鳥』の運動が当然ゆきつくべき地点を、それは示している。
 生活苦ゆえの捨て子や、人身売買や、幼少年工問題等々の“現在”の問題にしぼってテーマをうちだしたこの作品には、そして更に、次にきたるべきものがハッキリと示されてもいた。“三〇年代”が、すでにそこに姿を見せているとも、それはいっていえないことはないのだ。
 きたるべき三〇年代への方向づけが、しかきそれが現実にその年代において結果したものよりは、よかれあしかれ遙かに広い幅をもってそこに示されている。『赤い蝋燭と人魚』の制作の時点において、この作者はすでに『赤い鳥』を、その童心主義をこえていたといえるであろう。
 童心主義とは、というより『赤い鳥』を主軸とする童心主義文学運動の実態は、けれど“子どものための”という以上に“おとな自身のための”童心文学運動であった、といわなくてはならない。この運動の推進力であった北原白秋のことば(『童謡私観』一九二三年)を借りれば、童心とは成人が「成人としてのあらゆる酸苦・雑行・雑念を振り落して、新に永遠の児童にまで超越」したときにもたらされる「恍惚たる忘念の一瞬」における「児童性の法悦境」にほかならなかった。それは、だから第一次大戦後の社会的シチュエーションのなかで、いわば“上”からと“下”からとの挟撃を意識しはじめた、小市民知識層の中間者的な現実逃避のおもいと奥底ふかく結びついた、童心へのあこがれであった。
 ――現に子供は、童話よりも立川文庫の英雄物か、忍術物を喜んで読む。……〔童心主義の文芸童話は〕実際、大人の読む物になっている。小学校の教員等が一番多く読むそうだ。

 そのころ(一九二一年)の『早稲田文学』に載った記事の一節だが、童心主義の児童文学という、その“童心”や“児童”は、こうし“おとな”のことであり、また“大人の夢”のことであった。
 が、このおとなの夢が、せめて子どもだけはしあわせに、という“おとなの夢”であったことも、また確かである。童心の法悦境を語った白秋も、後には、

 ――成人監視の下に建てられた児童の牢獄に於て、その成人の規定した頑固一点張りな教育法に依って絶えずその強圧と掣肘とソクバクとを受けねばならぬ精神的幼年囚の過去現在はまた、彼等自身既に、何等の悲哀も失望も憤激も反感も倦厭をも感じなかったのであろうか。また感じないのであろうか(『緑の触覚』一九二九年)

と、きっぱりとそういいきることで、“頑固一点張りな”臣民教育・奴れい教育への抵抗の姿勢を示しているのである。

2 芸術教育と生活綴り方
 文芸童話や童謡の支持者は小学校の教師たちだった、という右の指摘(『早稲田文学』)を裏書きするかのように、「新童謡の創作以外に児童自由詩の開拓は私の懸命の仕事であった。私も懸命であったが、之に賛同した全国の理解ある小学校教師たちも驚くべき熱誠を示した」と当時を回想して白秋は語っている。そして、「その為に視学や校長の機嫌を損ねて転任或いは退職の止むなきに至った」教師もすくなくなかった、という。それは、菅忠道氏の指摘しておられるように、一人の校長、一人の視学の保守的な考えによるものというより、「それを大きく動かしていたのは、やはり文教政策の元締めである文部省であった」(『日本の児童文学』)といわなくてはならない。
 一九二四年(大正一三年)、文部大臣訓令の形で学校劇にたいして大幅な制限を加えた“権力”は、「これも同じころ、文部次官通牒で、(童謡・童話を収めた)課外読物や、副読本の“濫用”をさけるようにと注意」し、また童謡は「文部省検定済でないという行政措置で、これを学校から放逐」(同上)したのである。

 ――文芸教育運動は、こうした教育の中央集権的な官僚統制と闘いながら、文芸精神による教育改造運動の自覚を深めるようになっていったが、大勢を動かすことはできなかった。やがて、公教育に自発性、創造性をとりいれる風潮がひらけ、学級文庫や学校の図書室に課外読物が整備されるようになりだしたときには、芸術自由教育の精神は骨ぬきになって、国家主義的な教育の浸透を助ける下僕としての技術だけが形骸を止めていた。(同上)

この時であった、白秋が怒りをこめて次のような批判をくりひろげたのは――。

 ――実に不思議なことがある。私達は曽て芸術教育を提唱した。その当時に之を非として盛に反駁した人達が、今日では私達以上の芸術教育家となっている事だ。……恐るべきは当初より無理解の当局或いは群盲の徒では無くして、こうした似而非芸術教育家の芸術観並にその宣伝行為である。(『新童謡と教育』一九二六年)

 こうして本来の芸術教育の精神からは遠ざかっっていったいったところの、(白秋のいわゆる)“曲学阿世”の“似而非芸術教育家”の動きは、むしろ適当に“権力”とよしみを通じることで、一種の自由教育時代、芸術教育時代ともいうべき一時期をかたちづくるのである。生活綴り方への動きも、また、こうした後期芸術教育への疑惑と否定に出発したといっていえなくはないような一面をもっていた。いささか逆説めくが、生活綴り方のうみの親はだから芸術教育そのものであった、ということにもなろうか。そして、それがあながちに逆説に終るものでないことは、芸術主義へのその嫌悪がじつは肉親憎悪以上のものではありえなかったという点からも明かだろう。
 この運動があゆみを進めていくうえに、たえずそこに反省を繰り返さなくてはならなかったのは、骨身にしみとおったその芸術主義であった。このようにして、、生活綴り方が「芸術教育に対する一種の否定から出発しながらも、、結局はやはり芸術教育の範囲から抜け出さないでいる場合が非常に多い……結局綴り方の“芸術”としての進歩に止っている。ここに一つの重大な誤まりがある」という高倉テル氏の批判(『綴り方教育の本質』――教育・一九三八年六月)はあたっている。

3 片上伸の文学教育論
 『赤い鳥』をこえたものだけが『赤い鳥』のめざした地点へ進むことができる。『赤い蝋燭と人魚』は、そうした地点にむけての一歩前進をしめす作品であった。
 そうした一歩前進を、しかも大きな歩幅でやってみせたのが片上伸(天弦)であった。
 自然主義がその頂点をきわめた明治末年にあって、たとえば島村抱月などが、ややニヒルな調子で「我等が生の理想とすべきものは何であろうか。少しも分っていない。」(『近代文芸の研究』序)と呟やいていたとき、「無解決は断じて絶望でない」といい、「生の持続する限り、人生の疑惑を解決せんとする要求はやまぬ」(『未解決と人生の自然主義』一九〇八年)とそう語った片上伸は、そのときすでに自然主義をこえていたといえるが、今また彼は、所謂自由主義をこえた立場において真の自由教育をとなえ、“芸術教育としての文芸教育”とは別の次元において、あるべき文学教育のすがたをそこに探るのである。
 片上が「年少の子弟」の文学教育の教材と考えていたのは、もはや童心主義の童謡童話ではなかった。むしろ、「真の力ある文芸」であった。なによりも「人間生活の真実」をえがいた作品であった。しかも、それは、「暗黙のうちに人間生活の真実を了得せしめ感ぜしめる」ような形象化を伴なった作品でなければならない、というのである。
 そうした教材の選定の方向は、彼の次のような教育目標によって決定されている。
 彼の考える文学教育の目的・課題は、「年少の子弟」のあいだに、「人間の本性のすべてを生かして、そのうちに生きてめげない程の逞ましい豊富な生活感情」をつくりあげる、ということである。「人間生活の複雑な恐怖・悲哀・苦痛を」それとして「感ずる」こと、「真に美しいものに感応」し、またたんに感応するだけでなくて「それを愛し護ろうとする心の源泉を豊富にする」ことだ、というのである。さらにいえば、「断片的の表面的の実際生活の指針を露骨に与えるものではなくして、複雑な人間生活の殆んど予期しがたいさまざまの境遇事情に適応して、自己の道徳感情を正しく表現してゆくことの出来るために必要な、根本の力を豊富にする」ということなのである。
 それは、別のことばでいえば、個々人の生活の特殊を典型に変え、具体的形象においてものを見、かつ考えるということ、文学的思考をはぐくむ、ということにほかならない。こんにち、わたしたちがそこをめざして進もうとしている文学教育の方向が、(翻訳の手つづきさえいとわなければ、つかめる程度に)かなりハッキリと示されているのである。

 * 片上伸に関する引用は、すべて『文芸教育の提唱』(一九二〇年)による。


二  プロレタリア教育生活綴り方運動  

1 歴史はくりかえす
 プロレタリア教育が教材研究を重視している点は特徴的である。それは、教授法万能の方法主義・技術主義から教材研究中心の立場に移行しつつあった、当時の国語教育界一般の動向のちょうど裏側の関係にあるわけだ。
 たとえば、友納友次郎は、その教材論『取材観の源泉・読本の本質的発生的研究』(一九三一年、同文書院刊)において、大正期このかたの自由教育がゆきづまりを示したのは、教材研究をゆるがせにしていたことの結果であるという“反省”を語り、そこに教材研究の必要を力説していますが、こうした一般の動向とのつながりにおいて、つまり「ブルジョア教育の力を注ぐ所、或いはその弱点に向って攻撃の主力を注ぐ」(文部省学生部編『プロレタリア教育の教材』――一九三四年三月刊)という戦術的対応関係において、プロ教育にあっても教材研究が重視され、そのモデル教案『小さなねじ』(新興教育・一九三一年一二月)が示しているようなかたちで、教科書の原材料の利用・逆用・改作がおこなわれ、さらにまた「プロレタリア貧農児童の要求に応じた教材の作成」(『小さなねじ』)や綴り方指導がおこなわれた、というふうに考えられる。
 が、天皇制政府が現実に“左翼教員”としてパージし検挙した人びとの児童教育の実際・実態がどのようなものであったかは、右の『プロレタリア教育の実態』に取材されている実例について見るのが早い。「愛国の心とは戦争をやらないようにして、世界の各国を仲よくさして平和な世界とすることをいうのではないでしょうか」という小学生の綴り方は、“その筋”の判断によれば、“赤い綴り方”であるというわけだ。また、受持の児童に、「大塩平八郎は、飢饉で困っている多くの人々を救うために再三その筋に建言したがいれられなかったので、憤慨して乱を起し、事破れて死んだ。このように困っている人を救うために尽した人は偉い人である。」と語った教師は“赤”だというのである(長野県の例)。
 わたくしたちは、そこに、一面、“時代のへだたり”を感じると同時に、“今昔(こんじゃく)の感がある”なぞとやはり言いきれないものがあることに遺憾の意を表わさなくてはならない。

2 階級的文学教育の実際
また、この文部省の『プロレタリア教育の教材』には、『国定教科書の左翼的批判』という標題の原稿換算六百枚近い文章が掲載されている。「神奈川県中郡平塚第三尋常小学校訓導脇田英彦〈全協日本一般使用人組合教育労働部神奈川支部関係者、昭和六年十一月十二日免状褫奪[ちだつ]、同年十二月二十三日起訴猶予〉の手記の中から、終身、国語、算術、国史、理科、地理等の重要学科の教科書に対する批判をその侭[まま]全部引用して参考に供したいと思う。……彼は最初修身科教科書に対する批判を試みた頃は純然たる左翼的立場から批判し始めたのであるが、検事局の取調べの進むにつれ(当時彼は検挙せられていた)次第に自己の信念に動揺をきたし、国語科、算術科、国史科、地理科と批判の筆を運ぶに従って、漸次[ぜんじ]自由主義的立場をとるに至った。」というのである。
 だから、脇田氏のこの手記は自分の意志で書いたというより、検察当局によって書かされた 一種の転向手記みたいなものだ。大衆に向けての呼びかけではなくて、検察官への“報告”である。
 おそらくは「自己の信念に動揺をきたした」というより、縛られた舌のもつれ とたたかいながら、脇田氏はこの獄中手記を書き綴ったのであろう。「階級的意義は稀薄であり、理論は徹底していない点がある。そして、その中には幾多の矛盾がある」と文部当局はこの文章を批評しているが、当局がいうのとは別の軸で、しかし肯けるところがある。読んでいて“舌のもつれ”が感じられるのだ。「しかし、これによって、大体プロレタリア教育における国定教科書に対する批判の態度が察せられる。」(『プロレタリア教育の教材』)
 脇田氏の教科書批判――その文学教材論や古典教材論をよんで誰しも気づくのは、教科書のあり方、教材の選定・配列が基本的には 戦前も戦後も変りがない、という点に関してであろう。
 ――〔教科書の文学的教材は〕全体を通じて季節的配列をしている。……傾向としては児童生活体験を静的に見ている。……ほとんど児童の心の外界の自然的風景とを結びつけようとしている。……青葉に光る露を叙さねば気がすまぬといった調子だ。この点こそ見逃すべからざる傾向である。すなわち文部省の文学観の現われなのだ。そして私はこの文部省の児童文学指導観が誤謬であることを指摘しなければならぬ。われわれ成人の生活自体を反省して見てもそれは極めて動的だと思う。況や児童の体験は純粋に躍動的である。生気溌剌たるものである。この動的に発展しようとする児童を、静的にして発展させようとすることは、動を制するに静ををもってするので合理的のようではあるがその実、角をためて牛を殺す類だ。……今後読本の改正に当っていわゆる文学的教材をより豊富に取り入るべきだと思うが、文部省が依然たる文学観をもってするならば、それは有益よりも害を及ぼすことが多いであろうことを断言するにはばからない。当局者よ反省されよ。
 ――得体(えたい)の知れない教材、例えば巻七、長き行列、れんげそう、二百十日、電報、助力等、巻八、心と心、手の働(はたらき)、朝鮮人参、町の辻、看板、税、水の力、胃とからだ、分業等々を全部省いて、これに代うるに文学的教材をもってしたらどうか。……電報のことや看板のことや二百十日のことや、その他前述の諸課の意義を児童にくみ取らしめるために国文の力、読本の力をかりる必要は少しもないと思う。……国語力を培う為に、私は当局がすみやかに、読本を文学的方向に統一されんことを望むものである。理科的教材、地理的教材等の大部分が国語的生命を失っている。そして全体から見て分量が多すぎるのだ。逆にいえば理科的或いは地理的理解の為の国文なのだ。国文によって理科的に生き地理的に生きていないのである。また当局はどちらに考えているかしらないが、挿画などもどういう立場から入れてあるのだろうか。前言の反復になるが、地理的教材など全く見方が浅薄だといわねばならぬ。横浜、大阪、大連、揚子江、アメリカ便りにしても概念的抽象的だ。一体大都市の性質など知らせて何になるか、国語的に何になるか、またアメリカの資本主義文明に驚異させて何になるか、私は全く当局の意図を怪しまずにはいられないのだ。
 ――古典教材の選択においては文部省のやり方は極めて不統一であると思う。つまり、修身的立場から一を選んだと思うと次は文字解釈(古典解釈)を中心にして選んだり、全体としてはやはり羅列に終っているのである。私は古典文学もやはり生活的立場から選択すべきだと思う。或いは思想的内容的立場といっていいかも知れぬ。即ち解釈主義に堕しない方針である。文が美しいからここの一節を抜粋するとか、現在の道徳教育に役立つから、彼処の一編をピック・アップするとかいうのでなく、第一に時代を見、次に著者の思想的立場全体を見、更に一著書の中心部分を見、その上に立って教材を選択すべきであると思う。しからずして古典の正しい理解はあり得ないのである。
 ――さて最初の文学的教材と、古典文学教材を全部除いてしまって、右のような教材のみにしたら読本はいかなる性質を持っているであろうか? 全く常識のよせあつめ に陥っているのではないか。修身あり、歴史あり、博物あり、法律あり、伝記あり、地理あり、工業あり、経済あり、商業あり、まったく八百屋式である。必要だからとて、ただ羅列しただけでは真の知識となることはできないと思う。
 戦後の教科書の文化主義(=教養主義)・実用主義・拝外主義(そして排外主義)を、いま、わたしたちは問題にしているが、しかし戦前の教科書もやはりそのとおりであったわけだ。
 むろん、戦前と戦後とでは教育の方式・体系がちがう。言語主義から経験主義へ――。天皇制臣民教育から植民地的半奴れい教育へ――。が、愚民政策のための教育であるという点では、しょせん一つこと、一つものである。脇田氏の批判のことばのひとつひとつが、じかにこちらの胸に響いてくるのも、きっとそのせいだろう。
(ついでにいうと、右の『プロレタリア教育の教材』の表紙には、一号活字で“秘”と印刷されている。扉には、「本書は思想問題に関し、生徒児童の教育の任にある者その他教育関係者の注意を促し警戒の資に供する目的をもって編纂したるものなり」とあります。A5判・六九五ページの大冊の本である。)

3 生活綴り方への反省 
ところで、右のプロレタリア教育運動にたいしては、こんにちでも評価がまちまちである。
 たとえば、、福井研介氏などは、「わが国の民族の統一と団結をうちかためてゆくために、学びとらなければならない貴重な遺産のひとつは、いわゆる“プロレタリア教育”とよばれていた時代の先駆的な教授方法ではあるまいか」(『文学教育の方法』──岩波講座・文学の創造と鑑賞・第五巻、一九五五年三月)というふうな肯定的な見解を示しておられるが、国分一太郎氏の『“生活綴方”の運動と“生活学校”の運動』(教育・一九五二年三月)などを見てみると、かなり否定的な口吻である。『新興教育』(──当時それはプロ教育運動の推進力であった)などの、「ああいう公式主義的なものによっては東北の子どもは救われない」というような、一般農村生活綴り方教師の考え方に共感しつつ、「子供たちが事実のうらづけによって、ひとつの感情、ひとつの考えを出してくるところまで指導したい」と考える国分氏であったという。それは、いちおう農村生活綴り方教師としての過去の時点における発言ではある。が、また、たんに過去の時点における発言にとどまるものではないだろう。
「ああいう公式主義的なものによっては……」これがかならずしもプロ教育にたいする生活綴り方教師全体のかまえを示すものではなかった。が、そこを境としてこの運動が地に足のついたものにつき進んでいくモティーフがしめされている。「綴り方だけよくなっても生活がよくならなくては仕方がない」という、生活綴り方運動にたいする当時の内部批判にあわせて、
──生活綴り方をやった教師たちは……生活を言語化するという意味で言語技術の基本的なものへも到達してはいました。また、綴り方を学校集団で読みあうところから集団的思考にも到達していました。だから部分的には、かなり高いところまでいっていたわけです。しかし、大部分の人が、いろいろの要素を意識してそれを科学的に洗練するという方策をとらなかったために、かならずしも高度の発達をみたとはいえないように思います。……戦後になると、この実践が今井誉次郎氏とか国分一太郎氏などの適当な指導者によって意識化され、科学的・方法的にやるという技術もととのえられてきました。だから戦後の生活綴り方は戦前のくりかえしではない。アメリカふうのランゲイジ・アートの考え方がはいってきたために、かえって自分をはっきりと意識し、全部やりなおして一段と高くなった。……この生活綴り方的方法による国語教育は、今後の国語教育の基本的な流れとなるのではないかと思います。

という波多野完治氏の評価(『国語教育の課題』──講座日本語・第七巻)は、この運動の本質をよくつくしている。が、それが「今後の国語教育の基本的な流れ」となるためには、よりいっそうの方法的省察がそこに伴なわなくてはなるまい。生活綴り方的方法によってそこに実現させようとする、リアルで意欲的な考える力というのは、(心理的にではなく論理的にいって)じつは何によってもたらされたものであり、もたらされるものであるのか、という点への反省等々々。

* 生活綴り方に関しては、なお、第一章・一・2、七・1などの項を参照していただきたい。


三 形象理論と文学教育  

1 マルキシズム以後
 階級的実践的立場に立つ脇田氏が「なぜ外国の教材しか用いられないか……近代日本の社会からその材料を取らない」のはなぜかと抗議し、修身的立場や文字解釈のための古典への取材をしりぞけて、「生活的立場からの文学的方向への教材の統一」を叫び、文学教育をプロ教育の前衛・主軸として重視している(前掲『国定教科書の左翼的批判』)のに対して、西尾実氏は、どちらかといえば文学教育軽視――軽視とはいえないかもしれないが、しかしそれを副次的なものとして考えておられる。
 文学は、日常生活におけることばを底辺とした三角形の頂点にすぎない。底辺(基底)やその底辺の上のひろがりを忘れて、頂点だけにとらわれるのはまちがいだ、とうのが、そのころの西尾氏の国語教育論(『読方教育論』――国語科学講座・一九三四年七月)であった。
 両者の考えは、一見まるで方向の違ったもののように見えるが、西尾の否定しておられるのは、じつは大正期このかたの観念的な例の“芸術教育”方式の文芸主義の国語教育なのである。生活の基底に目を向けかえることで、地に足のついた国語教育を、と西尾もいっておられるわけなのだから、その点ではむしろ、両者の視点は一致する。ひとしく“マルキシズムの洗礼を受けた時代”の子であったことがいわれていいだろう(たとえば、西尾氏の『国語国文の教育』一九二九年刊・二一一ページ以下を見よ)。
 が、マルキシズムをどう媒介しどう受けとめたかという点では――そう、ここのところで両者は(部分的にふれあうところはありながらも)異なる別の方向にあゆみを進めることになったのである。
 やはりマルキシズムに背を向けたディルタイの場合がそうであったよに、氏のいう“生活の基底”とは、生哲学ふうの形而上学的・非歴史的な“生”にほかならない(ディルタイが歴史の項を骨抜きにし消去するために、歴史ということば をうるさいほど口にし、そしてついに歴史の項を現実のワクの外に括りだすことに成功〈?〉したところにもたらされた“生”である)。
 鑑賞を深めるとか解釈するとかは、したがって氏の場合、“追体験”以外の操作を意味しているとは考えられない。生は生によってしか理解されえないし、その理解の方法は、追体験以外にはありえぬ(ディルタイ)わけなのだから。追体験とは、そして、勝部謙造氏にしたがえば、「其人の心にまで追溯すること」であり、「其人の心を以て我が心とすること」にほかならない。

2 西尾実の所論とその批判のをめぐって
 西尾氏のこの生哲学的な生の立場、──垣内理論(故垣内松三氏の形象理論・解釈学理論)を受けついだ氏のこうした立場は、こんにちに至るまで一貫して変わらない。一九五四年に書かれた論文『文学教育の回顧と展望』(『文学』)においても、
 ──鑑賞活動に示される文学機能とは何であるか。最も一般的な機能は、読者その人の生活において蓄積されている“問題意識”を喚起することである。この“問題意識の喚起”は読者の生きかたに何らかの方向を与える。あるいはその“生”に慰めをもたらし、あるいはその“生”を鼓舞し、あるいはその生きかたに反省を促すというように。……文学が、鑑賞活動を通して読者に働きかける機能は、このようにして、だいたい、(一)“生”の方向づけと、(二)創作意欲の喚起と、(三)研究意欲の推進とに類別することができると思う。鑑賞活動を経験させる文学教育は、この三方向のいずれかへの発展を見通した指導でなくてはならない。

と語っておられる。
 さいきん、日本文学協会の内部でも、西尾理論に対する批判がぼつぼつ出かかっているようだが、西尾理論のこのベースを突いたものが見当たらないのは、どうしてだろう?
 たとえば、「西尾氏は理論構成にあたって、立場と方法と内容を統一的につかもうとしたそのねらいを、むしろ観念的に方法の問題に限定されたような感じ」だ、と益田勝実氏は語っておられるが(『しあわせをつくり出す国語教育について』──日本文学・一九五五年八月)、西尾氏がしゃにむに問題を方法の面に限定して発言しようとした、その“立場”こそ、変形された形象理論・解釈学主義・追験主義のそれにほかならない。
 また、たとえば、荒木繁氏は「西尾氏の所論は、作品とそれによって喚起された問題意識との必然的な関係をあきらかにせず、……これを創作意欲の喚起や研究意欲の喚起と並置されている点において賛成できない。」(『文学教育の方法』──岩波講座・文学の創造と鑑賞・第五巻、一九五五年三月)と語っておられるが、創作・享受(鑑賞)・研究を根源的に同質のものと考えるところが生哲学(=形象理論)の生哲学たるゆえんなのである。(それは、たとえば、こういうことなのである。生哲学にしたがえば、鑑賞とは追体験による生の理解にほかならない。研究とは、またたんに鑑賞をそれとして深めていく操作をしか意味していない。また、たとえば、鑑賞が一面創作過程の追体験であるという点で、それは創作と同質のものである、という方式の論理なのだ)。“立場と方法と内容を統一”した西尾理論の批判が望まれる。

3 ヴァリエーションABC
 こうしてその立場をハッキリさせたうえで見なおすと、前には非常にもっともな意見のように受けとれた、三角形うんぬんの所論が、かなり観念的なものであることに気づくだろう。
 人間のさまざまないとなみ のなかから“ことばのいとなみ”だけを抽象して、文学のいとなみは(それがことばの芸術であるから)“ことばのいとなみ”の一種であり、したがって文学の基底は日常生活におけることばだ、というのでは、これは論理の横すべりではないか。
 その意味では、むしろ、文学の基底・基盤は人間の具体的な社会生活そのものである、といわなくてはならない。ことばは、文学にとって唯一の媒体であり通路であるが、しかし基底ではない。文学は、“ことばによる いとなみ”には違いないが、たんに“ことば いとなみ”ではない。正しくは文学のことばの基底 は日常生活のことば である、というふうに語られるべきではなかったろうか。
 が、ことばづかいの問題はいちおうどうでもよい。問題は、きっすいのリベラリストである西尾実氏が、しかし国語教育を「伝統に根ざした、底力ある国防教育 たらしめ」ねばならぬと語り、そのためには「古典教育の実を挙げなくてはならない」とそう語るほかない地点にまで追い詰められたとき(一九四三年)に、例の三角形うんぬんの所論が「言語教育と古典教育とが、いわば三角形の底面と頂点との関連として定位せられていることに、新教授要綱の本領が見出される」(以上、『国語教育の立場と方向』──文学・一九四三年八月)というふうに、いともたやすくファッショ教育奉仕のことば (論理)に転化し得るもろさ をもっていた、というその点なのである。
 つまり、そのもろさ のよって来たるところが問題なわけだ。ある種の生哲学者・実存哲学者たちが後にナチの御用学者に成り果てたのをここに思いあわせるのは筋違いかもしれないが、しかし生哲学ふうなものの考え方そのもののなかに、やはり何かそうした“もろさ”があるのではないだろうか。
 ことのついでにいうと、いま日本文学研究の分野でもプラグマティズム批判がさかんだが、しかしそれにあわせて、その大もとの生哲学批判をやらないのはどうしてだろう? プラグマティズムが帝国主義の哲学なら、生哲学はれっきとした戦犯の経歴をもっている。が、ディルタイのそれと、戦時中ファッショの手さきになったような俗流・亜流の生哲学とはやはり区別されなくてはならないように思うが、相手がプラグマティズムの場合にかぎって無差別爆撃をあえてするのは、なぜだろう? 
 生哲学の亜流にすぎないこの形象理論は、こんにちこの時点において、ふたたび、いきおいを盛りかえそうとしている。その盛りかえし方は、一方では文化主義を媒介とするプラグマティズムとの結びつきのかたちにおいて、また他の一方では、プラグマティズム・コスモポリタニズムそのものに反撥する人びと(そのなかのある種の人びと)の哲学史的無知を逆用してである。

四 文学の教育性・教育的機能──三〇年代への回想(1)──  

 国分一太郎氏は、文学教育に“文学についての教育”と“文学による教育”との二つの側面のあることを考えておられるらしい(『文学教育の問題点』──国語教育・一九五四年七月)。“文学による教育”というのは、国分氏の場合、「文学がもっている独自の教育的機能を生かした教育」ということらしいが、国分氏の場合にかぎらず、文学の教育性ということばが戦後さかんに用いられている。たとえば、『文学の教育性』とか『児童文学における教育性』というような題名の論文さえある。
 が、ことばとしてそれを用いながら、文学がどんな独自の教育的機能をもっているのかという点、また芸術性(文学性)や文学の表現・認識、さらに鑑賞・享受とこの教育性とがどうかかわりあうのか、といういうような点は一般にあまりハッキリしていないように思われる
 ところで、この問題がすでに三六−七年代において、かなりぎりぎりのところまで追究され討議されていたことを、わたしたちは、与田準一氏(『児童文学の教化性』)・松永健哉氏(『教育に於ける児童芸術の問題』)・故槇本楠郎氏(『児童文学の教育性・倫理性』)などの相互批判の評論について知り得るわけだ。さらにまた、直接右の問題への応答をめざして書かれたものでないが、しかもきわめて明快な、ふかくえぐった解答をしめしているのは、片岡良一氏の『芸術性と芸術の価値』(『文学』)『鑑賞に先行するもの』(『国語教育誌』)などの論稿であった。
 こうしたすぐれた遺産を、こんにち、なぜ受けつがないのか。この戦争を境にして、そこになにか断絶があるように思われる。
 一九四七年の右の“教育性”論議は、作家側に見られる教育性と教訓性とのとりちがえやら、「教育性と芸術性とが本質的に両立し得ない」と作家たちが語ったというふうな松永氏の誤解やら、また作家の“創作の機微”を無視した、そのかぎりかなりムリのある松永氏の注文やらがそこに出されて、ちょっと整理のつかなぬかたちになっているが、しかし基本的・原則的な問題がそこで論議されたことは注目にあたいしよう。
 なかでも、槇本氏が「日本の初等教育者の置かれている封建的な、悲しむべき不自由な立場」について語り、「口演童話や学校劇も、教育者に利用され、学校に入って行くに従って……第一義の真の 教育性・倫理性を失ってしまった」事実を指摘し、こんにちの児童文学はファッショ権力とのたたかいのうちに、子どもを守るために「真の教育性」を回復しなくてはならぬ、と“もつれた舌”で語っているのは特筆にあたいする。
* 文学の教育性ないし教育的機能の問題についての、こんにちの時点におけるみごとな整理が西尾実氏によっておこなわれたのは、日文協・一九五四年度大会においてであった。(第一章・九・2『教育的機能と文学的機能と』参照。)


五 抵抗の国語教育──三〇年代への回想(2)──

1 文学教材としての民話
 右に見てきたような教育性論議がおこなわれていたのとほぼ同じ時期に、国語教育の分野でも、天皇制臣民教育への抵抗が、この教育性と教訓性の問題をなかにはさんで、教材論のかたちで展開されたのだった。たとえば、金田鬼一氏は局外批評のかたちで、国定教科書の童話教材批判(『童話』――岩波講座・国語教育)を書かれたが、それは文部省の修身道徳的立場からの民間伝承説話の改ざんが、民族のすぐれた遺産を台なしにしてしまい、民話ほんらいの高い教育性を奪いとってしまっている事実を、実証的に、そして根底からバクロしたものであった。
 ──教材の実地について、先ず巻一の『舌切雀』を検討してみる。これは、完全な話にするか、さもなければ削除してしまいたい。……『舌切雀』は動物報恩説話型の立派な「昔ばなし」で、こんな風に途中だけを漫然と教材にしてはいけない。第一、昔ばなしというものは、「むかし、むかし」という言いだしで始って、「これでいちがさかえた」「めでたし、めでたし」と朗らかに結ぶことに定っている。この型を壊すことは昔話の伝統を無視することで、日本人が「昔々から」語り伝えていつとなしにうん[酉扁+温の旁]醸された温かいなつかしい雰囲気から、昭和以降の児童を追い出すことになる。……伝承童話は国民の魂の揺籃である。日本の「昔ばなし」もまさしくわれわれ日本人の魂の故郷である。
 ──教材の『舌切雀』には肝心の冒頭がない。恐らく、雀の舌を切るという残酷な行為は児童の無垢な心をそこなうとの理由ではぶいたのであろうが、前にも述べたとおり、童話の世界には、現実世界とちがって、因果関係の解らぬ断片的事実は現われない。たとえありとあらゆる罪悪が面白おかしく描きだされていようとも、結局は、必ず善が悪に勝って、末は「めでたし、めでたし」となり、恭倹・誠実・敬虔・忍耐・勤勉・慈悲・清浄無垢、その他あらゆる美徳が勝利を占める筋道が知らず知らずの間に明瞭に感じられる。しかしこれは首尾一貫した真の童話に親しんだ場合に全体としておのずから感じ得られるのであって、抽象的の道徳律を無上命令的に児童に注入して収められる効果ではない。要するに、児童は面白い話に親しんで、宇宙を支配する道徳の大法を感じればよいのである。

 こんにち、とくに小・中学校文学教育において、民話への取材(ないし民話的方法)の必要が痛感されているが、しかもそれを“痛感”しているはずの当事者たちのあいだで、戦前のこうしたすぐれた成果・遺産が全然かえりみられていないのは、どうしたことなのか。金田氏のいわゆる“日本人の魂の故郷”を、文学的思考の文脈でこんにちに生かすことこそ民話的方法の具現ということであろうに──。

2 神話をこんにちどう生かすか
  倉野憲司氏もまた、いわゆる神話の教科書への取材について、その修身道徳的“教訓性”にたいして“教育性”の立場から手きびしい批判を加えた(『神話』──岩波講座・国語教育)。しかも、その批判は透徹した学問的立場においてなされ、天皇崇拝・国家主義強調のための神話への取材という文部当局の意図が、しかし事実上“不敬を犯す”結果をみちびいているという矛盾を指摘することで、抵抗の実を挙げている。

 ──現に国語読本に取られている神話は、……決して神話そのものではなく、或いは変改、或いは補綴、或いは現代化されたもののみであって、童話化された神話というべきものである。極端に言えば、神話としての生命を失った話である。併し編纂者の意図は、これを全く童話化することを欲せず、一面においては神話的意義を匂わせつつ兼ねて童話的興味をそそろうとする一石二鳥主義にあったことは、天照大神・邇々芸命・火遠理命・須佐之男命・大国主命等のわが神話史上における重要な神々の御名が示されていることによって知られる。而してこの主義は一見非常な成功の如くに見られるが、実は失敗と言わざるを得ない。というのは、如上の神々の現われ給う神話は、わが建国の精神及び国体の本源を表掲した神聖なる存在であって、これに毫末の変改も加えるべきではないのに、変容歪曲を敢えてするというのは、神聖なる神話の冒涜であるからである。つまり不都合の因由は神々の固有の御名を示したところに存するのである。

「神聖なる神話の冒涜である……」つまり、相手の常套手段を逆用して相手の痛いところを突く、という戦法である。暗い谷間特有の抵抗戦法であった。
 ところで、倉野氏は、さらにことばをつづけて、「試みに“天の岩屋”を次のように改変して見たら」という、取材についての具体案を示しておられる。

 ──日の神様はやさしい女の神様でした。弟の嵐の神様は大変乱暴な神様でした。或時、嵐の神様があまり乱暴をなさるので、日の神様は御部屋に籠って、戸をしめておしまいになりました。明るかった世界が、急に真暗になりました。すると今まで隠れていた魔物が沢山出て来て、あばれまわりました。大勢の神様がお集りになって、「どうしたら日の神様に出ていただけるだろうか」と御相談なさいまいた。
御相談の末、神様方のなさることがきまりました。或神様は立派な鏡をお作りになりました。或神様は綺麗な玉をお作りになりました。又或神様は山へ行って榊の木を根こぎにして持っていらっしゃいました。この榊の木に鏡と玉をつけてお部屋の前に立て、また沢山の鶏[原文は奚+隹]を集めてお鳴かせになりました。この時舞の大変上手な或女の神様が、お部屋の前に進んで、滑稽な手振りや身振りをして、面白くお舞いになりました。大勢の神様はどっとお笑いになりました。あまり面白そうなので、日の神様は少しばかり戸を開けておのぞきになりました。すると或神様が鏡と玉をつけた榊の木をずっと前へお出しになりました。日の神様はこれを御覧になって不思議にお思いになって、少し戸の外へ出ようとなさいました。戸のそばで待っていらっしゃった力の強い男の神様はこの時とばかり、さっと戸を開けて、日の神様のお手を取って外へお連れ出し申しました。世界中がもとのように明るくなり、あばれていた魔物はみんなどこかへ隠れてしまいました。大勢の神様は手をうってお喜びになりました。それから後は、嵐の神様も乱暴をなさらなくなりました。

 原話の主題を、それの歴史的意義と現代的意義とにおいて正確につかんだ、これはすばらしい翻訳である。さらにいえば、神話が文学古典としてこんにちの(?──三〇年代の)時代的範疇に生かされているのだ。こうした過去の実践的試案・成果を、どうしていまの民話教育論者は受けつごうともしないのであろう?


六 鑑賞主義論争と文学教育──三〇年代への回想(3)──

1 暗い谷間の文芸学
 暗い谷間の一ページ。二・二六事件前後のこと。
 当事者たちの“つもり”からすると、こうらしいのだ。とにかく息苦しいし、憩いがほしい。公式主義的マルキシストの、まるで判で押したみたいに一律な文学談義には、もうとてもつきあいきれない。こうしてリベラリストの一群は、公式主義者への反撥をこえて、マルキシズムそのものの否定に突きぬけ、趣味的な文学ディレッタンティズムに身をゆだねるようになった。
 それと同時に、文学を憩いの場とするために「美の聖地を回復せんとする十字軍」(岡崎義恵氏『日本文芸学』)として、「マルクス主義の亜流」を学会や教育界から追放しよう(岡崎氏『古典及び古典教育について』)というような勇ましいことにもなってしまったらしいのだ。時のはずみである。が、ファッショ政治の息苦しさから身を避けようとした人たちが、権力の側に廻って特高そこのけの役割を演ずる結果になったのは歴史の皮肉であった。
 そうした歴史の皮肉を身をもって経験した人は、文壇では林房雄氏、日本文学研究の分野では故藤田徳太郎氏、そして岡崎義恵氏などであった。
 岡崎氏の大著『日本文芸学』(一九三六年刊)は、右にのべたような意味での“美の十字軍”の戦闘的な旗じるしであった。そして、この旗じるしの掲げられたことが、鑑賞主義批判を誘うよび水となったのは確かである。近藤忠義・熊谷孝・乾孝・吉田正吉・石山徹郎・甘粕石介・新島繁・本間唯一・片岡良一・吉田精一などの諸氏が、この鑑賞主義論争に参加した。近藤氏や熊谷たちの日本文芸学批判に対して、新島氏や本間氏たち唯研(ゆいけん)グループや片岡氏などの一種の内部批判やら、吉田精一氏の批判やら、またそれへの反批判などがあって活溌な論争がつづけられた。けれど、その結果はうやむやに近かった、といってよかった。ことばに足をとられた相手への誤解、相手方の誤解が問題の方向をズラせたことも確かである。が、この論争をたち消えに終らせたのは、なんといっても、岡崎氏のファッショ的・特高的発言(『古典及び古典教育』)であった。
 ──然も、かかる見地〔芸術の永遠性を否定し、したがって追体験を否定する見地〕は今日いわゆる国文学界においては歴史的・社会的立場として認められている。歴史というものを持続的なものとして見ず、社会というものを階級的限界内のものとして見ようとする立場が此処にある。前に引用した論文の如きはなお微温的であり、従って穏健とも考えられるものであるが、中にはかなり極端な左翼的位置に立つ者も、此の一類に見出されるのである。思うにこれはマルクス主義の亜流である。左翼文士の活躍した頃の論文に見られた口調が、此処には著しく面影を留めて居る。今日では余程偽装しても居り、軟化しても居るが、なお蔽う事の出来ない赤化思想への傾きを見出さないわけにはゆかない。唯物論研究などという雑誌とも連絡があるようであり、ソヴィエット文芸学への追随の跡も認められる。此派を行く所まで行かせると、当然赤化行動に迄進むに相違ない。「文芸史における古典の評価は、その作品を問題とすることの現代的意義の評価にはじまり、それの歴史的意義の評価におわる、唯その一つの規準を規準としておこなわれるべきものなのである。」(『文学』五ノ四、熊谷孝氏『古典評価の規準の問題』)という如きことばを、唯これだけ見ると従来の保守的な実証主義的歴史学者などをも首肯せしめそうに思われるのであるが、此処にいう「現代的意義の評価」なるものは、階級闘争によるプロレタリアの進出を助ける如きものを価値ありとする事であり、「歴史的意義の評価」なるものは、かかるプロレタリアのイデオロギーに理論的基礎を与えるような、階級闘争の為に役立った文芸の実践力を明らかにする事ではなかろうかと私は考える。これについては此派の人々は強いて十分な説明を施さないようであるが、私の想定は誤って居るであろうか。もし誤っていないとすれば、かかる立場に立つ潜行的マルクス主義者が、国文学界に活躍し、教育界に巣食うという事は、いかように考えてよいものであろうか。
 ──古典教育を完全に実現する為に第一に要請されるものは、教育者である。古典教育に従事する者の資格として、古典の権威を認め、人格の奥所より古典の道に参ぜんとする熱意を持つ者でなければならない。かような資格をもち得ないものは自ら反省して寧ろ被教育者の位置に立つべく、暫く教壇より退く事を必要とする。更に古典の道を嘲笑する如き者が誤って古典教育者の中にまぎれ込んでいる事は、真率な人々にとって堪え得る事ではない。教育行政の機関はよろしくかかる不適当なる、或いはむしろ有害なる教育者を剪除すべきである。(『古典及び古典教育』)

 時のはずみである。繰り返しになるが、もっともリベラルな考えをもっていたはずの人が、権力の側に廻ってスパイの役割を演じる結果となったのである。リベラリズムのファッショ化――それは同時に、自由主義と自由主義の哲学(生哲学)、それの文学現象面および教育面への適用である形象理論の本質・実態をバクロするものであった、といわなくてはなるまい。

2 注目すべき文学教育論
 戦後、ふたたび、この論争に参加した人たちやその周囲の人たちによって、自己批判(?)のかたちで、鑑賞の問題がとりあげられたが(たとえば一九四八年刊の『文芸学の諸問題』など)、それがしかし、熊谷たちが鑑賞をまで否定し去ったのは誤まりだ、というふうなことになっているらしい(たとえば、『文芸学の諸問題』に掲載されている榊原美文氏の批判など)。これは、しかし、当事者のわたくしとしては解(げ)せないことである。
 というのは、わたしたちは、その当時において、「鑑賞をまって芸術作品がはじめて芸術たりうるのは、もとよりのことだ」とハッキリといい、「自己の体験の抽象面を規定する坐標軸を自覚しない、理解者の主観的な全体感が本来の意味での鑑賞である」ということをのべ、だからすくなくとも鑑賞そのものは方法(文芸学の方法)ではない、と語っているからだ(引用は『文芸学への一つの反省・補遺』一九三七年八月)。
 こうして事実がゆがめられたまま無媒介に否定されてしまっている一方、片岡氏の鑑賞論(前出『芸術性と芸術の価値』)に示された見解と同様の考えや考え方が、これもやはり無媒介に戦後十年のこんにち通用しているのなども、やはりわたしとしては解せないことの一つだ。たとえば、「感動をよびおこす力は作品の中にあるが、それを受けとめる地盤は生徒たちの生活と意識の中にある。」(『文学教育の方法』)という荒木繁氏の問題整理・問題理解の仕方などが、それである。もっとも、荒木氏のいわれるのは片岡氏のとは違って、むしろ、読者の体験の多様さと、またそれゆえに起こる鑑賞の多様さにふれての発言なのだけれど、論理そのものとしては片岡氏の“受けつぎ”だ。しかも、無媒介なそれである。
 断っておくが、当時わたしが文学作品の内容や「芸術性を、読者の受け取り方にのみ 依存するものと考え」ていたというのは(『芸術性と芸術の価値』)、これは片岡氏の誤解である。が、「感動をよびおこす力は作品の中にある」という式の、つまり、内容が作品のなかに封じ込められているという式の考え方を否定したのは事実だ。この考えは今でも変っていない。
 作品そのものはあくまで媒体である。表現の媒体であり理解の媒体であるこの作品は、読者の理解(鑑賞)をまってはじめて内容をかちえる(感動をよびおこす)のである。むろんこの媒体は、読者の心に、ある一定の感動の仕方における理解をよびおこすように加工された媒体なのだから、作者がツボをはずさないかぎり、それは一定の読者に対しては、ある一定の感動をもたらすはずのものなのである。
 が、作者の心と読者の心がしっく結ばれるという、こうした場合でも、それは、感動をよびおこす力が作品のなかに封じ込められているからのことではない。作品そのものはあくまで媒体である。ズサンなたとえで恐縮だが、雷をよびおこす力が一方的に陽電気の側にあるとか陰電気の側にあるというのでは筋が違う。どちらか一方に……ではなくて、この両者がぶつかる(引きあう)ところに雷という放電現象が発生するように、読者の感動も、このふれあい(つまり読者の作品鑑賞)において成り立つのである。それを一方的に、作品にひそんでいる力がと考えるのは、あたらないように思う。
 ところで、右の鑑賞主義批判を国語教育の分野において展開させたのが、大久保正太郎氏の『解釈学主義への一つの批判』(教育国語教育・一九三八年四月、拙編『文学教育の理論と実践』に再録)であった。科学的な偽装をした鑑賞主義――解釈学主義(形象理論)が支配的な、官製国語教育界にたいする、それは民衆の立場からの抗議だった。
 この論稿が戦後の国語教育論ないし文学教育論とハッキリ区別されるのは、認識論がしっかりしている点である。当時の段階にあって、しかもフリーチェ的なあの誤まりに横すべりすることなく、問題の急所をリアルに批判している。それは、まっとうにフリーチェを批判し得る認識の高みにあったからこそ、解釈学主義――生哲学を根底から批判することもできえた、ということなのだろう。ようやくアメリカ製国語教育の支配からぬけだして、民主民族主義への道を歩みはじめようとしている、こんにちの国語教育および文学教育が、その出発にさいして受けつぐべき、すぐれた遺産の一つがここにもあるわけだ。


七 戦前から戦後へ

1 良心のともしび
 満州事変から二・二六事件にしぼって考えられるこの谷間の一時期は、太宰治のいわゆる“更衣の季節”(『苦悩の年鑑』)であった。たとえカーキ色の国民服は身にまとわぬまでも、「袷をセルに着換えた」知識人たち(同上)は、沈黙のなかに、はかない抵抗の自己満足を見いだすのほかはなかった。
  こうして三六年、三七年、三八年……と、ファッショ街道の早がけ行進がはじまる。一年が一年といえなかった。一年が四分の一世紀にも半世紀にも相当する急テンポの転落の“一年”であった。
 そうした谷間のどん底における抵抗の国語教育が、言語教育──とくに文法教育重視の方向にあゆみを進めたのは、むしろ当然のことだった。
 ──ヨーロッパ諸国の小学校では、必ずその国の“文法”を教えている。ところが、世界の文明国でたった一つ自国語の“文法”を教えていない国がある。それが日本だ。……国語教育というものは、はっきり二つの部分に分けることが出来る。つまり、国語の理解力(読む力)と国語の表現力(話す力・書く力)の二つだ。文法は理解力と表現力と両方の最も大きな基礎となるものだが、殊に表現力は文法をを正確に把握させる事によって初めて養われる。……日本語の文法を教えていない日本の小学校では、児童に日本語の表現力を、正確に、一定のレベルまで与えてやる努力を全くしていないという事が分かる。(高倉テル氏『綴り方教育の本質』──教育・一九三八年六月)

 右に見るような高倉氏の批判は、ことばを神秘的なものと考える言霊思想――言語主義の国語教育、ファッショ教育へのほとんど最後の抵抗をさえ意味していた。
 また、波多野完治氏(『言語の道具説と形象論批判』――国語教育誌・一九三九年一一月)がそれとほぼ同じ時期において、「言語が道具性をもつ」ことをハッキリと語り、「従来の国語教育が言語の道具説をとり入れることをおこたっていた」点を指摘し、「言語の道具説はそのままでは真理ではない」が、「言語の道具性を無視するところに、すべてのいわゆる象徴主義の言語観の行きすぎが横たわっている」と批判しているのも、同様の意味で注目される。
 右の波多野氏の形象理論批判と同一歩調をとって、城戸幡太郎氏(『国語教育における形象の問題について』だ国語教育誌・一九四〇年一月)もまた次のように語られる。

 ──国語教育における形象理論なるものが最近問題になってきたようである。……世間の形象理論なるものに対する批判やそれに対する形象理論家の反駁を読んでみると、問題は“形象”ということばの意味が十分理解されていないことにあるように思われる。批判が的はずれであるという場合には、それが誤解されている場合が多いが、人が誤解する場合には、誤解する人の理解力も問題であるが、誤解さす人の表現力も問題である。自分で勝手に考えている場合には、どんな考え方をしてもよいが、それを人に伝えようとする場合には人に誤解させないような表現を工夫することが必要である。国語教育においてもやたらこむずかしい文章を解釈することに骨を折らさないで、理解し易いような表現に苦心することが肝心である。

