熊谷 孝著作デジタルテキスト館  (デジタルテキスト化:山口章浩氏)
  熊谷  孝 著 
文学序章
(「智恵の実教室 3」)

磯部書房 1951年5月10日発行

  
      
文学序章
   ※原本は、縦書き、1ページ15行、1行41文字。全185ページ。
   ※漢字の旧字体は、大部分、新字体になおした。
   ※くりかえしの記号(「ゝ」や「ゞ」)は対応する仮名になおした。
   ※ふりがなは省略した。
   ※漢数字の「十」に相当する「一」は「十」になおした。例:一七世紀→十七世紀
   ※あきらかにまちがいだと判断できるカッコやカギカッコはけずった。


目  次

はしがき ………………………………………………………………………………
序 章 文学を制約するもの ……………………………………………………… 1
 一 政治と文学 …………………………………………………………………… 1
 二 商品としての文学 …………………………………………………………… 6
第二章 文学は、どういうものでなければならないか ………………………… 10
 一 モデルの提示 ………………………………………………………………… 10
 二 主題の追求 …………………………………………………………………… 15
第三章 作家と享受者 ……………………………………………………………… 26
 一 読者の位置 …………………………………………………………………… 26
 二 作家の主体 …………………………………………………………………… 29
 三 作品享受の実際 ……………………………………………………………… 34
第四章 表現と理解 ………………………………………………………………… 44
 一 表現について ………………………………………………………………… 44
 二 享受について――子供のための文学と、おとなの文学―― …………… 53
 三 体験と準体験 ………………………………………………………………… 60
 四 翻訳について ………………………………………………………………… 63
第五章 認識としての文学 ………………………………………………………… 68
 一 文学の方法――現象の典型化―― ………………………………………… 68
 二 抽象的と具体的と――文学の認識(表現)手段―― …………………… 76
 三 「実感」の分析――いわゆる「主体性」論にふれて―― ……………… 84
第六章 思想と文学 ………………………………………………………………… 91
 一 実感と思想と言葉と ………………………………………………………… 91
 二 現実の反映 …………………………………………………………………… 96
 三 「自由」について …………………………………………………………… 102
 四 肉体と精神 …………………………………………………………………… 106
第七章 文学と映画 ………………………………………………………………… 120
 一 大衆的と通俗的と …………………………………………………………… 120
 二 映画の文法――文学的表現の限界―― …………………………………… 128
第八章 リアリズムの系譜 ………………………………………………………… 135
 一 ヒューマニズムとリアリズム ……………………………………………… 135
 二 近代以前――西鶴・近松・その他―― …………………………………… 139
 三 「浮雲」から「破戒」へ …………………………………………………… 152
 四 「家」「土」そして私小説 ………………………………………………… 171



  はしがき

 文学のはたらきを、文学のあらわれの面に即して扱ったような入門書はかず見受けるが、それを文学のしくみのなかに分析したようなものは、今のところ余り見掛けない。文学現象の実際を追い求めることで、言わず語らず(?)文学のはたらきやしくみを明らかにする、というのが一般のようである。が、それはそれでよいのであって、確かにそういう文学へのはいり方もあり得るわけである。というよりは、むしろ、事の実際からいって、(読書の量や質は別として)すでになんらかの程度において文学作品を読み、それにしたしんでいるからこそ、「文学とは?」というようなことも意識にのぼって来るのである。
 この本にしてもそのとおりなので、生きた実例に即して課題をさぐり求めていこうとするのである。だが、この本の課題そのものは、あくまで、文学のはたらきを文学のしくみそのもののなかに探るということである。
 どういうしくみにおいて、文学は現実を認識し表現しようとするのか、また、げんに、どんなふうな仕方で問題を認識し表現しているのか、というような点について、この本は考えてみようとするのである。いいかえれば、それの「しくみ」と「はたらき」を十分に活かした現実認識と問題表現とがおこなわれるためには、文学はどういうものにならなくてはならないか、という点への追究である。いきおい、言葉によるもう一つの現実認識(世界認識)の手段である科学とのちがいや、芸術の他の一つの極である映画との、しくみやはたらきのうえの違い、というようなことも探られなくてはならない。
 これが、つまり、この本の課題である。
 それで、この本では、まずさいしょに、「しくみ」のごく単純化されているような作品を選んで、それについて認識・表現・理解(享受と翻訳)の三つの軸から吟味を加えることにした。ひごろ、複雑な実人生を複雑な仕方で生き、そして「複雑な」しくみの作品にしたしんでいるような人にとっては、こうした作品をモデルにしたほうが、一種の距離感が伴うだけに、かえって整理がつきやすいのではないかと考えたからである。で、いちおうそういう「しくみ」の作品について基本的なことを考えてみたうえで、文学の問題が今どういうところにあるかを、さらに、事のあらわれについて探ろうとしたのである。
 これは、ところで、学界や文壇に向って問題を提起しようとして書かれたものではないし、また、文壇の楽屋ばなしを事としているような文学青年諸君のサロン談話に話題を提供しようとして書かれたものではない。ぼくが文学についていろいろの問題をいっしょに語り合っていこうとしている相手は、その辺にいるごく普通の文学の読者である。詩や小説以外のものには目をとめないというような読者ではなくて、多くの読書プランのなかに文学もはいっているというふうな読書人である。だから、新制の高等学校・大学に学んでおられるような若い人たちのことや、工場や農村で働いておられる同じ年ごろの人たちのことなどが、この本を書いている時のぼくの胸にはあったし、また、こういう問題の多い時期に、生徒の身になって生徒のことをふかく考え、思い悩んでおられるような若い先生たちの姿も、たえず頭のなかを往き来していた。この本がそういう人々によって読まれ、そういう人々によってきびしく批判されることで、文学が正しく受け入れられ、実生活のうえに正しく生かされるようになったら、といまのぼくは考えてみているのである。
  一九五〇・十二・十八
くまがい・たかし
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  序章 文学を制約するもの

    一 政治と文学

 誰でも知っているような例を取り上げることにしよう。
 『ヴェニスの商人』のシャイロックは、例の人肉裁判のシーンで、貴族の奴隷所有にたいして、次のようなするどい批判をこころみている。
 ――「どんな御裁判をだって怖れるはずがありましょうかい、曲がったことをしていないてまえが。もし、お邸にゃ買収なすったおおぜいの奴隷がおりましょう。それをあなたがたは、ろばやいぬのようにこっぴどくお使いなさる。そのはずです、買い取っておしまいなすったやつらだからだ。もし、てまえが、あなたに、あいつらを自由にしておやんなさい、姫さんがたのお婿さんになさい、なぜあんなひどい仕事をおさせなさる、あいつらの寝床もあなたがたのと同じ柔らかなのにして、なぜ同じようにうまい物をお食わせなさらんと申したなら、あなたは、『あいつらはおれの所有物だ。』とおっしゃるでございましょう。てまえもそうお答えします。てまえが要求する肉一ポンドは高い価で買い取りましたもので、てまえの所有物でございますから、いただきたいと申すのです。それを『ならん。』とおっしゃりゃ、お国の法律はほごも同然です。ヴェニスの政令はまるっきり無効だ。ぜひとも御裁判を願います。いかがで。願えましょうかね。」(坪内逍遥訳による)
 シャイロックの口をかりての、この抗議は、同時にルネサンス当時におけるイギリス民衆の立場からの批判と抗議を代って述べたものだ。身分のきずなによって民衆をしばりつけ、民衆の人間性をないがしろにする、貴族の封建的支配。封建貴族のそうした圧制的な民衆支配に対する、それは、民衆の代弁者シェイクスピアのきびしく手ひどい批判であった。
 ところで、この裁判が、けっきょく、貿易商人アントニオに有利に展開し、高利貸シャイロックの敗北におわるということは、諸君の知っているとおりだが、それもやはり、封建的なものに対する、民衆ののろいと、そうした市民大衆の敵を相手にたたかう「われらの代表」におくる声援と拍手をあらわしたものであったと考えられる。つまり、貿易業者は、ルネサンスの市民大衆の先頭に立つ、かれらの利益の代表者だ。市民たちは、貿易によって海外のすばらしく大きな富を自分たちの手におさめ、また、貿易によって工業をマニュファクチュアと呼ばれる、協業による工場制手工業のかたちにまで発達させ、そしてそのことによって、かれらのあとつぎが近代的な産業資本家になれるだけの下地をつくったのだ。一方、高利貸資本家というのは、貿易業者のような商業資本家とちがって、けっきょくは封建制度の支持者である。時とともに暮らしにヒビの入ってきた貴族たち。屋台骨がゆるんできたために、いっそう収奪のはげしくなってきた、封建貴族のむごくきびしい年貢の取り立て。それでもう借金でもする以外には生きていく手だてを見いだせなくなった、どん底生活の農民たち。おもにそういう貴族や農民あいての、吸血鬼のようなあくどい高利貸稼業が、かれらの生活のすべてなのだ。
 だから、貴族や農民たちの側からいうと、アクマのような存在だが、立場をかえて高利貸のほうからいうと、貴族も農民もだいじなおとくいさまである。客がなくては商売は成り立たない。そういういいお客があるというのも、世の中が前近代の封建制度の世の中であってくれればの話である。だから、かれらは、封建制度を食い物にした、封建制度の支持者であったわけなのだ。
 つまり、シェイクスピアが問題にしたのは、この点なのだ。だから、ヴィトフォーゲルが、アントニオとシャイロックのふたりは、商業資本と高利貸資本との「二つの経済的な原則を代表したものだ」といっているのは(『市民社会史』)もっともだ。むろん、十六世紀の作家であるかれが、そうした経済関係、社会関係をこんにちの社会科学的な認識水準に置いて捉えることが出来ようはずはない。そういう社会関係を、理論としてではなく、いわば生活の実感として感じていたというのが、掛け値のない本当のところだろう。
 だが、だいじなことは、かれが民衆のこころをこころとすることによって、進歩の立場に立つことができたという点だ。そこで、諸君に考えてもらいたいのは、シェイクスピアがどうして進歩的な市民の立場に立つことができたのかという点についてである。それは、つまりかれ自身が市民のひとりであり、また、市民らしい市民の生活をいとなんだ人だということに関係している。ロンドンの北にある小都会ストラッドフォード・オン・エイヴォンのゆたかな市民の家に生まれたかれ。父親が事業に失敗したことがもとで、学業を中途であきらめなければならなかった十三才のかれ。ロンドンの芝居小屋の近くに小さな店を開いて、見物人の乗り物を預る、しがない商売にその日暮らしを続けていた、その青年時代、等々、かれの生活の跡を辿ってみるとき、高利貸にたいするかれの憎しみも、なにもかも、おのずと肯けるものがあるだろう。市民のしあわせを阻むものがなんであるのか、いっぱんの市民がいまどんな生活のなかに置かれているのか、だからまた、どうすれば市民の本当のしあわせが生まれて来るのか――そうしたことが、体験がもたらす生活の実感として、かれの胸にふかくふかく刻み込まれて行ったはずである。実際にどういう生活をしているかということが、その作家の作品を芸術の香り高いものにもし、また、みすぼらしいものにもするのだ。
 ところで、いま、問題は、そういう民衆の抗議が、悪玉シャイロックの口を借りてなされなければならなかった、という点だ。観客から見れば、憎い悪役のシャイロックなのだ。かれは憎むべきユダヤ教徒であり、ダニのような高利貸なのだ。そういうシャイロックのことばは、臭いもの身知らずの単なる憎まれ口として聞き流されてしまうだろう。これが、アントニオなりポーシャなりの口をかりての言葉であったなら、と考えてみれば、シャイロックにこのセリフをいわせていることは、効果を半減しているどころか、相手によってはマイナスにさえなりかねないのだ。そういうことは承知のうえで、あえてこうした表現をとらねばならなかったところに、「政治」に舌を縛られたシェイクスピアの悲しみがある。よほど目の肥えた読者なり観客でなければ、それのほんとうのところは理解できそうにもない、奥歯に物の挟ったような、こうした表現――それが、しかし、ルネサンス以後の文学のつねなのである。
 言葉のあやに生きる文学の表現というものは、常識のしょぼしょぼまなこではむろんのこと、たんに社会のしくみをそれとして一般的に理解しているというだけでは理解されようはずもない、ニュアンスを持っている。一般的知識は、知性の実感にまで内に深められ、血のかよった思想とならなければ、それは文学の認識を内容づけ、それの表現を理解する感受性とはなり得ぬのだ。むずかしいのは、この点である。
 文学は、このようにして、外側からの政治の制約を文学の内部において受け止めながら、また文学内面の要求(これも、右に見てきたように政治である)を縺れた舌で「ことば」に結晶させようとつとめるのである。(文学と政治の問題については、なお第六章、四「肉体と精神」の項参照。)


    二 商品としての文学

 そのようにして、文学は、つねに政治に舌を縛られていると同時に、また、出版ジャーナリズムによって舌を縛られている。(シェイクスピアの場合についていえば、それは興行資本による制約が圧力になっているというふうに言い換えられなくてはなるまいが、基本は同じことだ。)で、これはむしろ当り前すぎて忘れられがちのことなのだが、文学がこんにちでは「商品」であるという現実を見落としてはいけない。文学が商品であるという、この非文学的な現実が、じつは文学の現実そのものをスミからスミまで支配してしまっているのである。政治が舌を縛るというのも、それを事の実際からいえば、企業が作家の舌を縛っているということなのである。資本の制約とジャーナリズムによる制約(そして、これは一つものの裏おもてである)が、文学を芸術の香り高いものにもし、また、まがい物にもして来ているのである。
 それを日本の場合についていうと、十七世紀以後の文学作品は、ほとんど全部が全部、商品として生産されたものばかりだ、ということである。十六世紀の末に朝鮮から輸入された印刷技術は、やがて整版技術として民衆のものとなったが、そのことによって、これまでの写本形式による貴族の文学独占は破れ、文学作品は、もっぱら企業として大量生産され、ひろく民衆の手に行き渡るようになったのである。それが二千部・三千部という大量生産である以上(つまりそれが商品生産としての性質を持つものであるかぎり)、出版業者は、少数の公家や武家だけを相手にした企画は立てられないわけである。いきおい、出版文化は民衆的な性質を帯びて来るのであり、非民衆的な文学作品は、出版ジャーナリズムのワクの外に追いやられてしまうことになるのである。だからして、直接の制作目的からいっては、公家や武家を相手に自分の考えを訴えようというような作品であっても、作者は、やはり、この「民衆」の思惑を考えないわけにはいかないのであり、作品の認識と表現とを民衆的なものに改めなくてはならなかったのである。(たとえば、仮名草子などは、さしずめ、そうした性質のものだった。それは、民衆化された貴族文学・武家文学であったといっていいだろう。むろん、仮名草子と呼ばれる作品のすべてが、そうしたものだというのではないが。)
 文学作品は、いまや商品である。商品であるからには、それは、何よりも、購買者(読者)の好みを念頭において作られなくてはならない。また、それが商品であるからには、文学作品は「流行」の尖端を行くものでなくてはならない。流行に応ずると同時に、流行を作り出すような作品であることが、作家にたいする業者の要求である。
 こうして、つまり、そこでは、文学の商品化が逆に文学そのものを高めているという現象が見られるのである。ところが、それが十八世紀に入ると、ジャーナリズムへの迎合というこの企業性が、こんどは反対に、文学をみすぼらしくうらぶれたものにしてしまっているばかりか、反民衆的なものをさえ、そこにうみ出してしまっているのである。むろん、それは「その筋」によるジャーナリズム統制という「政治」の直接行動がおこなわれた結果でもあるが、民衆そのものが後向きになって来ていたことが、いちばん大きな原因である。つまり、そこからわかることは、読者である民衆その人が健康であるか不健康であるかということが、文学そのものの運命を決する、ということなのである。文学の商品化した時代においては、この傾向は決定的であるといえよう。それが市場の購買力を相手とした商品であることによって、文学は、良いにつけ悪いにつけ。読者である民衆の傾向を、じかに敏感に反映したものとなるのである。それと同時に、文学そのものの健康・不健康が読者に影響するところも、またひじょうに大きい。文学にたいする当局の監視がきびしかったゆえんである。
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  第二章 文学は、どういうものでなければならないか

    一 モデルの提示

 もうせん、新世界社から出ていた『子供の広場』という雑誌に、こんな創作がのったことがある。題は『空気がなくなる日』作者は岩倉政治氏である。読者のなかには、この作品を読んだ人も、きっといるだろう。
 また、なかには、原作は読んでいないが映画で見た、とい人がいるだろう。そして、おそらく、映画の『空気がなくなる日』なら知っている、という人のほうが多いにちがいない。映画のほうの話は、しかしあとまわしだ。

 ――かなりいぜんのことである。日本のどこから、あんなばかばかしいうわさがひろがったものか? その年の七月二十八日という日に、ほんの五分間ほどのことだが、この地球上から空気がなくなってしまうそうだという話がやかましくなったものだ。」
 村にこのうわさをもち帰った学校の小使いさんは。「町のほうは、空気のなくなる話でたいへんですぞォ」とおびえたように目をまるくしていった。けれど、先生たちは、笑って相手にならなかった。「べんきょうをしている先生たちにとって、そんなばかげた話は、てんでうけとれなかったから」である。
 ――「ところが、その次の日になると、こんどは校長先生が大さわぎをはじめた。」県庁のお役人も、そういっているし、どうもほんとうらしい、というのだ。
 ――「わがハイのまなんだ学問からいえばじゃねぇ……」といって、校長先生は、「つまり、この地球よりも、ずっとでっかくておもたい、たいへんな天体が……つまり星がじゃ、わがハイらの世界へ、デーンと近よってくると見たね」と、“学問的”な説明をはじめた。
 青くなった先生たちのひとりが、「すると、地球のいんりょくが、そいつのいんりょくにまけて?」と口をさしはさむと。こっくりうなずいて校長先生は、さらにその“学問的”な説明を、不安と得意をごっちゃにした表情で続けていくのであった。
 七月二十八日までには、あと一週間しかない。
 ――「校長先生は子どもたちをたいへん愛していた。」
だから、校長先生は、自分が先きにたって、どうすれば五分間呼吸しないで生きていられるかというけいこを、子供たちにさせることになった。
 だが、いくら練習を重ねてみても、人間は二分間と息をしないではおれないものだ、ということがわかった。そこで、
 ――「いよいよこれは、よういならんもんだいだ。」
ということになった。
 ――「けっきょく、だれいうともなく、いちばんたしかな方法は、ゴムのふくろのなかへ空気をつかまえておいて、いよいよのときに、すこしずつはなからすうほかはないらしい、ということにきまった。」
 ところが、「これは多くの人々にとってはたいへんざんこくな話であった。」というのは、氷ぶくろにしろ自転車のチューブにしろ、五分間も息をするための空気を入れるのには、たくさんの品がいるわけだし、それを買うための金など、貧乏な百姓にあるはずがないからだ。そうこうしているうちに、一箇一円二十銭だった氷ぶくろが、百円、二百円だしても手にはいらぬということになってしまった。

 ここまでで、まず話の半分だ、それから、八人家族のまずしい農民のうえに話が進められていく。
 ――「うちのもんが、みんな死んでゆくのに、おらだけ行きのこっておれるかい。」
 これは、せめて末っ子にだけでも借金して氷ぶくろを買ってやろうか、と親たちがいいだしたときの子供のことばだ。
 ――「かわいそうにな。おまえら、こんな家へうまれずと、地主のだんなのところへうまれたらよかったに……」
 ――「そうしたら、おら、あのウスノロの大三郎ときょうだいちゅうことになるんけ?」と、子供は吐き出すようにいった。大三郎は、自分のことしか考えない、いやなヤツだ。おまけに、ウスノロで、から威張りのげじげじのようなヤツなのだ。子供は、親たちが、あんなヤツの家を羨ましげにいったことさえ、腹立たしくてならなかった。
 ――「みんな死んでやらあい。」子供たちは、口々にそういって、表へとびだしていった。
 七月二十八日。
 ――「このぶきみな日は、空ぜんたいを血のようにそめた、みょうな朝やけのなかに明けはなれた。」
 子供たちは、先生や友だちと最後のお別れをするために学校に集まった。ウスノロの大三郎だけが、自転車チューブを六本も肩にかけて、南洋の陸軍大将みたいな恰好をしているきりで、校長先生も、男の先生も、女の先生も、だれもかれも一つのゴムふくろさえさげてはいなかった。
 ――「子どもは、しかし、このありさまをみて、世の中に金もちというものの、思ったよりかすくないのにびっくりした。」そして、だれひとり大三郎のことを羨ましがったりする者はなかった。どころか、「こんなウスノロの大三郎などといっしょに生きのこったりしたら、それこそたまらないなと思った。」

 空気のなくなるウワサは、むろんデマだった。ゴムを高く売りつけてもうけようとたくらんだ連中の、たちの悪い「つくりごと」だということも、あとでわかった。
 そのときが来ても、生きている自分を見つけると、「子どもは、ふいと大三郎の南洋の陸軍大将をおもいだした。そしていまは、おかしいというより、なんだかかわいそうな気がしてならなかった。」

 この話はこれでおしまいだ。筋のまとめかたがまずかったので、作者の狙ったかんどころをつかまえそこなったかも知れないし、だから作者の岩倉さんに、わたしはそんなふうなことを書いたつもりはない、といって叱られるかも知れない。が、ともかくぼくの受け取ったかぎりでは、だいたい以上のような筋書の作品だ。
 筋をひろうということは、ところで、筋を追いながら作品の主題を捉えるということだ。だから、以上の要約は、けっきょく、ぼくが理解したかぎりでの作品の主題を説明的に述べたものだという事になろうし、また、主題的な部分にアクセントをつけて述べた筋書だということにもなろう。実をいうと、そういうぼくのアクセントの置き所をはっきりさせたいために、そこのところを原文をまま引用しておいたわけなのだ。(原文の引用が、みんなそういう意味をもつというのでは、むろんないが。)で、もうすこし具体的にこの作品のテーマを解説しておく必要がありそうだ。


    二 主題の追求

 まず、気づくのは、うわさとかデマというものにたいする作者の観察だ。ウワサというものは、しぜんと生まれるものではなくて、だれかが、ためにするために作ったものだということである。
 つまり、ゴムを高く売りつけてもうけようというふうに、かならず損得にからんでねつ造されるのが、このデマというものの性質だということを、この作者はいっているらしい。地球上から空気がなくなる、しかしそれは唯の五分間だけ、という点に妙味(?)があるのだ。
 健康な常識――良識で考えてみれば、ウソだ、ツクリゴトだ、ということがひと目でわかるようなことでも、ながいあいだ盲従することにだけ馴らされて、批判ということをわすれてしまった民衆の目には、この見えすいたウソがほんとうらしく映るのだ。相手のつけ目は、そこにある。人々の無智と無自覚を利用して、かれらの乏しい財布の底をはたかせ、おためごかしに金を貸してやろうということで、複利計算のすごい高利の金を貸しつけては、死に生きの苦しみにかれらを追い込み、または自分たちの都合の悪い人間にけちをつけて、デマとともに相手をほうむり去る等々々、いまの世の中でおこなわれているデマのあの手この手は至れりつくせりだ。この作品に出てくる子供の親も、かわいい子供のために借金して氷ぶくろを買ってやろうかと考えた。直接作品のおもてに書かれてはいないけれど、ほかの子供の親たちも、きっと一度は同じようなことを考えたにきまっている。当然、そこまで考えさせられる作者の筆のはこびだ。
 つまり、子供にたいするそうした親の愛情というようなものまで利用して得を取ろう、金をもうけようとかかるのが、このひと握りの人間どものあさましさだ。世の中の悲劇の原因が、そういうさもしい根性と、そういう根性が当然生まれて来るようにできている、いまの社会の仕組みそのものにあるとしても、そういうたくらみに乗ぜられるスキを作っているのは、民衆自身である。無智で好人物の小使いさん、善人で憎めないけれど、すこしちょろすぎる校長先生。一度はそんなばかなことがと笑ってはみたものの、県庁のお役人がそういっているというのだし、それにえらい学者がほんとうだといい、だいいち尊敬する校長先生がそういうのだから、と考えてしまう先生たち。――ひとがいいというだけでは、正しくは生きられぬ人生であることが、そこに示されている。
 ぼくたちを、そいうあやまちから救ってくれるのは知性だ。合理精神だ。ともかくこの先生たちも、一度は笑ってうわさを信用しなかった。それは、「べんきょうをしている」人たちだったからである。
 だが、けっきょく、えらい学者のいうことだ、「おかみ」のいうことだ、校長先生がいうことだというので迷信に落ち込んでしまうのは、さっきもいった、長いものには巻かれろ式の抜けきれない奴隷根性のせいである。或いは、そんなふうに迄いわなくとも、自我が確立されていないからだ。自主性を欠いているための屈折だ、とはいえるだろう。
 それにまた、校長先生にしろこれらの先生たちにしろ、その知性をいうのが、知性というに足りない、体系としてのまとまりもつながりもない、知識のカケラにすぎぬことが、そこにはっきりと示されている。「わがハイのまなんだ学問からいえば……」というふうに、それが考える学問――ほんとうの学問ではなくて、まなんだ「学問」、つまりひとかけらの切り売り知識にすぎないことが暗示され、さらに、「地球のいんりょくが、そいつのいんりょくにまけて……」というとてつもない表現に、この人たちのもつ知識というのが、体系もなにもない、バラバラの知識にすぎないことを、作者は戯画的にバクロしている。
 人間の愛情はとうとい。けれど、知性の裏打ちのない愛情が、いまの世の中ではどういうことになるのか。
 子供の親は、借金までして子供に氷ぶくろを買ってやろうと考えた。また、地主の旦那の境遇を羨みもした。しかし、それは、子供のしあわせとは別のことだ。子供は、大三郎と兄弟になるくらいなら、死んだほうがましだと考えている。そして、むしろ、村の人たちといっしょに死んでいける自分のほうを、生き残る大三郎なんかよりずっとずっとしあわせだと考えている。
 子供は、むしろ、おまえら地主の家に生まれてきたら、うちが大三郎の家のように金持だったら、というような文脈であらわれてくる親の愛情を、かなしく腹立たしいものにさえ感じている。
 純真な子供に奴隷根性はない。相手が旦那の子供だろうが、いやなヤツはいやなヤツだ。ウスノロは、やっぱりウスノロなのだ。そこには、かけひきもなければ打算もない、ものごとをありのままに見つめて判断し行為する、人間(民衆)のそこなわれない「たましい」がある。
 奴隷のことばにとらわれた親たちには、この「どたんば」になっても、まだ、抜けきれず、すてきれないものがある。親たちには、けっきょく、子供の気持はほんとうには理解できないのだ。そして、ただ、自分だけが生き残ることをしないで、親といっしょに死のうという子供の言葉に、なんということなしに、「しんみり」させられてしまうだけなのである。
 校長先生は、子供たちをたいへん愛していた。それで、息をとめて五分間辛抱するけいこにかかった。
 だが、それが出来ることか出来ないことか、はじめからわかり切っていることだ。わかりきってはいても、どうせダメだとは知りながらも、ともかくいちおうやってみたうえで、という「溺れる者、藁」の気持がそこにはたらいているのかどうか。しかし、おそらく作者の狙いは、そういう点にはないだろう。合理精神を欠いた愛情というものが、けっきょくは相手を愛さないのと同じ結果になるということ、いやむしろ、愛する相手を苦しめるような事にもなりかねないということ、おそらくそういう点に、ここの問題はあるのだろう。失敗するにきまっていることを実行に移すというのは、ばかげた話だ。だが、失敗するにきまっているという見とおしは、知性による判断の結果だ。だから、知性のないところに、正しい判断も正しい見とおしもありようはずはない。いま、人々に欠けているものは、知性であり、知性による合理的な判断である。校長先生も、ほかの先生たちも、子供たちにたいする深い愛情はもちながら、知性を欠いていたために、こういうわかりきった失敗を仕出かすという、ばかげたことになった。しかも、それは、子供たちに苦しい思いをさせただけのことで、子供たちの危急を救うことにはならなかった。それで、失敗してみてはじめて、「これは、よういならんもんだいだ」ということに気づくしまつなのだ。気づいたときには、もうおそい。悪日がもうまじかに迫っている。

