文学教育研究者集団「文学と教育」84 1974年1月号 掲載

  母国語文化への愛情が国語教育のありかたを決定する---
<はじめに> ’73年11月27日に、茨城県高等学校教育研究会=国語部会の秋季研究集会(会場/県立境高校)が開催され、熊谷孝氏が、〈文学にとって言語とは何か〉という演題の記念講演をなさった。ここに掲げるのは、当日の講演記録の冒頭の部分を中心に、一、二、具体例(資料)の補足を熊谷氏にお願いして口述してもらい、編集部の責任において文字化したものである。(編集部)

  国語科は手段教科ではない

 初めまして、熊谷でございます。どうぞよろしく。……一時間ほど前にこちらへ伺ったのですが、午前の部の報告が一部午後に持ち越されて、いま討論続行中だということでしたので、控室のほうで待たせていただいておりました。その間に、しかし、県教育庁の指導主事の方や、各高校の校長先生方から、午前中の模様をいろいろお聞かせいただくことができました。県下高校の先生方がごめいめいに何年にもあたためてこられた研究成果の発表や、境高校の先生方で行なわれた研究授業、そして高校現場が現在抱え込んでいる問題というか、直面しているカベと対決したような切実な実践報告などが次々続いて、午前の集会は深い充実感があった、というような内容のお話でした。
 そういうお話を伺っていて、惜しいことをしたというか、しまったと思いました。きょうのそういうプログラムを、あらかじめ承知しておりましたなら、もう少し早い時間にこちらへ伺って、傍聴参加させていただくのでした。午前に行なわれた報告というか問題提起には、掲示を見ますと、たとえば〈古典による人間形成〉という提案などもあったわけですね。私としては、このご提案だけでも拝聴しておいて自分の話につなげたかった、と思います。と申しますのは、これからお聞き願う私の話の、一応予定していたことの中には、この古典 ということ、それから人間形成 ということに直接間接に関係するような事柄が含まれているからなのであります。

 私は、国語教育における人間形成――それをもう少し具体的にいって、母国語文化による人間形成、したがって文学による、また古典による人間形成ということがいわれる場合の、そこに形成し形成される人間 というのは、児童・生徒・学生個々人の発想 のことをさす以外ではない、というふうに考えております。発想あるいは発想法をさしている、ということです。
 そう考えませんと、(国語教育一般というより国語科国語教育についてなのですけれども)国語科の任務は、一方で、いわゆる意味での言語教育を行なう教科として、コア・カリキュラムのほうでいう道具教科、手段教科として、理数科や社会科などの他教科に奉仕し、また他の一方で、文学や古典によって国民的道徳感情を養うという形で道徳教育、特設道徳教育に奉仕するというかその片棒をかつぐことを副次的な任務とする、という、はなはだ奇妙な国語教育観・教科観にも滑りかねません。
 文学による、また古典による人間形成というのは、特設道徳奉仕の人間形成などであってはならないはずです。文学というもの自体が、常識の否定、通俗への抵抗・反逆というそれの基本的な性格において、そのことを拒否しているからです。また、民族の明日をにはう次の世代――その世代形成過程にある若い人たちの発想・発想法の基底・基本を培う、という意味での、文学による人間形成という作業は、国語科の教育活動にとって決して副次的な、つまり別冊付録的な、おまけ の仕事でなんかないはずです。国語科プロパアな、それは国語科にとってプロパアで主要な任務なはずであります。
 以下、順を追って、その辺のことを考え合いたい、と思います。