 ファッショの御用哲学に成り下った生哲学(=形象理論)の国語教育界における横行・バッコ。こうした時点において右の文章に接するとき、「やたらにむずかしい文章を解釈することに骨を折らさないで……」と語る城戸氏の底意・真意を読み誤まることは、もはやほとんど不可能であろう。
 たとえば、右の波多野・城戸両氏の論文に見るような(ある意味からすれば)、こんにちの水準を遥かに上廻った、卓越した言語理論にささえられて、抵抗の国語教育としての言語教育がそこに強く主張され、またある程度に現場において実践されてもいたのである。が、当然それは、たんに言語教育の域にとどまるものではなく、文学教育への志向と分ちがたく結びついていた。というよりは、むしろ、文学教育への道をはばまれていたことによる言語教育への転身(?)であった。そのことは、高倉氏が問題を教科書のあり方の一点にしぼってではあるが、次のように語っておられることからも十分うかがい知ることができよう。

 ──日本の現在の教育には非常に多く芸術的要素がとり入れられる傾向を生んでいる。ところが、不思議にも、一つ例外として、国語教育には今でも実にその要素が少ない。それは日本の教科書をヨーロッパ諸国のものと比べて見ただけでもすぐに分る。フランスやドイツやイタリーやイギリスやロシアの教科書は、それぞれのの国の童話作家、国民詩人などの作品をもって満たされている。ところが、日本の教科書にはそうした要素がほとんど欠けている、一例として、あれほど国民に親しまれている『膝栗毛』が今度の新教科書で初めて取り入れられた。しかしそこでは、弥次郎兵衛は“弥次郎”となっている。いかにこれまで日本の教科書が日本の文学を軽蔑して来た事か? (前掲『綴り方教育の本質』)

 高倉氏のことばをかりれば、「こうした国語教育の欠点に、意識的に、或いは無意識の中に不満を感じた、まじめな教師諸君が、綴り方の部分でその欠陥を補おうと」したこと、しかしその生活綴り方運動が「在来の芸術教育から抜け出そうとするまじめな努力であったにもかかわらず、やはりこの〔ごく少数の優秀な児童だけをとり上げて一般の児童を無視した〕“天才教育”の範囲から一歩も出ることが出来ず、従って、結局“芸術教育”のただ形を変えたものに止らなければならなかった」ことがいわれていい。こうした生活綴り方(後期生活綴り方)の“芸術教育”への横すべりを食い止めるために、“理解力と表現力との双方の基礎”としての文法、文法教育、言語教育がそこに提唱されたという関係である。
 こうして暗い谷間の言語教育は、“目かくしされた環境”を生きる子どもや若者たちのあいだに、まともな現実感覚、まともな思考力をつくり出すための良心のいとなみであった。
 “目かくしするもの”へのそうした良心の抵抗を、またたとえば、いくつかの読書論のなかに見つけることができる。清水幾多郎氏の『児童と読書』(『児童文化』上巻、一九四一年二月)は、そうした読書論のなかでも傑出した労作であった。何が良書で何が悪書かをきめるぐらいむずかしいことはない、と語り、「多読によって多くの人の多くの言葉がその絶対的な重量を失って、それぞれ相互に相対的なものとなるということは一つの注目すべきメリットである」と語っている、その抵抗のイロニーは、もはやこんにちイロニーとしての通用性を失ってしまったであろうか。

2 児童文学運動のなかから
 戦後の文学教育運動は、まず、児童文学者協会を軸にし、『子供の広場』(一九四六年四月創刊)のささえとなったような、良心的な児童文学作家や文化人たちの児童文学運動に伴なって起こった。大久保正太郎・栗栖良夫・菅忠道・関英雄その他の諸氏を編集同人とする『子供の広場』は、「文学教室」の欄を設けて、山村房次氏の『ゴリキイ』や、片岡良一氏の『一ふさのぶどう』などの、少年少女のためのすぐれた文学案内を試みた。

 ──『子供の広場』が出た。これは諸君の雑誌だ。全日本の少年少女の雑誌だ。ながい戦争中、日本の子供の雑誌には、諸君にほんとうのことを知らせる雑誌がなかった。日本がまちがった戦争をしていることを、だれも諸君に知らせなかった。知らせることができなかった。
 けれど『広場』が出たから、もう、だいじょうぶだ。『広場』は諸君に、なんでもほんとうのことを、おしえる。
 日本にはいま、わがまま勝手な人々をおさえて、まじめにはたらく人々がたのしくくらせる世の中をつくろうと一生けんめいつくしている人々が、たくさんある。『広場』は、そういう人たちの力をかりて、日本の子供たちが、これからなにをべんきょうしたらよいかを、おしえる雑誌だ。
 だから『広場』は、うそっぱちの読みものは、いっさいのせない。そのかわり、ほんとうに明かるく平和で、ゆたかな日本をつくる、美しい詩、たのしい創作、正しい科学的な読みものなどを、どしどしのせる。
 編集部は、『広場』を、みんなに愛される、りっぱな雑誌にしようと、はりきって活動をはじめた。そのために、諸君の方からも、こういうものをのせてほしい、こういうものが読みたい、という希望を、どしどし編集部へいってきてほしい。みんなの力で、ぐんぐんいい雑誌にそだててゆこう。

 右の引用は『子供の広場』の創刊号に掲載されたアピールであるが、この雑誌のもつ文学教育的意図をそこにハッキリと読みとることができるだろう(“良心的な児童雑誌”ということで、『赤トンボ』〈一九四六年四月創刊〉や『銀河』〈同年一〇月創刊〉・『少年少女』〈一九四八年二月創刊〉などとこの『子供の広場』を同一視する向きもあるが、これはまちがいだろう。“良心”の方向が一八〇度ちがっているのだ)。
 また、大久保正太郎氏は『文学教室』シリーズを刊行して、右の計画をさらに発展させた。

 ──文学については、いままで多くの誤解があった。たとえば、文学は、少年や青年の心をだらくさせるいがいには、なんのやくにもたたないものだという迷信がおこなわれていた。……もちろん、〔文学が〕そういうふうにきらわれる理由もあった。だが、それは、文学そのもののせいではなく、わかい人々に、すぐれた文学をあたえず、文学の正しい読み方をおしえなかったからである。教室で、国語の時間などに、文学作品のきれはしがおしえられることはあった。しかし、そのだいぶぶんは、少年や青年のわかわかしい心をとらえる、生きた文学ではなかった。……生活する人々の、なまなましいよろこびやかなしみを、そっちょくにうったえた、力づよい文学ではなった。かびくさい、老人じみた、上品にきどった、そうでなければ、国体のそんげん、日本のありがたさをあたまからおしつけるようなものばかりだった。ちょっぴりでも真実をえがいた、ほんものの文学は、ぜったいにもちこまれなかった。外国のりっぱな文学にたいしては、目かくしも同然だった。
 ──そのうえ、おしえかたもまた、文学のほんとうのよみかたとは、およそちがっていた。ことばの解釈だけにおわってしまったり、なかにもられている考えかたや感じかたを、うのみにさせられるだけで、その考えかたや感じかたそのものについて、じぶんたちの立場から考え、批評することなど、おもいもよらなかった。どんなにすぐれた文学だって、すぐれた点と同時に、ふじゅうぶんなところは、いくらでもある。ことに、その作品のつくられた時代が、いまとちがい、作者の生活がわたくしたちの生活とちがうばあいは、考えかたや感じかたのくいちがいは、いくらでもある。すぐれた点をすぐれているとし、くいちがいをくいちがいとして批判してこそ、その作品のほんとうのすがたも、あきらかになってくるのだし、文学をよむおもしろみもわいてくるはずなのに、いままでは、そういうやりかたではなかったのだから、ほんとうの文学を、ただしくよむ方法を、身につけることができなかった。……日本が、いっさいのやばんさをすてて、ほんとうの文化の国、人民の社会として、たちなおろうとしているとき、文学にたいする、こういうやばんな態度は、すこしでもはやくあらためられなくてはならない。(『文学教室』刊行のことば)

 文学教育から一歩しりぞいて、言語教育のいとなみのなかにその教育的良心を貫いた戦前の“抵抗の国語教育”の正しい受けつぎが、そこにある。言語教育から文学教育へ、いや言語教育をふまえて文学教育へ、である(このシリーズの執筆者は、片岡良一・熊谷孝・長谷川鉱平・阿部喜三男・高田瑞穂などの諸氏であった)。
 その他、この時期に児文協の季刊誌『日本児童文学』には、小田切秀雄氏の児童文学者への提言や、川崎大治氏や国分一太郎氏による小学校国語教科書批判、『現実と児童文学』など数編の菅忠道の文学教育への提唱などが掲載されたことを、いいそえておこう。
 こうして児童文学者による文学教育運動がおし進められていたとき、学校教育の面での文学教育は、ほとんどブランクに近い状態だった。そのことは、拙稿『文学教育の理論と実践』(三一書房刊)のあとにそえた『文学教育文献リスト』を見ていただくとよくわかるのだが、これはすでに明らかなように、上からの教育が言語技術主義をたてまえとし、下からの日教組の運動がまた、二・一ストをあいだにはさんで文化運動どころの話ではなかったという、当時の入りくんだ事情によるブランクなのであろう。
 日本文学協会が文学教育への動きを示す以前に、学校国語教育の側で文学教育の面に対する発言をおこなったのは、『実践国語』を中心とした飛田多喜雄氏・輿水実氏などであるが、それも一九五〇−五一年以後のことだった。大ざっぱにいって、それは、多く、『学習指導要領』の線にそって文学教育の指針を示すといったふうなものであったが、しかしそうした発言のあいだから、やはり“言語教育か文学教育か”というふうな問題が疑問のかたちで生まれてきていたことは見のがしえない。
 一九五一−五二年を境にして、児童文学者の側からの発言が下火になり、五二年の下半期以後日文協の活動が活溌になりはじめ、やがてイニシャをとるようになるが、その理由を結論するのはまだその時期がきていないように思う。が、年表を、五〇年(日共幹部追放、朝鮮戦争開始、警察予備隊発足、各種レッド・パージ)、五一年(戦犯追放解除、対日講和・安保条約調印)、五二年(日米行政協定調印、日本全土基地化、講和条約発効、血のメーデー、破防法公布、保安隊発足)とたどってみることで、しぜん何か胸に落ちてくるものがありはしないだろうか。

3 言語教育か文学教育か
 ところで、戦前において、西尾実氏は、

 ──私はかつて、『国語国文の教育』において、読み方の基礎は綴り方であるのではないかということを問題にしたけれども、これは、さらに話し方──教科の一般的な用語にしたがえば──にあると訂正しなくてはならぬであろう。(前出『読方教育論』)

という見解を発表された。読み方の基礎は話し方であり日常的な生活言語である、というのである。こんにちに至るまで氏がこの意見で通してきておられることは、さきごろ『朝日新聞』学芸欄(一九五六年七月二六日)に書かれた『話しことばを改善しよう』を見てもわかる。
 発生論としてはそのとおりなのだけれど、実態論としてはむしろそれと逆の関係が成りたつ場合のあることも考慮されていいと思う。むしろ、読み方・綴り方の成長が話し方の成長を促すという面が、中学・高校と進むにつれて大きくなってきていることは見のがしえないだろう。が、いま、問題はもっと別のところに見いだされる。
 基礎がだいじだし、話し方が基礎であるからというので、一にも二にも話し方の一点ばりで、“話し方のための教材”に偏した教科書の編集をやりだすような傾向についてである。電話のかけ方だの、挨拶の仕方だのというあれなのだが、このかたよりが戦後においていっそう甚だしくなったことは占領教育政策と固く結びついているわけだ。
 そのこと自体はむろん西尾氏とは無関係なことがらなわけだが、しかし戦後多くの国語教育理論家が、アメリカ方式の経験主義・実用主義の言語教育に抵抗感なしにあっさり結びつくことができたというのは、話し方と読み方や綴り方との関係を具体的現実的に考えることをしないで、また何をという、その具体的な内容を切り捨てた非現実的な思考におちこんでいたことと無関係ではないように思われる。
 たとえば、右の『話しことばを改善しよう』というエッセイにおいても、西尾氏は、

 ──新教育に対する批判が加えられるようになって“学力低下”が問題にされ、国語に関しては、「字が書けなくなってきた。文が読めなくなってきた。おしゃべりにはなったが」というような非難があびせられるようになった。……一体、おしゃべりというようなかたよりが生じるのは、話しことば学習の結果ではなくて、話しことばの学習の欠乏によるものである。

というふうな問題の処理の仕方をしておられる。そして、「“おしゃべりにはなったが”というような無理解な批評にあっても……それにたじろいで」はならん、というふうに語っておられる。
 つまり、口の達者な、しかし口さきだけが、という“おしゃべり”が生まれる(生まれた)のは「話しことばの学習の欠乏 によるもの」だというのであって、話しことばの学習のありようそのものの欠陥 は、そこではすこしも問われていない。 わたしたちは、それを次のように考える。何が目的で何について話し合うかという具体的な内容をぬきにして、話しことばの学習を考えること自体がおかしいのじゃないか、というふうに──(第二章・五・1『経験学習と文学教育』、七『誰にでもできる文学教育を』、第五章・一『言語教育の側面から』など参照)。
 ところで、また、戦前、国語科の綴り方指導は技術面の指導に限定した方がいい、というふうな考え方をしておられた国分一太郎氏(前掲『“生活綴方”の運動と“生活学校”の運動』)は、国語教科書に文学の教材は不要だというに近い主張として、そうした考え方をそのまま戦後に持ち越しておられる(『詩について』──日本児童文学』・一九四七年一〇月)。それは、基礎学力を低下させるアメリカ方式の言語技術主義の教育と、同じその片側の面である上からの文化主義の文学教育に対する抵抗のことばなのであろうが、しかし言語教育に屈折することで辛うじて抵抗をこころみた、谷間の時代の経験が身についた習性となってしまっている一面も見のがしえない。
 そういう意味では、戦時中、言語主義の神がかり教育への抵抗として、“その筋”の語ることば よりも、また教科書に書かれてあることがら〈ことば〉よりも、わたしたちがこの目で見、自分の体験によってえた実感をこそ尊重すべきだとし、経験学習への道をえらんだ人びとのあいだから、戦後、アメリカ教育方式一辺倒の経験主義者を数多くうみだしているという関係は、国分氏の場合とは軸がちがうにしても、やはり、“ならい性”のこの習性による一面があるようにも思われる。
 右の国語科を言語教育一本に(?)という考え方は、石田宇三郎氏による国分批判(『国語教育の基本的方向』一九五三年七月)に端を発し、国分氏による反論(『国語教育の実践的課題』五四年三月)と、さらに片岡並男氏(『国語教育の階級的視点』五四年八月)・水野清氏(『言語教育と文学教育――国分・石田論争の発展のために』五五年六月)などの論争への参加によって、問題のありかが幾分ともハッキリさせられたようなかたちである。
 が、国分氏自身、五四年七月に発表した『文学教育の問題点』に至って、国語科以外に文学科を設けたほうがいいが、しかし「現状では、教師たち自身があらゆる創意を発揮して、文学教育を実践」するほかない、という考え方に変ってきておられるようだ。そして、この論稿では、言語教育か文学教育かなどうるさくいわないで、「大きな必要に立って、あっさりと文学教育をおこなえばよい」と語っておられるのだが、右のいきさつを知る者にとっては、なにか割り切れない、とまどいを感じさせられることばである。
 西尾氏が、読み方の基礎を綴り方であるとする考え方を改めて、話し方にその基礎を見いだすに至ったとき、ハッキリとそのことをいい、また考え方の変った理由を人びとの前に発表しておられるが(前出『読方教育論』)、西尾氏のようなこうした折り目正しさにまなぶ必要が、国分氏の場合にかぎらず一般にありはしないだろうか。
 ところで、言語教育か文学教育か?……そこのところから日文協国語教育部会の文学教育への動きが、いわば占領国語教育への抵抗(経験主義としての言語技術主義の否定)として活溌になっていく。
 その起点となったのが益田勝実氏の大会報告(『文学教育の問題点』一九五二年六月)であったが、それは、「いままでの国語教育は文学教育でありすぎた」(『言語教育と文学教育』五〇年)と考える西尾氏から、「ともすると、近年の“言語教育”を目のかたきにしているかのような傾き」として批判されることにもなったし(前出『文学教育の回顧と展望』)、また、時枝誠記氏の発言(『文学教育と国語教育』五二年二月)をアメリカ方式の言語技術主義批判のテーマのなかで相手どったことは、「時枝博士が日本の言語生活教育論者として典型的な学説の所有者であると考えて……相手にしているわけでは」ないという註がついてはいるものの、戦後のアメリカ一辺倒の傾向に対して批判的な立場を堅持した時枝氏の立場を知る者の目からは、やはり適切さを欠いているという批判もあるか、と思われる。


八 問題意識喚起の国語教育

1 起  点
 ひところ論議の中心であった“問題意識喚起の国語教育”論──その起点となった荒木繁氏の『民族教育としての古典教育』(日文協一九五三年度大会報告──『続 日本文学の創造と伝統』一九五四年九月刊)は、現場の実践に裏づけられた画期的な古典教育論であった。祖国に対する愛情と民族的自覚にめざめさせる古典教育をというその所論は、文学教育としての古典教育の、そしてこんごの文学教育の進むべき方向を、わたしたちにハッキリと示してくれた。この大会報告を『日本文学』誌上で読んだときの深い感動を、わたしはいまに忘れない。
 が、その感動が大きかっただけに、わたしとしてはこれっぽっちの疑義も未解決のままに残しておきたくない。それで、この機会にいうのだが、疑義は指導の具体面に関してよりは理論面に関してである。つまり、前に指摘したような鑑賞論とそれにつながる古典の理解の仕方の一点に関してである。
 「古典の場合はいろいろの言語障害があって直接作品を鑑賞する ことを妨げていますので、その場合古語の意味とか文法を説明することが必要になりますが……究極の目標は作品を鑑賞することにあることはいうまでもありません」ということばや、「生徒たちが古歌を鑑賞する場合、自分の生活と結びつけて味わおうとするように仕向け」たということや、「生徒たちが歌から逆に歴史へ関心をもつという主体的方向をとった」という指導の仕方などから察すると、言語障害がとりのぞかれ、主体的な歴史の理解がそこに成り立てば、現代作品に対すると同じ文脈の鑑賞が古典に関しても可能である、という考え方のように思われる。荒木氏の指導した生徒たちが「自分の中にあるものを万葉の中にみつけだしたのではなく、ないもの、失われたものを見出して感動」したというのも、その感動、その鑑賞の軸は右のような文脈における感動であり鑑賞であるように書かれている。が、はたしてそうであろうか。
 問題は、そうした指導の裏に前提され予定されているらしい、古典不滅・芸術永遠の思想である。『万葉』の古歌がわたしをうち、また生徒の心をうった。だから、『万葉』は、げんに、こんにちに生きている。古典は、芸術は民族とともに不滅である、といったような何かを、雰囲気として感じるのだ。あるいは、また、民族の魂を失わぬ人であるかぎり、古典はつねにその人の心に生きつづけている、といったふうな何かをである。
 どうも“感じ”や推測でものをいっているみたいなことになって恐縮だが、もしわたしのこの“推測”が当たっているとすれば、認識の仕方そのものとしては、あの古めかしいアルス・ロンガーの思想を無媒介に受けついで、それをいきなりこんにちの民主民族主義に結びつけてしまっているのではないか、という感じだ。話題の材料が、いま、東歌や防人歌だから矛盾があまり目立たなくてすむが、これが近世や近代の“あきらめ”の系列の文学作品などの場合だと、民俗文学の永遠をうんぬんするのは筋としてすこしおかしいんじゃないか、ということが幾分ともハッキリしてくるように思われる。
 が、古典論・鑑賞論の基本的な問題については、後の『古典教育と第二芸術論』(第二章・六)の項で多少くわしくふれることにして、ここではただ古典の享受をこんにちにおいて成りたたせるもの、古典教育を可能とするものが“追体験の可能”というような、生哲学(=追験主義・形象理論)ふうな理解における“生の自己同一”“アルス・ロンガー”のゆえでないことを指摘しておきたい。過去の文学作品が古典としてこんにちに再創造されるのは翻訳──社会範疇の翻訳によってである。古典教育のいとなみは、一面、過去の作品を翻訳によって、こんにちの学習者に準体験させることであるともいえるのである。
 荒木氏の報告に示された指導の仕方は、明らかに翻訳による準体験への過程を、一歩一歩生徒にあゆませている。自分に「ないもの、失われたものを見出して感動」した、という学習者の受けとめた感銘は、右にのべたような準体験がもののみごとに、そこに実現されたことをもの語っている。それは、けっしてアルス・ロンガー(いわゆる意味の古典の不滅)のゆえにもたらされた感銘ではない。つまり、それはまた、ほんらいの意味の鑑賞がそこに再現したことを意味してはいないのだ。
 鑑賞者の場の規定によってもたらされる、二つの異なった鑑賞の軸を自覚することが文学の鑑賞と研究に、そしてこんごの文学教育のあゆみに新しい展望を提供することになるのだと思う。つけ加えていうと、それに近代主義というレッテルを貼るだけで、第二芸術論をほんとうには批判しえないでいる秘密は、この鑑賞の軸への無自覚にあるといっても、そうたいしてズレはないように思われる。

2 展  開

 ──私の問題提起は次の如く要約できます。
 (1) 話す・聴く・読む・書くの言語教育を、考え、感じとり、新しい精神文化を創り出す、新しい人間形成の教育に延長し、それが新しい文学教育へつらなることを期待する。
 (2) そして、それら諸段階にあっても、文学作品は大いに素材として活用されねばならないが、同時にあまり文学的でありすぎてもいけない。われわれの目的は文学者をつくることではなく、新しい文学をその中から荷ない出す“民衆”をつくるのである。新しい人間と、その新しい人間の新しい社会建設の実践による深い感動をぬきにして、新しい国民文学の誕生はない。
 (3) 文学教育は、現実と対決させつつ新しい文学教育を行なう必要がある。古典作品のとりあげ方も同じ。単なる情操教育や教養教育としての文学教育は害を伴なうことが多い。新しい人間精神の形成をめざせば、文学教育の時間が食われるが、“急がば廻れ”といえようし、わが民族の精神文化の伝統をを継承し克服しようとする場としての学科が他にない以上、国語が他学科と連繋しつつも中心的にこの任務を荷なわねばならないのではあるまいか。
 (4) こうした手続きの上で国民文学の確立をめざす。従って、ここでは歴史科学の道を自然科学の道とならべたが、芸術創造の道も大きく評価して、教育していかねばならない(『文学教育の問題点』・日文協 一九五二年度大会報告──『日本文学の伝統と創造』一九五三年五月刊)。

  右の益田の発言によって代表されるような文学教育への日文協の動きは、荒木氏の『民族教育としての古典教育』に受けつがれ、西尾氏によってそれが“問題意識喚起の文学教育”として方法的に定位されるに至ったわけだが、荒木氏たちが高校の国語教室でおこなったこの問題意識喚起の指導を小・中学校の現場に移して、というところから鴻巣良雄氏たちの現場の実践がはじめられたもののようである。
 今のところ、理論ないしテーマが先行していて、実践の具体例からテーマが提起されるというところまでは一般にまだゆきついていないし、一方、またその反対に、問題の理論的なとらえ方の弱さから、学校文学教育の極致を創作指導に見いだすというような、それ自身前提と矛盾するような結論が現場でなされたりもしている。が、たとえば、相川日出雄氏の『国語教育の仕事』(教師の友・一九五五年六月)や藤井亨蔵氏の『文学のちから』(講座日本語・第七巻)、川越怜子氏の『たえざる成長のために』(同上)などを読むと、現場に腰をすえて、じっくりと子どもたちの指導をととりくんでいる教師こそ、すぐれた文学教育の実践者であることが知られるのだ。

* なお、問題意識喚起の文学教育とは?……という点については、第一章・一〇・1『理論的と実践的と』、第二章・五・3『生哲学と文化主義』などの項を参照していただきたい。

九 文学教育の到達点──日文協・一九五四年度大会報告をめぐって──

1 文学と文学教育、その独自性
 
「今日のこの大会で、文学の独自性の問題が十分に問題になりきらないで終ってしまうのは残念だ」という意味のことを、総合討論も終りに近い大会の幕ぎれのところで永積安明氏が語っておられたが、同感である。 それは、「国語教室でやる以上は社会科でやれないような仕方で、つまり文学教育としてやらなければ、何のために国語の教育をやるかという意味が出てこない……ところがその問題が十分発展されないままに終ってしまった」(永積氏)という点、「文学教育でなければやれないような文学の特殊性」(同上)について不十分なかたてできか討議がおこなわれなかった、という点である。
 大会を傍聴していて、また大会報告(1955年11月刊)を読みかえしてみて、わたしもそれを感ずるのだ。
 つまり、討議が噛み合っていなかったのだ。討論が噛み合わないまま、そしてそれのどこがどう噛み合わないのかと言うことが確かめられないまま、ズルズルと問題の方向がそらされてしまっている。このロスは大きい。そこを明らかにすることで、指導の実際面に関することがらも、もっと具体的なかたちで浮かびあがってきたに違いないからである。。「時間の都合上、さきほど“文学の特殊性”の問題を切って進行してしまったので、よけいにこの議場にそれが論じられなかったかも知れません」と西尾実氏(議長)も語っておられたが、まずはそのとおりである。
 が、討論が噛み合わなかったとはいうものの、だからまた、発言が一方的なものに終ってしまっている嫌いがあったとはいうものの、独自性の問題がそこに提起され、そこの追究されたということの意義は大きい。加えて、そうした問題の追究が、たとえば森山重雄氏によって、「文学以外では得られないもの、文学を手段とするのではなく、文学を通さずには得られない、そういう独自的なもの」の追究というかたちにまで整理されていったことは、すばらしかった。
 もっとも、右の「文学を手段とする」うんぬんの“文学”というのは、むろんたんに“文学というもの”あるいは“文学ということ”をさしての“文学”ではなくて“文学作品”のことであろうし、またそういうふうに理解することで趣旨が生きてくる。
 文学を手段とするというのが“文学的思考による”ということならいいのだが、たんに文学作品を素材として──というより、その作品の筋書きやら結論めいたことがらを手段に使って、文学以外のどこかへ読者をつれ去ろうとするような指導が文学教育(しかも進歩的 な文学教育)の名を冠しておこなわれている折柄、森山氏たちによる右の整理はそれとして大きな意義をもっていた。文学教育とは、けっきょく、文学的思考への、また文学的思考による教育にほかならないのだから。ゆたかな文学的思考にささえられた、すぐれた論理的思考力、そうした実践的な思考力をつくりだすいとなみが文学教育にほかならないのだから。

2 教育的機能と文学機能と
 当然、文学教育にあっては、文学作品は文学として扱われなくてはならぬのである。「文学の教育的機能というのは、形象を通じて……感ずる」ことであり、「そういうことから意識が変ってくる」ことだと荒木繁氏が語っているのも、そのことだろう。
 そこで、作品を読む、読ませるということが、文学として(つまり形象を通じて)読む・読ませるということであるのなら、たんに字づらにあらわれた“結論”ではなくて“結論”にいたる道筋・過程が、むしろ、おもく見られなくてはならない。過程にたいする理解──感動のありようや、その方向・度合、そうしたことで何が結論かという、結論の内容も違ってくるからだ。文学作品の主題は、いわゆる“結論”にあるのではなくて、むしろ“過程”に求められる。文学の認識(=表現)にとって、結論とは、むしろ過程のことである。永積氏が、
 ──“人形の家”を説明するときに、ノラが家出をする。その前に自殺までも決定したり、非常に悩み苦しんで、その結果ノラが家を出ていく。その過程を抜きにしては家出の問題は出てこないわけです。そういうことを抜きにして、いきなり家出を裁判所の問題にすることは、これは文学教育ではないと私は思う。

と語っておられるのも、その点にふれてであろう。また、磯貝英夫氏が「文学教育のやり方についての試案」として、「作品のなかから抽象された問題を、抽象し放しでなくて、もう一度われわれの現実の場に帰してくる操作の必要」を確認しなくてはなるまい、と語っておられらのは、右の関係にふれつつ、さらに問題を文学(=典型の認識)と文学教育の方法のもっとも基本的な地層にまでほりさげたものであった。
 と見てくると、文学と文学教育のこの独自性の問題も、討議の道程においては、ときどき、肩すかしを食ったみたいな恰好で軌道の外へハミだしながらも、方向だけは結構うちだしたということになるのだろう。
 さっき引用した荒木氏の発言のなかにもあった“文学の教育的機能”ということだが、この点についても「去年以来の問題意識の喚起と結びつけて」考えた場合、「それは文学の教育的機能と考えるよりも、むしろ文学機能と考えるべきではない」か、「教育的機能と考えられないこともないが、そう考えてしまうと、少し混乱するおそれ」があること、むしろ「文学機能に立脚した教育」として文学教育を定位すべきこと、大体それに近い整理が西尾氏によっておこなわれている。“問題意識の喚起”うんぬんの問題については別に考えるとして(第一章・三・2『西尾実氏の所論とその批判をめぐって』、第二章・五・3『生哲学と文化主義』など)、文学教育を、文学の教育的機能にそくした教育とする一般の考え方をこえて、「文学機能に立脚する教育」とする氏の規定の仕方には、わたしも賛成である。教育的機能というふうなことをいうのなら、それは何も文学にかぎったことではないからだ。そこで文学独自の教育的機能というのは、文学独自の性質や機能からみちびかれてくるところの、ナマナマしく相手の感動を呼び起すそのはたらきのことである、などというのは、これはナンセンスだ。
 西尾氏のことばを承けて、森山氏もまた、そこに「文学の文学的機能と教育的機能というのは結論的には一つだと思う」という整理をおこなっておられる。が、この発言のかぎりでは(つまり氏のことばを前後の文脈からポツンときりはなした形でみてみると)せっかくの西尾氏の提案をちょっと後へひき戻したという恰好だ。結論として同じなんだからどっちでもいい、という問題ではこれはないだろう。
 けれど、氏の発言がそうした形のものになっていったのも、問題意識喚起うんぬんの問題についての西尾氏独特の整理の仕方とからんでそれが提案されていたことによるのだろう。問題のかぎりでは、しかしだから、右の西尾氏の整理・発言がこの大会の結論だというふうに考えてよいのではあるまいか。
 
3 未解決に終った問題
 “問題意識の喚起”については、前年度におけるこの問題の提起者としての立場に立って、西尾氏自身、まずはじめに、

 ──小学校、中学校、高等学校を通じた文学教育の方法としては、その作品の理解、評価ということとは別に、生徒自身に喚起された問題意識をどう指導したらいいかということを、新聞の三面記事として扱うことだなどときめてしまわないで、、鑑賞指導の問題として考える問題であると思います。

という見解をハッキリとうちだしている。
 これに対して、森山氏は、「文学は……読む人にどこで結びつこうと、直接日常的な場で結びつかなくとも質的には結びついている」だから「質的な結びつきというのを問題意識と考えるなら現象的な結びつきだけを問題意識と言う必要はないではないか」というのだが、西尾氏はただ「わたしは作品によって喚起された生徒自身の問題そのものを取り上げるのが問題意識の指導だと考えます」という答を繰り返すだけである。
 次いで、言語教育と文学教育との統一の問題についても、

 ──言語教育を目のカタキにしたような文学教育はほんとうの文学教育じゃない。少くとも国語教育の歴史的な発展からいうと、方法であれ、言語技術であれ、そういう言語教育に対する愛情がなくて、ほんとうの文学教育ができるか。こう割り切ってつぎの問題に進みたいと思います。(西尾実氏)
 というようなことで終ってしまっている。もっとも、議長のこの整理の仕方に対しては、それを「承認できないわけではないのですが」という鈴木敬司氏の発言を手始めに、平田与一郎氏や益田勝実氏あたりの発言がみられたが、それもしかし、言語教育も文学教育も人間形成をめざしているという点では目的は一つだ、というふうなことで終っている。
 現場に直結した問題として注目されるのは、「作品に感動しなかった子どもの処置」をどうするか、という大島和雄氏の発言や、国語科のワクにばかりとじこもっていないで、社会科や外語科などの他教科との協力によって「文学教育の方法を打開」していこうという益田氏や鴻巣氏たちの提言などであった。
 益田氏たちのそれは、こんにちの教育の現場の実情にそくした問題提起になっていたし、また大島氏のそれは、ひろく現場教師の声を代弁したものになっている。それにあわせて、文学教育が「非常に特殊な先生でなければできない」ようなものであっては意味をなさぬ、という菅忠道氏の指摘は傾聴にあたいするものがあった。


一〇 若 干 の 補 足

1 理論的と実践的と

 既に述べたように、文学教育のいわば内側の問題として“問題意識喚起の文学教育”のそれが未解決のまま、こんにちに持ち越されている。それは、西尾実氏にしたがえば、問題の位置づけとして「小学校、中学校、高等学校を通じた文学教育の方法」の問題であり、「鑑賞指導の問題」である。いいかえれば、「作品の理解、評価ということとは別に、生自身に喚起された問題意識をどう指導したらいいかということ」なのである。(第一章・九『文学教育の到達点』参照。)つまり、それは現場に直結した、指導当面の問題なのである。
 外側につながる問題としては、言語教育と文学教育との統一をどこに見つけるか、また、他教科や一般学校教育活動(たとえばホーム・ルーム、クラス経営、クラブ活動、図書館活動、PTA活動など)との関連のそれなどが、やはり手さぐりされている段階である。(同上、第一章・九 参照。)
 第一の点については、その後益田勝実氏によって、「問題意識を生むための作品と考えられる西尾氏の場合と、問題意識によって作品をよむと考えられる荒木氏の場合は、いってみれば正反対」という整理がおこなわれ、
 ──作品と生徒だけの関係をクローズ・アップしないで、クラスという、教師もいれば級友もいる集団の場で、集団が問題意識に貫かれて作品とぶつかっていく点こそたいせつではないでしょうか。……読む文学教育一本勝負というようにならないで、大きく構えてすすみたいものです(『しあわせを作り出す国語教育』――日本文学・一九五五年八月)

 という意見が結論的にうちだされた。幾分とも方向感覚だけはついてきた恰好だが、何を問題意識と考え、したがってその指導をどう内容づけるかという点での両者の考え方の相違(──それは究極において認識論的立場の相違にほかならないが)を、これではまだ統一したことにはならない。
 そこで、今となっては現場の実際面から実践的に解決していくほかないではないか、というような声も出てくるわけだが、そしてそれは確かにそのとおりなのだけれど、理論的につくすべきところをつくさないでおいて、今それを口にすることは、理論放棄の経験主義へ横すべりしていく危険がある。
 あえていうが、このていの問題を方向的に処理するぐらいの基本方式は、いわば公式として、すでに過去の理論的成果が用意してくれている(第一章『問題史的展望』一〜七章参照。)そうした理論的成果を十分にふまえ、それを実地に検証してみたうえでの不信から(自分なりの仮説をそこにたてて)、“実践的”にというのならわかる。が、今のはそうじゃない。受けつぎが不十分にしかなされていないのに、「既成の理論ではどうにもならんから実践でいこう」というのは、これは逆に非実践的である。理論はほんらい実践のためのものだ。理論にみちびかれない実践というようなものはどこにもない。
 手がかりもつけないでおいて、それで後はめいめいで処置しろといわれても、現場はどうしようもないのである。教育ジャーナリズムのうえではコテンコテンの『学習指導要領』や『学習指導法』が、しかし現場の実際面へ出ると大きな顔をしてのさばれるというのは、あながちにそれが権力を背景にしているからだけではない。一見具体的に見えるような、いちおうの指導理論を用意しているところが、それの強味なのである。
 理論的追究を放棄して実践、実践というのは、これは問題回避である。これではせいぜい、現場の個々の経験をアトランダムに(それもじつは一定の先入観にしたがって)並べ立てるのが落ちではないか、と思われるのだ。
 以上が一つ。

2 文学教育の基礎科学は何か
 第二に、言語教育と文学教育との統一の問題については、その後たとえば斎藤秋男氏などによって、新中国のカリキュラムにまなぶというようなかたちで、解決への一つの方向が示唆されてもいる(『国語教育のカリキュラム』──講座日本語・第七巻)。それは、たとえば、日本の教科編成における国語科にだいたい相応する中国の語文科が、現在、「それぞれの独自の任務」にしたがって言語科と文学科とに分離されようとしていること、しかもその分離は、「この二つの学科の一定の共同任務」「言語と文学との密接な連繋」の確認のうえに立ってのそれであることなどの指摘であった。
 つまり、言語教育と文学教育との機能や任務をバラバラな仕方でバラバラに理解していたのでは、教科の分離も独立もありはしない、ということだろう。
 ところで、語文科の内容は、かならずしも“国語科”のそれと同じではない。中国には社会科という教科がない。一年から四年までは、語文科が歴史・地理・自然の要素を担当するのである。そこで、むしろ「わが国の現状」からいっては、「社会科と国語科(社会科学の基礎としての言語学という観点から)の研究、その過程で文学教育の場の位置づけ」をおこなうべきだ、というのが、そこでの氏の結論的な意見であった。
 問題の現実的な解決の糸口は、だいたいこの方向をたどることでつかめる(というより、つかむほかない)ように、わたしもまた考える。が、疑問は、言語学の観点からしてその「研究」が尽せるか、という点である。ここにいう言語学が、旧来の既成の言語学を意味していないこともよくわかるつもりだ。が、それにしても、文学教育の場の位置づけというところに問題をしぼるのだとすれば、文学や文学教育の問題は言語学によってつくせるとは考えられない。
 右のわたしの疑問は、同時に中国における語文科分離の基礎にある考え方への疑問につながっている。言語科の基礎となる知識体系が言語学という科学であり、文学科のそれが文学という「一種の芸術」であるとする、その考え方への疑問である。おそらく、文学科の基礎を言語芸術としての文学と考えるところから、それを原理的・方法的にコントロールする科学として言語学をそこに考えるということになったのだろう。が、言語科をささえるものが言語現象そのものではなくて言語学であるように、文学科のささえも文学現象でなくて文芸学 である。
 いま文学教育の場の位置づけをおこなうにあたって必要とされるのは、だから言語学的観点であるよりは、文芸学的視点である、というふうに考えられるが、どうか。
 第三に、他教科や読書指導一般・一般学校教育活動などとの結びつきの面についてだが、これは別に、第三章・三『文学研究と文学教育』および第四〜第七章の各項において考えてみることにしたい。

頁トップへ


第二章 課題と方法

一 新しい課題の自覚
     ――文学教育がめざすところ――

        
1 内面と環境
 『雪どけ』をお読みになっただろうか?
 問題になった作品であるし、お読みになられた方もきっと多いと思うが、去年、新潮一時間文庫から翻訳出版された『雪どけ』という小説は、この作品の書かれたソヴェトでは評判がわるく、反対に、日本のジャーナリズムではたいへん受けがよかった。
 ソヴェトの批評家たち――たとえばスルコフなどのひそみにならっていうわけではないが、わたしなんかも、これはやはり失敗の作ではないかと思うし、だから、そのじぶん、新聞や雑誌書評が筆をそろえて、ベタボメにほめあげているのには首をかしげさせられたことだった。
 あちらで貶しているから、逆にこちらでほめそやす。この作品をほめあげることで、これまでのソヴェトの小説のくだらなさを暗示する。
 まさか、そんなこともあるまいが、これまでソヴェトの小説にたいして、ずっと一貫して無関心な態度をしめしてきている文壇ジャーナリズムが、この作品にかぎって、それが翻訳出版される前からさわぎたてていたというのは、どういうことなのだろうか? (たとえば、某大新聞の場合についてみると、いつもは二月おくれ三月おくれの慎重な書評をやっているこの新聞が、この本の発行と同時に、その書評記事を大きく掲げた「従来のソヴェト文学を打破し異常な問題を提起した本書は……」ちなみに、これは出版社の広告宣伝文である。)
 なにしろ『雪どけ』の作者は、従来のソヴェト文学の創作方法について、かなり基本的な点で疑問を提出しつづけてきている、第一線の作家である。今のソヴェトの小説には、人間をその内側からきりはなして扱っているような拙劣な作品もすくなくない、つまり、そこでは、生きた人間が描けないでいる、というふうなことを口にしている人なのだ。 人間を、その内面と環境とのわかちがたい動的な統一においてとらえる、そうした統一において生きた人間をえがく、ということが、つまりこの作家のイデーなのだし、そうしたイデーや、そうした方法の、現実の作品のなかでの実現ということこそが、『雪どけ』というこの作品において意図されていた当のものであったわけだ。
 ところが、それが失敗に終わっているのだ。内面とのつながりに目を奪われた結果、かんじんの環境とのつながりを見失ってしまっている。
 「人間は、環境から引きはなされれば、もう生きものではなくなる」と、この作者は、別のところで語っているのだが、しかし人間はその内面からきりはなされがちな、これまでのソヴェト文学のかたよりに意をもちいすぎた結果は、環境とのつながりが稀薄になり、またそれの当然の帰結として、人間内面とのつながりもほんとうは見いだしえないでいる。
 それが、この『雪どけ』という作品なのだ。
 だから、ヘンにこの作品をもちあげるのは妙なものだし妙なことになってしまう。そうではないだろうか。が、それはそれとして、『雪どけ』の作者エレンブルグが、この作品の発表にさきだって発言し提言していることばには、傾聴すべき多くの示唆がふくまれているように思われる。たとえば、一昨年の秋ごろだったかと思うが、『中央公論』にその訳稿が掲載された『文学について』というエッセイである。
 
2 女がそんな口のきき方をするものではない
 エレンブルグは、いっている、  

――ソヴェトにも、外国の友人たちのあいだにも、気短な人がいて、すでに何もかもできあがったソヴェト国民は完全な人間で、完全な文学をもっている、などといいたがる人があります。しかし、それは真実ではありません。政治体制を変革するのは、人間の意識を変革することにくらべれば、まだしも容易で短日月でできることです。そして、わたくしがある作品のなかで申しましたように、《家を建てるのに屋根からはじめるわけにはいかない》のです。……
と――。
 ひいきの引きたおし的な、ソヴェト一辺倒の評価を、この作家は、きっぱりとしりぞけている。好意的な、しかしそのかわり気短な、そういう人たちの考えているほど、ソヴェト文学が高い水準に達しているわけではない。「ソヴェトはまだ偉大な文学、ほんとうにわが国やわが国民にふさわしい文学をうみだしてはおりません。」それどころか、「ソヴェトのくだらぬ小説をとってみれば……人間が環境からではなくて、自分の内面からきりはなされている」のだ。   
――つまり、その人間はたしかに工場にはたらきにいき、第一級のスタハノフ労働者になります。そして、ある女と出あい、彼女に《君はよく仕事するね》というと、女は《二人でいっしょに仕事すれば、もっとよく仕事ができるでしょ》と答える、といったぐあいです。こういうことが第一章で起こり、第二章になると、もうオギャアオギャア泣く赤ちゃんがいます。これでは、赤ちゃんの存在することも、仕事のことも、ほんとうとは思われません……
 というのは、「自分たちの社会を知っているわれわれにとっては、この人物が生きていないことがわかるから」だ。「男が女にそんなふうには話しかけるものではありませんし、女がそんな口のきき方をするものではありません。」
 そこには、こしらえものの恋愛があり、生活からきりはなされた労働の面がしめされているだけだ、とエレンブルグは語っている。
 
 ここまで彼女の文章をたどってきたとき、わたしの胸に浮かんだのは『ベルリン陥落』や『金星勲章の騎士』といったソヴェト映画のラヴ・シーン、ラヴ・アフェアの扱い方についてであった。
 正直のところ、わたしはあっけにとられた。そこでおこなわれてヒトラーの戯画化は、ファシズムにたいするソヴェト人民の怒りと憎悪をしめすものなのだろうが、しかしヒトラーを、あんなふうにただのオッチョコチョイとして演出したのでは、ファシズムの正体をバクロしたこになるのかどうか。が、それにはまた別の解釈も成りたつかとも思うが、いただけないのは、その“恋愛”である。
 何やかや、すべてがあまりに単純であり、あまりに素朴にすぎるのだ。単純でも素朴でもかまわないが、ウソがあるのだ。意識しないウソが――。それは、悩みをしらぬ人間のいとなみである。
 もっとも、悩みをしらぬ恋愛というのも、うなずけないことはない。ハムレットの悩みや間貫一の悩み、あるいはまた真知子や春樹たちの悩みを悩む必要のない時代と社会がソヴェトに実現しつつあるということは、わたしにもわかる。
 それはよくわかるが、しかし恋愛は人間のエゴにつながる感情体験である。社会的なものではあるが、たんに環境的なものではない。それは、奥深く人間自我の内面につながっている。
 また、恋愛感情はたんに個人的なものではないが、しかも個人的なものなはずである。個人的なよろこびを味わうことのない恋愛というようなものが考えられないように、個人的な自我内面の悩みをともなわない恋愛というようなものはありえぬのではないか?…… が、わたしのこの疑問は、エレンブルグのことばによって、半ば以上解消した。   
――おなじ政治的イデオロギー、おなじ願望をもっているというだけの理由で、だれもかれも似ており、みんなおなじ性格のものだと考えるのは、阿呆だけです。
 そして、  
――男が女にそんなふうには話しかけるものではありませんし、女がそんな口のきき 方をするものではありません。
 そこに、こしらえものの恋愛しか描かれていないというのは、つまり“ことば”が真実を伝えていないということ、それが文学のことばになりえていない、ということだ。それは、むろん、リアリズムではないし、かといってロマンティシズムでもない。文学以前の現実、しかもウソの現実、現実とは反対のもの、他愛ない幻想があるだけである。
 現実が、つまり人間が、描けていない、ソヴェト文学はまだおさない、と、あえていってのけたエレンブルグの謙虚さに、ふかく心うたれたことだった。

3 偉大な読者の創造
 ところで、こんなふうに謙虚になれるというのは、よほど自信のある人間の場合にかぎられる。そうではないだろうか。
 エレンブルグは、しょんぼりと首うなだれて「われわれの文学はなっていない」といっているのではない。そうではなくて、むしろ胸を張り、一つ一つのことばに力をこめ、そしてじつにきっぱりとした調子で、右のような自己批判をおこなっているのである。
 現在のソヴェト文学はまだおさない、けれどそれは明日えの成長を約束された文学だ、と、彼は語っている。なぜなら、偉大な文学をうみだす基盤が、われわれのところでは、今まさに成熟しようとしているからだ、と――。
 つまり、揺るがない明日への確信が、右のような謙虚な自己批判をもたらしているのである。だから、彼の謙虚な態度にうたれたといったが、そういうわたしの気持をもっと正確にいいあらわすと、強い自信に裏づけられたその謙虚さに、ということにもなるのであろうか。

 こうしてエレンブルグに深い自信をあたえるものは、なんだろう? ソヴェトにおける文学の基盤の成熟という、その“基盤”というのは何をさしていうのだろうか?
 ソヴェトはまだ偉大な文学をうみだしていない、ということばにつづけて、エレンブルグは、  
――わたくしは、そっちょくに申します。……ソヴェトはすでに、偉大な文学が次には生まれてくるだろう基盤となる読者をつくりだしました。と申しますのは、全国民によびかける芸術としては、この根底の基礎なくして、こんにち国民の要求にこたえる偉大な文学が存在しうることは考えられないからです。
 と語っている。偉大な読者だけが偉大な文学をうむ。この根底の基礎なくして。――そう、文学の唯一の基盤は読者である。  
――わたくしは、むしろ、これら読者たちのほうを、自分の作品や同僚たち、ソヴェトの他の作家たちの作品よりも、自慢に思います。
ということばは、だからうなずけるではないか。そして、さらに、  
――ここで申しあげておきたいと思いますが、ソヴェトの読者の水準は、過去と比較すればずっと高くなっています。二十年ほどのあいだは目に見えなかったことですが、現在では仕事の成果が感じられます。ソヴェト国民に現在よりよりよい暮らしをさせている物質的な富ばかりでなく、各人の内面的なゆたかさが、積み重ねられているのが感じられます。
と語られるとき、それは“偉大な読者の創造”という、ソヴェトにおける文学教育の成功と勝利が、そこに同時に語られていることになるのである。

4 文学教育の季節
 「家を建てるのに屋根からはじめるわけにはいかない」という比喩は、新しい文学の創造と読者との関係を語るそれとしては、あるいは隙間のありすぎることばなのかもしれない。が、やはりつかんでいるなと思う。カンドコロははずしていない。
 偉大な読者の創造ということ、幅と厚みのあるすぐれた文学的思考力の身についた人間に国民を育んでいくということ、そのことこそが、やはりわたしたちの、今のわたしたちの、じっくりととり組まなくてはならない仕事ではなかろうか。すくなくとも、そのことを抜きにしては、新しい文学への期待もなにもないように思われる。《家を建てるには、まず土台工事からはじめなければならない。》
 いまは《文学教育の季節》である。