 七月二十八日。このぶきみな日は、「空ぜんたいを血のようにそめた、みょうな朝やけのなかに」明けはなれた。いかにも不吉なことを予感させられるような空模様である。
 だが、不吉なことというのが、げんにおこらなかったし、また起こり得るはずもなかったということを前置きにして、ここまで筆がはこばれて来たのだから、怪談を読むのと違って、読者は、顔色を変えるどころか、おそらくニヤニヤしながら、この辺を読みすごしてしまうことだろう。読者に、ニヤニヤしてもらえれば、作者の狙いはいちおう果せたわけだ。だが、そのニヤニヤを、もうすこし別のニヤニヤに変えてもらいたいというのが、作者のいつわらぬ願いだろう。そういい切ってしまっては、すこしズレるところがあるかも知れないが、つまりは「迷信」の問題なのだ。迷信にもいろいろあるが、ともかくそれは、お互いになんのつながりも関係もない事がらのあいだに、むりに因果関係を見つけて、そこになにかしら神秘的なものが支配しているかのような錯覚を起こすところに産まれてくるのだ。だから、そういう目で見なければ、たんに赤い朝やけとしてうつるものが、血に染った、ぶきみな朝やけとして、このばあい、人々の目に映じてくるのである。赤い朝やけが、明るい美しいものとして受け取られるか、それをぶきみな不吉なものとして感じるかということは、むしろ、そのときその場合の、人々の気分と気構えのほうに原因があるということになろう。
 作者は、つまり、村の人たちの気分になりきって、「このぶきみな日」と書きだし、「空ぜんたいを血のようにそめた、みょうな朝やけのなかに……」と、そう表現しているのである。しかし、そう表現することで、読者のほうはニヤリとくるに違いないという安心感が作者にはあるのだ。つまり、そういう安心感のうえに立って、村の人たちの気分になりきった表現をあえてここでしている、という事なのである。
 さて、この日にどういうことが起ったか。
 不吉なことの起らなかったかわりに、すばらしいことが起った。南洋の陸軍大将いがいは、みんな貧乏人の子供ばかりだということが、子供にのみ込めたことだ。子供は、「世の中に金もちというものの、思ったよりかすくないのにびっくりした。」――暮し向きが楽だ楽でないといっても、そう差のあるものでない、いっぱん民衆の生活。ぎりぎりの「どたんば」になってみれば、民衆の利害は共通し一致したものであるということ。同じ人間の子であるのに、ウスノロの大三郎のような人間だけが生き残れて、あとのみんなは、いっしょに死ななくてはならない運命にあるのだということ。そういうことが、子供のこころにハッキリ意識されたのは、ほんとうにすばらしいことだ。
 だが、気がついたときは、もう手おくれだ。それは、死の直前なのだ。あがいても、もがいても、どうにもならぬ、人のいのちの終りなのだ。
 けれど、しあわせなことに、すくなくともこの人たちにとってはまったく意外なことに、死の宣告のその日の正午は、むしろ死からの解放のときであった。「へっへっ! でっかいヤツをいっぱいくわされたわい、へっへっ。」そういって、子供の父親は、「ブヨのくいあとがゴマをちらしたようなふとももを、ぴしゃんぴしゃんたたきながら畑へでていった。」

 そのさきになにも書かれていない。作者の筆は、ここでぷつんと切れている。だが、父親のことばと、畑に出ていく父親のこのすがたに、「のどもと過ぐれば」の、あのふるいことわざを思わせるものが暗示されていないだろうか。この言葉とこの姿にしめされている父親のそれからの生活は、これ迄のそれとなんら変りない「平和」な生活にすぎない。死に生きの苦しみを味わわされながら、時が過ぎればまたけろりとして、あなたまかせの生活に逆戻りしていく一般大衆の姿が、この子供の父親の描きにおいて典型化され形象化されている。
 戦争の正体がバクロされて、裏切られた、ダマされたと歯をくいしばった敗戦当時の国民。連合軍による日本本土占領が民族の死と奴隷化を意味するもののように錯覚して、あわてふためいた、あの当時。それが奴隷化どころか解放への一歩前進であることを知って、ほっとひと息ついた民衆。そのくせ、自由ということの本当のところがのみ込めないばかりに、戦争前と同じ奴隷の境遇に自分で自分を追い込んでいった国民大衆。すこしうがちすぎた見方かもしれないが、戦前戦後のそうした民衆のすがたが、そこに描かれているようにも思えるのだ。
 ところで、この作品のいちばん終りのところで、子供がこんなふうなことを思ってみたということが書かれてあったはずだ。大三郎の「南洋の陸軍大将」を思い出して、おかしいというよりも、何だかかわいそうな気がしてならなかった、ということが。
 大三郎は、はじめから終りまで、自分さえよければそれでいいという根性の、いやなヤツだ。ウスノロのくせに、親の顔をかさにきて、ふだん学校でのさばりかえっているばかりか、自分の友だちも、友だちの兄弟も、親も、村のだれもかれもが死ぬというのに、自分だけ、自分の一族だけ生き残ろうとする、いやないやなヤツだ。人民の子は、ちがう。民衆のたましい(そこなわれない人間のたましい)を持った子供は、「おらだけ生きのこっておれるかい」と考えるし、また、考えるだけでなしに、正しいと思ったことを実行に移していく。それなのに、大三郎は、――大三郎は憎むべきヤツだ。ほんとうにいやなヤツだ。だが、大三郎にほんとうのしあわせというものはない。食いものにされる人間はふしあわせだが、ひとを食いものにして生きている人間もまた、人間としてほんとうにふしあわせだ。自分のふしあわせに気づかないだけに、それはいっそうみじめだといえる。
 だが、子供の親には、このみじめな人間が、村中でいちばん幸福な人間に見えるのだ。大三郎をみじめな人間に感じたとき、子供は、なにがほんとうの幸福かをいうことに気づいたのだといえるだろう。親の時代は、もう終った。今からは子供の時代である。人間のほんとうのしあわせは、奴隷の幸福、豚の幸福をふしあわせと感じたときに芽生えてくる。
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  第三章 作家と享受者

    一 読者の位置

 『空気がなくなる日』という作品を説明することで、ぼくは、文学とはどういうものかという事や、こんにちの文学はどういうものでなければならないか、というような点について、いちおう具体的に述べたつもりだ。実際、『空気がなくなる日』は、近頃にない、すぐれた作品である。子供が読んでも、おとなが読んでも、子供は子供なりに、いとなはおとなの目でこの作品をおもしろいと感ずるだろう。
 むろん、この作品は、十二から十六七の、若い、また小さい人たちを相手に書かれたものである。だから、この作品の表現――この作品の描きあらわしているところのものを、ぼくが受取ったようには、この小さい人たいや若い人たちは理解していないだろう。或る意味では、もっとすなおに、もっとそっちょくに、この作品の表現を「自分のこと」としてなまなましく理解しているに違いない。
 この作品に出てくる「子ども」というのは、読者(ほんらいの読者)にとっては、けっして他人ではない。そこに起った事がらは、どこかよそにあった(他人の身の上に起った)事件ではなくて、自分の身の上に起った事がらなのである。「子ども」の立場に身を置いて、読者は、「子ども」といっしょになって怒ってみたり、悲しんでみたりしているのである。そしてまた、作品のおもてに書かれていない「子ども」の生活の日常的な面をまで、こんどは自分の想像で書きくわえ、書きたして、「子ども」の生活の全体をこうに違いない、と考えてみているわけなのだ。作者が相手として選んだ読者の理解(享受)は、まずこうしたものだ。
 だが、それでは、読者の立場が作中の人物のそれとすっかりいっしょになってしまうのかというと、そうではない。そこには、やはり距離感がある。かりに、立場が一つになるというにしても、だれも、ウスノロの大三郎の立場に自分を置いて悦に入ったりはしないだろう。どういう立場に読者を立たせるかということや、いや、黙っていても読者がその立場を選びたくなるような、そういう人物のくばりかたに作者の苦心があるのだ。それにまた、この「子ども」は、ほんとうに空気がなくなるのだと思って、悩んだり苦しんだりしているのであるが、読者のほうには、それがウソだという事が、はじめからわかっている。また、その日のぶきみな空模様というのも、それは、「子ども」や村の人たちにとっての実感なのであって、読者のそれではない。つまり、作中の人物と読者とのあいだには、やはり越えられぬへだてがある。
 だから、作中の人物と一つになるというにしても、それは、いくたりかの人物のなかの、あるきまった人物の立場に身を置くということであるし、また、ひとごと(他人事)ではない、わが身のことと思われる作中の人物の身の上についても、かれの生活なり思想なりを、ある距離において観察できるような位置に、読者は坐らされているわけなのだ。読者の席をどこに設けるかということに、また、表現にたいする作者の苦心がある。
 そういう席の選びかたをまちがえたり、案内の仕方がわるいために、読者が妙なところに迷い込んでしまったりするような表現では、文学の表現ということはできない。文学以前の作品というのは、つまりこういう作品のことだ。そこで、文学の作家は、だれを相手に書くのかという読者対象をまずきめてから、相手の生活や生活の実感、さらにまた、その実感にささえられた思想や理解力というようなものをしっかり見さだめておいて、仕事にかからなくてはならぬのである。


    二 作家の主体

 文学する(創作し享受する)ということは、自分というものを見つめる事にほかならぬ、といわれているが、それもつまり、作家の側からいえば、読者との心の通った自分というものを見きわめる、という事でなければなるまい。作家は、作品をとおして自分のいいたい事をいい、訴えたいことを訴える――なるほど、それはそうに違いないが、そのいいたいこと、訴えたい事というのが、手前勝手なひとりよがりのいいぶんであったとしたら、ナンセンスもはなはだしい。作家が、たんに、自分の「実感」だけをよりどころにして創作するとき、その作品は、キチガイのたわごと同然のものになってしまうだろう。人々は、いま、飢えから自分を守るために必死になっているというのに、作中の人物は、生活の苦しみを知らぬ人たちばかりだ。こんな例は山ほどある。現実は暗いのに、作品の世界は底抜けな明るさだ。いまの文学作品には、この手が多い。
 実際はそのとおりだが、だからといって、文学とはそうしたものだ、と決めてかかるのは、まちがっている。すくなくとも、人間への信頼と愛情に生き、人間と人間生活の真実の探究に生きようとする文学は、ウソを書いてはいけないはずだ。現実を実際あるとおりに写すことが、人間愛の文学・民衆愛の文学――ヒューマニズム文学のいのちである。
 そう考えてみた場合、たんにいいたい事をいい、訴えたいことを訴えるというのではいけないことが、しぜん胸に落ちるだろう。その訴えたいことというのが、読者である民衆自身がいいたいと思っていること、訴えたいと思っていること、その事につながる、いいたいこと、訴えたい事でなくてはならぬはずだ。文学者は、何よりもまず民衆のよき代弁者とならなければならない。言葉にあらわすすべを知らぬ民衆の、積り積ったうっぷんやいきどおりを、或いはまた、働く者だけが知っている生活のよろこびや悲しみを、さらにまた、世の中のもつれから来る生活のゆがみや感情のねじくれなどを、文学のことばに整理し翻訳することによって、かれらに自己批判をあたえ、思想をあたえ、かれらの生活に方向を与えていくということこそ、こんにちの文学者が果さねばならぬ、大事なつとめであろう。
 だが、また、作家は、自分の実感を偽って創作の事に従うわけにはいかない。実感にそむくことは、自分の文学をまがいものにすることである。「まがいもののマス・プロ(大量生産)は、戦時中だけでたくさんだ。もうこりごりだ。本音をいわせてくれ、本音を。」――これが、作家の声である。文学の問題は、それでまた、実感の問題だということになる。
 つまり、理想をいえば、ウソいつわりない自分の実感で文学することが、同時にまた、自身、民衆のこころをもって民衆のための文学の制作をおこなっている事になる、というふうにならなくてはいけないわけだ。そこに、こんにち、作家の主体をほんものにするための「実感のきびしい監視」というような提唱もなされ、「現実との飽くことない対決」というようなことも叫ばれているわけなのだろう。だから、ぼくとしても、むろんそれに異論はない。異論が無いどころか、それはたいそう必要なことだと思っている。ただ、現実と対決するといっても、それが具体的にはどういう事がらを指すのかという点の説明に、なにか舌足らずなものを感じる、という迄のことである。
 現実と対決するということは、それこそ文学者の場合、読者である民衆と対決するという事でなくてはなるまい。民衆の実感にじかに触れ、それのどういうものかを探るためにである。いや、そういうふうにいったのでは当らないのであって、民衆の思想と行動が示す実感の高みにまで、作家が自分の実感を引き上げていく、そのためにである。そのようにして、民衆の心を心とすることにより、作家は民衆の訴えを、その言葉の内側にまで立ち入ってきめ細かに捉え、そのひとつひとつを形象のことば(文学のことば)として結晶させる、ということでなくてはなるまい。
 さきごろ、「現実と主体とのズレ」ということが問題になっていたが、それも、事の実際からいうと、享受者(民衆)にたいする作家の立ち遅れということなのであって、健康な大衆は正面を向いて歩いているのに、大衆の代弁者であるはずの当の作家だけが、ソッポを向き頭を抱え込んでいる、という状態のことなのである。そういうわけなのだから、作家が、自分の実感を我流の方式でいくらほじくってみたところで、それでどうにもなるものではない。身を起こし、民衆といっしょになって、かれらの歩いている方向に歩いてみるということ以外、主体変革の方策はありえないのである。
 主体を変革するといっても、しかしそれは、文学者がたんに自分自身を高めるためというだけのいとなみではなかったはずだ。また、読者の胸にあるものを形象のことばに翻訳するといっても、別に、形象のことば一般というようなものがあるわけではなく、それもやはり、享受者自身の言葉をもって現実を語る、という事にほかならないのである。さらにまた、創作にせよ批評にせよ、それらは作家の、また批評家の「ひとりごと」「寝ごと」に終ってはならぬのであって、そのためにこそ、民衆の実感のリアルな把握ということが必要なのである。
 だから、また、文学者には正しい現実認識が必要である、というようなことも、それは、読者である民衆によって認識された現実のどういうものかということを、批判し検討するという事でなければなるまい。このことを離れて、認識も表現もなにもあったものではない。読者の実感において現実を捉え、その実感のありようが示す文脈においてきびしい自己批判をおこなうことで、民衆の実感をより健康なものにはぐくんでいく、ということが、いま、大事なのだ。
 前に述べた、読者の理解力に応じた表現を、という問題でも同じことなのであって、それはたんに、相手のレヴェルに応じて手加減をくわえる、というような、なまやさしい事柄ではないのだ。たとえば、子供のために書かれる文学作品だが、相手の生活や相手の思想を理解もしないで、たんに言葉づかいだけを「子供向」にやさしくしてみたって、はじまらない。それが子供のための文学となるためには、子供のことば(思想)をもって現実が認識され表現されなくてはならぬのである。そうしたものだけが、子供にとって文学的理解(享受)の対象となるのである。
 だから、また、表現をやさしくするということが、内容を低いものにするという事であってはならぬはずだ。むろん、それも程度問題だが、相手の水準が低いから、ほんとうのことがいえないというのは、一般的にはウソだ。水準の高い低いということよりは、それはむしろ、思想や感情のゆがみやもつれの程度が問題なのだ。でなかったら、子供のための文学はきまっておとな相手の文学より低級だという事になってしまうだろう。子供を相手に書かれた文学作品だって、いいものはいいし、おとな相手の作品でも、くだらないものはやはりくだらない。表現のやさしい、むずかしいということと、内容の高い低いということは別の話だ。


    三 作品享受の実際

 そこで、話をもう一度もとへ戻して、『空気がなくなる日』という作品が、おとなが読んでも子供が読んでもおもしろいと感ずる作品だ、という点について考えてみよう。
 『空気がなくなる日』は、なによりも子供相手に書かれた作品であった。せいぜい十六七ぐらいまでの年ごろの若い人たちが相手の作品なのだ。だから、いくらおとながおもしろがって読んだり見たりしたところで、当の小さい人、若い人がなんだこんなもの、というのでは、この作品は失敗の作だということになろう。表現の上手・下手ということは、だから、いちおう、当の読者の気持にしっくりいくような技術がとられているかどうか、という事できまる。そこで、ぼくは調査をしてみた。この作品が、実際にどんなふうに読まれているか、理解されているかという点についてである。
 まず、小学校二年生の女の子を三人あつめて読んできかせた。みんな学校のできがいい、すなおな子供たちばかりだ。それから、ふだん、童話やなにかを興味をもって読んでいる子供たちであるということも、ここに附け加えておいたほうがいいかも知れない。ふたりのお父さんは、新制高等学校の先生だし、もうひとりは会社勤めのサラリー・マンの子供である。
 読んでいくうちに、引力ってなんのこと、とか、校長先生のくせにどうしてばかなの、というような質問が出てくる。話がウスノロの大三郎のところまでくると、ああ信太郎さんみたいな人ね、という。(女の子たちのクラスは、男女組で信太郎君はクラスきっての意地悪であばれんぼうだ。)そして、大三郎がなんでかわいそうなのかわからない、という。また、空気がなくなるなんて作りごとをした人たちが、ほんとうに憎らしいという。
 ぶきみな朝やけのところは、みんな息をころして聞いている。空気がなくなるというのはウソだという事がわかっていながら――いや、それとこれとは別なのだ。空気がなくなるとは思わないけれど、なにかしら不吉なことが起るにちがいない、と思っているらしいのだ。空気がなくならないかわりに、地震かなにかになって、「子ども」が死ぬんじゃないかと思った、と、かわいい読者(聞き手)のひとりが、あとでいった。もうひとりの女の子は、どうして大三郎がひどい目にあわないの、ともいった。
 これが六年生の男の子になると、校長先生がちょろすぎはしないか、というようなことに疑問は持たないかわりに、ぶきみな朝やけのことでは、なんにも起らないのに、どうしてそんな空模様になったのかと、首をひねるのである。そして、「子どもたち」がどうして大三郎をなぐりつけないのか、ということや、大三郎一家みたいな、太い根性のヤツラを、なんで村の人たちがそのままにしておくのか、というような事をいうようになる。大三郎をかわいそうな人間だと感ずる「子ども」の気持にたいしては、そうだ、ほんとうにそうだ、と共鳴する者もあれば、ちっともかわいそうでなんかない、とリキみ返る者もいる。
 つぎは女子高校生についての調査だが、十六七の女学生諸君の読後の感想を聞くと、小学生諸君と同じように、口を揃えて、「おもしろかった。」とはいうが、どこがどういうふうにおもしろいのかという点ではまちまちだった。
 「子供のおとぎばなしでしょう。」――お伽話なんだから、どうのこうのいってみたって、はじまらない、お伽話はお伽話として読めばいいんだ、というのである。これは手がつけられない。手はつけられないが、これも一つの読みかただ。
 おつぎは、――みんなといっしょうに死のうという「子ども」の気持が、たまらなくかわいそうで泣けてきた。かわいそうだけれど、親兄弟と死に別れするよりは、そのほうがどれほど幸福かしれないとも思った。そして、自分たちだけ生き残ろうとする、大三郎や大三郎の親たちが憎らしくなったし、こんなさわぎを起こさせたゴム作りだかゴム商人だかが、刑務所へ入れられればいいと思った、というのである。子供にだけ通用するようなウソが書いてあるのが「童話というもの」だ、ときめてかかっているのが、さいしょのグループだとしたら、これはまた「小説というもの」は、読者を泣かせるように仕組んであるもの、というふうな作品の読みかたである。(それで、彼女たちは、泣くために少女小説を読むのである。)『空気がなくなる日』は、つまりこおでは、完全に少女小説に化けてしまっているのである。
 ほかのもうひとりの女学生は、こういった。こんなおもしろい創作を読んだことがない。もうせん、漱石の『坊っちゃん』をおもしろいと思って読んだけれど、この作品を読んでみたら『坊っちゃん』がつまらなくなってきた。それがどうしてだか自分にもよくわからないが、つまらなくなった事だけはたしかだ、と。
 そこで、ぼくは聞いてみた。世の中にどうしてふしあわせというものがるのか、ということや、お互いになかよく暮したらよさそうなものなのに、ひとを苦しめるような悪いヤツが生まれて来るのはどうしてか、というようなことが、『空気がなくなる日』には書かれてあるのに、『坊っちゃん』にはそういう点への切り込みがないから、それでつまらなく感じるのではないか、と。
 「そう、それなんです。それではっきりしました。」といって、この女学生は、ほんとうにしあわせな人間の世の中を作るためには、坊っちゃんや山嵐が赤シャツたちをなぐりつけたような仕方で、大三郎ひとりをたたいてみたって仕様がないと思うということや、大三郎に自分のみじめさを悟らせるためには、みんながめざめて、みんなの力で、それがしぜんとのみ込めて来るような仕組みに世の中を進めなくてはダメなんじゃないのか、なにせその意味では相手はウスノロなのだから……というようなことを、特徴のある、おもい口つきで、ぽつりぽつりと語りはじめた。

 これは、ほんの一部についての調査だが、それでもおうよその見当はつくだろう。つまり、だれもがこの作品をおもしろいと思って読んでいるわけなのだが、おもしろいということの内容はめいめいに違っている。作者が相手として選んだ、当の読者のあいだにおいてさえ、その受け取り方にはかなりの幅がある。こういう違いは、どこから来るのだろう?
 結論を先きにいうと、それは、読者めいめいの体験のへだたりがもとになっての違いだ、ということになろう。たとえば、この作品には、ちょろい校長先生がえがかれている。それを、受け取れない、納得がいかない、と二年生の女の子たちがいうのは、校長先生というものが、おさない子供たちにとっては無条件に「偉い人」であるからだ。六年生の男の子たちが、そりゃそうにきまっているさ、という調子で読み過ごすのは、一つには、そんな事にはこだわらないで話の本筋を捉えるだけの修練――読書体験ができているからだし、また一つには、わが校の校長先生がノミスケでこちこちで、そのくせお人好しだという、実際の経験からもきているらしい。それに年齢もある。この年齢は、心理学者にいわせると、反抗期に入りかけているということだ。
 また、たとえば、信太郎君は持てあましの乱暴者でいじめっ子だが、それだからといってべつだん悪いことをしたむくいを受けているわけではない。むくいは、むしろ、いい気になって女の子たちをいじめていることで、自分を悪い子にしていっている、という点にあらわれているわけだ。ウスノロの大三郎の場合だって、そうだ。最後の場面でみんなにソッポを向かれたり、からかわれたりするだけで、因果応報、気がヘンになったなどいう事にはならない。ところで、二年生の女の子たちは、どうして大三郎がひどい目にあわないの、という不満をのべのだ。それは、ふだん読みふけっている童話や童話ふうの読み物の影響による点がすくなくない。むろん、童話の影響とだけいい切るわけにはいかないし、何よりそれは、この年齢期の特徴である「勧善懲悪願望」によるものと考えないわけにはいまないが、そういう読書体験が大きくはたらいているという事だけは、子供たち自身の口裏からも察しがつく。
 つまり、子供たちは、実際の生活のなかで満たされないものを、このお話の世界に遊ぶことでおぎなっているのだ。生活の実際面では信太郎君に泣かされてばかりいるのだが、それが童話のなかの「信太郎君」――いじめっ子は、なにかの機会に反省して良い子になったり、或いはまた、桃太郎んみたいに、気はやさしくて力持ち式のもっと強い良い子があらわれて、この「信太郎君」をぎゃふんといわせたりもする。お話(童話)というものは、つまりこの女の子のたちにとっては、実際生活では求められないものを与え満たしてくれるもの、という事にきまっているのだ。(この年齢層に読者を求めた童話が、子供の勧懲願望を満たすように仕組まれているのは、当然のことである。)だから、この作品の扱いが、なんだかあきたりないのだ。
 この女の子たちにとってはそうだが、六年生の男の子の場合は、なんで大三郎みたいなヤツ放ったらかしておくんだ、という点に、かえって疑問をいだくようになっている。つまり、大三郎がなぐられるなり何なりする事のほうが生活の実感にぴったり来るという点では、両方とも同じことだが、女の子のほうのは、「お話」ではそういうふうになるのが「おきまり」なのに、という期待はずれにめんくらっているわけだし、男の子のはそれと違って、自分たちの実際生活と作品世界のくいちがいに、実感にそぐわぬものを感じているわけなのだ。男の子たちは、自分たちの生活の実際面で、クラスのこんなゲジゲジはのさばらしてはおかぬのだ。自治会で問題にするなり、腕と腕なら、衆の力でしまつをつけている。だからこそ、そこにぴったりしないものを感じているのである。
 体験のちがいからくる受け取りかたの違いは、女学生どうしの間にも見られること、前に述べたとおりである。前の二つの場合は、ふつうによくそういわれている「女学生のセンチメンタリズム」からまだぬけ切っていない人々の受け取りかたを示しているし、あとのひとりの場合は、健康な民衆の一人として成長しはじめた人の、いきいきとした作品享受(表現理解)を示すものである。いい忘れたが、この女学生は、なかなかの読書家だし、それに、学校の自治会を、ありきたりの(女学校という特殊の雰囲気のなかでよく見受ける)「お修身」的自治会から真に民主的で自由な自治会にまで高めようとして、いま懸命に力を入れているファイトの持ちぬしだ。

 こう見てくると、体験のちがいというのは、つまり体験の仕方そのものの違いということだし、また、生活の実感――思想の違いということにもなろう。作品(作者による表現)は一つだが、その内容は、相手によっていろいろさまざまに理解されてしまうわけだ。作品の内容が一つだと考えるのは、事の実際に反している。
 文学は表現だ、というようなことを口にする人があるが、ただ表現だというようなばかげたことはない。文学にとって表現は抜き差しならぬ大事な意味をもつ、というのなら、いちおう話はわかるが、しかし表現が大事だということは、内容が大事だということと実は同じ事がらなのだ。(この点については、なお次章以下において吟味をくわえるつもりでいる。)ともかく、文学においては、内容より表現のほうがたいせつだなどという議論は成り立たないし、ましてのこと、文学は表現だなどということにもならない。それは何かを表現したものだ。その何かをが、つまり内容というものだ。もっとも、このいい方は、ほんとうはまちがっている。文学のはたらきは、或る内容があって、それを作品にあらわすというようなものではなくて、内容――というよりは、むしろ内容をつくる認識と表現とが一つものになってのはたらきであるからだ。(そのことは、たとえば、言葉づかいだけをいくらやさしくしてみても、それだけでは「子供のための文学」にはなり切らないということや、子供の日常的な生活の実感をリアルに捉えた現実認識の文学だけが、子供の生活の中に食い入っている、というような事がらからだけでも、明らかだろう。)ほんとうは、そこまで考えなくてはいけないのだが、かりに前のように単純に考えてみたとしても、内容なり表現なりが、読者によっていろいろに受け取られているわけなのだから、自分の受け取りかたや、自分が受け取った内容をめやすにして「この作品は……」などというのは、いい気な話だということになろう。
 つまり、表現とか内容というのにも、作者による表現(内容)と、読者の理解(享受)した表現(内容)との二つがあることになるし、また、読者の理解した表現というのにも、そこにかなりの幅がありデコボコがある、ということになるのだ。(それは、また、認識という側面から見ても、同じことだ。作者による認識と、読者によって理解された作者の認識との一致・不一致、等々々。)そういうくいちがいのもとを作っているものが、つまり、めいめいの体験(体験の仕方)のちがい、実感のちがい、それゆえの思想のちがいである、ということなのである。
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  第四章 表現と理解