  言葉と発想は二人三脚

 発想というのはアイディア、観念のことですが、しかし観念一般というか、ただの観念のことではない。それは、いわばイメージぐるみの観念のことです。いきいきとしたイメージ、鮮明なイメージに支えられた、その当人の行為・行動に直結するような観念が発想と呼ばれているわけです。だからしてまた、各人の行動選択のしかたを方向的に自己規制するような、実感に裏打ちされた、ある確かさと持続性を持った観念のことです。ですから、それは、行動の実際面に具体的なある表情をもって顔を見せる、その当人の思想のことだ、ということにもなりますでしょうか。
 そういう持続性をやがて持つに至る、そのような発想のベースになるようなものを国語科国語教育は、はぐくむのです。発想……現実把握の発想ですね。国語科の作業は、児童・生徒の人間に関して、その科学的な認識方法をはぐくむとか、道徳感情の側面を養う、というようなことを直接の目標とはしておりません。結果として当然そういうことに関係するだろうし、逆に思考による観念=概念の支えを必要とするわけですが、それは直接の目標ではない、という意味です。誤解のありませんように。
 で、科学的な認識活動や何や人間の意識活動の諸側面のベースに働くところの、人間の全人的な発想の基本みたいなもの……自分がこの歴史社会を生き、歴史を創りあげてゆく人間として、自分自身が人間であることのために欠くことのできない、人間性に根ざす基本的な発想、あるいは発想の基本を、国語科国語教育は、学習者の精神の発達段階に即し、かつそれを促すような形で、次元をアップさせつつ、指導しはぐくむわけです。
 国語教育は、取り立てて言うのもおかしいぐらい、私たちの場合、母国語である日本語を、あくまで母国語として操作するしかたを、小学生から中学生へ、中学生から高校生へというふうに、次元を高めつつ学習者に身につけさせていく教育活動です。国語科の任務は、母国語に関して言葉操作のしかたを教えること以外ではない。そう言いきっていいのです。
 ところで、言葉操作のしかたを教える、ということが、どうすればできるのか、言い換えれば、より適切な言葉の使いかたができるようにするには、どうすればいいのかと申しますと、相手の発想・発想法を、よりまともなものに変えて行くほかはない、ということになるのです。なぜなら、言葉は言葉だけでひとり歩きすることはできないからです。言葉は、その言葉を使う人間の発想と二人三脚の関係にあるからです。それは、いわば親子の二人三脚です。発想のほうが親で、その子どもが言葉です。

  文体とは? 国語科固有の任務は?

 ですから、発想が異なれば言葉――文章の語り口 が違ってまいります。子どもは親の口まねをすると申しますが、それぞれ違った親(発想)を持った、それぞれの子どもたち(言葉・文章)は、またそれぞれ自分自身の親たちの口つき をまねた語り口 の言表・文章になるわけです。そしてまた、その口つき、語り口に応じた具体的な言葉の選択・配列――おしなべて文章のありかた がそこに生まれます。
 この、発想(現実把握の発想)・発想法との関係から文章のありかたというものが考えられた場合、それを文体 と、こう言うわけです。私は、文体ということの原点を〈現実把握の発想・発想法という切り口でつかまれた、文章のありかた〉という点に求めております。各種各様のいろんな文体論が現在行なわれておりますが、この一点――原点となるこの一点をつかみそこねた文体論は文体論のまがいものです。発想ということ、語り口ということ、それにかかわるかぎりでの文章のありかたが、文体ということの根本的契機、モメントです。
 先ほど来、私は、国語教育一般と国語科国語教育とを相即的・相関的ではあるが別のものだ、という意味のことをインプリケーション(言外の含み、言うまでもない前提)として語ってきていたつもりです。物理や化学や生物の授業でも、体育の時間でも、先生方は国語を使って指導なさるわけです。生徒諸君も、日本語という母国語を使って学習するわけです。それは、言葉の教授や学習そのものが目的ではないけれども、結果的には、その教科・教室を通してでなければ身につかないような、あるいは身につける機会を生涯失ってしまうような、ある種の貴重な母国語操作のしかたを学習する場となるわけでしょう。
 私は、つまり、いっさいの教科、またいっさいの教科外活動の場が国語教育の場になる、と考えています。場になる? 場である 、と言い換えたほうがいいかもしれません。ともかく、他教科の先生方が、そういう結果としての国語教育的機能が、ご自分たちの教室の作業には含まれているんだという自覚、自意識をもって生徒諸君に立ち向っていただけたら、と私は考えます。
 そこで、国語科国語教育ですが、これは究極の目的においても、また直接的にも、母国語操作のしかたを身につけさせること自体を任務としています。それが唯一の任務であるからこそ、発想と言葉との親子関係、二人三脚の関係を押えて国語教師は、教材を考え、授業を組む必要があるわけでありましょう。
 私のスラングでいうと、それは、国語科国語教育は〈文体づくりの国語教育〉になる必要がある、ということになりますし、〈文体づくり〉ということを目的とするという点で、他教科における国語教育、国語教育一般とこの国語科国語教育との任務分担の違いがハッキリして来るわけなんですが、しかしこの辺でこの話にワン・クッション入れることにしましょう。

