< 熊谷孝 講演記録 >
1977年12月8日
川越・県立図書館ホール

 
文学と文学教育の間 文学にとって言語とは何か       国立音楽大学名誉教授 熊谷 孝 先生
『研究集録』 第18号 (埼玉県高等学校連合教育研究会/埼玉県高等高等学校国語教育研究会 1978年刊)所収
  ※ 後日文教研例会用に作製された加筆版を参照、補訂済 (2017.5.10) 
  講演レジュメ 
 1.アピアランスとしての文学 (S.K.ランガー)
○ 文学=芸術は、受け手(鑑賞者)の形象的認知 (=鑑賞によって喚起される感動)によってのみアピアするフェノメノン。すなわち、アピアランスとしてのフェノメノン。非物理的な実在。
〈注〉○ フェノメノン~現象一般。/○ アピアランス~芸術現象が最もティピカルな、いわば表現としての現象。
2.対話精神の所産としての文学
○ 一般の受け手と、送り手(作者)の<内なる受け手>と。その相互関係と関連。/○ 内部コミュニケーション (手紙と文学と)

3.文学の三要素 (ゴーリキィ)

①言語 ―― ○ 想像と言語/○ 古典と言語/○ 「言語の問題を文法の問題にすり替えてしまおうとする横着者」云々。
②主題 ―― 作家の体験の中で生まれた思想で、未定形のまま、作家の印象の倉の中で沸きたち、作家の中に、これを形象化する仕事への衝動を呼び起こすもの。
③筋 ―― 人間の相互関係の展開
4.文学にとって永遠の課題と営為
○ 言語形象を通路とする、あるいは言語形象を通路に選ぶことを必要とする側面において、自分が自分自身になるための(自己の人間を回復するための)主体的な、形象的認知の営み。
5.文体 (認識と表現)
○ Le style c'est l'homme même (ビュフォン)
○ 現実把握の発想と、文章のあり方(発想と言語の二人三脚の関係)/○ 表現することで認識する(認識を進行させる)
○ ユニテとしての文体/文章(表現)の選択 (トドロフ=大江健三郎)
6.個性的ということ (相互主観性/フッサール)
○ 普遍と個/○ 内部コミュニケーション (手紙と文学、上記2.参照)/○ 自己の拡充=自覚されない自我の発見 (岡本太郎)

7.文学と言語

○ それ自体<加工品>である言語という物材(マテリアルズ)のメディアへの再加工の過程。/○ 言語という物材の継時性と概念的抽象性(そのメリットの活用と、デメリットの逆利用)

8.ジャンルとメディア

○ 韻文と散文/○ 詩と散文文学/○ 実用と芸術/○ 短編と長編/○ アランの見解/○ ゴーリキィの短編小説論/○ 点と線

9.表示と表現 (J.デューウィ)

10.資料

私はときたま玩具と言葉を交わした。木枯がつよく吹いている夜更けであった。私は、枕元のだるまに尋ねた。「だるま、寒くないか。」だるまは答えた。「寒くない。」私はかさねて尋ねた。「ほんとうに寒くないか。」だるまは、答えた。「寒くない。」「ほんとうに。」「寒くない。」傍に寝ている誰かが 私たち(・・・) を見て笑った。「この子はだるまがお好きなようだ。いつまでも黙って(・・・) だるまを見ている。」 (太宰治『玩具』)
 


  1 文学教育とテスト体制の教育
 題名の「文学と文学教育の間」なんですが、間と申しますのは言うまでもないことで、間柄・関係・リレーションという意味でございます。サブ・タイトルの「文学にとって言語とは何か」、このタイトルは言い換えますれば「言語をメディアとしつつ文学はいかにして芸術であり得るか」というのと同じことでございます。
 
 言葉という奇妙きてれつ(・・・・)な物材(マテリアルズ)を使って、そして、そこに芸術現象を現象せしめるというふうな芸当は至難のわざであります。が、どうやら文学は、たとえば高橋義孝さんあたりは例外として、大概の方は芸術と考えていらっしゃるようです。私も芸術以外のものではないという考えをしております。
 
 確かに、芸術になりにくい素材なのでございますね。その言葉を使いながら、如何にして芸術になり得るのか、文学は。そういう所へ話をだんだん持って行きたいと思っております。

 あらかじめ入口の所で、お配りいたしましたが、このレジュメでございますね、これ、必ずしも話題の順序ではございませんで、思いつくまま、なんか今日の日のために印刷屋へかけ込んでつくらせたものでございます。

 まず、文学と文学教育の間柄ということなのですが、関係がどこにあるか、ということなのですけど、今日は文学の方から文学教育をまず考えて行きたい。

 そうしますと、文学には文学固有の性質があります。特殊な性質がございます。文学だけで、決して人生は成り立ちはいたしませんが、文学を欠いては人生が人生の名に値しないようなものになりはせぬかと思う一面がございます。が、それは他でもない文学の文学性ということですし、文学の機能ということですけど、その文学の機能が要求する教育のあり方、それを実現しようとするのは文学教育だろうと思います。文学がわからなくて文学教育は出来る道理がございません。

 要するに文学教師の、あるいはそれを広く言って国語教師の本当の仕事ってのは、教室のことはめいめいの教師、めいめいの先生にお任せ願ったらいい。その先生がいちばん目の前の生徒のことを知っている。何が欠けて、どんな長所を持っているか、伸ばせば、こう伸びるってことを知ってらっしゃる。従って、授業の仕方ですか、そんなもの、まわりからつべこべ言う必要がない。それは先生方個々の問題だ、私はそう思います。

 大野晋氏が持論としておっしゃること、指導要領は間違っている、というのは、決して教育委員会や文部省のこと悪口言っているのではございません。大野さんの意見もっともだから紹介するだけなのでありますが、指導要領は間違っている、これもやれあれもやれと言わなくていいんだと。「その先生が、本当にやりたいと思うこと、情熱を傾けてやりたいことをやって戴けばいいんだ」。文学教育に関しては、先生よ、あなたの本当に必要と思う作品、生徒に与えたいと思う作品を民族の遺産として受け継いでもらいたい。