    一 表現について

 いつのことだったか、「よい」「うまい」という言葉の使い分けで――たとえば、「よい映画」と「うまい映画」との違いというふうに――芸術における方法と技術の関係を説明している文章を、新聞か何かで見かけたことがある。ぼくが今ここで方法といったのは、いわばこの「よい」「わるい」の文脈であらわされるほうのそれの事なのだが、しかし、それはそれとして、芸術の構造理解に際していつも突き当たる壁は、「よい」「わるい」「うまい」「まずい」の、この二つの文脈の折り合いなのだ。
 それの順列組み合わせをやってみると、いちばん早わかりだが、「うまい」けれど「わるい」――つまり、受けはいいが受け方に問題がある――というような組み合わせは成り立つというより、現実にそういう場合がひじょうに多いのだが、「ヘタクソな表現だが、認識はしっかりしている」(「まずい」が、しかし「よい」)というような場合はありえないわけだ。同様にして、また、「形式はととのっているが、内容はカラッポだ」というようなのも、言葉のあやとして以外成り立ちようがないだろう。(こうした形式と内容との矛盾というふうな意味でなら「うまいけれどわるい」というのだって、成り立たないことになろう。)
 表現がまずいというのは、認識が宙に浮いているからだ。また、内容がほんものなら、形式もととのっているにきまっている。これが芸術の論理だ。

 表現のうまい、まずいということは、そこで、その作品がだれを相手に書かれた作品であるのか、という事できまる。当の相手にぴったりするような表現がとられていれば、あとのだれがなんといおうと、それは上手な(うまい)表現だということになるわけだ。ところで、『空気がなくなる日』の読者についてのぼくの調査は、作者の選んだ当の相手にたいしても、かならずしも思うような効果を挙げているとはかぎらない、という結論に達するのである。それでは、この作品は、よいけれどもまずい――失敗の作ということになるのか。そうではない。いま、そのことに筆を進めよう。
 むろん、読者のたれかれが、なんだこんなもの、というのなら、それは失敗の作だということにもなろう。だが、さっきの調査が示しているように、みんな一様におもしろいというのだ。いままで読んだ創作がつまらなく感じられて来るぐらい、おもしろいという読者さえあるのだ。ただ、どういう所が、どういうふうにおもしろいかという点で、幅がありデコボコがあり、また、作者の狙ったかんどころをはずした受け取り方もなされている、ということなのだ。だが、一方には、前にいったとおりの、女学生のすばらしい受け取り方もあるのだ。
 いまの過渡期に、表現理解のこの幅やデコボコはいたしかたないという事が、まずいわれなくてはなるまい。今の過渡期にというのは、まずさし当たって、半封建的な観念から民衆本位の観念への切り替えの時期に、という程の意味だという事にしておこう。(だから、それはまた、旧憲法的な生活観念・感覚から新憲法的なそれへの切り替えの時期に、というふうな意味に解してもよいだろう。)ともかく、今のこの時代は、おとなも子供も、まだまだふるい観念に囚われているし、それに世の中の動きは、かならずしも、このふるい観念をこわすような方向に向かってはいないからだ。こんにちのありさまでは、教師も親たちも、だいいち家庭の雰囲気そのものがそういうふるい観念に縛られている場合が多いのだから、いきおい子供たちの読み物も、人種的な偏見や好戦的な気分に子供たちを追いやるような、ごくたちの悪いものに限られているという場合が、非常に多い。(「現在、文化財にヒドイものが多いことは、議論の余地はない。……まず、悪名高い冒険絵物話(マンガ)だが、その『悪影響』は、青龍刀をこしらえたり木から飛び下りたりするところにあるのだろうか? そうではない。そんな『悪影響』は、聖書からだってうけ得るのだ。よろしくないのは、その世界観であり正義感だ。出てくる主人公の半ばはアメリカ名前のフロー児で、思いつきの『宝』をさがすためのインディアンだの『蛮人』だのを虫けらのように消耗して恥ない『英雄』だから困るのだ。……清算しきれないファシズムの舶来メッキ、事大主義を裏打ちした植民地的コムプレクスは、子供たちをふくめて日本の現実性の泥舟的基盤に立っているものだけに、文化財にも浸透したその毒気は、当然、子供たちの心にも受け入れられやすい仕組みになっている。」――乾孝氏『文化財の問題について』・映画教育一九五〇・九)
 また、いまの十六七の年ごろの人だって(二十代の人なら、なおさらのこと)、学校では軍国主義の教育をうけ、読み物その他の面でも、講談・浪花節的なイデオロギーとモラルにそだてられてきた人たちが大部分なのだ。その点、十代と二十代とにかぎらず、三十代・四十代の人たちでも、基本線は同じことである。ただ僅かに、自由主義と自由主義文化の抵抗がいくぶん強かったというだけのことだ。たとえば、ぼくの場合――これは、今の三十代の人間の子供の時分を示す一つの場合として見ていただきたい――その頃、鈴木三重吉の編集で出ていた『赤い鳥』が良い雑誌だというので、親からも先生からもすすめられて毎号読まされたが、そこには、おとなの夢(しかも現実の動きからはみ出した、大正末期、昭和初年の自由主義的知識人たちの青白い夢)があるだけであって、当の子供たちにはなじめないものがあった。どういうもの、とはっきり規定していう事はできないが、子供は、なにかもっといきいきとしたもの、こしらえものでないものを望んでいたのである。つまり、『赤い鳥』の夢は、文字通り夢であって、子供の夢(子供の現実)とはまったくかけ離れたものであった、という事なのである。それで、親や兄の目をぬすんでは『少年倶楽部』に読み耽ったというのが、ぼくたちであった。それは、つまり、この雑誌の編集には、子供の心をつかんだものがあった、という事なのである。子供のなかに住む「卑俗なおとな」の心を、である。
 『少年倶楽部』の世界もまた、「こしらえもの」であったには違いないが、現実(世の中の実際・事の実際)をサカダチしてうつした、ゆがんだおとなの観念を、そのまま敷写しにうつしているという点で、それは、この「小さなおとな」の実感に訴えるものがあったのである。それは、既定の現実・現実の事実でなくとも、ありうべき現実、そうあらしめたい現実として、ぼくたち少年の心に強く印象されていった。たとえば、この雑誌には、『日米未来戦』というような、題名からだけでもそのすべてが察せられるような、そらおそろしい少年軍事小説が連載されていて、子供たちのあいだに、偏狭で排外的な民族エゴイズムと誤まった正義感を植え付けた。これが、ファシズムと戦争への協力のための「愛国心」(正確にいうと、民族エゴイズム)の養成でなかったとはいえないのである。
 つまり、そういうわけなのである。それに、さっきもいった通りの、今の世の中のありさまなのだ。だから、そういう環境の中で、そういうふうに育ってきた相手にいちばんしっくりいくのは、前近代的な文学の表現だということになろう。『宮本武蔵』が『高山右近』と名前を変えて再登場するというような、戦前を凌ぐこんにちの通俗小説・大衆文学の人気も、それはけっして理由のないことではない。
 つまり、そういう相手だからというので、読者をナメきって、相手の気に入りそうなものを商売気たっぷりに書くというのでは、戯作者だ。それは、悪い意味での職人仕事だ。文学者の良心を持った作家には、げすなこの戯作者どものマネはできないのだ。それが出来ないから、というよりは、そういうアクマの文学を叩き潰して、民衆の栄養になるような文学をうみだそうと考えるからこそ、そこに、ぎごちない表現も、今のこの過渡期には生まれて来ることになるのである。しかし、表現のこのぎごちなさというのが、カストリ通俗小説・大衆文学のワクのなかにある読者の、固定した「実感」をめやすにしての「ぎごちなさ」である場合がすくなくない、ということも見落してはいけない。『空気がなくなる日』の場合にも、この事はあてはまる。読者の作品理解が示す、あの幅とデコボコが、一つには、読者めいめいの体験のゆがみ、ゆがんだ体験のしかた、誤まれる実感、等々――読者のそうした生活のもつれとねじくれが描き上げたカーヴだ、というふうにいえないこともないのだ。

 たとえば、大三郎をみじめな人間だと感じる「子ども」の気持こそ、ゆがみない、すなおな、人の子のこころなのだが、自分はどうしてもこの「子ども」の気持にはなりきれない、という読者もげんにあるのだ。だが、むろん、そこには、言葉のゆきちがいというか、読みかたが粗雑なための誤解もある。さっき六年生についての調査のところでいったように、「ちっともかわいそうでなんかない」と、そう語った子供は、「かわいそう」という言葉そのものにこだわって、その意味をとりそこねているのだ。だから、大三郎なんかちっともかわいそうでない、というこの男の子たちの心のなかには、悪を憎み、自分だけよければよいという利己的な考えや身勝手なふるまいを憎む気持でいっぱなのだ。それを裏からいえば、人間はお互いになかよくしていきたいものだ、自分は、ひとに意地悪をしたり悪いたくらみをしてひとをくるしめるようなおとなにはなるまい、――いってみるなら、そういう気持なのだ。だから、けっきょくは同じことになりそうなのだが、ここのちがいは大きい。
 つまり、そういう粗雑な読みかたしかできない、というところに問題があるのだ。そういう粗雑な読みかたをするとで、この世の中のさまざまな罪悪や人間悪の根を、社会の仕組みにまで掘り下げて描いている、この作品の表現を、いわば『坊っちゃん』ふうの正義感――さらに、もっと安っぽい、うわつらの正義感をあらわした作品として受け取っていることになるのだ。そういう読みかた、理解のしかたを植え付けたものこそ、執拗に再生産され続けている、封建的・ファッショ的浪曲文学にほかならないのである。
 人間の真実に、したがってまた民衆の現実に誠実であろうとする現代ヒューマニズム文学が手を焼くのは、それが前近代的なこの浪曲文学のワクのなかにいる読者相手のしごとだからだ。むろん、そのワクの外にいるところの読者もあるにはある。だが、それも、現実に背中を向けているという点では、けっきょくは同じことである。たとえば、お上品にかまえた『赤い鳥』ふうの童謡・童話、また、純粋におとな相手のものでは、小さな小市民的自我の上にちんまりと坐り込んだ、身辺雑記や心境吐露のいわゆる私小説や、頽廃を「通俗」への反逆の武器とすることで、かえって自分自身を蝕んでしまったデカダンスの文学や、などなどである。そうした反動文学があたえた、またげんに与えているところの害毒は、人々の頭と胸をむしばみ、悪血となって体内をのたうっている。だから、『空気がなくなる日』の清新な表現が、いわば第三期的症状にある読者にたいして効果を挙げることができないからといって非難するのは当らないし、また、相手がかるい病人の場合であっても、その病人(読者)の環境があまりに不潔すぎて、せっかくの注射もムダになるというような場合だって、あり得るわけだろう。それは、薬が悪いのでも、注射のしかたがヘタだからでもない。
 だから、つまり、その作品が、読みごたえのする、すぐれた内容の作品かどうかということや、また、その表現が読者にたいして適切であるかどうか、というようなことは、たんに読者の受けがいいかわるいか、という、事がらのうわつらだけでは判断できない。だが、こういう読者にだけはわかってもらおう、と作者が考えた当の相手にさえ、この作品がしっくりいかなかったとしたら、それはやっぱり表現の仕方がまずかったのだ。けれど、そんな事は、だいじょうぶない。調査の項の終りに掲げた、女学生の読後の感想に耳を傾けるがいい。また、六年生の男の子たちの半ば以上は、「子ども」の気持に共鳴することで、まずまず作者の狙ったとおりの方向に作品の表現を理解しているではないか。それに、この作品は『子供の広場』の読者が相手だ。この雑誌の読者というのは、――いや、読者の素質そのものより、むしろその家庭の雰囲気、生活環境のほうが、ここでは問題なのだ。当の本人は、すこしぐらいぼんくらであっても、作品の正しい読みかたを指導してくれる人のひとりやふたりはそばにいようという、めぐまれた環境である。そう考えてみた場合、この作品が、当の読者にとってぴったりした内容と表現をもった作品であることが、よくわかるだろう。

 そこで、こんどは、相手にぴったりするとか、しっくりいくという事について考えてみる必要がありそうだ。


    二 享受者について
     ――子供のための文学と、おとなの文学――

 文学作品とうものは、むろん、楽しく読めるものでなくてはいけないが、その楽しさというのが、一度読んでしまえばそれっきりという楽しさ、おもしろさではないはずだ。二度、三度と読み返すことで、はじめ読んだときとはまた別の楽しさを発見するというのが、文学にしたしむ者のよろこびである。自分がおさなかったために、また、まずしい心をもっていたために、とりつきにくく読みづらかった文学作品が、そだった心で読み返してみると、ほんとうにしっくり来るというような場合もあるし、逆にまた、自分にしっくりきていたはずの作品が、今となってはぴったりしなくなった、というような場合だってある。あの女学生が、もうせん楽しく読んだ『坊っちゃん』が、いまの自分には物足りなくなってきたというのなどは、あとの場合である。
 つまり、すぐれた文学作品というものは、読めば読むほど味が出てくるものなのだ。味が出てくるというのは、その作品のもつ内容の高さがだんだんに理解されて来るということだし、つまりは、文学によって自分が高められる、という事なのである。また、それがすぐれた作品であれば、自分が高まるにつれて、作品のほんとうのところが理解されてきて、その楽しさはいっそう深いものになるのである。『空気がなくなる日』が、おとなにとっても、やはり楽しくおもしろい作品だということの理由の一つはここにある。
 つまり、おとな――おとなにもいろいろあるが、民衆のヒューマンな心を持ったおとな――に、この作品が楽しいものとして受け取られているのは、一つには、社会や人間にたいする理解のしかたや実践意欲の点で、作者と同じ一つ方向にある自分を感じるからでもあろうし、また一つには、長い読書の体験・享受体験からして、文学というものの読みかたをひとわたり心得ていることによる、ぴったりした感じ、というような事がもとになっているのかも知れない。それに、子供相手の創作であるだけに、作者の技術的な苦心にはかえって並々ならぬものがあるのだが、それだけにまた、表現そのものはきわめて単純化されているし、子供の直観に訴えてぴんといくような、そういう角度からの、要点をつかんだ問題の捉え方がなされているために、読者が自分の想像をはたらかせて表現をおぎなうという部面が大きくなって、かえっておとなにとって興味深いものになっている、というふうにも思えるのだ。『空気がなくなる日』の表現が、おとなにとっても子供にとっても、楽しいものとして受け取られている、ということの理由は、おうよそそんなところだろう。
 子供にだけ楽しくて、おとなが読んではなんの興味も持てないというような作品は、ろくなものではない。(「おとな」というのは、さっきいったプラスの意味のおとなのことだ。)子供の生活の栄養になるような、すぐれた文学作品というものは、おとなにとってもまた、楽しいものであるはずだ。どうしてかといえば、そこには人間の生活の真実があらわされているからだ。もっとも、その真実は、子供の生活の実感において捉えられた真実である。作家は、読者であるところのそうした子供の実感につながる自分の実感を見つめて創作しているわけなのだ。だから、その真実は、ひじょうにナマな、またひじょうに素朴なかたちであらされた真実にすぎない。だが、素朴であるということが、きまって複雑なものより、劣っているということにはならない。素朴であっても、正しいものは正しい。また、考え方そのものがいくらこみいっていても、まちがった考えは、やはりまちがっている。いちがいに、単純なものより複雑なもののほうがネウチがあると考えるのは、誤っている。
 素朴であるために、かえって黒と白との区別がはっきり示されている、こうした作品の表現に、はっと虚を突かれた思いをするのが、「複雑な」生活を生きるおとなのつねだろう。おとなが、そこに見いだすのは、複雑な実生活のさまざまを要約し単純化した、人生の見取り図である。しかし、そのような見取り図が、作者の意図した表現のなかに立体的に図式化されているわけではない。表現の足らないところをおぎなって、そういう立体化――形象的な図式化をおこなっているのは、読者そのひとである。
 子供の読者が作品に接する場合でも、ただたんに言葉のうわつらを読むだけでなくて、作品のおもてに描かれていないことにまで想像を走らせて表現をおぎなっているということは、前にも述べたとおりだが、そういうことは、作者にとって当初からの予定のプログラムであったはずだ。文学の表現とは、ほんらいそうしたものである。読者によるおぎないなしに、文学の表現は成り立たない。そして、また、読者がどんなおぎない方をするか、ということは、読者その人の体験できまる。(体験といっていけないなら、体験の仕方といいかえてもいい。)だからこそ、作者は、どういう生活をしている人たちを相手に書くか、だれに読ませるために書くか、という事をきめておいてから、仕事にかからねばならぬのだし、、また、読む相手の生活そのものにふかく食い入って、かれらの思想や体験の実際をわがものとしなければならなかったわけなのだ。
 子供相手の作品が、おとなに読まれる場合の「表現のおぎない」というのは、しかしそれとはだいぶ話がちがうようだ。
 それはおとなに読まれるという場合をも、作者はいちおう考えの中に入れているかも知れないが、表現そのものは、しかしあくまで子供本位だ。子供のために書かれた文学作品をおとなが読む場合、作品の表現にあきたりないものを感じるのは当り前のことである。あきたりない点というのは、けっきょく、素朴なかたちでしか真実が示されていないという事に関してであろう。真実が素朴なかたちで示されているという事こそ、実はかえって魅力的な点なのだが、おとなは、しかし、いつまでもこの「素朴」のなかにとどまっていることは出来ない。というのは、あらわれが素朴であっても真実は真実にちがいないが、その真実には、或るきまった限界があるからだ。いつわりではないが、それは、或るきまったワクのなかの真実であるからだ。
 たとえば、――というより、『空気がなくなる日』の表現についてなのだが、人間悪や悲劇のもとを、社会の仕組みそのものにまで突き入って扱っているのがこの作品だ、とさっきぼくはいったが、ほんとうをいえば、そういう事は、この作品の表現には生かしきられていない。それは、むしろ、作者の胸にあることで、表現のなかにまで溶け込んではいない。そういうふうに、社会の仕組みにまで掘り下げてものを考える作家であればこそ、こうした作品を書くことも出来たとはいえるけれど、そういう思いが、思いどおりここに生かされているわけではない。
 だが、それは作者のちからが足りないせいではない。
 問題は、むしろ読者にある。享受者による表現の制約である。当の相手である読者(少年少女)その人の体験のまずしさ、おさなさである。おさなくしか真実というものを考えることの出来ない相手に、理づめに合理的に「もののまこと」(客観的真理)をわからせることはむずかしい。そして、この「もののまこと」は、ただたんに「こころのまこと」(主観的真理)を道筋としただけでは、捉えることの出来ないものなのである。それは、どうしても合理的な態度で、理づめに方法的に段階を踏んで考えていかなくては、つかめぬものなのだ。そればかりではない。人の世のまことは、自分がひとり立ちの社会人として現実に(実際に)せいかつしてみなくては、つかめないという事なのである。だから、「もののまこと」に達するのには、社会的体験(それを、この場合、実践という言葉に置きかえてもよい)に裏打ちされた知性の訓練が必要なのだ。一段、また一段と石段をのぼりつめるように、段階的に自分の知性をきたえ、とぎすましていくよりほかに、道はないのである。現実の真に迫ろうとして、合理的なもに、そしてまたより合理的なものにと人間の知性をきたえていくものこそ、法則を求めて進む科学のすがたにほかならない。文学の求める真実も、手段はちがっても、けっきょくは、この客観的真実(「もののまこと」)に合致するものでなくてはなるまい。そういう客観的真実の立場に立った場合、おとなにとって、子供相手の文学があきたりぬものに感じられるのは、これは当然のことである。
 そこで、つまり、さっきいったような、特別手の込んだ「表現のおぎない」が、おとなの手でなされる事にもなるのだ。けれど、それはあくまで「おぎない」であって、作品の主題を別のものにすりかえたり、あらぬ方向にずらしたりする事ではないはずだ。(むろんなかには、そういう「すりかえ」をして読むおとなもあろうが、それは別におとなに限ったことではない。この点については、前にも述べたとおりだ。)それは、だから、作品の主題を、主題のしめす方向にふかめて表現を「理解」しているわけである。そのことからも明らかなように、さっき『空気がなくなる日』がおとなにも楽しめる創作だといったのは、この作品の内容なり表現なりが、主題の示している方向に深まっていけば、おとな相手の文学としてもりっぱな作品になる、ということでもあるのだ。その反対に、たとえば、かつての『少年倶楽部』式児童文学を、それの向っている方向に主題をふかめていけば、そこに生まれてくるのは、俗流大衆文学か、お涙頂戴式三文通俗小説でしかないだろう。


    三 体験と準体験

 「あのとき、あそこで、きみのいったことは……」というような表現は、その時、その場にいあわせた、共通の体験をもつ者どうしのあいだでは、したしみ深くほんとうにぴったりしたいいあらわし方でもあろう。だが、かりにこんなふうな調子で書かれたハガキが、まちがってほかの人のところへ配達された場合を考えてみるとしよう。「あのとき」がいつの事なのか、「あそこ」というのが、いったい何処のことなのか、てんでチンプンカンプンだ。また、かりに、「あのとき」が何月何日の午前だか午後のことで、「あそこ」というのはどこそこのことだ、というような事を説明されてみたところで、「あのとき、あそこで」の体験を持たない者には、ほんとうにはその気分はわからない。
 けれど、また、たとえ直接「あのとき、あそこで」の体験をもたない人であっても、一度でもそれと同じような雰囲気を味わったことのある人なら、(そこに多少の情景の説明が伴いさえすれば)自分自身の体験をもとにして、「あのとき、あそこで」の他人の体験を、その心情にまで分け入って、かなり事細かに、かつかなりの正確さをもって理解し得るはずである。さらにまた、相手が現実にそうした気分にひたった事のない人であっても、そういう情況(ないし情景)のもとに身を置きさえすれば、すぐにもその雰囲気のなかにはいっていけるというふうな生活をして来ている人であったら、これも説明の仕様ひとつで、「あのとき」の気持はわかってもらえようというものである。
 文学の表現が成り立つのも、いわばこうした意味での体験の日常的共軛性――かならずしも共通性ではない、共軛性である――においてである。
 作家は、だから、読者が自分と共軛する体験の持ちぬしであるということを前提として、その安心感に立って、相手の体験の日常性に訴える表現(言葉の使用)をおこなっているわけなのだ。それを読者のほうからいえば、言葉によって描かれたこの現実を、自分々々の体験にしたがって裏打ちし肉づけすることで、なまなましく、場合によっては現実以上の現実として、それを受け取っているということなのだ。そのことは、また、こういうふうにもいえるだろう。作品の世界が示す人生と人生のありようとは、作家その人にとっても、また読者の側から見ても、自分がげんに体験している現実とは別のものである。触れあうところは、むろんあるが、しかも別のものなのである。にもかかわらず、現実がそうである以上になまなましく、いきいきとしているのが、この「描かれた現実」であるということなのだ。文学が文学として作用する――文学の表現が成り立つ――というのは、こういう場面をいうのだ。文学の表現を成り立たせるものは、つまり享受(読者による理解)である。
 人々は、文学作品の享受において、新しい人生を経験する。それは或いは、事がらそのものとしては自分の過去の体験につながるもの――経験ずみのことであるかも知れない。だが、当面した問題にたいして選んだ解決のコースは、かならずしも作中の人物のそれと同一ではない。この二つのコースは、或る点で触れあい、また或る点で交錯していながら、それでいて、けっして一つものではない。そこには別の人生がある。けれど、いま、自分は、この人物と連れ立って歩くことで、ナマの現実の体験とは別の体験を体験してみることが出来るのである。それで、歩いてみて、もしこの人生コースが楽しいもの(生き甲斐のある人生)だという事になったら、この新しい生き方を、自分自身の現実の生活のなかに持ち込むことも出来るのである。
 端的にいって、これが表現理解(享受)ということである。作品に表現された人生(描かれた現実)を準体験すること、これが享受である。
 ぼくは、いま、現実の人生コースにおけるナマの直接の体験と区別して、描かれた現実において人生を体験することを「準体験」(体験に準ずるもの)と呼んだが、(このいい方にしたがえば)準体験のなかに読者を誘い込むことが出来るかどうかということで、文学の表現の成否がきまるのである。準体験を成り立たせるものは、そして日常的体験の共軛性であった。日常的な生活の実感として触れあうものがなければ、読者はそこに「人生」を感じることはできない。だから、時代がちがい、環境(生活圏)がちがえば、その作品が文学としてのはたらきをしなくなるのは当然のことである。また、たとえば子供の実感に訴えて書かれた文学作品は、そのままでは文学としてのはたらきを「おたな」に対して持つことはできないし、おとな相手の文学の表現は、また子供にとっては、言葉の羅列(あるいは行列)いがいの何ものでもない。「ひじょうにえらい詩人だって、言葉の通じない国ではなにもできはしない。」と、ロダンもいっている。


