読解指導ブームに寄せて      熊谷 孝         (『文学と教育』19 1961.3)
1.理論と実践のあいだ
 実感をぶっつけますが、読解指導のあのワク組みでは、文学作品を文学作品として鑑賞させるというか、それの鑑賞指導というようなことは出来ないんじゃないか、と思います。今の読解指導では文学の学習は成り立たないし、やれない。――放言だと思って聴きすてにしてください。が、実感です。あけすけな、僕の気持の楽屋裏です。
 ここはサークルのなかま相手のおしゃべりということで、構えないでいうわけなんですが、読解指導というあのワク組みは、そこで一ぺんご破産にしてかかったらどうか――と、そう思うわけです。
 それをご破算にして、というのは、例のいつもの持論ですが、国語教育の指導体系そのものについて、もう一度根底から考えなおす必要がありはしないか、という意味です。さし当たって、国語の学習を、話す・聴く・読む・書くの四領域に分けてそれをバラバラに扱かうという、あの方式だけは、今すぐにも改められなくてはなりません。
 読解指導というワク組みは、つまりそいうバラバラ事件の産物です。が、バラバラだろうが何だろうが、それで実際に国語の学習指導が成り立ちさえすれば構わんのですが、そうしたバラバラ作業の当然の結果として、この方式では教室が「国語」の教室にも「文学」の教室にもなってこないから困るのです。
 冗談じゃない、今はどこでだって読解指導ということでリッパに授業が成り立っているじゃないか。なんだったら僕の教室を見にきたまえ、僕の教室を――と、そっちこっちから叱られそうです。
 それはある意味では叱られるのも当然なのでして、読解指導というワク組みでは国語の授業が国語の授業にならない、というこのことは、同時に授業そのものがなっていない、といっているように聞こえないこともないからです。が、僕は、あなたの授業はなっていない――と、そんなふうに言ったつもりはないのです。どころか、読解指導と銘を打った授業をいくつか見せてもらって、感じたことは、それが一様に素晴らしい授業だ、ということなのです。ほとんど例外なしにそうだ、といっていいのです。
 どうか、誤解しないで聴いていただきたい。僕のいいたいことは、こうなんです。こういうことなのです。国語教師のそうしたすぐれた実践をみちびいている実際の理論と、教師その人が意識して持っている理論とは背中を向け合っている、ということなのです。
 それは、その国語の先生が無意識に、しかし実際に心のどこか片隅みに温めて持っている理論と、またそうした無意識の理論にみちびかれたその実践は実にすばらしい、ということなのであります。その反面、意識して持っている理論と、現実のその実践とは矛盾し対立している、ということにほかなりません。
 教師その人のつもり としては、自分の実践は自分自身の意識して持っている理論にささえられて成り立っている、と考えている。そう考えるのは当然だけれど、事実はその理論を裏切ったところで教師の指導がすぐれたものになっている、ということなのではないかと思います。
 読解は読解、作文は作文、話しことばの指導はまた別に――と、そんなふうな考え方で指導している人たちが、現に僕が接する範囲の先生方のなかにも大勢いるわけです。が、そういう考え方をしている人の教室をのぞいてみると、それはただの読解指導でもなければ、話しことばだけの指導だけでもない。統一的な一まとまりの国語の学習指導がそこに展開されているのであります。
 それは、論文の読解の時間ということだったのですが、読んで内容をつかませるというために、じつは生徒たちにそれを読んで文意を要約させたり、読後の感想を発表――「話させ」たり、「話し合い」の場をつくって、お互いのいいぶんをよく「聴きとらせ」たり、ノートにメモをとらせたり、、そして「全体の感想をよくまとめて、来週のこの時間に書いて持ってきなさい」ということで授業がおしまいでした。
 その間に、漢字の筆順についての指導もあったし、語彙や文法の説明もありました。たしか、「何がどうした」「だれが、どうした」といった主述関係をつかませる仕事も行われていたように記憶します。
 つまり、読むことだけの作業というのは現実にありえないのでして、話すこと、聴くこと、書くことがささえ合って「読む」作業が成り立っているわけなのです。

2.学習領域の問題
 読解というのは、しかし読むことだけをさして言っているのではない。読みを中心に、そして読めるようにするための一まとまりの作業を読解というのだ――と、あなたは、おっしゃるに違いない。