 文学には、ゴーリキィが言ってますけど、ある意味では国籍がございません。ひとりの人間が人間になるための営み、それが文学なんですから。ロシア文学であれ、ドイツ文学であれ、日本文学であれ、そこに国籍はございません。たとえ翻訳作品でも、とにかくわたしはこの作品を訴えたい、それは『ジャン・クリストフ』でも『赤と黒』でもいい、なんでもであります。これこそ訴えたいと思う作品を、本当に心から訴えていってください。そして、漱石なんかろくすっぽわからない人が知ったかぶりでやる漱石の授業なんて、それは決して感銘を与える道理がない。漱石には暗いが、鷗外には傾倒している、青年期から中年の今までやっている、そして本当に、生徒に与えたい、そういう作品がありますね。それを選んでおやんなさい。そう指導要領は書くべきだ。これ大野さんの叫びでありますけど、わたくし、まったく同感であります。それじゃ漱石は知らんから漱石は教えなくていいのか、鷗外やっていりゃいいのかい、とこういう問いが出て来ますが、それは別問題でございます。別の次元の問題でございます。自分は鷗外にうち込んだが漱石についてはあまり知らん、しかし、自分は漱石を知りたいという気持があったらそれでいいんだ。自分が知りたいと思うもの、それを生徒と一緒に勉強し合ったらいい。教師が文学がわかりたいってその気持、それが相手生徒の心にひびいて行くところに文学教育は成り立つんです。こう語っておられるのは手塚富雄先生であります。わたくしも同感であります。

 ともあれ一番いけないのは、申すまでもございません、テスト体制の教育でございます。ここからは文学教育は逆立ちしても生れてまいりません。なぜならば、テスト教育のテスト教育たる所以のものを、文学の授業の場へおろして申しますれば、テスト教育たる所以のものは正解を一つ用意してあるんですね。(教師が)何とかという作品の主題は、斯く斯くであって、副主題は、また、斯く斯くしかじかであって、というふうな答えを用意しておいて、それが絶対のものと決めてかかっておいて、なんとかして生徒の理解を、教師の解釈ですね、その解釈へもってこさせる。一致すれば百点だし、全然意見が違えば、何点かは知りませんけど
……。これでは文学教育は成り立ちません。答えをひとつ用意しておいて、その答えへ生徒をむりやりしごいて持っていく教育、これは文学教育の敵であります。また文学をわからなくする教育であります。

 文学とは、などと開き直らなくても、めいめいが、めいめいの仕方でわかる他ないものが文学でございますね。唯一絶対の答えなどというものは、ありようがございません、ですね。嘘だと思う人は、よっぽど文学音痴ですね。わたし、これははっきり言えることですね。

 だって、私、無論ロシア語のロの字も知りません。翻訳を通してしか知りません。何か、生意気盛りの旧制中学の四、五年の頃ですね、例えば『罪と罰』とか、何とかを読み耽って非常にいい気持になって、自分なりの感動をして、それが、大学生時代になって、読み返してみると、全然違った内容の作品なのですね。またそれから十年の時を隔てると、全然とは申しませんが随分ソッポなつかみ方をしていたことを感じるんですね。前と変らないのは、例えば、『罪と罰』という題名が変らないだけ、登場人物がだれだれで、だれだれだということだけが変らないだけ、だれさんがだれさんに愛情を傾けたということが変らないだけ。その愛情のあり方も何もかも、それはすべてソッポなつかみ方をしていたことを感じますですね。

 だから、自分というひとりの人間を考えても、自分が育っていけば、それに応じて別の光が与えられるもの、別のテーマがそこに発見できるもの、別の強烈な感動がそこに生まれて来るもの、これが文学であろうかと思うのであります。これは私だけの体験ではなく、ここにいらっしゃる全員の体験かと思います。中学生時代に読んだ芥川の『羅生門』と、いまあなたが感じていらっしゃる『羅生門』と同じだという人があったらよっぽど狂っています。

 これは友人の小田切秀雄が言っていることなんですけど、この点は、彼に同感なんですけど――。石川啄木の作品てのは、おそらく世代をこえてと申しますか、ある年齢期にですね、少年期から青年期にかけて読んで、感動しないって人間はゼロに等しいであろう。感動の中味・あり方は別として、ソッポとは言い切れない。とにかく心を奮い起こさせた、こういう印象をほとんどの人が感じたであろう。しかし、中年になり、老年に及んだ時、かなり多くの人が言い出す。「単純な文学だよね」。「さもない文学だよね」。「若いから感動したけど、つまり幼なかったから感動したけど、あの作品は幼ないよね」、と言いだす。

 これはたしかに、一面の真実を突いてはいる。けれども、もっと大きな真実を見逃がしている。自分がボケたんだ、ということ、精神が枯渇したんだ、ということ、みずみずしい感情を失ったんだということ。そのことの現われ以外にはない。彼はそう言っております。私も、これまた、同感であります。なんか文学というものは、そういう性質を持っているのだと思います。

 ひとつの正解とやらを用意して、教師が、それを絶対のものとして生徒におしつけていく、そこからは文学教育は生まれません。しかし、そうしないとテスト教育は実現しません。テスト教育とのたたかいです、文学教育というのは。そう考えております。


 

  2 ともに、よろこびを分かちあうもの
 文学というものは 、究極においては、自分でわかるほかないもの。人に教えてわからせてもらうってものじゃないってこと。いくら教えたってわからせることが出来るとは限らないものだ。

 芥川龍之介、彼は言っています。半世紀前に。「鑑賞上の明き盲」。柿本人麻呂の、あるいは山部赤人の長歌を読むのと、銀行とか会社の定款を読むのと、第一条「本銀行は
○○銀行と称する」ああいう定款を読むのと、選ぶことのない読み方をして済ましている人がいる。こういう人がつまり「鑑賞上の盲人」だと言っております。これはいかなるすぐれた教師につこうが、いかなるすぐれた作品に接しようが、これは救い難い存在であって、ついに文学と縁ない衆生であると。あながちに、そういう意味で言うんではありませんが、結局文学っていうものは、自分でわかっていく他はない。教えられてわかって行くってもんじゃない。