    四 翻訳について

 ――「ひじょうにえらい詩人だって、言葉の通じない国ではなにもできはしない。」
 これは、さっきもいったように、ロダンの言葉だ。「言葉の通じない国では……」そこで外国の作品を日本語に訳すとか、同じ日本の作品であっても、古典はこれを現代語に訳して味わうというように、ちがった時代、ちがった生活圏(環境)のなかで作られた文学作品にたいしては「翻訳」という事がおこなわれる。それをたとえば、翻訳によらないで原書で何々を読んだというふうないい方があるが、そういう場合だって、それはたんに翻訳書を手にしなかったというだけの事でなのであって、自分でそれを翻訳しながら読んでいるという点では、やはり翻訳という手続きを経て読んでいるという事になるのだろう。つまり、ちがった生活圏の文学作品は、たんに言葉が別のものだ、用語法がちがうという事だけでなしに、体験(日常的共軛体験)そのものが別のものになってあいまったいるために、どうしてもこの翻訳という手段が必要になってくるのだ。
 翻訳というのは、だから、たんに言葉の壁を取り去る、というだけの仕事ではない。言葉の壁を突き破ることで、作品に表現されている異なる生活圏の体験(準体験)のどういうものであるかを客観的に捉えると同時に、それを、ぼくたちの生活圏の文学として再生産することである。それを、言葉のへだたりを埋めることが出来れば、それで体験のちがいをまで埋め尽くすことが出来たと考えるのは、誤まりである。言葉の壁を取り去ることでかえって明らかになるのは、作家や享受者(ほんらいの読者)と、ぼくたち今日ここにいる者との体験の(および体験の仕方)の相違であろう。
 翻訳というのは、だから、体験そのものを翻訳することであり、体験の要約としての思想を、歴史的ならびに現代的意義によって、こんにちの準体験として再生産することなのだ。そういう点の理解を欠いて、言葉だけをいくら「正確に」訳してみても、それは文学作品の翻訳としては、おそらく誤訳を結果するだけのことだろう。坪内逍遥の歌舞伎調によるシェイクスピア訳などは、そういう口調に翻訳することで、シェイクスピア作品のもつすぐれた市民精神を骨抜きにしてしまっているという点で、「正確な誤訳」のよう見本である。また、たとえば、せっかくフィレンツェの民衆語で書かれている『神曲』を、漢語まじりの雅文調で訳出するというようなのもばかげたことだ。(「ダンテが『神曲』をラテン語で書かずに、あえて当時俗語といやしめられていたイタリア語で書いたということは、忘れられない。すなわち、彼は『神曲』という大作を、いまのわが国の例でいえば、漢語の多い漢文風のいわゆる文語体の文章で書かずに、かな文字風の口語で書いたのである。そしてそれによって、やさしいそして美しいイタリア語を、新しくつくりだしたのである。」――羽仁五郎氏『ミケルアンジェロ』岩波新書)
 さらにまた、おとな相手の作品を、言葉だけいくらやさしくしてみたところで、それは子供の心情に訴える作品にはならない。これは前にもいったことだ。作品の主題を主題の方向において捉え、しかもそれを子供の現実(子供のいだいている生活の実感)に適うものとして翻訳(再生産)して、子供のことば(思想)として表現しなおすところに、おとな物の子供物への翻訳がおこなわれる。翻訳の名にあたいする翻訳というのは、くりかえすが、言葉の内容(体験・思想)そのものを、こんにちの生活の秩序のなかに準体験として再現しえたもののことである。(ついでながらいうと、さいきん流行の「世界名作ダイジェスト」と称するものには、たんに言葉だけを「婦人向」「子供向」にしたものや、原作の主題的な部分を切り捨てて、筋書きだけを「要約?」したものや、主題の方向そのものをぐるりと向きを換えさせてしまったり、というような、ひどいものが多い。これも、誤訳の一例だ。)
 それで、これもよく引かれる例だが、中国の思想家の書いたもの、たとえば論語だとか孟子だとか荘子というような本を、いわゆる同文同語の日本語に訳したもの(漢文)で読むより、ヨーロッパ語で読んだほうが、わかりもいいし、本当のところがつかめるというのは、翻訳というものが、どういうものでなければならないか、という事を示す適例である。
 話はもとへかえるが、ともかく文学というものは、共軛した体験の面で相手に訴えていくものだった。それで、体験のちがう相手にたいしては、翻訳ということを媒介にして相手に訴えるほかないわけだ。学校の国語教室でおこなわれている、文学教材の読みかた指導というのは、つまりこの翻訳による表現理解のしごとであるわけだ。ただ、残念なことに、指導するほうの側の教師自身が、文学というものの本当のところを理解していないという場合があるために、また、翻訳ということの意義をつかんでいないために、この翻訳ということが、ただの字句の解釈や「気のきいた」通釈に終ってしまったり、作品の鑑賞と称して、作品のつまらんところに感心することを生徒にしいたり、そのくせかんじんのところを見落したりという、とてつもないひどい事になっているのが一般だ。そこで、ぼくたちとしては、まず、文学の認識(準体験)と表現が、体験の日常的共軛性をなかだちとして、読者の理解(享受)にささえられて成り立つものであるという点の理解に出発して、翻訳ということの意義をしっかりつかんでおくことが大切である。
〔注〕この章で述べた事がらを、さらにぼくは、『現代児童文化講座』(双龍社版)に書いた文章の中で、別の側面から吟味してみた。対照して読んでいただけたらしあわせである。
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  第五章 認識としての文学

    一 文学の方法
     ――現象の典型化――

 作家と読者を、表現と享受とを結びつけるものは、体験の共軛的な日常性である。それだから、体験に共軛性のない(本質的な点で共軛性を欠いた)生活圏の文学作品は、翻訳という手段によってしか、その表現を理解することが出来ないのであった(第四章の四「翻訳について」の項参照)。これらのことは、今のぼくたちには明らかである。
 文学の表現の、だからしてまた文学の認識(準体験)のささえは、体験の日常性である。だが、そのことからして、文学の表現(ないし認識)そのものを日常的な性質のものだというふうに考えてはならない。それは、日常性に即しながら、それでいて日常性を越えたところに、生まれてくるものだ。どうしてか?
 文学する(創作する、享受する)ということは、作家その人にとっても、また読者にとっても、けっきょくは自分というものを見つめることだ、と普通にそういわれている。けれど、その自分というのは、作家にとって、読者いっぱんの生活と思想につながる自分であったはずだ(第三章の二「作家の主体」の項参照)。そういう自分というものは、もうただの日常的な自分ではない。たとえ自分の生活の日常には、ふるい思想や観念のワクからぬけきれぬものが残っているとしても、文学者としての自分は、そのような生活の実感をころして、民衆の心を心とすることで、創作にしたがわねばならぬわけだ。作家もまた、創作において別の人生を準体験するのである。準体験する(認識する)ということが、つまり創作する(表現する)ということなのである。だから、文学(形象)の世界は、作家が自分の体験の日常性(生活の実感)に即しつつ、しかもそれを越えたところに生まれてくる、ということになるのである。
 また、読者のほうからいうと、作品に描かれている人間の生活は、まがいもなく自分自身の生活につながるものを持っている。というよりは、自分のいいたかったこと、訴えたかったことが、そこに語られているのだ。言葉にあらわしえなかった自分の思いが、或る一つのまとまりをもち、或るきまった秩序にしたがって述べられているのだ。だが、その思考の秩序と生活のありようとは、自分の生活の日常におけるそれとは、かなりかけ離れた性質のものである。が、しかし、作品の表現が示しているような秩序(思想と行為)によらなければ、自分の思いは、けっきょく、言葉となって相手に訴えるちからになれないという事も、いまは明らかなのだ。つまり、こんなふうにして、読者は、日常的な生活の実感のワクのなかで文学を享受することをとおして、実はかえって非日常的な体験を体験させられるというわけなのだ。
 だからこそ、文学は、作家にとっても、読者にとっても、自分というものをきたえてくれる現実のちからである、という事になるのだ。

 そのことは、また、こうもいえるだろう。
 科学者のしごとが、ただたんに現象の変化の仕方を書きとめるということに終るのでなくて、どうしてこういう現象が起こるのかという事をつきとめ、また、この現象とほかの現象との関係をきわめて、現象そのものの本質を明らかにすることに、仕事そのものの目標があるように、文学者のしごとも、やはり現象のうわべだけを眺めて、それを文章に書きあらわすという事ではないはずだ。それは、科学者の場合と同じように、めざすところは、現象をその本質において捉えるということだろう。だが、その場合、科学は、現象の一般化、体験の非日常化という方法によって、それをおこなっている。文学は、ちがう。それとは軸を異にしている。
 たとえば、ここに三本の鉛筆がある。また、紙が三枚に、本が三冊ある。科学のやりくちは、この三つの事がらを「数」の面からは「三」という言葉(観念)にまとめあげる。「三」という数は、けれど言葉としてそういうものがある、観念としてそういうものが考えられるというだけの事なのであって、実際にはそんなものはない。あるのは、三本の鉛筆であり三枚の紙であるのだ。だが、三とか四とかという、そういう形のない抽象的な数の観念が自分にこなせるようになってきて、はじめて実際生活を生きる(生活をいとなむ)事も出来ようというものなのだ。さらに、この数の観念を、もっと抽象的なAとかBとかXとかYというような文字で表象することが出来るようになって、ぼくたちの日常的な体験からぐんと離れた、一般的なものになり、またさらに、それが微積分的認識にまで非日常化され、物理学のことば(認識手段)となることによって、こんどはぼくたちの日常生活そのものに大きな影響と変化を与えるものになってくる。人類の生活にこの原子力時代をもたらしたものが何であるかを考えれば、そのことは明らかだろう。
 文学の方法は、科学のそれとはおもむきを異にしている。それは、現象を一般化するのではなくて、典型化するのである。それを別の言葉でいうと、日常的体験(生活の実感)を、たんに抽象的に捉える(一般化して捉える)のではなくて、非日常的なものをなかだちにして、別の体験に移っていく、という事なのである。別の体験というのが、つまり、典型的な生活面における体験(準体験)のことだし、また、ここに非日常的なものというのは、たんに理論的・一般的認識のことではなくて、そうした新しい体験(準体験)に作者や読者をみちびき入れる、知性の実感のことだ。それで、たとえば、作家が自分自身の生活の日常をそれとして描いた、身辺小説とか私小説というようなものでさえ、やはりいちおうは読者の生活や思想につながるところの自分というものを捉えて、そうした生活面における自分を強調して描きあらわしているわけなのだから、そうした作品でも、或る程度の典型化は、おこなっているのだ、という事になるのだろう。現象の典型化というのは、つまり、典型的な現象をもとめて問題をキワ立たせる、ハッキリさせる、ということなのだ。この点を、もうすこし具体的に考えてみよう。
 たとえば、前に挙げた『空気がなくなる日』という作品であるが、あそこで扱われていたような事件というものは、そうそうしょっちゅうあることではない。だが、しかし、含むところがあって、相手にケチをつけるための作りごとをひとに喋べる、というようなことや、根も葉もないそういうデマが「ほんとうのこと」としてひとのウワサにのぼるようになって本人がひどく当惑するというような事は、どこにでもあることだ。
 そういうデマというものの性質をよく考えてみれば、それは、けっきょく、損得ということに絡んで起こることなのだし、つまりは、めいめいの小さな利害にこだわって、みんなが、みんなに共通した大きな利害を見落しているところに起こることなのだ。だから、あることないこと、ひとの悪口をいってみたり、また、自分のこととなるとあわて出すくせに、ふだん殊更そういう話題を好んで求めたがったりする、そういう奴隷根性が、民衆相互の結びつきをバラバラにして、相手に乗ぜられるスキを作っている、ということにもなるのだ。そのあげくは、相手が自分たちを苦しめるために作ったデマを、自分たち自身の手であっちこっちにばらまいて、いっそう手ひどい苦しみを味わうという結果にもなるのである。だから、また、うわさとかデマというものは、それがぼくたちにとって珍しい事がらでないだけに、問題はかえって大きいのだ。しかし、たいていの人は、そういうことに気がついていないから、求めて自分からデマの運搬人になったりもしているわけなのだ。
 デマとは、そうしたものだ。そこで、捨ててはおけない問題だということを訴えるのには、まず出来るだけたくさんのデマの例を集め、その実例にもとずいて、それの性質や種類によるデマの分類をおこない、デマがどうして生まれるかという事や、それがどんなふうな手続きと経路で大勢のひとに伝わって行くものなのかという事や、デマの挙げた実際の効果はどんなものかということなどを、一般化して説明しなければならない。いいかえると、それを抽象化して整理するのである。そういう整理が進めば、敵の戦法も具体的にわかり、実際の対策もたてられる、ということなのである。これは、つまり、科学という手段による訴えかたである。(科学の方法は、つまり、なまなましい日常的な現象を非日常化し抽象化することで、かえって逆に、そういう日常的な現象の本当のところを具体的に明らかにするのである。)
 そういう科学の方法以外に、もう一つの方法がある。そのもう一つの訴えかたというのは、つまり文学やその他の芸術によるそれである。文学という手段による場合でも、むろんそういう理論的・一般的認識は必要なのだ。ただそれが、事がらの一般的な認識にとどまっているかぎり、文学にはならない。すくなくとも、その理論的認識(科学的世界像)は、知性の実感(科学的世界観)にまで日常化され主体化されなくてはならない。それがさらに、知性の実感を媒介にして感情の面にまでしみとおり、感性の実感にまで肉体化され日常化されたら、それはほんものだ。知性と感情とが一つものに溶けあったところに生まれる生活の実感、そうした実感にささえられたものが、つまり思想なのだが、そういう一般的な認識が文学者の思想にまで主体化されてきたら、その作品は幅と厚みのある堂々たる文学作品にもなろうというものだ。そういう作品は、文学にとって、だからまた、ひとしく文学にたずさわる人々のいだく美しい夢である。夢を現実に置きかえようとして、人々の努力が、いま、そこに傾けられているわけなのだが、この過渡期にそれを望むことは、ほんとうをいえばむずかしい。むずかしい証拠には、現代の知性(合理精神)に生きようとする作品のほとんどが、事象にたいする非日常的・一般的認識を、――つまり、科学的認識による事がらの説明を、たんにそれとして、日常生活にあてはめてお説教したみたいなものに終っている事からもわかるだろう。
 で、それが文学作品であるからには、一般的認識は、すくなくとも知性の実感にまで、内に深められなくてはならない。そして、この一般的・理論的認識によって高められた知性の実感を媒介として、感性の実感は、もはやたんに本能的な直感としてでなく、知性の光に輝くものとして、常識のしょぼしょぼまなこからは、ありふれた平凡なものにしか見えぬ日常的な現象のなかから、時代に共通する本質的な問題、時代のもっとも新しい問題を、いわば準体験的・日常的な感覚においてさぐり当て、それを典型的な生活面に移して、具象的にくっきりと描きあらわすのである。
 『空気がなくなる日』に描かれたような事件は、日常そうざらにあることではない。だが、それをひとまわり、ふたまわり小さくしたような事件は、奴隷のことば(思想)が支配するこんにちの社会では、毎日どこかしらで起っている。『空気がなくなる日』の事件は、いわばそういうかずかずの小事件を、デマという問題の焦点に合わせて拡大撮影したものだ。その拡大のしかたや拡大の程度は、読者である小さいひと、若いひとの生活の実感に応じてきめられている。そのことを、もうすこしきっぱりしたいい方であらわすと、そうした事件が大きな問題をはらんでいるという事が、読者になっとく行く程度にまで、事件そのものを特殊化し、拡大しているということなのだ。それは、現象を典型化することで問題を浮び上がらせるということなのであって、現象のもつ日常性をころすことで問題を一般化して捉える(科学の方法)のとは、方法的にいっても、また、対象のとり方からいっても、まるで違っている。


    二 抽象的と具体的と
     ――文学の認識(表現)手段――

 ぼくたちが日常そこで生活している現実が、なまなましくいきいきとしているのに、科学の表象する世界は、抽象的で一面的だという非難がある。そういうところから、また、科学的認識の限界を云々するようなギロンもあらわれてきて、非合理主義への横すべりがおこなわれてもいる。それで、ぼくとしても、いちおうこの問題に触れておく必要がありそうに思われる。というのは、文学の認識も、やはり、科学と同様、言葉というもっとも抽象的な認識・表現の手段を使っての現実把握であるからだ。つまり、科学がそうであるのとは軸が違うけれど、文学もまた十分抽象的であるからだ。

 ぼくたちは、自分が体験によって身につけた知識――日常的な知識(常識)を信頼して生きている。これがいちばん具体的で実際に役立つ知識だと考えている。それは「この目で見た現実」であるからだ。だが、ほんとうをいえば、自分にとっていちばん確かで具体的だと思われる、この日常的・体験的なものほど、抽象的なものはないのである。つまり、人々は、自分の置かれている生活の場面々々から、一方的・一面的にこの世界(客体)を抽象して、めいめいの「現実」をそこに作り上げている、ということなのだ。その限り、現実というのは主観的なものだ。主観的・抽象的なこの自我の小宇宙が、自分自身にとって具体的なものとして感じられる(実感される)のは、自分の生きている生活面のワクの規定が自分自身に自覚されていないからである。人々が、体験のこの抽象性に気づかないのは、色盲が自分の欠陥を感じていないようなものだ。
 体験のこの抽象性について、乾孝氏の挙げている例は、おもしろい。「例えば、ここに一つの茶碗がある。この茶碗の向う側は私には見えない。にもかかわらず、私はこの茶碗を全体感をもって知覚している。しかも、これを遠近法的に歪められた姿で知覚する一方、同時にその平面図的ないし縦断図的像をもまた知覚している。」(『大衆映画論』――野火、一九四〇・二)つまり、向う側から見ればああなっているし、上から見れば……という知識が、日常生活におけるこの具体的な全体感のささえなのだ。「この知覚の二重性こそ、人間相互の交通の可能性の源であり、科学の成立しうる基礎なのだ。一身上の自分の見解を越えて『上から見れば円い』と判断しうる、茶碗上無限大の距離にある立場こそ、科学的本質を直視しうる立場なのだ。私の隣りの人間に『これはちょつといいだろう』という。彼はこのほとんど規定性をもたぬ表現をすぐ了解して『ウン』という。この場合、われわれは、その身体的生活場面を同じくしているゆえに、それ以上の言語的規定を要しないのだ。……もし、私たちが、表現を規定性の極におしつめ、いついかなる所にいる人間にも通じるようにしようとすれば、生活場面における具体性は犠牲にされ、したがってそのなまなましさは失われてしまう。が、ここからただちに、科学的表現の『弱点』を云々してはならない。そのなまなましさは、その表現の抽象性を自覚し、理解者の体験によって裏づければ、ここに具体的な像が再現されるからだ。」(同上)つまり、科学の認識と表現とは、こうした手続きを経ることで、現実の体験がそうである以上に具体的なものになり、いやむしろ、日常的体験の抽象性を自覚させる役割を果たすのである。
 同じこの文脈から文学の役割を説明すると、文学の認識もまた、日常的現実体験の抽象性を自覚するためのものだ、という事になろう。つまり、いつもは気づかないでいる生活のワクを自覚することで、現実を見直す、ということなのである。ただ、それを、科学のように「いついかなる所にいる人間にも通じるような」手段によっておこなうのでなく、身体的生活場面を同じくしている人間の立場においておこなうのである。いいかえれば、文学は、超個人的・普遍的な立場に立つのではなくて、多である現実の一つに身を置いて、現実の内側から現実そのものを追求していこうとするのである。それを、表現する者の立場からいえば、文学の作家が、自分の認識の対象として見つめるものが、知性の実感に媒介された、読者のそれに通ずる自分の日常的な実感であり、そうした実感にささえられた思想によるところの現実認識であるという点に、科学的認識との違いがあるのだ。だから、科学の認識が客観的であるといわれるのに対して、文学のそれは主体的であるなどともいわれている。
 科学の認識が客観的で、文学的認識は主体的だという考えには、ぼくは実は異論がある。科学の認識だって主体的だし、それが主体的なものだからこそ、科学の客観性が保障される、という関係にあるからだ。だが、この点については、あとでゆっくり考えるとして(第五章の三「実感の分析」の項参照)、文学の認識が主体的であるということは、それが主観的なものだという事ではない。現実の内側から考えていくといっても、それは自分の日常的な実感にあまえて、自我の小宇宙を絶対のものとするという事ではなかったはすだ。むしろ、そうした狭い自我(主観的現実)を乗り越えさせてくれるのが文学であればこそ、科学に対すると同様、ぼくたちは、文学に身を打ち込まずにはおれないのである。
 主体や実感の尊重ということを語ることで、自分の主観をあまやかしてはいけない。過去のすぐれた芸術家たちが、自分の「かん」だけを頼りにあれ程りっぱな仕事をやってのけたという事を理由に、文学にとって理論的な認識など何ものでもないなどと考えたら、それこそとんでもない話だ。「かん」だけが拠り所だったから、過去の文学は、きょくたんな反動時代には、手も足も出なくなって沈黙してしまう事にもなったのだ。で、その「かん」というのだが、こんにちのぼくたちの目から見て「かん」に過ぎないと見えるものが、実はその当時におけるいちばん高い知性の水準を示すものであるということだ。現代の知性は、科学的認識にもとずく合理的なものの見かたに裏打ちされたものだ。科学の認識を否定して、こんにちの文学はありえない。

 ところで、ここに文学と科学との相違する点の一つとして考えられるのは、科学にあっては、認識と表現とはかならずしも一つものではないけれど、文学においては、認識することが同時に表現することであるという、認識即表現の関係が成り立っているということだ。つまり、科学においては、研究様式と叙述様式とはむしろ別のものだが、文学においては、認識様式と表現様式とは、一であって二ではない。文学の創作過程は、非日常的・一般的な角度からまず現実を認識しておいて、さてその次に、認識内容そのものを文学という形式に移して表現するというようなものではないわけだ。一般的な認識は、文学以前のことにぞくしている。この「文学以前」が文学そのものを縛るか縛らないかは、その理論的認識が、作家その人の知性の実感にまで深められて来ているかどうかできまる。文学の作家は、知性の実感に媒介された、自分の日常的な生活の実感において、問題を認識するのである。日常的な実感というのが、読者の思想に通うそれであることは、繰り返すまでもあるまい。また、どういう問題がそこに選ばれるかという事をきめるものが、作家の知性の実感であるということも、しぜん明らかだろう。知性の実感において問題が捉えられずに、たんに一般的な認識において問題が提出されているというような場合、だからそれは「観念が先き走りした作品」になってしまうのだ。 さて、ここまでくると、ハッキリするだろう。作家のもつ知性の実感というものも、やはり読者のそれにつながるものだということが。
 そこで、話をもとへ戻して、認識と表現との関係において見られる、文学と科学とのこうした違いがどこから生まれるかといえば、それは、科学の認識が普遍的・一般的であろうとするため、規定性の極に達した用語を選ぶのに対して、文学のそれは、限られた一定の生活場面に立つ人々の認識の代行として、見ようによっては無規定とも思われる、きわめて融通性に富んだ用語法によっている、という事にもとづいている。たとえば、「三角形の内角の和は二直角である。」というのと、それは「……二直角だ。」というふうに表現しようと、認識内容そのものにはなんの変りもないのが、科学の場合である。それは、つまり、「だ」と「である」という二つの言葉が、言葉のニュアンスのちがいは別として、語義(言葉の規定性)そのものからいえば同一だからである。ところで、文学にあっては、このニュアンスが問題なのである。「そんなの、ないよ」といったって、また「そんなのないわよ。」といったって、語義に変りははないからかまわない、ではすまされない。これは、すくなくとも、東京という地域に住む人間の実際と実感を無視している。これでは、形象的(準体験的)認識であるとはいえないし、文学の表現であるとはいえない。
 文学の表現は、それで、言葉のあやをぎりぎりのところまで生かそうとする。そのことを、文学は融通性の面における言葉の使用だ、といった人もある。つまり、日常ぼくたちが使っている言葉というものは、言葉ほんらいの規定的な意味におけるそれと、規定的な意味をはなれた、きわめて融通にとんだものとの組み合せなのだ。科学の言葉(規定性における言葉の使用)としては、あるきまった波長の長さやその状態をあらわす「赤」とか「赤い」という言葉が、日常生活の面では「左翼的」とか「進歩的」というような意味にも、また、「赤い心」とか「赤誠」という熟語になって、「こころのまこと」というような意味にも、融通して用いられている。言葉の芸術である文学が、融通性の面における言葉のあやを生かした表現を選ぶのは当然のことである。芸術は、がんらい、享受者の日常的な生活感情の波間を縫い、その起伏にそって問題を認識し表現しようとするものだから。


    三 「実感」の分析
     ――いわゆる「主体性」論にふれて――

 科学の認識は客観的で、文学のそれは主体的であるという考えが、存外いっぱんに行き渡っている(前節参照)。客観的と主体的――これが科学と文学との認識の仕方の違いであり、認識の性質そのものの違いだ、というのである。
 客観的と主体的――むろん、そういうふうにいったって構わないのだけれど、それだから科学の認識の分野では主体(認識する主体の実感)というようなことは問題にならないとか、文学のほうでは逆にこの「実感」だけが問題なのであって、理論的認識など何ものでもない、というようなズレた議論におちいりがちなので困るのだ。結論を先きにいうと、科学を成り立たせているものも、また、文学を文学として成り立たせているものも、それは、この主体(人間)の実感にほかならない、ということなのだ。違いは、たんに、理解者の実感のワクの仕切りをどこに求め、その理解の通路をどこに見いだすか、という点にあるだけだ。人間を離れ、人間の実生活を離れて、文学も科学もなにもあったものではない。