 たまたま読解ということを狭く理解しているような人たちの場合に例をとって、そんなことを言ってみたって、はじまらないではないか、うんぬん。
 その通りだ、と思うのです。が、それでは、どうして、読むことや書くこと、話すこと――それらが各個別々の学習領域の作業だという考え方をするのか、ということなのです。文章を読めるようにするために、やはり話したり、聴いたり、書いたりという作業を伴なわせることが必要だというのなら、それは結局、同じ学習領域内のそれぞれの作業側面だ、ということになるのではないでしょうか。それを別の学習領域だとして分けて考えることは、全然意味をなさない――そう思われるのです。 
 つまり、話す・聴く・読む・書くという言語活動の現象領域を、いきなり国語学習の方法的な対象領域と置き換えて考えたところにムリがあるように思うのです。ではないでしょうか。
 すこし順序を立てて申しましょう。それは、こういうことになるのです。話すのでも書くのでも原則的には同じことですが、たとえば「話す」ということは、それをごくひらたく言って、心に思っていること(相手に伝えたいと思うこと)を音声言語にのせて相手のまえに外化・表現する、ということにほかなりません。
 ということは、つまり、また、相手を意識し、その意識した相手を自分の内側に温めてコミュニケイトすると同時に、それを相手に向けて外化する、ということなのであります。これが「話す」ということであります。(内語のはたらきにささえられた、この内部コミュニケイション――それが本来の意味での「思考する」「考える」ということでありましょう。)そこで、「話す」ということは「考えて話す」ということであるわけです。
 内側に思考がはたらき認識が進行していなければ、それは第一コトバにはならない。黙して語らず、ではなくて、黙して語れず――話すことが出来ないわけなのであります。思考が伴なわなければ話せない。コトバが空転して、コトバがコトバにならないのです。
 が、それでもなんとか、ひとこと何か口に出してしまうと、それが刺戟となって内側の思考・認識が進行する――したがって、次ぎ次ぎとしゃべれるようにもなる、ということだってあるわけです。口にしてみないと、あるいは書いてみないことには、自分が何を考えているのかということもハッキリしない、ということだってあるわけです。
 私事にわたって恐縮ですが、最近僕は若い友人から、えらく肩をいからした、ぶっつけた調子の手紙をもらいました。どうも、そんなふうに怒られる理由がみつからないので、さっそく弁明みたいな返事を書きだしたのですが、それが、どうもいけません。書いている中に、こちらも、ひどくぶっつけた調子になってきたのです。
 これはいかん、という反省が顔を出して、結局、返事は書かずじまいに終ったのですが、つまり自分の書いたコトバ(表現)が刺激となって内側に怒りが(理由のない怒りが)こみ上げてきて、「心にもない」コトバが文字になってペンの間から次ぎ次ぎととびだしていくのです。例にならない例ですが、思考と認識とコトバとの関係――つまり、そういうことなんだと思います。
 が、そんなふうに言っただけでは、まだコトバが足りませんが、ともあれ話すことも書くことも、そしてじつは聴くとか読むということも思考し認識することだ、という点に思いをめぐらしていただきたかったわけなのです。そういう一点で、たとえば「話す」ということ、「読む」ということをおさえて考えてみた場合、考えて話す、考えて聴く・書く・読むという習慣を身についたものにさせようという国語の学習が、読むことと話すこと、書くこと、などでは学習領域が違う、といっていたのでは筋が通らなくなる、ということになりはしないでしょうか。
 注記すれば、話すということも聴き手があっての話すということなのですし、相手が黙々と聴いているという場合でも、やはり何らか反応がこちらに感じられるからこそ、話のつぎ穂もあるのです。それは、一方交通のコミュニケイションではなくて、対面交通の――なのであります。
 書くことと読むこととの間にも、いや時としてしばしば読むことと話すこと、聴くこと、そして書くことなどとの間に相互につながりというか、ささえ合いの関係が成り立ち、またそうした関係が成り立つことで、読むなら読む、話すなら話すという言語活動がそこに実現する、ということにほかなりません。