 さはさりながら、基本ってのはあるんだと思うんです。東に向っていけばわかるのか、西に歩みをすすめればわかるのか、そういう方向っていうものはあるんだと思う。ぼくは、せいぜい、学校教育における文学の授業っていうものは、そういう方向感覚をつけるだけの仕事ではないか、って思います。そうやっているうちに、本当に生徒が、その作品に感動してくれる。そういうことが出れば、しめしめ(・・・・) ってとこじゃないかと思います。だいいち、われわれがある作品を選んで生徒に与える。これを実は、その作品に対する自己の感動があまりに大きい、が故にその喜びを、感動をわかち与えよう、ここから文学教育はスタートするんだと思います。だから自分で感動もしない作品をですね、いい作品だなぁ、この助詞の使い方はどうだんべい、というようなことやってみたって、そんなものは、決して相手の心に、食い入っては行かないだろうと思います。

 根本は、くり返します、我が感動を愛するものに与える、ってことです。

 つまり、私には戦争体験を経ている、年齢からいって、そういうつらい経験をしたひとりでございますけど、その時、既に人の子の親になってました。三つか四つの子どもがいたわけなんでありますが、食糧難でございますが、やっとのことで手に入ったあるおいしい食べ物ですね、これまさか、子どもにかくれて、寝る時間を見はからってがつがつ食べたりはしませんでした。自分のおいしいと思うもの、そして、子どもの好みに合うにきまっているもの、それは必ず子どもに食べさせて「パパはゆうべ食べたからいいよ」なんて言って、実は食べないんですけど、子どもに与えます。そんな経験は、お互いさまのものだろうと思います。文学を与えるっていうのも、そういうことなのだと思います。感動した作品を与えるのです。また感動が十分でなくてもいいのです。さっき言ったように、何か自分の読み方がですね、間違っているために感動が湧いて来ないのではないか、何とかして、この作品をわかろうとする、そのわかりたいって気持をもって、生徒と一緒に読み合う、話し合う。ここに文学の授業が実現するのだというふうなことを、わたしはみなさんに申しあげたつもりなのでございます。


  3 アピアランスとしての文学
 その辺でちょっと教育離れをいたしまして、文学とは、というふうなことで問題をさぐる、というと大袈裟ですが、煮つめていきたいと思います。

 文学とはと問うても、切り口によって答えはいろいろにはね返ってくるんだろうと思うんであります。なんか、四角の豆腐も切りようで丸かったり、なんとかという諺もございます。同じ木も縦割り、横割りでもって年輪がくっきり出たり、別の木目が出たりするのと同じでございます。それをひとつの 現象 という切り口で言った場合が、そこのレジュメ
[【講演レジュメ】]にあります1.でございます。「アピアランスとしての文学」、わたしの考えではなくて、わたくしが教えられたなと思った考え方でございます。わたしの文字通りの拙著でありますが、『芸術の論理』の中に縷々くわしいことを書きつけてございますが、S.K.ランガーの見解でございます。釈迦に説法でございますが、ランガーは無論、女流哲学者、アメリカ人であります。もう亡くなられたんじゃないかと思います。ずっとアメリカのラドクリフですか、どういう大学か、わたくしは全然知りませんが、そのラドクリフの哲学の講師をずっとやっておられた方です。そして『象徴としての芸術』てな形で日本に知られ、また二、三翻訳されたものが出まわっております。が、その中には愚劣な訳も多くて、口幅ったいことを言うようですけど、とんでもない訳もありまして、彼女の著書の多くは講演集でありまして、わたしみたいに粗雑なおしゃべりではないんでありまして、格調高い講演なんですが……。やはり話し言葉ってのはアメリカ語でも平易でございますね。平易な英語で書いてございますので字引き片手に読めるものでございます。わたしの本の中にいろいろ紹介してございますので、機会があったらのぞいてくださいまして、是非、是非、ランガーの意見に耳を傾けて戴きたい。こう思うわけであります。

 彼女は要約するとこんなふうなことを言っているわけです。レジュメに書いた通りです。彼女は文学にふれておりません。芸術一般を問題にしております。時として舞踊芸術 ・ ダンス ・ バレーとか、そういった芸術を論じておりますが、芸術一般、全般にあらゆるジャンルの、芸術ジャンルにあてはまるような、適用し得るような意見でございます。音楽を語り、舞踊を語りながら、実は文学を語っているのと同じ結果が出ているのでございます。

 (レジュメ[【講演レジュメ】]を)読みます。「文学=芸術は、鑑賞者の鑑賞によってひき起こされる感動によってだけアピアする(表われる)。」そのようなフェノメノンだということを言っております。即ち、アピアランスとしてのフェノメノン、それが芸術なんだと。こういうことを言っております。フェノメノンとは何だ。そこに書きつけた通りでございまして、フェノメノン ~あらゆる現象を指すわけでございます。

 そのフェノメノンの中にアピアランスとおぼつかないようなフェノメノンがあり得る。こういうわけでありますね。アピアランス~芸術現象が最もティピカルな、いわば表現としての現象でございます。そういう意味で、こんなふうに語っておりますが、これだけ明確な整理は少ないんじゃないか。あたりまえと言えばあたりまえです。あたりまえだあね、と言う方は真理だあねという言葉に置きかえて戴きたいな。そういうふうにわたくしは思っております。こういうことでございます。

 言葉を重ねます。フェノメノンと申しますのは現象一般ですから、例えば、経済現象みたいなもの、政治現象みたいなものなんであります。つまり文学現象もそれに入るのでありますが、芸術以外の諸現象の、というのはどうかというと、それは実在する現象でございます。そしてその実在に関して、経済現象なら経済現象に関して、自分になんの関心がなくても、興味がなくてもですね、自分の生活にですね、自分という人間にですね、作用を及ぼすものが、一般のフェノメノンでございます。