  文体のある文章を若い世代に

 芥川竜之介が言ってるんですが、オスワルド――『幽霊』の中のオスワルドですけれど、彼が口にする〈太陽がほしい〉という言葉を、どう思ってか坪内逍遙は、〈暗い〉と訳した。話にならん、と芥川は批評しています。〈太陽がほしい〉は〈太陽がほしい〉でなければならない。芥川の言っている通りの言葉を引いて申しますと、こうです。「〈太陽がほしい〉と〈暗い〉とは、理屈の上では同じかもしれぬ。が、その言葉の内容の上では、真にあい隔つこと白雲万里だ」しかじか。
 〈言葉の内容〉と芥川がここで言うのは、つまり、そういう言表を必至なものとした発想と事物、むしろその発想によって把握されたその事物の像――現実像のことをさしているのでありましょう。
 この文に続けて芥川が語っていることは、いま、私たちが考え合っている〈発想と言葉との二人三脚の関係〉〈国語科プロパアな任務〉ということについて有力な示唆を与えてくれるように思います。「あの〈太陽がほしい〉という荘厳な言葉の内容――つまり発想ですね――は、ただ〈太陽がほしい〉という形式――つまり、そういう言葉の選択・配列のしかた、操作の仕方、またそういう操作のしかたによる文章の一定のありかたのことですね――よりほかに現わせない」というのですが。
 芥川はまた別のところで、「文章の中にある言葉は辞書の中にある時よりも美しさを加えていなければならぬ。」と言っていますが、辞書の中にある時よりも美しさを加えている言葉=文章というのは、まず何よりも書き手の発想がすばらしいということなのですね。それと反対に……というところで、国語教育の面に話を移しますが、たとえば作文指導の場合です。
 課題作文でも何でもいい、首尾一貫しない文、文章というのは、発想が混乱しているから、そういう結果を生んでいるわけでしょう。少なくとも、第一次的にはそういうことだと思うんです。
 先生方は多分、作文の添削をなさる場合でも、ただ文章のはしばしをいじくり回すことはなさらないでしょう。その文章を書いた生徒の発想法を変えるのにききめ のあるような、あるショックを与えるような形で文章の添削をなさり、評をお書きになっておられると思うんです。つまり、それなんです。文章の書きかた、言葉操作のしかたを、より生産的で矛盾のない(あるいは、より矛盾の少ない)ものにしていくためには、発想のあり方を変えるほかない、ということなのです。
 第二に、ある発想がそこにあったとしても、それが一定の文章のありかたとして、つまり文体 として定着を見せなければ、その発想そのものが不確かなままに終わります。発想とは言えないような発想として、ひとりよがりで、しどろもどろで、メロメロなものに終わります。「わかっちゃいるんだが、うまく言えないんだ、書けないんだ」というようなのが、それです。
 テストの答案なんか読みますと、書いた当人とは何しろ長いつきあいですから、わかるんです、何が言いたいのかということが……。だが、その答案は、担当の先生以外の誰が読んでもわかる、という言語コミュニケーションになっていない。これは、いくらインプリケーションを働かせても無理なんです。
 余談ですが、コミュニケーションというこの言葉は、送り手と受け手とのお互いの理解をコンモンなもの、共通なものにする働きという意味で、コミュニケーションとこう言うんだそうですが、その言表は、コンモンなものを実現する言表になっていない……。お互いさま、私たち教師族はこれから期末に向かって、そういうコンモンでない記述の答案に対面する宿命にあるわけですが、国語教育は、そこで、生徒諸君のそういう発想そのものを、あるいは発想のしかたそのものをつくり変える仕事に取り組まざるを得ません。
 で、そういう作業を発想づくり と呼ぶといたしますと、そういう発想づくりの作業を組む上に、さっきの引用ですが、芥川のいう「辞書の中にある時よりも美しさを加えている」ような、そういう言葉、そういう文体 の文章を教材化して生徒に与える必要が生じてくるわけです。芥川に従って、そういうすぐれた文体の文章、言語形象の作品のことを〈美しい〉とか〈美しさ〉という言葉で言い表すとしますと、美しい言表というのは、何よりもまず発想がすばらしいのですね。そして同時に、そのすぐれた発想が、その発想と見合うような文章の美しさを実現しているのですね。
 本当にすぐれた文章、美しいと言えるような文章は、言わずにはおれないものがあって書かれた文章なんでしょうね。その、はりつめた思い、緊張した発想が、他の言葉では置き換えのきかないような言表をもたらしているわけなのでしょう。〈太陽がほしい〉という荘厳な言葉は、どのような他の言葉にも置き換えがきかない、と芥川が言うのは、そのことなのでありましょう。私が言うのは、そういうはりつめた文体の文章、作品形象を生徒たちに与える必要がある、ということなんです。
 そういう文体の文章に接することで、生徒諸君の発想が鍛えられていくのです。同時に、何らか高められたその発想が言葉に結びつき、自分の言葉において自分の文体的発想と言えるようなものを、やがて徐々に持てるようになって行くのです。少なくとも、そういうことへの可能な足場を用意することになるのだ、と私は思います。
 しかし、それは所詮可能性にとどまります。可能性以上のものではありません。が、教師は、その可能性に賭けるのです。ギャンブルです。私は、教師の仕事は賭けだと考えております。可能性が可能性のままに終わり、やがてその可能性すら失われてしまうか、またそれが実を結ぶときがあるのか、教え子たちの未来に関して、いっさいは未知に属しております。
 お互いさま、学校教育の限界というか、教師の仕事の限界を感じることは、しょっちゅうですね。偶然に期待するというのか、偶然に祈る、というような気持ですね。が、蒔かぬ種は生えぬ、というんですか、アンデルセンの『サヤからとび出た五つのエンドウ豆』ではありませんが、私たちの蒔いた種が実を結ぶ時もあろうか、という、そういう思い、願い、祈りですね。