 そこで、まず、「実感」とは何かということだが、それはまた同時に、主体(人間)とは何かということ、主体を主体をして成り立たせている主体性(人間性)のどういうものか、ということの問題でもある。ここに思い出さずにおれないのは、戦後、文壇ジャーナリズムの問題となり、次いで哲学の分野に波及していった主体性論争である。
 この論争で取り上げられた問題の範囲はかなり広いが、戦前から戦後に持ち越された人間観――「歴史的・社会的なものが人間を決定するという見解」* の一面性・抽象性が論議の一つの焦点であった。それをもう少しくわしくいうと、この「歴史的・社会的なもの」(客体)が人間(主体)を決定している側面のあることは確かだが、「社会的・経済的・歴史的に決定し尽されない何かが」やはり人間にはあるということ、そしてその何かが、いま「主体性という言葉で表されている」* 当のものであることなどがそこで語られ、そして「主体とは?……」「主体性とは?……」ということが改めて論議しなおされたあげく、「人間を決定するものは、心理学的なもの、あるいは更にその基礎にある人間の生理的な地盤から生ずるいろいろの条件である」ことが結論された(?)のであった。(* 引用は『世界』一九四八年二月号に拠る)一方、それはあまり一面的な人間の捉え方ではないかと非難されたほうの側からも、自分たちは「これまで人間のことをあまり扱わない」* で過ごしてしまったことや、実際に「人間軽視の考え方」* をしていたということや、また「人間を抽象的にのみ見る考え方」* に囚われていたということなどの反省がなされて、いよいよこの結論は揺がないもののような形になっていった。(* 引用は『理論』第八号による。)
 ところで、「主体とは?」というような問題がそこで追求されたのはどうしてかというと、目ざすところは人によっていろいろである。「歴史的に決定し尽くされない何かがある」ことを認めたうえで(現実と主体とのズレを認めたうえで)、客体のありようを正しく反映した理論的認識――「公式が、実際実現されるための文学的実践的な主体の新しい形成をもとめて」の探究である場合もあったし、また、そうではなくて、矛盾のあるのが人間というものだから、というので、矛盾した自分というものを(或いは矛盾に満ちた自分の実感を)それとして肯定してしまうための問題探究である、という以外考えようのないようなギロンも見られた。そして、どちらかというと、この矛盾を認めることで自分を甘やかすというためのギロンが多かったようである。
 ところで、いま、ぼくたちが、ここにとり急いで「主体とは?」というような問いを出さなくてならないのは、それは何も自分の「実感」を甘やかすためではなかったはずだし、矛盾だらけの自分についていい逃れの口実を見つけるためでもなかったはずだ。すくなくとも、それは、ぼくたちにとっては、科学的な認識理論(あるいは科学的世界像)を、行動の体系としての世界観にまで主体化す(実感として身につける)ためにこそ必要であったわけだ。それもこれも、ぼくたち自身の思考と行動とを歪みのないまっとうなものにするためにである。いいかえると、正しい科学理論を自分の実感としてしっかりと身につけないことには、まともには生きていけないぐらい、むずかしい世の中になっている、ということなのである。
 で、話がここまで進むと、幾分はっきりして来ると思うのだが、主体を主体として成り立たせているものが、歴史社会的に決定し尽されない何か、というような、それこそ何かモヤモヤしたもの――つまり、自我の奥深い所にひそんでいる「知られざる或るもの」といった、単なる内部的・主観的なものでないことも、また明らかだろう。たんに主観的なものは主体的なものではない。主体(人間)は、現実的で具体的なものだ。それは、また、単なる心理、単なる生理というようなものではない。実をいうと、心理や生理というような、なまみの肉体のはたらきも、それはたんに「自然」として、生得のものとして自然法則にしたがうものではない。むしろ、そうした肉体のはたらきすらもが「社会的なもの」としてあるということこそが、人間を主体として、ほかの自然物から区別している当のものなのである。(なお、この点、第六章、四「肉体と精神」の項参照。)
 それで、まず、自分の実感から鍛えなおすことで、主体を歪みないものにするという場合の、その実感は、人間の生活のいとなみを規制する、行動の体系としての実感のことだ。行動の体系としての実感――それこそ世界観(世界直観 Weltanschaung)という言葉のもつほんらいの意味だろう。だから、「世界観だけでは……」でなくて、世界観なしには、人間は、なにひとつ人間らしいいとなみをいとなむことは出来ないのだ。で、実をいえば、問題にするネウチのある「実感」というのは、こういう文脈で理解される実感に限られるといってもいいすぎではない。(話をちょっと横すべりさせるが、ひとが「世界観だけではスケッチひとつかけない」という場合の、世界観というのは、実は世界観プロパアのことではなくて、世界観として主体に翻訳される以前の科学的世界像、概念的一般的認識というようなものの事ではないか、とも思えるのだ。ともかく概念規定のあいまいさから来る用語の混乱が、思いのほかに主体性論争を錯綜に導いていたのではあるまいか。)
 それで、つまり、「実感」というのは、行動の体系のことだった。行動の体系としての実感は、それが体系としての組織とまとまりを持つことで、やはり概念に規制された概念的なものであると考えられなくてはならない。実際問題を実地に解決するための、それは、言葉(概念)を足場とした行動の代行にほかならない。「理論的な克服だけで事物は決して現実的に克服されるものでないことは明らかだが、逆に理論的な克服なしに実際的な克服を全うすることは実際的にいって出来ないことだ。」と、ある哲学者はいった。で、そういう意味での理論的な克服は、実感の裏づけなしにはおこなわれない。事物の克服を必要とする主体のがわの主体的な要求(そういうことを必要とするなまみの人間の実感)が、この場合、理論のささえなのだ。それでまた、逆に、この実感は、既成の理論的成果(いわゆる公式)を拠りどころとすることで成り立ち、また、新しい成果を自分の思想のうちに生かすことで、実感は深まりもし高まりもする、という関係なのだ。この点の認識が、さしずめ、いま、だいじなのだ。
 ついでにいうと、科学も、それが人間の自由と解放に役立ついきいきとしたものであるためには、そこに実感による裏打ちが必要になって来るのだ。科学が人間の社会意識と結びついたもの――イデオロギーであるといわれているのも、それが主体的なものである(一定の立場において認識が進められている)という事につながっている。また、科学がもともと主体的なものであるからこそ、それの当面のにない手が誰であるかということにより、科学そのもの・理論そのものの真偽がきまり、客観性のあるなしがきまるという事にもなるのである。
 形象のことばによる芸術にしたところが、同じことだ。誰が、どういう主体が、それの現実のにない手であるのかということによって、芸術そのものの性質――性質という言葉は、いまのかぎり、方法といいかえても世界観という言葉に置き換えてもいい――が具体的にきまるのだ。ただ、見落されてならないのは、このにない手の中軸が作家にあるのではなくて、中心はむしろ享受者であるということだ。
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  第六章 思想と文学

    一 実感と思想と言葉と

 文学のささえが「実感」であるというのは、それはなにも実感のワクに文学が縛られるということではなかったはずだ。むしろ、実感のワクを越えるところに、文学は成り立つのであった。それを、もっときっぱりしたいい方をすると、実感を越えることの出来ないようなものは、文学としてみてもロクなものではない、という事である。同じ私小説という名前で呼ばれていながらも、『哀しき父』や『子をつれて』などの前期の葛西善蔵の作品が、作家が作家自身の実感をいちおう突っ撥ねて自分の私生活を描いてみせているところに、作家の私生活というこの「特殊」が「一般」につながるものを持ち、ひろくふかく読者の共感を誘うものとなり得たことや、その反対に、同じ作家のものでありながら『不良児』『おせい』『湖畔手記』などの作品が、作家その人の呟やきをそれとしてナマの形で吐き出したようなものとなってしまったときに(実感が実感として言葉になったときに)、それが文学としてふくらみのない幅の狭いものになって行ったことなどは、そのいい例である。だから、そういう意味では、実感は、作家と読者を、また読者と読者とを結びつける「通路」であり、足場であり、手掛かりであるにすぎない。(第5章、一「文学の方法」および三「実感の分析」の項参照)また、そういう意味では、文学のささえは「実感」であるよりは、むしろ、そうした実感を足場とし、通路とした「思想」であるということができよう。いま、そのことについて考えてみよう。

 言葉にいいあらわされないものを思想と呼ぶことはできない。思想は「ことば」である。言葉にいいあらわされるということは、体験が生きた知識の体系として纏められるということだ。どうしてそういう事になるのかというと、言葉というものが、もともと、自分の体験を相手に伝えるための手段として作られたものだという事による。自分の体験を他人に発表できるくらいにまで体験そのものを整理することによって言葉がもたらされ、また、言葉を手段として考えることで、必要な体験とムダな体験とが見分けられ、自分にとってたいせつだと思われる体験が知識として保存されて、こんごの生活に役立てられるというわけなのだ。言葉は、このようにして、現実認識・自己認識の手段である。――(第五章、二「抽象的と具体的と」の項参照)そして、だいじなことは、その知識が、生活の生きた仕組み(体系)のなかに織り込まれていくという点だ。だからこそ、それは、生活の実際に役立つことにもなるわけなのだ。体系としてのつながりも纏まりも持たない知識のカケラは、それをいくら寄せ集めてみたところで、きびしい人生を生き抜くうえのたしにはならない。思想は、人間の生活の実践からうまれてくる。と同時に、逆に人間の行動そのものを方向づけるはたらきを持っている。そういうはたらきを持たない、単なる知識は、それを思想と呼ぶことはできない。

 ところで、言葉に要約された体験が思想であるというのは、思想が固定的な傾向を持っているということだ。言葉はほんらい、ものごとを固定的に――といって当たらなければ、或る規定のもとにものごとを捉えるために作られたものだ。それは、規定的にものごとを捉え、あらわすことによって、自分の考えを誤まりなく相手につたえ、また、相手の考えを誤まりなく理解する、そういうための手だて(認識・表現の手段)であったはずだ、「丸い」という言葉は、こうして丸いもの以外を指すことはできない。けれど、また、四角なものを丸いと見誤まって、それを一度、「丸い」といってしまえば、すくなくとも言葉の上だけでは、それは丸いものに化せられてしまうのである。
 思想は、体験の言葉への翻訳として、言葉の運命に殉じなくてはならない。体験は言葉をして整理されることで、体験の仕方そのものを一つの方向に固定し、縛りつけ、だからまた、ものごとに対するその人の感じ方や、受け取り方や、判断や、さらにまたそのとりさばきかた(行動)までもを、そうした一つの方向に導いていく、生きた現実のちからとなるのである。
 思想というものは、こんなふうに、また、こんなものとして、多かれ少なかれ、固定的な――われとわが身を一つの方向に縛りつける傾向を持っている。どうしてかといえば、それは単なる知識、ネクタイ代りの「教養」的知識ではなくて、なまなましい自分の生活体験に裏づけられた、生きた知識の体系であるからだ。
 思想は、ふつうにそう考えられているように、たんに「頭」の問題ではない。思想は、むしろ「胸」なのだ。知性と感情(知性の実感と感性の実感)とが、分かちがたくひとつものに溶け合ったところに、はじめて思想と呼ばれるものが芽生えてくる。であればこそ、思想は不死身なのだ。不死身といったのは、むろん言葉のあやだし、いいすぎだけど、すくなくとも、ちょっとやそっと痛いところを突かれ、自分の考えのいたらない点や不合理な点をほじくられたところで、そんな事ではたじろぎも身じろぎもしないというのが、思想というもののカタクナさである。それというのも、つまり、思想というものが、身についた知識――行動の体系としての知識の再整理・集約であるからだ。
 思想は、いわば住みなれた家だ。垣根がこわれ、のきがかしいだくらいでは、立ち退く気にもなれない、というのが普通だろう。多少住み心地は悪くなっても、雨風をしのぐのにかくべつ不便を感じないし、それに何より馴れだ、習慣だ。はたの目からはどんなに使いにくそうに見えても、また、どんなに汚ならしくあぶなっかしく見えようとも、ぼくにとってはこの住みなれたこの家がいちばんしっくり来るのだ。間取りのぐあいや台所の造りの不合理さ、そうした不合理な設計からくる日常生活の不便を、ぼくはかくべつ不便とは感じていない。だぶだぶの放出衣料にからだのほうを合わせるのと同じように、生活のほうを家の造りに合わせて暮らしを立てているというしだいだ。もともと生活のためにあるはずの家が、生活のありようそのものを規定していく、という関係がそこに生まれて来るのである。そして、やがて人々は、不便を不便として感じないばかりか、それを便利にさえ感じるようになっていく。そこで、生活の便利のために作られた言葉が、かえって生活そのものを縛りつけ、思想が生活のありようそのものを固定化させる、ということにもなるのだ。このようにして、もともと生活の実際に合わせて作られた言葉(思想)が世の中の進むにつれ、生活のありようそのものの変化するのに伴って、現実(世の中の実際・生活の実際)と矛盾するようになっても、それは現実のほうが間違っているのであって、現実を写した言葉のほうがほんものでほんとうだと考える、妙な錯誤を生じてくる。つまり、鏡に映った顔がほんものの顔で、顔そのものは顔(鏡の中の顔)のマボロシにすぎない、というわけなのだ。いま、げんに、そうした勘違いをもとにした、さか立ちした観念が、哲学や芸術の世界で大きくのさばり返っている。
 実感にもたれかかった(自分を甘やかした)思想というのは、こうしたものでしかない。


    二 現実の反映

 世の中は、移り変るものだ。進歩するものだ。運動ということこそ、自然と人生をつらぬく歴史の根本法則なのだ。こちらが動かなくとも、相手は動いている。いや、動かないと思うのはまちがいで、それは自分が一歩あとずさりしたということ、世の中の進歩から取り残されたということである。新しいものも、時がたてば古くなる。進んだ思想といわれるものも、そのままの考えを続けていたのでは、やがては黴くさく遅れた思想になってしまうだろう。それは、思想が固定的な傾向を持つのに反して、現実のほうがどしどし先きに進むからだ。歴史に停滞ということはない。置き去りにされ、取り残された思想。これが、しかし思想というものの運命である。思想が時代の子であるといわれていることの半面は、これである。
 そこで、思想と現実との関係を、自分の肖像写真と自分自身との関係にたとえてみることが出来るだろう。
 いま、ぼくの机の上には二枚の写真が載せられている。一枚は三十年前の、つまりぼくの赤ん坊のころの写真だ。もう一つのほうはというと、ついこのあいだ写したばかりのものである。二枚が二枚とも、ぼくの肖像写真であることにまちがいはない。そして、また、それがどういう角度からの撮影であるかということは別として、どちらの写真も、やはりぼくの「ありのまま」を写しだしたものである。
 だが、赤ん坊の時分の写真をひねくりまわして、目がどうの口がどうのといってみたところで、今のぼくの顔かたちを理解する上にはほとんど役立たないばかりか、そういうことが目当てだったら、そんなマネをするのはムダなばかげた話だ。今のぼくを知る人が見てこそ、この写真も、むかしと今とのつながりや、その間の変化を知るための材料にもなり得るというわけのものだ。見合いの写真に自分の赤ん坊の時分の写真を送るバカはあるまいし、また、相手の赤ん坊のころの目鼻立ちを問題にして、お嫁さんを選ぶような非常識な人もまさかあるまい。ところが、このまさかが、思想と現実との関係においてはりっぱに成り立つのだ。
 このたとえで、「写真」はむろん「思想」を意味しているし、「ぼく」というのは「現実」のことである。赤ん坊からおとなへの成長といったのは、断る迄もあるまいが、現実そのものの移り、変化を指していっているわけだ。前のたとえで、鏡に映った顔とほんものの顔の例を挙げたが(第六章、一「実感と思想と言葉と」の項参照)、あそこに見られる関係がもとになっての、カン違いがそこにあるのだ。つまり、写真のほうが実物で、なまみのぼく自身はたんにそれを敷写しにしたものに過ぎないという、あの錯誤である。そこで、赤ん坊の時分の目鼻立ちを拠りどころにして、おとなになったぼくの顔かたちを詮議するというようなことにもなるのである。そればかりか、ぼくがおとなになったというのは実はウソで、この写真が示しているとおり、おまえはほんとうはまだヨチヨチ歩きの赤ん坊にすぎないのだ、というていの論法をここに持ち込むのである。
 写真にうつっている赤ん坊が、ぼくである(あった)ことにまちがいはない。今のぼくと似てもつかないからといって、それがぼくでないというのは正しくない。けれど、まだ会ったこともない未知の人に、今のぼくとうものをわからせるためには、もう一枚の、おとなになってからの写真のほうを見せなくてはなるまい。このほうの写真は、今のぼくを知っている人にとっても、ふだん気づかなかった顔かたちの或る特徴を、はっきりと図式化して自覚させるという点で、大いに役立つわけなのだ。
 つまり、思想というものは、現実を自覚的に捉えたところに生まれて来るものなのだ。それは、もう単なる実感ではない。もっとも、思想とそうひと口にはいっても、思想にもピンからキリまであるのだから、その自覚というものにも、「無自覚の自覚」という程度のものもある。「あの人には思想がない」とか――つまり、「無思想」とか「思想以前」というふうな言葉を使ってあらわされるのは、こうした場合を指すのである。けれど、それがともかく或つ角度、ある座標軸によって現実を捉えたものだということだけは確かである。
 思想は、もともと、知性だけを手がかりとした現実の認識ではない。知性による認識が日常的な生活感情のすみずみ迄しみとおり、そのことによって感情そのものが高められ、また、そのようにして高められた感情においてもう一度現実をかえりみ、現実に触れたときに生まれて来るのが「思想」というものなのである。だから、思想は、むしろ、感情(実感)による現実の認識であるという事すらできるだろう。(そして、だいじなことは、思想がやはり現実の認識であるという点だ。)もっとも、その感情の高さは知性の高さに比例するし、だから思想の高さは、けっきょくその当人の知性の高さに比例することにもなるわけだが。
 誤解のないように断っておくが、今ここで知性といったのは、行動の体系として主体化された知識の一定の仕組み(ないし主体的に体系づけられた知識)のことであって、そういう組織づけを持たない、バラバラの知識のあれこれを指しているのではない。むろん、知性にもいろいろある。高い知性、低い知性。ゆたかな知性と、まずしい知性。だが、それが、いちおう内化され身体化され、自分のものとなった知識であるということにまちがいはない。自分というもの(主体)において纏められ統一されることによって、知識は、広い意味での生活の体系(しくみ)のなかに席を占めるようになるのである。世間ですぐれた科学者だといわれている人が、オガミヤの「御神託」を信用する程度に、遅れた低い思想の持ちぬしであるというような例は、主体化されない知識の無力を示す一つの場合であるし、またそれを裏から見れば、身についた考え――思想というものの不死身な逞しさ、根強さを示す生きた証拠だということにもなろう。
 で、ともかく、思想は、あるきまった座標軸、あるきまった視点による現実の把握、ないしそうして把握された「現実」のことであった。ところで、その座標軸の取り方が、現実(ものの実際、ことの実際)に即しているかどうかということで、その思想のウソかまことかが決定されて来るわけだし、また、当人が自分自身の認識の座標軸を自覚しているかどうかということが、その思想に伸びゆく可能性を約束し、また可能性を奪い取ることにもなるのである。思想は、現実といっしょに進歩し発展するものでなくてはならない。過去の或る時期において真実をあらわし得たところの思想も、こんにちの思想としては偽りである。そして、おそらく、こんにちの真理も、それとして明日の真理であることは出来ないだろう。それは、つまり、現実が動的な現実であるからだ。現実を支配するものは、運動という歴史の法則である。だから、思想は、それが真実をあらわすものとしてあるためには、動的な思想とならなければならない。
 そこで、どういうのが進歩的な思想かというと、それは、現実をむりやり自分の考えに合わせて解釈するのではなくて、思想そのものを現実の歩みに合わせて発展させていくようなそうした思想のことである。つまり、思想と現実との矛盾を、現実のほうに思想を近づけることによって解決する、という考えかたなのである。自分の矛盾だらけの実感にもたれかかるのでなくて、社会的ないとなみに参加することで、実感そのものを絶えず新しいものにしていく、という事なのである。つまりは、現実のありのままを反映することで、逆に現実の人間生活が持つ歪みやねじくれをなおし、それをまっすぐな、より高いものに導いていく、そういう考えが進歩的な思想というものなのだ。だから、それは自分の考えをひとつところに固定させることをしない。現実の動きを正しくあるとおりに反映して、社会の進歩とともに自分の思想そのものを発展させていくのである。進歩的思想とは、だからまた、こんにちでは批判的リアリズムのものである、といわなくてはならない。


    三 「自由」について

 現実の歩みに歩調をあわせて進むのが進歩的な思想というものだ、と、いま、ぼくはいった。だが、見誤まってはいけない。戦争前の自由主義(旧自由主義)時代には自由主義を口にし、戦時中は戦時中で軍国主義のお先棒をかつぎまわり、戦争が終ると口をぬぐって、いっぱしの民主主義者づらをして納まり返っている、そういう世渡り上手の便乗思想と、ほんものの進歩的な思想とをゴッチャにしないことだ。そういう態度からは、文学の自由は生まれてこない。
 こんにちの文学の求める自由が、そのひろがりと深まりとにおいて、かつての(戦前の)それと違った性質と内容をもつべきは当然のことである。かつての自由を、だから旧自由主義をこんにちに蒸し返したところで、それは現在の問題を解決するちからにはなり得ない。かつての「自由」は、観念の上だけの自由であり、自由のマネゴト(あるいはマネゴトの自由)にすぎなかった。日本の場合、現実は封建的遺制(それを遺制とだけいっていいかどうか、そこに問題があるが)の支配する現実であったのだから、自由ということは、ただ観念(考え)として人々のこころに生きていたにすぎない。それにまた、その自由の観念そのものさえもが、日本的現実の根ざすものというよりは、西ヨーロッパのそれを移し植えたものだというほうが当っている。つまり、現実の反映として生まれた思想でなかったのだから、この観念は、大地に根をおろしてすこやかに伸びて行くことが出来なかった。現実の実際面で満たすことの出来ないあきたりなさを、観念の世界で代用満足する、いってみればそういう性質のものでしかなかった自由の思想は、このようにして、日本にあっては、現実のなかから生まれたものではなく、だからまた、現実を動かすちからにも、なり得ない、無用の飾り物なってしまった。
 そこに、思想は思想、現実は現実、世の中は理屈ではいかぬものとする考えや、また、思想というのはつまり理屈のことであって、それはたんに「頭」の問題にすぎないとするような、思想そのものに対する、いっぷう変った理解をうみ出すことにもなったのである。(思想ということの本来の意義については、第六章、二「現実の反映」の項を参照。)
 思想というのは、実際の用には立たないヘリクツのことという考え、若い時はだれでもいちおう「自由」であるとか何が「真理」であるのかというようなことを考えるが、人生の経験を積んでくれば、そんなことは役にも立たない無用の考えに過ぎなかったことがわかる、というような俗物的な考えも、だから日本の近代においては否みきれない真実を含んでいたということにもなるのだ。だから、また、西ヨーロッパふうのそういう近代思想は、その思想にふれた当人にとっても、単なる知識として、あっちのポケットこっちのポケットというふうにしまい込まれて、思想としての、纏まりも肉づけも持たぬまま、ただ単におひけらかしの「教養」になってしまったのである。教養という言葉が、実用にはあまり役立たない、身だしなみの知識というふうな意味で使われるのは、まず日本だけの現象だろう。(茶の湯・ピアノ・バレーなど、嫁入り仕度用女芸十八番が、女性の「教養」とされているような点から見ても、事情は戦前と同じことだ。)
 だから、自由の観念に生きることによって、人生を牢獄だと感じた北村透谷は、けれど、封建的な鎖につながれたこの人生の牢獄から自分を解放するすべを見いだすことの出来ないまま、二十代の若さでわれとわがいのちを絶ってしまうことになって行ったし、また、日本近代文学のさきがけだといわれている二葉亭四迷の『浮雲』が、すでに、思想と現実との矛盾に作品のテーマを見いだし、妥協することをあえてしないがゆえに、現実の根強いちからによっておしひしがれ、そしてはかなくもろく敗れ去っていく人間のすがたを、わが身のこと、わがこととして描き出すことにもなったのである。日本の近代文学は、だから歎きの文学である。それは、自由の観念を現実の生活のなかにもたらそうとしたために、悩み苦しみ、そして傷つき倒れた敗者の苦悶の文学である。もっとも、歎きと苦悶は、日本文学にだけ見られるあらわれではない。ヨーロッパの近代文学にも、歎きはあった。しかし、その歎きは、からだをもう一歩先きへおし進めたところに生まれた、歎きであり悲しみであった。
 こんにちの日本のむずかしさ(それは同時に、現代日本文学の壁でもある)は、前近代的なものから脱け出さねばならぬと同時に、いわゆる「近代」のワクを越えなければならぬという点にある。フランス革命において高く掲げられた民衆の旗じるし「自由」――近代的自由は、けれど、その後のいわゆる近代社会に至っても、けっして全き実現を見はしなかったのである。だから、真に「前近代」を克服するためには(いいかえれば、ぼくたちの生活のなかに近代的自由をもたらすためには)形骸的な近代のワクは、むしろ乗り越えなくてはならぬものとなっているのである。だから、人間の自由をねがう、こんにちのヒューマニズムの文学が果さねばならぬだいじな仕事が何であるのかということも、またおのずから明らかであろう。


    四 肉体と精神

 およそ近代の歴史を知る人にとって、自由のための自由であるとか、人間ぜんたいのための自由というようなもののあり得ないことは、いわば「実験ずみのこと」だろう。全体のため――日本という全体、国民という全体のためと唱えた、こんどの戦争が、一部を全体にすり替えた、ひとつまみの人間の利益のためのものに過ぎなかったこと、これまたぼくたち日本の国民大衆が、とうとい血の犠牲において身につけることの出来た「実験ずみの知識」であった。全体の自由に奉仕するとか、自由のための自由というようなことは、実際にはあり得ない。
 政治と文学との関係も、こういう観点から考えられなくてはなるまい。政治から文学を解放することで、文学の自由をかちえようとする考えはわらうべきである。政治から自由な文学、文学のための文学、――そうした思想にたいして、ぼくたちはヒューマニズム文学の立場から、きょくりょく闘わなくてはならない。そのような思想こそ、文学の真の自由を滅ぼすものだからである。だが、ひるがえって考えてみれば、そうした思想が世にはびこり、まじめになってそういうことを主張したり、実際行動に移したりしているような人があるのも、ムリからぬ事だといえよう。民衆は、長いあいだ、「政治」に苦しめられて来ているからだ。つまりはそれと同じことなのだが、文学もまた、「政治」に舌を縛られて、思うとおりのこと、思うようなことを、言葉にいいあらわすことが出来ないできているのだから。だからこそ、自由のための自由であるとか、政治に仕えない文学独自の立場というような言葉が言葉そのものとして、人々のこころを惹くものがあるわけなのだ。
 長いあいだ前近代の鎖にくくりつけられていた、ぼくたちには、自由という言葉、解放という言葉、そうした言葉そのものが、すでに魅力的なのである。そこで、神につながる高貴な人間精神を肉体の牢獄から解放せよと叫ぶ精神主義や、逆にまた肉体を精神から解放しようとする、いわゆる肉体文学の主張や、実感だけが文学をほんとうの文学に高めてくれるささえだとする実感主義の提唱などが、こんにち一般の支持をうけるということにもなるのだ。

 ある評論家は、声高らかに、「天地が崩れてもこれだけは確固不動だというもの、わたくしが半生のあいだ持ち続け、いとほしみはぐくんできた生活感情、人生意欲がいっさいである。」といい、「この実感を越えたところにあるすべての理論は虚偽である。」といっている。つまり、自分の身についた思想というものは、自分にとっては動かしがたいものだ、という事をいっているわけだ。この考えにまちがいはない。だが、それだから自分の考えに反する「理論」はみんなウソだ、というのは道理に外れている。いや、ものの道理を踏み外している。それは、むしろ、自分の考えに合わない理論は、自分にとってはウソに見える、というふうに語られるべきだろう。
 が、おそらくこの評論家のいいたいのは、身につかない考えは文学をつくる(創作する)うえの役には立たないということ、作家たちは、実感にさせられた、なまみの思想で文学せよ、ということなのだろう。だから、この実感主義の主張も、自分の思想や感情をころして書いた、あの戦時中の生産文学(産業戦士物)や戦争文学(兵隊物)の作家たちの場合を考えると、成程とうなずけるものがあるのだ。だが、それにしても、自分の実感が文学にとって一切であるという理屈は成り立たない。たんに理屈として成り立たない、というだけではない。それは、事の実際に当てはまらないし(第五章、一「文学の方法」の項参照)、つまりそれだからウソだということになろう。こういう考えは、まかりまちがえば、それが実感でありさえすればどんな作品を書いてもよいし、また、どんな受け取りかたをしてもよい、という事になるだろう。だから、また、実感がこめられてさえおれば、それはすぐれた作品だ、というようなことにもなりかねないのである。
 肉体文学は、いわばそうした「実感」のコムプレクスから生まれた、実感主義のいちばん悪いあらわれである。
 同じに肉体派と呼ばれてはいるが、職業的なインチキ好色本戯作者は、このばあい論外として、すくなくとも主観的には大まじめなこの肉体文学の作家たちは、こう考えている。思想であるとか精神というようなものは、時代によっても違えば、環境のちがい環境の移りによって変るものだ。時と所によって違い、また、人によっても違うのが、精神というもののすがたである。そればかりか、昨日の自分の思想は、こんにちの自分のそれではもうなくなっている、というように、頼りなく浮動するのが、この思想というものである。つまり、どういう思想が真実であり、また、どういう思想が偽りであるのかということをきめる、絶対の規準というようなものはあり得ない。思想の真偽ということは、だから相対的な事がらであって絶対のものではない。だからして、――とかれらは考える――思想であるとか意識であるとか、また精神であるとか、そうしたもののなかに、人間のまことを求めることはできない。信用できるのは、なまみのこのからだ(肉体)だけである。だから、また、肉体のまこと、肉体的本能をありのままに捉えることが、人間のまことを自分のものにするゆえんである。肉体のまことを探ることは、このようにして、またやがて、人間精神のまこと(ありのまま)に触れることにもなるだろう。どうしてかといえば、意識とか精神というようなものは、けっきょく、肉体の附属物にすぎないし、それは肉体の動きにしたがい、本能の求めるところにしたがって移ろう、浮動的なものにすぎないから。この事実に目をつぶって人間精神の神秘を説き、思想の自由を説くものは、偽善者だ、俗物だ。人間の自由と解放は、肉体を解放することを抜きにしては成り立たない、等々々。(――『朝日評論』一九四七年四月号掲載の坂口安吾氏の評論に拠るパラフレーズ。)
 そこで、ある肉体文学の作家(同上)は、こういっている。
 ――諸君は、おのおのの私事において、正しいこと、みずからかえりみて正しいと信ずることをおこなっていられるか。諸君は信じておるかもしれぬ。しかし、それが、みずからかえりみること不足のせいであり、みずから知ること足らざるせいであることを、そうではないと断言し得るや。
 ――快楽ほど人を裏ぎるものはない。……わたしは快楽はきらいです。しかしわたしは快楽をもとめずにはいられない。考えずにはいられない。
 ――諸君は上品です。私事については礼儀をまもって人前でしゃべらず、その上品さで、諸君のたましいは真実ゆたかなのだろうか、真実高貴なのだろうか。
 ――肉体なんかたいくつですよ。うんざりする。たいくつしないのは、原始人だけ。知識というものがあれば、たいくつせざるをえないものだ。快楽は不安定だというけれども……知識というものがふあんていなのです……
 こうした言葉を、作家のホンネとして額面どおりに受け取ることが正しいかどうかは別として、「快楽ほど人を裏ぎるものはない」ことは承知のうえで、それでいて快楽を求めずにはおれない「考えずにはいられない」人間の本能を、それとして、ありのままに描くことで、人間のまことに達しようとする肉体文学のゆきかたには、居直った人間の強さがある。
 肉体のまことこそ、人間のまことであるとする考え、これも、こんにちの実感である。ところで、その一方には、精神こそ人間のまことをあらわすものであり、肉体はそのまことを偽り鎖につなぐところの牢獄であるとする考えもある。肉体の束縛から精神を解放することだけが、人間に自由をもたらすゆえんである、とこの人たちは心からそう考えている。つまり、これもまた、こんにちの実感である。このようにして、これらの文学者たちは、めいめいの実感を拠りどころにして、或いは肉体のまことを、或いはまた人間精神の神秘を文学のことばに翻訳しているのである。