 早い話が、わたしなんかが行っている教室など、考えますと、換気が悪くてたちまち酸欠状態になってきます。幸いに国立
[音楽大学]の方は四月で幸か不幸かやめましたけれど……。ある教室なんか、三百人、四百人詰め込んで、マイクで怒鳴りまくっている講義でありますけど……。二十分もしますと、いたたまれないような息苦しさを覚えてきます。酸欠によるものだという自覚は、めいめいに無いんだけれど、学生諸君にないんだけど……。あの辺でも、この辺でも欠伸が始まる。つい話したくなって隣り同士がつっつき合う。場がもたないということになってきます。中には卒倒する人間などないわけではございません。初夏なんかの頃です。その酸欠現象という自然現象は、それへの自覚がなくても、学生諸君ひとりひとりに、また教師であるわたしに、作用を及ぼすわけでございます。

 経済現象も言うまでもない。私は経済現象に関する知識ゼロなんでございますけど。ただ新聞やラジオ、テレビで知っているだけでありますけど、例えば、円高相場の問題、ぼくには、それの何たるかが、ほとんどわからないんでありますが、ちゃんと生活にひびいて来ているということは事実でございます。

 私にとって、今年は不幸な年で、四月の末に娘を亡くしたのでありますが、子どもをひとりと無論夫をひとり(夫はひとりに決まっておりますが、)残して死んだのでありますけど。その亭主どの(娘婿殿)毎日のようにぼくの家にやってくるのでありますけど、この間中やって来て、青菜に塩みたいな顔してんですが、奴は商社マンなんです。どうしたんだようと言ったら、ボーナスが出るか出ないかわからないんだってんだ。毎年いままで、五ヵ月ずつ出たんですね。思わず囁きが出ました、すげえなあって。ぼくもそう思います。うらやましかったんです。ぼくのとここは二カ月半でしたか。うらやましくてしょうがなかったんです。ところが彼はいまや、青菜に塩、どうしたんだと言ったら、〝円高相場だよ〟、ボーナスが出ない方はまだいいので、いろいろな諸手当が削られそうだとか。今度は、その男の子がいるわけですが、彼の今の楽しみは8ミリを買ってもらえるという希望を持ったクリスマス・プレゼントです。あれ到底買ってもらえません。子どもにもちゃんと被害が出る。

 こういうものが、つまりフェノメノン一般であります。自覚しなくても、しても、それがこちらに影響したり作用するのです。芸術現象は違うんです。さっき申した芥川の「鑑賞上の盲人」・無神経な人間には、影響を及ぼさないのであります。猫に小判という言葉がありますが、その諺の通りでございまして、猫にとって小判は小判として現象しないのと同じ意味であります。芸術現象というものは、それに対して熾烈な関心を持たない限り、感動すべきものに感動できないかぎり(その感動とは人間的感動であります)、そういう人間に対しては、芸術現象は、ディス・アピアランス、現われない、出現しないんであります。関心を持つものにとってのみ現象する、これが芸術現象であります。

 音楽だってそうです。ただうるさい雑音のやり切れない雑音のかたまり(・・・・) としてしか響いてきません。音楽になってまいりません。いわんや、文学においてをや、でございます。そういう特質を持っているのが文学芸術なのだということですね。これは、はっきりおさえたいと思います。

 [【講演レジュメ】]1.の三行目に「非物理的実在」と書き添えてございますが、彼女自身の、彼女とはランガーの、言葉で言えば「虚なる実在」ですか、彼女は観念論者なものですから、そういう言い方をしますけれど……。これを一般化して言えば、非物理的な実在、それは物理的なものではない。だから、天井から何か落っこって頭にぶつかって、あ痛え、と違う。こっちが痛いと感じないかぎり存在しない、そのようなものだってことでございます。彼女は、もっときれいな美しい言葉で、比喩をもって語っております。

 謂うなれば、芸術現象は、雨のあと、空にかかるあの虹のようなものだ。それは手でつかもうとしても、そういう意味での物理的存在ではないから、つかめない。それから空を仰げば、必ず虹が懸っているものじゃない。時間的にも雨の後とか、ある地点から見た場合、たまたま見ることが出来るのが、虹であります。そして虹を眼にした人は、等しく美しいと感じるでありましょう。これが芸術です。というふうに語っております。ぼく流の野暮な言い方をすれば以上のようなことでございます。

 なお、1.の一行目の「受け手の形象的認知」、ひらたく言えば、鑑賞者の作品鑑賞によってひき起される感動ということでありますが。そこにおいてのみアピアする現象だと、彼女の言葉を紹介いたしましたんですが……
 そうすると必ずや疑問を持たれる方がいらっしゃるわけであります。
 受け手、文学の場合の受け手(鑑賞者)、それは別の言葉で言えば読者ってことですね。読者においてだけ、読者の鑑賞においてだけ、実現するものが文学現象だということなんですね。変じゃない? 作者はどうした作者は、作者の方が、もっと、芸術現象をつかんでいるんではないか。つかめなくて何んで『羅生門』が書けるであろうか。こうなるわけです。

 おっしゃる通りであります。決して作者には文学はわからないなんて、そんな妙てけれん(・・・・)なことを言っているのでは、ランガーはないのであります。


  4 対話精神の所産としての文学 
 そこで、レジュメ 2.の本文の方をご覧いただきます。一般の受け手と申しますのは、文学の場合で言えば、一般の読者において文学が現象することは、ただ今申した通りであります。そこは問題ないんですが、その次をご覧ください。送り手、作者でございます。作者においても無論現象するということなのです。無論どころか、第一義的と言ってもいい位でございましょうね。しかし、それは作者と言ってもいろんな、ひとりの人間にいろんな多面性があるようにですね、作者にもまた多面性がございまして、作者のもつ、ひとつの受け手としての面、読者としての面、鑑賞者としての面、ここにおいて文学はアピアするんだということです。ペンを走らせているその指に現象するわけではないということ。この点、まずはっきりさせて置きたいなと思うのであります。小むずかしいことを申しあげているのではございませんで、これは、何のことはない、人間存在の根本規定に関わることでございますね。