 わたしたちのところでは、とかく事が性急にはこばれがちである。すべてが性急に、あんちょくに片づけられてしまいがちなのである。ノーかイエスか、右か左か、というわけだ。いまは文学教育の季節だといえば、それでは創作のことは考えなくともよいのか、というようなことにもなりかねない。
 が、むろん、そんなはずはないのであって、すぐれた文学作品がすぐれた読者をつくるのだし、また、すぐれた読者がすぐれた文学表現をつくりだしていくのである。それは、いわば、相互規定の関係に立っている。けれど、ともすると忘れられがちなのが、読者の存在であり読者の積極的な役割である(第三章・一・6『実感の分析』の項参照)。
 わたしたちがせっかちになりやすい、というのは、またそれ相応の現実的な理由のあることなのだけれど、こと芸術や文学に関してだけは、いくらあせってみたって、五年十年でどうというわけにはいかない。それこそ、屋根からはじめるわけにはいかないのだから――。屋根と土台。土台である読者を抜きにして、新しい文学をうんぬんするのはナンセンスである。
 もう一度エレンブルグの言葉を援用すると、「作家が書くのは、かならず読者のため」だ。また、書くというのは「作家の頭にはいってきた他者〈読者〉の生活」を書くということにほかならない(作家の頭に? むしろ、作家の胸に、であるが)。だから、文学の方向と水準を決定するものは、究極において読者の生活のありようとその要求水準の高さ・低さである、ということになろう。
 したがって、また、新しい文学や新しい文学表現をうんぬんする場合は、現実の読者がどういう地点をいまどういう方向にむかって歩いているか、ということを見きわめなくてはならないだろう。文学は、そして文学の作家は、読者とともに、――これが新文学の進路である。
 それをなまじ“読者をひきあげる”というようなことを考えることは、――そういう思いあがりが、つまりこれまでに教師くさい、観念のさき走った、説教口調の、文学以前の作品をいくつもいくつもつくりだすことになったのだ。そういう調子の作品、そういう調子の表現に、もうわたしたちはあきあきしている。
 まず、読者の先頭に立つことのむずかしさを知ることである。
 読者の先頭は、そしてすでに作家の隊列をぬいている。そこに、こんにちの文学のまずしさがある。それと同時に、新文学への期待もまたその点にあるわけだ。屋根と土台、である。けれど、作家の隊列を抜いたとはいっても、文学的思考力(――準体験的な認識の仕方)において、とはいいきれぬものがある。
 いまは文学教育の季節である、とわたしがいうのも、一面、右のような理由からである。

5 集団制作とサークル活動
    ――文学教育への期待――

 文学の作家は、読者の心と心を相互に媒介し結びつける。Aという読者のおもいをBという読者につたえ、BのおもいをAに訴える。これが、そしてこのことだけが作家に与えられた、また許された唯一の任務だということになるのだ。
 作家の語ることば(――文学の表現)は、究極において読者その人のことばにほかならない。読者の心を心とすることにより、自他の体験のふれあう面において、作家はこの媒介者の任務をはたすのである。
 たとえば、ゴーゴリが『検察官』や『外套』などの作品において表現したものは、右に見てきたような意味での読者の心、民衆の内面の要求である(民衆とは、作家にとって直接的には読者のことだ。可能性における読者をふくめて、読者のことである)。
 ボロボロの外套を身にまとい、栄養失調に黄色くむくんだ顔をした小役人アカキ・アカキィヴィッチ(『外套』の主人公)のすがたは、その善良さと愚鈍さ、小心翼々としたその生活態度や、日常生活においてしめす鈍重なまでのその粘り強さ等々の性質において、民衆のすがたをディテールにわたってよくあらわしている、が、それはまだ外面のすがただ。外面から観察できる民衆の日常のすがたにすぎない。
 幽霊になったアカキィヴィチの行動とそのことばにおいて――外套を奪われ嘲られて死んだアカキィヴィチは、幽霊になって上役につかみかかるのだ――、わたしたちは、はじて、民衆の内にひそむ、大きな怒りに接することができるのである。  
――きさまは、よくもおれを侮辱したな! その外套をおれによこせ。それは、おれには必要なものなんだ。
 すばらしいリアリズムだと思う。死んだアカキィヴィチにいわせたところがリアリズムなのである(このセリフを、生きている彼にいわせたとしたら、ウソになる。生きているかぎり、口を糊しようとするかぎり、ただ、黙々と働きつづけるほかない帝政ロシアの民衆だったのだから)。
 が、それを口にし行動にあらわさずには、死んでも死にきれない気持。そこで、彼を幽霊として再登場させたところがリアリズムなのである。と同時に、それはまた、明日の民衆のけっ起を語る、すぐれたロマンティシズムとなっているのだ。
 そうしたすばらしい仕事を、ゴーゴリは、読者(革命的インテリゲンツィアや労働者・市民等々)にささえられ、彼らとともにあゆみ、かれらの先頭に立つことによってなしとげたのである。

 くりかえしになるが、わたしたちのところでは、判断が性急なものになりがちである。近代主義の克服を語り、日本近代文学の植民地性を口にすることで、そこから何を受けつぐべきかは考えないで、半世紀の余にわたるこの文学遺産・文学的体験の蓄積を、いっきょに向う側へおしやってしまおうとしたりもするのである。
 また、職業作家に期待がもてないからといって、職場や農村・居住の文学サークルのシロウト作家たちに新文学(――新しい文学表現)を直接期待したり、その集団制作に過大で過重な直接の期待をかけたりもしがちである。
 そして、たとえば『生きる』なり『日本人労働者』なり、そうした性質の作品の反響がかなり大きかったというようなことで、わたしたちは、自分たちの期待する気持に一種の安心感をもたせたり、また適当に満足感を味わったりもしがちなのだけれど、一般にそれらの作品の表現がしめす新しさが、“新人への期待”やら“シロウトへの興味”といったハンディキャップなしに一人前の文学表現として成りたつような文学的達成の裏づけのあるものなのかどうか、もう一度考えてみなくてはなるまい。
 というよりは、むしろ、その新しさの方向についてなのだ。“達者になる”ことで、けっきょくは薄汚れてスリ減っていくような“新しさ”であったりしては、なんにもならない。
 シロウト作家への過大な要求や期待は、まかりまちがうと、少数の半クロウト作家をつくりだすだけのことに終りかねない。げんに、職についていたのでは書けない、といって、職場をはなれサークルをはなれていった人たちもいる。これではサークル活動の意味も失われてしまうだろう。
 それが一種の“作家と読者との交流”であるという点で、集団制作への期待は大きい。が、そこで、もしも、ジャーナリズムへのアピールというようなことが目的にされていたとしたら、おしまいだ。むしろ、それのもつ新文学への実験試作的な意義や、新文学のための新しい基盤をきずくことの意義において、サークル活動やその集団制作活動が評価されるべきだと思う。
 それでたとえば、サークル“広場”の同人諸君が「わたしたちが生活記録や詩に自分のおもいを彫琢するというのも、創作それ自体を目的とするものではない」といい、 
――文学との対決をとおしてえた感動を実生活に生かしていくこと、つまり文学的思考力を身につけ……自分たちの進路を手さぐりしている農村青年との内面的な結びつきを深めていく
という点に農村における文学サークルのあり方を見いだしているのは、それがかならずしも唯一のあり方ではないにしても、地に足のついた、サークルの正しい一つのありようを示すもののように思う。さいきん活溌になってきている、教師たちによる創作活動(たとえば『教育』の“教師の文学特集号”などに見られるところの――)のもつ意義の一つも、また右のような点にあるのではないかと思われるのだ。
 ところで、右に見てきたような積極的な姿勢の発言ではなくて、ゲンナリ首うなだれた表情で「こんな悪現実からはすぐれた作品、新しい文学への動きは生まれない」というようなことを呟やく人もすくなくない。けれど、前に見てきた『外套』のような作品は、ある意味ではわたしたちがいま経験している以上の悪現実から生まれた作品ではなかっただろうか。
 悪現実にもかかわらず、偉大な読者(=偉大な民衆)の存在が、あの偉大な作品――新しい文学をもたらしているのである。すぐれた作品、新しい文学表現は悪現実からは生まれない、というのは文学史の事実に反している。
 問題は“読者”である。
 いまは文学教育の季節である、といわなくてはならない。


二 文学的思考と文学教育と

1 文学による教育
 文学教育を“文学への教育”と考えるか、それとも“文学による教育”と考えるかで道順は多少とも違ってくるが、しかし、そのいずれを主にして考えるにせよ、文学教育の意義についてわたし自身、いくぶん懐疑的になっていたことは否めない。

 ――「今のこの時期に、こんなことをやっていて、いったい、なんになるんだろう?」

 端的な例だが、朝、駅前で原水爆反対の署名をした足で学校へいき、学生を前にして『奥の細道』のテキストをひろげたときの、あのチグハグな思いは、これはどうしようもないのだ。「松島や鶴に身をかれほととぎす」――と読んで、ふっと溜息がでる。学生のほうは、もっとつまらなそうだ。
 わたしの懐疑は、そしてきわめて素朴である。その一つは、文学の批評なり享受が文学の創造に対して、はたしてどれだけの意義を分けもつのか、という疑問につながっている。つまり、文学創造における、あるいはそれに対する文学教育の意義なり役割なりというような点だ。
 作家のなりそこないが批評家になって、持って廻ったような作品批評をやる。そうした批評家の批評というものに、わたしは、ほとんどなんの期待も持てないでいる。が、そういう批評家を、さらに一廻りも二廻りもスケールを小さくしたような人間が、教室で生徒を相手にぶつところの文学談義というふうなものは、これは思ってみただけでも、お寒いことではないか。
 それも自分の鑑賞眼や批評眼をひけらかすというふうな無邪気なのはまだいいが、まるでどこそこの決定にもとづいての発言であるというみたいな、判で押したようなような批評の規格品を押しつけるのでは、文学への道を開くどころか、せっかく芽生えようとしている文学への関心も、文学的関心も、根こそぎ刈り取ってしまうことになる。現に筋のいい若者たちの多くは、文学の道を選ぼうとはしない。文学的思考によってものを考えるよりは、直接科学的な思考によって問題と対決しようとしている。そうさせるものが、今の文学教育にはあるのだ。
 それは、文学教育が、すくなくとも結果において、科学的なものの考え方を否定する教育に横すべりしているか、それともたんに科学的な思考に手がかりをつけるだけのものに終っている、ということによる。たとえば『人形の家』や『外套』を教材にして、こんにちの(あるいはその当時における)女性問題や“家”の問題、人間の自由に関するさまざまの問題を考えようと人がいる。女性問題や結婚の問題を、生徒といっしょに考えてみようというので『人形の家』を読むのである。しかし、ハッキリいうが、これは文学教育ではない。
 それは、文学作品のなかに問題をさぐる(文学的思考において問題をさぐる)のではなくて、あらかじめ用意されたテーマと結論に作品を結びつけるという操作でしかない。あえていえば、作品のストオリーをそこへ結びつけるのである。そのことで、予定されたテーマを説明し、あるいは予定した結論の正しさの裏づけとするのである。その場合、そこにとりあげられた問題が、問題そのものとしていかに歴史的・客観的に、またいかに時評的に、科学的に追求され処理されていようとも、それは、たかだか科学的思考への橋渡し教育にほかならない。文学的思考方法というか認識方法というか、ともかく、そうした文学特有の準体験的な認識は、そういう操作のあいだからは生まれてこない。
 文学的思考へと導かれないような、いかなる指導も、それを“文学教育”と呼ぶわけにはいかない。それは、厳密な意味では“文学による教育”とさえいえないように思う。
 が、そうしたものが文学教育であり、またそうした一点にこそ文学教育の究極の(あるいはせめてもの)役割がある、と考えるような人たちが現にいる。わたしは、いきおい懐疑的にならざるをえない。
 けれど、また、そんなふうな科学的思考への橋渡し教育が、結果として文学への橋渡しをもたらすような場合が全然ないわけではない。たとえ少数の生徒ではあっても、またそれが、いかなる意味における興味であるにもせよ、彼らが『人形の家』なり『外套』なりに対して興味を感じ、そのときのそうした興味がキッカケとなって、つぎつぎと小説や戯曲に目を通すようになる、というふうなことも、やはりまたあり得ることなのだ。
 問題の鍵は、むしろ、その辺のところにありそうに思われる。
 つまり、この場合は、思ってもみなかった好結果がということになるのだが、たんにそうした幸福な偶然に期待するのでもなく、むしろ、そのような結果を必然的なものとするためにこそ、“文学による教育”が組織的・計画的におこなわれなくてはならぬのだ。
 知能の程度や知識の程度も、環境も、したがって意識や感覚の点でもまちまちな生徒を六十人七十人ととごっちゃに詰めこんだクラスではいい気な“批評家”たちが空想するような、足並みそろった“文学への教育”など、とうていできる相談ではない。そして、あえていうなら、ハッキリとした問題意識をもったこういう“文学による教育”が、現場の実情からすれば、じつは、“文学への教育”をりっぱに実践している、ということにもなるのである。
 が、もしまた、わたしのこの発言が、雀の涙よりも、もっとちっぽけな、今の教育予算のワクを肯定した発言と誤られるならば、これほど遺憾なことはない。むしろ、わたしがいいたかったのは、現在文学教育の前進を阻んでいるものが、ほかでもない、この非教育的な教育予算の数字に端的に示されているようなある種のバーバリズムの力だ、ということである。
 
2 文学的思考への教育
 で、そんなふうな、意識された“文学にる教育”の場にあっては、たとえ生徒の興味が作品の主題からは遠く離れたところに注がれているようなことがあったとしても、教師はそのことでいたずらに悲観したり匙を投げたりはしないだろう。また、たとえば、『人形の家』の演習が、演習の時間のワクのなかでは単なる離婚問題いっぱんに関する意見の交換会に終ったとしても、あながちにそれだけのことから失敗を結論することにはならないだろう。
 成功・不成功は、むしろ、壁に仕切られたそうしたワクのなかで、どの程度確実に生徒の文学への関心と文学的関心に手がかりを与えることできたか、ということによって測定されることがらなのである。
 同様のことは、いうところの“文学への教育”がかなり徹底しておこなわれているような教室についてもいえることだ。文学作品のなかに問題をさぐる(文学的思考においてさぐる)というこの操作(準体験的認識のはたらき)は、けれどゆきつく究極の地点においては、描かれた人間像のなかに読者が自己を発見し、その主人公なり女主人公の置かれている典型的シチュエーションのなかで、じつはかえって自己凝視をさせられる、ということにほかならない。とすれば、“文学への”この文学教育、けっきょくは読者である生徒や教師自身の、“人間”や“生活環境”あるいは、“現実が”最後には問題になってこないわけにはいかない。
 が、そこまで行きつけるか、また行きついたとして、どこまで問題を掘りさげることことができるか。かぎられたワクのなかで、あるいは一つの単元を終えるまでに、どうでも結論をそこへ持っていかなくてはと考えるのは、おそらくまちがいだろう。まちがっている、いないというより、それは現実に不可能なことだ。納得のいかぬことには人間は動けないし、動かぬものだ。教育の相手は“生きた”人間である。
 問題は、だから、やはり、どの程度確実に手がかりを与えることができたか、である。 そのように考えてみたとき、“文学による教育”の指導過程のある一コマだけをとりあげて、それがまだ“文学への教育”になっていないからといって非難するのはあたらないし、また“文学への”文学教育が、いまだ自己凝視に至っていない(つまり、その意味での“文学による教育”になっていない)という理由で非難するのもやはりあたらない、ということがわかるだろう。
 “文学への教育”と“文学による教育”とは、それぞれが文学教育の側面であって、それらは、教育の対象領域を異にしているのではない。直接的には前者をめざしたところの指導も後者をふくみ、後者を意図したそれも、現実には前者によってささえられている、という関係がそこに見られるのである。
 現場の実践面においては、ところで、曲りなりにもこの二つの側面は統一されている。それが統一されなくては、教室の作業を一歩もさきへ進めることができないからだ。統一されぬまま、チグハグな対立をつづけているのは、現場を離れた抽象的な文学教育論議の部面においてだけである。
 が、いま、文学教育の前進のために必要とされるのは、この二つの側面の意識的な統一と、そうして実践的に統一された立場からの体系的な文学教育の方法の樹立である。
 
3 指導計画の変更
    ――その実践的意義――

 教師が現場で相手としてとりくんでいるのは学生、生徒、児童という、生きた人間である。相手が生きた人間であるということによって、現実の文学教育は、さいしょ指導者によって予定された結論にまでたどりつけないような場合も、まま生じてくるのであった(前項参照)。
 相手が生きた人間であるということは、相手のひとりひとりがそれぞれに異なる環境にそだち、現に異なる環境をそれぞれの仕方で生きている、ということである。ある文学者のことばをかりれば「人間はその環境から引き離されれば、もう生きたものではなくなる」のである。そこで、文学の創作においては「作家は、はじめに、小説の筋についての観念を持つことはできるが、登場人物がいったん生みだされると、これらの人物に予定された行動をやらせることができないとわかる場合もある。というのは、作者に対する作中人物の一種の抵抗があるからだ。人物の性格を変えるわけにはいかないから、筋を買えなければならなくなる」ということにもなるのだ。
 基本的には、つまりそれと同じことが文学教育についてもいえるわけだ。人物の性格を変えるわけにいかないから、ということばのアヤは別として、体験の相違からくる人それぞれの生き方や人柄を無視できないから、筋書を変えなくてはならなくなるのだ。指導の筋道を変えるということが、そして本当の意味で教育的なことであり、実践的なことだということを知らなくてはならない。どうでも結論までもってゆかなくては、というのは、文学教育で教育のすべてをつくそうとする“文学教育主義”へのかたより である。そしてこの文学教育主義が、意識的・無意識的に“文学主義”とよしみを通ずるものであることが、そこに反省されなくてはならない。
 文学だけで人生のすべてがつくされないように、文学教育だけで教育のすべてはつくされない。文学教育はあくまで教育の一環であり、部分にすぎない。おそらく重要な部分ではあろうが、しかも“部分”である。
 国語教室に姿をあらわす現実の生徒は、理数科の教室にも、また社会科の教室にも出席している生徒たちなのである。彼らは、また、一面、アルバイトによって学資や生活資金をかちえている、労働者としての側面も持っている。この子がと思うような、いたいけな少年が、実はまずしい戦争未亡人の家庭の経済的な支柱であったりもする。それを、文学教育だけですべてをつくそうと考えるのは愚かなことである。
 “結論”への到達は、むしろ、各教科相互の緊密な横のつながりと協力による、生徒との人間的生活的な接触によって可能とされる。生きた人間を相手の、そうした総括的・全体的な教育活動のなかで“わたし”に何ができるか、また何をなすべきかということを、ヨコとタテのつながりにおいて深く考えなくてはならない。教師として、また文学教育の担当者としてである。

4 子どもの現実と文学教育
 前にふれた段階的な指導と効果の測定という点についてだが、それをたんに一年とか二年とか、あるいは小学校とか中学校というようなワクで仕切って考えるだけではまだ不十分なのであるまいか。
 “結論”ということばをさっき使ったが、いちおうの締め括りとう意味での最後の目標を、おおよそ二十才前後というところに求めてよいのではなかろうか。ということは、個々の段階にそくした指導目標を設けることが、さまで重要な意味をもたないというのえはない。そうでhなくて、そうした個々の目標をもっと現実的な、もっと確実なものにするためにこそ、それだけの幅をもって相手の成長を見守る必要がありはしないか、ということなのである。
 これはほかの例だが、――女の子がおとなしく“お人形遊び”をやっている。それは、ごくせまく考えれば、いかにも女の子らしくかわいらしく、それに男の子の遊びのように怪我をする心配もないし、母親の手間がはぶけて結構なことのようだが、しかし成人の年に目標を置いて考えるとき、“女らしく”の一点ばりで育てられた彼女は、彼女自身そのときすでに一個の“人形”になり果ててしまっている。
 お人形遊びは、現実には女性の知能を低める教育でしかなかったのである。むしろ、男の子の遊びのような、自分でくふうしたことが、現実の事実と合致しているかどうかを確かめねばならぬような遊びが、女の子にとってもまた必要なのである。
 だから“おとな”の目からの、“らしい”“らしくない”は実は目標がズレていたための“らしさ”に過ぎなかったのであって、事の実際からいえば、”女の子らしく”あるいは“女らしく”させることで、“人間らしさ”を失わせたということが教育的にはマイナスだったわけである。
 つまり、それと同じことなのであって、小学生のときは小学生らしく、中学生になったらまたそのように、という方式の文学教育の指導方法がはたして適切かどうかは疑わしい。
 たとえばの話だが、わたしは、すくなくとも「ひとは十代において何を読むべきか」というようなたてまえから行われる読みもの指導には疑問がある。十代には十代らしい読みものを、ということばそのものには、とりたてて何もいうことはないのだが、問題はそのことばがあらわす内容である。十代は十代らしく、というのは、男の子は男らしく、女の子は女らしく、というあの観念につながるものがあるのだ。
 「ひとは十代において……」ではなくて、だから「こんにちの十代は何をいかに……」でなければならない。
 十代とかティー・エージャーということばが、一般化して使われるようになったのが戦後のことであり、それがアプレということばと結びついて、かなり侮蔑の意味をこめて使われていた(あるいは使われている)ことを思えば、十代の読書指導ということが、直接社会的な意義と意味をもつ、文学教育の実践的課題であることがわかるだろう。
 「ひとは一般に十代において……」のあの方式では、問題はもう処理できないのだ。それは、戦争によって幼年期をスポイルされた痛ましい被害者の“人間”をつくり変えようとする、魂の技師の仕事なのだから。読者を忘れたとき、その作品は宙に浮いたものになるように、学習者の生活の実際を見落した教育は、すでに教育の名にあたいしないであろう。
 だから、“たてまえ”そのものは、そっともとのままにしておいて、そのさきの仕事だけをいくら“良心的”にはこんでも、これはどうにもならぬのである。「文学教育であるからには、年齢相応の適切なよい文学作品にしたしむように仕向けなくてはならない。」それは一応そのとおりなのだが、なにがよい作品で、どういうものがはたして適切なのか――である。よいとし適切と判断する、その“たてまえ”に問題があるのだ。
 小中学生の場合でいえば、講談本へのあの根強い興味を、それをどう向きを変えてさせて本筋の文学への興味に結びつけるか、ということを、わたしもまた考えるのであるが、しかし問題は、まずこれらの通俗大衆小説や通俗読みもののどこがいけないかであり、十代前期のこれらの少年少女たちにとって、どういう作品が現実に“本筋”の作品でありうるかである。たんにスマートさに欠けているからとか、泥くさくてツキアイきれない、というだけでは、これは“お教養ごっこ”を事とする、文化主義者の発言にすぎない。文学教育のしごとは、けれど箱入り娘あいての“お躾ごと”ではない。
 が、これまでのところ、文学教育の指導は、(すくなくとも結果としては)文学にしたしむことが“日かげの花”をいつくしむことであり、文学的であるということは、また現実ばなれのした状況に身を置くことだ、というような誤った印象を一般に対して与えてしまっている。であればこそ、文学にしたしむなどということは“男らしくない”ことだというので、男の子や、男の子をもつ親たちのあいだで文学は人気がなく、その反対に、女の子たちのあいだではすごく人気があるという、奇妙なことにもなってしまっているのだ。
 そういう女の子たちのあいだでの人気というのが、例の少女小説的興味にすぎないことは、あらためて説明するまでもあるまい。
 そうした少女小説的興味、ないし少女小説への興味というのは、ひとくちにいって“女だけの涙の世界”への共感である。母もの小説の少女版にすぎない少女小説へのこうした興味が、ところで、むしろ“少女らしい”好みとして、家庭でも、存外また学校でも歓迎されているということは、例の“らしさ”への願望、良妻賢母主義へのノスタルジアが、それがもはや単なるノスタルジア以上のものとして作用している、ということである。
 また、ちょうどそれを裏返しにしたかたちで、“男の子は男の子らしく”の文脈から、講談・浪曲的ヒロイズムが歓迎され、それをアロハ化した軍国調少年冒険小説が“男らしい”読みものとして、子どもがこれを読むことを、むしろ好ましいこととして親たちに受けとられている現状は、こうした少年版大衆小説の流行が、現実の社会的基盤そのもののなかに深い根をもっている、ということを示している。
 文学教育のしごとがむずかしいというのは、だからたんに、指導の技術をどうするかという技術・技巧の上のむずかしさにとどまるのではない。困難は、むしろこうした悪条件のなかで、子どもたちを引き上げていく――というよりは、この悪現実とたたかってまっとうに生きることのできるような人間に子どもたちをはぐくみ鍛えていく、という点にある。
 だから、このたてまえからは、定評のある童話や文学作品ならどういうものを読ませてもよい、というものではないのであって、相手の生活のありよう(精神の発達の段階と体験のゆがみの程度)に応じた作品の選びが、そこに必要になってくるのだ。それと同時に、また、いま現に子どもたちの読んでいる作品について、(それが好ましい作品であろうとなかろうと)親や教師がともに読んでともに語りあう、という指導が必要になってくるのである。
 それで、ともかく教師なり親なり指導にあたる側の人たちが、文学の“しくみ”と“はたらき”についての認識を確実なものにし、文学享受の意義と役割の大きいことを十分見とおしたうえで本腰を据えてかからないと、今のこの悪現実のもとでは、消極的な妙な文学趣味を植えつけておしまいになる、というような、かえってマイナスの結果をさえ招くことになるのである。そこで問題になるのは、けっきょく教師なり親なり、直接間接にこの文学教育のしごとにたずさわる人たちの“人間”である。教師や親が自己変革することなしには、文学教育の前進はありえない。
 
5 明日の文学を決定するもの
 そこで、いちばん初めにもどって、文学創造に分けもつ文学教育の役割ということだが、文学教育のめざすところは、文学的思考において生活できるような人間をつくり上げることであるはずだ。あえていうが、文学的思考によらなくては、現実の本当のところはつかめないし、人間というものがわからない。つまりは、自分というものもつかめないし、自分の生活の基盤やその周囲のことも本当にはつかめないのである。
 単なる特殊を典型に変え、具体的な形象においてものを見、かつ考えるという、この生きかたこそ、文学教育のもたらすところのものである。それは、他面、すぐれた文学の読者をつくりあげるということである。
 文学教育の意義と役割を、すぐれた読者の創造というこの側面にしぼって考えるとき、しかしそのような“すぐれた読者”を生みだすことが、文学の創造そのものにとって、はたして何ほどのプラスをもたらすであろうか、という疑惑にゆきつくのである。この項のさいしょに掲げた、文学教育へのわたしの懐疑というのも、まさにこのことにつながるそれであった。が、偉大な読者の存在なしにどうして偉大な文学が生まれえよう?* わたしは、いま、そのことに思い至るのである。 
 * なお、この点については、第二章・一『新しい課題の自覚』、第三章・一『認識としての文学』などを参照していただきたい。



三 文学教育の方法を規定するもの

1 文学的思考をささえとして
 ――「私も今だから白状するんですが、正しい考えを身につけていくためには、科学関係の本さえ読んでいればよいと思っていました。しかし、伊藤永之介の“鴉”などを読みますと、百姓のつらさや苦しさがよくわかるのです。私も百姓をしていて、やはりつらいと思うし苦しいと思うんですが、それをどう解決していったらいいか頭うちしていた。“農業問題入門”などを読んで、いくらかは解決の方向をさぐりあてても、実際にやろうと思うとオックウになってしまう。それが“鴉”なんかを読んでいるうちに、しっかりやらなくちゃいけないな、といった気持が出てきました。そうした感激といきどおりのごっちゃになった気持で“農業問題入門”などを読みかえしてみると、前にはわからなかったことが、すこしずつわかってくるような気がするのです。」
 これは『広場』という、東北農村(宮城県遠田郡南郷村)から出ている地方文化サークル誌に掲げられていた座談会記事の一節である。こんにちの文学教育の問題点の一つが、裏面からではあるが、しかしそこにハッキリとうちだされているように思われる。
 つまり、この語り手は、ついさきごろまでは、文学的思考においてものを見、考えるというようなことは実生活的にはむしろ不必要なこととさえ感じていたらしいのだ。「正しい考えを身につけていくためには、科学関係の本さえ読んでいればよいと思っていた」というのである。
 それが何かの折りに『鴉』というふうな農民小説を手にしたのが一つのキッカケとなって、文学的思考の必要と効用を実感しはじめたのだ。また、多少とも文学的思考が身についたものになることで、これまでは自分にとってやはり外側の――しょせんは観念的な思考にすぎなかった科学的思考が、いまや主体内部のそれとして意識にのぼりはじめ、生活の実感のなかにこの科学的思考が生かされるようになった、という、いきさつらしい。
 文学的思考が科学的思考のささえであると同時に、科学的思考がまた文学的思考のささえであるという関係が、この語り手の場合に見られるわけだ。他の側面がささえとなって、この側面がそれのほんらいの機能を発揮するようになる。この側面のファンクショナルな活動が、また逆に他の側面の活動を刺戟すると同時に、その活動のささえとなる、という関係である。一方が他の一方を、そしてまた逆に――という関係において実感のゆがみを正す、というわけだ。
 もっとも、右の発言の範囲だけでからは、科学的思考が文学的思考のささえになっているという後のほうの面は、あまりハッキリは出てこない。が、おそらくはこちらの推定どおりに違いないのだ。この語り手にとって、そのことが自覚的につかまれているかどうかは、いちおう論外として、である。
 そこまでのことは別として、ともかくわたしのこの推定があたっているとすれば、すくなくとも方向としては、もっとも望ましい状態に、いま、この語り手は到達したということになろう。が、この状態にたどりつくまでに、ずいぶんと廻り道をしているという点にこそ、問題があるように思われるのだ。
 ここのところでちょっと楽屋話をすると、じつはこの語り手をわたしはよく知っている。非常な読書家でまた実行家肌の人物だ。二町歩近い耕作反別をもつ標準農家の跡取りで、年輩は、そう、三十を一つ二つ越したというところだろうか。
 文学書にもかなりよく親しんでいるはずのA君――これがこの語り手の名前なのだが――が、しかし究極のぎりぎりのところでは、文学的読書を、余暇を楽しむ、やはり一種の生活のアクセサリーとしてしか考えていなかったわけだ。
 「私も今だから白状するんですが……」というふうな、彼の話のきりだし方も、ここまで話せば納得いくことと思うが、であるとすれば、A君に文学への道を開いた周囲の文学教育の仕方そのものに問題があった、ということになりはしないだろうか。
 “仕方”というのは、ところで、“原理”のことであるし“方法”のことだ。文学を、実生活にはあまり役だたない有閑的・装飾的なお躾ごとの“教養”と思いこませた、文学教育の原理・方法に問題があるのだ。そして非実用的で装飾的なところがそれのネウチだ、という考え方そのものに――なのである。
 右のように、書物や音楽などに親しませることを、単なる“情操”教育として考え、子どもを“日かげの花”に仕上げるような行き方――この文化主義の教育が、今ここで批判されなくてはならぬのだ。
 
2 文化主義の功罪
 いまさら文化主義批判でもあるまい、それはもうとうに批判ずみのはずではないか、と考えるむきもあるかも知れないが、どうもわたしにはそうとばかりは思えないフシがある。
 生まれもそだちもきっすいの文化主義者が、いま現に文化の世界でのさばり返っている。基地問題を語るときにはしかるべくそのように語り、文化・文学の問題に対するときは文化主義者に早替りするというような人たちが、わたしたちの周囲になんと多いことだろう。今日の進歩的な問題意識をもった文学教育にしても、案外に“批判ずみ”であるはずのこの文化主義から足を洗っていないのだ。そうとしか思われないフシがいくつか見あたるのだ。
 たとえば、前の節(『文学教育的思考と文学教育と』)でふれたように、文学教育の究極の役割を、科学的思考へと相手をみちびく橋渡しの手段と考えているようなのが、その典型的な実物見本である。文学ほんらいの教育性による教育について語り、文学教育の意義と役割の大きいことについて語ってはいるが、それもたんに橋渡しの手段として高く評価しているだけのことだ。
 それは、科学的なものの考え方を否定することが結論も同然の、きっすいの文化主義のそれとくらべて一見害はすくないみたいであるが、しかしそれが現実に果たしている効用(マイナスの効用)からいったら、どちらがどうと単純に甲乙はつけられないように思う。
 つまり、ひところのA君のような、「正しい考え方を身につけていくためには、科学関係の本さえ読んでいればよい」というふうな、文学の実効(?)を否定すると同時に科学的思考もほんとうは身につかない、宙ぶらりんの人間をつくりあげているという点では、かつての文化主義の文学教育も今の進歩主義のそれも、まったく同じことなのだ。
 A君の文学観は、いわば、さいしょ、文化主義プロパアの文学教育によってゆがみのうちに形成され、ついで文化主義のヴァリエーションにすぎない進歩主義・科学主義のそれによって、文学否定・文学軽視の文学観にまで横滑りをやってのけた、ということになろう。文学の実効をみとめない、究極のぎりぎりのところでは、やはり文学をアクセサリーとしてしか見ていないという点では、文化主義も科学主義も選ぶところがないのだ。
 さらにいうと、かつての文化主義の教育は、ともかくも文学を文学としてたのしむことを教えてくれた。それのゆがみはゆがみとして、しかし文学をたのしんで読むことを教えてくれた、といえよう。
 だから、A君の場合がそうであったように、生活の余暇を詩や小説をたのしむことにふり向けるような人間をつくりあげることもできたのだ。それで、結果としてではあるが、A君は、一面まともな文学のよみ方を身につける素地と余地を与えられたのだった。
 そこで、わたしは考える。詩や小説の享受をこめて、人間を変革し形成するという読書の目的は、読書というものが生活のたのしい一部となりきったところで、結果として(あくまで結果として)実現されるものだ、というふうに――。読むからには、読んだからにはモトをとろう、というような読書態度からは、文学的思考力は生まれるはずはない(問題意識をもった読書ということと、このガリ勉的な功利主義のそれとは軸がまるでちがうだろう)。
 繰り返しになるが、その点、文化主義の文学教育は、文学をたのしむことを教えてくれた。ところが、進歩主義(?)のそれには、文学をたのしむという態度が欠けている。 文学をたのしむことを教えない“文学教育”というようなものが、はたして文学教育といえるであろうか。 
* まさかそんなバカげた誤解はあるまいと思うが、わたしがここで“進歩主義”の文学教育といっているのは、進歩的な問題意識による文学教育一般をさしての言葉ではない。“科学主義”うんぬんにしても、そのとおりだ。“主義”ということばにアクセントをおいてお読みいただきたい。
  
3 文学教育プロパア
 “たのしむ”ということばが気になるなら、それを“感動する”ということばに置き換えたっていい。ともかく、たのしみのなかに問題をさぐる(あるいは問題をさぐることにたのしみを覚える)という文学享受のよろこびを、文学教育は教えるものでなくてはならない。つまり、人間として感動すべきところに感動する、ということだ。その意味では文学教育は、やはり究極において“文学への教育”――文学的思考への教育をめざすものでなくてはならない、ということにもなるであろうか。
 文学的思考へとみちびかれなような、また、文学的思考によってみちびかれないような、いかなる指導も、それを文学教育と呼ぶわけにはいかない、と前にいったが、わたしはこのことばをもう一度ここに繰り返そうと思う。文学教育のめざすところは、文学的思考において生活できる人間をつくりあげることであるはずだ。別のことばでいえば、文学的思考において生活のなかに問題をさぐる能力を身につけさせる、ということだ。そのことで、相手の生活の幅をひろげ深めていくのである。
 そういうハッキリとした目的意識をもった、体系的・段階的な指導だけが、だから“文学教育”と呼ばれてよいものなのではあるまか。
 だから、また、文学教育は、現実には“文学による教育”のかたちをとる場合もむろんあるわけだ。が、それが文学的思考によってみちびかれた指導でなければならぬのは当然である。
 
4 観念から思想へ
 むろん、そうした誤解はあるまいと思うが、それが文学的思考によってみちびかれなくてはならない、というのは、文学教育が科学的思考によってささえられる必要がないということではない。また、文学的思考へとみちびくというのも、それが科学的な思考や判断と矛盾するような、どこか別のところに相手をつれだすということではないはずだ。
 文学教育のささえは、むしろ、科学的精神であり科学的なものの考え方である。こんにちの文学教育がいだく問題意識や目的意識というのも、それはわたしたち日本の国民が置かれている現在の歴史的政治的シチュエーションに対する、科学的・合理的な判断のもたらすところである。科学的な認識活動をともなわない文学教育というようなものは考えられない。
 そのことは、文学教育の具体面の個々の指導についてもいえることなのである、この点について、わたしは前に次のように語ったことがある。
 ――「たとえば芥川竜之介の“河童”であるが、あの作品が河童の世界そのものを描いたものでないことは、いうまでもありません。河童は人間です。それも治安維持法下の暗い谷間の人間です。そうい人間の姿を、芥川は“暗い谷間”を生きる良心的な知識人の立場から描いているのですから、それは一九三〇年代のインテリ自画像である、といってもいいかも知れません。が、河童は河童であって、人間とはすこし違うところもあるようです。河童のほうがましなのです。谷間の人間よりは、なのです。国民の自由を最後のひとカケラまでも奪い取ろうとする悪法(治安維持法)のもとでは、人間は“陸へ上がった河童”“神通力を失った河童”以外のものではない、と芥川は語っているのではないか、etc ……と考えていくこと、それがつまり、感覚的な表現の抽象的な整理ということなのです。……この抽象的な整理を組織的・系統的にやるのが科学のしごとなのです。ですから、文学を正しく理解するためには、わたしたちは、科学的なものの考え方を身につけていなくてはなりません。文学と科学とのつながり、したがってまた文学的読書と科学的読書とのつながりは、まずこうした点にあるわけです。」(拙編著『十代の読書』河出新書版)

 ところで、文学的思考において生活できる人間をつくるのが文学教育の目的だ、とさっきいったが、そのことを“科学的思考”という側面を軸にしていいなおせば、科学的思考力を身についたものにするためにも文学的思考力をはぐくむ必要がある、ということになるだろう。
 科学的思考によってささえられない作品享受が、文学感覚そのもとしてすでに現代ばなれしたものであるように、文学的思考をともなわない科学的思考は、しょせん生活の知恵とはなりえない、非実践的な単なる観念的思考にすぎないだろう。
 単なる特殊を典型にかえ、深い感動とともに具体的形象において現実を見、かつ考えるという文学固有の準体験的認識。そうした文学的な認識方法・思考方法に媒介されて、科学の認識は観念から思想への、実践の原動力としての思想への深まりを示すことになる。それは、たんに観念として問題のありかを意識し、それの「解決の方向をさぐりあてる」というにとどまらず、「感激といきどおりのごっちゃになった気持で、しっかりやらなくちゃいけない」と、心の奥深いところで実感することなのだ。文学教育のめざすところも、けっきょくはそうした生活の実感(ひいては思想)に生きる実践的な人間に、相手を変革し形成することにあるのではないだろうか。
 

四 文学教育に何を求めるか
    
1 論理的思考の二つの側面
 文学的思考への、また文学的思考による教育――文学教育は、そこで直接的に思想教育そのものである、というふうにもいえるのであろうか。たんに観念やイデオロギーではなくて、思想の、である。むしろ、観念を思想に高め、実感に思想としてのまとまりと方向を与えるのが文学教育である。
 文学教育は、こうして思想教育としての任務を。準体験的認識方法・文学的思考方法を身についたものにしていくことで実現させようとする。
 小・中・高校の場合にかぎっていえば、それを読み方指導や話しことば・作文指導等々の指導過程において実現させようとするのである。或いは、ホーム・ルームやクラブ活動、その他生活指導の場において、である。
 さらにいえば、社会科や外国語科などの教室も理科の教室も、またそれらの教科の課外活動なども文学教育の場となるのである。文学教育はなにも国語教室の専売ではない。どころか、すぐれた語学教師や歴史教師の教室は、つねに文学教育的方法によって学習活動が進められている。
 生徒たちへの文学への興味や関心をしゃ断し、その文学感覚をゆがめ、ひいては彼らを文学嫌いにしてしまうのは、じつはかえって国語教師である場合がすくなくない。文学の嫌いな国語教師というのだって、現にいる。が、これはまだいい。いけないのは、花鳥諷詠的な、ズレた文学感覚をもった国語教師である。俳句こそ世界に冠たる文学様式で、「枯枝に鳥のとまりけり秋の暮」――これが世界最高の文学というのでは、生徒が文学嫌いになるのはあたりまえではないか。
 花鳥諷詠趣味をつちかうことは、こんにちでは文学教育としての意味を失ってしまっている。どころか、それは文学教育の破壊でさえもある。こんにちの文学教育は、現代の文学感覚――典型の認識をもって現実の問題にたちむかう人間をつくるものでなくてはならない。常識のしょぼしょぼまなこからは、ありふれた平凡なものにしか見えない日常的な現象のなかに問題を発見する、それを自分につながる問題として受けとめる、整理する、という論理的な思考力をつくりあげるのが文学教育なのである。
 論理的思考力を?……そう、論理的な思考力を、である。論理的思考力とは、普通にそう考えられているような、たんに科学的思考力のことではない。ましてのこと、単なる観念的思考の別名にすぎない“科学的思考”などを、それは意味していない。
 それは具体的には、文学的思考にささえられた科学的思考力のことであり、また、科学的思考にささえられた文学的思考力のことである。文学的思考と科学的思考とは、論理的思考ないし論理的思考力の二つの側面である。
 文学教育は、つまり、そうした論理的思考力をつくる教育の中軸であり、それらの内容教科にほかならないのである。
 
2 民族愛の教育
 が、わたしは、文学教育に対して特別むずかしい註文をだしているつもりはない。かりに註文ということばを使うなら、わたしの註文しているようなことは、すでに諸方の現場で日常実践されていることに違いないのだ。
 たとえば、地方文化サークル誌『広場』に掲載されていた、宮城県岩出山小学校の千葉一雄君指導の作文をよんでいて、そこにわたしは、わたしの要求を上廻った文学教育の成果(実績)を見つけることができた。       
岩出山小学校五年 S・I
 二月五日に『原爆の子』という映画を見せられた。二十年八月、原子爆弾が広島に落とされた。たった一つの爆弾で、ざっと二十五万人死んだということです。……今は水素爆弾という、もっとおそろしい爆弾がつくられたそうだ、もし水素爆弾が仙台におちたとしたら、岩出山はかるく焼けてしまうということだ。
 ……映画では、もと先生の家で働いていた岩吉じいさんが、原子爆弾でひどいやけどをし、目に見えないほどホイト(乞食)ををしていた。しまいには、酒をのんで火事をおこし、やけどにやけどをかさねて死んでしまった。まごの、太郎は、先生といっしょに船に乗って、先生の家へ行った。
 その上を外国の飛行機がとんでいて、いやだった。
 この映画は、おそろしかった。ほんとうの戦争は、もっともっとおっかないと思う。だから、これからは、ぜったいに戦争をしてはいけないと思う。もし戦争をして、水素爆弾が落とされたら、人の生きるところはなくなってしまうだろう。
 たとえば、こんな調子の作文が何編か掲げられていた。このサークル誌の編集者から感想を求められるまま、わたしは次のようなことを私信として書き送った。
 ――「先月号の小中学生諸君の作文をよみました。うたれました。とくに、小五の諸君の書いたものに。……広島の惨禍の原因と犯人を原爆(――原爆という物質)に求めて、それを使用した相手を告訴することはしない、という傾向が一般にありましたね。いや、占領下においてそういう傾向があったというだけでなくて、今もある。原爆への怒りが、原爆そのものや“科学の進歩”への怒りにスリ替わってしまっている。『科学が進歩しすぎるとロクなことがない――』すべては科学の進歩のせいだというのです。
 ビキニの灰で、どうやらすこしハッキリしかけてはいるものの、まだそれが広島・長崎の場合とは結びつかない。……という折りから、あの作文はよかった。原爆への抗議が原爆使用者への抗議に、戦争への怒りが戦争屋への怒りにハッキリと結びついている。“原爆の子”を見たS・I君が、その印象をラスト・シーンにしぼって『太郎が先生といっしょに船にのって、先生の家へ行った。その上を外国の飛行機がとんでいていやだった。この映画はおそろしかった』と書いていますが、そうした感覚の仕方と、感覚のそうした仕方による表現に、わたしはすっかりうたれました。
 “原爆の子”というあの映画を、母もの映画か何かを見る目でみて、ただのあわれな老人の物語にしてしまっている女子高校生たちを、わたしは知っています。また、あのラスト・シーンの飛行機の爆音になんの意味も感じなかった(ただの風景スナップとしてしかそれをつかんでいない)おとなたちや子どもたちが、わたしの周囲には、わんさといるのです。
 ですから、千葉君の教室が、正しい民族愛と人間愛の教育――文学教育のおこなわれている教育の場であることを(千葉君の授業はついぞ見たことがないのですが)直感するのです。」
 
3 一つの成果
 論理的思考力をつくる文学教育の一つの成果を、またつぎの女子高校生の作文に見ることができる。
 これは、東京山の手の某私立女子高校の季刊生徒会誌にアピールとして掲げられたものだが、この学校の文学教育活動の実態は、第六章の一『高校生の読書遍歴と文学学習』、二『作家と文学教育』などの項に述べてあるから、それをふまえてお読みいただくと胸に落ちるものがあるはずだ。筆者は同校二年生の熊谷映子君、標題は『教育三法をめぐって』となっている。       
     やっぱり私たちできめなきゃ……
 「これから、クラス委員は、先生がきめることにします。」
 ある朝のホーム・ルームの時間に、先生がこうおっしゃったとします。みなさんは、「ハイ」といって、おとなしくコックリなさるでしょうか。
 きっと、申し合わせたように、ウワーッ、そんなのないわ、といって、さわぎだすに違いありません。ところが、ここに、大変おとなしいクラスがありました。
 このクラスの人たちは、先生のオイイツケをスナオにききました。そして、何カ月かは、何ごともなく過ぎていったのです。
 が、しばらくたったある日のこと、このおとなしい人たちの教室はめずらしくブツブツと不平のうずがいっぱいにこもっていました。なぜかって? そのわけはこうなんです。今朝のホームの時間に、委員が立ちあがっていいました。
「みなさん、これからは学校に、教科書以外の本は、絶対に持ってきてはいけない、ということにきましました。毎朝、机の中とカバンの中を検査します。」
 もしも守らない人がいたら、退学にするというのです。
「そんなつまらないこと……」「いやあね」などという声が、あっちこっちから聞こえます。でも委員は先生のオイイツケだから、といって、とりあげてくれません。みんな仕方なく黙っていました。
 それから三日たった日のこと、クラス委員が、また立ちあがっていいました。
「これからは、家で読む本も、先生が調べて、いいとおっしゃったものだけにします。家庭とも連絡をとりますから、よく守ってください。」
 さあ大変。みんなすっかり怒ってしまいました、自分が読みたい本も自由に読めないなんて……だんぜん憤慨です。すぐに生徒総会をひらいて話し合おう、ということになりました。
 ところが、困ったことには、生徒会の委員は、全部先生の任命できめられているのです。委員会の人たちは、先生のオイイツケを守ろうとして、総会をひらいてはくれないのです。みんなは、すっかり困ってしまいました。そして口々にいったのです。
「やっぱり委員は、私たちの手できめなきゃだめね」――と。