 ところで、そのような実感をささているものは何であろうか。
 作家の主観においては、かれらは、政治の支配から脱け出した文学の自由の立場に立ち文学者としての良心にしたがい、自分を偽ることない、文学の創作に精魂を傾けているつもりなのだ。実感主義の文学者が、商売根性身にしみた、いっぱんの文学職人どもと違うゆえんである。だが、かれらが文学職人でないから、それでいいという事にはならない。文学職人でないということと、りっぱな文学者であることとは別のことだ。そういうつもりでなくとも、自分が職人になってしまっている、という場合もないわけではない。すこし話は古いが、『外套と青空』の坂口安吾、『大阪の夜』の北原武夫、『踊子』や『問はずがたり』の永井荷風など、すべてそれである。「僕の目に映ずる女性の美は、小禽や小犬の可愛らしさや美しさと、さしたる差別がない。」と問わず語りに荷風が自分の実感を口にするとき、「通俗」と「偽善」に向って突きつけたはずの頽廃のメスは、それが諸刃のヤイバとなって文学者の魂をこれらの作家たちから抉り取る結果となっていることが知られるのである。
 実感主義の文学は、政治に仕えることをこころよしとしない。そして、政治という主人を締め出すことで、けっきょく自分というものを主人として選ぶに至ったのである。だが、それでは、自分とは何であるのか。
 かりに肉体あっての精神というふうに考えるにしても、人間はひとつの肉体として他の肉体とつながっている。自分の肉体の要求を満たすためには、また他の肉体とのかかわりを持たねばなるまい。さらにまた、自分の肉体のそうした要求は、他の肉体とのなんらかのかかわりにおいて、つまり自分の肉体が他の肉体と共にあり、それと或る一定のかかわりを持つことによって、惹き起されたものであるだろう。たとえば、それが食欲というような肉体の要求であったとしても(そして、これがいちばん基本的でいちばん大きな肉体の要求だ)、その食欲を満たすためには、ぼくたちは、自分で米を作るなり買うなりしなくてはなるまい。しかし、食物を作るしごとは、すぐさま農具や肥料や土地の問題に関係し、だからまた、一方に機械工業や化学工業につながりを持っていくと同時に、地代、供出割当て、土地の配分、税金等々の問題をなかだちにして、こんにちの貿易再開、輸入・輸出の問題につながり、したがってまた国際政治・国際経済にまでつながっていく。また、米の配給を受けて暮らしていくということも、だから、ちょうどそれを裏返したかたちで、国際関係に迄つながりを持って行くこと、くどくいうまでもあるまい。
 だから、どのような生き方をしようと、生きているというその事が、なんらかの形で政治につながりを持っている事になるのだし、また、どのような生き方をしているか、他の人間とどのような関係を取り結んで生きているかということで、政治そのものの方向が或る動きを示すことになるのである。そのことによって、また、ぼくたちの食欲が満たされたり、満たされなかったりするという関係が導かれて来ることにもなるわけなのだ。
 満たされた胃ぶくろと、満たされない胃ぶくろ。肉体のまことに内容を与えるものは、このようにして、社会の制度であり経済の組織であり、つまりは政治そのものであるだろう。(ひとはパンのみにて生くるものにあらず。――こうして、パンなしには人間は生きていけないことを、キリストもいっている。)そして、また、この政治を動かすものも、肉体にほかならない。そのような肉体は、もはや単なる肉体ではなくて、精神をそなえた人間、「パンのみにて」生き得ない人間である。なまみの人間――食いかつ働くところの人間、生きることによって考え、また考えることによって生き方を規定していくなまみの人間、それは単なる「肉体」でもなければ「精神」でもない。具体的な人間は、肉体と精神との、だからまた、生理的・生物的人間と社会的人間との統一者である。というよりは、むしろ、生理的ないとなみさえもが社会的ないとなみの部分であるということが、人間にとって固有のことなのである。(第5章、三「実感の分析」の項参照)
 肉体だけを解放しようとすることは、だから、精神だけを解放しようとすることで問題を解決しようとするのと同様に誤まりである。精神だけを、精神の側面においてだけ人間を解放しようとすることが、かえって人間を旧い制度の鎖にくくりつける結果となるように、肉体だけを解放しようとする考えも、人間をかえって旧い政治のワクに押し込む結果を作り出すことになるであろう。歴史と政治にかえりみない、実感による人間解放が、人間に自由をもたらさないばかりか、奴隷の状態に長く人間を放置する結果となること、以上のとおりである。実感主義の文学の効用は、まことに戦時中の実感否定の文学のそれと変りなく偉大である。

 こうした実感主義のささえは、読者である民衆その人の実感の歪みと無思想(第六章、二「現実の反映」の項参照)とである。肉体と精神とに対する、また自由と解放とにたいする人々の実感のコムプレクスが、そのささえなのである。人々の思想がそのような実感にささえられたものとしてあればこそ、民衆のそうした歪んだ考えや意識を代弁した「実感による自己反省」の提唱や、肉体文学、精神主義の文学などがこんにち一般におこなわれもし、また、そうした評論や創作の受けがよく売れもするから、作家たちはますます自信をふかめて創作に馬力をかけ、そのことがまた、輪に輪をかけて、人々の意識や感情を救いがたいものにして行っているのである。
 つまり、現代に欠けているものは合理精神である。保守主義というのは、どんな新しい刺激を与えても同じ反応しか示さない態度のことである、とある生物学者が皮肉な調子で語っているが、こんにちの時代を支配するものは、反合理的な保守主義だということができる。そうした保守主義者(実感主義者)たちが、自分では伝統と通俗に反逆する進歩的な人間のつもりでいるところに、こんにちの混乱の手に負えない、むずかしさがある。こんにちの文学者に望みたいことは、自分というものを、政治とのつながりにおいて、ふかく鋭く見凝めることである。なによりも、自分の肉体と精神を政治と対決させることである。自分の思想をささえている実感が、それとして事の実際を捉えた実感であるのかどうかを、きびしく見きわめることである。そうしたきびしい自己批判が、自分の今の実感を偽りであると判定したとき、――それでもこの実感にしがみつこうとするのは、文学の精神に反している。頭では成る程と思うが胸に落ちないという場合、文学の作家たる者は、よろしく頭の論理にしたがうべきである。知性の声を斥けて創作にしたがうことは、文学をけがすことになる。文学の求めるものが真実をおいてほかにないからだ。
 理屈の上ではそうだけれど、しっくりこない以上どうしようもないというのなら、それが実感として自分の身についた思想となるまでは、作品の発表を見合わせるがよい。そして、新しい視点によって死にものぐるいの習作を続けたらいい。――それこそ理屈というものだ。それでは食えないし商売にならない、というのなら、開き直ってこういうほかあるまい。食えなくても仕様がないではないか、文学の仕事はほかの仕事とちがうのだから、と。文学者は民衆の良心の代弁者である。「良心」を売ったとき、作家は、だから、芸術の国を追放されなくてはならない。
 文学の愛好者である人たちに望みたいことも、つまりは同じことである。自分の実感の正体を見きわめて欲しいということ、合理精神に徹してもらいたいということ、その事なのである。理詰めにものごとを考えることが、もし諸君の文学趣味に反するというのなら、諸君の考えている「文学」というのは、いったいどういうものだという事になるのか。
 で、もし諸君がちょつとでも理詰めに考えてみたら、肉体だけが人間のまことであって、思想は偽りだというような論理が、てんでソッポな考えであるということは、すぐにも見分けがつくはずだ。だって、そうだろう。知識というものが不安定なものであり、思想のすべてが偽りであるのなら、肉体だけがまことだという思想(?)そのものも偽りである、という事になるからだ。(「原始人」ではないから、「肉体なんかたいくつですよ。」と感じる。「快楽ほど人を裏ぎるものはない」ことも知っている。それでいて「快楽をもとめずにいられない。考えずにいられない」自分の観念を拡大して、いわば裏切られない快楽の世界を仮構するのが、この肉体文学である。そういう準体験の世界に遊ぶことで、作家も読者も、肉体に「たいくつしないのは、原始人だけ」という、その原始人の特権を享受し、原始人の感覚を自分の観念のなかに再生産することで代用満足しているのである。)だから、また、自分の実感を文学の主人とすることで政治そのものを否定するというような実感主義は、けっきょく、自分そのものを否定するということになるだろう。なぜなら、肉体だけが真実で、自分の思想、自分の実感そのものすら偽りであるのだから。
 文学者は政治を主人とすることを拒むとき、「自分」を主人とするほかはない。「自分」は、そして、意識しているか意識していないかそれは論外として、或る政治の立場をとる「自分」である。このようにして、この文学者は、或る政治を否定することで別の或る政治の立場に立って創作しているわけなのだ。文学は、だから、政治の支配から自由であることはできない。できないばかりか、文学はそれ自身、ひとつの政治なのだ。また、それが政治であるからこそ、こんにちの時代に大きな意義をもつのである。
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  第七章 文学と映画

    一 大衆的と通俗的と

 第二章の初めのところで保留しておいた映画の『空気がなくなる日』の話に、この辺で触れておくことにしよう。といっても、それは、映画そのものを語るのが目的ではなくて、言葉を通路とする文学的認識(あるいは表現)の性質というものを、映画によるそれとくらべながら側面から考えてみようというのである。

 『空気がなくなる日』は好評だった。一般受けもよかったようだし、当の子供たちにも、ひじょうに悦こばれた。一言あるべからずの新聞評でさえ、「この程度の児童劇映画が今後わが国で大いに製作されることを希望」(『朝日』)して、あえてケチをつけなかったくらいだ。そして、ぼくもまた、たのしくこの映画を見た一人である。
 が、そういうふうにだけいってしまったのでは話がすこしウソになるのであって、実のところ、さいしょに見にいったときは、たのしいという気持とはおよそ反対の、ひどくいやな感じを受け取ったのである。その厭やな感じというのは、どうもひと口にはいいあらわせないが、たとえば、原作には姿をみせない妙な人物(?)――懐疑派めいたひどくインテリ臭い女教師が登場して来て、観客にたいする案内人の役目をつとめているのなども、気を悪くさせられたことの一つだ。が、いちばん厭やらしかったのは、たとえば「わがハイのまなんだ学問からいえばじゃねぇ、空気がどこかへフッとんでしもうちゅうことはじゃねぇ……」というような、原作にあるとおりのセリフを、いくつもいくつも、そっくりそのまま映画のなかに持ち込むことで、かえって原作の持味をこわしてしまっている、ということだった。映画のほうを主にしていえば、あの映画にあるとおりのセリフが使われてはいるが、岩倉さんの書いた原作のほうは、不思議にキマジメな感じがする。それがどうしてかということは前に述べたから繰り返さないが(第一章――第五章参照)、ともかくあれを読んでいると、どうでも問題を回避できないような場所に読者は立たされてしまうのだ。単におとながそういう思いに囚われるというだけでなくて、子供の読者が(おとなと同様に、或いはおとな以上の迫られた気持で)ぎりぎりそういう場所に連れ込まれてしまうのだ。そういういい方が当らなければ、いつの間にかそこの所へ来合わせてしまっている、といってもいい。つまり、そういうキマジメな表現なのである。
 それが、セリフまで原作に忠実にやることで、この作品を単なるカリカチュア(戯画)にしてしまっている。文法を無視した一種の直訳が、そこにある。映画には映画の文法があるはずなのに、原作に忠実であることで、かえって原作に不忠実な結果をつくり出してしまっているということなのである。やり切れない気持にさせられたのは、そして、この映画の笑いがほとんど滑った転んだの茶番のそれであることだった。
 ――だが、以上は、ぼくの映画評・作品評ではない。これは、さいしょこの映画を見たときの印象を、ただ、それとしてありていに述べたに過ぎないものなのである。この話には後日譚がある。

 子供の日であったか、それともそれから三日あとの日曜日のことだったか、ともかく児童週間の催しとして上映されたこの映画を、主催者側の好意で、ぼくは子供たちに取り囲まれながらもう一度見る機会をもった。
 ところで、奇妙なことに(?)今度はすなおにこの映画が楽しめたのである。
 同時上映の『あげは蝶』や『こんこん物語』のときだって、やはりそうだったけれど、『空気がなくなる日』という字幕がうつると、もう嬉しくてたまらないというように子供たちはざわめき出し、手が痛くなるぐらいに拍手を送るのである。まえに二度、三度とこの映画を見ている子供もあるらしく、両隣の子供をつかまえて筋を話して聞かせている。聞かされているほうも、黙って聞いているのではなくて、「それから?」とか「それ悪いヤツなのかい?」というぐあいに根ほり葉ほりやっている。そういう間にも場面はつぎつぎと移り変って行っているのである。
 前の場合と違って、今度はこうしたざわついた空気のなかで見たのだが、どうしたわけか、心からこの映画が楽しめたというわけなのである。
 それで、前にはうっかり見過ごしてしまっていたような、だいじな場面の数々が、ひと齣ひと齣目に滲み入るようであって、あとあとまでつよく印象に残った。さいしょ見たときの、あのあと味の悪さは、今ではもうすっかり消え失せてしまっている。不満は依然不満として残るにしても、それはもう、ニガニガしいあと味の悪さというようなものではない。岩倉さんの原作が文学作品としてすぐれたものであるように、この作品は、映画としてやはりすばらしいというのが、ぼくの今の感想なのである。
 そこでさいしょに受けたあの印象と今のこの感じと、どうしてこんなにも違っているのだろう、という点について、ぼくは考えてみた。
 すると、まず、こういうことがオボロゲながらに明らかになってきた。ひとつは、前の場合と違って、子供といっしょに見ているという安心感がぼくをすなおにさせたということである。いや、そういうふうにいっただけではぼくの気持は尽くせないのであって、子供がどういう表現をどんなふうに受け取っているのかということを目の前にしている安心感、といったほうが、むしろよいのかもしれない。だが、それは、観察者の目で、この小さい観客たちを見まもっていたという意味ではない。唯、このカットが子供にどんな印象を与えるだろうとか、こういう描写では子供には無理ではないのか、というような余計な(?)心配をしないで、子供といっしょになって笑い、あるいは子供たちの歓声に吊り込まれてこちらも嬉しくまってしまう、というふうな楽しみ方をしてしまった、ということなのである。
 それで、ぼく自身にとってはっきりしたことは、『空気がなくなる日』が喜劇をして演出されたことは、失敗どころか、映画として成功だったということである。それが戯画化された喜劇として扱われているのは、表現が企業に縛られたためだ、と二三の批評家たちはいっているが、あながちそうとばかりはいえないような気がする。映画の表現としてはあれでいいのだ、と今のぼくは思うようになっている。
 もし企業云々ということをいうのなら、企業として成り立たないような映画を作ったって仕様がない、ということを、むしろぼくはいいたい。企業として成り立たないような映画だけが芸術的であると考えるのは、観客をナメた話だ。企業として採算がとれるということは、それを裏側からいうと、大勢の人に多くの感銘を与えるということである。多くの人の心を捉えることの出来ないような映画は、文学青年のガリ版刷り同人雑誌みたいなもので、けっして映画ほんらいの姿ではない。こんにちでは、むしろ、企業による制約が映画のすこやかな映画のすこやかな発育をジャマしているという面が強調されなくてはなるまいが、それと同じくらいに声を大きくしていわなくてはならないのは、映画だけがこんなにも大規模に何十万・何百万という人間の心を一挙に捉えることが出来るのだ、ということである。映画芸術家は、せっかくのこの映画表現の特性と可能性をフイにして、映画を「文学」化したり手工業化してしまってはいけない、ということだ。
 ということから、わかっていただけると思うのだが、『空気がなくなる日』の表現はすばらしかった。欲をいえば、それはいろいろいいぶんもあるけれど、全体としてそれでよかったのだ。こんどの相手は、岩倉さんの場合と違って、或るきまったワクのなかの読者(子供)だけに限られないのだ(第四章、一「表現について」の項参照)。いわば全日本の、全地域のあらゆる層の子供たちが相手だ、といってもいいのである。年齢の点からいっても、ごくおさない低学年の児童からはじめて中学生までもが観客である。だから、あれでいい、というよりは、ああでなくてはいけなかったのである。だが、その「ああであること」というのが、正しい意味での「大衆性」を指すのでなく、単なる「通俗性」に――つまり滑った転んだの単なる茶番劇におちいることで、子供の心に住む「卑俗なおとな」(同上、第四章、一、参照)に迎合することであったとしたら、問題だ。ぼくが「あれでいい」「ああでなくてはいけない」といったのは、むろん、茶番劇としての『空気がなくなる日』の肯定の意味ではない。映画というものの機能を活かした、この作品の幅の広い表現、表現の大衆性を指しての「ああでなくてはいけない」という事なのである。むろん、中には(というより、数の上ではそういう観客がかなりの幅を占めるだろうが)久米正雄が『カラマーゾフの兄弟』を通俗小説として読み取ったように、この作品の表現を茶番ふうの面白味のなかで受け止めることでウツツを抜かしているような観客もあるだろう。が、それはそれでいいのだ。そういう観客にたいしては、そのどこかのひと齣で、部分的にでも興味の方向を変えさせることが出来たら、むしろ儲けものくらいのものなのだ。ところで、そういう配慮は、この作品のいたるところでおこなわれているのである。
 で、この作品は、それを喜劇として演出することで、観客(子供)にあきを感じさせずに終りまで引きずって行くことが出来たということより、そういう笑いとのするどい対照で、小作人一家の、また小作の子供自身の悲しみであるとか、またそういう悲しみを越えた、働く者だけが知っているよろこびであるとか、そういうようなものをキワ立たせるという表現効果も挙げている。また、こんなふうなこともいえる。茶番じみた笑いにアゴをはずしている子供たち(観客)を、口にフタをさせないうちに、早くも質の違った別の笑いのなかに誘い込む、というような表現の手法も用いられている、ということだ。たとえば、「なにごとも御仏の思し召しじゃ、あきらめが肝要じゃ」というドンツク・ドンドンのホッケ太鼓の場面への移行などである。(もうこの辺になると、子供はたんに面白おかしいという調子で笑ってはいない。明らかに嘲笑し冷笑しているのである。)となると、茶番じみた笑いというのも、それだけを取り立てて非難するのは当らない。それを地ヅラとし背景として使うことで問題の焦点をハッキリさせるというか、そういう笑いとの対立であとの笑いをキワ立たせるというのか、ともかくそういった効果を挙げているのだ。映画の表現は、まさにこうあるべきなのだろう。


    二 映画の文法
      ――文学的表現の限界――

 そのことで、しぜん明らかにされて来たように思えるのだが、ぼくがさいしょこの映画に憎悪に似たものを感じたというのは、ぼく自身、どうやら、原作(文学)の直訳をこの作品に期待していたという事によるらしいのだ。映画の文法と文学のそれとは違うというようなことを口にしていながら、実はそれがよくのみ込めていなかったということであるらしい。それというのも、一つには、岩倉さんの作品(原作)にたいするぼくの傾倒が並々でない、ということに起因しているところがあるのではないか、と思われるのだ。
 だが、今はもう明らかである。あの作品の表現が映画の世界で活かされるためには、やはりああした形のものにならなくてはいけなかったのだ、ということが――。
 たとえば、原作のほうでは、ウスノロの大三郎のことはかなり克明に描かれているが、大三郎の親である「地主の旦那」はぜんぜん表面に出て来ていない。ところで、映画のほうでは、かれがいないことにはすべてが成り立たないという主要人物が、この地主の旦那なのである。
 例の女教師も(断っておくが、説明役にこういうタイプの人物を選んだことは失敗である)、それからまた地主に利用されるだけ利用されてほうり出される、弱気で卑屈な作男(?)も、こすっからい自転車屋のオヤジもオカミも、みんな映画製作者の創作した人物である。これらの人物をめぐっての事件というのも、いわばこの「創作」の部類にぞくしている。そういえば、死の日を間近にひかえた村人たちのホトケ信心というようなのも、やはりこれは創作である。また、たとえば、岩倉さんが「そのころは米一石がやっと十四五エンという時だったから、ゴム袋のためになん百エンという金をつくるなど、死ぬよりもむずかしいのであった。……そして、あれこれといっているうちに、早くも町の店では一コ一エン二十センだった氷袋が百エン二百エンだしても手にはいらぬらしいといううわさが聞こえてきた。」と書き、別のところで「子どもは、しかし、このありさまを見て、世の中に金もちというものの、思ったよりかすくないのにびっくりした。」というふうに書いているのが、映画のほうでは、例の自転車屋の場面になり、弱気な作男の登場となっているし、またそれと結びついて、大三郎の姿に象徴されている「地主」というものの性格(社会的・経済的な性格)が、ここでは地主の旦那という実在の人物(?)の活躍となって具象化されている。
 さらにまた、「うちのものがみんな死んでゆくのに、おらだけ、生きのこっておられるかい。」という小作の子供の言葉(原作の表現)は、かれらの場合とはおよそ対蹠的な、オレたちだけは生き残ろうと考えて悪あがきする、地主一家のうとましい姿を、読者の胸にイメージとしてよび起こし得たときにだけ全き完結をみているわけだ。この映画の作者は、それを、空気がなくなった(と信じられた)さいごの瞬間における大三郎一家の、骨肉あい争う醜い姿として描き出すことで、原作にたいする全き表現の理解を示している。そして、それを一箇のカリカチュアとして扱うことで、かれらに対して、さらに、きびしい罰をさえ加えているのである。

 以上の比較を視点を変えていうと、言葉による現実把握としての文学的表現の抽象性が、映画とのこの比較においてはっきりとキワ立たされる、ということなのである。つとめて言葉の規定性をころすようにすることで、文学の表現は、日常的・具象的な全体感を与えているのであるが(第四章、三「体験と準体験」および、第五章、二「抽象的と具体的と」など参照)、映画の視聴覚的な訴えかたのもつ直接的でなまなましい、そのリアリティー(現実感・実感)にくらべては桁がちがっている。映画の訴え方が、いわば「この目で見た現実」を敷写しにそこに再現し、またその「現実」をそれの現実感の方向におし進めて表現し得るのにたいして、文学の表現は、その表現手段である言葉の抽象性・規定性に縛られて、いくら具象的にと思っても、そこにはおのずから限界があるのである。文学的表現の限界は、また、同時的な現象をさえ連続的・継時的にしか捉え得ないしあらわし得ないという、認識および表現手段としての言葉のもつ弱みを、映画のあの継時的・同時的な自在な表現性格と突き合わせてみた場合、いっそうハッキリして来るのである。
 ぼくのいうのとは別の軸からだけれど、津村秀夫氏が、つぎのような意味のことを語っておられたのは興味がある。ぼくたちの時代は、地球というものを観念的に納得するところまでは来ているが、それを感覚的に感じるというところへは、まだ手が届いていない。それを、映画は、「地球というものを感覚的に感じ」させてくれる、というのである。文学が、とくに散文芸術としてのロマン(長編小説)が、これまで芸術のなかに占めてきた主導的な地位を、映画に譲らねばならぬ時代にもうなってしまっているのだ。
 その同じエッセイのなかで、津村氏は、またこんなことをいっておられた。――「思うに、映画芸術の魔術のからくりの一つは、案外、映画の持つ機械性の中にひそんでいるのではあるまいか。例えば……被写体はしまうまの大群であったとしても、キャメラは必然的に焦点外の背景(即ち広野のはての山脈)までも写し取ってしまう。直接キャメラがシュートした被写体以外のものまでも、有無をいわさず写し取らねばならぬということは、よく考えてみれば、映画のおもしろい運命である。これは劇映画の場合においてさえも同じことであって、例えばAとBが会話しているとする。映画の進行上当面の焦点は、その会話内容にあるとしても、キャメラはかれらふたりの人間の『背景』を正確に写し取ってしまうから、監督者は、決して、この背景をいうものを無視することはできないのである。小説家は、例えば登場人物の重要な会話を取り扱う時、しばしばこの背景というものや、雰囲気というものを省略することができるであろう。むしろ簡潔に省略することによってこそ、小説芸術は、製作技巧上のコンセントレーションができるのである。ところが、映画というものは、やっかいなことに、いかなる場合にも背景は省略できないという運命を背負っている。(背景ということばが誤解を招くおそれがあるとすれば、かりに現実的雰囲気と換言してもよい。)……」
 津村氏のいわゆる「映画の持つ機械性」が映画芸術そのものの内側からのささえ(技術的な内面的規定)であるということは、僅かのウソやまやかしも映画においてはバケの皮をあらわす、という事である。それを、いま津村氏は「雰囲気(背景)」を省略できる、できない、といういい方で語っておられたわけだが、それはむしろ、ゴマカシが利く利かないの問題でさえあるようだ。言葉の抽象性のかげに隠れて、自分の描写力の不足やシドロモドロな表現を、いちずに読者の享受力の低さのせいにしてしまう、というような芸当は、すくなくとも映画の世界にはないことだ。――或る女流作家の書いた「血は血のりだ、唇や舌ではちぎれない糊が、ぐいと頬に押しあてたこぶしの中へ電線のようにつながって、脈と一緒にふるふる顫えて光る。」だとか、「約四十年のむかし、父は妻を、私は母を隅田川に花ふぶき散る日に悲しく失っ」たりするような、現実を裏切った美文・メイ文を、それを映画の文法にのっとって翻訳し表現するとしたら、いったいどういう事になるのだろう?
 むろん、現実の映画作品には(作品の構成ぜんたいをとおして見ては)、このウソをまことに言いくるめたようなのも、けっして少なくない。少なくないどころか、むしろこの手の作品が氾濫しているところに、こんにちの映画芸術の問題があるのだ。それは、企業が映画のありようを縛っている、という問題である。だが、現実を裏切ったら、シッペイ返しを覚悟しなくてはならない。企業第一、商売大事で民衆の現実を裏切って作られたインチキ・エロ映画がかえって赤字という現象は、そのことを裏書きしている。が、ともかく、くだらん映画の横行は現実の事実である。これは、(前にもいったように)映画の持つせっかくの特性と可能性をフイにして作られた、一種の「お芝居」の缶詰的作品にすぎない。映画の特権と機能を向うにおしやった、こうした「映画」を相手に、文学の優位を口にするような人が、文壇という狭い垣根のなかにはまだまだあるらしいが、これは生まれたての小犬と年を経たふる猫とをくらべて、犬より猫のほうが大きい、といって頑張っているようなものだ。犬より猫のほうが小さいということが、ネズミ取りに猫が不適任であるということにはならないのに――。
 なお、ついでにいうと、津村氏が、雰囲気や背景を「簡潔に省略することによってこそ、小説芸術は、製作技巧上のコンセントレーションができる云々」といっておられる点であるが、それはつまり、文学の表現手段である言葉の非同時性・継時性という、さっきいったところの事がらと関連させて考えられなくてはならない問題であるということだ。言葉による表現の限界(あるいは、その限界の逆利用)ということを抜きにして、小説芸術の製作技巧を云々してもはじまらない、ということである。言葉をかえていうと、文学の表現は、その表現の限界の逆利用のうえにのみ成り立つとさえ、いうことが出来るのである。それを逆利用することによって、言語表現のもつこの弱味が、かえって強味をなって、津村氏のいわゆる「背景の省略によるコンセントレーション」がおこなわれ、ユニックな表現性格を文学にあたえることになるのである。
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  第八章 リアリズムの系譜