 例えば、[【講演レジュメ】2.の]二行目、一番下に(手紙と文学と)と書いてございます。その上に内部コミュニケーションってあります。人間とは、コミュニケーションをしつつ生きている生き物でございますけど……。コミュニケーション出来るということは、内部コミュニケーション出来るということですね。私の話が、どうも下手くそで困るんですけど、多分アピールしていないと思うんでありますけど、ただ、私なりに努力はしているわけなんです。

 かかる先生方でいらっしゃるだろう。インテリジェンスの高さはこんなふうであろう。文学にこんなふうな関心をお持ちであろう。というふうなことを温ためながら、内なる、ここに上田先生という方がいらっしゃれば、上田先生を温ため、上田さんと熊さんとが心の中で対話するわけですよ。インターナル・スピーチ、内なる言葉を外なる言葉として音声に乗せて出しているわけなのですね。内部コミュニケーションが出来なくて、なんで外部コミュニケーションが可能であろうか。われわれは常に心に温ためた仲間との話し合いの中で生きている。それを前提にしてしゃべっている、ということなのでございます。

 だいいち、人間はそもそも生まれてくるとき、……ルーツという言葉がいま流行っていますが、ルーツの一番近いのは親爺さんとおふくろさんですね、そこへ熊さんなら熊さんが生まれてきます。オギャーッと言って、これでも赤ん坊の時ございまして、生まれました。つまり最低二人の所へ、ひとりが加わるわけです。ぼくの場合、末っ子ですから、四人兄と姉がおりましたから、七人の中へ生まれてきたわけです。それから、近所、隣だ、親戚だ、いろんなものがきて、こっちを育ててくれたわけです。つまり私は七人の侍プラス・アルファーによって、その人たちを仲間として、だんだん見よう見真似で、その人たちの言葉遣いを真似たり、エロキュ―ションを真似たり、いろんなことを身につけてきたわけです。

 わたしはたしかに熊谷孝という個人、単数の人間でございますが、わたしの中には無数の人間が住んでいるわけです。最初、最低七人の人間がいた。それから、だんだん幼稚園へ行くころになって非常に拡大し、小・中・高になってすごく拡大していった。そういう仲間たちがわたしの心で動いているわけであります。それが、全部わたしの中に生きているわけではないんで、こんな奴はつまみ出してしまえ、縁切るよと言っておっぽり出した仲間もたくさんあります。いままで知らなかったけど、初めての人で、非常に心うたれて仲間に入ってもらった。そういう仲間もあります。そういう人たちとのコミュニケーションですね。内なる言葉を通しての、もう言語の問題です。実は入っているつもりなんです。そういう内なる言葉を通してのコミュニケーションの中で、自分という現在の人間が、良かれ悪しかれ出来てくる。こういうことが人間存在の根本でございます。「存在が意識を決定する」、有名なテーゼでございますが、それをひらたく言えば以上のようなことで、人間とはそのようなものであります。いわんや、文学者、芸術家の場合、すぐれて良き仲間をとり入れ、悪しき仲間を追放し、という存在なわけで、ギュヨーが言っておりますが、「芸術家の内部はオーケストラである。いろんな楽器によって満されている。演奏者をさし替え、入れ替えして、そして自分を向上させる」ということを語っておりますが、手紙ひとつ書く場合も、わたしたちは相手を自分の中に温ためて書くでしょう。

 例えば、学生時代に、ぼくは親爺のところへ、金の無心の手紙を書きましたが、あまり見えすいた嘘を書くと、後がたたるものですから、見破られないような嘘をこしらえながら、親爺の顔をちらちら思い浮かべながら、そういう時に限って、馬鹿丁寧な文章になってしまって、これではかえって見破られるっていうんで、バリッと破って、しかるべく甘ったれた調子の、半分やくざな言葉を使ったりして、親爺へ手紙を出したことがございますけど。手紙というものも、相手を内に温ためて、相手と自分の内部において対話しながら、ペンを走らせるわけですね。親爺だけがわたしの中にいるんじゃなくて、いろんな仲間が心の中にいて、忠告を与えてくれますね。さっきの手紙の話の、見えすいたような、馬鹿丁寧な文章で書いたら逆に訝しく思うよ、もうちょっと、くずれた調子で書きなよ、なんて声がひびいてまいります。そうすると文章を書きかえて、最後に浄書して、親爺さまのところへ送る。こんなことをやったこと、しばしばございました。手紙と言えども、そういう内なる仲間との対話の中で行われている。その点文学も同じだということを、まず第一に言いたい。

 作家が自分の訴えたいこと、叫びたいこと、わめきたいことを書いたもの、それは文学ではございません。読者を内部に温ためて書く、そこから文学がはじまってくるわけです。手紙は一対一です。熊谷孝という個が、親爺という個にむかって書くわけです。
 文学は違う。芸術は違う。どう違うか。
 

  5 内部コミュニケーション・普遍と個
 作者を個といたしますれば、作者が読者という普遍にむかって書くわけです。ことわっておきますが、一般ではございません。ジェンネラルなものへむかって書くのではなく、ユニバーサルなものにむけて書くんです。一般というのは、ひとり残らず、おおよそ人間というもの、おおよそ、あるいは限定して日本人というもの、これは一般です。違うんです。同じ世代なら世代の、不特定多数の相手にむけて書くのです。あるいは、いわゆる意味の世代、年齢が同じってだけでなく、例えば同じような経済上の苦しみを苦しんでいる相手に書く。あるいは、精神上の苦しみなら苦しみを苦しんでいる相手を選んで書く。

 例えば、堀田善衛、大江健三郎、彼等は決して一般へむけて書いてはおりません。わが福田総理大臣に、わが文学を読んでいただいてわかてもらおうと思って書いている筈は毛頭ございません。書いている相手はもっと限定されております。つまり、そのことは排除している相手があるということです。その普遍にむけて書くわけです。