       教育三法とは?
 こんなことが本当にあったら、それこそ大変だ、みなさんは、こうお考えになったことと思います。
 ところが(またトコロガです)、これと同じような困った問題が、現在、日本にあるのです。
  「教育三法」――これが、そうなのです。東大の矢内原総長をはじめ、東京の各大学の学長さんたちが、そろって、反対声明を発表した、あの法案だ、といったら、多分みなさんは、「ああ、あれか」とおっしゃるでしょう。そうです。その「あれ」なのです。
 こんなにワイワイ騒がれて、乱闘までおこした「あれ」とは、いったいどんな法案なんだろう。もうすこし、くわしくしらべてみようではありませんか。
 「三法」とは、「教育委員会法」「教科書制度法」「臨時教育制度審議会設置法」のことです。
 その中の「委員会法案」は、さっきのあるオトナシイ組のハナシと全く同じことなのです。つまり、民主的原則である選挙をやめて、教育委員会を任命制にしようというのです。その結果、どんな問題がおきるかは、やはり前に書いたとおりです(この法案だけでは、通過してしまいました)。
 次に「教科書法案」ですが、これもまた、いくらスナオな私たちでも黙ってコックリをしてはいられないような法案です。
 まず第一に、これからの教科書を国定にしてしまおう、というのです。ちょっときくと、何でもないみたい な気がします。が、この何でもないみたいなところに、実は大きな問題がかくされているのです。
 国定教科書にするということは、政府のお役人たちが、政治をやっていくのに都合のいい教科書をつくるということです。
 国民が、本当のこと を知ると、政治がやりにくくなるから、国民に目かくしをしようというのです。
 じゃあ、教科書以外の本を使えばいいじゃないか。そうなんです。でも文部省のお役人たちも、そのことに気がついちゃったのです。そこでお役人たちは、ちゃんと、そのことにも、お断りを出しています。
 つまり、教室では、本を読んで話し合うことも出来なければ、なるべく本当のことを書いてある教科書を選ぶこともできない、きめられた本だけ を読んで、政府のオエラガタに都合のいい人間になっていくのです。水爆を落とされようと、自衛隊が軍隊になろうと、おとなしく見ている人間に育てられていくのです。さあ、こんなことになったら大変です。みなさん、お得意の叫び声を今こそ、はりあげてください。「ワーッ、そんなバカな法案を通しちゃ、いやだぁーッ」と――。
 高校としては、いまどきめずらしいぐらいの自由な雰囲気の学校だが、生徒たちの政治への関心はかならずしも高くはない。自分たちの生活に直結した問題として政治を意識するには、彼女たちの家庭環境は経済的にゆたかすぎる。第六章の一にそのことを書きつけたように、その九割方が自宅に電話をもち、何人かの家庭使用人によって家事がまかなわれている、というふうな生活なのだ。
 そういう相手に向けての、そういうなかからの、これは呼びかけなのである。
 生活の裏づけに乏しい、生活自体に問題のない(?)こうした環境の生徒たちを相手の困難な文学教育活動が、しかしたゆみのない多年の努力のうえに、右の生徒の文章に見るような、すぐれた文学的思考をささえとした“論理的思考”をそこにつくりだしている。
 文学教育へのわたしの期待は、実践的にはすでにわたしの期待を上廻って実現されている、と見てよいであろうか。
 

五 文学教育の問題点

1 経験学習と文学教育
 戦後の教育が戦前とちがう点は、といったら、それはおそらく、教室から教壇がとり払われたということだけだろう。それ以外に何もありはしない。が、ある意味からすると、教壇がなくなっただけという、このだけ が大きいのであって、それが民族の教育の歴史に大きく一線を画するような出来事であったことも、またたしかである。
 一方交通のいい気な教授主義の学習から、児童・生徒の自主性を基礎とした経験学習へ――。言語主義の神がかり教育から、体験の実証をおもんじた経験学習へ――。
 ……と、そんなふうにいうと体裁がいいが、それが実は経験主義学習にほかならぬ、という点に問題があろう。体験の効用にだけしがみついてゾロゾロ歩き廻る、社会科のあの新学習方式がもたらしたものは、民族の歴史と現実にたいする痴呆的な無知であり、そしていわゆる学力の低下であった。戦後派国語教育の花形である話し方――話しことばの教育にしても、口さきだけの、ただの“おしゃべり”をつくりだすことに終わっているきらいはなかっただろうか。
 子どもたちや若者たちが、おとなをのりこえ現実の壁をのりこえて、民族の自由を自分たちの手でつくりあげていけるようにするためにこそ、自由に発言し発言させるという指導(正確で豊かな話しことばを身につけさせるという指導)の必要もあるわけなのだが、しかしそれが一般には右のようなゆがみを結果している。自由な発言、自由な討議という、その“自由”の範囲がひどくかぎられている。
 教室では、話題が現実の切実な問題に及ぶことがはばかられ、議論してみたからといって、どうということもないようなことがらについて、“討議のための討議”がくりかえされる。そこに、口さきだけの軽薄な人間が生まれる、ということにもなるのだと思う。
  「それでも戦前の教育とくらべたら……」というふうなことばは、『教育勅語』と『軍人勅諭』に明け暮れた、暗い谷間への回想のなかでつぶやかれる実感のそれなのだろうが、しかしよく考えてみると、どっちもどっち、ということになりはしないだろうか。戦後の教育にましなところがあるとすれば、それはけっして新教育のおかげでなんかありはしない。むしろ、アメリカ製新教育への教師たちの抵抗がつくりだした、それは民族的良心の成果である。
 が、誤解しないでいただきたい。経験学習そのもの、経験学習という学習方式そのものを否定しているつもりはないのだ。うその多い教科書のページを繰るかわりに、生徒たち自身の生活のうえを生きた教材としておこなわれた、話し方・綴り方の経験学習が、暗い谷間における抵抗教育の最後の拠点であったことを、わたしたちは、いま、ここに思い起こさないわけにはいかない。だから、むしろ、もっと徹底した経験学習を、とさえいいたいくらいなのだ。
 いけないのは、経験がすべて、経験だけでという、理論軽視のその経験主義である。無内容・無目的な――いや、無内容で骨ぬきなところが存外目的なのかもしれないが、ともかく経験のための経験という、その経験主義が批判されなくてはならぬのだ。つまり、自由を守りぬこうとする根強い気魄と実践的意欲にささえられた、谷間の経験学習の伝統がそこに受けつがれていない点に問題がある、ということになるだろう。
 もっと徹底した経験学習を、と、わたしがいうのも、それはだから、自分たちの経験(体験)の軸を自覚することができるような体験の仕方に学習者をみちびく、そのことでまた、自己の体験のひずみや体験の仕方のゆがみが自覚させられる、というふうな指導の実現を期待しての発言なのだ。たんに既成の社会のしくみや既成の観念をウ呑みに“経験”させるのではなくて、反対に、それをのり越えていけるような新しい体験の仕方を身につけさせることが、いま、必要なのだ。経験学習は、ほんらい、そのためのものであったはずである。
 そうした意味での、ほんらい的な経験学習への動きが、ここ数年来、おいおいに、生活綴り方(――というより、生活綴り方的教育の原理ないし方法)への関心と結びついて盛りあがってきていることもまた確かであるが、しかし全般的にはまだまだだ。まだだ、というより、経験主義への迷信があの手この手と意識的に執拗に再生産されつづけているのが現状であるし、それが教師の良心のゆくてをはばんでいる、というのが一般だといっていい。
 だから、また、かつての文学教育が教師の授業を中心にした作業であったのに対して、戦後のそれが文学活動を直接生徒に経験させることが中心になったのは進歩だ、というような意見があるが、その経験のさせ方が経験主義的であるかぎり、ウカツにそれを進歩だなどとは、いいきれないわけだ。
 何が目的で生徒に文学活動を経験させようというのか、また、なんのための文学活動の経験であるのかが、そこに問われなくてはなるまい。そうでないと、教壇さえとり払えば教育そのものまでが進歩するというみたいな、奇妙な形式論になってしますからだ。
 
2 経験主義との対決
 正面からではないが、しかし右の点に関して文教当局の意向をかなりハッキリうちだしているのは、『中学校・高等学校 学習指導法・国語科編』(一九五四年七月、文部省発行)のなかの次の一節である。  
 まず、「文学と人生」という問題を、この学習によって解決しようなどというのではない。また、「文学とはこういうものだ」と安易に結論を得ようとすることも、この学習の目的ではない。文学上の問題は、どれを採って見ても、定義することは不可能に近いし、またはっきりつかまえようとすればするほど、指の間から、するする抜けていってしまうものだからである。文学について、また文学の受け取り方や、文学と人生とのつながりなどについて書かれた、すぐれた先輩たちの評論を読んで、生徒がめいめいばくぜんといだいていた文学観を、できるだけ深めまた高めていけばよいのである。……
 とすると、これはやはり経験主義だ。日常的な体験にそくして体験の日常性をこえる、こえさせる(――自己の体験の仕方を規定している、その坐標軸を自覚することで、実感において旧い自己をこえる、こえさせる)という文学的準体験の深化のための経験学習ではなく、バクゼンとしたものをただバクゼンと深めたり高めたりする操作(教養あそび・教養ごっこ)が、つまり右の「文学活動を経験させる」ことの目的であった、ということになるのだから。
 経験主義は、こうして教養主義(=文化主義)に結びつく。というよりは、むしろ、学習者の文学への関心を文化主義的なそれへとそらすための、また学習者の文学観を(したがって、その鑑賞や批評の態度などをも)文化主義的な非実践的なものに釘づけしておくための、文学活動の経験学習であった、ということになるのだろう。また、同時にそれは一方で、世渡りと社交に事欠かぬ程度の文学的教養を、という、卑俗な実用主義となってあらわれているわけだ。
 『学習指導要領』にしばられた現行国語教科書の編集が、そうした実用主義・経験主義の要求にそった名作ダイジェスト的教養趣味満点のものになっていることは後に述べるとおりだ。(第六章・一参照)。その点で現行教科書は、たしかに“憂うべき教科書”であるといっていい。が、それは、某政党が語っていたような意味で“偏向”しているからではない。
 もしも偏向ということをいうならば、指導要領が示しているような偏向と妥協する以外に、いま教科書の編集も発行も不可能に近いという点で偏向を見せている、ということだ。つまり、民主主義になをかりた思想統制が教科書のこの“憂うべき”状態をもたらしているのである。ところで、国定化に名をかりた教科書統制・思想統制の強化が、この“憂うべき”状態を、さらに決定的なものにしようとしている。
 話をもとへもどして、右の『学習指導要領』の引用だけではまだハッキリしないという方は、すぐそのさきを読んでみていただきたい。「だから断るまでもなく、教師としては、ある固定した文学観を無理じいするがごときは、厳に慎まなければならない」と、そこに書かれてあるはずだから。
 無理じいする?――これは、つまり、生徒のまえで「僕の考えはこうだ」とか「私はこう思う」というようなことをいっちゃぁいかん。きみたちの文学観なんて、どうせかたよったものにきまってるんだから、と頭ごなし教師をきめつけているようなものだ。
 それはまた、生徒が考えあぐんで苦しんでいても見て見ぬふりをしろ。生徒たちのモヤモヤは、モヤモヤしたなりに放ったらかしておくのがいいんだ。それ以上のことをする教師はアカだ、とは書いてないが、ともかくそういうわけで、教壇を使わないのが新教育なのだから、教師も生徒と同じ平面に立って、いっしょにモヤモヤしてたらいい、というのである。
 これが経験主義による文学活動経験学習の実態・正体だ。こうして教壇のとりはずしが、同時に指導の放棄を意味していたわけである。植民地教育だかなんだかしらないが、すこしひどすぎないだろうか。
 
3 生哲学と文化主義
 経験学習には、であるからして、徹底した指導と事前の準備が伴わなくてはいけない、と西尾実氏は語っておられる(『文学教育の回顧と展望』――文学・一九五四年七月)。が、その指導の方向は、“生”に方向を与えるということらしい。
 つまり、それは、「生を鼓舞し、その生きかたに反省を促す」ということなのである。“生きかた”といっても、それは、生の生きかたにほかならない。このようにして、そこでは、人間の具体的な生活 が問題なのではなくて、 が関心事なのだ。だから、西尾氏の所論は、作品とそれによって喚起された問題意識との必然的な関係を明らかにしていない、何かはぐらかされた感じだ、というような批評(荒木繁氏)が出てくるのも当然だが、しかしおそらく、西尾氏としては、はぐらかすつもりなどはじめからないのであって、氏としてはあくまで“生”(生哲学ふうな“生”)の立場から右の関係をつきつめて考えてみている、ということなのではないかと思う。
 また、右の論文のなかで、西尾氏は、鑑賞による問題意識の喚起ということと、それによる創作意欲や研究意欲の喚起ということを同じ一つの軸で並置して考えているわけだが、そこが西尾氏の解せないところだ、と荒木氏は語っておられる。が、並置して考える、考えないというよりも、それらを一つの根源に発する同質のはたらきと考えている点に、しかし三十年来一貫して変らぬ西尾氏自身の生哲学ふうの文化主義の人間観・歴史観そして文学観がよみとられる、ということなのではないだろうか。
 荒木氏たちと西尾氏とでは、むろん、お互いにふれあう点はあるし、ちょっと見には同じ平面に立ってのやりとりのようにも見えるが、しかし、どうなのか? 例の“問題意識喚起の文学教育”という課題にしても、荒木氏の提唱しているそれは、究極において、学習者を民族的自覚にめざめさせることを目的としたものなのだが(一九五三年日文協大会報告)、西尾氏の語るそれは、右に見てきたように、生に慰めをもたらすとか、それに何らかの 方向を与えるといった、幅はあるかわりに、かなり教養趣味のかった文化主義的なもの、というほかない。だから、お互いがお互い、ちがった別の平面に立って、「どうもしっくりこない」といっているような感じだ。
 それで、わたし自身に納得がいかないのは、荒木氏の場合にかぎらず、一般に、かなり手きびしい批判をそこに寄せながら、なぜその理論の基礎にふれないのか、という点である、

4 文化主義を媒介にして
 『学習指導法』の立場と西尾氏のぞれとは、まるで違う。この二つの立場を混同して考えることは許されないだろう。が、それにもかかわらず、おそらくはその基本的な立場――生哲学ふうなものの考え方からくると思われる文化主義のゆえに、こうした問題のすすめ方では、『学習指導法』の経験主義・実用主義をはねのけることはできない。ばかりか、むしろ、それへの傾斜をしめす結果をさえまねきかねない。
 早い話が、生徒の漠然とした文学観や鑑賞(鑑賞の仕方)を、それなりに深めたり高めたりするのが文学の学習指導だ、というに近い『学習指導法』の考え方と、生による生の追体験のための作品享受という追験主義(=生哲学)の文学観や鑑賞論とをくらべてみると、そこにウムあい通じるもののあることを、だれしも感じるだろう。問題はその点だ。それは、まるで、文化主義を煤介にして、生哲学とブラグマティズムが手をつないだといった恰好だ。
 手をつなごうとしているのは、むろん、実用主義・経験主義の側であって、その逆ではない。相手のハラを読んで、趣味の話を手がかりに、相手が相槌をうってきそうな話のもちかけ方をしている、といった感じである。が、それに乗ったの乗せられたの、というのではなくて、経験主義への批判をともなわない、経験学習の礼賛は、こんにちのような状況のもとではそれ自身、十分経験主義的でさえもある、ということを、わたしとしてはいっておきたかったまでだ。
 つまり、たんに形式だけを見つめて、教授主義の学習より経験学習のほうが進歩した方式だ、というのでは困るのだ。教壇がなくなればそれでいい、というものではなかろう。教壇からおりたとたんに、こんどは唖になれといわれてとまどっているのが、教師の一面の心情である。教壇のとりはずしが同時に指導の放棄を意味しているような、そんな経験学習に肩を入れる理由がどこにあるというのか。

5 文学教育の必要はどこからくるか
 文化主義を媒介とし通路とした、実用主義ないし経験主義と生哲学との結びつき。文化主義的教養趣味に生徒たちをつなぎとめることで、民族の現実から目をそらさせている、経験主義の文学学習。こんにちの文学教育が文化主義批判に出発しなければならぬ理由も、まず右のような点に見いだされるわけだ。
 が、そうした文化主義的な文学観念が、やはり裏返しのかたちで、進歩的な問題意識をもった文学教育の側にもかなり根強くまつわりついているのではないか、と思われる。それは、たとえば文学の学習を、たんに科学的な思考への手段・橋わたしとしてしか考えていないような指導である。文学のすぐれた教育的機能を十分に発揮させた教育が文学教育である、という一般の考え方は否定しないまでも、教育的機能をいかしたその指導というのが、たんに科学的思考への到達をめざしての文学作品の使用であるというのでは、「文学では資本論は書けない」「文学はしょせん科学以下のものでしかない」という式の、無意味なあの文学蔑視(谷間の時代における公式主義者たちの文学軽視)の裏返しにすぎない。
 いくつか文学教育に関する現場の実践報告を読んでみたが、現実にたいする学習者の理論的認識を高めたとか、歴史への目をひらいた、というようなところが、報告の結論になっているものが多いのだ。
 そうした指導とそうした指導の成果に対しては深い敬意を表するが、しかし理論的な関心(ないし理論への関心)というところが最終の指導目標になっているらしいことには疑問を感じないわけにはいかない。経験主義の誤まった理論軽視とはま反対の理論重視が、けれどこんどは誤まった文学軽視をそこに結果しているといったら、いいすぎだろうか。しかし、究極のぎりぎりのところでは、やはり、理論的認識への手段として有用であるという一点に目をとめて文学のはたらきを評価している、という感じだ。そういう一点にかぎって文学を重視するということが、つまりほんらい的には文学を軽視している、ということなのである。
 むろん、科学的思考への導入にさえならないような指導は、お躾ごとの情操教育以上のものではないだろう。また、理論的認識にささえられない作品鑑賞や作品の鑑賞指導は、感覚そのものとしてすでに前近代にぞくしている。が、そのことは、文学教育が理論的認識への到達ないし導入を目的としているということを意味しない。理論的認識への到達が究極の指導目標だというのでは、それはすくなくともプロパアな意味での文学教育ではない、というふうに考えられる。
 文学教育は、民族教育としての人間教育の一環であり部分である。そのかぎりで、それは科学的思考によってささえられると同時に、科学的思考への教育のささえともなるのだ。むしろ、それ自身、科学的思考への教育としての任務を分担してもいる。また、あらゆる教育のいとなみがそうであるように、科学的思考による教育としての役割を当然分けもっている。が、そこを通って(そこをささえとして)文学的思考にもどってぐるのでなければ、それがとくに“文学教育”と呼ばれて他から区別される理由はなくなるわけである。それが区別される必要があるというのは、文学的思考への、また文学的思考による教育活動としての固有の対象領域を分担しているからである。
 文学教育とは、――というより、文学教育の必要について、わたしは次のように考えている。それは、わたしたちの後につづく若い世代が、こんにちのこの民族の不幸をのりこえて、自由の空気を胸いっぱい吸えるような世の中をつくりだすために、文学を生活に結びつけ、民族的な文学的思考力を自分たちのものにしておかなくてはならないから、というふうにである。
 つまり、わたしは、文学的思考をささえとした論理的思考力を身につける(身につけさせる)必要があるから文学教育が必要なのだ、というふうな考え方をしている。文学を生活に結びつけ、生活のうちそとを、またその基盤である歴史社会をいきいきと形象化し典型化してとらえるという、準体験的な文学的思考力を自分のものとすることは、(それが抽象的・一般化的認識であるというかぎりでは観念の域にとどまっているところの)科学的思考を実践的に主体に媒介することにもなる。それと同時に、また真に実践的な、歴史と現実への理論的探究の意欲をかり立てることにもなるのだ、と、わたしは実感するのである。
 くりかえしになるが、文学教育の必要は、文学的思考をささえとした論理的思考力を身につける必要からきているのである。

6 文学教育とは?
 したがって、たんに 文学の教育性や教育的機能というようなことをうんぬんするだけでなくて、(そのそれぞれが相互規定の関係にあるところの)“文学的思考への教育”と”文学的思考による教育”とを動的な二つの側面とする教育活動の体系が、プロパアな意味での文学教育であるという点をハッキリさせることが、いま必要なのだと思う。文学教育とは、民族のこんにちの課題を文学の場で受けとめる教育活動のことだ。それが、そしてその点がハッキリしていないから、たとえば・文学教育の極致は創作指導にあるというような考え方におちこんだり、といったふうなことにもなるのではあるまいか。
 だいじなことは、しかし文学を生活に結びつけ、文学的思考を生活のなかへもたらす、ということである。こんにちの文学教育が、創作指導の実施をその完成目標と考えなければならぬ理由は、どこにも見あたらないように思う(が、誤解しないでいただきたい。創作指導一般を文学教育のワク外へおしだそうというのではないのだから。ただ、それを文学教育の完成目標と考えるのでは筋が通らないだろう、といったまでである。)
 以上で、わたしは、文化主義批判が必要だと考えられる第二の理由にふれたつもりである。それは、進歩的な意図をもった文学教育の側に尾をひく、変形された文化主義に関してであった。
 こうして文学にたいする文化主義的な観念が、いま、うちそとに大きく根を張っているというのは、追験主義(=生哲学)ふうの鑑賞論や、それにつながるアルス・ロンガーの思想・観念が克服しきれずに残存していることと密接な関係がありそうだ。そこをねらっての経験主義(経験主義の文学教育)のあののさばり方であるし、また、それを克服しきれずにいるための経験主義への傾斜なのだ。
  文化主義への傾向は、一面、いまや、経験主義の文学教育を主軸として拡大再生産されつつある、というふうに考えられる。ことばとして経験主義・文化主義を否定はしても、それをきわめて不十分にしか批判しえないでいる現状には何か考えさせられるものがある。問題は、だからやがて、これらの人びとの鑑賞論や古典論にまでさかのぼらなくてはならなくなるだろう。


六 古典教育と第二芸術論

1 新型の芸術永遠論
 誤解しないでいただきたい。シロウトの意見はとるに足らない、などというのではない。そんなつもりは毛頭ない。そうではなくて、それが知名人の意見だから、然るべき筋の意見だからというので、一知半解のそのシロウト意見が、専門家の意見以上に権威をもつという風潮は困ったものだ、というのである。
 が、それはまだいい。学問以外の“権威”に対して学者が頭をさげるのがいけないのである。権威筋の意見であるからといって、論証ぬきでそれに盲従する、事大主義・権威主義が間題なのだ。論証を伴っていない証拠には、相手(権威筋)の意見が変るたんびに、こっちの意見もくるくる変る。学問に主体性がないのだ。
 学問の成果がまっとうに政治の場で受けとめられ、それが文化政策となって学問の場にハネ返ってきて研究活動を方向づける、というのが本当だろうに、話はまるでアベコベだ。
 その理論的・実証的認識活動の成果を、さらにいっそうの高みに発展させていくべき任務を負うはずの文学史家たちが、新装をこらした芸術永遠論(追体験が可能であるとする追験主義)のお墨つきの 前に、あっさりと詑び証文をだして引きさがった責任は大きい。
 綱領だけあって論理学をもたないも同然のこんにちの文学認識論――その鑑賞論と古典論。理論的には、てんでガタピシしているくせに、どこかの権威を笠に着たみたいな恰好で、無理無体に、強引に、民族芸術永遠論をおしだしているのは、そして目に余る。
 意図がわるい、というんじゃない。うちだし方に問題があるのだ。あれでは筋がとおらない。が、おそらくは生哲学(=追験主義プロパア・鑑賞主義プロパア)の鑑賞論からすっかり足を洗うというところまでいかないうちに、民主民族主義の古典論・鑑賞論を急速にうちださなくてはならなかった、ひところの事情にからむ何かがあったのであろう。
 民族文化はなんでもホメあげる傾向、という批評(桑原武夫氏――『教育』一九五二年二月)はあたらないにしても、しかし第三者の目にはやはりそんなふうにも映りかねないような、一種の民族芸術永遠論がとなえられていたことは確かだ。
  意図し志向するところはまったく別にありながら、しかし現実には、追験主義のあの“生の自己同一”を変形させた“民族的生の自己同一”とでもいうべきものにその理論的根拠を求めたような恰好になっでいるのが、この新型の芸術永遠論なのだ。すこしことばが過ぎるかもしれないが、やはり一種の(――一種のというところにアクセントはつくが)追験主義だ。
 そういう立場からの第二芸術論批判が、相手をたんに近代主義よばわりすることだけに終始して、その論拠をきっぱりど批判しえないのは当然だと思う。なぜかといえば、第二芸術論というこのプラグマティズムの文学論が、やはりまた裏返しの追験主義にほかならないからである。
 第二芸術論という名のこの追験主義は、こんにちの鑑賞に堪えない作品は、たとえそれが民族的・民衆的な遺産であろうと抹殺してかかるほかはない、という方式の追験主義である。それを批判する側の追験主義はというと、それが民族的な遺産である以上、そこにかならずや深い感動をもたらすはずだ、それがわからぬのは民族の魂を失った近代主義者だけである、といいはっているような恰好だ。これでは、どうにもならぬではないか。
 鑑賞とは? 古典とは?……の問題からあらためて出なおす以外に、この水かけ論を解決する手は見あたらない。

2 古典を読む、ということ
 「近頃いわゆる左派の人々がソ連や中共で民族文化を尊重しているという点のみに注目して――そこでは革命が完成された後であるということは忘れて――日本の民族文化は何でもほめ上げる傾向があるのはコッケイである。あきらめを中心とする文学を讃美しながら、一方で革命にあこがれるというのはおかしい」といったふうな、桑原武夫氏の例の持論に対しては、いやあきらめを讃美してるんじゃない。がんじがらめの封建体制のワクのなかで、ぎりぎりの抵抗は試みながらも、しかもあきらめに崩折れるほかなかっ民衆のなげきを、そこから読みとろうというのである、というような批判があったまうに思う。
 民衆のこの歎きがじかに胸に響いてくるようでなくては、泡立った革命への情熱など生まれてくるはずがないではないか、――たしかそん反論もどこかで耳にしたように思う。が、どちらがどうなのか?
 「革命にあこがれる」とそう語ったのは桑原氏のイロニーだろうから、なにもこのことばにこだわる必要はない。そこにこだわらないで読むと、引用のかぎりでは、わたしなんかも、氏に同調したくなってくるのだ。
 が、それは、あきらめの文学から歎きを読みとらなくていい、そんな必要はない、というのではない。むしろ積極的にそれを読みとることで、あきらめに崩折れた、この保守的な(――そのかぎり保守的な)民衆の文学を、わたしたちのものとしてかちとる必要があるだろう。 
 保守を反動と見誤まって、それを向う側へおしやるのは、まちがいだ。保守と反動とはハッキリ区別されなくてはならない。保守と反動の区別をハッキリさせて、保守をこちらの側にということは、けれど相手の保守的な感情をそれどして認める、肯定するということではないはずだ。それは、すくなくとも、相手のあきらめの感情に同調するということではないのである。そうではなくて、そういうシチュエーションとそうした条件のもとでは、あきらめに崩折れるほかなかった当時の民衆の心情を、相手の身になって感じとると同時に、そこまで相手を追いこんだ民衆の敵・民族の敵に対して怒りを燃やすことなんだ、と思う。
 が、古典鑑賞者としてのわたしたちがそこに感じる怒りや共感は、ふれあう面はむろんあるが、しかしその当時の民衆、その当時の読者のそれとは性質がまるで違う。相手はすでにあきらめてしまっているのだ。あきらめを前提として、しかもあきらめきれずに一種の わるあがき(――悪質な意味にとらないでいただきたい)をやり、そして“どうせ”という気持に落ち込んでしまっている相手なのだ。あきらめから脱けだす、これっぽっちの可能性もそこには見あたらない。
 だから、そのあきらめは、やむをえないという以上に、むしろ“当然のあきらめ”でさえあるのだ。それを、わたしたちが、相手の身になって感じるとはいっても、相手に同調する以外、一身上の同じ立場はとれないわけなのだから、当時の読者の鑑賞とは鑑賞の軸がちがうのである。
 たとえば、『菅原伝授手習鑑』であるが、わたしたちがいま舞台で見たり本で読んだりして鑑賞している『寺子屋』と、当時の民衆が鑑賞した『寺子屋』とでは、だから別の作品も同然だということになるだろう。鑑賞を軸にしていうかぎりは、である。
 くりかえしになるが、近世民衆の(一般的にいって過去の読者の)鑑賞を、それと同じ文脈においてわたしたちのなかに再現することは不可能である。同じ文脈、同じ軸の鑑賞をこんにちに再現する(つまり追体験する)ことが不可能である以上、だからして以心伝心的な一定の仕方のよびかけが可能であるように加工された媒体(作品)が、媒体としてのはたらき 本来的には失ってしまっている以上、これらの文学はすでに滅び去ったというほかないだろう。

3 古典教育とは?
 だから、文学――芸術は永遠ではない。そして、永遠でないところが、それのネウチなのである。
 芸術的表現の特徴だといわれるその具象的なナマナマしさは、日常的全体感に裏うちされたナマナマしさである。芸術的表現の日常性、日常的体験の共軛性、そして芸術性(第三章・一『認識としての文学』参照)。
 むしろ、こうして永遠でないからこそ、過去のすぐれた芸術作品が“古典”として、こんにちの範疇に再生産 される必要も起こってくるのではないだろうか。おそらくは文学的古典というのは、民衆の民主的民族的要求によって、こんにちの享受・鑑賞に堪えるようなかたちに翻訳・再生産されることを必要としているような、過去の文学遺産のことにちがいないのだ。
 たんにことばの壁をとり去るというだけでなく、現代の範疇への(歴史的ならびに現代的意義の評価による)範疇そのものの翻訳・再生産が、過去のそうした作品に古典としての息吹きを与えることになるのだ、と思う。
 そこで、文学教育としての古典の学習指導というのは、文学遺産を古典として現代に創造する、その再創造過程を学習者に体験させる、意識的・計画的な指導操作のことである。失われた体験、異なる生活体験、そしてそれらの体験の要約としての思想・感情を、こんにちの準体験(――追体験ではない)として再生産する(学習者の準体験として再生産する)というしごとなのである。
 だから、一般には、むしろ古典にたいする時空的な距離感がささえとなって、恣意的・主観的な好悪の感情から学習者をときはなち、古典の世界への凝視をとおして、じつはかえって、こんにちのこの現実を、ふかい感動とともにゆがみなく凝視させることにもなるのだ。

4 古典教育の実際
 たとえば、ある現場報告に語られているように(講座日本語・第七巻)、東京の某高校の生徒たちが、古典――『平家物語』〈『殿上の闇討』の条〉の描写のなかに見いだしたものは、自分たちの生活の周辺に起こっている基地反対闘争のそれであり、また、そのことに対する自分たちの実感のひずみであった。
 「相伝の主、備前守殿今夜闇討にせられ給ふべき由承り候あひだ、其ならむ様見むとて、かくて候。えこそ罷り出づまじけれ、とて畏って候ひければ」うんぬんの描写に接して、「昔も坐りこみがあったんですね」といい、「とがめられても、てこでも動かない様子が出ていて痛快です。」とそう語った生徒たちが、「でも、砂川の場合は?……」と首をかしげたという。
 が、坐り込みをやらねばならない直接・間接の原因、坐り込みをやる側と相手側の利害はそれぞれどこに続いているか、坐り込みを不法とするその法とは何か、坐り込みの側と相手側の局面における勝敗は歴史の進展にどんな関連があるか、というような点について、『平家』の場合と砂川の場合について自由な意見の交換がおこなわれた結果、  
――「砂川町の人たちのやり方がいけないのなら、家貞たちの行為もいけなかったということになります。忠盛たちのやったことが当然で、砂川の人たちのはまちがいだ、というのは、矛盾だということに気がつきました」
 という発言が、さいしょ首をかしげた生徒自身によっておこなわれるところまでいったという。
 古典にたいする学習者の距離感をささえとしておこなわた、指導者による的確な遠近法の調節が、こうして右のようなすぐれた形象的現実凝視・自己凝視をもたらしている。古典をを凝視するというのは、だから同時に現実を凝視することだ。古典はつねに新しい、というのは、本来こうした意味においてであろう。古典によるのでなければ、といってはいいすぎになるが、すくなくとも古典教材によることで、右のようなゆがみない現実凝視も一般に 可能となる、ということが、学習指導の実際面からはいわれてよさそうである。
 それは、けっしてアルス・ロンガーのゆえではなくて、むしろ、古典的現実がこんにちのわたしたちと直接の 利害関係をとり結んでいないこと、またそれゆえの距離感をささえとしてもたらされたところのものである、といわなくてはなるまい。
 ところで、第二芸術論は、たんにことばだけの翻訳によって、その作品をいきなり自分の鑑賞と対決させて作品そのもののプラス・マイナスをうんぬんしている、という恰好なのだし、また この第二芸術論に対立する一方の側の人たちは、社会範疇的にプラスの作品ならそれは当然こんにち一般に深い感動をよびおこすはずだ、ときめてかかっているような形である。いつかの歌舞伎論争が、お互の歯車が噛み合わないまま、たち消えに終ってしまった理由の一半である。


七 誰にでもできる文学教育を
      ――視聴覚的方法の提唱――


 (一九五六年三月、NHKでおこなった波多野完治氏との放送対談の録音から――)
 熊谷 文学教育の面で大事なことと申しますと、子どもたちが、じつにひどい環境に置かれているということが前提になります。ことに読書環境・文学環境はひどいものです。これをどうにかしていかなくてはならない。で、そのためには、どの先生も文学教育ができるようになっていないといけない。教師自身、文学の学習指導が十分やれるだけの素養を身につけていなくてはならない、ということもあるが、一般的で具体的な指導方法がそこに考えられていない、という点にやはり問題があります。
 そこで、優秀な先生の優秀な実践報告を聞いておりますと、これはとうてい自分たちにはマネができない、手が出ない、ということになってしまう。これじゃあ、子どもたちの悪現実を打開していくことはできません。“誰にでもできる文学教育”といいますか、“普通の平凡な教師ができる文学教育”――これが指導方法として具体的にだされないと、どうにもならない。この問題が、先生のおっしゃる視聴覚的方法と関連するように思いますが……
 波多野 それは非常に関連する思います。文学教育を放送を通じてやるということは、けっきょく、文学のなかの文学作品の言語の問題、これは放送の場合音声というかたちで現れるのですが、その音声の面を特別にとりだしまして、ことばでもってこのような文学ができているじゃないか、ということを、子どもたちにハッキリ意識させる点にあると思うのです。そういう面で、放送によってはじめて文学への目が開かれたという子どもたちも、ずいぶんいるそうですね。
 熊谷 おりますね。
 波多野 わたしの聞いている範囲でもずいぶんあるのですが、小学校の一年から中学三年まで、あるいは高等学校までずっと続けていわゆる名作放送を聞いたとしますと、三百五十種類ぐらいの文学作品に接することができるのですね。
 熊谷 そんなにたくさんの……
 波多野 そのうちに、たとえば方向などは、どうせまたおとなになってから、読みなおしてみなければならないと思いますが、それにしても一生のあいだに三百五十種類の名作なんというものは、おとなになると忙しくて、とても読めるものじゃない。病気でもしなければ……
 熊谷 病気をしたときですか。(笑声)
 波多野 それを一年から高校のあいだに提供してくれる。その提供の仕方がことばのもっている味とか、においとか、そういうものを非常によくわかるように、専門の人が調べてだしてくれる。ここにわたしは大きな意味があると思うのです。
 しかし、そればかりじゃいけないのですね。というのは、文学作品というのは文字で現わされている。文字というものを媒介にしなければ味わえないような作品もあると思います。昔のものはそうじゃなくて、文字のない頃にできたのだからこれでいいが、今日のものは字づらというものが大切だと思います。文学作品の放送というものをキッカケにして、その読書というほうにはいってもらわなくちゃ困るが、これにも相当効果をあげているようですね。こんにちの学級ではたとえば『リア王』みたいなものを聞かせてみますと、あと学校図書館で、ずっと本を借りる子がふえるようですから。
 熊谷 このあいだ国語教育のある研究会によばれて行ったのですが、そこで国語教育における視聴覚的方法うんぬんの実践報告があったわけです。
 波多野 何か特徴がありましたか。
 熊谷 それが、ただラジオを聞かせ映画を見せる、それだけにほとんど終っているのです。
 波多野 そうでしたか。それは残念でした。
 熊谷 一葉の作品の学習を視聴覚的方法でというので期待していたのでしたが、彼女の作品を紙芝居で見せる、そういうことに終始しているわけです。
 波多野 そうでしたか。
 熊谷 現状ではそういう誤りがたくさん見られるわけです。そこで、先生に言語教育や文学教育における視聴覚的方法、そういう点について根本的にお伺いしたい、と思うのです。
 波多野 学校教育の体系のなかで、言語の教育というものは二重の役割をもっていると思います。一つは道具教科としての面です。これは社会科とか理科とかを勉強していく上に、ことばがわからなければ全然わからないのですし……そういう意味で文字をもつということがどうしても基礎的な能力になる。そういう意味での道具性という面がありますね。もう一つは国語なり外国語なり、そういうものを理解し、それが使えるようになっていく、そういう面ですね。この二つの問題の双方に視聴覚的方法が使われると考えたらいいと思います。……わたしの視聴覚的方法の根本的定義の一つとして、いつでも言語を伴なうということがいわれているのですね。言語を伴ないながら言語の教育をしていくというのですから、非常にことばがややこしくなりますが。
 熊谷 そこのところを、もうすこしくわしく……
 波多野 ……ことばというのは、あることがらの意味体系ですね。ことばは、ことがらを信号系で現わしたものです。それを第二信号系というのは、いつも第一信号の衣を着て現われるのですね。そこで、第一信号と第二信号との結び合いというものが、非常に大切な問題になってきます。
 第一信号がどんなふうにことばとして現われるか、第二信号というものが、どういう結び合いで実際の世界と違ったものになったり、または実際世界のなかで一番大切なものを現わしたりするかということを、子どもなりあるいは中学生・同校生につかませなければならない。それをやるのが理性的認識ということになると思うのです。ことばを学習させるには理性的認識を伴なわせながら、感性的な現わし方であるところのことばの音声とか、文章の形とかいうものをつかましていかなければならない。それで、ことばを伴なわせるということが非常に大切になるわけです。もう少し簡単にいいますと、ある文学作品を理解する場合に、文学作品の背景になる時代とか、あるいはその人物の性格とかいうものが、わかっていないと本当のことはつかめないのですね。
 熊谷 そうなんですよ。
 波多野 これは、わたしが背景的な教材といっているものなんですが、しかし文学の理解としては、それだけがわかったのじゃダメなんで、まだそのほかにそれがどういう具体的な形象をとおして出てきているか、ということをつかまなければならない。この二つの面がどうしても必要だというふうにいったらどうですか。
 熊谷 また一般的な話になりますけれど、戦後になって、“話しことばの教育”が国語教育の部面で盛んになっておりますね。
 波多野 盛んになりましたね。
 熊谷 だいたい昭和十年ごろからですか、“話し方”というのが“国語”に持ち込まれたのは。
 波多野 そうらしいですね。
 熊谷 で、戦後はこの話しことばの教育が盛んになってきたが、実際の効果があがっているかというと、結論としてはそうはいっていない。いやに口の達者な子どもというのは出てきた。おしゃべりな子どもといいますか。けれど、それだけのことに終始しているのです。
 それの原因として、次の二つのことが考えられるのです。その一つは、今日の話題とは直接関係ないことなのですけれど、何を話しあうか、また何についてディスカッションをおこなうかという、その何をという内容がネグレクトされている。つまり、なにか“ことば遊び”になってしまっている。司会ごっこをやってみたり、他愛のない、ごくさしさわりのないことしか話し合わない。そういうことしか話させないという点で、つまり話しことばの教育が成長しない。これが 一つです。第二は直接今日の話し合いのだいじな点だと思うが、視聴覚的方法が話しことばの指導の場に実現されていない。こういう点だと思います。
 波多野 いまの問題は、第一のほうは視聴覚的方法と関係がないと熊谷さんがおっしゃいましたが、実際は非常に関係がある……
 熊谷 本当はそうなんですが……
 波多野 内容から切り離されたことばというのは、視聴覚的方法のほうからいうと、いちばん排撃すべきことなのですね……
 熊谷 それは、そうですね。
 波多野 経験主義的な考え方ですと、なんでもことばをやたらに与えればいい、なるべく小さいうちから、ことばなり作品なりをたくさん与えることが大事なんだ、という考え方になりますね。しかし、わたしたちの考え方からいうと、そうじゃないので、ことばを与える場合には、いつもその背景の体験的な内容をかならずつけ加えておかなくちゃならないということと、それからやたらたくさん与えるということは必要でない。つまり、経験主義のほうからいうと、繰り返しをやるということが大事だという考え方になるのでしょうが、そういうことは、かならずしも大切ではないのです。……


八 現在の時点にたって

1 新教育の功罪
  〔経験主義と言語主義とはウラ・オモテ〕
 死の灰このかた反米熱が急力ーヴに高まってきているようだが、反米にもいろいろ変種があって、なかには「平和憲法、あれはアメリカ製だからいかん」というような反米論(?)もあるようだ。
 安保条約賛成、MSA大歓迎というような“親米的”な人にかぎって、こうした反米的な言辞を弄するのも奇妙なことだが、新教育をそういう方式の反米論で一蹴し去ろうというのは、なんとしても納得のつかぬことである。
 つまり、新憲法に対するのと同じように、親米的な人ほど、このアメリカ方式の新教育がお気に召さぬらしいし、故意に、あらぬ方向にそれをねじ曲げようとして躍起なっている。が、戦前のカサカサにひっからびた言語主義の教育――たとえば、ウソをマコトといいくるめた修身・公民・国史の授業内容や方法などとくらべたら、経験による実証をおもんじる経験学習方式は、そのかぎり 高く買われていい。
 ところが、それがじつは経験主義 学習にほかならぬという点に問題があるわけだが(第二章・五『文学教育の間題点』参照)、経験主義のこの新教育をワクづけているアメリカ方式の教育観や人間観は、アメリカ自体にとっても、もはや過去のものになりつつあるのではないか、と思われるのだ。自由のアメリカ――労働者・市民のアメリカにとっても、また水爆気ちがいのアメリカにとっても、もはや過去のものになりつつあるのではないか、と思われるのだ。
 既成の社会のしくみやしきたり、それから人間のこれまでのあり方といったものをスッポリ肯定して、そのワクに合致するような人間に子どもや若者たちを仕立てよう、というのがこの新教育のたてまえなのだ。その底を流れるものは生物学主義の人間観である。人間のありようと運命を決定するものは、だからそこでは例の精神の“発達段階”であるということになる。
 発達段階は、あえていえば経験に先行して経験の仕方やあり方を規定するもの、先験的なもの――アプリオリである。“新”教育の経験主義の基底にあるものは、あの古めかしい先験主義である。だから、じつは経験主義と言語主義とは異質的な対立物ではないのだ。すくなくともべースは一つものである。その一つのべースが、つまり先験主義にほかならない。

  〔復古はいけない〕
 この経験主義も、社会そのものがいきいきと発展していっている時期には、それはそれとしていちおう意味があったわけだ。けれど、ひとたび社会が足ぶみ状態になってくると、この教育方式ではどうにもならなくなる。現在のおとな以上の人間に成長してくれることを、子どもの世代に期待しなくてはならなくなるからだ。既成の人間の型(世のおとなたち)をモデルにして子どもを育てたのでは、社会の行き詰りを打開することはできないからである。
 そこでつまり、教育のたてまえそのものが改められなくてはならない。ことに、こんにちの日本にあっては、たんに既成の事実や観念を身につける以上に、子どもや若者たちは、今のおとなをのりこえて成長するために必要なものを自分のものにしなくてはならぬ。たんに現実を経験するのではなくて、経験の仕方――よりよい成長のための新しい体験の仕方を身につけなくてはならない。
 新教育プロパアの経験学習では既成事実をウ呑みに“経験”することはできても、既成事実そのものを批判して、それをのりこえ、それを改めていく方法(=体験の仕方)を実感するわけにはいかない。
 とすれば、このアメリカ方式の新教育ではもう旧い、ということになりそうだ。が、のりこえるというのは前へ進むということであって、逆行する、復古する、ということではないはずだ。問題はその点にあるだろう。
 ここ数年来の、コスモポリタニズムへの良心的な教師たちの抵抗のなかに(それを裏側からいうと、新教育――『学習指導要領』の側に立つ人びとの足並みのみだれのなかに)、すでに前向きの動きが出てきている。それにもかかわらず、いまこの時点において、逆コースに教師たちをかり立てようとする動きの見られる点に問題があるのだ。
 こんどの社会科の改訂にしても、改訂することには賛成だが、改訂の方向が問題なのだ。歴史なら歴史という科目を独立させること、そのことがいけないのではなくて、それを戦前の言語主義の方向へ復古させようとするタクラミがいけないのだ。
 事のついでいえば、問題解決学習か系統学習かというような論議も、奴れい教育の二つの側面である経験主義および言語主義への批判に出発しないかぎり、その意味はほとんど失われてしまう、 ということなのだ。

2 “安藤社会科”このかた
  〔問題の焦点がぼかされている〕
 道義を高揚して愛国心をよび起こす、という“安藤社会科”の改訂方式は、これまでの青い眼をした社会科を、黒い眼のそれに一八○度転換させようとしているもののように一般には受けとられてもいたし、またそうした印象から、PTAの組織の末端あたりでは存外人気を呼んでもいたらしい。
 が、むしろ、あちら好みの日本向け“新教育”を、MSA体制下、憲法改悪の線にそって徹底させようというのが、改訂のねらいだった。
 こんどの改訂についても、耳にするのは、ほとんど、新教育よう護 か反対の立場からの賛否の声だが、すくなくともそれは、改訂の本質と方向において、新教育の否定ではない。
 早い話が、これまでの社会科では、軍事基地のことには全然ふれないしくみ になっている。七百をかぞえる国内の米軍基地は、ともかく学校教科書の上では実在しないことになっていた。
 そういう点が改訂されたのかというと、これは元のまま。いたずらに子どもや若者たちの神経を刺戟しないように、という親心によるものか、それともどこかへ気がねしてのことなのか、いうだけヤボな話だろう。
 くりかえしになるが、戦後の経験主義の教育は、けっきょく、今のおとなをモデルとしつつ、現存の既成の秩序に適応して成功しようとする“実用的”な人間を濫造する結果となる。しかし現実に“成功”する者が、はたしてどれだけいるかは、今春新卒の児童・学生の就職率を見るのが早わかりだろう。
 新教育が批判されなくてはならぬのは、理論的精神を否定するその経験主義であり、俗物的な立身出世主義に通ずるその実用主義である。道徳教科である新社会科は、しかしけっしてその点を批判しようとはしない。

  〔“修身”の復活〕
 功利的なこの実用主義を温存したまま、徳目主義――“修身”を復活させたら、どういうことになるか。三十代以上の人なら、それこそ“経験”でわかっていることではないか。わたしたちは、わたしたちの少年期や学生時代、あるいは軍隊生活を思ってみただけで十分である。
 まず、陰日向のある要領のいい子どもが“良い子”だといってホメられるようになる。これは見えている。
 彼らが成人して若者ともなれば、――そこで、あなたは、ご自分の軍隊生活をふりかえってみるのが早わかりだ。軍隊は万事“要領”である。他人や他の班の所持品・所属品をかっ払ってでも点呼に員数を合わせて、自己の“責任”をはたす。一つ、軍人は“礼儀”を正しくすべし、というわけで、「班長殿、ご苦労でありました」などと心にもないことを口にしながら、遊び呆けて帰営した下士官殿の巻脚絆に飛びついた一昔前を、あなたは、ゆめ忘れはしないだろう。
 改訂社会科のもたらすものは、つまりそれだ。憲法や児童憲章を空文にしておいて、それで礼儀がどうの責任がどうのと、お題目(徳目)を並べてみたって、子どもや国民の道義心は向上しはしない。結果はむしろ、逆だ。ことさら、教師が、その徳目を天皇に結びつけて説明させられるようなことにでもなったら、それこそ名実ともに戦後版天皇制臣民教育の登場である。
 それは、この“修身”を、系統学習方式によらないで、問題解決学習でやっていく、というようなことで解決されることがらではないのである。

3 文学教育の方向
  〔系統学習か間題解決学習か〕

 このようにして、また、こんにちの学校文学教育についても、問題解決学習としての学習方式をそこにえらぶべきか、それとも系統学習の方向にそれを進めるベきか、といったふうな考え方をすることはナンセンスである。
 何よりもまず、経験主義と言語主義の否定に徹すべきである。あえてもう一度くりかえすが、この二つのイズム・方式は、あらわれ方を異にした先験主義の二つの側面にほかならない。批判ずみであるはずの、あの先験主義* のそれぞれの側面にすぎない。
 問題解決学習か? 系統学習か? …それを考えるのは、一度まず先験主義批判を通過してみたうえのことである。
 そして、あえていえば、そこを通過しさえすれば、こうした問題のうちだし方自体がナンセンスであることも、しぜん明らかになってくるはずのものなのだ。どうしてかといえば、系統学習か問題解決学習かという問題のだし方は、じつは暗々裡に言語主義か経験主義かという問いを前提としたものだからである。
 たとえば、社会科の新指導要領の作製者の一人である大島康正氏は、「戦前の“君に忠、親に孝……”を天降りにお説教するような修身教育に逆戻りしないで、新しく積極的なものを現実に打ち出す」ような社会科のあり方を考えて、「文部省の委員会でもこと倫理に関しては、いわゆる系統学習に反対して、問題解決学習を一貫して主張」されたそうである(『世界』一九五六年七月)。こうして系統学習の方式は、戦前の言語主義の教育(天皇制臣民教育)の復活を予想させるものであるらしいし、また問題解決学習の方式こそは、現段階では新教育よう護 の親衛隊の任務を担当するものである、ということになるらしいのだ。
 だから、何遍でもいおう。新教育(――経験主義・実用主義)よう護 の立場からの言語主義の排撃はナンセンスである、ということを――。言語主義から経験主義へ、そしてふたたび言語主義へという、再転・三転の教育思潮の移り変りは、民主党から自由党へ、そして保守合同・自民党結成へという政権のタライ廻しみたいなものだ。単独では政権が維持できないから、経験主義はいまや言語主義と結びつく。まず、そんなところだ。
 が、経験主義だけではどうにもならぬ、というより、本来のその意図に反して、経験学習があるべき経験学習の姿をとりはじめてきたことが相手方をあわてさせた理由の一つだ、ということになろう。抵抗教育の成果に狼狽した言語主義への復帰――まずは、そういったところである。  
 * この点については、故戸坂潤氏『“文献学”的哲学の批判』・『偽装した近代的観念論』等々の諸論稿(『日本イデオロギー論』所収)にくわしい。