  言語そのものとは?

 すぐれた発想の文章、文体のある文章をくぐらせる以外に、自分の言葉といえるような言葉を持てる人間に若い人たちをはぐくむことは不可能だ、不可能に近い、ということを申しました。いや、誰某さんは本は読まなかったが……というような例を持ち出して反論する人もなくはありませんが、それはそれ、これはこれです。私の言うのは、目的地に到達する確実なルートはこのルートだ、ということを言っているだけです。確実な近道がはっきりわかっているのに、わざわざ別の道を選ぶ必要はあるまい、ということなんです。
 国語教育は言語そのものの教育なのだから、教材は日本語で書いてある文章なら何でもいいはずだ、文体がどうのなんて議論は非実践的だ――というようなことを主張する人がいますね。私の言うのは、こういうことです。混乱した発想・発想法の文章を教材にしたのでは、(それを悪文のサンプルとして提示するというのなら話は別ですが)まともな母国語操作の訓練用にはならないから、やめましょう、ということを言っているだけなのです。すぐれた文体の文章を教材に使えば効果があるのがわかっているのに、どうして、わざわざ、それを使うことを避けようとするのか、ということでもあります。
 効果があることがわかっているのに、と申しましたが、実は、多分、わかっていないんだろうと思います。そういうことを平気で言える人は、発想と言葉の二人三脚の関係――つまりは文体ということが、わかっていないんだろうと思います。文体が文章の決め手だ、ということが……。あるいは、そのことをあるわかり方でわかっていて、わかるからこそイチャモンをつけているのだろう、と思います。すぐれた文体、たとえば反俗的な、いきいきとした文学形象に示されているような、鋭利な刃物みたいな発想。……そういう、文体のある文章という名のクスリの副作用が怖ろしいんだろうと思います。
 それから、こういう人たちの考える、言語そのもの ということなのですが、この人たちにかかると、どうやら、「辞書の中にある時」の言葉が言語そのものであって、「文章の中にある言葉」「辞書の中にある時よりも美しさを加えている言葉」は言語そのものではない、ということになりそうです。サカ立ちもいいところです。
 辞書の中の言葉は、生活の中で実際に使われている言葉(つまり「文章の中にある言葉」、第二信号系としての言葉)が、記号化されて、辞書という形でプールされたもの以外ではありません。言語そのものとは、本来的に、生活の中で使用されている言葉――したがって「文章の中にある言葉」のこと以外ではないのです。ですから、相手の発想・発想法そのものに揺さぶりをかけながら、自分の発想を自分の言葉でいえるように相手を育てていく、という言葉操作のしかたの指導が、言語そのものの指導になるわけなのであります。