 しかし、はたして自分が、こういう人たちに読んでもらいたいとか、こういう人たちにこそ訴えたいという相手が読んでくれるとは限りません。文学の仕事は、創作の仕事は賭けであります。読んでもらえる偶然があるかもしれないし、読んでもらえない偶然があるかもしれません。賭けです。これは教師稼業とそっくり同じです。われわれは生徒に賭けます。生徒の十年先、二十年先に賭けております。一人、二人、ほんとに自分のアピールしていることをうけとめてくれる生徒。かつて生徒であった、現在青年である人、中年である人。ひとりでもいい、あったらなあというその賭けをわれわれ教師族はやっている筈であります。

 きれいごとで行かないかぎり、四十人ですか、四十五人ですか、三十五人ですか、眼の前の教室の生徒たち、これが全部、自分が必死に訴えたことを、情熱をもってうけとめてくれているとお思いでしょうか。違うって、どなたもおっしゃるでしょう。

 何を話しても、こそこそ話しやがってこっちをうけつけない。いくら訴えたって、そういう生徒はどうってことありません。でも、案外、片耳にはさんでくれていることがあってね、何んかの新しい経験をした時に、ハッと思い当たってくれるかも知れません。こっちの顔なんか浮ばなくてもですよ、ぼくとの関係で生まれたものなんて思わなくてもですよ、何かうけとめてくれるかも知れません。それに期待するほかないんですね。

 そういう賭けの中で、大江は、健闘しておられるわけです。健三郎だから健闘している。これは駄洒落ではありません。年老いたる『野火』の作者、『俘虜記』の作者、大岡昇平氏も精力的に『レイテ戦記』を書いて健闘しておられるわけです。彼らも賭けているんであります。

 それは、普遍にむかって書くからであります。ところで、普遍にむかって書くとは、単に個人の考えとか感情をぶつけることではないんでありますね。自分という個の感情を、殺すことは出来ません(そんな物騒なことはできません)。自分の感情を抑制することは、人間には出来ます。作家は、それを秀れてやる。本人の自覚においては、そういう意識はないかも知れない。けど、客観的にみるならば、彼は彼自身の感情をおさえて、普遍の感情に自分の感情を切り換えて書くわけです。だから訴えるんですよね。ひとりの人間のたわごとが作品の文章に書き綴られているわけではない。われと通じるものがあるわけですね。普遍の中のさまざまな個、その個が普遍的立場に立って、普遍的な感情に切り換えて書いた作品であるならば、世代的普遍の中にある人々は、ある感動を受けるわけです。なぜならば、読者の側から言えば、その作品の中に描かれている人物は、ほかでもない、この()だということになるわけである。

 無論、それは、例えば歴史小説であって、ちょんまげ結っているかも知らん。鎧を着てるかも知らん。そういう点では自分ではない。けれども、その精神のあり方や、生きざまや、何やかやですね、それはまさに私なのです。それは 移調(・・) されたわたし、移調された自己、普遍の中の個です。個A・個B・個C、これは共通のものとか、ふれあうものを無論もっています。と同時に、AはAであってBでない、BはBであってAではない。その違いはあるわけです。その違うそれぞれの個が作品の中に自分自身を見つけるわけです。だから私の文学になるわけであります。そういう関係になるわけです。そういうことが、最初に申しあげたことにつながるわけです。個A・個X・Y・Zまで、簡単に言ってあるわけです。Xさんが『万延元年のフットボール』の中に見つけた私と、Bさんが見つけた私とは、ふれ合うものはあるが、違うんです。

 つまり文学は、めいめいがめいめいの仕方でわかるほかはない、ということです。XのようにBにわかれと言ったって、それは無茶です。わかる道理がありません。わからないことが却っていいのです。それが普遍と個の問題なのであります。

 

  6 表示と表現
 レジュメをご覧いただけたと思いますが、三個所に「表現」という言葉を使ってあるつもりなんです。

 [【講演レジュメ】]上段の1.の<注>の最初に、「いわば表現としての現象」とゴシックで組んでございます。下の段にまいりまして、二行目5.の所です。「文体」の下に(認識と表現)とございます。9.に「表示と表現」(J.デューウィ)とございます。

 唐突なようでございますが、文学とは表現であることは言うまでもございません。

 表現するとは何だ、表現一般というものはどっかにあるでしょうか。言語表現でもけっこうです。言葉で何かしゃべれば表現だ、「ああ」っていうのは表現でしょうか。「ひい」というのは表現でしょうか。「痛テテテ」にしろ、何か(・・) 表現しているわけでしょう。痛さをわたしが認識したことを表現しているわけでしょう。或いは、表現することで、「痛テエ」と言っちゃったばかりに、そこで言わないで、ぐっとこらえれば痛みは早く薄らいだのに、その言葉が刺戟になって、内部に反応が起こりまして(私は第二信号系理論の立場なので)、言葉が刺戟になって(仮りにそれを表現と言えば)痛さを増すということがあるわけです。

 こんなご経験はないでしょうか。いまでもそういう傾向がないことはないと自覚しておりますが、若い頃は、生徒を怒るのですね。「いつまでお前、居眠りしているんだ」。たまりかねて言ったわけですよ。生徒の方ははっと目をさますと同時に、てれくさくて、弁解のしようはないし、うつむいちゃってじっとしている。「何とか言ったらどうだ」。こう行くわけです。自分の言った言葉が、自分に刺戟として返ってくるんです。はじめは単に注意するつもりです。多少腹は立ってたけど、「いいかげんでお目々醒したらどう」なんて冗談いいながらはじまった話が、「何だって首うなだれているんだ」。顔をあげると、「何だってそんな眼をするんだ」、「お前のようなツラは見たくない、出ていけ」なんてなっちゃうんですね。つまり、表現することによって認識が進行するんでございます。変な例で申しわけございません。

 [【講演レジュメ】]5.の 文体 の三行目の「表現することで認識する」(確認を進行させる)、そういうことなんです。ところで、いま言ったのは、表現ではなくて表示なんでございます。