  〔抵抗教育への反省〕
 ところで、右に見てきたような抵抗教育――民主民族教育としての文学教育という線でずっとおしてきているのは、日文協(日本文学協会)ラインの文学教育活動である。
  それは、森山重雄氏によれば、「現実を隠蔽し、植民地的頽廃を見て見ぬふりをし、これと野合した」コスモポリタニズムの文学教育をしりぞけ、「人間に働きかけ、生徒の心のなかに真実を求めようとする意欲を呼び覚すような文学教育を主張しよう」とするものであった(『国語教育の十年』――日本文学・一九五五年六月)。
 当然そこでは『学習指導要領』ラインの言語教育や文学教育は「植民地的従属のために強いられた国語教育」として全面的に否定される。そして、こんごの課題を「この〔指導要領の〕言語教育におけるプラグマチズムと文学教育におけるコスモポリタニズムの両面に対して、統一的な批判を加え、これを克服する道を発見する」という点に設定する。こうして、いまや、文学を愛し教育に情熱をかたむける多くの“民族的良心”によって、理論的にまた実践的にこの課題への応答がつぎつぎと試みられている。明日への期待が、日文協ラインのこの方向において満たされるであろうことは疑いをいれない。
 ただ残念に思うのは、そうした良心の呼びかけが、結果において現場の大多数の教師に聞き過ごしにされている点である。聞きすごしにするほうにも、むろん問題はある。が、それを聞き過ごしにしても、現場の実際面では直接べつにさしつかえは起こらない、というふうに考えさせる何かがそこにあるのだ。問題はその点である。
 ことばとしてプラグマティズムを批判はしても、プラグマティズムの本家本元である生哲学そのものは批判できないでいるばかりか、自分自身、かたちを変えた生哲学(――民族的生の自己同一)の立場をとっているという矛盾、――そうし自己矛盾に問題のヤマがあるよう思われるのだ(第二章・五『文学教育の問題点』参照)。
 認識論的逸脱をとげた、そうした立場からのプラグマティズム批判やコスモポリタニズム批判が、声の大きいわりあいにナカミの薄手なものになりがちなのは当然である。そこには、相手の心にじっくりと訴えていくものがない。深い民族愛に根ざす、その呼びかけが、単なるイデオロギー的立場からの“演説”というふうに受けとられがちなのも、そのためである。
 こんにちの時点において、文学教育は、抵抗教育としてあるのほかはない。それは、こんにちの文学が抵抗の文学としてあらねばならぬということとも理由を一つにしている。伊藤整氏が、「文芸作品をもって教育・指導の具たらしめようとする愚劣な考え方」について語り、また「秩序を作る材料として芸術を利用するほど、芸術の本来の性格に反したことは」ないこと、「芸術は、秩序に対立して人間性を主張する力の現われであり、常に被害者または被圧迫者または攻撃者、破壌者の立場をとるもの」であることを指摘しておられるが(『創作と批評の論理』――『世界』一九五六年八月)、文学および文学教育の方向をこれほどハッキリと示した文章はまれである。
 が、文学教育が、こうして抵抗教育・民族教育としての方向をめざすかぎり、それは当然自己の理論的立場についてたえず深い反省を試みるものでなくてはなるまい。なぜなら、「理論的な克服だけで事物はけっして現実的に克服されるものでないことは明らかだが、逆に理論的な克服なしに実際的な克服をまっとうすることは実際的にいってできないことだ」(故戸坂潤氏)からである。

頁トップへ


第三章 文芸学と文学教育

一 認識としての文学

1 文学の表現を成りたたせるもの
 「あのとき、あそこで、きみのいったことは……」というような表現は、そのとき、その場にいあわせた共通の体験をもつ者どうしのあいだでは、したしみ深くほんとうにぴったりした、いいあらわし方でもあろう。
 だが、かりに、こんな調子で書かれた葉書が、まちがってほかへ舞い込んだとしたら、どうだろう? 「あのとき」がいつのことであるのか、「あそこ」というのがいったい何処のことなのか、てんでわからない。
  また、かりに、あのときが何月何日の何時ごろのことで、あそこというのは、どこそこのことだ、と説明されてみたところで、あのとき、あそこでの体験をもたない者には、ほんとうにはその気分はわからない。
 けれど、また、たとえ直接「あのとき、あそこで」の体験をもたない人であっても、一度でもそれと同じような雰囲気を味わったことのある人なら、そこに多少の情景の説明がともないすれば、自分の体験をもとにして、「あのとき、あそこで」の他人の体験を、その心情にまで分け入って、かなり事こまかに、かつかなりの正確さをもって理解できるはずである。
 さらに、また、相手が実際にそういう気分にひたったことのない人であっても、そういう情況(情景)のもとに身を置きさえすれば、すぐにもその雰囲気のなかへ溶け込んでいけるというふうな生活をしてきている人であったら、これも説明の仕様ひとつで、「あのとき」の気分はわかってもらえようというものだ。
 文学の表現が成りたつのも、いわばこうした意味での体験の日常的共軛性――かならずしも共通性ではない、共軛性である――においてである。むしろ、異なる体験を共軛性(ふれあう面)においてつかむのである。
 作品がしめす人生と人生のありようとは、作家にとっても、また読者の側からみても、自分が現に体験している現実とは別のものだ。にもかかわらず、現実がそうである以上になまなましくいきいきとしているのが“描かれた現実”であるというのはそれがふれあう面においてとらえられ、訴えられ、受けとめられた現実であるからだ。
 文学が文学として作用する、文学の表現がそこに成りたつのは、このようにして享受においてである。描かれた現実を準体験* すること、これが享受(=鑑賞)である。
* 現実の人生コースにおける直接的なナマの体験と、行動の代行としての、ことばによる“体験”(描かれた現実における人生体験)とを区別して、後者を“準体験”(体験に準ずるもの)と呼ぶことにする。

2 日常性・非日常性
 だが、以上のことからして、文学の表現(ないし認識)をたんに日常的な性質のものだというふうに考えることは誤まりだろう。それは、日常性に即しながら、それでいて日常性を超えたところに生まれてくるものだ。どうしてか? 創作体験にせよ享受体験にせよ、文学の体験(=準体験)というのは自分を見つめること――自己凝視の体験だと普通にそういわれている。けれどその自分というのは、作家の場合に例をとってみれば、読者一般の生活と思想につながる自分であるわけだ。そういう自分というものは、もうただの日常的な自分ではない。たとえ自分の生活の日常には、旧い思想や旧い観念のワクからぬけきれぬものが残っているとしても、文学者としての自分は、そのような生活の実感をころして、民衆の心を心とすることで創作にしたがわなくてはならない。
 作家もまた、創作において別の人生を準体験するのである。準体験する(=認識する)ということが、つまり創作する(=表現する)ということなのである。だから、形象的現実――文学的 形象の世界は、作家が自己の体験の日常性(生活の実感)に即しつつ、しかもそれを越えたところに生まれる、ということになるのだ。
 それを読者のほうからいうと、作品に描かれている人間の生活は、まがいもなく白分の生活につながるものを持っている。というより、自分のいいたかったこと、訴えたかったことがそこに語られているのだ。ことばにあらわしえなかった自分のおもいが、ある一つのまとまりをもち、あるきまった秩序にしたがって述べられているのである。
 だが、その思考の秩序と行動の軌跡は、自分の生活の日常におけるそれとはかなりかけ離れた性質のものである。が、しかし、作品の表現がしめしているような秩序によらなければ、自分のおもいは、けっきょく、ことばとなって相手に訴えるちからになれないということも、いまは明らかなのだ。
 読者も、日常的な生活の実感のワクのなかで文学を享受することをとおして、体験のワクをこえ、非日常的な体験を体験(――準体験)するのである。

3 典型の認識
 ところで、文学の方法は科学のそれとはおもむきを異にしている。それは、現象を一般化(=抽象化)するのではなくて、典型化するのである。それを別のことばでいうと、非口常的なものをなかだちにして別の体験に移っていく、ということなのである。別の体験に――つまり典型的な生活面における準体験にである。現象の典型化というのは、だからまた、典型的な現象を求めて問題のありようをキワ立たせる、ということだ。それは、たとえば、ある出来事なら出来事が大きな問題をはらんでいるということを、実感として読者に納得いくところまで出来事そのものを特殊化し拡大する、ということである。
 それはたんに量的な拡大ではなくて、質的な――である。しかも、あくまで日常性に即してである。そのことで、時代に共通する本質的な問題、時代のもっとも新しい問題をいわば日常的な感覚・感情の波の起伏にそって探りあてるのである。いいかえれば、それを、典型的な生活面に移して具象的につかみとるのである。文学の認識が典型の認識であるといわれる理由だ。
 体験から準体験へ、日常的直感から典型の認識へ――。この質的な飛躍・転換を媒介する“非日常的なもの”というのを、けれどたんに理論的認識一般をさすというふうに考えるのは事実に反している。典型の認識にとって理論的認識はむろん必要だ。が、そのことは、理論的一般的認識が直接それを媒介するということではない。おいおいに問題をそこへ迫い込んでいこう。

4 何が抽象的で何が具体的か
 わたしたちは、自分が体験によって身につけた知識(日常的な知識・常識)を信頼して生きている。それは“この目で見た現実”であるからだ。だが、ほんとうをいえば、自分にとっていちばん確かで具体的だと思われる、この日常的体験的なものほど、抽象的なものはないのである。
 つまり、人びとは、自分の置かれている生活の場面、場面から、一方的・一面的にこの世界(客体)を抽象して、めいめいの“現実”をそこにつくりあげている。そのかぎり、現実というのは主観的なものだ。
 主観的・抽象的なこの自我の小宇宙が自分にとって具体的なものとして受けとられる(実感される)のは、自分の生きている生活面のワクの規定が自覚されていないからだ。それは、つまり色盲が自分の欠陥を感じていないようなものだ。
 そこで文学の役割――文学の認識は、そういう日常的現実体験の抽象性を自覚するためのものだ、ということになろう。いつもは気づかないでいる生活のワクを自覚することで現実を見なおす、ということなのである。
 いいかえれば、日常的現実体験の遠近法(――ふだん、どういう仕方で現実を体験しているかという、その体験の仕方)の軸を自覚することだ。
 ただ、それを科学のように超個人的・普遍的立場においてでなく、身体的生活場面を同じくしている人間の立場においておこなうのである。いいかえれば、多である現実の一つに身を置いて現実の内側から現実そのものを追求していこうとする。これが文学の認識である。
 科学にあっては認識様式と表現様式とはむしろ別のものだが、文学においてはそれは一であって二ではない。認識することが同時に表現することであるという、認識即表現の関係がそこに見られる。
 文学の創作過程は、非日常的・一般的な角度からまず現実を認識しておいて、さてその次に認識内容そのものを文学という形式に移して表現するというようなものではない。一般的認識は文学以前のことにぞくしている。
 この“文学以前”が文学そのものを縛るかどうかは、その理論的認識が作家その人の知性の実感にまで深められてきているかどうかできまる。文学の作家は、知性の実感に媒介された・自己の日常的な生活の実感において問題を認識するのである。知性の実感において問題がとらえられずに、たんに一般的な認識において問題が提出されているような場合、だからそれは“観念がさき走りした作品”になってしまうのだ。
 このようにして文学は、かぎられた一定の生活場面に立つ人びとの認識の代行として、見ようによっては無規定とも思われる、融通性に富んだことばの使用によって現実を認識し表現する。科学が規定性の極に達したことばを選ぶのに対して、むしろ融通性の面に徹し、ことばのあや をぎりぎりのところまで生かそうとする。
 科学のことば(――規定性におけることばの使用)としては、あるきまった波長やその状態をあらわす“赤”とか“赤い”ということばが、日常生活の面ではかなり否定的なニュアンスをこめて“革新的”とか“左翼的”というような意味にも融通して用いられている。
 ことばを通路とした芸術である文学が、融通性の面におけることばのあや を生かした表現を選ぶのは当然のことである。芸術は、もともと、享受者の日常的な生活感情の波の起伏にそって問題を認識し表現しようとするものなのだから。

5 主体性論争をめぐって
 科学の認識は客観的で、文学のそれは主体的であるという考えが一般に行き渡っている。客観的と主体的と――。むろん、そういうふうにいったってかまわないのだけれど、それだから科学の分野では主体(人間)の実感というようなことは問題にならないとか、文学のほうでは逆にこの“実感”だけが問題なのであって、理論的認識など何ものでもない、というようなズレた議論におちいりがちなので困るのだ。
 結論をさきにいうと、科学を成りたたせているものも、また文学を文学として成りたたせているものも、それはこの主体(――認識の主体、実践の主体、人間)の実感にほかならない、ということなのだ。ちがいは、ただ、理解者の実感のワクの仕切りをどこに求め、その理解の通路を、どこに見いだすか、ということだけだ。
 人間を離れ、人間の実生活を離れて、文学も科学も何もありはしない。
 そこで、まず、実感とは何かということだ。それはまた同時に、主体とは何か、主体を主体として成りたたせている主体性(=人間性)のどういうものか、という問題でもある。ここに思いださずにおれないのは、戦後、文壇ジャーナリズムの問題となり、ついで哲学の分野に波及していった主体性論争である。
 この論争でとりあげられた問題の範囲はかなり広いが、戦前から戦後にもちこされた人間観の一面性・抽象性が論議の焦点であった。
 つまり、歴史的なもの(客体)が人間(主体)を決定するという人間観の一面性が批判され、客体によって決定しつくされない何かが人間にはあるということが語られ、そして「人間を決定するものは、心理学的なもの、あるいはさらにその基礎にある人間の生理的な地盤から生ずるいろいろの条件である」ことがそこに結論されたのである(引用は、『世界』一九四八年二月号)。
 一方、それはあまり一面的な人間のとらえ方ではないかと非難されたほうの側からも、自分たちは「これまで人間のことをあまり扱わない」で過してしまったことや、実際に「人間軽視の考え方」をしていたということや、また「人間を抽象的にのみ見る考え方」に囚われていたことなどの反省がなされて(引用は『理論』第八号)、いよいよこの結論は揺がないもののような形になっていった。
 ところで、「主体とは?」というような問題がそこで追求されたのはどうしてかというと、めざすところは人によってまちまちである。歴史的に決定しつくされない何かがあることを認めたうえで(つまり現実と主体とのズレを認めたうえで)、客体のありようを正しく反映した理論的認識(公式)が実際実現されるための「文学的実践的な主体の新しい形式を求めて」の探究であるような場合もあった。また、そうではなくて、矛盾のあるのが人間というものだからというので、矛盾した自分というものを(或いは矛盾に満ちた自分の実感を)それとして肯定してしまうための問題探究である、という以外に考えようがないような議論も見られた。そして、どちらかというと、この矛盾を認めることで自分を甘やかすというための議論が多かったようである。
 けれど、いま、わたしたちが「主体とは?」「実感とは?」、というような問いをださなくてはならないのは、それはなにも自分の実感を甘やかすためではなかったはずだし、矛盾だらけの自分について、いいのがれの口実を見つけるためでもなかったはずである。
 すくなくとも、それは、わたしたちにとって、科学的な認識理論(あるいは科学的世界像)を行動の体系としての世界観にまで主体化す(実感として身につける)ためにこそ必要であったわけだ。それもこれも、わたしたち自身の思考と行動とをゆがみのない、まっとうなものにするためにである。いいかえると、正しい科学理論を自分の実感としてしっかり身につけないことには、まともには生きていけないぐらい、むずかしい世の中になっている、ということなのである。

6 “実感”の分析
 話がここまで進むと、幾分ハッキリしてくると思うのだが、主体を主体として成りたたせているものが、歴史社会的に決定しつくされない何かというような、それこそ何かモヤモヤしたもの――つまり、自我の奥深いところにひそんでいる“知られざる或もの”といった、単なる内部的・主観的なものでないことも、また明らかだろう。
 たんに主観的なものは主体的なものではない。主体(人間)は、現実的で具体的なものだ。それはまた、単なる心理、単なる生理というようなものではない。
 じつをいうと、心理や生理というような、なまみの肉体のはたらきも、それはたんに“自然”として自然法則にしたがうものではない。むしろ、そうした肉体のはたらきさえもが“社会的なもの”としてあるということこそ、人間をほかの自然物から区別している当のものなのである。そこで、自分の実感からきたえなおすことで自分の主体をゆがみないものにするという場合の、その実感は、人間のいとなみを規制する行動の体系としての実感のことである。行動の体系としての実感――それこそ世界観(=世界直観 Welt-anschauung)ということばのもつ、ほんらいの意味だろう。だから「世界観だけでは……」でなくて、世界観なしには、人間はなに一つ人間らしいいとなみ をいとなむことはできないのだ。
 そこで、次のようにいえるだろう。問題にするだけのネウチのある“実感”というのは、こういう文脈で理解される実感にかぎられる、というふうに――(話をちょっと横すべりさせるが、ひとが「世界観だけではスケッチひとつかけない」という場合の、世界観というのは、じつは世界観プロパアのことではなくて、世界観として主体に翻訳される以前の科学的世界像、概念的一般的認識というようなもののことではないか、とも思えるのだ。ともかく概念規定のあいまいさからくる用語の混乱が、不必要に主体性論争を錯綜にみちびいていたのではあるまいか)。
 それで、つまり、“実感”というのは行動の体系のことだった。行動の体系としての実感は、それが体系としての組織とまとまりをもつことで、やはり概念に規制された概念的なものであると考えられなくてはならない。実際問題を実地に解決するための、それはことば(概念)を足場とした行動の代行にほかならない。
 「理論的な克服だけで事物はけっして現実的に克服されるものでないことは明らかだが、逆に理論的な克服[なしに実際的な克服]をまっとうすることは実際的にいってできないことだ」と、故戸坂潤氏は語っておられた。で、そういう意味での理論的な克服は、実感の裏づけなしにはおこなわれない。事物の克服を必要とする主体の側の主体的な要求(そういうことを必要とするなまみの人問の実感)が、このばあい理論のささえなのだ。
 そこでまた、逆に、この実感は、既成の理論的成果(公式)を拠りどころとすることで成りたち、また、新しい成果を自分の思想のうちに生かすことで、実感は深まりもし高まりもする、という関係が見られる。この点の認識が、さしずめ、いま、だいじなのだ。
 ついでにいうと、科学も、それが人間の自由と解放に役立つ、いきいきとしたものであるためには、そこに実感の裏うちが必要になってくる。科学が人間の社会意識と結びついたもの――イデオロギーであるといわれているのも、それが主体的なものであり、一定の立場において認識が進められているということにつながっている。また、科学がもともと主体的なものであるからこそ、それの当面のにない手が誰であるかということにより、科学そのもの・理論そのものの真偽がきまり、客観性のあるなしがきまるということにもなるのである。
 形象のことばによる芸術にしたところが、同じことだ。誰が、どういう主体が、それの現実のにない手であるのかということによって、芸術そのものの性質――性質ということばは、このかぎりでは方法といいかえても世界観ということばに置きかえてもいい――が具体的にきまる。
 ただ、見落されてはならないのは、このにない手の中軸が作家にあるのではなくて、中心はむしろ享受者であるという点である。目標を、“偉大な民族文学の創造のために”という点にしぼって考えてみて、なおかつ学校文学教育の主要な任務が“すぐれた読者の創造”にあるという理由も、そこに求められるであろう。


二 文学教育の底流

1 文学教育の必然的前提
 叙述様式としての科学の認識成果の表現(記述)は、しかしそれとしては非日常的・抽象的なものである。それを、わたしたちが、わたしたちの日常的生活の現実面において受けとめたときに、科学の認識は、はじめて生きた行動の体系としてわたしたちの実践を規制するものとなる。
 文学の表現は、ところでその日常的・具象的表現を一度非日常的なものにまで抽象・概括することなしには、その作品を文学として読んだことにはならない。と同時に、それをただ抽象し放しにしたのでは、やはりまた文学として読んだことにならない。抽象し放しでなく、それをもう一度日常化する(生活の場にかえしてくる)という操作が、その作品の表現を文学にするのである。表現理解という面にしぼっての科学と文学との機能的なちがいは、さしずめ以上のような点である。
 文学教育は、そうした文学独自の機能をつかんだ教育でなければならない。そうでなければ、それは文学教育にはならない。
 ところが、文学教育が文学教育としてのいとなみを進めていくうえに、そのささえとなるべき文学論――現実におこなわれている文学論そのものが、かならずしも右の文学独自の機能を正確につかんでいるとはかぎらない。
 そこにおこなわれている文学論議が、けれど半世紀前、ときとして一世紀もその余も前の哲学論議・美学論議のむし返しである場合がすくなくない。色あせた生哲学・実存哲学、さらにデュ・ボア・レーモン流の不可知論や新カント派の再登場をそこに見るのだ。なんたることか。
 こんにちの文学教育のありようをゆがめているもの、その正常な進路をはばんで大きくたちふさがっているものに、この“文学論”がある。現代文学論批判こそは、わたしたちの文学教育活動を進めていくうえの必然的な前提となるものである。

2“文芸学は可能か”の問題 
 そこで、さしずめ、次の四つの文学論をとりあげて考えてみよう。
 中野重治氏著『文学論』(ナウカ講座、一九四九年一二月刊)
 桑原武夫氏著『文学入門』(岩波新書、一九五O年五月刊)
 福田恒存氏著『芸術とはなにか』(要選書、一九五〇年六月刊)
 加藤周一氏著『文学とは何か』(角川新書、一九五〇年八月刊)
 が、課題の趣旨からいって、とくに問題をはらんでいると思われるのは、加藤氏の『文学とは何か』と、福田氏の『芸術とはなにか』とである。
 というのは、(1)それぞれ別の視点、別の角度からではあるが、この二つのエッセイが始発点にさかのぼって、文芸学は可能かという問題(あるいは、芸術の研究に科学の方法が適用され得るかという問題)を吟味しなおしたものであるからだし、また、(2)そうした吟味の結果が、文芸学の否定に(加藤氏の場合)、さらに一歩突き入って科学そのものの否定にまで至っている(福田氏の場合)という点に、並々ならぬこんにち的な意義がよみとられるからである。
 さらにまた、(3)文学というものの性質からいって、それの本質は客観的方法によってはとらえようのないものだと福田氏もいい、加藤氏もけっきょくそういうのだが、そういう文学の性質というものが、客観的方法以外のいったいどういう方法によって突きとめられたものであるのか、という点が興味であるし、また、(4)そうした科学的方法の適用を拒む論拠としてそこに挙げられている、いくつかのことがら(たとえば、文学の内面的規定としての“美”や“才能”、“文学的体験”の特殊性etc)は、文芸学者たちのあいだでも、ほんとうには吟味しつくされていない問題であるだけに、むしろ、これらの論者たちの解決に期待するところが大きいからである。
 ――等々を含めたいくつかの理由からして、ここでは、加藤・福田両氏の論旨を軸として、さらにその論点の交叉する個所で桑原・中野両氏の労作に言及したい、と考えている。
 が、そのまえに、福田・加藤両氏の評論が、いわば文学的知識人ともいうべき人たちを相手の問題の提起であるのに対して、中野氏の『文学論』は、産別その他おもに組織労働者の人たちに向けて語られたものであり、また桑原氏の『文学入門』も、学生、教師、労働組合の人びとを相手に、「お互いに社会人として」問題を考えようとして書かれたものである(はしがき)ことをいいそえておかなくてはなるまい。誰を相手に書くかということは、けっきょく、誰の立場――どういう立場に身を置いて問題を考えるか、ということであるのだから。そういう相手の選びが、それを書く人の思考の道筋に制約(方向づけ)を与えないはずはないのだから。それはアクセントの置きどころの違いということもあるが、しかしそれだけにとどまるものではない。

3 文学論の起点
 なるほど、たとえば、「いい小説だけれども、あれは学者の生活を書いたんだから、労働者の生活を書いたものにくらべれば値打ちが低いのだとかいうふうな、そういうせまい考え方」に落ち込んではいけない、という中野氏のことばには、労組の人たちを目の前にしての幾分のアクセントがあるかも知れない。また、たとえば、その反対に、こんにちの日本の現実から問題をさぐろうとする作家は、当然、組織労働者を描かなくてはならぬはずだ、という加藤氏のことばにも、むしろ語ろうとする相手が小市民的知識人であるところからくる、ある種のアクセンチュエーションが考えられなくてはならぬのかも知れない。だが、けっしてそれだけではない。
 中野氏についていえば、『新日本文学』の誌上座談会あたりで“進歩的”知識人をあいてに談論風発している時のかれなどより、労働者あいてに語っているこの中野氏のほうが、ずっと階級的立場にも徹しており、意見も建設的で具体的であるということだ。
 さっきのあの「せまい考え方」というのも、労働者独善のせまい考え方というふうな意味ではなくて、それこそまさに小市民的な考え方のせまさであることを指摘して、それがインテリを描いたものであろうと、戦争未亡人の生活に取材したものであろうと、およそ「平和のために、あるいは今日の生活の苦しさからのがれ出ようとしてもがいているものであるかぎり、……援護するという立場で、その欠点やまちがいをも正していく、という方式をわれわれはとらなければならない」と述べている。そういう方式によらないかぎり、民衆の自由と平和のためのたたかいを徹底的に支持するという労働者階級の歴史的任務は遂行されえない、というのだ。
 労働者階級のそういう現実的な文学の創造・育成という立場から、「われわれとしては、文学というものを、まずもってひろい意味で考える必要がある」ことを述べている最初の一章は、とくに光っている。中野氏は、そこのところで、「ひろい意味での人間の表現の仕方の一つとして文学があるのであって、自分を表現するには、言葉、文字を使うやり方としては、新聞記事もあれば法律の条文もあるのですから、そういうものすベてをひっくるめて文学というものは考えられ、そのなかでそこから専門的なものとして出来てきたものをせまい意味での文学というということになるでしょう」といい、詩や小説が「それ一つでポツンとあったのでも、あるものでも」ないこと、「こういう関係は、歴史的にもそうであり、個人の場合にもそう」であると語っているが、すべての文学論は、ここを起点として始められるべきだ。
 人間の生活のいとなみの一つとして(また人間の生活のために)文学があるのではなくて、文学のために人間があるというような、まるでそれ一つがポツンとあるみたいな文学論の横行しているさい、中野氏のこの指摘にはふかい意味がある。
 だが、たとえば、ヘタでたくみでないが人を感動させるというようなのが「文学としてほんとうに値打ちのある文学」だ、といった式の粗雑ないい方はヤメたほうがいい。「よい本とは、初めからしまいまですべて正しい本という意味ではなく、多少の錯覚があっても、正しいところはひどく正しい、という本のことである」(『文学入門』)という桑原氏の整理された表現に学ぶべきだろう。 

4 実存的孤独
 ところで、組織労働者を描けと説いている加藤氏のほうは、中野氏とは反対に、むしろ階級的な文学観や人間観を否定する立場から、そのことを提唱している。
 加藤氏の考えでは、小説はかならずしも人間を社会的な相のもとに描く必要はないのであって社会的に孤独な、もしくは「社会的身分や歴史的条件に本来かかわりない人間の孤独(非社会的な孤独=絶対的孤独)を追求」することで、かえって日本社会の後進性を超越することもできるというのだ。「人間性の変らざる部分に対する信頼と黙示録的現実の体験」の必要がそこに説かれ、さらに、ついで、「もしわれわれが自己の内部へ深く降りてゆくことによって、一般に人間的なものを探りあてれば、……小説に如何なる社会を背景として用いようと普遍的な文学をつくることができるはず」だ、という願望がそこに語られている。
 じつにハッキリしているではないか。組織労働者を描くということも、それは、個人としての組織労働者の意識に内在する、超階級的・普遍的人間を主人公とするということなのであって、社会的人間としての現実の労働者は、そういう内在的人間(普遍的人間)を、キワ立たせるための「背景」にすぎない、というのだ(そこに描かれるものは、つまり骨抜きにされた組織労働者だ)。だから、描く相手はなにも組織労働者にかぎるわけのものではないのだが、なるべくなら ニュー・ルックでいこう、というわけなのだろう。「孤独な精神の構造に(社会的孤独と非社会的孤独との)二面があるとしても、……一面だけ現れる場合は少い。リルケの孤独(非社会的孤独)も純粋に絶対的なものでは」なかった、と加藤氏がいっているのは、語るに落ちた感じだ。
 ともかく、人間――現実の生活をいとなむ社会的人間のよりよい生活のために文学があるのではなくて、逆に、普遍的な文学の創造と栄誉のためにのみ人間が存在理由をもつ、ということになるらしい。人間のレーゾン・デートルは、然り而うして歴史的時間をこえた「永遠なるもの」に合致する実存的孤独(絶対的孤独)においてのみ保障される、というのである。
 こうして、加藤氏にとっては、「世代の交替する社会の、無数の人間の一人としての自己が問題なのではなく、ただ一人の、一回的な存在としての自己が問題である」のだが、氏が文学的体験を「一般化されない一回的なもの」として客観的方法の適用を拒むのも、つまりはこうした立場からであるし、『明暗』を孤独の文学として手放しでホメちぎっているようなのも、やはりまたこの立場においてである。

5 あぐらをかいたニヒリズム
 福田氏は、加藤氏のように、「人間性の変らざる部分に対する信頼」というようなことを、直接口にだしていってはいない。けれど、さかんにベルグソンの口移しみたいなことをいってみたり、また、生哲学ふうの概念を援用して万事(?)生哲学流に問題を処理しようとかかったり、またたとえば、「古典がつねに新しいゆえんは、それが人間性の本質に通じたカタルシスの効用をもっているから」だ、と語っているような点からも、福田氏もやはり、普遍人間的なものへの信頼感にもたれかかってものをいっていることは明らかだ。
 福田氏によると、現代こそ呪術の時代であるというのだ。ジャーナリズムという「呪術的秘儀の場所」において、「右から、左から、中立の立場から、呪文の放射線」が交錯している。つまり、現代においては、何もかもが呪文である。それで、「われわれは正しい認識をもって現実に処するにしくはない」のだが、正しい認識だの正しい実践なんてものは、むろんあるはずがない、というのだ。科学もまた、呪文の一つにすぎない。
 科学が「観察し実験し検証し説明し組織しうるものは、つねに過去である」にすぎない。「この過去から経験主義 的に帰納しえた方法によってのみ 未来をとらえよう」(圏点筆者)とする科学は、しかし「人間精神のいとなみを、その全領域にわたってうしろむきにして」しまっただけである。
 ところで、芸術は――芸術は「演戯」である。「演戯というのは、自分で自分を位置づけること」である。つまり、一切が呪文と化してしまった現代にあっては、演戯することによってだけしか、人間は生きがいを感じることができないし、また、自由を自分のものにすることもできない。「人間の自由とは、演戯の自由のほかのなにものも意味しません。」芸術だけが救いだ、という声が、どこからか聞えてきそうである。
 芸術だけが救いだ、――そう思うのは当人の自由だ。それもいいだろう。だが、救いである芸術は、福田氏のいうとおり、自分で自分を位置づけする以外に成りたちようがないのだ。いっさいを否定することで自分自身をも否定してしまった人間に、いったいどう自分を位置づけすることができるというのか。「人間は――個人は――つねにまちがいを犯す存在であります」なぞと居直ってみたところで、それはそれだけの話で、問題の解決になりはしない。
 福田氏は、また、「芸術とはなにかを知ろうとすれば、芸術作品につく」ことだ、といっているが、芸術作品につく――芸術作品を享受するということは、享受者自身、作者(演戯者)といっしょに演戯する(自分を位置づける)ということだろう。そのことによって、当然、享受者は自分自身に対する自分のこれまでの位置づけ方を改めることになるのだろう。それは、新しい体験(=準体験)によって精神の内容が変るということである。ところが、福田氏にしたがえば、「医者は病気をなおすのが目的であって、その肉体がなにに使用されるかは、問題にしないように」芸術によって人間はその精神を強壮にするだけだ、というのである。
 「精神は変る必要もなければ、変ることもできない。」それを、病気をなおすこともしないで、「病躯をひっさげて投票場へ駆けつけること」を説くような医者が今は多くて困る、というのが 福田氏のいい分である。福田氏のいおうとするところも、ここまでくれば歴然である。
 真意が明らかになったところでダメを押しておくと、芸術は精神を強壮にするだけだというのはウソだ、ということだ。いや、精神が強壮になるということは、それの内容が変る――位置づけ方が変るというのと一つことである。それを変らないといって、妙なリキみ方をするのは、人間の精神が変化するものだということになっては、例の普遍人間性への信頼感にヒビが入って不都合だからだろう。ともかく、「芸術はカタルシスであり、カタルシスの本質はくりかえしにある」なぞとヤニ下ってみたって、それで問題が解決されたことにはならないのだ。
 問題は、それから、科学についての福田氏の考えかただ。

6 現代非合理主義
 福田氏のいうように、科学が人間精神のいとなみをうしろむきにしているかどうかは大方の判断にまつとして、それが「経験主義的に帰納しえた方法によってのみ未来をとらえよう」とするものだというのは受けとれない。科学の方法は経験的ではあっても、経験主義 的でなんかけっしてないからだ(科学史の過去の一コマをとらえて、だから科学というものは……というのはナンセンスだ)。
 同様のことは加藤氏の場合についてもいえるのであって、「文学史を作る人の、“文学とは何であるか”が、“文学とは何であったか”を決定する」はずであるのに、文芸学では「文学とは何であったかということから……文学とは何であるかを定め」ようとしている、これはおかしい、という加藤氏のことばは、素朴実在論的な客観主義の文芸学――それは、むろん文芸学の昨日のすがただ――に対する批判としては、あたっているところもあるのだ。が、問題は、いま、この客観主義ないし経験主義の否定ということが、加藤氏や福田氏の場合、客観的方法・経験的方法そのものの否定にまで突き抜けてしまっているという点にある。
 ところで、また、科学は現象の解説者・説明役としては有能だが、「生そのもの」「芸術そのもの」についてはまったく発言権をもたない、と福田氏はいうのだが、この考え方の底にあるものは、「生は生によってしか理解されえない」という、生哲学流のあの問題の立て方であろう。そして、それは、生の自己同一性・超時間性ということを前提としているかぎりにおいて、文学的体験の一回性による科学的方法の適用拒否という、加藤氏のあの考え方につながるものを持っていることが知られよう。
 それで、けっきょく、過去のある時期において、新カント派や生哲学の一派が、機械論(客観主義)の盲点をさぐりあてることで、客観的方法(科学)そのものの限界をきわめえたかのようなウヌボレをもったのと同じように、いやそれをさらに下廻って(というのは二番煎じだから)、客観主義をたてまえとするのが科学の立場だ、とひとりぎめにきめ込んで、いまさらのように機械論のアナを眺め廻してアゴを撫でているのが福田氏であり加藤氏であるということになろう。

7 “美”とインタレスト
 そこでまた、福田氏や加藤氏が、不易の美にささえられた芸術の永遠性への感激を口にしている根拠が、生の自己同一――普遍人間性への信頼にあることは繰り返すまでもあるまいが、しかし不易の美うんぬんというのは具体的にはどういうことなのか。
 加藤氏によると、何が美しいかということは時とところによって違っても、“美しい”ということばは、いつどこの国においても用いられている、それは「何を美しく感じるかはちがっても、美しく感じるという人間の精神のはたらきには共通のものがある」からだし、「美しさのなかには時やところを超えて変らないものがある」からだ、というのである。これは、ひどい。
 なるほど、美という“ことば”は一つかもしれない。けれど、このことばがコンミュニケート(伝達)する実質的な内容は、かならずしも一つではない。造形美術の歴史にかえりみれば明らかなように、いわばそれを壮厳とか宏大というふうに感じた気持(あるいはそう感ずる精神のは たらき)を、“美しい”ということばであらわしていたような時代もあったわけだ。また、たとえば、有閑的で装飾的なものに対してしか美を感ずることのできないような精神のはたらきと、実用的なものほど美しいと感ずる気持(精神のはたらき)とを、加藤氏のように、共通だ、一つものだといって、あっさり片づけてしまうことができるだろうか。
 美ということばは、こんなふうに規定性に乏しい、ひじょうにあいまいなことばだ。だから、桑原氏が、「美という言葉を持ち込むことは一方的解釈におち入るおそれがあり、むしろ避けた方がよい」として、インタレストということば(概念)によって文学を説明しようとしているのは賢明である。
 「インタレストは“興味”であると同時に“関心”であり、さらに“利害感”でさえあって、それは行動そのものでは決してないが、何ものかに働きかけようとする心の動きであって、必然的に行動をはらんでいる。……人生を表現した文学に面白さを感じるということは、そこに人生的なインタレストをもつことではなかろうか? もし文学に心ひかれるということが、人生に対してインタレストを失い、人生から逃避することであるならば、どうして文学が人生に必要などということができよう」と、桑原氏は語っている。また、「おのおのの文学者は、自己の作品創作という苦悩にみちた経験によってようやく到達した、彼独自の諸インタレストの調整の仕方 を示すのであって、そのことによって彼は、人生いかに生くべきかという問いに、彼としての答えを出しているのである」とも語っている。
 こうして、いわば文学の内面的規定であるインタレストが“利害感”でさえあり、行動をはらんだものであり、文学者の体験が諸インタレストの調整において成り立つものであることが具体的に明らかにされた場合、加藤氏の、文学的体験と日常的体験および科学的体験との形式的な区別や、福田氏のあのカタルシスがいかに無内容なものであるかがバクロされてくるのである。

8 無意味な反語
 ふれなければならぬ問題は、なお数多くある。たとえば、文学の創作には才能(あるいは素質)が必要だという当然の指摘が、しかし桑原氏の場合、才能というもの(あるいは才能ということ)の実質的な内容についての説明を欠いていたため、旧い観念論美学の天才論から一歩も出ないものになってしまっており、また、福田氏の場合、「才能とは精神と技術との出あう場所」だというようなことでお茶を濁しているにすぎない、といった点である。
 また、たとえば、ジャンルの問題・言語性の問題などについての加藤氏への質疑などである。一二具体例を挙げると、――「世界を、言葉を通して眺め」るのが散文で、「言葉を媒介とせずに〔世界を〕感じ、その感じと等価値的な言葉を探」すのが詩である、というような、常識をひとひねり捻ったにすぎない問題の解決(つまり問題の放棄)や、詩精神の枯渇から生まれてくる中世日本の“本歌取り”の形式を、反対に詩精神の躍動の結果とする非歴史的な理解や、また、「風の上に星のひかりはさえながらわざともふらぬ霰をぞ聞く」という藤原定家の詠歌を、「移りゆく時を超えて、われわれの前におかれている」詩であるといい、「それが詩というもの、大理石のようにかたく、動かしがたい作品」だといっているような主観的な、あまりに主観的な古典の把握等々々。
 さらに、これは福田氏とも共通した映画芸術にたいするプリミティヴな理解の仕方であるが、映画の表現というものを、ぶっつけに(つまり無前提に)事物のリアルな客観的な再現である、ときめ込んでいるような点、たんに説明不足からくるアナとだけはいえないものがある。 
 “あとがき”でいっているように、福田氏は、「日ごろ、ぼくはよく反語的」なものいいをし、「ぜんぜん反対のことを平気で放言する」のだそうで、「そんなことからなにかと誤解されることもある」そうだが、ともかく、あとで弁解しなくてはならないような放言ならヤメたほうがいい。反語で呟くほか手がないような深刻なことをいっているのでもないのに、思わせぶりないい廻しをすることは、この評論家のためにも採らないところである。


三 文学研究と文学教育

1 文学教育と言語教育との統一
 読めばわかる、読みさえすれば誰だってわかる、ということが文学の特徴である。特別の手つづきを経ないとわからない、というような、こむずかしい作品は、文学としてみておそらくたいしたものじゃない。それは、どこかに欠陥をもった作品にきまっている、――というふうな意見がある。
 けっして反対じゃない。どころか、現にわたしは、これまでに再々そういうことを口にもし文章にも書いてきている。
 が、問題はやはり軸のとりようだ。誰を相手に、どこにアクセントを置いて話すか、という、それによる。
 “誰にでもわかる”の“誰”は、やはり生活場面によって限定された特定の“誰か”である。そして、“わかる”という、そのわかり方がやはり問題なのだ。
 野放しにしておいても誰にもわかるのが文学だったら、それこそ文学教育は不急不要どころか無用のシロモノだ。
 さらにいえば、文学的認識・文学的思考が人間形成、人間の自己変革にとって第二義・第三義のものであるのなら、文学教育というより文学そのものが不急不要――すくなくとも不急なのである。
 不急にはちがいないが、しかし……というのが、ところで文化主義者のいいぶんである。これには、けれど同調しかねる。しかしも何もありはしない。不急はどこまで行っても不急だ、とわたしは思う。
 が、科学の必要については万人がこれを認めている。そして、これこそ“わかりがたい”ものであり“むずかしい”ものなんだ、ときめてかかっている向きもすくなくない。“大衆”が、ではない。学者諸先生がそうきめこんでいるのである。そして、もっぱら、その近づきがたく、むずかしいものであるゆえんを、大衆に向って語るのである。たとえば、文学教育が文学研究(――文学研究も、あのむずかしい科学である)と結びつかなくてはならぬほど、文学そのものはむずかしいものじゃない、というふうに――。
 つまり、科学(――文学研究)のほうは誰にでもわかるというわけにはいかんが、文学なら誰にだってわかる、というわけだ。どぎつくいえば、文学の享受や文学教育にとって科学は不要だという、これは一種の科学無用論である。それは、また、裏返しのかたちでだされた文学教育不急不要論だ。
 この考え方に疑問がある。
 そういう考え方をしているせいだろう、文学教育がどうのというが、それはしょせん国語教育のごく端のほうに席を占める、そのごく一小部分にすぎない、というふうなことを口にする人があるのは――。また、いまだいじなのは読書指導や作文指導一般なのであって、文学教育ではない、というふうな考え方をする人があるのも――。
 文学教育のささえなしに国語教育や読書指導・作文指導がおこなえると考えること自体が、じつはおかしいのだ。それは、言語教育と文学教育との統一というようなことは口にしながらも、この二つの教育活動を同じ一つの教育活動のウラ・オモテだ、というふうには考えていないのではないかと思う。紙にウラ・オモテがあるように、そして表だけあるとか裏だけしかないという紙はない、という意味でのウラ・オモテという理解が、そこに欠けている。
 国語教育のこの二つの部面を、右のような意味で方向的に側面分析された、国語教育活動のそれぞれの側面であるというふうに考えないかぎり、それはほんらい統一することも何もできはしない。それらが質のちがったバラバラのものであるのなら、木に竹を、というつぎたし方はできても、つぎ木すること、統一することは不可能ではないか。
 もともと一つのものである国語教育が、現実の教育場面の要求に応じて、あるときは言語教育が主になり、またあるときは文学教育が軸になって国語教育活動が行われる、というのが本来だ。ところが、それが分析的にでなく、バラバラに分解されて扱われ、“言語教育か文学教育か”というような対立をうんでいたのが、これまでのいきさつであった。今それをのりこえるべきときにあたって、なおも文学教育は文学教育、言語教育は言語教育、読書指導は読書指導というバラバラな考え方をするのは、おかしな話だ。
 読書指導に関していえば、アンデルセンを扱い宮沢賢治の作品をとりあげるというときにだけ、それが文学教育になるのではない。『農業問題入門』や『人間の心理』やイリーンや――そう、イリーンがいい例ではないか、自然科学や社会科学関係の教養書を指導の素材として扱うというときほど、文学的思考による指導がそこに必要とされるときはない。文学的思考をともなわない、また文学的思考への道を用意しない読書指導というようなものは、実際問題として考えられないではないか。

2 方法と過程を規定するもの
 そこで、読書指導といっていいような読書指導を生みだすためには、また言語教育がその名にふさわしい言語教育となるためには、それらは文学教育をささえとしなくてはならない。そこでまた、文学教育が文学教育としての実をあげるためには、言語教育をささえとしつつ、そこに文学研究との結びつきが必要になってくるのだ。
 あえていえば、勉強することを“卒業”してしまった教師が、児童や生徒や学生たちに向って「勉強しなさい」という資格はない。文学を勉強することをしないで、文学教育も文学学習も何もあったものではない。
 現場の問題は、しかしそんなところにあるんじゃない、いくらいい作品を読ませてみても感動しない子どもが多いという現実、そうした子どもの処理をどうするかという点が悩みのタネなのだ、とこういわれる方があるかもしれない。が、じつはそれだからこそ文学の勉強を、文学の研究活動に参加することを、というのである。
 ジャーナリスティックになれ、といってるんじゃない。むしろ、その反対だ。教師が自分白身文学的思考の身についた人間になるためにこそ、文学研究との結びつきが必要なのだ。文学研究への参加による文学的思考(――文学的思考をささえとした論理的思考)の深まりが、やがて自分の対決している現場の壁をつき破る具体的な方策と現実の道筋――方法と過程を発見させることになるのだと思う。
 文学研究と結びつかない文学教育というようなものは、こんにちではもはや考えられない。それがお躾行事の単なる情操教育でない以上、当然新しい研究活動と結びつき、その成果にまなぶことによって、文学教育は、一歩また一歩前へあゆみを進めることができるというわけのものだろう。
 そして、さらに、現場の実践の深まりが、文学研究の方向と内容にたいする批判と要求を生むようになることは、文学を研究する側にとっても、また文学教育に当面している側にとっても望ましいことに違いない。そこにしぼっていえば、現場から浮いた研究の独走は、研究そのものにとっても不幸であるからだ。
 たとえば、例の第二芸術論をめぐっての論争が単なることばあらそいに終っている点がすくなくないというのも、またここ数年来の近世文学論――西鶴や近松・芭蕉などの研究が、変形された追験主義(第二章・六『古典教育と第二芸術論』など参照)のゆがんだ論理(方法)によって処理されていることなども、右の“独走”と関係するところがなくはなさそうである。
 文学研究と文学教育とは、相互にその方法と過程を規定しあうのである。
* ここでふれた読書指導の問題については、なお第四章・一『教科をこえて』を、さらにその具体面については第四――七章の各項を参照していただきたい。 
頁トップへ