  〈古典〉と〈現代国語〉と

 いわば、そういう指導にとって不可避的、不可欠の手段が、すぐれた文学作品の教材化ということです。遅くとも高二、高三の時期までには、自分にとって文学であるもの、これが私の文学だ、というものを彼らのものにしたいと私は考えます。
 もっとも、その、私の文学 は、先へ行って私の文学 ではなくなるかもしれません。別のものが私の文学 になるかもしれないわけです。それは多く、その当人の文学体験の深まりを言い表しているわけで、むしろ悦ぶべきことだろう、と思います。が、今この時期に、私の文学、自分にとって文学であるものを持つことができるようにしたい、ということなんです。今、それを自分のものにできないようでは、例外はあるでしょうが多くの場合、先行きの望みは薄いということになりましょう。文学の眼で自他の生活をみつめ直すという姿勢を、先行き彼らの実人生の中に期待することは困難だ、という意味です。
 自分にとって文学であるもの、というのは、読むたび、読み返すたびに自分の主体がそこに問われ、問い直されるような文学――文学作品のことです。なんぞ自分に行き詰まりを感じたような時に決まって思い出し、読まずにおれなくなるような作家・作品の世界だ、というようなケースも人によってはあるかと思います。ともかく、そういう文学、そういう作品へのアプローチの足場を高校生諸君にと、そう考えるわけなんです。
 話は飛躍するようですが、高校の国語教育――国語科国語教育は、〈現国〉、〈現代国語〉と〈古典〉の二本立てで行なわれておりますね。テキストも別、担当者も完全分業という場合が多いようですね。茨城県の場合は全然存じませんが……。
 分担・分業のことは、それはそれで能率的でいいだろうとは思いますが、〈古典〉から〈現国〉を完全に分離し、また〈現国〉から〈古典〉を完全に引き離して国語教育を構想する、という二本立てシステムそのものに対しては私はあまり好意的ではありません。少なくとも、文学、文学作品による発想づくり、文体づくりの国語教育という視点からは、それは一本であるべきですね。古典も文学、いや古典こそ文学なのですから。現代国語――現代文学から切り離して考えられる(言い換えれば、現代というものから切り離して位置づけられる)古典というのは、ただの古文 なのですね。この二本立てが実施される時、教育課程審議会答申の文書に、たしか、「古典、すなわち古文と漢文」と記されてありましたが、この二本立て構想の根底に、古典イコール古文という考えかたが実在するわけなのです。
 決して揚げ足取るつもりはないのですけれども、古典ならぬ古文との対(つい)で考えられている現国というのは、やはり、ただの文章のことでしかないでしょう。たとえ、そこに、近・現代文学の文章の切れっぱしがテキストに掲載されているとしても、その発想・構想のベースにあるものは、そういう意識です。
 「でも、なかなかいい作品も教科書に載っているじゃないか……。」そうです。おっしゃる通りです。そのテキストをお使いになる高校の先生方の意識・感覚がしっかりしていらっしゃるから、そういう「いい作品」も載せざるを得なくなっている、ということなのです。それを載せないと使ってもらえないからなのです。
 しかし、それだけのことです。その「いい作品」が構成全体としてみれば、どういう構成の中に位置づいているか、という点に思いを潜めていただけたらと思います。そして、今申しあげた二本立ての問題なのです。若い世代――厳密な意味では世代形成過程にある若い人たちの発想づくり、文体づくりのために、ただの古文を古典に、ただの現代文を、現代文学、現代の評論の文章に還元して教材化し直していただきたいのです。
 ここで数分間休けいをとって、そのあと、いよいよ本題の〈文学にとって言語とは何か〉という問題を、言語の抽象的継時性・非同時性を文学がどう生かし、またどう越えているのか等々、考えてまいろうと思います。
(国立音楽大学教授)


熊谷孝 人と学問昭和10年代(1935-1944)著作より昭和20年代(1945-1954)著作より1955〜1964(昭和30年代)著作より1965〜1974(昭和40年代)著作より