    一 ヒューマニズムとリアリズム

 人間の幸福は、人間が人間自身の手で作り上げていくほかないものだ、という自覚に達したとき、人間は初めて「人間」(人間性)に目ざめたという事ができるだろう。人の世のしあわせも、またふしあわせも、その大もとが人間自身の内部(或いは人間と人間との関係のなかに)潜んでいるということに気づいたとき、人間とはどういうものかということが改めて問題になって来たのである。
 それは、もはや神の前に無力な者としての人間の追求ではなくて。人間そのものへの深い信頼における人間の探究であった。それは、人間の無力を語ることで人間を甘やかすことではなく、人間を突き放し突っ撥ねてみることで、人間そのものを試みるということであった。だから、それはまた、人間を人間そのものの目であくまでリアルに追求して行くということでもあった。
 こうして人間そのものへの深い信頼と愛情において、人間がみずからの「人間」(人間性)に目ざめたとき、歴史の上に初めて人間の世紀――ヒューマニズムの時代が訪れたのである。このヒューマニズムは、また、人間自身の立場からの人間の探究というリアリズムにささえられて、ヒューマニティー(人間性)の奥底までふかぶかとおりて行くことが出来たのである。このようにして、ヒューマニズムとリアリズムとは、その成立の当初において、すでに一つものの裏おもての関係に立っていたのであり、また、ヒューマニズムにおけるその後の「人間」への深まりも、人間による人間自身のリアルな探究という、このリアリズムを唯一のささえとしておこなわれ得たものであった。そして、今でもヒューマニズムは、このリアリズムを唯一のささえとして成り立っているのである。
 ヒューマニズムとリアリズムとは、一つものの裏おもての関係に立っている。リアリズムを欠いたヒューマニズムは、まがいもののヒューマニズムであり、また、ヒューマニズムに裏打ちされないリアリズムは真のリアリズムではない。こころの底から人間を愛し信頼しているときにだけ、人間は人間自身を突き放して見ることが出来るのであり、そしてまた、ふかくふかく人間性の奥底にまでおりて行くことも出来るのである。それがナマ半可な愛情やナマ半可な信頼感というようなものであっては、すぐにも壁に突き当ってしまい、そこのところで人間を――自分を甘やかすことになってしまうのだ。ふやけたヒューマニズムは、千鳥足のリアリズムをしかもたらさない。こうして、ヒューマニズムの限界は、またリアリズムの限界であり、リアリズムの限界がまたヒューマニズムの限界を示している、ということにもなるのである。

 現代は民衆の世紀である。すくなくともそういうものとして現代をあらしめることが、デモクラシーの精神であろう。こんにちのヒューマニズムは、民衆への信頼と愛情を抜きにしては成り立たないし、すくなくとも、民衆の現実に背中を向けたヒューマニズムというようなものはあり得ないのである。現代ヒューマニズムは、このようにして、民衆的現実の肯定の上にのみ成り立つのである。が、しかし、それを肯定するということは、民衆を甘やかすということではなかったはずだ。むしろ、かえって、かれらを突っ撥ねて観察するという迫真のリアリズムが、そこに要求されるのである。民衆を真に民衆的なものに高めていくためにである。それではヒューマニズムは、だからまたリアリズムは、こんにちにおいては、現実にどういうものとしてあらねばならないのか。
 ぼくたちがこれまで何章かにわたって、『空気がなくなる日』の吟味を続けて来たというのも、実をいえば、そのことを明らかにしたいがためであった。『空気がなくなる日』は、それとしては子供のための文学作品にすぎないけれど、(ぼくたちの吟味の結果は)それを主題の示している方向に深めていくことで、真にリアルな本格的なヒューマニズムの作品を期待し得るという、そういう性質の作品であった。しかし、しょせん、それは一つの模型にすぎない。模型にすぎないけれど、現物がまだ仕上っていない以上、この模型が模型として完全であるかどうかを吟味してみる必要があったわけだ。そして、吟味の結果は右のような結論に達したわけである。
 だが、また、模型はしょせん模型であり、雛型は雛型以上のものではないだろう。それを土台に現物をこしらえて行くというにしても、模型が要求してとおりの物をそこに作り出すだけの資材の用意があるか、また技術の蓄積があるかということが問題であろう。事がらは、だから、外から考えるほど簡単ではない。(いわゆる素質や才能の問題も、こうした資材や技術の社会的蓄積を抜きにしては考えられない。文学的才能は、ア・プリオリーな、たんに自然的なものではないのだから。)そこで、ぼくたちとしても、この資材と技術の吟味に移らなくてはならないわけだが、いまその仕事をここで完全にやってのけるというようなことは、実際問題として出来ない相談である。リアリズムの系譜を、それもごく飛び飛びに辿ってみることで責めの一端をふさごうとおもう。


    二 近代以前
      ――西鶴・近松・その他――

 人間(人間性)への目ざめが、文学の上にあらわれて来るのは、日本では十七世紀のことである。徳川幕府の鎖国政策によって海外市場から締め出され、目つぶしを食わされた町人たちが、けれど横に農民と手を握りあうことで、国内市場の開拓に乗り出して来たのが、ちょうどこの世紀の半ば頃のことなのだ。人間への目ざめは、この現象と結びついている。
 国内市場の形成は、まず、中世的・封建的な隷属関係から自分自身を解放しようとして起ち上った、近畿・中部地方の進歩的な中層・下層の農民との結びつきにおいて、早くも十七世紀の下半期にはその緒につくのである。いいかえれば、これらの農民たちの手によって、商品生産を目的の一半とした、荒地の開墾と農具の改良と農業の多角経営とによる適地適産の生産物の増収がおこなわれ、そうして生産された商品がまた商人の手を通じ、発達した交通網を通じて、国内の各地に新しい市場を開拓し獲得していくことになるのである。
 そこで、農民自身のこうした進歩と、農民と町人とのこうした横の結びつきとにおいて、国内商業の目ざましい発達が促されることになるのであるが、そのことは、別の面からいえば、武家と結びついた御用商人の群れを疎外した町人の新しいタイプがそこに形成されつつあったという事であり、また、国内商業は、庶民的基盤における、いわば「国民的商業」としての性格を自分のものにして来ていた、ということなのである。十七世紀の下半期から十八世紀のはじめにかけて展開された京阪の町人文学(いわゆる元禄文学)は、つまり、こうした基盤の上に結成された新しいタイプの町人――新興町人の文学であった。それが曲りなりにも自我の自由を主張したヒューマニズムの文学となり得たのは、右のような理由によるものである。井原西鶴にその典型を見いだす。元禄期町人文学のあのはげしい人間主張と、いっさいの虚偽・虚飾を払いのけて人間のありのままを見つめようとする、散文精神に徹したあのリアリズムとを保障したものは、ほかならぬ町人のこの広汎な基盤であった。
 町人生活のワクを越えて、というか、町人生活のワクをそこ迄おし拡げてといったらいいか、ともかくこの時期の町人たちは、相当広い庶民的な規模において現実を見つめることが出来たのである。ヨーロッパの場合とはくらべものにならないぐらい、スケールの小さいものであったにせよ、国民的基盤に結びつくキッカケだけは、そこにすでに用意されていた、と見てよいだろう。
 日本の「近世」は、こうして町人と農民との団結による庶民的・大衆的な基盤の上に、庶民自身の手によって築き上げられて行った。幕藩体制のシステムによる民衆支配の桎梏にたいする、町人を先頭とするところの庶民の闘争が、日本の中世史のうえに近世を――「人間」の時代をもたらしたのである。(町人が封建制への寄生的な存在であったということと、そういう町人と武家とのあいだの階級的対立があったということとは矛盾しない。)
 だが、日本の社会においては、近世の確立されるときは、ついになかった。なるほど、国内市場は、十八世紀から十九世紀にかけて全国的な規模にまで発展していったけれど、その発展の基盤であった農村における商品生産の経営者は、かつてのあの農民ではもはやなかった。また、もし、名目上の経営者がかれらであったとしても、経営の実験はすでにかれら自身の手を離れていた。封建領主による収奪が、ふたたびかれらを貧農の境遇に転落させたのである。一方、国内商業の発達によって肥え太った新興町人上層は、前貸資本の投資という形で、農村における商品生産の実質上の経営者となり、また、抵当流れの土地を貧農から取り上げて、みずから地主となり農村経済の支配者となった。こうして新興町人もまた、実質的には古いタイプの町人となんら変りない「丸腰の武士」――農村の収奪者に成り下ってしまうのである。近世後期の文学が、ヒューマニティー(人間性)とリアリティー(現実性・現実味)に乏しい、頽廃と封建的教化の文学(たとえば、為永春水の人情本と曲亭馬琴の読本)に転落していったのも、けっして理由のないことではない。
 だが、近世後期の文学も、全部が全部、頽廃にむしばまれ或いは教化主義への道を歩んでいたわけではなく、一揆や「うちこわし」の手に出るほかなくなっていた、裏店住居のまずしい都市生活者や貧農の声を伝えたような作品も、また貧農と迄いかなくとも、ごく普通の暮らしをしている、下層町人大衆の立場に身を置いたような作品も、数多く作られている。川柳の或るものや黄表紙の或る種のものなどには、こうした傾向が色濃いのである。が、そういう傾向は、文学ぜんぱんの動きからすれば、いわば一つの傍流であり支流であるにすぎなかった。全体を覆う色調は、やはりあの頽廃と教化のそれであったといわなくてはならない。
 で、さいしょ、庶民的・大衆的基盤のうえに、豊かな民衆性をもって成立した新興町人の文学も、近世の半ばを過ぎる頃には、そのワクをぐっと狭めた幅のないものになってしまうのであるが、それはそれとして、公家や武家以外のいっぱん民衆が、文学の生産者となり享受者となって、時代の文学の主導権を握ったというようなことは、これ迄にないことだった。これは、近世という新しい時代がもたらした、すばらしい出来事だった。
 町人たちは、文学を楽しむことをとおして現実について思いをひそめ、人生のどういうものであり、またどういうものでなくてはならないか、という事を、ふかく考えていくようになった。文学は、町人にとって、実生活を歪みなく生きるための、現実認識の手段であった。
 文学は、また、かれら町人にとって、自己を主張し自由をかちえる為めのたたかいの武器でもあった。かれらは、文学によって、人間の愛情の何ものにも代えがたく美しく、いつくしむべきものであることを、力のかぎり主張しつづけた。そして、人間のそうした美しい愛情が、自由の保障のない今のこの世の中では、どんなおそろしい(また悲しい)結末を導き出すことになっているか、という現実の事実を、あるとおりざっくばらんに文学に描きあらわした。そして、こんなふうに、現実を実際あるとおりに描くということが、同時に現実(封建的現実)そのものに対する民衆の批判と抗議を代弁するものになり得たというところに、当時の町人の健康さがある。悩むべきところで悩み、踏み切るべきところで踏み切る、という、町人のこの健康さが、町人リアリズムとか近世写実主義といわれているもののささえであった。写実(ありのままを描く)ということが、それとして文学の表現となり得るためには真実(ありのまま)を愛する気持が読者の胸に満ち溢れていなくてはならぬわけなのだから。
 町人文学がこうしたリアリズムの傾向に徹していったのは、前にも述べたように、十七世紀の下半期から十八世紀の初めにかけての、いわゆる元禄期(元禄は年号)であった。井原西鶴や近松門左衛門が、町人のこうしたいきいきとしたものの考え方を積極的に打ち出して行っている。

 西鶴(一六〇五――八二年)の文学は、二世紀の余にわたる日本近世文学のなかで、いちばん健康で、またいちばんいきいきとした文学である。
  娘どもは心してゆけ初あらし  定俊
     仲人がいふは皆空の月  西鶴
 これは、『虎溪の矯』とう談林派の句集に見えている西鶴の附句であるが、われわれは、「娘どもは……」「仲人が……」のこの附合が表現しているものの中に、いきいきとした現実の生活を感じることが出来るし、商略結婚のこのいたましい犠牲者にたいする西鶴の涙と、いつわりの世といつわりの人ごころに対するかれのいきどおりを、じかに感じ取ることが出来るのである。現実を、実際あるとおりに捉えることで問題を浮かび上がらせようとする、西鶴のリアリズムが、そこにある。また、そこには、人でなしな仕打ち(非人間的なもの)に対するヒューマニスト西鶴のするどい批判がある。
 つまり、西鶴はリアリストであることによって、またヒューマニストでもあり得たわけだ。或いはまた、かれがほんもののヒューマニストであったからこそ、リアリスト以外のものとしてはあり得なかったという事になるのだろう。
 そういう西鶴だったから、後には小説に筆を執るようになった。というのは、しょせんは連歌の伝統につながる、俳諧というああした表現(認識)形式のワクのなかで問題を認識したのでは、その認識した内容というのが、問題の実際の内容と食い違って来るのが当然だからだ。それで、ウソがいえない人だったから、かれは、自由な認識の形式であり表現形式である小説というジャンルに身を打ちこむことになったのである。
 小説家としての西鶴の活動は、一六八二年の『好色一代男』の創作に始まる。新興町人自身の手による文学の生産と享受が、しかも町人の健康なものの考え方にささえられて、ここに実現したのである。こうした町人の健康なものの考え方がどこから生まれて来たかといえば、それは、かれらが「国民的商業」をいとなむ商人であったという、実生活のありようにもとずくものである。だが、一面、かれの小説は、たとえば『好色一代男』がすでにそうしたものであったように、また『好色二代男』(一六八四年)や『好色一代女』(一六八六年)・『好色五人女』(同)などのいわゆる好色物(恋愛小説)をはじめ、かれの作品のほとんどがそうであるように、人間の自由(解放)ということを、性の問題ないし恋愛の自由という狭いワクのなかで追求している傾きが強い。という意味は、人間の自由の一側面である恋愛の自由を問題とすることを通して、人間解放の問題いっぱんを追求しようとしていた、という意味ではない。むしろ、その反対に、男女の愛情の問題を、いわば愛情という感情のワクのなかだけで解決しようとしていた、という意味なのである。
 ところで、恋愛の自由が認められていないというのは、人間の意志の自由が認められていないというのと一つことだし、だからつまり、人間が人間扱いされていないということだ。「民は人ではない」というのが、この封建社会のたてまえであったのだから、民衆の人権など認められようはずもなかった。だから、人間が人間らしく扱われる(人権が尊重される)ような世の中にならなくては、恋愛の自由も性の解放も何もあったものではないのだ。そうした点への認識を抜きにして、性の問題を性の問題のワクのなかだけで解決しようとすると、――それが、つまり、西鶴の場合なのだ。その限り、問題を社会的に解決しようとする西鶴ではなかったから、(そういういい方が当らなければ、社会と対決することのなかに問題の鍵を見つけようとかれではなかったから、というふうに言い換えてもよいが、)恋愛はどうあるべきかという、恋愛そのもののあり方の追求というような事は、ほとんど全くネグレクトされてしまって、人間の性的本能をそれとして活かすことに、人間の人間らしさ(人間性の本質)を見いだす、というような事にもなってしまったのである。
 いいかえれば、西鶴がその好色物において発見し発掘した「人間性」というのは、生理的本能的側面における人間のそれにすぎなかった。或いは、本能に身を委ねることで、自分の上におしかぶさって来ている一切の社会的制約を忘れようとする人間のそれであった、ともいえよう。西鶴の取り扱った恋愛というのが、こんにちの感覚からいったら、それは恋愛というよりも、やはり好色という言葉であらわした方が、よりふさわしい感じのするものになってしまっているのは、むしろ当然だった。
 もっとも、西鶴は、性的本能だけが人間性の本質だといっているわけではない。たとえば、愛情も人情もなんのその、「金のことでは親子も他人」といったふうな、割り切れた人生のあることをも、かれはハッキリといっている。『日本永代蔵』(一六八八年)や、『世間胸算用』(一六九二年)などのいわゆる町人物の世界には、そうしたエゴイストの人生がいくつか取り上げられている。そして、そうした人間のエゴイズムが、西鶴自身の言葉でいえば、「銀がかねをもふくる世」(『西鶴織留』一六九四年)がうんだ町人に特有の「人間性」――一種の社会的本能であることをも指摘しているのである。
 で、いま、さし当って問題は、それが自然的なものであろうと社会的なものであろうと、本能的なものイコール人間的なもの、というふうに考えてしまって、それを人間的なものだからというので頭から肯定してしまう、という、西鶴の人間認識の甘さにある。(いいかえれば、恋愛という社会現象を、単なる生物的な性本能だと決め込むところに、すでに問題があるし、また、自然的なものがいちばん人間的なものだと考える、かれの考え方そのものに熟さないものがあるのだ。)そうした認識の未熟さ、甘さに目を留めた場合、ついにルネサンスを経験することのなかったこの作家の、人間としてのまた芸術家としての不幸を思わないわけにはいかない。西鶴の不幸は、同時に近世日本の芸術家ぜんぶの不幸であり、また、民衆ぜんたいの不幸でもあった。

 愛情の問題を、愛情のワクのなかで、その限りリアルに追求していこうとしたという点では、近松(一六五三――一七二四年)も同様である。『曽根崎心中』(一七〇三年)、『おなつ清十郎五十年忌歌念佛』(一七〇九年)、『冥途の飛脚』(一七一一年)などは、そうした作品である。
 近松といえば、誰でもすぐに「義理と人情とのしがらみ」という言葉を思いうかべるが、上記の作品において、近松は、この「義理」「制度化された当時の封建道徳」と「人情」(自由を求める、ひそやかな町人の道徳感情)とのズレを、どこでどう折り合いをつけるか、という問題を追求して行っているのである。かれの世話物は、またひと口に近松の心中物などとも呼ばれているが、それは、かれが、人間(町人)の愛情の問題を死によって解決する、というふうなテーマの運び方をしているからである。
 前にもいったように、この時代にあっては、恋愛は「不義」であるとされていた。が、それが果して不義であるのかどうか、ここに問題があるはずなのだが、この問題の解決は、ついに町人のものではあり得なかった。「不義(義理にそむいたおこない)には違いないが、しかしそれはやむを得ない人間の自然の情(人情)である」とするのが、近松によって代弁されている町人たちの考え方なのである。だから、中世仏教ふうの厭世観に立って、現世というもの、「人間」というものを否定し尽くしてしまわない限り(つまり、たんに来世のために現世があるのでなく、この世の生活がそれとして人間に対して意義をもっている、と考える以上)、人間性の自然(人情)は、とうとばれなくてはならない。それで、恋愛は、人間性の自然に根ざすものとして、それはその限り肯定されなくてはならぬのであるが、しかしそれを肯定し切ることは、また、「恋愛は不義である」というたてまえと矛盾する。「義理」もまた人倫の道であり、人間らしく生きるためには、義理は守られなくてはならない。人情を知らないのは、人でなしである。だが、また、義理をわきまえないのも、人間ではない。軸の違ったこの二つの「人間らしさ」が、人々によって軸の違いが意識されることのないまま、一つの社会の中に、また一人の人間の生活の内部に、折り合いのつかぬ矛盾と対立をうむ事になったのである。義理に徹して人情を殺すことも出来なければ、人情に徹することで義理をおしのけることも出来ない、こうした割り切れない気持、それがつまりは町人生活の実際であり、町人の生活の実感であった。時と場合に応じて義理をふりかざしてみたり、人情に傾むいてみたり、というのが、かれらであった。恋愛問題に対する態度も同様であって、義理か人情のどちらか一方を選ぶのではなくて、義理を守ると同時に人情を生かした処置をとることが、かれらにとっては自然だったのである。
 近松による問題の解決も、けっしてそれ以外(或いはそれ以上)のものではなかった。かれは、相愛の二人に「死の勝利」を与えることで、かれらの人情を生かした。それと同時に、背徳者自身による贖罪の意味をもこの死に持たせることで、義理の絶対性を保障するのである。これが、近松による問題の「解決」であった。こうした問題の解決の仕方が、けっきょくのところ、リアリズムの放棄であり、ヒューマニズムそのものにたいする裏切りにほかならないことは、いうまでもない。それはナマ半可な人間愛であり、中途半端なヒューマニズムだといわれても仕方がないだろう。けれど、問題はむしろ、近松劇(人形浄瑠璃劇)の観客である町人大衆が、こうした解決以外の(つまりもっとリアルな)解決ではかえって不満を覚えるような、そうした宙ぶらりんな「ヒューマニスト」たちであったという事のほうにあるのかも知れない。興行資本による制約(序章、二「商品としての文学」の項参照)ということが、ここに併せて考えられてよいだろう。
 西鶴の場合、こうした解決には満足しない。もっとぎりぎりのところまで問題を追い詰めていくのである。かれには、妥協ということがない。「義理」と「人情」の折り合いなど、初めから念頭にないといってもいいくらいなのだ。いわば道一筋に人情に生きる(あるいは人情をいかす)のである。だから、かれの作中の人物は、いくら追い込まれて来ても、自殺(死の勝利)というようなことは考えない。まず生きることを考え、現実的な問題の処理の仕方を考えるのである。もっとも、『中段に見る暦屋物語』(『好色五人女』所収)の主人公たちの場合は、一度は死を思う人になるのである。けれど、ふとそんなことを思ってみた次の瞬間には、「世にわりなきは情けの道」(生きて愛情をいつくしみたいという気持には勝てない)というわけで、死んだように見せかけて行くえをくらましてしまうのだ。(作者は、この自殺を思いとまる場面に『人をはめたる湖』という、ひとを食った標題をつけている。)
 また、たとえば、かれの短編集『大下馬』(一六八五年)に収められている『忍び扇の長歌』という作品では、「さる大名のめいごさま」と若侍との愛情が扱われているが、例の「不義はお家の御法度」という方式で若侍のほうは「成敗」され、「姫は、一間なるかたにおしこめじかひ(自害)あそばすやうにしかけ置」かれるのだ。ところが、このお姫様、いっこうに死ぬ気がない。「不義」したとは思っていないからだ。家来がやって来て、「世の定まり事とて、御いたはしくは候へども、不義あそばし候へば……」と死を迫ると、とんでもないという調子で、「身の上に不義はなし」と、そうきっぱり撥ねつけてしまうのである。「男なき女(未婚の女性)の、一生に一人の男を、不義とは申されまじ、……我すこしも不義にはあらず」というのが、この姫の(つまり西鶴の)論理なのである。こうして自害を拒み続けた姫は、「此男の跡とふ為なりと、自ら髪をおろし」てしまった、というのである。実に粘り強いリアリズムだったといえようし、前近代のワクのなかでのぎりぎりのリアリズム(ヒューマニズム)だったともいえるだろう。


    二 「浮雲」から「破戒」へ

 日本の「近代」のどういうものであったか、という点については、いちおう前にふれておいたし、(第六章、三「自由について」)、また、そこのところで、二葉亭四迷であるとか北村透谷であるとか、そうした先駆的な近代作家についても、ひと渡り簡単な見とおしを与えておいたはずである。いまはそういう大づかみな見とおしの上に立って、話を先きに進めることにしよう。
 はじめに、ごく簡単な見取り図を与えるなら、日本の近代文学は、二葉亭四迷の『浮雲』(一八八七――八九年、明治二〇――二二年)を起点として、北村透谷(一八六三――九四年)の評論(『厭世詩家と女性』『内部生命論』『万物の声と詩人』『伽羅枕と新葉末集』『粹を論じて伽羅枕に及ぶ』)や詩(『楚囚之詩』『蓬莱曲』)へと展開し、さらに、後に『藤村詩集』として一冊の本にまとめられた島崎藤村の『若菜集』(一八九七年、明治三〇年)、『一葉舟』(一八九八年)、『夏草』(同)、『落梅集』(一九〇一年)の抒情詩に、そしてやがて同じこの藤村のロマン『破戒』(一九〇六年、明治三九年)や、長塚節の『土』(一九一〇年、明治四三年)において、そのリアリズムを「完成」し「確立」させることになるのである。そして、この図式的ないい方を続けるなら、『破戒』および『土』以後の近代文学の歩いた道は、『浮雲』や『破戒』のように、ともかくいちおう社会的なスケールにおいて人間の真実を探求しようとしたあの迫真のリアリズムを屈折させて、前に見てきた葛西善蔵の『おせい』のように(第六章、一「実感と思想と言葉と」の項参照)作家の実感をそれとしてリアルに描くというふうな綴方リアリズム(私小説)への屈折の道程であった、ということが出来よう。その後にあらわれたいわゆるプロレタリア文学は、たとえば徳永直の『太陽のない街』や、小林多喜二の『蟹工船』のようなすぐれたいくつかのリアリズム作品をうみ出すことにはなったが、そのリアリズムはしかし近代リアリズムをまっとうに受けつぐ代りに、それと対立してしまうことで、一つの傾向文学たるにとどまり、こんにちに問題を残している。けれど、また、このプロ文学が開いた「窓」は、そこのところで『浮雲』や『破戒』のリアリズムが挫折し屈折してしまった、人間の内部と外部との遮断された「通路」に、一條の明るい光を投げかけるものであったとはいえるだろう。