 [【講演レジュメ】]9.をご覧いただきます。ご存知の方も多いと思いますが、デューウィ(つい数年前亡くなりましたけど)が、人の一生、兼好法師が言ったように、「人は四十路に足らぬほどにて死んだ方が」いいと言いましたけど、その通りでございまして、デューウィも、どうも長生きし過ぎたらしく、老年期に及んだ彼の仕事というものは、あんまり敬意を表しておりませんが、中年期の彼の一九三〇年代の仕事というのは、とてもすばらしかった。そのころ、彼はコロンビアの教授でしたが、ハーバードに招かれて集中講義に出る。そして、長期間にわたってハーバードの哲学科の学生を相手に、じっくりと講義をしたわけですが、そのタイトルは『経験としての芸術』、翻訳書もございます。つまり、ハーバードの学生諸君を前にして、デューウィ教授の語ったことの圧巻は、表現と表示の問題でございます。初めてではないですか、芸術論上、表現の問題をこんなふうに追いつめたのは。

 つまり彼は、学生にむかって言った。「どうも諸君は、いえ諸君の罪ではない。諸君の先輩の大人をひっくるめてであるが、みんな表現という言葉を安っぽく使い過ぎる。言葉にのせれば表現だと言う。バイオリンをひけば表現だという。絵にかけば表現だと言う。冗談言うなよ。」彼は言うわけです。無論、彼は厳粛な哲学者でありますから、ぼくみたいなやくざっぽい言葉つきでなく、理路整然と言うんでありますが。「普通、人々が表現と言っていることが表示なので、そして、諸君の芸術論を聞いていると、聞くに耐えないよ。自分の訴えたいことを端的にストレートにうち出すと、それがすぐれた偽りのないリアリズムの芸術になるなんて言いよるけど、そんなべらぼうな話、どこにもないよ。」彼は腹が立ったから、〝馬鹿〟これ表示なんだ、これは感情のストレートな発散なんだ、こういうのを表示と言うんだ。表示(マニフェステーション)と言うんだ。悲しいからポロポロ泣く、マニフェステーションだ。表現では断じてない。おかしいからケラケラ笑う、表示だ、表現ではない。

 赤ちゃんはオギァオギァと泣く。「なぜ泣くの」、であります。その理由は、オムツがぬれてツメタイからなんです。あるいはポンポンがカラッポになっちゃってオッパイが飲みたいから泣くんであります。そのオギァは何であるか、感情のストレートな表現であります。手段と目的の区別がない。ところで、赤ちゃん、だんだん知恵がついてくる。そうすると、オムツがぬれているわけでもないし、お腹がすいているわけでもないのにかかわらず、あたりに、自分のまわりに誰もいないことが我慢ならなくなります。誰か来て欲しい、願わくば、ママなんてまだ知りませんけれど、あの人に来てもらいたい。そこでオギァオギァと泣くんです。だって泣けば必ず来てくれるんですから、一つやってみようと泣くんです。ママはペテンにひっかかって、台所かなんかから手をふきながらとんで来て、哺乳ビンなんかをチュッとつきさすと、ニヤッと笑って、ニヤッとも笑わないですけど、泣きっつらで飲まない、じゃあオムツかしら、と点検するとぬれていない。なんでしょう、この子は、なんていって、ペテンにひっかかる。これが表現なんですよ。はっきりした現状を変革する、という目的がある。誰もいないという状況を非存在
存在]せしめる。その大なる目的に向って泣くという、つまり、表現とは、現状を変革するという目的をもった叫び、呼びかけ、コミュニケーション、これが表現なんですよ、って彼ははっきり言っている。芸術の端緒は赤ちゃんの第二次的な「泣く」にある。表示にはじまったオギァは、やがて表現としてのオギァに変わる。芸術なんて特別なこと考えるけど、たいしたことでないんだよ。赤ちゃんがすでに糸口をつけている。我々も赤ちゃん時代にそれをやって来てるんですよ。それが発展なんですよ、ということを言っております。

 で、そういうふうに表現というものを厳密に規定したものは、彼の功績でありますが、そのまま表現というものがまず内部表現によって、――内部コミュニケーションとしての表現をつづめて申します。―― 内部表現によってその端緒を得るわけです。内部表現なしに外側への表現はあり得ないわけであります。作者は、芸術家は、明らかに外へ向けて表現いたします。読者は、外へ向けての表現ではございません。内側での表現をいたします。作品を読むということです。そしてさっきから言った例です。貴方ひとりのことを過去からふりかえってみて、『アンナ・カレーニナ』をどう読んできたかと。少年期の末期に読まれた『アンナ・カレーニナ』を読みかえしてみて、いま貴方が読みかえしている『カレーニナ』は、タイトルが『カレーニナ』ってだけが同じで、中味が別の作品なことにお気づきでございましょう、ということを申し上げましたが、そのとおりのことなんでございまして、読み手によってですね、同一の作品がちがった作品に変わる、もっと通りを良く言えば、別の作品に変わってしまうということですね。さらに、読み手によって創造の完結のしかたがちがうってことですね。「鑑賞上の盲人」にかかれば、山部赤人の長歌も、銀行の定款と選ぶところのないものとなってしまう。

 鑑賞の訓練の充分できた人が読んだ場合に、非常に人間的感動を覚えるものに変わっていく、そういう作品になる。つまり、文学を文学たらしめるものは普通に作者だと言われています。それは一面の真実でございます。作者なしに作品は生まれてこないのです。私は、しかし文学教育というものは、すぐれた創造の完結者を作る営みだ、そういうふうに考えております。決して作品を読んでいれば良いというものではありませんが、ものには手段というものがあります。手段なしに、泣くという手段なしに、赤ちゃんがママを呼ぶという目的を果せないように、文学教育の目的は、文学作品を常に読んでいる人間をつくるなんてことではありません。文学精神をもって生きるっていいますか、生活の中に人間的感動をもって生活をしつづけていると言いますか、そういうことが目的なんでありますが
……。それには、作品を仲だちにする他ございません。「泣く」ことを仲立ちにする他ございません。「泣く」ことをぬきにして赤ちゃんはママを呼べないのであります。そういう意味で、すぐれた作品を生徒に与えていく、これはもう絶対の条件になります。
 