第四章 実践をめざして(I)
        ――小学校の場合――

一 教科をこえて

 文学教育らしい文学教育がやれるのは中学校か高校になってからのことであって、小学生にはまだ無理だという考え方がある。低学年のうちは文字学習や語彙学習、三、四年生になっても一般的には読書指導の段階であって、文学教育というのはそれからさきのことだ、というのである。が、ほんとうはそんなことはない。
 文字がよめ語彙がわからなくては本もよめない、だからまず語彙や文字を教える。本がよめないことには文学も何もありはしない、それで次は読書指導だ、というのだが、これはどうかしている。発生論と実態論がゴッチャになっている。
 文字の読み書きをほんとうに身についたものにし、また語彙をそれの規定性の面と融通性の面とにおいて、正確にゆたかに身につけさせるためにも、ほんとうは文学教育(――文学的思考による教育)が必要なのだ。読書指導の場合もそのとおりなのであって、文学教育にささえられない読書指導というようなものは現実にありえない(第三草・三『文学研究と文学教育』参照)。
 こうして文学的思考をささえとしておこなわれる各教科の指導が、そこに同時に“文学的思考への教育”を実現させるのである。およそことばを伴なう指導(つまり全教科だ)のすべてが文学的思考をささえとし、また文学的思考力をそこに養なうのである。文学教育は、国語科のワクのなかに小さな椅子を与えられて納まっている、というふうなものではない。それは、全教科にわたる作業・活動なのだ。
 そのことは、理科なり社会科なりで養なう一種の科学的思考力、その科学的思考力が文学的思考にささえられなくてはそこに実現されないということ、またそれにあわせて、科学的思考をささえとすることなしには、文学的思考力もつちかわれないということと関連している。繰り返し語ってきたように、科学的思考と文学的思考とは論理的思考の二つの側面なのである。そのいずれを欠いても論理的思考は、――したがってまた“考える子ども”は生まれえない。
 理論的認識へのレディネスを小学生について考えるのは発達的にみて無理だ、という心理学者がいる。が、それをないといいきってしまってはウソになるのであって、日常的・現象的なものと不可分のかたちにおいてではあるが、子どもは子どもなりに、ちゃんとその現象の本質をつかんでいる。それがきちんとつかめるような指導が伴ないさえすればである。
 それをつかませるような指導というのが、つまり文学的思考による指導ということなのだ。つかめるのだが、しかし現象と不可分のかたちでしか、という子どものその心の波動にそくした指導というのが、小学校文学教育のだいじな基礎的側面である。文学教育というのは、なにも童話や詩をよませたり、いわゆる創作指導をやったりすることだけをいうのではない。
 教科をこえて、いや全教科をとおして、文学教育がそこに実現される。小学校では(とくに低学年にあっては)社会科も理科も算数も、すべて国語教育の場であり文学教育の場である。ことばを教えることをとおして、そのことばの意味することがらを(それの本質と日常的なニュアンスとにおいて)つかませる、ということである。
 いや、理科は理科であって社会科は社会科だというかもしれない。社会科では“ことば”そのものはどうでもいいのであって、目的は事態をつかむことだ、というかもしれない。が、“事態”をつかむのに“ことば”が必要だということが、いまここで問題にしている点なのである。
 発生的には事態はことばに先行する。が、実態論的にいうと、“ことば”がつかめなくては事態がつかめないのである。そうした“ことば”ヘの理解と事態ヘの理解とを内側からささえるものが、そしてこの文学的思考なのである。
 小さいうちに身につけておかないと、成人してからではどうにもならないこと、というのがある。こんにちの日本のこの悪現実は、子どもの自然な発達をはばんでいる。子どもたちの不幸をたえずそこに作りだしている、その当の相手とたたかいながら、子どもたちのあいだに“自然な発達”をとり戻すしごと、これこそが小学校文学教育のめざすところなのである。


二 作品享受と指導の実際
      ――『空気がなくなる日』を子どもはどう受けとめたか――

1 モデルの提示
 もうせん、『子供の広場』という雑誌に、こんな創作がのったことがある。題は『空気がなくなる日』、作者は岩倉政治氏である。アルスの児童文庫その他に再録されているし映画にもなった作品だから、どなたもご存知のことだろう。
 ――「かなりいぜんのことである。日本のどこから、あんなばかばかしいうわさがひろがったものか? その年の七月二十八日という日に、ほんの五分間ほどのことだが、この地球上から空気がなくなってしまうそうだという話がやかましくなったものだ。」
 村にこのうわさをもち帰った学校の小使さんは、「町のほうは、空気のなくなる話でたいへんですぞォ」と、おびえたように目をまるくしていった。けれど、先生たちは、笑って相手にならなかった。「べんきょうをしている先生たちにとって、そんなばかげた話は、てんでうけとれなかったから」である。
 ――「ところが、そのつぎの日になると、こんどは校長先生が大さわぎをはじめた。」県庁のお役人も、そういっているし、どうもほんとうらしい、というのだ。
 ――「わがハイのまなんだ学問からいえばじゃねえ……」といって、校長先生は、「つまり、この地球よりも、ずっとでっかくておもたい、たいへんな天体が……つまり星がじゃ、わがハイらの世界へデーンと近よってくると見たね」と、“学問的”な説明をはじめた。
 青くなった先生たちのひとりが、「すると、地球のいんりょくが、そいつのいんりょくにまけて?」と口をさしはさむと、こっくりうなずいて校長先生は、さらにその“学問的”な説明を、不安と得意をごっちゃにした表情で続けていくのであった。
 七月二十八日までには、あと一週間しかない。
 ――「校長先生は子どもたちをたいへん愛していた。」
 だから、校長先生は、自分がさきにたって、どうすれば五分間呼吸しないで生きていられるかというけいこを、子どもたちにさせることになった。
 だが、いくら練習を重ねてみても、人間は二分間と息をしないではおれないものだ、ということがわかった。そこで、
 ――「いよいよこれは、よういならんもんだいだ。」
ということになった。
 ――「けっきょく、だれいうともなく、いちばんたしかな方法は、ゴムのふくろのなかヘ、空気をつかまえておいて、いよいよのときに、すこしずつはなからすうほかはないらしい、ということにきまった。」
 ところが、「これは多くの人々にとってはたいへんざんこくな話であった。」というのは、氷ぶくろにしろ自転車のチューブにしろ五分間も息をするための空気を入れるのには、たくさんの品がいるわけだし、それを買うための金など、貧乏な百姓にあるはずがないからだ。そうこうしているうちに、一箇一円二十銭だった氷ぶくろが、百円、二百円だしても手にはいらぬ、ということになってしまった。

 ここまでで、まず話の半分だ。それから、八人家族のまずしい農民のうえに話が進められていく。
 ――「うちのもんが、みんな死んでゆくのに、おらだけ生きのこっておれるかい。」
 これは、せめて末っ子にだけでも借金して氷ぶくろを買ってやろうか、と親たちがいいだしたときの子どものことばだ。
 ――「かわいそうにな。おまえら、こんな家へうまれずと、地主のだんなのところへうまれたらよかったに……」
 ――「そうしたら、おら、あのウスノロの大三郎ときょうだいちゅうことになるんけ?」と、子どもは吐き出すようにいった。大三郎は、自分のことしか考えない、いやなヤツだ。おまけにウスノロで、から威張りのげじげじ のようなヤツなのだ。子どもは、親たちが、あんなヤツの家を羨ましげにいったことさえ、腹立たしくてならなかった。
 ――「みんな死んでやらあい。」子どもたちは、口々にそういって、表へとびだしていった。
 七月二十八日。
 ――「このぶきみな日は、空ぜんたいを血のようにそめた、みょうな朝やけのなかに明けはなれた。」
 子どもたちは、先生や友だちと最後のお別れをするために学校に集まった。ウスノロの大三郎だけが、自転車チューブを六本も肩にかけて、南洋の陸軍大将みたいな恰好をしているきりで、校長先生も、男の先生も、女の先生も、だれもかれも一つのゴム袋さえさげてはいなかった。
 ――「子どもたちは、しかし、このありさまをみて、世の中に金もちというものの、思ったよりかすくないのにびっくりした。」 そして、だれひとり大三郎のことを羨ましがったりする者はなかった。どころか、「こんなウスノロの大三郎などといっしょに生きのこったりしたら、それこそたまらないなと思った。」
 空気のなくなるウワサは、むろんデマだった。ゴムを高く売りつけて、もうけようとたくらんだ連中の、たちの悪い“つくりごと”だということも、あとでわかった。
 そのときがきても、生きている自分を見つけると、「子どもは、ふいと大三郎の南洋の陸軍大将をおもいだした。そしていまは、おかしいというよりも、なんだかかわいそうな気がしてなら なかった。」

2 それぞれの受けとめ方
 『空気がなくなる日』は、なによりも子ども相手に書かれた作品であった。せいぜい十四、五ぐらいまでの少年少女が相手の作品なのだ。だから、いくらおとながおもしろがって読んだり見たりしたところで、当の小さい人、若い人がなんだこんなもの、というのでは、この作品は失敗の作だということになろう。表現の上手・下手ということは、だから、いちおう、当の読者の気持にしっくりいくような技術がとられているかどうか、ということできまる。
 そこで、わたしは調査をしてみた。この作品が、実際にどんなふうに読まれているか、理解されているかという点についてである。
 まず、小学校二年生の女の子を三人あつめて読んできかせた。みんな学校のできがいい、すなおな子どもたちばかりだ。それから、ふだん、童話やなにかを興味をもって読んでいる子どもたちであるということも、ここにつけ加えておいたほうがいいかもしれない。ふたりのお父さんは新制高校の先生だし、もうひとりは会社勤めのサラリー・マンの子どもである。
 読んでいくうちに、引力ってなんのこと、とか、校長先生のくせにどうしてばかなの、という質問が出てくる。
 話がウスノロの大三郎のところまでくると、ああ信太郎さんみたいな人ね、という(女の子たちのクラスは、男女組で信太郎君はクラスきっての意地悪であばれんぼうだ)。そして、大三郎がなんでかわいそうなのかわからない、という。また、空気がなくなるなんて作りごとをした人たちが、ほんとうに憎らしいという。
 ぶきみな朝やけのところは、みんな息をころして聞いている。空気がなくなるというのはウソだということがわかっていながら――。いや、それとこれとは別なのだ。空気がなくなるとは思わないけれど、なにかしら不吉なことが起こるにちがいない、と思っているらしいのだ。空気がなくならないかわりに、地震かなにかになって、“子ども”が死ぬんじゃないかと思った、と、かわいい読者(聞き手)のひとりが、あとでいった。もうひとりの女の子は、どうして大三郎がひどい日にあわないの、ともいった。
 これが六年生の男の子になると、校長先生がちょろすぎはしないか、というようなことに疑問は持たないかわりに、ぶきみな朝やけのことでは、なんにも起こらないのにどうしてそんな空模様になったのかと、首をひねるのである。そして、“子どもたち”が、どうして大三郎をなぐりつけないのか、ということや大三郎一家みたいな、太い根性のヤツラを、なんで村の人たちがそのままにしておくのか、というようなことをいうようになる。
 大三郎をかわいそうな人間だと感ずる“子ども”の気持にたいしては、そうだ、ほんとうにそうだと共鳴する者もあれば、ちっともかわいそうでなんかない、とリキみ返る者もいる。
 つぎは女子中学生や高校生についての調査だが、十六、七の生徒諸君の読後の感想を聞くと、小学生諸君と同じように、口を揃えて、「おもしろかった」とはいうが、どこがどういうふうにおもしろいのかという点では、まちまちだった。
 「子どものオトギバナシでしょう。」――オトギバナシなんだから、どうのこうのいってみたって、はじまらない、オトギバナシはオトギバナシとして読めばいいんだ、というのである。これは手がつけられない。手はつけられないが、これも一つの読みかただ。
 おつぎは、――みんなといっしょに死のうという“子ども”の気持が、たまらなくかわいそうで泣けてきた。かわいそうだけれど、親兄弟と死に別れするよりは、そのほうがどれほど幸福かしれないとも思った。そして、自分たちだけ生き残ろうとする大三郎や、大三郎の親たちが憎らしくなったし、こんなさわぎを起こさせたゴム作りだかゴム商人だかが、刑務所へ入れられればいいと思った、というのである。
 子どもにだけ通用するようなウソを書いてあるのが“童話というもの”だ、ときめてかかっているのが、さいしょのグループだとしたら、これはまた“小説というもの”は、読者を泣かせるように仕組んであるもの、というふうな作品の読みかたである(それで、彼女たちは、泣くために少女小説を読むのである)。『空気がなくなる日』は、つまりここでは、完全に少女小説に化けてしまっているのである。
 ほかのもうひとりの女生徒は、こういった。こんなおもしろい創作を読んだことがない。もうせん、漱石の『坊っちゃん』をおもしろいと思って読んだけれど、この作品を読んでみたら『坊っちゃん』がつまらなくなってきた。それがどうしてだか自分にもよくわからないが、つまらなくなったことだけはたしかだ、と。
 そこで、わたしは聞いてみた。世の中にどうしてふしあわせというものがあるのか、ということや、おたがいになかよく暮したらよさそうなものなのに、ひとを苦しめるような悪いヤツが生まれてくるのはどうしてか、というようなことが『空気がなくなる日』には書かれてあるのに、『坊っちゃん』には、そういう点への切り込みがないから、それでつまらなく感じるのではないか、と。
 「そう、それなんです。それでハッキリしました」といって、この生徒は、ほんとうにしあわせな人間の世の中を作るためには、坊っちゃんや山嵐が赤シャツたちをなぐりつけたような仕方で、大三郎ひとりをたたいてみたって仕様がないと思う、ということや、大三郎に自分のみじめさを悟らせるためには、みんながめざめて、みんなの力で、それがしぜんとのみ込めてくるようなしくみに世の中を進めなくてはダメじゃないのか、なにせその意味では相手はウスノロなんだ から……というようなことを、特徴のある、おもい口つきで、ぽつりぽつりと語りはじめた。

3 読書の効果・逆効果
 これは、ほんの一部についての調査だが、それでもおおよその見当はつくだろう。つまり、だれもがこの作品をおもしろいと思って読んでいるのだが、おもしろいということの内容はめいめいに違っている。作者が相手として選んだ、当の読者のあいだにおいてさえ、その受けとり方・受けとめ方にはかなりの幅がある。こういう違いは、どこからくるのだろう?
 結論をさきにいうと、それは読者めいめいの体験のへだたりがもとになっての違いだということになろう。たとえば、この作品には、ちょろい校長先生がえがかれている。それを、受けとれない、納得がいかない、と二年生の女の子たちがいうのは、校長先生というものが、おさない子どもたちにとっては無条件に“偉い人”であるからだ。六年生の男の子たちが、そりゃそうにきまっているさ、という調子で読み過ごすのは、一つには、そんなことにはこだわらないで話の本筋をとらえるだけの修練――読書体験ができているからだ。それにまた、わが校の校長先生がノミスケでこちこち で、そのくせお人よしだという、実際の経験からもきているらしい。それに年齢もある。この年齢は、心理学者にいわせると、反抗期に入りかけているということだ。
 また、たとえば、信太郎君は持てあましの乱暴者でいじめっ子だが、それだからといって、ベつだん悪いことをしたむくいを受けているわけではない。むくいは、むしろ、いい気になって女の子たちをいじめていることで、自分を悪い子にしていっている、という点にあらわれているわけだ。
 ウスノロの大三郎の場合だって、そうだ。最後の場面でみんなにソッポを向かれたり、からかわれたりするだけで、因果応報、気がヘンになったなどいうことにはならない。
 ところで、二年生の女の子たちは、どうして大三郎がひどい目にあわないの、という不満をのべるのだ。それは、ふだん読みふけっている童話や童話ふうの読みものの影響による点がすくなくない。むろん、童話の影響とだけいい切るわけにはいかないし、何よりもそれは、この年齢期の特徴である勧善懲悪願望によるものと考えないわけにはいかない。が、そういう読書体験が大きくはたらいているということだけは、子どもたち自身の口裏からも察しがつく。
 つまり、子どもたちは、実際の生活のなかで満たされないものを、このお話の世界に遊ぶことでおぎなっているのだ。生活の実際面では信太郎君に泣かされてばかりいるのだが、それが童話のなかの“信太郎君”――いじめっ子は、なにかの機会に反省して良い子になったり、あるいはまた桃太郎みたいに、気はやさしくて力持ち式のもっと強い子があらわれて、この“信太郎君”をぎゃふんといわせたりもする。
 お話(童話)というものは、つまりこの女の子たちにとっては、実際生活では求められないものを与え満たしてくれるもの、ということにきまっているのだ(この年齢層に読者を求めた童話が、子どもの勧善懲悪願望を満たすようにしくまれているのは当然のことである)。だから、この作品の扱いが、なんだかあきたりないのだ。
 この女の子たちにとってはそうだが、六年生の男の子の場合は、なんで大三郎みたいなヤツを放ったらかしておくんだ、という点に、かえって疑問をいだくようになっている。
 つまり、大三郎がなぐられるなり何なりすることのほうが生活の実感にぴったりくる、という点では両方とも同じことだが、女の子のほうのは、“お話”ではそういうふうになるのが“おきまり”なのに、という期待はずれにめんくらっているわけだし、男の子のはそれと違って、自分たちの実際生活と作品の世界とのくいちがいに、実感にそぐわぬものを感じているわけなのだ。
 男の子たちは、自分たちの生活の実際面で、クラスのこんなゲジゲジはのさばらしてはおかぬのだ。自治会で問題にするなり、腕と腕なら、衆の力でしまつをつけている。だからこそ、そこにぴったりしないものを感じているのである。
 体験のちがいからくる受けとり方の違いは、中学生や高校生のあいだにも見られること、前に述べたとおりである。前の二つの場合は、普通によくそういわれている“女学生のセンチメンタリズム”からまだぬけ切っていない人びとの受けとり方をしめしているし、あとのひとりの場合は、健康な民衆の一人として成長しはじめた人の、いきいきとした作品享受(表現理解)をしめすものである。
 いい忘れたが、この生徒は、なかなかの読書家だし、それに、学校の生徒会を、ありきたりの(“女学校”という特殊な雰囲気のなかでよく見受ける)“お修身”的自治会から真に民主的で自由な生徒会にまで高めようとして、いま懸命に力を入れているファイトの持ちぬしだ。

4 認識即表現
 こう見てくると、体験の違いというのは、つまり体験の仕方そのものの違いということだし、また、生活の実感――思想の違いということにもなろう。作品(作者による表現)は一つだが、その内容は、相手によっていろいろさまざまに理解されてしまうわけだ。作品の内容が一つだと 考えるのは、事の実際に反している。
 文学は表現だ、というようなことを口にする人があるが、ただ表現だというようなバカげたことはない。文学にとって表現は抜き差しならぬ大事な意味をもつ、というのなら、いちおう話はわかるが、しかし、表現が大事だということは、内容が大事だということと、じつは同じことがらなのだ。
 ともかく、文学においては、内容より表現のほうがたいせつだなどという議論は成りたたないし、ましてのこと、文学は表現だなどということにもならない。それは何かを表現したものだ。その何かをが、つまり内容というものだ。もっとも、このいい方は、ほんとうはまちがっている。文学のはたらきは、ある内容があって、それを作品にあらわすというようなものではなくて、内容――というよりは、むしろ、内容をつくる認識と表現とが一つになってのはたらきであるからだ。
 そのことは、たとえば、ことばづかいだけをいくらやさしくしてみても、それだけでは“子どものための文学”にはなり切らないということや、子どもの日常的な生活の実感をリアルにとらえた現実認識の文学だけが子どもの生活のなかに食い入っている、というようなことがらからだけでも明らかだろう。ほんとうは、そこまで考えなくてはいけないのだが、かりに前のように単純に考えてみたとしても、内容なり表現なりが、読者によっていろいろに受けとられているわけなのだから、自分の受けとり方や自分が受けとった内容をめやすにして「この作品の表現は……」などというのは、いい気な話だということになろう。
 つまり、表現とか内容というのにも、作者による表現(内容)と、読者の理解(享受)した表現(内容)との二つがあることになるし、また、読者の理解した表現というのにも、そこにかなりの幅がありデコボコがある、ということになるのだ(それは、また、認識という側面から見ても、同じことだ。作者による認識と、読者によって理解された作者の認識との一致・不一致、等 々)。
  そういうくいちがい のもとを作っているものが、つまり、めいめいの体験(体験の仕方)のちがい、それゆえの思想のちがいである、ということなのである。


三 良書と悪書
      ――抵抗力をつくる文学教育―― 

1 野放しにしておくと…… 
 ――「何を読んでいるんだ」こう訊いても直吉は返事をしなかった。「おい、何を読んでいるんだ。――おい」私は背中で押しやった。
 「ええ?」直吉は初めて気がついた。
 「何を読んでいるんだ」
 「何を読んでるって?」
上の空でまだそんな事をいっている。
 「何を読んでいるって訊いてんだ」
 「水戸黄門」
 「助さん格さんか」
 「違う。黄門が隠居して百姓してるんだ」 
 「それが可笑しいのか」
 「まあまああとであとで。あしたお話して上げるわ」直吉は話で興味を中断されたので、そんな事をいう。
 「要らねえよ」
 「要らねえか」
 「馬鹿」
 直吉はそれには何も云わず、口の中で何かいいながら尚夢中で読み続けた。如何にも面白そうだ。私のジイドの比ではなさそうだ。私は気が散って仕方がない。直吉の方は私が口を利かなければ、まるで夢中になれるのだ。ジイドではそれ程になれなかった。――(志賀直哉『ジイドと水戸黄門』)
 
 背中で押されて、やっと気がつきはしたものの、まだうわの空でいる直吉。
 いつもの彼なら、それ相応の応酬もしただろう“馬鹿”という相手のことばにもとり合わないで、というよりは、いったいそういう相手のことばが耳にはいったのかどうかすら疑わしい身の入れ方で、夢中で『水戸黄門』に読み耽っているこの直吉と作品との一体感。
 そういう「如何にも面白そう」な直吉のうち込み方を、軸をすこしズラしたかたちで羨ましいとも好ましいとも思っている“私”――。その“私”は、ジイドに十分身近なものを感じていながら、直吉が『水戸黄門』に対してそうであるようには、どうしてもそれと一つに融け合った気持にはなれないのだ。「私のジイドの比では」ないのである。
 ここに二つの作品のよみ方がある。
 作品の表現に身もこころも吸い寄せられた、といった感じの直吉のこうしたよみ方が一つ。
 それから、もう一つは、作品と自分とのどうしようもない距離感にいらだちながら、自分の実感を作品のそれに近づけることで、その距離を埋めつくそうとつとめている“私”のよみ方である。
 この二つの読み方のちがいは、ところで、子どもとおとなとの享受・鑑賞の仕方そのものの違いでもあるらしい。子どもは、おもしろいとなったら、無我夢中でそれに身を打ち込むかわりに一ぺージか一ぺージ半も読んでみて、それでソリが合わないとなったら、すぐにも投げだしてしまう。あくまで自分本位だ。自分の“実感”が絶対なのだ。それがトルストイの書いた童話だからとか、ゲーテ作品だからなんていったって、子どもには通用しない。作家の名前で無理をして読んだり、というようなのは、子どもの世界にはないことだ。“権威”は自分自身であり、自分の実感なのである。
 おとなの場合は、ちがう。こうした文脈で割り切っていえば、おとなは卑屈だ。妥協的だ。権威に対して、おとなは、ひじょうに屈従的(あるいはすなお)である。作品そのものを、つまらないと思っても、作家の顔を立てて(?)無理をして読んでしまうのだ。
 けれど、また、この無理をするというところが、おとなの鑑賞のとりえでもあるのであって、自己中心性を脱けだした、すぐれた意味での“おとならしさ”も、そこにあるわけである。経験を積むことで、自分というものに対する評価がいちおう出来上ったところからくる、おとなのそういうへりくだった気持。それは卑屈と紙一重のあいだがらにあるものでありながら、方向さえまちがえなければよりいっそうの高みに自分というものを引き上げていく、精神の基盤でさえある。
 だから、また、こうした軸から見れば、自分の実感をメヤスにした子どもの鑑賞というものが、それを野放しにしておいたのでは、せっかくの成長がゆがんだものにしてしまう危険をはらんでいるということにも、わたしたちは気づかされるのである。
 そこで、子どもの実感に即しながら、しかしそれを甘やかすのでなく、その読書欲と鑑賞にハッキリとした方向をあたえていくこと、これがつまり、読書指導・鑑賞指導のだいじな眼目の一つになるわけだ。

2 ある程度の指導がともなえば…… 
 子どもの実感をそれとして甘やかしておけば、――それがつまり直吉の場合だ。
 『水戸黄門』にウツツをぬかす直吉を、それをそのままおとなに仕上げれば、銭湯ででノドを聞かせる森の石松びいきのオッサンになる。あるいは、たかだか『女の友情』『佐々木小次郎』の愛読者である。
 そういうもろもろのおとなの原型である直吉が、ひとたび“近代”の洗礼を受けると、れいの“私”になって、「気が散って仕方がない」と呟やきながらジイドを読む人になるのである。
 どうもこの場合ジイドの例は適切を欠くが、頭のなかの“近代”と胸にわだかまっている“前近代”とのもつれに、一方では本格的な作品にこころひかれながらも、他の一方では、つねにそこに何かなじめないものを感じているという、鑑賞のうえのこのモヤモヤが、遠くこの直吉時代の愛読書のえらびとそれの享受の仕方に糸を引いていることを思えば、子どもに対する鑑賞指導の意義の大きいことは、いくら強調しても強調しすぎるということはない。
 そこで、子どもたちの読書への関心をどうみちびくかということなのだが、『水戸黄門』が好ましくないからといって、『赤い鳥』からジイドヘという式の、文化主義・近代主義ラインの読書コースをそこに設定するのでは筋ちがいだろう。
 一般論として、子どもが『水戸黄門』を読むことのマイナスは認めてもいい。が、同時にまた文化主義の諸作品には求めえないプラスがそこにあることも認められなくてはなるまい。
 『赤い鳥』このかたの文化主義の児童文学作品が、『水戸黄門』からはえられない文学的情操を“童心”につちかってくれる一面は認めるが、その“文学的情操”がなんともひ弱すぎて戸外の風に堪えないのだ。『水戸黄門』が悪書で後のが良書だ、というふうな割り切り方には疑問がある。
 今の日本の子どもたちには、どうしたって、筋のとおった力強い読みものが必要なのだ。多少泥くさくとも、泥くさくたって、そのほうがいいにきまっている。雨にも風にも負けない“強い子”でなくては、この悪現実に抵抗して、すくすくと自分を伸ばしていくことができないからだ。ひ弱な情操なら、むしろないほうがいい。いいにきまっている。
 雨風にめげず伸びていくために、日本の子どもたちは、また“考える子ども”にならなくてはいけない。ふくらみのある感受性、ゆたかな文学的思考にささえられた論理的思考力が、そこに求められる。そのためにこそ、“筋のとおった力強い読みもの”が必要なのだ。たとえば、壺井栄氏の『あたたかい右の手』のような、またたとえば、岩倉政治氏の『空気がなくなる日』のような――。
 その他、わたし自身、居住地域の子ども会などで扱ってみた作品のなかから、小・中学生に感動を与えたものを拾ってみると、『雨ごいの村』(国分一太郎・アルス児童文庫『日本歴史小説集』所収)や『ぶっこわし』(大木雄治・同上)、『蜜柑』(芥川竜之介・新潮文庫)・『一房の葡萄』(有島武郎・岩波文庫)・『鉄の町の少年』(国分一太郎・新潮社)・『黒いチョウ』(松谷みよ子・アルス児童文庫『日本児童文学選』U)・『源のイカつり』(本間とよ子・同上)・『森は生きている』(マルシャーク.岩波少年文庫)・『イワンのばか』(トルストイ・同上)・『ヴィーチャと学校友だち』(ノーソフ・岩波少年文庫)・『トム・ソーヤの冒険(M・トゥエーン同上)などがある。
 これらの作品は、そこにある程度の指導が伴ないさえすれば、十分期待を満たしてくれる作品なんだと思う。ある程度の指導を伴なえば、である。
 ある程度の指導? ……つまり、子どもの話し相手になってやることだ。むしろ、こちらから話し相手を買って出ることなのである。「まあまあ、あとであとで」と直吉に、子どもに嫌われない程度に、である。


四 民話と詩
      ――小学校文学教育の実際(1)―― 

1 漁師と金のさかな
 ――青い海のそばに、おじいさんとおばあさんが住んでいた。ふたりは、ちょうど三十三年のあいだ、古いつちごやに住んでいた。
 おじいさんは、網でさかなをとり、おばあさんは、糸をつむいでくらしていた。
 あるとき、おじいさんが海であみを投げると、どろがかかってきた。二どめに投げると、海の“も”がかかってきた。三どめには、金のさかながかかってきた。
 ただのさかなではない。金のさかなだ。金のさかなは、人間のことばでいった。
 「おじいさん、わたしを海へはなしてください。お礼はたくさんさしあげます」
 おじいさんは、びっくりした。三十三年のあいだ、漁師をしているが、さかながものをいうなんて、聞いたことがない。
 おじいさんは、やさしくいって、金のさかなをはなしてやった。
 「金のさかなや。さあ、おゆき! お礼なんかいらないよ。青い海へ帰っていって、あのひろびろとしたところで、おあそび」
 おじいさんは、おばあさんのところへ帰ってきて、このふしぎな話をした。

 ……と、ここまで話せば、みなさんは、そのさきはもう聞かなくとも知っている、それは『漁師と金のさかな』の話だろう、といいだすにきまっています。
 そうです。これは、今から百三十年ぐらいまえに、プーキンというロシアの文学者がかいた『漁師と金のさかな』の物語(詩)のはじめの部分なのです。
 それで、みなさんがよく知っているように、お人よしで気のよわいこのおじいさんは、欲のふかいおばあさんに、どなりつけられました。
 「おまえさんは、ばかでまぬけだね! どうしてお礼をもらわなかったんだね!」
 これからすぐ青い海へいって、新しいオケをもらってこい、というのです。
 おじいさんが、今にも泣きだしそうな顔をしてつっ立っているのを見て、金のさかは、すぐにたのみをきいてくれました。
 「しんぱいしないで、お帰りなさい。新しいオケができていますよ」
 すると、こんどはおばあさんは、土小屋でない、ちゃんとした小屋がほしい、といいだすのです。小屋をもらったら、そのつぎはりっぱな家を、それからその、つぎは女王さまにしてくれ、とこうなのです。おばあさんの欲の皮はどこまでつっぱっているのでしょう!
 でも、その願いを、金のさかなは、みんなかなえてやりました。きっとおじいさんのためを思ったからでしょう。
 おばあさんは、望みどおり女王さまになれました。
 おじいさんは、おばあさんの足もとにひれふして、
 「こんにちは、女王さま! これであなたも、ごまんぞくでございましょう」
といいました。おばあさんは、おじいさんに目もくれず、あちらヘつれていけと家来にいいつけました。おじいさんは、そして番兵たちに、さんざんな目にあわされました。
 それから一週間たちました。おばあさんが、おじいさんにいうには、「いっておいで、さかなにおじぎをして、たのんでおいで。すきなことのできる女王も、もうい やだ。わたしは海の主になりたい。あのひろい海にすみ、金のさかなをしたがえて、何でも、わたしの用事をさせてやりたい」
  おじいさんは、ひとことも、口ごたえできないで、また青い海へいきました。そして、金のさかなにあいました。が、さかなは、こんどは返事もしないで、海の底へもぐっていってしまいました。
 帰ってみると、もとの土ごやの入口に、おばあさんが、しょんぼりすわっていました。そして、おばあさんのまえには、こわれたオケがありました。

2 どこがおもしろかったか 
 『漁師と金のさかな』の話のすじは、だいたいこんなふうですが、なんでも子どものころ、乳母から聞いた民話(民衆のあいだに語りつたえられている話)を思いだしながら、プーシキンは、この作品を書いたということです。この物語(詩)は、今ではいろいろな国のことばに翻訳されて、世界中の子どもやおとなにしたしまれていますが、もとは民話です。だれが語りはじめたともなく、ロシヤの農民たちのあいだに語り伝えられていた民話なのです。
 みなさんは、この『漁師と金のさかな』のお話を、おもしろいと思いますか?
 おもしろくない、という人は、たぶんいないだろうと思いますが、でも、「さかながものをいうなんて……」と、そこのところで首をひねる人があるかも知れません。
 あんまり子どもっぽいというわけです。こしらえものすぎる、というわけです。おもしろいことはおもしろいけれど、そこのところがどうもしっくりこない、というのでしょう。
 みなさんぐらいの年ごろになると、そういう感じをもつようになるのが、普通でしょう。
 が、それはそれとして、おもしろいと感じるのは、どういう点でしょうか?
 この点について、わたしは、近所の子どもたちに、聞いてみることにしました。
 ――「さかなを取ろうと思ってあみを投げたのに、どろがかかったところがおかしかった」
 これは、四年生の男の子。“おもしろい”のではなくて、“おかしい”のです。
 ――「何べんあみをなげても、“どろ”だの“も”しかかからない。おかしいような気もするし、かわいそうな気もする」といったのは、やはり四年生だが女の子。
 ――「どうしてお礼をもらってこなかったんだ、といって、おばあさんがどなるところが、とてもおもしろかった」
 これは、六年生の男の子です。
 「どうして?」 ときいてみたら、
 「こういうガッチリしたおばあさんが、ほんとに家の近所にいるもん」
 つまり、自分の生活にひきくらべてみてのおもしろさなのです。
 ――「いちばん終りのところがおもしろい。こわれたオケのまえで、おばあさんがしょんぼりしているところが、とてもすてきだ。胸がすうっとした」
 これも、さっきの六年生の男の子のいいぶんでしたが、この意見にはみんな賛成らしいのです。
 「もっとひどい目にあったっていいんだ」といった男の子もいます。

3 いまにひどいめにあうぞ
 それで、このお話にものたりないところはなかったか、と聞いてみますと、「おじいさんが、ぜんぜん損ばかりしている」と、みんなは口をそろえていいました。
 「それでは、このお話には、どういうことが書いてあるのでしょうね?」
 学校の先生のまねをして、そんなふうに聞いてみますと、みんなは、くちぐちに、
 ――「あまり欲ばると、かえって損をするということが書いてあります」
 ――「あんまり高い望みを持ってはいけない、ということを、いっているのではないかしら」
と、こう答えました。読者のみなさんの考えも、それとだいたい似たりよったりではないかと思います。
 わたしは、そこで近所の子どもたちと、もうすこしさきまで話しあってみることにしました。
 わたしは、まず、この『漁師と金のさかな』の物語が、百何十年もまえのロシヤの民話であることや、こういう話を語り伝えた農民たちというのが、そのころ、ツアー(皇帝)や貴族(大地主)たちの悪い政治に苦しめられて、どれい みたいなくらしをしていた人たちであることなどを話して聞かせました。「だから、きっと、このお話のなかには、そういう農民たちの生活のありのままが語られているような気がするのだが――」とも、わたしはいいました。農民たちのかなしみや、いきどおりや、ねがいが、実際あるとおりに、そこに語られているのです。
 すると、話のとちゅうで、六年生の女の子が、
 ――「それじゃあ、おじいさんというのは、農民のことなんだわ」
といいだしました。
 ――「おばあさんというのは、皇帝や貴族たちのことよ、きっと――」
と、こんなふうなことばも、そこヘつけたしました。
 だって、おばあさんは、とにかく一ぺんは女王さまにもなれたんだし、これは皇帝や貴族のことにきまっている。おじいさんは、ただもう、おばあさんのいうとおりに、一生けんめい働きどおしに働くが、それでも番兵にひどい目にあわされたりする。だからこれは貴族たちにいじめられている農民のことだ、そうにちがいない、と、この女の子はいうのです。
 ――「すると、……あんまり欲ばると、いまにひどい目にあうぞ、と農民が貴族たちにいっていることになるんだね」 
 これは、例の元気のいい六年生の男の子です。
 ――「そうか。わかった。人間はあまり高い望みを持ってはいけない、といっているんじゃないのだね。欲ばりの地主たちに、皮肉をいっているのですね」
 だいぶハッキリしてきたらしいのです。みんなの目が、いきいきと輝やいてきました。
 そこで、また、二十分ばかり話しつづけているうちに、おばあさんというのは皇帝や貴族たちのことだ、というふうにきめてしまうのは、これはやはりまちがいで、話のはじめと終りに出てくる、おばあさん(――こわれたオケを手にして、土小屋のまえに立っている、おばあさん)は、どうしたって貧乏な農民のすがたをあらわしている、という意見も出ました。
 また、新しいオケをほしがったり、一度でもいいから“いい家”に住んでみたいと考えるおばあさんは、これはふつうの貧乏な農民のおばあさんだ、という意見も出ました。
 欲ばりで、つっけんどんで、底意地のわるい、このおばあさんのひねくれたコンジョウというものは、それは貴族たちの態度や性質のことをいっているには違いないが、でも農民たちのなかにも、そういうコンジョウの人間はいるだろう。あまりいじめられてばかりいると、人間はひねくれるものだ。いじめられどおしに、いじめられていた農民が、ひねくれた人間になるのはあたりまえだ。とすると、欲ばりばあさんのすがたは農民のすがたをあらわしたものだ、ということになりはしないか、――というような、ずいぶんませた意見も出てきました。
 また、なかには、――お人よしも程度もんだいで、このおじいさんみたいに、おばあさんのいいなりになっているようでは困る、という批評もありましたし、「お礼はいらないよ」と一度金のさかなにいっておきながら、いくらおばあさんにガミガミいわれたからといって、またノコノコお礼をもらいにいくなんて、という話も出たようです。
 それで、この金のさかなの物語は、けっきょく何をいっているのだろう、ということが、最後にみんなの話しあいになりました。
 そのときの、子どもたちの結論は、だいたい、こんなふうなことでした。
 (1)――ここのおばあさんみたいな、自分のことだけしか考えないような人たちのいいなりになってはいけない。
 (2)――そういう人たちのいいなりになっていると、自分もふしあわせになるし、よい友だち(金のさかな)にウソをついたり、“めいわく”や“やっかい”をかけたりすることにもなる。
 (3)――そればかりか、こういうことでは、“おばあさんのような人”が反省する時がないし、反省しないまま“ふしあわせ”になってしまう。
 (4)――金のさかなのような、やり方もいけない。おじいさんのためを思ってやったことはわかるが、それは、けっきょく、おじいさんをひどい目にあわせることになったではないか。やはり、考えがたりない。
 意見は、まだまだたくさん出ました。たとえば、
 (5)――「農民の願いや望みというのは、オケがこわれて使えなくなったから新しいオケがほしい、というような、ごくあたりまえのことなのですが、女王(皇帝や貴族)の考えることというのは、自分の国いがいの“青い海”まで支配して、恩人のさかな(?)までもこきつかおうという悪い望みです。女王になったおばあさんが、おしまいのところでいう“青い海”というのは、外国のことだと思います。さかなというのは、外国の人たちのことだと思います」
 (6)――「青い海が外国のことだとはきめられないよ。外国のことをいっているところもあるが、そうでないところだってある。とにかく、自分が女王になれたのは、金のさかなとおじいさんのおかげだよ。それなのに、自分をしあわせにしてくれている国民を苦しめるなんて、これじゃ金のさかなみたいに、いまに国民もいうことをきかなくなってしまうさ」というのです。

 あらたまって開いた子ども会・読書会ではありませんでしたし、まとまりはつきませんでしたが、それでも子どもたちは、童話のおもしろさということを、あらためて考えなおしたようでした。
 ――「小説よりおもしろいや」


五 読んで話しあおう
      ――小学校文学教育の実際(2)――


1 『雨ごいの村』
 でも、みんなのふまんは、金のさかなだの、さかなの魔法だのといわないで、もっとハッキリものをいったらいい、という点でした。そうしたら、「ほんとうに小説よりかおもしろい」というのです。
 子どもたちのいう“小説”というのは、『怪賊××騎手』のような冒険小説や、『母をたずねて』といった涙の少女小説のことなのですが、そういう“小説”よりずっとおもしろい。しかし ……というわけです。
 そこで、わたしは、本棚から二冊の本をぬいて、
 「これを読んでごらん」
といって、みんなのまえに出してやりました。
 「ほんとうのことが、ハッキリかいてあるから――」
 一冊は、壷井栄先生の『二十四の瞳』です。一冊は、『空気がなくなる日』『雨ごいの村』それから『ぶっこわし』などの少年少女小説のおさめられている本です。
 たとえば、そのなかの、国分一太郎先生のかいた『雨ごいの村』ですが、この小説には、戦争まえの農村のもようが、じつにいきいきとえがかれています。『漁師と金のさかな』のような遠まわしないい方でなしに、ズバズバ書いているのです。
 日でりつづきで、田の水がたりなくてこまった村の人たちが、毎晩、行列をつくって、ちょうちんをつけて、
 ――「おりゅうずん(お竜神)さまよ。大雨たもれよう」
と村のなかを、ねりあるきます。
 そういうさわぎのなかで、村の小学校の三島先生は、「気圧や風むきがかわらないうちは、雨はふらない。雨ごいなどをしても、人の力では、どうにもならない。もっともアメリカやソ連で は、飛行機から、何かをまいて、雨をふらせる研究をしているそうだが」と、子どもたちに話してきかせています。三島先生は、そういう先生でした。
 ところが、この三島先生のことを、あれは「先生の代用品だよ、代用教員ていってね。それもうちのおとうさんが、県視学さんにはなして、校長先生とそうだんして、やっと、先生にしてやったんだってよ」と、村会議員の子どもの金助は、さもけいべつしたような調子でいうのです。
 ――「おまえら、いちばん、ビリスケの、さがった先生からならってるんだぜ、やあい」
 三島先生の受持の組にいる真一は、ほかの組の子どもたちからそういわれると、すっかりいやな気もちになります。「あんなに一生けんめい教えてくれる、三島先生なのに――」とも思い、「さがっていたって、よく教えてくれりゃ、いいじゃないか」と、口にだして、いってみたりもします。が、けっきょく、みんなのヤジにまけてしまうのです。

2 ひきくらべて読む
 ……『雨ごいの村』は、こんな調子の作品です。たしかに、ズバズバ書いているのです。ざっくばらんに、ものをいっているのです。金のさかなの話とは、ずいぶんちがいます。読んでわかりがいいのです。わかりやすいのです。でも、この作品が“何をいっているか”“何がかいてあるか”という、本当のところをつかまえるためには、話のすじだけを追っていたのではダメなので、やはり、『金のさかな』を読むときのように、ことばの裏がわにあるもの、その奥にあるものを読み取らなくてはならないでしょう。すじだけ読んで、すこしむかしの農村のもようが書いてあったとか、三島先生はえらい先生だとか、金助がにくらしい、というだけでは、これは『雨ごいの村』を読んだことにはなりません。
 この作品にかかれていることと似たようなことが、わたしたちのまわりでも、くりかえされてはいないか、――そこのところを考えてみることです。
 そういう出来事のなかで、村の人たちや金助のしたみたいなことを、自分もやってはいないだろうか、と、そこのところを、よく考えてみることです。今の世の中や、自分や自分のまわりのことにひきくらべて、考えてみることです。
 そういうふうに、ひきくらべて読む、考えをまとめながら読む、というよみ方が、小説や童話の本当のよみ方なのです。そういうよみ方が、また、童話や小説をたのしく読むよみ方でもあるのです。
 それから、こういうこともいえそうです。“ひきくらべて読む”というよみ方をしていれば、それがどんなにむずかしい作品でも、“何をかいているか”“何をいっているか”という、作品のいちばんだいじなところを読みそこなうようなことはない、ということなのですが。
 「戦争まえの、すこしむかしの話が、いまのこととほとんどかわらないのは、なぜでしょうか」と、『雨ごいの村』の“あとがき”に書きつけてありますが、“ひきくらベて読む”ことで、はじめてこの「なぜ?」という疑問も起こってくるのです。
 「迷信や、不合理な生活のしきたり、有力者やその子がいばるようなことは、なくしたいものです」
 これも“あとがき”のなかにあることばですが、そういう点にまで考えを進めていくようになって、小説を読んだかいもあるというものです。考えをそこまで進めるためにも、「今の世の中や、自分や自分のまわりのこととひきくらべて読む」というよみ方になれる必要がありましょう。それと同時に、(さっき紹介した、子どもたちの話しあいのように)みんなで読みあって話しあう、話しあうことで自分の考えをたしかめる、という習慣をおたがいのものにすることです。
 友だちどうし話し合うというのは、いいことです。わたしたちのあいだには、まだまだ“話しあい”がすくなすぎるように思います。なわとびや野球はいっしょにするが、話しあうということはあまりしていません。
 おとうさんやおかあさん方との話しあいも、やはりすくなすぎるように思います。おとうさん方となかよくラジオのクイズをきくのが悪いとはいいませんが、それだけではいけないと思います。おとうさんや、おかあさん、そして友だちと、もっともっと話しあってみてください。話しあいをつづけることで、おたがいの考えていることや、感じていることがよくわかって、今よりも、もっともっと仲よしになれるからです。そのことで、また、自分の考えや考え方が進んだものになるからです。
 そういう話しあいのきっかけを、ひとつ読書のおりにもとめてください。みなさんの読む本を、おとうさんやおかあさんに読んでもらい、むろん友だちにも読んでもらって、おたがいの話しあいの場をつくってください。

頁トップへ


第五章 実践をめざして(U)
         ――中学校の場合――

一 言語教育の側面から
      ――東京都中学校国語教育研究会・一九五五年度大会に参加して(1)――

 《まえがき》 一九五六年二月二十六日にひらかれた東京都中学校国語教育研究会主催・東京都教育委員会後援の一九五五年度中央研究集会に、招かれて指導講師として参加した。これは、そのさいにおける第一部会(読解・鑑賞)の研究協議の速記録である。
  〈報告・1〉  読解力の研究  高木一彦(江東区第二亀戸中)
  〈報告・2〉  新聞の読解力  永峰 久(江戸川区瑞江中)
藤井亨蔵(司会) 研究協議に移ります。唯今のご報告について皆さんの質疑をお伺いしたいと思います。指導講師として熊谷孝先生と志波末吉先生においでいただきました。熊谷先生は、『文学教育の理論と実践』『国語教育』その他の編著によって新しい国語教育の体系を理論づけられた方であります。志波先生は、いまさらご紹介申し上げるまでもなく、私どもがいつもお世話いただいている都の指導主事でいらっしゃいます。では、質疑にはいります。

1 語彙と構文の指導
 A 高木先生にお伺いします。読解力指導の第一段階として語彙指導の必要をいっておられましたが、その具体的な方法についてどうお考えになっておられるのでしょうか。
 高木 一口にいうと、生徒の体験に結びつけて、その場に応じた指導をすることだと思います が……
 A いや、私のお尋ねしたいのは、語彙指導と構文指導の関連についてなのです。構文を生徒に理解させる過程で語彙をどう身につけさせるか、というような点です。
 高木 私の調査した結果では、(1)「語彙はやさしいが構文のこみいった文」に対する中学生の理解度は高い。一年生の場合も三年生の場合もそうなっています。(2)「語彙はむずかしいが構文のやさしい文」の理解度は反対に低いのです。だから語彙指導を徹底させて、その上で構文指導へ、そして思考力・創作力を高めるという方向を段階的に考えてみております。
 熊谷 段階的にというのは、かならずしも指導の実際の順序をさしていっているわけじゃないですね。語彙がすんでから構文を、それから創作力(?)――文章表現の力を、というんだとおかしくなる。そうじゃないですよね、高木先生……。
 高木 ええ、そういう意味ではありません。
 熊谷 「語彙はむずかしいが構文はやさしい」という、そのむずかしい・やさしいの基準のとり方について僕はちょっと抵抗を感じる。教師が「これはむずかしい語彙だ、構文だ」ときめてかかっているようなことばに、案外生徒はひっかからない。ひっかからないで読みこなす。さっきの永峰先生の報告にも、そんな例がありましたね。「税金の督促状」というような“むずかしい”ことばを生徒はスラスラ読む、というお話が――。それは生活に密着したことばだからだ、という結論のようでしたが、ここでもやはり“生活とどうつながることばか”という側面から、語彙・構文のむずかしい・やさしいを考えてみる必要があるんじゃないでしょうか。
 高木 それはその通りだと思います。さいしょ報告のとき申しましたように、“浅薄”ということばが生徒はわからない。それほどむずかしい語彙でもないのに意味が理解できないというのは、それが生徒たちの生活から多少遊離しているからだと思います。
 藤井 志波先生、この問題について何か……。
 志波 漢字の負担が教育においてどんな比重を示しているか、基本的に考えてみなければならん。そこに当然漢字制限の問題も起こってくるわけですが、逆に日常生活に出てこない漢字や漢語でも、現状としてはある程度生徒に学習させる必要のある場合もある。ただいまのお話を伺っていて、そんなことを感じました。

2 文法力と読解力
 B さきほどのご報告で文法指導の面にふれておられたようでしたが、要点をちょっと繰り返していただけませんか。
 高木 特に問題を感じるのは、一般に助詞の指導が軽視されているために文意がつかめないという点です。たとえば、おくばりしたプリントにある文例ですが、「浅薄の感を与える」という個所の「の」と、「ジャーナリズムの職務を軽視する」の「の」との区別なんかがハッキリつかめるような指導がなされていないために、生徒は文意をとり違える。助詞の語感がハッキリしない。
 B 文法であると同時に語感の指導ということですか。
 C 語感の裏づけとしての文法ということを、私も教室で注意している。実際はなかなか思うようにいきませんが、ともかく生徒にそれをつかませようと思って努力しているんです。
 熊谷 非常にだいじな点ですね。
  (志波氏、退場)
 藤井 質疑の時間がそろそろ切れますが……
 D 永峰先生にひとことおたずねしたいと思います。新聞による読解力の指導にあたって何新聞をお選びになったか、またその趣旨……それから新聞の見出しのつけ方や活字の大小ということが生徒の読解の仕方と関係があったか、なかったかという点をご説明ねがいたい。
 永峰 お答えします。私の扱ったのは朝日・毎日・読売の三紙でして、昨年の十月からずっと続けてやっております。見出しは概して固くて「韓国特務隊長暗殺さる」というふうに文語調であり漢語が多いので、生徒はなかなか読めません。見出しのつけ方に問題があります。
 藤井 質疑をうち切って、お二人の報告について熊谷先生のご講評をお願いします。