 このようにして、言語活動のこの四つの側面(つまりは音声言語と文字言語)を媒介とした表現活動と表現理解の活動は、むしろ、表現することもそれを理解するいとなみも思考し認識することにほかならない、という、コトバの認識機能においてつかみなおされて、その学習指導体系、その学習領域が設定しなおされなくてはならないように思うのです。いいかえれば、第二信号系としてのコトバの認識機能を反映論的な意義においてつかんだ、国語教育の方法体系が今こそ確立されなくてはならない、ということにほかなりません。

3.思考力というようなものはないのではないか
 話をいちばん初めにもどして、読解指導のワク組では文学学習は成り立たない、といったことなのですが、それはバラバラ作業の読解指導ではとてもやれる仕事ではない、という意味でもあります。文法学習を軸とした、一まとまりの国語学習の体系としての文法教育、また、文学学習を軸とした国語教育としての文学教育――コトバの認識機能に立った、そうしたワク組みのなかでしか文学の学習指導、鑑賞指導ということは不可能だ、という意味なのであります。
 そのことを少し視点をずらしていうと、特設「道徳」での文学作品の「利用」と矛盾しないような形でおこなわれる、文学作品の読解指導というのでは底がしれているというか、お里(さと)がしれる、ということになるのであります。「道徳」教育と矛盾しないような形で、というからには、文学作品としてではなく、それを非文学化し「道徳」化して扱うか、それともさりげなく、部分的な表現(つまり表現の切れっぱし)をとらえて、そこの字句の「修辞」の仕方なんかを「味わって読む」というふうなことで終わるほかないでありましょう。それを「味わって読む」ことが「鑑賞」だ、というような鑑賞指導では、あんまり子どもが可哀想すぎます。
 もう一ついけないのは、そのてい の、そうした文学作品の読解ということさえもが、「思考力を伸ばす」という教科「国語」の「目標」からいっては、二の次ぎのこととして考えられなくてはならない、とされている点です。文学作品なんか読んでいたのでは思考力が養なわれない、という考え方なわけです。それを裏側からいえば、読解指導のワク組みで考えられている文学学習というのは、けっして「思考力を伸ばす」ためのものではない、ということになりましょう。
 なるほど、文学の「読解」は、文章の切れっぱしを詠歎的な調子で「味わって」読んでいればそれでいいんだというふうなことにされているわけも、よくのみこめます。理由はわかるが、しかし一体こんなことでいいのか、ということなんであります。
 こんにちの読解指導ブームは、ところで論説文中心、説明文中心のそれであります。「思考力を伸ばす」のには論説文を読解させるにかぎる、というプリミティヴな――プリミティヴであるのはいいとして、プリミティヴにしてかつ愚劣きわまる考え方によるものであります。
 ひとこと言いそえておきたいのは、思考力がどうのというのですが、思考のはたらきをみちびく思考力というようなものは、実はないのではないか、ということなのです。思考活動は心的活動の一つのアスペクトにほかならない。思考力というような何か実体的なものがあって、思考のはたらきがそこから生まれてくると考えるのは、おそらく間違いであろう、と思われるのです。
 くり返して申しますが、思考力というようなものはない。あるのは、具体的な内容と結びついた、幾通りかの「思考方法」なのであります。ですから、ありもしない思考力一般を「伸ばす」ことを考えてみたって仕様がないのです。むしろ、どのような思考方法を子どもたちの身につけたらいいのか、ということが、そこに探ぐられなくてはならないのであります。
 「ない」ものを「ある」と考え、また、ありそうな気がして指導のワク組みを考えようとするものだから、思考の発達をうながすのにはやはり論説文にかぎる、というような、おさえ方をしてしまうことにもなるのです。どうも、うまくない。――うまくないな、と思うのです。
 そこで、僕にいわせると、こういうことになるのです。ひとくちに論説文というのにもいろいろあって、すぐれて子どもたちの思考の発達をささえてくれるような、思考方法のたしかな論説文もあれば、反対に子どもたちの発達をジャマしているみたいな、狂ったというかゆがんだ思考方法による論説文も、またけっして少なくない、ということになるのであります。これは文学作品の場合にしても、同じことです。今の教科書の教材は、そのいずれの方向のものが多いか――まず、その辺のところから考えてみる必要がありそうです。
 問題は、だから、どういう論説文を与え、またどういう文学作品を読ませるかでありますし、それをどういう指導のワク組みでおさえて学習するか――なのであります。
HOMEデジタル・アーカイヴズ熊谷孝デジタルテキスト館(『文学と教育』掲載)