 以上はリアリズムを軸とした、荒削りで大まかな、というよりはむしろ乱暴にすぎる近代文学の概括である。中間項はいっさいネグレクトされてしまっているし、そればかりか、別の軸からのリアリズムの系譜をさえ、いっさい伏せてしまっている。が、それは或る程度あとでおぎなうとして、さしずめ、『浮雲』や『破戒』『土』『家』などを軸として、近代リアリズム文学が何をいかに問題にし、そしてこんにちにどういう問題を残しているか、という点へのおうよその当りをつけようというのである。
 ところで、日本近代文学が『浮雲』や北村透谷その他のいわゆる「文学界」派の文学運動として始まったというのは、日本の社会が、もやは半永久的に前近代(封建制)のワクを越えることが出来なくなってしまったという、暗い政治的社会的な見とおしのもとに、日本の近代文学が成り立ったということである。いいかえれば、政治面における前近代とのたたかいが敗北に終った、ちょうどそこのところから近代文学が芽をふいて来た、ということなのである。一面、前近代への民衆のプロテストの代行でもあった自由民権運動の挫折(一八八四年の自由党の解散はその象徴である)と、民衆のレジスタンス(抵抗)そのものであった農民運動の敗退(一八八四――八五年)、それに続く上からの産業革命の強行(農村の失業人口を労働力とした軽工業の発展)と明治欽定憲法の制定(一八八九年、明治二二年)等々々。こうして日本の近代は、その芽を双葉のうちに刈り取られてしまったのである。(欽定憲法の内容がいかに前近代的なものであったかということは、それが戦後においてあたふたと書き換えられなくてはならなかった、という一事からだけでもわかるだろう。)『浮雲』が一八八七年から八九年にかけて書かれ、また、政治(自由民権運動)から敗退した透谷たちの文学活動が九〇年を中心にして繰りひろげられたというような点からも、日本近代文学が政治活動の代行として出発したことは明らかだろう。
 だが、たんに政治活動の代行というだけだったら、民権運動のはなやかだった八〇年代前半のいわゆる政治小説がすでにそういうものとして作られている。けれど、この政治小説は、民権運動を反映させたものではあっても、それの積極面を代弁したものではけっしてなかったし、だからまた、近代への要求と前近代の否定が、人間内部のやみがたいそれとして、文学を内側からささえるものとはなり得なかったのである。政治小説が形象以前。近代以前をもって称されているゆえんである。近代文学史の第一ページは、このようにして、政治小説を前奏として、民権運動のあのはげしい面を、しかしかなり屈折した形で文学の鏡に反映させた『浮雲』をもって始まるのである。

 『浮雲』の主人公内海文三は、近代思想の洗礼を受けた知識人である。子供の時分に父をうしなった文三は、叔父の園田に引き取られて学校に通い、優秀な成績で卒業して或る官庁の准判任御用係になり、園田の家から通勤することになる。ところが、勤め先きの「お役所」の空気が、どうしても文三にはなじめないのだ。「課長殿に物など言いかけられた時は、まず忙わしく席を離れ、仔細らしく小首を傾けて謹んで承り、承り終ってさてにっこり微笑して恭々しく御返答申上げる。」というような、この官僚社会の「常識」が、どうしてもかれには受け取れないのである。
 「属吏ならば、たとい課長の言付を條理と思ったにしろ思わぬにしろ、ハイハイ言ッて其通り処弁して往きゃァ、職分が尽きてる」のがこの社会である。「自分が不條理な事を言いつけながら、あんなに頭ごなしに言う」長官があるかと思えば、その一方には、「僅かの月給のために腰を折って、奴隷同様な真似をする……卑屈極まる」属吏がいる。ここの職場では、筋の通らぬ課長のいいぶんに対して自分の意見を述べることは「目上」にたいして「抵抗を試みる」しわざと見倣される。前近代の澱んだ空気が人間を無気力にし、卑屈にし、妥協と屈従と迎合の中に「條理」を向う側におしやってしまう。こうして前近代的な官僚機構そのものが人間を人間でないものにしてしまい、「官僚」という非人間的な人間の型を作り上げてしまうのだ。そこには、ただ、條理を無視した「頭ごなし」型と、やはりそれを裏返えしにしたかたちの「奴隷」型・「属吏」型との差別があるだけである。いや、そういう区別さえ実はないのであって、「上」にヘイヘイ、「下」にガミガミというのが、この官僚というもののありていの姿なのだ。
 「近代」は「前近代」のワクのなかでは孤独たらざるを得ない。文三は、職場のなかで孤立し対立し、そしてついに「事務外の事務」に精励しなかったという理由で、このワクの外に追い出されてしまうのである。職場からハミ出た文三は、また園田の家でも「余され者」でありジャマ者でしかなかった。家族関係をワクづけるものが、職場を支配したと同じ、やはり前近代にほかならないことを、身にしみてかれは知らなくてはならなかった。
 こういう環境のなかで、文三という人間(近代人)をほんとうに理解できるものは、「ナショナルのフォースにスイントンの列国史」も読み、また「女学雑誌」などを愛読している従妹のお勢だけだろう。じじつ、この「新しい女」は、母親のお政を相手に「不運だから仕様がないサ。」といって、いちおう文三を弁護する立場にも立っている。けれど、そういう弁護が、文三の立場をしんそこから理解してのことであるのかどうか、といえば、それは甚だ頼りないものなのだ。一方では、「いいじゃありませんか、本田さんに依頼したって……」といって、属吏根性の世渡り上手「本田さん」にすがって復職運動をするようにと、文三にすすめるお勢でもあるのだ。そういうお勢のことだから、「婦人にもあれ老人にもあれ、それ相応に調子を合せて、かつてそらすという事な」い本田昇に心惹かれ、未来の課長夫人を夢見るようにもなって行くのだ。結婚は、こうしてお勢にとって課長夫人への「就職」を意味している。唯、それが本人に意識されていないだけの話だ。だから、本田が英語を教えに行くという課長の細君の妹は、この就職運動の競争者としてお勢の目には映ってくる。外出先きで出あったその妹を「一心不乱、わき目もふらず」に見ていたお勢は、本田に向って「学問はできますか」とたずね、「目元に冷笑の気を含ませ」るのであるが、その冷笑が何を意味していたか。お勢のいうこの「学問」「教養」というのが、相手に自分を高く売りつけるための嫁入り道具の一種にすぎなかったことは、すでに誰かもそういっていたとおりである。「フム学問々々とお言いだけれども、立身出世すればこそ、学問だ。」というお政の「古い」考えと、この「新しい女」の考える「学問」と、いったいどこが違うのか。
 文三は、こうして「新しい女」にも失望しなくてはならなかった。文三は、もう本当のひとりぼっちである。どうすればよいのか? 「『どうしたものだろう?』という問は、日に幾度となく胸に浮ぶが、いつも浮ぶばかりで答えを得ずして消えてしまい、其跡に残るものは只不満足の三字。」――作者の筆は、ここのところでぷつんと切れている。

 『浮雲』とはそうした作品だった。
 作者自身の言葉によれば、「作の上の思想に露文学の影響を受け……日本文明の裏面を描き出してやろうと云う様な意気込み」(『予が半生の懺悔』)で書かれたというこの『浮雲』は、「社会現象を文学上から観察し、解剖し、予見」(同上)するという、ロシア近代文学の創作方法を日本的現実のうえに適用させようとしたものであるらしい。だが、『浮雲』に結晶された「日本文明の裏面」の描写は、ロシア的というよりは、むしろ西ヨーロッパ的な近代文学の方法に拠るものだったといわなくてはなるまい。「近代」を越える者(明日をになう者)の立場に結びつくことで「前近代」を批判し、そこに「近代」を実現させるという、ロシア的な近代リアリズムは、そこには見られない。あくまで「近代」そのものの立場において「前近代」に対峙するという、西ヨーロッパ的な方法が、この作品を方向づけ、文三の運命をああしたものにして行っているのである。
 ルネサンス(それは、いわば「前近代」のワクの中での「前近代」克服の段階であった)を受けついで生まれた西ヨーロッパの近代文学が、こんどは「近代」のワクのなかで「前近代」の名残りを洗い去ろうとする方法――個人に内在する「前近代」の剔抉(心理的矛盾の分析)という方法を取り上げたということは、むしろ必然の成り行きであった。だが、その方法をいまげんに前近代のワクに縛られている日本の現実に適用した場合、どういうことになるのか。
 その答えが、『浮雲』であった。
 『浮雲』のリアリズムは、文三という人間の、またお勢という人間の、内部へ内部へとその批判のメスを突き刺して行った。そして、その心理の襞の一枚々々を掻き分けて、そのかげにあるこれっぽっちのシミをも見落すまいと、作者は入念に「観察し、解剖」(前出)するのである。が、そうして獲られたものは、といえば、「どうしたものだろう?」であり、「不満足の三字」であるにすぎなかった。作者自身のきおい立った言葉を裏切って、そこには、なんら「予見」(前出)らしい予見を見いだすことは出来ない。日本の近代リアリズムは、このようにして、なんらの予見をも含まない(解決を放棄した)というかぎりで「リアリスティックな」否定的リアリズムとして出発することになったのである。
 ところで、また、(軸を変えていうと)『浮雲』のリアリズムのすばらしさは、八〇年代末における近代的知識人の苦悶を、その心理の曲折において、しかもそうした屈折・曲折を結果せずにはおかなかった日本的近代の実人生そのものの追求において、その限りリアルに描きあらわしたという点にある。その限りにおいて、また、社会そのものの矛盾も個人の生活とのつながりにおいて剔抉されているし、個人の内側にひそむ矛盾も、ふかくするどく批判されている。文三がたとえ作者自身の影法師であったとしても、この文三は、作者によってけっして甘やかされてはいない。文三の軽蔑するお勢や昇が、けれど文三その人の分身(二葉亭その人の分身)でないとはいい切れないぐらいに、文三自身またお勢たちと同じような矛盾を持つ人間であることが、そこにハッキリ描き出されているのである。作者は、この作品において、自分というものを突き放して「観察し、解剖」し、よくも自分自身をこれまでに、と思うぐらいに心理分析のメスをふるい、その内在的矛盾を刳り出して見せているのである。
 『浮雲』のリアリズムは、その意味ではほんとうにすばらしかった。近代知識人の視点から、人間の内部と外部とが、きびしくするどくそこに追求され、社会と個人の真実が一つものの裏おもての関係としてくっきりと描き上げられている。たんに個人の内部がさぐられているだけでなく、外部が、またそこに探られている。『浮雲』のリアリズムに、社会的なスケールが欠けているとはいえないのである。が、それにもかかわらず、この作品に欠けているものは、この社会的な展望である、といわなくてはならない。「どうしたものだろう?」でこの作品を投げ出さねばならなかったのは、この社会的展望を作者その人が欠いていたためではなかったか?
 文三は何処へ行く?
 この問題の解決は、それをたんに人間内部の問題として追求しただけでは生まれて来るはずがないし、また、近代人自身の視野において社会を見つめただけでも、それはけっきょく堂々めぐりに終るだけである。が、考えてみれば、そういう展望をそこに用意し得るだけの現実の社会的基盤を欠いていたという点に、『浮雲』のリアリズムを狭く限界づける根本のものがあったようである。だからこそ、『浮雲』は、近代文学の先きがけでもあり得たわけなのだし、また、(むろんそれはソッポないい方だけれど)「もう十年遅く出たら」とか「早すぎた」というような声をさえ耳にする事にもなるわけなのである。このようにして、問題は、むしろ、現実の成熟にもかかわらず、現実そのものを視野の外に置いて、道一筋に『浮雲』の創作方法をそれとして追い求めて行った、近代リアリズムのその後の足取りにあるといわなくてはなるまい。そうした中で、『破戒』だけは、『浮雲』のこのリアリズムを一歩先きにおし進める契機を内に孕んでいたという点で、近代リアリズム文学史上注目すべき作品となっている。

 「どうしたものだろう?」と頭を抱え込んでしまった内海文三は、瀬川丑松と名前を変えて、もう一度文学の世界に姿をあらわしてくる。『破戒』においてである。行き悩み行き詰った文三(近代人)のための活路を見つけようというのが、いわばこの作品なのである。
 が、たんに、そういうふうに、丑松を文三の後身とだけいったのでは、なにかそこにそぐわぬものが感じられるだろう。丑松の悩みは明らかに文三その人の悩みであったけれど、その悩みを突き抜けて、前のめりにからだをよじらせながら敢て荊の道をいく丑松には、けれど猪子蓮太郎という道しるべが、心のささえがある。それに、すでに、お志保という道づれさえいる。丑松――文三は、もう孤独ではないのだ。文三は丑松となることで、ともかくあの孤独から脱け出すことができたのである。
 このようにして、『破戒』の作者に、強いこうした心のささえを与えたものは何であろうか。猪子蓮太郎とは、いったい誰であり、どういう人物であるのか。また、お志保とは、道連れとは、いったい誰であり何であるのか。

 「若菜集、一葉舟、夏草、落梅集の四巻をまとめて合本の詩集をつくりし時に」と前書きして、藤村は、『破戒』の稿を起こした一九〇四年(明治三七年)のその夏、『若菜集』の当時を回想して、次のように語っている。
 ――「こころみに思へ、清新横溢なる思潮は幾多の青年をしてほとんど寝食を忘れしめたるを。また思へ、近代の悲哀と煩悶とは幾多の青年をして狂せしめたるを……」(『藤村詩集』自序)
 かれもまた、当時、文三の分身であり、むしろ文三その人にほかならなかったことが、そこに語られている。そうして、この「近代の悲哀と煩悶」とが、若い藤村を「多くの寂しく暗き月日」のなかに閉じ籠めたことが、さらにそこに、つぶさに語られている。このようにして、かれの詩は、「なげきと、わづらひ」の抒情詩であり(『なげきと、わづらひとは、わが歌に残りぬ。』)「おぞき苦闘の告白」の詩であった。が、その苦闘は、「新しきに入らんことを願ひて」のそれであり、また、その告白の詩は、「ふるき生涯に安」んじえない若い近代人のおもいを、なんの「偽りも飾りも」なく「ためらはずして言ふ」ことによって、かれは、「身と心とを救」うことが出来得たのである。
 このようにして、「生命は力なり。力は声なり。声はことばなり。新しきことばは即ち新しき生涯なり。」と、かれが声高らかに叫んだとき、それは、文三(二葉亭四迷)にあってはまだ不十分にしか自覚されていなかった人間(近代的人間・内面的人間・個人)のとうとさが、藤村の内部において「生命」として把握され確立され終ったことを意味していた。北村透谷に師と兄とを見いだした藤村は、透谷のいわゆる「内部生命」を受けついで、みずからの抒情性を克服し、やがて戦の庭に(前近代との闘争の場に)われから身を投ずる人となって行ったのである。藤村のそうしたきびしい主体性追求のすがたは、『若菜集』において

くれなゐ細くたなびける
雲とならばやあけぼのの
雲とならばや

はとにふまれてやはらかき
草とならばやあけぼのの
草とならばや            (『あけぼの』)

と歌ったかれが、『一葉舟』においては、すでに

げに白髪のものゝふの剣の霜を拂ふごと
からあゐの花ますらをのかの青雲を慕ふごと
もみぢの影になくしかの谷間の水にあへぐごと
眼鋭く老いわしは雲の行くへをのぞむかな

たゝかふためにうまれては羽を剣の老いわしの
うたむかたむとをやみなく熱き胸より吹く息は
色くれなゐのほのほかもげに悲しみのわきあがり
つよく翼をひるがえしかの天雲をしのぎけり

光を慕ふ身なれどもさだめかなしや老い鳥の
一こゑ深き苦しみのおとをみそらに残しおき
金糸のぬひの黒じゆすの帯かとぞ見る黒雲の
羽そでのうちにつゝまれて姿はいつか消えにけり

命を岩につなぎては細くも糸をかけとめて
腋羽につゝむ頭をばうちもたげたる老いわしの
鉤にも似たるつま先の雨にぬれたる岩ばなに
かたくつきたる一つ羽はそれもなごりか老いわしの

霜ふりかゝる老いわしの一羽をくはへながむれば
夏の光にてらされて岩根にひゞく高潮の
碎けて深き海原の岩角に立つ若わしは
日影にうつる雲さして行くへもしれず飛ぶやかなたへ        (『わしの歌』)

と、「たゝかふためにうまれ」た老い鷲のたたかいの姿を実感を籠めて歌いあげ、「一こゑ深き苦しみのおと」を残して逝った「老いわしの一羽をくはへ……行くへもしれず飛ぶ」若鷲の姿を万感を籠めて見送る人になっていたことにも、ハッキリと示されている。この老いわしの姿に、透谷そのひとをのたたかいの姿を、――「吾人は記憶す、人間は戦ふために生まれたるを。戦ふは戦ふために戦ふにあらずして、戦ふべきものあるがために戦ふものなるを。」とそう語った透谷の投影を見るのはあながち無理ではないだろうし、また、「老いわしの一羽をくはへ」た若わしの姿を、透谷の遺志を受けついだ藤村その人の決意の象徴と見たとしても、この場合、そこにさしたるズレはないように思われる。
 そうして「行くへもしれず飛」び去った若鷲――藤村のその「行くへ」が確かめられるのは、まず『労働雑詠』(『落梅集』)においてであり、次いで『千曲川のスケッチ』においてである。が、今はそれには触れないことにして、やがて成長した藤村が「私は今日までの中途半端な生活を根から覆して、遠からず新規なものを始めたい」(『突貫』)とそう考えるような人になり、さらに「私は他人に依って衣食する腰掛の人間ではなくて、自ら額に汗する労働者でなければならない」(同上)とまで考えるようになって行った、という事だけをここに指摘しておくことにとどめよう。
 そいう藤村の手になったのが、この『破戒』という作品であったことを思うなら、丑松がそのまま文三に直結していない理由も、また、かれが猪子蓮太郎に導きの糸を見いだし、心のささえをこの先輩に感じているというようなことも、さらにまた、先輩蓮太郎を前近代の暴力のいけにえとして死に導かずにはおれなかった作者の気持も、或いは肯けるものがあるのではないかと思う。透谷その人と藤村自身との対比を、老鷲と若鷲とに、そして今はまた蓮太郎と丑松との対比のうちに求め、蓮太郎という名前から門太郎(透谷の本名)の名を連想するというのには、いささか無理が伴うとしてもである。
 ところで、お志保――丑松の同行者お志保は、どういう人物なのであるのか。
 お志保は、と改まっていうのには、この女性についての作者の描きは甘すぎる。このお志保と丑松との間柄は?――そこの描写も、実はいささか甘すぎるのだ。(『破戒』のリアリズムの穴は案外こんなところにあるのかも知れない。)で、むしろ、お志保の親である風間敬之進夫妻と丑松の関係や、敬之進一家のことを描いた場面などについて語ったほうがよいのかも知れない。が、それも、今はいちおうネグレクトすることにして、敬之進をいう人物が、そのいかつい名前からも推測のつくような士族出の小学校教師であること、しかも最後には「恥も外聞」も捨てて小作人に身を落とさなくてはならない、貧乏士族であることなどを、ここにいっておこう。お志保は、だから、まず、貧乏士族の娘、薄給な小学教員の娘である。小学教員瀬川丑松の愛人(?)としてのお志保は、あくまでそういうシチュエーションのなかにいる。ところで、移民労働者としてアメリカに渡る丑松の妻お志保は、もう士族の娘ではない。それは、ただの小作人の娘であるにすぎない。
 「同じ人間であり乍ら、自分等ばかりそんなに軽蔑される道理がない。」とそう思い、また思うだけでなしに、それを口に出して「わたしは部落民だ」といい切ったとき、丑松もた、敬之進たちと同様「恥も外聞」も捨てたのである。そのことでまた、自分が部落民であることを内心「恥」としていた、自分自身の旧い前近代的な観念(封建的奴隷根性)から自由になり得たと同時に、「外聞」を重んずる「前近代」のワクからハミ出してしまうのである。近代的自我の解放は、また同時に実社会からの自我の追放を意味していたのである。それだからこそ、それを口にする迄の丑松の悩みは長かったのである。文三の悩みとためらいは、また丑松のそれであった。が、丑松は、踏み切るべきところで、ついに踏み切ったのである。「ためらはずして言ふ」ことによって、かれもまた「身と心とを救」うことが出来たのである。
 このようにして、「自ら額に汗する労働者」(前出)となること以外に近代への道のないことが、そこにオボロゲながら考えられているらしく思われるが、労働者となった丑松とお志保のその後のたたかいの姿を描くことを、しかし作者はついに断念してしまっている。『破戒』の作者は、ふたりを移民としてアメリカにさし向けることで、問題をほんとうに追求し解決するという、リアリズム作家としての責任を回避してしまうのである。日本近代リアリズムの否定的な性格が、『破戒』においては極限に追い詰められたかたちで、その矛盾をバクロしているのである。


    四 「家」「土」そして私小説

 『浮雲』の否定的リアリズム(第八章、三「浮雲から破戒へ」参照)が、いわば『破戒』にその通路を見いだそうとして前のめりになりながら、行き詰ってしまったところで、日本近代リアリズムは、ぐんぐん後ずさりを始めるのである。『破戒』の作者、島崎藤村その人さえ、『家』(一九一〇年、明治四三年)の世界へ――(ゾラをひと廻りもふた廻りも小さくしたような形で)遺伝とか環境とかそうした条件から、宿命的に人間を見ようとする人になってしまうのである。
 『家』は、家族制度の問題と正面から取り組んだ作品だなどともいわれているが、実際は右に見るような作品でしかなかった。なるほど、そこに描かれているじめじめした人間の生活は、家というものの封建制――家族制度の重圧というものを考えないでは理解のつかない暗さに満ちたものであるが、しかしそれを、藤村は家族制度のための暗さというふうには見ていない。そういうふうには見ないで、この作家は、それを生まれつきの(生物的遺伝による)素質的なものとして捉えている。或いは、たかだかその家の「家風」(環境――生物的・自然的な意味での)が作り上げた個々人の気風・気性・性格である、と考えているにすぎない。「……私の家を御覧なさい――不思議なことには、代々若い時に家を飛出していますよ。第一、祖父さんが左様ですし――阿父が左様です。私だって左様でしょう――放縦な血が流れて居るんですネ。」こうして人間の運命を決定するものは、「血」(遺伝)であるとされている。
 これは『破戒』のリアリズムからの大きな後退であった。『破戒』を目して単なる傾向的な作品にすぎないとする意見もあるが、かりにそうであったとしても、すくなくとも、それは、『破戒』を発展させたものでなかった事だけは確かである。そればかりではない。二葉亭や透谷の立った地点から見て、大きな傾斜と屈折を示しているとさえ考えられる。そのことは、たとえば、かれが後年、「婦人の眠りの深かったということを私は一概に旧い囚われた思想とか、長いこと置かれた奴隷のような状態とか、屈従を強いようとする男子の偏見とかにのみ帰したくない。むしろ私は女性自身の内部に――本能と性欲とに支配され易く見える女性自身の内部に、その深い眠りのあることを想像する。」(『飯倉だより』)と述べていることから逆推してみることも出来るだろう。右の言葉だけについていえば、藤村はもはや日本のゾラですらない。単なる生理的本能に人間性の根源を求める、日本的自然主義者島崎藤村の詩が、そこにあるだけである。
 『破戒』の作者にして、そうだった。その他のリアリスト(自然主義作家)が、性的本能に人間の「自然」(本性=ネイチュア)を見いだし、人間(歴史的・社会的存在)を自然物(生物的・生理的存在)に還元することに一途だったのは、やむを得ないといえばやむを得ないことであった。人間を歴史社会的な主体として確立し得るだけの展望が一般的なものになるには、まだ間のある時代であったのだから。が、そういうことの当然の結果として、自然主義的リアリズムの到着点は、評論家長谷川天溪がそういったように、「現実暴露のの悲哀」ということであった。人間性の真実(自然・本性)をリアルに捉えようとして、人間を裸にしてみたら、「人間以前」がそこに発見されただけだったという悲哀であり、つまりは、人間とはこうしたものでしかなかったのかという自己嫌悪である。
 が、自然主義そのものの採った視点のズレは別として、個性の心理的矛盾のリアルな追求という、『浮雲』以来の近代リアリズムの創作方法にささえられて、自然主義文学は、結果として、日本的近代が示す社会矛盾や私の生活の歪みを、いちおういきいきと反映しているような作品をも、数多くうみ出している。心理描写はいっそうきめ細かなものとなり、それがしょせんは部分的真実の発掘にすぎぬものであったにしろ、近代的古典の代表作をいくつかそこに造型して見せていることは確かである。
 そのようにして造型された近代的古典のなかで、いちばんの問題は、長塚節の『土』(一九一〇年、明治四三年)だろう。プロレタリア文学のさかんだった頃には、地主文学だといって悪口をいわれ、いまはまたその迫真のリアリズムを高く買われて、日本随一の農民小説だなぞといわれているのが、この作品だ。いま、近代文学の分野で論争のマトになっているのも、またこの作品である。
 『土』は、貧農の「地上に蠢く虫けらのような生活」を、つとめて客観的にリアルに描こうとした作品であった。貧農自身の心理に即して、貧農の生活の実態を、そのそれぞれのディテールにわたって克明に、きめ細かに描いて見せたのが、この作品であった。いわばそうした部分々々の写実の盛り上りにおいて、地主・小作の関係も、たんに制度のマスクをつけた「地主というもの」と「小作というもの」との関係としてでなく、地主の旦那と小作の勘次という生きた人間と人間との複雑な絡まり合いにおいて形象化されている。それは、或いは、近代リアリズムの極地であったといっていいのかも知れない。だが、日本近代リアリズムのすべてがそうであったように、ほんとうの意味での批判精神を、この作品も持っていない。『破戒』の丑松が「通路」をあらぬ方に求めなくてはならなかったように、勘次もまた、その通路を(自分を「虫けらのような生活」から解放する、その通路を)地主の温情に求めなくてはならない。作者は、そうした人間の善意を信頼することで、この問題を「解決」してしまっている。その描写の確かさにもかかわらず、『土』のリアリズムがこんにちのそれであり得ないゆえんであり、また、そのリアリズムが『破戒』以下のものでしかないゆえんである。
 このようにして、全体的真実への追求を投げて、部分的真実の描写にリアリティー(現実性ないし実感)を獲得しようとする、偏向したリアリズムの帰結がどういうものであるかは、しぜん明らかだろう。私小説への転落である。内部と外部との「通路」を見いだしえないまま、対象を、また素材を、狭く作家自身の私生活のうえに限定して、その限りの真実をそれとして捉えるという方向に走らざるを得ないのである。そう思って見れば、徳田秋声の『黴』(一九一二年)などには、すでに私小説が顔をもたげていたし、二葉亭の『平凡』(一九〇八年)なども、しょせんそうした作品でしかなかったことが回顧される。自然主義的リアリズムが、いや日本的近代リアリズムそのものが、すでにその成立の当初において、私小説的リアリズム(?)ないし心理主義へのそうした転落を必至なものにしていたのである。すこし極端ないい方をすれば、『土』さえもが、部分的真実の寄せ集めに全体的真実を見いだしているという限りで、私小説的リアリズムへの(私小説へのではない)危険を孕んでいたわけである。
 こうした系列のなかに葛西善蔵・嘉村磯多などが登場してくる。『哀しき父』(一九一二年、大正元年)から『子をつれて』(一九一八年)に至る善蔵の一連の作品は、私小説ではあったが、自分を突っ放して見るというリアリズムにささえられて、多くの読者に共感を与えるものとなっている。けれど、それがひとたび作者のモノローグ(独白)に転じると、ここに私小説は、モデルにたいする興味だけで読む(この場合、読者にとって作者自身がモデルである)ごく他愛のないモデル小説になってしまう。(だから、私小説のささえは、作者が有名人であることだ。商品価値を持つ私小説というのは、楽屋話そのものが読者に有難がられるような作家のものに限るのである。)善蔵の作品も、やがてこのモノローグとしての私小説に転じていくものであったことは、前にも触れたとおりである。

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