3 言語教育の問題点
 熊谷 文意がわからないのは語彙がつかめていないからだ、とそんなふうに高木先生のお話を理解していたのですが、そうじゃないことが後の話し合いで明らかにされました。Aさんが指摘していらしたように、むしろ、構文を理解させる過程で語彙をつかませる、というほうにアクセントを置いて考えていいように思います。子どもが“寒い”と叫ぶとき(この部屋もだいぶ寒いですが〈笑声〉――)子どもの叫んだ“寒い”というその語彙は「寒くていやになっちまう」「ストーヴくらい、たいてくれればいいのに」〈笑声〉という構文とつまり同じものなんです。生きた話しことばのつながりや文章から、ポツンと単語や語句、語彙だけをひきぬいて、それだけを叩き込むというのは、すくなくとも効果がない。ことばというのは本来そういうはずのものだと思うのです。文章や文全体との関連をぬきにした語彙指導では語彙指導にならないのは、これはあたりまえだと思います。高木先生の報告が後の協議をとおして、そうした点にまで問題を進めることができたのは成功だったと思います。
 次に調査ということについてなのですが、永峰先生の場合も高木先生の場合も、これは一種の調査報告であったわけですが、生徒の指導をよりよいものにするための調査という点がじつにハッキリしている。それがハッキリしているというのは本当はあたりまえのことなんだが、実際はなかなかそういっていない。調査のための調査、あるいはこういう晴れの舞台で報告するための調査という、ひどいことにもなっているのが普通らしい。調査をやると、それだけで何か生徒を向上させることができたみたいな錯覚におちいる。どうもそんな感じなんです。
 ですから、今日の報告者の方たちが、あたりまえのことをあたりまえにおやりになった、ということが実は非常にスバラシイことだ、ということになるんだと思います。
 第三に、――生徒たちが文意を読みちがえる、あるいは内容や表現にまちがいを含んだ文を読んで、それに気づかないでいるのはどういう場合かという点について、永峰先生は新聞の面から、また高木先生は学力テストの出題の面からいろいろ指摘していらしたが、たいへん教えられました。中学や高校の国語教育が、現実の教育的関心をその点に示す必要があるんじゃないのか、と思われるような非常に大きな問題が二人の報告者によって指摘されました。
 活字への迷信からの生徒の解放、という点についてです。新聞やラジオや教科書やそれに類したものへの無条件な信頼。そこから生徒を解放しないことには、マス・コミュニケーションの悪影響から自分を守ることも、反対にマス・コミを活用して自分の“人間”を伸ばしていくこともできません。
 まともな現実感覚、感覚の仕方、それを養なうための鋭い言語感覚、これだけは六・三教育の三で生徒の身につけさせなくちゃならない。大半の生徒は高校へ進学できない、中学校が国民一般にとって最高学府だということになるんですから。
 さっきどなたかの発言に、「語感指導の裏づけとしての文法的自覚」ということがありましたが、まともな現実感覚・言語感覚をつくるうえにぜひ文法意識が必要なのです。中学校の文法指導は、もっともっと徹底させる必要がある、助詞の指導を徹底させる、させなくてはいけないという高木先生のご意見には、だから全面的に賛成ですが、僕としてはむしろ品詞論的な角度から助詞をうんぬんすること似上に、主・述対応関係や文節相互の対応関係、さらに文と文との関連、つまり高木先生のいう構文への正確な理解、そちらのほうをさきに考えているわけです。構文理解を正確なものにしていく過程において、さきほどの例にあった「の」なら「の」という助詞の語義・語感・用法といったことも、自分の生きたヴォキャブラリーとして身につく、という関係なのではないかと思います。
 日本の少年少女、日本人である中学生たちがどうしてこうも日本語がわからないのか、母国語による文章表現をどうしたら生徒たちにわからせることができるか、そんなところに今日の報告のモティーフがあったんじゃないのかと思いますが、その一つは永峰先生がおっしゃったように今の新聞の見出しは日本語としてなってないというふうなこと、つまり文章をつくる側、ライターやライターの文章表現を制約するジャーナリズムやマス・コミのあり方に問題があるわけです。これは手をつかねていないで、ひとつ永峰先生あたりを先頭にしてマス・コミに抗議する〈笑声〉……冗談はぬきにしても、あの手この手と手段をつくして大いに抗議する必要がある。ラジオや新聞は世論には弱いですからね。僕たちの国語教育活動が、同時に国民的な国語運動と結びつく必要があるように思います。
 解決のもう一つの方策は、僕たち自身“習い性”になりかかっている言語技術主義からぬけだすことだと思う。電話のかけ方だ、挨拶の仕方だという方式の、生活の場面、場面のバラバラな言語技術指導に終始していた戦後十年のカタワな国語教育を反省してみることだ、と考えます。この言語技術主義の教育が戦後の悪現実とあいまって、オシャベリだけれど論理的にものを考えることも、相手を深味をもって理解することも、そして話すことも、読むこともできない子どもに、日本の子どもをゆがめてしまった。すくなくとも、そういう一面をつくりだしたことは事実です。中学校の先生方がよくこぼす、「小学校がもっと基礎をしっかりやってくれたら」と。ところが、高校では「中学校が――」といっているし、大学は大学で「今の高校教育は――」というわけです。そういう禍の根は戦後の教育体系そのものにあると考えられます。
 国語教育にそくしていうと、この言語技術主義です。国語教育が単なる言語技術の技術主義的な指導に横すべりしたら、おしまいです。それは、全人間的な言語活動の体系をふまえた教育でなくてはならない、と考えます。技術主義の指導がついに技術そのものを習得させることができなかったという点に、今日の報告のモティーフもあったように思います。〈拍手〉


二 文学教育の側面から
     ―― 東京都中学校国語教育研究会・一九五五年度大会に参加して (2)――

  〈報告・3〉 文芸の指導(一葉を中心として)  千葉良平(品川区富士見台中)
  〈報告・4〉 中学校における俳句指導の限界   阿川昔(足立区二中校長)
 藤井(司会)報告の時間が延長されまして、協議のための時間がわずかしか残されておりません。有効にこの持ち時間を活用していただきたいと思います。

1 『たけくらべ』をめぐって
 E 『たけくらべ』を教材に選んだ理由・動機といった点をご説明ねがいます。この作品が生徒の心の琴線にふれるものを持っている、というふうな意味でなのか、ほかに何か特別の理由があったのかという、その辺のところを……
 千葉 お答えします。美登利や真如など作中の人物の年齢が生徒に近いということ、したがって生徒たちは親近感をもって読むだろうということ、大体そういうことです。
 E 三年ぐらい前、私もこの作品を扱ってみたことがあるのです。むろん私の指導もまずかったのですが、みごとに失敗しました。生徒は――私の指導したのは二年生でしたが、「つまらない」と感じた生徒が多かった。殊に終りの一幕はいや味だというのですね。なぜつまらんかというと、純真な子ども、子どもらしい子どもが描かれていないということらしい。千葉先生が一年生に『たけくらべ』を読ませて成功したというのが、私の実感にはピンとこないのです。それで おたずねしてみたわけです。
 千葉 男の生徒と女の生徒で興味をもつところは違うが、ほとんどの生徒が感動しました。さっきの報告で申しましたように、一葉の繊細な鋭敏さ、しみじみとした深味とあたたかみ、そういう点をちゃんとつかんでいます。
 F 指導された生徒の環境の違いというようなことが関係していませんか?
 E この場合はないのですよ。それで私にはわからなくなるのです。
 石田成太郎(司会・2)クルワに生徒が好奇心を持つというようなことはなかったですか。主題をそれたところに興味が向けられて、思わぬ廻り道をさせられるというのは、よくあることですからね。
 千葉 「この女郎め」といったことばも、生徒はただの悪口としてしか理解しませんでした。私としても、生徒に不向きだと思われる字句はさらりと通ることにしましたし……

2 俳句の指導をどうするか
 G 阿川先生におたずねします。先生は季感諷詠詩としての俳句を中学生に作らせる必要があるといわれました。それは歴史的かなづかいによるほかない、とおっしゃいました。が、そういうことですと、生徒の生活にかなづかいの混乱を招くことになりはしないかと思う。また季感諷詠的な自然観を生徒の生活のなかに持ちこむことについても多少疑問があるのですが……
 阿川 さきほど申したように、季節を離れて日本人の生活は存在しない。日本人の生活の身辺は季節の変化に左右される。自然愛好は、したがって国民性であります。現代小説でも、すぐれたものは自然と深い交渉をもっております。また私は、かならずしも口語表現を否定するものではない。が、文語表現をとるかぎり歴史的かなづかいに従わざるをえません。
 H 中学校国語教育において生徒に俳句を理解させる必要はみとめますが、実際に作らせなくてはいけないというのが私には納得できないのです。その点についてお伺いします。
 阿川 かならず作らせなくてはならない、というのではありません。国民の大部分にとって最終の学校生活である中学校において、季感諷詠の季題をよみこんだ俳句を作るよろこびを与えることが望ましい、というのです。自分で句を作ることで日本の伝統文学の高級な境地を味わうことができるのです。とにかくこれは教育的見地からいって間違いがないことだと思うのです。
 藤井 協議を終り講評に移ります。協議の過程で問題になったようなことをも含めて、熊谷先生に十分ご批判いただきたいと思います。

3 季感諷詠的自然観に疑問がある
 熊谷 俳句指導の報告のほうから順に申しあげてまいります。これは数十年にわたる報告者ご自身の作家としての体験に裏うちされた報告でありまして、はたでとやかくいうべき筋合いのものでなさそうです。たいへん教えられるところがありました。が、同時に、素人の悲しさで、おっしゃっていることの筋が筋としてつかめない、意味がとれないような点もいくつかありました。その点を、むしろ、これからおたずねしてまいろうと思います。
 まず、中学校において俳句の創作指導をやることの是非についてであります。やったほうがいい、やることが望ましいという報告者のご意見であったようですが、結論をさきに申しますと、すくなくともこれは中学校(高校でも大学でも同じことですが)国語教育のワク外の問題だというふうに僕は考えてみております。国語教師たるもの句作の実際指導をやらなくちゃいかん、というふうなことにでもなったら、これはたいへんなことだと思う。負担が大きくなってたいへんだというのじゃなくて、教育的見地からみてたいへんなことだと思うのです。それをしなくてはいけない、というんじゃなくて、「したほうがいい」「それが望ましい」というだけだ、とこういわれましても、ことがらは同じです。まともな教師だったら、「したほうがいい」ことは必ずやるにきまっているんですから。教師って、そういうものだと思うのです。
 そこで、学校で句作をやらせるとして、句作することの意義・目的がどこにあるのか? ――とこう申しますと、実際に自分で俳句を作ってみることで季感諷詠の自然観が身につく、ということらしい。報告や協議を通して、そんなふうに受けとれたのですが。……で、もしそうであるとすると、さきほどどなたかの発言にありましたように、こうした自然観なり現実観照の態度なり現実感覚の仕方を若い中学生のそれとして身につけさせることが妥当であるのかどうか、僕もやはり疑問に思うのです。
 むろん自然を見る目を養なうことは必要です。大いに必要です。が、何か不変の自然観といったもの、自然観一般というようなものがどこかにあるんじゃなくて、前近代的な箱庭式の自然観あり近代的な自然観ありというわけです。日本の自然は一つだから自然観も変らない、というふうにはいえないように思います。問題はそこで、どういう自然観を生徒のそれとして身につけさせるか、であります。俳句の季感諷詠的なそれが適当かどうか、なのであります。
 話しているうちに、ふっと思い浮べたことなのですが、たしか桑原(武夫)さんだったでしょう、六・三コースの文学学習の素材は近代作品に限定すべきだという意味のことをいっておられた。それは一つには、今ここで問題になっているような箱庭的な自然観からの生徒の解放――といっては話が滑りすぎますが、ともかく何かそういった含みでの発言だったように記憶します。が、それはそれとしまして、季感諷詠といったこととの関連で千葉先生の報告にふれさせていただきます。

4 考える子どもをつくる文学教育
 熊谷 さきほどご列席のどなたかから『たけくらべ』を教材として選んだ動機について質問がありましたが、わたしもやはりその点をお尋ねしたいと思います。一葉の作品のなかから選ぶのだから『たけくらべ』をというのなら一応わかりますが、中学一年生にわざわざ『たけくらべ』をというのは、ちょっと疑問です。一葉の作品が中学校文学教育の教材として不適当だというんじゃありません。が、あれを素材として扱うまでには、かなりの準備期間、地ならしがいると思うのです。つまり、一年生には――小学校から受け入れて三月半年そこそこの一年生に提供する作品じゃない、というふうに一般的にはいえるのではないか。
 というのは、こういうことです。女の子の場合についていうと、多かれ少なかれ通俗少女小説を読んでいる。読んでいるという以上のものだ。愛読者です。前近代的な“あきらめ”の要素をひきつぎ、ある意味でそれを拡大した通俗少女小説のファンに向かって、あきらめの系列の文学作品、一葉の小説なんかを読ませるということは、これはマイナスだと思うんです。明治二〇年代のあの段階における女の人としてのぎりぎりの抵抗が一葉の場合であったこと、それがしかし結局“あきらめ”に崩折れなければならなかった民衆のなげき――そうしたことを、無媒介に、いきなり中学一年生につかませることは不可能に近い。そうじゃないでしょうか。
 で、そういう方向に(かならずしも結論ではなくて方向ですが)方向的に、方向としてそういうことをつかませるのでなかったら、わざわざ一葉を読ませる意味はない。涙の少女小説・母もの小説として一葉の世界をぐるぐる廻りさせるというのだったら、これはやめたほうがいい。そう思うのです。そこで、つまり地ならしが必要なのです。さっきの千葉さんのお話では、中学一年生がこの作品に興味を持ったということですが、興味の持ち方にやはり問題がありそうです。が、なんにしても相手が一年生であるのに興味を持たせることができたというのは敬服です。また、当時の風俗写真や『たけくらべ』の舞台になっているあの地区の写真、一葉の生い立ちに関するそれなど視覚教材を活用されたことはたいへんよかったと思います。僕なんかもアイディアとしては持っているんだが、この視聴覚教具・教材の使用というのが、オックウでなかなかできないのです。敬意を表します。
 “あきらめ”と“季感諷詠”――そこでともかくも子どもたちや若者たちには、生活する人間のナマナマしいよろこび、悲しみ、訴え、それをそっちょくに語った力強い文学が教育素材として必要なように思います。さっきどなたかのお話のなかに、日本近代小説もこの季感諷詠的自然観と深くつながっている、そこが長所だ、という意味のことがあったように思いますが、そういう小自然観を脱し切っていないところが、つまり本当の散文精神を自分のものにすることのできなかったことが、日本近代小説の小説文学としての確立をみなかった理由じゃないのか、という見方も一方には成りたちうるわけです。
 で、おしまいに申しあげたいことが二つあります。一つは、直接右のことと関連して、僕たち文学教育にたずさわる教師は、自分自身もっともっと現代的な文学感覚を身につける必要があるし、そのためにも文学研究ともっと深く結びつく必要があるということ。十年も二十年も前の文学史常識(それはこんにちでは非常識、誤まれる常識です)そのおかしな常識で生徒の指導にあたるということのないようにしたいと思います。第二に、そういう考え方をよく耳にするのですが、読解力指導のしめくくりが創作指導であるという考え方、文学教育の最終の、そして最高の段階が創作指導の段階だという考え方、そういう考え方に落ちこまないでいただきたい。
 文学教育の目的は、文学的思考を日常生活に生かすことのできる人間に生徒をそだてていくことであります。文学的思考にささえられない論理的思考というようなものはありえません。それは論理的思考の一つの側面です。論理的思考は、科学的思考と文学的思考にささえられて、はじめて成りたつのです。そのどちらを欠いても“考える子ども”は生まれません。ハツラツとした考える子どもをつくるのが文学教育です。 〈拍手〉


三 子どもはどんな読みそこないをするか
    ――『あたたかい右の手』(壷井栄)をめぐって――


 “あたたかい右の手”という標題のさし示す意味も、終りのところまでくれば明らかである。
  ――「泣いてあげなさい。泣いてあげる人がなくっちゃ。」
  そしてつぶやくような、ちいさな声で、
  「もとは、みんな戦争よ、あれもこれも。」
  それにこたえるかのように、竹子は、かたのうえのおかあさんの手をかるくにぎりしめました。あれてが  さがさした手は、しかし、あた たかい右の手でした。

 あれもこれも、もとはみんな戦争だ、という母親の叫びは、呟やくような小さな声ではあったけれど、すなおな気持でものごとを考える人だったら、そうだ、ほんとうにそうだ、と口にだしてその叫びに答えずにはおれなくなるような迫るものを持っている。慈雨を死に追いやった汽車の混雑も、ひとを押しのけてもという、みんなの態度も、もとはみんな戦争だ!
 また、――慈雨ちゃんたら、どうしておされっぱなしで我慢なんかしたんだろう。どうして押し返さなかったの。それを、あなたは、悪いことだと思っていたのだろう、という竹子のうらみごとも、ここまできては、読む者の胸には、もう単なる慈雨へのうらみごととしてでなく、読者自身の内部に向けられたきびしい批判の声として響いてくる。
 善意だけではどうにもならぬ、こんにちの現実であること、いや平和を望むそういう善意(無抵抗主義)が、こうした悪現実のもとでは、かえって平和をはばむ力に手をかす結果をつくりだすものであること等々、わたしたちの心に住むいくたりかの“慈雨”にたいする批判が、そこにはある。
 ところで、これは、わたしの“鑑賞”をそれとして述べているのではない。この作品のほんら いの読者である中学生諸君の読後感を代って述べたというだけのものだ。
 どんなところが印象に残ったか、どんなふうなテーマの、どんなふうなしくみの作品として子どもたちに印象されたか。――結果は、だいたい作者の狙った方向に作品の表現が理解されていることが知られるのであるが、指導の伴なった場合とそうでない場合、指導がおこなわれたというにしても指導の場の違いなどによって、その表現理解(鑑賞)にはかなりの差が見受けられる。また、そういう表現理解の幅や厚み(あるいは深さ・浅さ)に、読者の生活年齢がいろいろに作用しているということは、これはいうまでもないことだが、そのこととからみ合いながら、ひごろ子どもたちの指導にあたっている教師の意識のありようやセンス(感覚)のよしあしが、生徒自身の享受の感度を鋭いものにしたり鈍いものにしたりしていることは、ほとんど決定的であるといってよかった。
 そうした鑑賞指導の実際に即したいろいろの問題のなかから、二、三のことがらを拾って、ここに書きつけてみようと思うのだが、その前にいっておかなくてはならないのは、慈雨の死の、いわば客観的な、裏づけ(死に至る慈雨自身の主体的条件)の一つとして作者が挙げているところの医者の証言がほとんどすべての読者(中学生たち)によって読み過ごされている、読み落されている、という点である。
 おさない子どもならともかく、十才のうえにもなれば、押されても押し返す力というものが人間には自然そなわっているのが普通なのに、押されてそれに抵抗する力がなかったのは、よほど弱いからだだったのだろう、という「病院のお医者さまがいった」ことばである。そのことばから、竹子は、「慈雨ちゃんの栄養失調というアダナを思いだした」ということや、「あおいやせた顔の慈雨ちゃんは、おべんとうも組のなかでいちばんおそまつなもの」であったことなどを、作者はかなり力を入れて書いているし、そういう目で読み返してみれば、すでに書き出しのところで、「かみの毛がそんなに多くて、つやつやしているのに、慈雨ちゃんはやせて、青い顔いろをしている」ことを、ぷちぷちと肥っている竹子の「つやつやかがやいているよう」な皮膚の色と対照的に描いてみせているのだ。
 作者は、ひじょうに慎重に、そんなふうにいくつかの伏線を張りめぐらしながら、焦点をキワ立たせようとつとめているのだが、一度や二度読んだのではどうもぴんとこないらしい。また、ちょっとやそっと注意をうながしたぐらいのことでは、全然乗ってこないというふうな子どもたちさえある。
 それは、国語担当の先生が大の浪花節ファンで、授業のあいまには、きまって塩原多助が飛びだす、というふうな指導を受けているクラスの生徒の場合であった。
 ともかく、読者は、竹子といっしょになって、歯ぎしりしたり、慈雨ちゃんをあわれがったりしているうちに、いつの間にか竹子とは別の軸で(というのは、つまり自分自身の生活の実感のワクのなかで)怒ったり悲しんだりするところへ横すべりして、作品の表現のだいじな点を見落す、という結果になってしまっているのだ。どんなすぐれた作品でも、与えっぱなしではダメだというのは、こういうことがあるからだ。指導がキメ細かにおこなわれなければならないのは、こういう点である。そこで、つぎのような方式の指導が必要になってくる。


四 文学の鑑賞指導
    ――『蜘蛛の糸』その他――


 子どもたちに、自分の鑑賞のズレやゆがみを、すなおに自覚させるのには、一対一の指導よりは、五人、十人、二十人と集まって、そこでおたがいの意見を発表させ討論させるという方式がいい。一対一の対談は一見理想的なようであって、じつはおとなの考えを押しつけられたという気持で、子どもが引き下がるのがオチのようである。
 で、この一対一の対談方式では、そういう気分に子どもを追い込むまいとすると、結果は子どもの感想をただそれとして聞きっ放しにする、ということになる。だから、母親が子どもを家庭で指導するという場合でも、やはり隣近所の子どもなりクラス・メートを呼ぶとかいうふうにして、ウチの子といっしょに指導するというのが効果的である。
 わたしは、もうせん、ある家庭でもよおされたこうした種類の会合(子ども会)に呼ばれて、その席につらなったことがある。
 芥川竜之介の『蜘蛛の糸』と、右の『あたたかい右の手』がお話会のテーマで、この家の子どもが通っている中学校の若い女の先生(国語の先生)が司会した。
 中学生が三、四人、小学校の五年生と六年生が七、八人、それにお母さん方が三人ばかりというなかなか賑やかな集まりだった。
 『蜘蛛の糸』のほうは、お母さん方には一様に人気があったが、子どもたちには、あまりしっくりいかないらしかった。身勝手なマネをしてはいけない、ということが書かれてあって、「たいそうためになる童話だ」というような意見が出たりもしたが、「お説教きかされてるみたいで、ぼくは嫌い」という中学生の感想発表で、大笑いになってしまった。
 また、蜘蛛の糸を使ってカンダタを助けだそうとするお釈迦様のヤリクチがみょうに中途半端だ、あれじゃ誰だってひっかかるよ、まるでペテンだ、しん底から助けようと思ってるのかどうか、わかったもんじゃない、という意見を述べた六年生の男の子もいた。
 この話が出たところで、司会者が話をひきとって、芥川という作家は、人間の本質を“利己”というところに求めた作家であること、だからここでもカンダタは利己心のために救われない、というふうなとり扱い方になっているのは当然のことだ。大泥棒の何のといろいろ肩書はついているが、つまりカンダタは人間というもの一般を象徴しているわけなのだから、という意味のことを、ひじょうにわかりよく話した。
 すると、はじめこの作品を支持していたお母さん方も、「いったい、これは童話なんですかね」と、お隣りどうし、ぼそぼそ話をはじめ、あげくは「これはお母さんグループの負けですね」と一人のお母さんがいいだした。
 『あたたかい右の手』は、おとなの側も子どものほうも、ほんとうにすばらしい、というところで意見が一致した。
 もっとも、男の子の側には幾分の不満があるらしく「女ッくさい小説だな」とか、「女しか出てこないんだからね」という声があったが、「そんなこといったって、ムリよ」という女の子たちのムキになった声にもみ消されてしまった。
 そして、それはもみ消されても不満ではなかったらしく、作品の表現についてカンドコロを突いた意見はかえって男の子の側に多く、女の子のほうは、さっきもいったような、自分の実感の文脈に作品の表現をゆがめて理解しているような(つまり吉屋信子調の感傷を、このリアリスティックな作品の表現理解にそのまま持ち込んでいるような)読後感を述べているむきがすくなくなかった。例の“女くさい”という距離感が、かえってこの場合プラスにはたらいて、男の子たちの鑑賞を正しいものにしているのだ。慈雨ちゃん一家の例の“あなたまかせ”の成り行き主義(?)・無抵抗主義への強い反撥を見せたのも、この男の子たちだし、戦争と平和の問題への竹子と竹子のお母さんの考え方を、もっと掘りさげて意見を述べたのも、やはりこの男の子たちだった。
 会が終ってから、お母さん方は、こんな話をしていた。「今の子どもたちには、壷井さんのああいったふうな作品でないとダメなんですね。わたしたちの子どもの時分とは、まるで違ってまいりましたね。」


五 禁じられた遊び
    ――中学生のために――


 『禁じられた遊び』という映画をごらんになりましたか。見てない? そう。見てなくたって、かまわないんです。これは映画の話じゃないんだから。
 みなさん。四中生のみなさん。
 みなさんは幸福ですね。その気になりさえすれば、本はいくらでも読めるんだから。進学の準備で忙しい三年生の人だって、心がけ一つで、いくらでも読めますものね。お家に本がなくとも 学校に借りられる本がたくさんある。それに、もうじき図書館もできる。本当にみなさんはしあわせだなあと思います。
 本が読めてしあわせだ、とこういうと、なんでわざわざそんなことをと首をかしげる人があるかもしれませんが、読みたい本が自由に読めるというような環境は、そうそうざらにはないんですよ。
 敗戦のすこし前から四年ほどのあいだ、わたしは、東北地方のある農村地帯に疎開しておりました。
 その土地で毎日のように耳にしたのは「本をよむ暇があるなら縄をなえ」という、怒気をふくんだ親たちの荒々しいことばでした。そのことばのかげで、ちょうどみなさんと同じ背恰好の中学生が、顔をまっかにして首うなだれていました。
 本をよむ暇があるなら縄をなえ。
 今でもこの地方の農村では、本を読むことは“禁じられた遊び”――わるい遊びの一つにかぞえられているそうです。ここの親たちは、わたしが疎開していた頃と同じように、「百姓に学問はいらん」「本を読んでいるようではロクな人間になれない」ということばを、きっと今でもくりかえしていることでしょう。
 おわかりいただけたでしょうか、みなさんがしあわせだ、とわたしのいったわけが――。四中生のみなさん。環境にめぐまれたみなさんは、どうかこのふしあわせな農村の中学生たちの分も代って、しっかり読書していってください。しっかり読書することで、どうして農村の中学生に読書の自由がないのか、なぜ農村の親たちが読書を悪いことだというふうに考えるのか、というその大もとの原因をつかんでください。
 そんなふうに、ものごとの大もとがつかめるような本のよみ方、問題意識をもった読書をするにはどうすればよいか。そういうことを友だちどうしでも話しあい、先生方やお父さん・お母さん方ともよく話しあってみてください。
 そして、農村の中学生も都会の中学生も、日木の中学生みんなが自由に本の読めるような世の中にしていく。
 読書を“禁じられた遊び”でなくする。
 わたしたちの読書は、つまり、そういうことのための読書なんだと思いますが、どうでしょう。

頁トップへ


第六章 実践をめざして(V)
        ――高等学校・大学の場合――


一 高校生の読書遍歴と文学学習

 卒業を前にした女子高校生諸君をつかまえて聞いてみた。何を読んでいるか、読んできたか、いや“何が自分の成長の糧となったか”というような点についてである。そのことにあわせて“読書からえたもの”について語りあった、というわけだ。
 高校卒業という時点にたって、
 (1)小学生時代
 (2)中学生時代
 (3)高校生になってから
という三つの時期についての思い出を、まずカードにメモしてもらい、すこし間を置いてから、こちらの質問に答えてもらうことにした。また、自由に自発的に発言してもらうことにした。以下、その折のメモを繰って、問題点を二、三拾ってみることにしよう。
 あいては東京山の手の某私立女子高校の生徒。その大多数が経済的に豊かな環境にそだった生徒たちである。その九割方が家に電話をもっている。女中のいないというのは三割そこそこ。会社の重役が三割、一流の大会社や官庁の部課長級が二割、その他商店経営といったところ。
 きわめて特殊な環境に人となった生徒たちだが、自分たちの生活の特殊性を自覚することで、逆に環境による制約を乗りこえようとたえず努力しているような、好もしい若者たちである。こんにちの十代の一つのケースを示すものとして、お読みになっていただきたい。報告は“文学的読書”にしぼっておこなうことにする。

1 高校時代は日本の作品が
 高校生になってから何を読んだか。いや、どういう作品が自分をはぐくんでくれたか、という問いに対して、七十八名のこの生徒たちは二六一の作品をあげた。
 一人あたり三、四冊の書名をかきつけたわけだ。やはり、日本の作品のほうが多い。外国の作品との比率は、だいたい六対四というところ(第一表参照)。
 ところで、むろん、各人の書きつけた作品名には重なり合うものがあるわけだ。ことに、この学校は、学校全体が生徒会活動に関心が深いし、クラブ活動やサークル活動がさかんだから、教師・生徒のタテ・ヨコの交流がかなり徹底しておこなわれている。したがって、同じ本を読み合って話すとか、感銘の深かった本は友人にもすすめるというようなことが、高学年になるにつれて“傾向”というより“雰囲気”にさえなってきている。この“重なり合い”の大きい理由だ。それで、あげられた作品数は二六一だが、実数は半減して一三五という結果になっている。が、それでもやはり、六対四という比率は動かない(第二表参照)。

 第一表
作品総数 261 100%
日本の作品 152 58.2%
外国の作品 109 41.8%

 第二表
作品実数 135 100%
日本の作品 80 59.2%
外国の作品 55 40.8%

2 何が心の糧となったか
     ――高校時代――

 右の“心の糧となった作品”としてあげられたものを、同一作家の作品は作家別にまとめて、高位順に第一〇位まで拾ってみると、第三表のようになる。
 これを作家別でなしに、純粋に作品別に第五位まで順位をたどってみると、第四表のようになるが、いずれにしても彼女たちの関心が、いわゆる“古典”よりは現代に、外国作品も日本の現実に問題を投げかけるようなものに集中していることが知られよう。
 なお、『妻よねむれ』が第一位を占めているのは、彼女たちが前に読書会のテキストにこの作品を選んだことと関係があり、また百合子が初期のものから晩年の作品にわたって読まれていることには、さいしょの項に記したような、彼女たち自身の“良家そだち”という特殊環境と深く関係している。
 
 第三表
順位 作 品 ・ 作 家 名 票数 投票総員
との比率
1 徳永直(妻よねむれ・太陽のない街・八年制) 22 28.2%
2 宮本百合子(伸子・播州平野・風知草・二つの庭・貧しき人々の群) 16 20.5%
3 愛は死を越えて(ローゼンバーグ) 12 15.4%
4 山本有三(女の一生・路傍の石・真実一路) 11 14.1%
5 島崎藤村(破戒・春) 10 12.8%
6 浮雲(二葉亭四迷)
芥川竜之介(河童・糸女覚書・大導寺信輔の半生)
各8 10.2%
7 光ほのかに(アンネ・フランク)
人間のしるし(モルガン)
静かなドン(ショーロホフ)
ゾーヤとシューラ(コスモ・デスミンスカヤ)
各7 8.9%
8 母(ゴーリキー)
ジャン・クリストフ(ロマン・ローラン)
虹(ワシレフスカヤ)
鋼鉄はいかに鍛えられたか(オストロフスキー)
各6 7.60%
9 嵐の中の人生論(山本茂実)
原爆詩集
冷笑(永井荷風)
壺井栄(二十四の瞳・母のない子と子のない母と)
各5 6.40%
10 シェークスピア(ハムレット・マクベス)
夏目漱石(道草・心)
樋口一葉(にごりえ・十三夜)
林芙美子(めし・放浪記・浮雲)
何処へ(正宗白鳥)
蟹工船(小林多喜二)
真空地帯(野間宏)
各4 5.10%

 第四表
順位 作 品 名 票数 比率
1 妻よねむれ(直) 15 19.2%
2 愛は死を越えて(ローゼンバーグ) 12 15.4%
3 伸子(百合子)
浮雲(四迷)
女の一生(有三)
破戒(藤村)
各8 10.2%
4 光ほのかに(アンネ・フランク)
人間のしるし(モルガン)
静かなドン(ショーロホフ)
ゾーヤとシューラ(コスモ・デスミンスカヤ)
各7 8.9%
5 太陽のない街(直)
母(ゴーリキー)
ジャン・クリストフ(ロマン・ローラン)
虹(ワシレフスカヤ)
鋼鉄はいかに鍛えられたか(オストロフスキー)
各6 7.6%


3 教科書の問題
 ところで、右の第四表をデータとしていうかぎり、『ジャン・クリストフ』を唯一の例外として、彼女たちの愛読書の系列は国語教科書のそれとほとんど無関係だということになる。むしろ、教科書の系列とは背中合わせだといったほうがあたっているのだ(第四表に示された作品中、その断片だけでも教科審に載っているのは、右のロマン・ローランの作品だけである)。
 百合子にしろ直にしろ、また多喜二にしろ、今の教科書では敬遠されている。プロ文学と名のつくものや、それにつながる作品は、すべて教科書ではタブーなのである。
 それだけではない。漱石の作品にしても、『草枕』や『坊っちゃん』などの初期のものがほとんどで、あとは『三四郎』がチラッと顔をのぞかせる程度だ。竜之介の作品についても同じようなことがいえる。『地獄変』以前のおさない竜之介がすがたを見せているだけだ。
 外国文学では、英・米・佛・伊、独その他総花式に作品の断片が掲載されているが、中国やソヴェトの作品は一編も見あたらない。近代ロシアの作品でさえ、ツルゲーネフのものを例外として皆無である。誰やらがいっていたが、民族的関心をどこかへ置き忘れた拝外主義と排外主義が今の教科書の編集だ。
 つまり、右に示されているような生徒たちの読書傾向は、民族的なものを見失った、教科書のこの拝外主義と排外主義とへの抵抗とさえ考えられるくらいのものだ。

4 小学生時代にはアンデルセンを 
 高校卒業の今の時点にたって、おさない自分の心をつちかってくれた作品として回想されるのは高校時代とちがって、おもに外国の作品であるという(第五・六表参照)。数多く読んだのは、むしろ日本の童話や少年・少女読みものだが、なつかしいのは、しかしアンデルセンやグリムだというのである。

 第五表
作品総数 160 100%
日本の作品 27 16.8%
外国の作品 133 83.2%

 第六表
作品実数 60 100%
日本の作品 21 35%
外国の作品 39 65%

 順位をたどってみると、第七表のとおりである。

 第七表
順位 作 品 ・ 作 家 名 票数 投票総員
との比率
1 アンデルセン童話 28 35.8%
2 小公子
小公女
各12 15.4%
3 宮沢賢治(風の又三郎 他) 11 14.1%
4 イソップ物語 10 12.8%
5 アンクルトムの小屋 7 8.9%
6 レ・ミゼラブル(ダイジェスト) 5 6.4%
7 グリム童話
一房の葡萄(有島武郎)
各4 5.1%
8 クオレ(愛の学校)
家なき子
小川未明童話
ピーター・パン
各3 7.6%
9 嵐の中の人生論(山本茂実)
原爆詩集
冷笑(永井荷風)
壺井栄(二十四の瞳・母のない子と子のない母と)
各5 3.8%

 便宜上、三人以上の生徒が指名している作品を上に掲げたわけだが、その中にあげられている日本の作家が僅か三名にすぎず、しかもそれが児童文壇の文壇的傾向(生活童話へのかたより)から自由であった宮沢賢治や、ほんらい的な児童文学者ではないところの有島武郎などであることは何を示しているのであろうか。

5 文学教育は国語教室の専売ではない
 中学生時代になると、日本の作品が圧倒的に多く読まれるようになる。数多く読まれるというだけではなく、感銘の深いのも日本の作品だった、というのだ(第八・九表参照)。

 第八表
作品総数 191 100%
日本の作品 147 76.9%
外国の作品 44 23.1%

 第九表
作品実数 116 100%
日本の作品 78 67.1%
外国の作品 38 32.9%

 この時期における日本近代文学への関心の深まりは、どこの学校にも見られる一般的なあらわれのようだが彼女たち自身の語るところでは、自分たちの生活や生活感覚に直接ふれるものを日本の作品のなかに多く見いだしたからだ、という。
 いま一つには、文学教育がほとんど国語教室の一手専売のような形でおこなわれたことにもよるという。他の教科、たとえば文学とのふれあいの多いはずの英語の授業などでは、しかしせっかくの文学教材もたんに語学のための演習教材として扱われがちだったことにも関係がある、と彼女たちはいっている。文学教育を国語教育のワク内において考えがちな、わたしたちにとって、一つの反省の資である。

6 日本の作品に読みふけった中学生時代
 右の関係を、さらに第一〇表についてごらんになっていただきたい。

 第一〇表
順位 作 品 ・ 作 家 名 票数 投票総員
との比率
1 山本有三(路傍の石・真実一路・女の一生・波) 22 28.2%
2 芥川竜之介(河童・鼻・蜘蛛の糸)
土(長塚節)
各10 12.8%
3 夏目漱石(坊っちゃん・草枕・心・吾輩は猫である)
島崎藤村(破戒・家・嵐・千曲川のスケッチ)
次郎物語(下村湖人)
各7 8.9%
4 宮沢賢治(セロ弾きのゴーシュ・銀河鉄道の夜・風の又三郎・他)
人形の家(イプセン)
各6 6.4%
5 有島武郎(一房の葡萄・小さき者へ・他)
にんじん(ルナール)
樋口一葉(たけくらべ・にごりえ・十三夜)
各4 6.4%
6 大地(パール・バック)
伸子(宮本百合子)
小公子(バーネット)
浮雲(二葉亭四迷)
アンデルセン童話
各3 3.8%
7 グリム童話
一房の葡萄(有島武郎)
各4 5.1%

 これを作家別にしないで、作品別で順位をたどると、有三の『路傍の石』と湖人の『次郎物語』がそれぞれ票数七で第一位、『人形の家』が六票で第二位『破戒』『河童』がそれぞれ四票で第三位ということにな るが、ところで有三や湖人の作品への傾倒から何をえたであろうか? ――「おおまかな意味でのヒューマニスティックな正義感と人生への意欲を」と彼女たちはいう。「あの時期に『路傍の石』や『真実一路』に親しんだことは、ともかくプラスだった」としみじみ語るのである。
 が、また、たとえば、『次郎物語』の世界のような「架空の人生を、現実のそれと思い誤まったまま今に至ったとしたら、それは大きな問題だが」とも彼女たちは語るのだった。そこに望まれるのは、とくに中三から高一の時期へかけての精神の成長期における、問題意識喚起の積極的計画的な文学学習の指導である。

7 問題は文学と教科書のあリ方
 ところで、ここに問題があるのは、高校卒業の現在の時点において、一般の生徒たちがそれをもはや薄手なものに感じてきているような、たんにヒューマニスティックな作品に、今に至ってようやく親しみはじめたというふうな生徒たちのことである。
 このケースの生徒たちの愛読してきた作品というのを、小学生時代からずっとたどって見てみると、たとえば、第一一表のようなことになっている。小学生時代の読書生活のブランクが補ないのつかぬまま現在に至っている、といういきさつらしいのだ。

 第一一表
小学生時代 中学生時代 高校生時代
第一例  愛読書なし  若草物語  次郎物語
第二例   〃  路傍の石  坊っちゃん
第三例   〃  十三夜
 偕成社の名作ダイジェスト
 次郎物語

 が、その到達点は、方向として健康なものであり、それとして十分意欲的であるとさえいえる。前途について悲観的な観測をくだすのは、だから必ずしもあたらないが、この生徒たちがこれで学校生活と縁が切れて“家の娘”に還元されてしまうという点に問題がある。進学組や就職組は別として、この十九の娘たちの大部分にとっては、学校生活だけが社会に向かって開かれたほとんど唯一の窓であるからである。
 が、それはそれとして、『次郎物語』や『路傍の石』のような、そのかぎり意欲的で明かるくタクましい作品が一般に人気があるのは、近代から最近代に至る日本文学一般の暗くじめじめした否定的性格への嫌悪とふかく関係している。
 また、末梢神経で書いたような視野の狭い作品や、人肌のぬくもりのない傾向的な作品の氾濫しているこの現状にも、彼女たちは彼女たちなりにあきたりぬものを感じているのだ。また、たとえば、お色気を売り物にした巨匠某々氏や中堅作家某々氏の作品などは、なおさら彼女たちの潔癖さがそれを受けつけない。問題はこの一点では文学自体の問題にかえってしまうのだ。
 それと同時に、さきほどもふれた今の学校教科書のコスモポリタニズム(拝外主義=排外主義)と“お稽古ごと”的教養趣味・文化主義のあの編集ぶりに問題がある。
 未熟ではあるが潔癖で意欲的な生徒たちは、教科書の文学教材と文壇的文学作品との双方に背中を向けて、右に見てきたような“架空の人生”に逃避(?)する。もっと手の悪いのになると小女小説から母物小説へ(通俗少女雑誌から『明星』『平凡』へ)というコースをたどっている。

8 クラブ活動と文学教育
 けれど、また、第一〇表にそのことが示されているように、中学生時代に『伸子』や『人形の家』『河童』『破戒』などに傾倒し、大きく自分を成長させていっているケースもある。その中核は、中三から高一の時期に読書サークルをつくって、生活に幅を加えていった生徒たちである。
 サークルで何人かの先生を囲んで読みあったのは、はじめ田中千禾夫の『おふくろ』だったという。
 次いで、『可愛い女』(チェホフ)・『地獄変』(竜之介)・『河童』(同)・『土』(長塚節)・『外套』(ゴーゴリ)などを読んだという。
 が、『外套』まで読んできて気づかされたのは、「文学的読書が、しかし文学作品だけの読書にとどまっていたのでは、けっきょく文学もわからない」ということだった。
 そういう自覚が生まれたところから、彼女たちの飛躍的な成長がはじまった。理論的なものへの関心、そして理論的関心、歴史への関心である。 
 それが同時に、自分たち自身の生活の基盤や周囲への関心と実践的意欲をよびさました。生徒会らしい生徒会の組織が彼女たち自身の手によってこの学校に誕生したのも、あるいはその一つのあらわれだったかもしれない。
 そして、この時点において、文学は、新たな意味で彼女たちの心を奮い起こす生きた力になった、というのが、彼女たちの指導者である教師諸君の観測。
 学校における文学教育活動の中心の場は、なんといっても教室であるが、教室がそのすべてではない。むしろ、課外の指導やサークル活動に大きな期待がかけられる。課外やサークルの活発な活動の成果が教室にハネ返ってきて、クラス全体の活動がいきいきとしたものになる、というのが実際だ。そこに他教科との緊密な横のつながりが望まれるし、何よりも学校自体(とくに教職員組織)の真の民主化が期待されなくてはならない。――これが、彼女たちや、彼女たちの先生であるこの学校の教師諸君と話しあってえた結論めいたことの一つであった。 


二 作家と文学教育

 制服を脱いだばかりの十九の娘さんたちに、『女性に関する十二章』を読みましたか、とたずねたら、読むことは読みましたが、という返事。まるで手ごたえがない。十二章ブームも出版界が作りだした流行以上のものではなく、彼女たちの生活に根をおろすところまではいっていないらしい。それでは、現実にどんな作品が彼女たちの成長の糧となったか。
 これは東京山の手にある某私立女子高校の例だが、彼女たちはくちぐちに愛読書のケースとして宮本百合子・山本有三・徳永直・芥川竜之介などの諸作品をかぞえあげた。外国の作品では『光ほのかに』『静かなドン』『ゾーラとシューラ』『ジャン・クリストフ』『外套』『母』などが感動的であった、という。
 「教科書に掲載されていた作品では?」とたずねると、それには直接答えないで「わたしたちの生活や、今の日本の現実に問題を投げかけるようなものが見あたらない」といってソッポをむく。教科書に載せたから色あせたのではなくて、色あせたものしか教科書には載らないのだ、ともいっていた。文部省の検定は通ったが、生徒たちの審査では不合格というところ。
 また、二、三の作家を例外として、現役の作家たちの名があがっていないが、これは「読んでいないのではなくて、印象が薄いからだ」という。末梢神経で書いたような視野の狭い作品か、人肌のぬくもりのない傾向的な作品しかない、というわけだ。
 同様のことは、彼女たちの小学生時代の回想のなかにもある。数多く読んだのは、むしろ日本の童話だが、懐しいのはやはりアンデルセンやグリムだ、という。日本の作家では、宮沢賢治・有島武郎あたりが印象に残るだけだ、というのである。
 彼女たちの指摘は、その一つ一つがこんにちの文学や文学教育の問題点を突いている。何よりも、文化主義(教養趣味)と経験主義(同時に実用主義)とにかたよった教科書編集の態度が批判されているわけだ。さらにまた、現代作家のぬるさと感覚のズレが、そこで批判されているのである。
 教室で小説を扱ったら、ついでに小説の書き方も教えるように、というようなバカげたことの書いてある文部省の学習指導要領は、さすがに教師も相手にしてはいない。が、教科書のほうは生徒が相手だから、まさかネグレクトしてしまうわけにはいかない。ところが、その教科書が先刻指摘されていたとおりの“お稽古ごと”的教養趣味満点の色あせた作品の羅列でしかないのだ。
 そこで、教師も生徒も、文学教材を教科書外の現代作家の作品に求めるのだが、結果は右に見てきたとおりだ。その間隙をねらって、暴力肯定・人権軽視の、また涙とタイハイの通俗読みものが若い心をむしばんでゆくのが一般である。
 この現実にいて、作家はもはやカンだけを頼りに手さぐりの作品を書いてはおれないはずだ。大衆の中へ、そして大衆と共に、である。大衆とは、そして作家にとって、直接的には読者のことではないか。じかに、謙虚に読者の声に耳を傾けると同時に、読者に対しては文学教育者の役割をはたす責務が今の作家にはある。
 日本にはまだ、機構として読者につながるようなしくみが出来上っていない、というようなことは理由にはならない。
 まず、読者と話しあうつもりがあるかないかの問題だ。それはまた、作家がだれのために書くのか、という問題でもある。
 さきごろ来、児童文学者協会が、文学教育研究例会を定時開催して、作家と現場の教師との交流・提携・相互批判に道を開いたことは、そういう点からも注目にあたいしよう。


三 小説のよみ方――高校生のために(1)―― 

1 文学への道
 地球は、南極と北極とを両端とする軸(心棒)を中心に廻転している、と考えることができる。読書の世界の北極・南極は、科学と文学とである。つまり、わたしたちの読書は、科学と文学とを二つの極としておこなわれているわけだ。書物にも、科学書と文学書を両極として、さまざまの科学的な読みものや、文学的なさまざまの書物があるわけだし、また、読書の態度や方法にも文学的と科学的との区別があるわけだ。文学の方面から順に考えていくことにしよう。
 文学作品を読むということは、もともと、作中の人物のなかに自分を(――あるいは自分の分身を)見つけだし、その人物といっしょになって、自分が現にたどってきたコースとはまた別の人生コースを歩いてみる、ということなのだ。描かれた現実はあくまで描かれた現実であって、自分がこれまでに体験し今現に体験しているところの実人生とは別ものである。それは、自分にとって未知の人生でさえもある。それにもかかわらず、この二つの現実(人生)のあいだには、かならずふれあうものがあるのだ。
 もし、ふれあうものがなければ、文学作品を読んで楽しむ、読んで考えるということは、はじめから成りたたない。生活の軸とワクのちがう文学にたいして“翻訳”という手続きが必要になってくる理由も、ここにあるだろう。
 翻訳というのは、たんにことばの壁を取り去るというだけの仕事ではない。ことばの壁を突き破ることで、ちがった生活圏の体験を、わたしたちの生活圏の体験として再生産すること、それが翻訳ということなのである。
 たとえば、おとな相手に書かれた作品を、ことばだけいくらやさしくしてみたって、それは子どもの心情にうったえる作品にはならない。作品の主題を、主題の方向においてとらえ、それを子どものいだいている生活の実感にそくして再生産するのが、翻訳ということなのだ。たんにことばを、ではなくて、ことばの内容――つまり、体験や思想を、わたしたちのことばのなかに再現・再生産するのが、翻訳のしごとなのだ。
 で、いま、『伸子』(宮本百合子)や『放浪記』(林芙美子)などの世界をおもいうかべようと、また、『二十四の瞳』(壷井栄)や『真空地帯』(野間宏)などのあの現実におもいを走らせようと、それは諸君の自由だが、――そこに描かれた人間の生活、人間の体験は、それがたとえ異常なものであろうと、またあまりの特異さ、異常さのゆえに、ことがらそのものとしては部分的一致をしか感じさせないものであるとしても、しかしそれが自分のかつて体験した(あるいは今現に体験している)出来事に通じる何かを含んでいることだけは確かである。そして、この共軛する“何か”が、人間の体験(生活)にとっていちばん大事な部分であることも、いまは明 らかだ。
 その出来事は、読者めいめいの場合としては、あるいは心のどこか片すみでおこなわれている出来事であるのかもしれない。が、ともかく、その出来事にたいして、わたしたちはある判断にしたがって行動し、行動しようとしている。それゆえの今のこの悩みなのだ。
 ところで、作中の人物は、かつてのあの自分の立場にたって、しかもそれとは別の行動を起こそうとしている。
 それは、わたしの選んだ道とはスレスレのものでありながら、しかしけっして一つものではない。そして、それは、あのとき、あそこで、ああしたふうなつまずき方さえしなければ、自分もおそらくその地点をめざして進んだであろう道なのである。それは自分にとっても、また可能であった一つの生き方なのである。
 悩むべきところで悩み、そして踏み切るべきところで踏み切った、作品の主人公は、さて、今ある行動に移ろうとしている。わたしは、彼と連れ立って新しい別の体験を、そこで体験(――準体験)してみることができるのだ。
 体験してみる、とはいっても、それはことばを通路とした体験(――ことばによる行動の代行)であって、体験そのものではない。なまみの体験とは別ものである。一種の体験(――体験の仕方)であるとはいえようが、なまみの現実体験とはやはり違う。体験に準ずる“体験”――“準体験”とでも名づけたらよいであろうか。
 文学を読むというのは、そこで、つまり、準体験することである。だから、作品の主人公と連れ立って歩くということは、その道筋がどんなに困難な、また苦難にみちたそれであろうと、わたしたちは臆病風に誘われずに、そこを歩いてみることができるのだ。現実の人生コースにおける弱者も、準体験の世界ではヒーローになれるのである。
 が、もし、また、自分にはとてもついて行けない、彼といっしょには歩く気がしなくなった、ということであれば、いつ、どこででもこの主人公と別れることができる。読者は、その本をぱたりと伏せることで、この煩わしい友人を遠ざけることができるのである。
 それで、また、思いかえして、やはり行動を共にしたくなったというような場合には、相手はけっして冷めたくない、いついかなる時でもわたしたちを迎えてくれる寛容さをもっている。
 いきさつは人によっていろいろだろうが、ともかく、こうして連れ立って歩いてみた結果は、(それがもし文学作品としてすぐれたものであるならば)現実の人生以上の“生きがいのある人生”を、きっとわたしたちに味わわせてくれるに違いないのだ。
 それで、ただの一度でも人生の生きがいのどういうものであるかを味わい知ったほどの者は、このさむざむとした人生をうつ向き加減に歩くというようなことは、もう出来なくなる。こうして文学の準体験は、読む相手によっては現実の体験以上のものとして体験的なはたらきをし、人びとの生活の実感そのものを鍛えなおし、行動のもとになる人間の思想そのものをはげしく揺さぶるのである。

2 体験と文学
 体験をはなれて文学は成りたたない。文学は、作者と読者との体験のふれあう面において成りたつのである。
 それで、たしか藤森成吉氏であったかと思うが、この作家が若かったじぶん、工場労働者の生活を小説に書こうとして、しかし自分に工場生活の体験がないために途中でペンが進まなくなってしまった、というのである。考えたあげく、けっきょく、自分自身工場労働者になって働くことを決心した。それ以外に道は見つからなかったからだ。つまり、文学の創作にとって必要なのは“体験”である。
 お読みになった方も多いと思うが、伊藤永之介氏の農民小説『鴉』――あの中編の作品を書きあげるのに、伊藤氏は一年もかかったということだ。
 末は賤業婦に転落していく織物小工場の女工さんの生活というものが、あまり暗くて何べんペンを執っても書きおろす気になれなかった、と氏は語っている。
 その暗い、みじめな彼女たちの生活のなかから、ロウソクの火のような、ほの明かりを探しだすことができるようになって、はじめてペンが執れた、ともいっている。
 つまり、解決への手がかりを体験的にとらえることができるぐらいに、体験そのものを深めていくことが作家にとって必要なのである。体験と文学。文学とは、つまりそういうものだ。すくなくとも、そういうものであるべきだ、と思うのである。
 だから、そういう意味では、文学(創作)は作者の体験の表白だといってもいいのである。が藤森氏の場合がそうであったように、作者が自分の狭い体験のワクを越えるところに文学が成りたつ、といったほうが、もっと正確だろう。『鴉』の作者の場合にしても、さいしょ灰いろ一色 に映った現実から“ほの明かり”を見つけだしたということは、やはり“体験の幅をひろげた”“ふかめた”“越えた”ということを意味してはいないだろうか。
 作者が自分の体験したことがらを小説にえがくとしても、作者の体験そのものは、小説(文学)にとって、やはり素材以上の意味を持たぬのではないだろうか。しかも、小説の題材として取り上げられるまえの、素材一般というほどの意味での“素材”である。題材以前の素材。そこから題材として拾われるものもあれば、捨てられてしまうものもある(むしろ、捨てられるもののほうが多い)という意味での素材にすぎないように思われるのだ。
 小説家が目をつけるのは、むしろ、かえって読者(――読者として予想するあいての人びと)の体験のほうだといってもいい。藤森氏のように、労働者の人たちをあいてに労働者の生活を語ろうとするような作家の場合だと、自分のナマ半可な工場生活の体験は、ただたんに、きっすいの労働者の、きっすいの労働者的生活体験に通ずる手がかり以上のものではあり得ないはずである。今までのような自分の生活では、手がかりさえつかめないから工場入りをした、というまでのことなのである。
 そこで、複数の読者の複数の体験とふれあうような、自分自身の体験や体験の仕方、それだけが小説の現実の題材になるのである。つまりは、作者と読者を(――そして読者と読者を)つなぐ、体験の社会的な“つながり”と“結びつき”と“ふれあい”の面に問題をしぼるところに、小説の認識と表現が生まれるのである。
 だから、一つの作品を仕上げることは、その作家にとって、自分の体験のワクを越えたことを意味している。旧い自分をのり越えたことを意味している。
 小説を書くということは、だから、自分のナマの体験を書くということではなくて、じつはかえって、“体験を離れる“”体験のワクを越える”ということなのだ。それは、また、読者の生活(体験)に結びつき、読者である民衆に学び、民衆の心を心とする、というのと一つことになるのである。
 文学者が民衆の魂の技師となるためには、自分がまずすぐれた民衆の一人でなくてはならないし、民衆の魂をもった人にならなくてはならない。すぐれた小説家――文学者は、たえず自分をのりこえている。
 作品をよむ側にとっても、ことがらの根本は同じことだ。民衆に学ぶ(――民衆の生活と魂を 準体験する)ことで作家がたえず成長をとげているように、読者もまた、文学作品を読むことで民衆らしい民衆の生活(――生活の仕方)を準体験するのである。そのことによって、また自分の“人間”をつくり変えていくことができるのだ。そして、自分の周囲に数多くの“友”を発見するようにもなるのである。
 今までは赤の他人でしかなかったはずの、行きずりの路傍の人たちにさえ、深いしたしみを覚えるようになっていく。街角で風船を売っている、あのアルバイト学生も、靴磨きの少年も、行列してバスを待っているサラリー・マンやオフィス・ガールたちも、みんな自分のような生活の苦しみを苦しみとし、同じような悩みを悩み、似かよったことを考えている人たちなのだ。そういうことが、理くつではなく、実感としてこちらの胸にひびいてくるのだ。
 自分はひとりぼっちではなかった。苦しんでいるのは自分だけではない。みんなが苦しんでいる。今はみんなが苦しいのだ。――そういうことを皮膚からじかに感じることができるのだ。
 孤独からの、いや孤独感からの解放である。場合によっては、それは、ウヌボレからの解放〈?〉でもある。周囲はみんなワカラズヤばかりだと思っていた、そのウヌボレの孤独感からの――。
 小説を読むというのは、つまりそういうことなのだ。自分の体験に即してものを考えながら、自分自身の狭い体験のワクからぬけ出る、ということなのである。自分の体験や生活の実感、さらに思想といったものと、作中の人物のそれとを対決させることで、体験の仕方(――思想的なもの、感覚的なもの)を変え、広い世界へぬけ出ていく、ということである。
 その広い世界というのは、民衆の広場、国民の広場である。文学の道は、そういう広場へつながっている。
 
 
四 夏休みと読書――高校生のために(2)――

 この夏休みをどう過ごすか。いくつかの楽しい夏休みのプランが、きっと、いま、あなたの胸をはずませているにちがいない。が、そうしたあなたのプランのなかに、読書の計画が織りこまれているだろうか。
 ――「三年生になったらさいご、受験勉強に追いまくられて、夏休みも何もなくなってしまう。だから、今のうちに好きなことをやっておくんだ」
 そう、それでいい。それでいいんだ、とわたしも思ってみている。
 が、それをあなたが好きだという、その好きなことのなかみ(あるいは方向)がやはり問題なんだと思う。好きだ嫌いだという、ただそのことだけで、夏休みにやろうとすることを狭くかぎってしまうのは、ムチャだという気がする。
 その意味では、好き嫌いできめるよりも、今でなくてはやれないことをやる、ということをメヤスにして、夏休みのプランを考えていただきたい。そういう意味で、読書をかならずプランのなかに織りこんでいただきたいものだと思う。
 本はいつだって読める。なにもこの夏休みじゅうに読まなくたって、というのはまちがっている。
 夏休み四十日間の読書生活のブランクは、あなたを生涯“本の読めない人“”読書の習慣を失った人”“考えるということをしない人”にしてしまうおそれがある。それと反対に、きちんとした計画にしたがって進められていく、この四十日間の読書生活は、きっとあなた自身にゆるぎない人生の方向を発見させることになるだろう。
 高校一、二年のクラスでは、夏休みを境に教室の空気が一変する。休み前とは別人のように成 長した高校生に出会うのは、これは例年のことである。
 こうした変化は、小・中学生の場合にも、また大学生の場合にも見られない。つまり、高校一、二年の時期は精神発達の飛躍的な成長期であるといえる。この時期において自己の精神領域をひろげることのできなかったような人は、ほとんど終生、人間としての成長の手がかりを失ってしまったもひとしい、ということなのだ。
 右のような精神の成長や停滞が、ほとんど例外なく、夏休みをどのように過ごしたか、ということによってきまってくる。つまり、読書をしたかしなかったか、どのような読書生活のなかに身を置いたか、ということによってきまるのだ。
 読書だけが精神の成長や停滞をもたらすというのではないが、読書という条件をぬきにして、自分を成長させていったというような例は、すくなくともわたしの周囲には見あたらない。
 読書の計画は、しかし無理のないスケジュールにしておくことだ。というのは、読書というものは、それが進められ深まるにつれて、かならずといっていいぐらいに、ほかに読まなくてはならぬ本、読みたい本が、次々とそこにつけ加わってくるものだからである。
 そこで、いったい何を読むか。
 興味は感じていながらも、ふだんはまとまった時間をもてないため、手をだせなかったような本、これはぜひ読むことにしよう。いつもは通り一遍のことしか書いていない薄手な参考書をたよりに勉強しているわけだが、ひとつ、この機会に、本格的な教養書や専門書のぺージを繰って みようではないか。
 そして、教科書や参考書に書いてあることが、じつはどういう思考と実証の過程を経てみちびかれた結論であったのかを、自分のこの目で確かめてみようではないか。
 また、ふだんはダイジェストの類で間にあわせていたものも、このさい原作にあたってみるようにしては、と思う。そこには、名作ダイジェストが紹介しているような、たんにだれが何をしたかというようなことでなしに、人間の心の過程がいきいきとえがかれているはずだから。過程をぬきにして語られる結論には生命が欠けている。
 いわゆる参考書やダイジェストが、カサカサにひからびたものに感じられるのは、そこに過程が語られていないからである。
 過程をさぐっていくことで、あなたのものの考え方はとぎすまされたものになり、あなたの感受性はふくらみのあるものになっていく。
 過程を自分のうちに繰り返すことで、その結論、その考えがほんとうに自分自身のものになるのである。と同時に、その考え方なり感じ方なりが身についたものになり、自分の実際の生活のなかに生かされていくようになるのである。
 ゆたかな感受性にささえられた論理的な思考、そして思考力。
 そうした思考力を身につけるためにこそ、読書は必要なのだ。
 乏しい感受性からすぐれた思考力は生まれてこないし、論理的な思考にささえられないゆたかな感受性というようなものも、またありえない。そこに、科学的な読書と文学的な読書とが並行しておこなわれなくてはならない理由がある。
 だから、文科をめざす人も理科をこころざす人も、高校からすぐに職業につく人はなおさらのこと、自分は理科をやるんだから自然科学関係の本だけ読めばいい、というような狭くかたよった読書態度におちこんだら、おしまいだ。
 それは、結論だけを追って過程を無視する、あの誤まった読書態度に通じるものがある。
 この夏休みには幅のある、また深みのある読書を、と望んでやまない。


五 評論をどう読むか――大学生のために――

1 美文に足をすくわれるな
 紅葉の美文を、せせら笑ったりしてはいけない。その美文調の表現に、うっとりと胸ときめかせた束髪の明治の女性群のことをせせら笑ったりしたら、なおさらいけない。
 「熱海の海岸散歩する……」
 いいじゃあないか。もっとも、これは紅葉自身の文章ではないけれど――。
 せせら笑われなくちゃならんのは、じつは、かえって、わたしたちのほうなんだ。現に、きみやわたしは、美文に足をすくわれている。
 違うだろうか。

 ――「坂口や太宰の、藤村・志賀への対決は、いわば正数に負数を対置したようなものだ。たしかに、太宰は志賀の文学の一応の安定と調和にとって、根本的な疑問を投げたものだ。……だが、こういう無頼派の戦いは、結局一種の特攻戦法たるをまぬがれない。……倒れた彼らから、戦闘力を引継ぐものが、旧来の型の私小説作家でもなければ、風俗作家でもありえないことは、いうまでもない。それは、たとえば、志賀直哉に、負数的に自分を対置させるのではなく、正しい意味で、志賀を越える作家だけが可能であろう。」
 どうだ。きみは、存外、こんな文章に唸ったり唸らされたりしてはいないか。サワリだくさんな、こうした美文調の評論の文章に――。
 そして、また存外、評論をよむことで作品をよむことに代用したりしてはいないか。
 ところで、この文章のどこが大向うを唸らせるのかというと、「正数に負数を」といったふうな“気の利いた”言い廻しだ。
 ことばの言い廻しが相手を唸らせているのであって、論理や思考の確かさがこの文章のキメ手になっているわけじゃない。
 発想そのものは、むしろ陳腐で常識的だ。常識的のなんのというより、常識にもたれかかり、常識を利用し、そして適当に常識に媚びている。

2 これが文学の正数か
 藤村や直哉などの“巨大な存在”を正数と断じることは、まことに世間一般の常識にかなっている。
 「生きよ、堕ちよ」とわめきたて、「時代はすこしも変らない。一種のアホらしい感じだ」などと、たえずソッポを向いたものいいしかしない太宰や坂口たちを負数ときめつけるのも、やはり常識にかなっている。
 文学のメイン・ストリートは、正数から正数へ。――これも、まことに健康な常識だ。健康すぎてバカみたいに見えるぐらい健康な常識だ。
 太宰たち無頼派からひきつぐものは、そしてその戦闘力だけ? ……ああ、そうなのか。太宰たちは、戦力なき軍隊の裏返しみたいなものなのか。
 が、志賀や藤村たちとで、いったい、どちらが正数でどちらが負数であるのか?
 外出しなければ、すくなくとも交通事故だけは経験しなくてすむ。無傷ですむ。これがノー・ミステイク、ノー・エラーの志賀文学のありがたい調和の世界だ。
 『灰色の月』が問題作でありえたのは、志賀直哉のサイン入りの作品だからだ。直哉が、あの志賀直哉がともかく一歩下界へ足を踏み入れたという“驚天動地”の現象が『灰色の月』の市場価値を高めたというだけのことだ。
 これが、ところで正数か。文学の正数か。
 処世的なマジメさによって、真実の文学的懊悩、人間的懊悩を文章的に処理しようとした藤村のえげつなさに、坂口安吾は食ってかかったが、藤村のそこに食ってかかった坂口が負数で、藤村や直哉があくまで正数だというのは、いただけない。
 評論の美文に酔い痴れて、常識に足をとられたのでは、おしまいだ。

3 文学に用のない文学青年
 わたしの学生時代、クラスにえらく博識な男がいた。新聞という新聞、雑誌という雑誌の書評を日々・月々、片っぱしから読みまくり、問題書という問題書を買いあさって書架を埋めた。二間つづきの彼の下宿には、古今東西の哲学書・文学書・社会科学の文献がぎっしり積まれてあっ た。ただし、いわゆる“問題の書”だけが――。
 二千冊を越える書物の山のなかに、どっかりアグラをかいて、この“地方豪族の伜”(とわたしたちはそのころ彼のことをそう呼んでいた)は、ドストィエフスキーを語り、キェルケゴールを論じ、時としてはまたマルキシズムに説き及んで、怠け者のわたしをケムに巻いた。が、その談話の内容は、新聞雑誌の書評のそれと寸分ちがわなかったし、彼の豊富な蔵書のエッジは全然切られていなかった。
 これなのだ。つまり、これなんだ。彼は哲学科の学生だったが、哲学をまったく必要としない人物だった。必要としたのは、高踏サロン漫談の話のネタだけだった。
 哲学を必要としない哲学青年や文学に用のない文学青年たちが、今でも目を皿のようにして新聞書評や、雑誌の見開きぺージの評論記事に読み入っている。
 これなんだ。薄手な美文調の評論が跡をたたないわけは――。読者がそこに読みとるのは、批評の方法ではなくて“気の利いた”批評用語であり、批評家のスタイル、いやポーズである。

4 評論家を甘やかすな
 こうして原文・原作は読まずして「ぎりぎりの抵抗を試みた近松」を語り、「泡立つ多喜二の 革命への情熱」に共感する(共感の身ぶりを示す)ということにもなるのだ。それは、じつは、「ぎりぎりの」とか「泡立っ」ということば――修飾語への感動なのだ。読者が原文を読まず、また読んでも自分の目でそれを見ようとしないかぎり、いついつまでも評論家たちは常識のうえにアグラをかき、ことばだけあって内容のカラッポな美文の製造にうき身をやつすことだろう。
 文学を読むのに、ここが感動のしどころ・泣きどころだなんで教えてもらわなくたっていい。感動の仕方や感動の身ぶりまで、なにも他人さまと同じである必要はない。
 学生生活と読書――そのことについて、もうこれ以上くどくいう必要はないだろう。評論家を甘やかすな。いい気な評論家どもにナメられるな。

頁トップへ


第七章 家庭と文学教育


一 農村の主婦に
     ――農村の子どもと読書――

1 読書以前の問題
 子どもがろくろく本を読まない、読んでもくだらない本しか読まない、それもひどく雑な読み方で――という事情は、都会も農村も同じことだ。
 それは、つまり、家庭でも学校でも読書について指導らしい指導がおこなわれていない、ということなのだが、それにはむろんそれ相応の理由があることだろう。
 が、なんといっても、いちばんの大もと――いちばん大きな理由は、親は親で、学校の先生は学校の先生で、生活に労働にくたびれてしまっている、という点に求められるのではあるまいか。
 親の場合について考えてみるのがてっとりばやいと思うが、その日その日のはげしい労働にくたくたになっている親には、子どもの生活のうえを、まともに、ふかく、思ってみてやるだけのゆとりがない。学校の出来がいい、というようなことも親にとってうれしいことには違いないが、そうしたこと以上に、子守りや縄ないの手伝いをモンクをいわずにやる子どもであってほしい、というのが本当のところだろう。
 くりかえしていうが、生活にゆとりがないのだ。今はだれもが疲労しきっている。
 ――子どもは親の私有物ではない。親の都合で、子どもの生活をみだしてはいけない。
 それは、わかっている。重々わかっている。が、生活の実情がそう考えることを許さない。道理にはずれようが何だろうが、わが子が親のいいつけどおりに動く“すなおな子ども”であってくれなくては、くらしが成りたたないのだ。
 それで、“稼ぐ”ことがすべてで、それ以外のいとなみをおこなうことは、子どもの生活においても許されない、ということになりがちである。「百姓にガクモンはいらない」「本なんか読んでいるようでは一人前の百姓にはなれない」という農民のつぶやきを、ただの“観念”の声と考えるのは、だからまちがっている。観念には根がある。そして、それは生活だ。
 こういう傾向は、ところで、どうも農村のほうが強いようだ。この点では、都会の働く人たちの子どもがそうである以上に、農村の子どもたちは不幸だといっていい。
 そっちょくにいって、それは、長いこと虐げられてきた農村の人たちの、第二の天性ともいうべきかたくなさが、必要以上に(?)子どもの生活をみじめなものにしていっている、といわなくてはなるまい。
 が、問題の根本は、やはり、働く人たちの生活にゆとりがなさすぎる、という点にある。自分のそうしたかたくなさに自分で気づくというだけのゆとりを持てないぐらい、ひどく追い込まれた生活のなかに人びとがいる、という点にこそ問題の焦点があるわけだ。
 暗かった過去が今にたたっている。というより、過去が過去になりきっていないという現実、むしろそういう“旧い観念”が意識的に再生産されつつある現実に問題のヤマがあるのだ。

2 幸福をつくりだすために
 おとなの不幸が子どもにシワよせされてよいはずはない。
 が、実情は右に見てきたとおりだ。読書指導どころか、そこでは読書が否定されている。「本を読む暇があるなら縄をなえ――。」
 だから、働きながらまなぶしくみの村の定時制高校には、こんなにもたくさんの生徒がいるとか、公民館での村の若者たちの読書会はこんなふうに活発である、といった、事のうわつらを見て“民主化された農村”を考えるのは早まっている。
 そこに集まる若者たちのひとりひとりが、そういう場所へ出かけて“暇つぶしをやった”ということのために、めいめいがめいめいの家へ帰ってから、どんな思いをしなくてはならないか、という、そこのところを思ってみてほしい。
 でも、この人たちの場合はまだしもいい。ともかくも一人前の“稼ぎ人”なのだから。これがコンマ以下の稼ぎ人にすぎない小・中学生の場合、どういうことになるだろう? 父親の怒声、母親の愚痴まじりのくりごと、皮肉――あとは、どうぞ、あなたの体験で裏うちしていただきたい。
 だから、ほんとうに読書指導どころの話ではないのだ。で、事の実際がそうだとすると、農村全体が、いや日本の社会全体が、もっとゆとりができ、もっとしあわせにならなくては問題はほんとうには解決しない、ということになろう。が、じつをいえば、そういう問題を解決するためにこそ読書――読書指導が必要なのだ。
 そこで、むしろ、こう考えるべき――ベきかどうか実はよくわからないが、こんなふうに考え、そして努力をつづけていく以外に、さしあたって手は見あたらないように思う。それは、自分に何かやれることはないか、とまず考えてみることだ。あの人と話しあってみたらあるいは、というふうな人の顔を思い浮べてみることだ。そして、規模はちいさくとも、やれることをまずやる、やれるところまでやってみる、ということなのだ。めざめた親、めざめた教師が手をにぎりあって、よその親たちにはたらきかけると同時に、よその大勢の子どもたちといっしょに、わが子の指導をすることだ。
 それを逆に、ほかの子どもたちから、わが子をひき離して、自分の子どもだけを高めようとするのは、まちがっている。
 悪い環境からわが子を守ろうとする親心、せめてわが子だけは、と考える親の気持はよくわかるが、生きた実際の生活から切り離して温室に封じ込め、そこで“特殊な”教育をほどこすことは、結果からいうと、子どもを今よりも、もっともっとみじめな生活のなかへ追い込むことになろう。
 子どものしあわせと将来は、むしろ、自分が一人の社会人としてほかの子どもと交わり、揉みつ揉まれつ自分たちの生活を明かるいものにつくりあげていくことのうちに約束される。親のやくめは、むしろそういう意味では、子どもの親切な相談あいてであることだ(子どもにとっていつも相談しよい相手であるというのが、“親らしい”親のありようのように実感するが、どうだろう?)。
 それなのに、わが子をほかの“悪い子”からひき離すことで問題を解決しようとしたり、よその子どもはどうあろうとウチの子どもだけはしあわせに、というのでは、まるでソッポだ。そういう目からは、どの子もどの子も、よその子どもはみんな“悪い子”ばかり、ということになってしまう。
 子どもは子どもなりに、親と同じように社会人だということを知らなくてはならない。子どもの人権・人格を認めるというのは、つまり子どもを社会人として扱うということにほかならない。そして、いま大事なことは、あたりの子どもたちみんなが幸福にならなくては、わが子のしあわせもありえない、という点だ。
 読書も、読書指導も、つまりはそうした幸福をつくりだすためのものだ、ということである。

3 人間をつくり変えるために
 読書指導ということは、都会でも、またわたしの知っているかぎりでは農村でも、子どもの生活の実際に即さない(ということは、けっぎょく、おとなの生活の現実とも矛盾するような)、さっきいったような意味での特殊教育としておこなわれている場合が多いようだ。家庭でもそうだし、学校においても、とかくそうなりがちである。
 だから、長つづきしないし、たとえある程度長つづきしたとしても、そういう読書指導では、ひねこびた日かげの花みたいな、ファイトのない“教養”人種をつくるのがオチだろう。
 本を読む――読書に親しませることを単なる身だしなみのお躾ごとと考えて、子どもをひ弱な日かげの花に仕上げるような行き方を、わたしたちは一般に、文化主義(=教養あそび)と呼ぶことにしているが、こういう文化主義のたてまえからは、子どもに読ませる本のえらびも、読み 方指導も、いきいきとした子どもの生活の実際からはそれた、ひとりよがりなものになるのは当然だ。
 “文学教育”というふうなことをいうと、それが文学少女や文学青年をつくる教育(?)のことをさしていっているみたいな誤解を受けることが今でもある。が、ここでわたしたちが考えあおうとし、また考えあっている、読書指導ないし文学教育は、お上品な趣味を養なうことを目的とする、文化主義のあの情操教育とは別ものだし、別のものでなくてはならない。
 そこで、わたしとしては、子どもを読書にしたしませる、本を読んで話しあうというその部面は、広い生活指導の一環として、形のうえではむしろ、それのごく一小部分としてとりあげられてよいように思う。すくなくとも、子どもたち自身がある程度読書に興味をもつようになるまでは、そういうふうに事を運んだほうがよくはないか、と思うのだ。
 事はそういうふうに運んだらいい、というのは、けれど、たんに指導の技術としてそのほうが効果的だから、というだけではない。むしろ、読書指導の限界についていっているのだ。生活指導のすべてを読書指導によっておこなうことはできない。問題は、子どもたちの生活全体、子どもたちの生き方そのものを高め変えていくことだ。それを読書指導(読書による指導)だけでつくそうと考えるのはバカげているし、また、読書指導そのものを“読書趣味への指導”に横すべりさせるのではナンセンスだ。
 読書指導の効力をあまり大きく見てはいけない、というのは、そういう意味からだ。それと同時に、読書指導の意義を強調したのは、それが人間改造を目的とする、子どもの生活指導全般に対して分けもっている、大きな比重の面からである。

4 組織活動を通じて
 ところで、悩みは、子どもに読ませたいと思うような本があまり出ていない、という点だ。あるいは、これはと思うような本が出まわっていないし、とくに農村では手に入れることがむずかしい、という点についてである。
 逆にいうと、赤本といっていいような、くだらない――くだらないとかつまらないという以上に、子どもをスポイルするような、そらおそろしい本が、行商人や、村祭・縁日の露店商の手から農村の子どもたちにバラ撤かれている。
 それは、たとえば、相手がインディアンなら殺そうとどうしようと構わないという式の、「天に代りて不義をうつ」式の、子どもを人種的偏見と好戦的な感情に追いやるような、とんでもない冒険マンガだ。それは、またたとえば、男が主人で女が家来だった旧憲法時代の生活感覚にもう一度女の子たちをひき戻そうとするような、女性特有(?)の涙の世界をえがいた少女小説である。
 もうけるためならなんでもやる、という、出版商業主義の流しているこうした害毒から子どもを守ることは、農村における読書指導のだいじな部面になってくる。それは、本という文化財そのものがすくないために、いま一つには本を読むということ自体がひどい圧迫を受けているために、農村ではかえって一冊の本がひっぱりだこで廻し読みされ、熟読されているからだ。
 そこで、むしろ、良書・悪書を問わず、悪書であればなおさらのこと、親や教師がいっしょにそれを読んで子どもと話しあってみる、という指導が必要になってくる。その本にしめされている思考の道筋が、どこのところでどんなゆがみを見せているかを、子どもといっしょになって考えあってみることだと思う。
 農村で育ったわたしのある友人が、いつか次のような感想をもらしていたことがある。
  ――「ぼくの近眼は立川文庫のタマモノでしてね。父や兄たちが、あんなものを読んではいけないというものだから、薄暗い納戸みたいなところへ隠れて読んだ。そのせいなのですよ。目を悪くしても、なおかつ後悔しないぐらい猿飛佐助は面白かった。あんな面白いものをどうして読んでいけないのか、と思ったですよ。読んじゃいけないというわけをハッキリさせないで、ただいけない、いけないというのは、それこそ本当にいけないですよ。」(拙編著『十代の読書』)
 わたしも、やはり、この友人の考えるように、それをいけないことだと思う。そこで、やはり、いっしょに読んで話しあうことである。本を読みあうたびごとに根気よく話し合いをつづけ、またそういう話し合いの過程をとおして、まともな本への興味と、本のまともな読み方を身につけさせるということなんだ、と思う。
 そこで必要になってくるのは図書施設だ。ごく一通りの本だけでもそなえつけないことには指導の仕様もないわけだ。が、それを村の“有力者”の大口寄附に仰いで、というようなヤリクチで設備することだけはやめたほうがいい。理由はいわなくとも、おわかりだろうと思う。
 また、村のだれかれから寄附金を集めて、というのも、じつはあまり感心しない。それは税金の二重取りみたいなものだ。わたしたちは、この程度の金額――子どもの教育に最低ぎりぎりに必要な程度の金額は税金として、もうとうに納めているはずなのだから。
 農村の文化機関はなんといっても学校であり公民館である。そこを中心として活動するPTAや婦人会・青年会などの組織が、その推進力である。だから、そういう機関や組織を内容の伴なったものにしていくことが、まず先決だろう。そういう組織(=組織活動)を通じて、おいおいに親たちの頭を切り替えていくと同時に、子どもたちに対する読書指導を徹底させていくという方式がそこに考えられるのである。
 そうした読書指導が文学教育にささえられねばならぬ、という点については、けれどここでは繰り返さない。


二 子どもに何を
    ――母親へのよびかけ――


1 文化主義をこえて
 ――子どもの文化をよりよいものに!
 むろん、賛成だ。が、そのよりよい文化というのが抵抗力のゼロな、ファイトに欠けた、ひ弱な上品さといった文化主義的なものだとしたら問題だ。
 ――現実のみにくい面は、子どもにはなるべく知らせないようにしよう。
 それは、わかる。よくわかる。が、その臭い物にはフタというのが、多くの場合、明かるくいきいきとした現実面にもフタをして見せまいとするような結果を生んでいる。つまりは、善悪両様の現実から子どもを隔離してしまうのだ。そのあげく、飼い犬や飼い猫はかわいがるが、人間を愛することは知らない“ひとでなし”に子どもを仕立てるのが、じつはこの文化主義なのだ。
 身近かにこんな例がある。こんど国会へ持ちだされた教育破壊の法案に反対して、わたしの住んでいる地域からも小・中学校の先生が、都教組による反対デモに参加した。すると、目にカド立ててわめき立てたPTAのマダム連がある。
 「先生がデモをやるなんて非教育的だ」
 「先生に休まれては、子どもの学力が低下する」
 学校の先生のデモが子どもたちに悪影響を与え、たった一日の二学級合併授業で子どもの学力が低下する?……
 ところで、そういうことをいっていたのは、一様にくらしむきのゆたかな“文化家庭”の“奥さま”たちだった。“乱暴”で“下品”な“貧乏人の子”たちからわが子を隔離して、家庭教師をつけ、またヴァイオリンだピアノだとお稽古ごとに子どもを通わせている、というふうな家庭の主婦たちである。
 「学校の先生がデモをやるなんて非教育的だ」――文化主義が(文化主義者がといったっていい)こんにちの世の中で現実にはたしている役割といったら、これだ。
 教育を、文化を、それを守るどころか破壊に一役買って出ているのが、この文化主義である。すくなくとも、結果はそうなっている。
 そこで、例の通俗読みものの子どもの世界からの一掃ということなのだが、それが文化主義的な室咲きの花(超俗的な温室文化)を文化のスタンダードとした児童読みものの“通俗性”というふうなことだと問題がある。いったい何が文化的で、何が通俗的であるのか?
 通俗的と文化的と――いまさらという気もするが、もう一度そこのところへ戻って考えてみる必要がありそうだ。

2 筋道のとおった力強い読みものを
 「“赤い鳥”が長いことかかってきずいた子どもの文化を、今の通俗児童雑誌や通俗読みものは、ひと思いに土足で踏みにじってしまった」という意味のことを評論家U氏が某週刊誌に書いていたそうだ。
 例によって『赤い鳥』ふうの文化主義・童心主義が児童文化の範型であるようないい方になっている点に問題は残るが、しかしそれだから『赤い鳥』にかえれとはU氏も語ってはいなかったようだ。結論は、むしろ、『赤い鳥』をこえること、「泥くさくともいい、筋道のまちがっていない力強い読みものが今の子どもたちには望ましい」というふうなことであったらしい。筋道のまちがっていない力強い読みものを――ほんとうに、そうだと思う。通俗的かどうかということは“筋道”がとおっているかどうかの問題である。筋道をとおすためには“力強さ”が 必要であるし、また筋道のとおったものは、おのずから力強さを伴なっている。
 さらにいうと、こんにちのこの情況のなかで“筋道をとおす”ためには、泥まみれになることがむしろ必要だし、泥にまみれる(ときとして泥くさくもなる)のが当然だろう。“泥くさくとも”ではなくて、“泥にまみれる”ことが必要なのだ。
 “泥くさい”ということと“通俗的”ということとは、まったく別のことがらだ。泥くさく通俗に迎合したものもあれば、泥まみれになって通俗に反逆しているものもある。そして、スマートな通俗さ(=文化主義)というのが、いちばんいやらしい通俗ぶりである。(このスマートさが、じつは本当の意味での泥くささなのだが――。)
 泥くさくたっていいではないか。わたしの居住地から、こんど都教組のデモ行進に参加したPTAの母親たちというのは、大部分この“泥くさい”人たちだった。けれど、これらの母親たちのいうこと、やったことは、スマートさを誇る文化主義者(例の“文化家庭”のマダムたち)より、ずっとずっと筋道がとおっていた。それはまた、十分教育的で文化的だった、とわたしは見ている。
 「勝子ちゃん。あんたの組の受持の先生はね、あんたたちのためを思ってデモに行くんだよ。だから、お母さんも、お隣りのおばさんたちといっしょに行ってくるからね。」

3 隠された毒針
 いわゆる俗悪な読みものの、いったいどこが子どもたちに受けているのかというと、けっしてその“通俗性”でなんかないらしい。すくなくとも最初のうちは、である。
 受けるのは、むしろ、その泥まみれな力強さだ。
 だから、子どもたちがよろこんで飛びつくその面は、じつはその通俗読みものの有害な面ではない。それは、釣り針につけられたエサみたいなものだ。エサのミミズが魚にとって有害でないように(――むしろ栄養物でさえあるように)、それは無害以上のものだ。
 いけないのは、隠された毒針なのである。人権無視の思想や卑屈な奴れい根性等々の毒素・麻薬を注入する“針”のあることだ。
 文化主義の受けがわるいのは、エサがまずいうえに、いつも同じエサだからである。おまけになかみはお手あげの敗北主義ときている。いきのいい子ども、健全な子どもだったら相手にしないはずだ。子どもは逃避をこのまない。
 お上品にかまえた文化主義の作品に子どもが飛びつかない(――という以上に、それを逃げ廻る)というのは、だからけっして子どものセンスがズレているせいではない。ズレているのは作品のほうなのだ。作品の文学感覚そのものがズレているのである。あんなものを読ませていると親のねらいとは反対に、子どもは文学のわからぬ人間になってしまう。それが文学のコットウ品にすぎないからだ。
 子どもにコットウいじりをさせるのは早すぎる。子どもに何をの“何”は、だからそこのところをつかんだうえで、の“何”でなくては、と思うのだ。


三 PTA活動と文学教育

1 コミュニケーションの問題
 家族関係の折り合いがわるいのは、家族相互のコミュニケーション(伝達)がうまくいっていないせいだ、という意見がある。PTAのオリエンテーションがつかないのも、また教師と生徒とのあいだがしっくりいかないのも、一切合財このコミュニケーションの問題だというのである。
 コミュニケーションさえうまくいけば……そこで、すぐれたコミュニケーションのための話しことばの教育の徹底、というふうなこともいわれているわけだが、これでは話がアべコべだ。
 コミュニケーションがおこなわれないから、ではなくて、相互の関係がオリエンテーションのつかない状態にあるから、コミュニケーションが不十分にしかおこなわれないのである。また、自由な話し合い、自由な意見の交換の場をつくれないような現状だからこそ、話しことばの教育も不徹底なものに終っているのだ。世間一般に話しことばの成長が見られない、というのも、理由はまったく同じところにある。
 けれど、そんなふうにいってしまったのでは、話はおしまいじゃないか、というかもしれない。が、やはり、このことだけはハッキリさせておいたほうがいい。というのは、それがコミュニケーションがどうというようなことで型のつく、底の浅い問題ではないことを確認しておく必要があるからだ。
 そのことを十分ハッキリさせたうえで、コミュニケーションそのものの調節・徹底による問題の打開ということを、わたしもまた考えるのである。壁を突き破る一つの手段――いくつかの手段と並行しておこなう手段の一つとしてである。
 ヨコにタテに自由な話し合いがおこなわれ、お互の意思が疏通するようになれば、いま平然とおこなわれているような、ある種の矛盾が半減することだけは確かである。たとえば、校舎増築やプール建設の基金集めの“PTA活動”といったものがなくなることだけは見えている。また、そういうPTAの寄附金をやりきれないものに思いながら、一方では、教育予算のワクを締めることに躍起になっているような政党に票を投ずる、というふうな矛盾だけはなくなるのではないか、と思う。
 つまり、コミュニケーションがそこまで徹底すればよいのである。というより、石に噛りついても、そこまでいかなくてはならないのである。そうでないと、PTAはいつまでも税金の二重どりみたいな寄附金集めだか寄附金捻出に、頭を痛めなくてはならないからである。
 そこで、めいめいの家庭が、めいめいに、そういう話し合いの場をつくる努力をしなくてはならない。親は、息子や娘たちの発言にもっと耳をかすようにならなくてはいけないし、若者たちは若者たちで、親に対してヘンにあきらめてしまわないことである。
 とはいっても、現実の問題としていまそのことを、直接、個々の家庭に向けて期待するわけにはいかない。この期待を実現させるためには、なかだちがいる。そのなかだちとして考えられるのがPTAの組織(=組織活動)である。PTAが寄附金づくりの学校後援会的な性格をぬけだし、PTAほんらいの教育活動を開始するようになるときは、同時に家庭と家庭、学校と家庭、父母と教師、親と子、教師と生徒等々の人間関係相互のなかに、真の自由への見とおしが用意されるときであるように思われるのだ。

2 すぐれた話し合いの場をつくりだすために
 そこで、まず、PTAそのものをすぐれた話し合いの場にしていかなくてはならない。現実の集会においてはむろんのことだけれど、たとえば、とくに、PTA新聞の編集などにおいては、“会員相互の話し合いの場をつくる”という積極的な目的意識が必要とされるのである。

 A 街頭で署名運動をやってますね。あれは別として、戸別訪問で署名をとりにくるのは困ってしまう。趣旨がのみこめないんで、署名していいんだか悪いんだが……そんなことも話しあえたら本当にいい。
 B 原水爆禁止の署名なら誰でもすぐだけれど、内容のつかみにくいものですと…… 
 A 学校の先生方のお持ちになる“署名”なんかでも、わからないのがある。子どもの教育に関係があるから、とおっしゃるけれど、直接に影響があるわけではなくて間接にでしょう?……
 C いや、直接子どもの毎日の生活にひびくんですよ。それで先生方も一生けんめいになっていらっしゃるわけなんじゃないかな。
 A でしたら、何か問題がある時には、前もって先生方も父母もいっしょになって話し合わないといけませんね。
 D そういうことを含めて、会員みんなの話し合いの場にPTA紙をしていくことなんだと思うわ。
 E 話し合う機会をPTA紙がつくる。また話し合った結果をPTA紙に書く……
 AF そうね。ホントにそうね。

 これは、わたしの居住地で発行されている中学校PTA紙からの引用だが、つまり「話し合う機会をPTA紙がつくる。また話し合った結果をPTA紙に書く」ということなのだと思う。
 さらに、話し合ったこと、書いたことのなかみを確かめる意味で“読む”ことがそこにつけ加わったら、と思う。そしてまた、自分の読みとったその内容を確かめるためにも、話し合ってみる、書いてみる、ということなのである。が、こうしたことは、じつは、どこのPTAでもおこなわれていることに違いない。たとえば、右の新聞をだしているPTAでは、年間約一万円の予算で、教養書や文学書の回覧・輪読をやっている。同じ本を二十冊ぐらい買い込んで、会員に流すのである。
 また、そこの学校の生徒会から出ている図書ニュースには、毎号きまって、良書の紹介やら自分たちの少年期の読書回想などを、親たちが替り合って書いてもいる。ただ、それがまだ十分組織的におこなわれるところまでいってはいないが、しかしこうした努力の積み重ねが、ものをいうときがくることは疑いのないところである。
 また、これも東京都内の某中学校の例だが、母親と子どもが同じ文学作品をいっしょに読みあって、学校の先生の指導のもとで合評会をやっている、というようなところもある。もっとも、ことの起こりは、学校の読書クラブで子どもたちが読んでいる小説が赤いんじゃないか、というわけで、母親たちがクラブ担当の先生のところへ捻じ込んだのがキッカケだったという。今では赤よばわりした自分たちが恥ずかしい、というところまで母親たちも成長してきているということだが、「その処理には長い努力と忍耐を要した」と当事者の先生は語っている(講座日本語・第 七巻・一五四ぺージ以下参照)。
 右の例にそくしていえば、ワカラズヤの親たちの存在は学校文学教育にとって邪魔者でしかない。が、そこを避けたところでおこなわれる文学教育は、文化主義の裏返しにすぎない。もっとも、それは文学教育以前の問題ではある。けれど、そうした“文学教育以前”の問題こそが、じつは文学教育自身の問題なのではあるまいか。文学教育は、けっして、自足的・自己目的々なものではないのである。
 文学教育は、こうしてPTA活動のなかヘ持ち込まれなくてはならない。成人教育活動としてのPTA活動のなかヘ、である。また、校外生活指導の部面ヘ、である。それのささえとして、また、それを推し進めるちからとしてである。そこに、すぐれたコミュニケーションの場をつくりだすためにも、である。
 文学教育――それが文学書をよみ創作(創作指導)をおこなうことを、かならずしも意味して、いないことは、すでにくりかえし語ってきたとおりである。

頁トップへ


小学校から大学教養課程まで 文学教材五〇〇選

 日本文学の骨ぐみになっているような作品は何と何か、また何と何をよめば世界文学のあらましのところがつかめるか、というような観点から、このリストはつくられていない。そうではなくて、どういう時期にどんな作品にしたしむことが、日本の子どもや若者たちの“自然な発達”をささえるのに役だつことになるのか、という実践的な視点からの、これは作品の選びなのである。
 が、文学的読書のプログラムはこんなふうに、といってみても、すでに中学生となり高校生になっている現実の生徒たちのことを思ってみた場合、一律に一定の規格をおしつけることは、ほとんどナンセンスに近い。めいめいの“過去”が、めいめいに別の内容のものだからである。したがって、めいめいの”現在”が、それぞれに異なった内容のものであるからだ。
 そこで、このリストでは、小学上級あるいは中一〜中二、中三〜高一のいずれかの時期において、めいめいの失われた過去をめいめいにとりもどすことのできるような作品の選定・配列・組みあわせを、そこにおこなってみたつもりである。つまり、そこにただ“望ましい”“あるべ き”文学学習の読書コースを空想するのではなくて、そのそれぞれの時点において過去の空白を埋め、現在のゆがみを正す、という指導が実現できるように、と考えたのである。
 が、なおかつ現場それぞれの特殊な条件に応じた指導者の創意工夫に期待しなくては、このリストがしめすプログラムも、しょせん一片のぺーパー・プランに終るほかないだろう。ここにしめすプログラムそのものが、やはり、特定の現場の特定の条件に応じて進められてきているプログラムにすぎないのだから。もっとも、それは、いくつかの地域のいくつかの現場の実践(あるいは実験)を通してみてのプログラムの提示ではある。そこにある程度の普遍化がおこなわれていることは、いわれていい。が、また、しかし、それ以上のものではないのである。
 あえていえば、このリストの強味は、それが架空のプランによるものではなくて、現実の実践例・実験例をふまえての教材の提示であるという点に求められようか。が、この強味が同時に弱味になっているという点については、右に見てきたとおりである。

(作品リスト省略)

頁トップへ


あ と が き

 現場の活動の実際にそくして、文学教育のどういうものであり、またどういうものでなければならないか、ということを、この本は分析し体系づけようとする。いいかえれば、日本のこの悪現実のなかで、どうしたら子どもや若者たちの“自然な発達”をつくりだすことができるか、そのことを文学教育活動の面から考えてみようというのである。
 そうした企てが、しかしここではきわめて不十分にしか成果をあげえなかったように思う。もっといきいきとしたものを考えていたはずであるのに、結果は、かなり抽象的な叙述に終っている。読みかえしてみて、自分でも気になるような点がすくなくない。が、もし、しいてこの本に特色らしいものを求めるとしたら、それは一貫して問題を側面分析的に追求し処理しようと試みた点でもあろうか。そのことで、従来、統一的な理解を欠いていたような問題に、多少とも新しい見とおしを与えることができたかと思われる点も一つ二つないわけではない。
 そこで、このことをさえ含んでいただければ、それをどこから読みはじめてもよい、ということになるのである。現場の教育活動がそこで足ぶみ状態におちいり、そこで現在の文学教育論議がゆきづまりを経験している、その問題の時点において過去がさぐられ、現在がもう一度新しい目で見なおされる、──これが、さいしょの『問題史的展望』の一章である。第二章では、そうした展望をいわばバック・グラウンドとして、歴史と時評の縫合点において課題と方法、その原理と技術が追求される。
 さらに、その基礎科学である文芸学の視点から、文学(その認識・表現・享受)、文学史、文学時評、古典および近代作品の文学学習等々の諸側面にわたる、そのそれぞれの相互規定の関係を分析しようとする。これが第三章である。第四章以下の四つの章では、現場それぞれの特殊性にそくして問題のありかがさぐられる。以上がこの本のしくみである(巻末の『文学教材五〇〇選』は、この本の叙述に欠けているものを多少ともおぎなう役めをはたしているようにも思うが、これは大方の批判にまつほかはない)。
 まえに新聞や雑誌・講座などに書いたものも、部分的にいくつかこの本に収められている。が、それもここでのテーマにしたがって全面的に改定をほどこした。必要上、もとのかたちをかなりに生かしたのは次の章である。
  第二章 二・三・四の各一部(国土社『教育』── 一九五四・一二、同一九五五・二)
  第三章 二の一部(岩波書店『文学』── 一九五一・四)
  第四章 四・五(日本子どもを守る会『光を求めて』── 一九五四・一二)
  第五章 五(東京目黒四中『図書ニュース』── 一九五六・七)
  第六章 二(『朝日新聞』学芸欄── 一九五五・四)
      四(『高校コース』── 一九五六・八)
      五(『法政大学新聞』── 一九五六・三)
 ともかくも、これは四、五年このかたの文学教育関係の自分のしごとに一つのまとめを与え、一つの区切りをつけようとして書かれたものである。ここに示した問題の原則的な処理をさらに深め、同時にそれを具体化していくのが、これからのわたしのしごとである。
 おわりに──資料の蒐集・整理に積極的な協力をしてくださった荒川有史・南保文郎その他の諸君、この本の出版についてたえず好意ある支援をしてくださった、国土社編集部の中山信郎氏に深い感謝をささげる。

    一九五六年九月二日
                                    熊 谷 孝
 (文中、今日の人権感覚に照らして適切でない表現があるが、文章の歴史性を考慮し、そのままとした。)
頁トップへ

熊谷孝 人と学問熊谷孝著作デジタルテキスト館