  7 すぐれた文体の作品を
 すぐれた作品ってことを別の言い方で言うと、すぐれた文体の作品を与えるということなんです。そのことをおいて何かあらんであります。文体ということを基準にして、作品選択するってことが必要であります。単に素材が、例えばイデオロギッシュに大変進歩的であるとか、進歩的であるに越したことはございませんが、単に素材が進歩的とか、あるいは進歩的なものを導き得る素材と申しますか、例えば戦争を描いているとかなんとか、そういうことに限定すべきではなくて、すぐれた文体、文体の名に値する文体によって貫かれた作品を選ぶべきだと考えております。

 文体と申しますのは、
[【講演レジュメ】5.の「 Le style c'est l'homme même (ビュフォン)」参照]ル ・スティル(Le style)って書いてございますが、有名なビュフォンの言葉なんで、文体っていうとすぐこれじゃ、なんていいだすんで、時間のないところであれですが、そそくさと申しますが、これ、良く良くお読みになって下さい。これ、ビュフォンの書いた原文のとおりでございます。して、ビュフォンて何ですか、文体論者でもなければ、文学者でもなければ、何でもないんであります。人種論的な人類学者であります。人間ってものを、人種とか種族という切り口でつかんでったらどうなるだろう、そういう角度で人間てものを追求した科学者であります。人類学者であります。したがって、ここで homme と書いてありますのも人間ですけど、これは人種的に人間の意味でございます。mêmeは、申すまでもない、英語で言ったら itself。 この style というのは何も文体に限定されるのではなく、スタイルでございまして、生活様式でございますね。人間の生活様式は、当然人間とは文化的、文化の所有者でありますから、文化様式ってことにもなり、その中に文体も入ってくるかも知れません。が、ここで言っているのは、つまり生活様式ないし文化様式ってことですね。つまり、文化様式をみれば、それがどういう人種のものかが判り、人種の共通性が良くにじみ出ているということを言っているのであります。直訳してもそうなりますよ。スタイルとは、c'est  斯くかくである、それは、かくかくのものである、人種自身である。これは高山樗牛という評論家が 「文は人なり」 と訳した。その美文調がみんなに受けちゃって、いつのまにか美文的に文体というものを考える悪しき原因を作った誤訳であります。文は人なりではありません。

 生活様式とは種族のあり方そのものであります。もうちょっとドライに文体というものを考えるべきでございます。その次の[【講演レジュメ】5.の「現実把握の発想……」以下参照]は私たちの考え方です。人間はある発想で現実をつかんでいく。しかし頭の中にある発想、胸の中にある発想、なかなかええ発想やな、なんて、われながら思って、それをことばにしてみる、文章に書いてみると、なんだかしどろもどろであまりいい発想でないことに気づくなんてことありますよ。文章として定着しなければ、その発想の客観化はできません。命あるものとして働く発想にはなり得ません。そういう意味で現実把握の発想という視点から文章のあり方がつかまれていく。そのときに文体と呼ばれていくわけですね。これが例えば、文のことばの形態法則とか、構文法則とか、そういう角度から、視点から、文章のあり方が見られた場合に文法と呼ばれるわけでしょ。主語と述語の関係がどう、修飾・被修飾の関係がどうとか、これは文法ですよね。構文規則という類、ことばの形態法則、型の上のルールはどうなってるか、そういう面で文章をみた場合に文法と言われるわけです。文体は違う。

 人間が生きて行く上での発想ですね。その発想との関係で文章のあり方がつかまれたときに、文体と呼ばれるわけですね。この点はいいまわしこそちがいますが、トドロフも、構造主義者のトドロフも、トドロフを肯定的にとらえている大江健三郎も同じようなことを言っているわけです。ユニテ
[unité]として文体は考えられるのだな、ある統一性のあるもの、一貫性のあるもの、ということは、一貫した発想において貫かれている文章のあり方が文体だというわけですね。したがって、主述対応関係がどうなっているとか、文法的にまちがっているとか正しいとか言うのではなくて、そこにあるように、この文章をどうして、この作者は選んだか、こういう表現をどうして芥川は選んだか、太宰は選んだか、その角度でみていくときに文体論になる。つまり文体を問題にするってことは、文章のあり方を問題にすることであり、そしてそれは同時に、発想のあり方を問題にすることであります。

 したがって、われわれは生徒にすぐれた発想の作品を、そしてその発想が明確な文章として位置づいた作品を選んで与えてゆきたい。目的は、断じて生徒を文学者に仕立てることじゃなく、いわんや、文学青年、文学少女を作ることではない。日常生活の中で、すぐれた発想をもって生きられるよう、そしてその発想を、一貫性・ユニテとして、一貫性をもったものとして、持続的なものとして、その日その日の出来心でないものとして、一貫性をもったものとして身につけさせたい。その為に、すぐれた文体の文章を与える以外に手段はない、こういうことになるんだと思うんでございます。

 
[【講演レジュメ】]6.の 個性 ということ、これ、ある点でふれたことでございますが、現在くらい個性々々といわれている時代はない。没個性の時代だからこそでありましょうが、作られたる個性があまりにも多いんでありますが、個性的でない文体というものはない。それは文体の名に価しません。すぐれた文体を与えるということは、すぐれた個性のある文体を与えるということですね。そのことで生徒が、わが生活の中に、いいえ、すぐ今にでなくともですね、やがて徐々にですね、すぐれた発想の出来る人間になっていく可能性をもつわけですね。可能性にとどまらないように教師は賭ける、祈るわけですね。そういうことなんだと思います。個性ということ、非常に大事なことと思いますけれども、それはそこ[【講演レジュメ】]にあります、普遍と個であります。さっき申したことですね。普遍につながらない個性というものは絶対あり得ない。単に変ってる、それが個性だと思っているオタンチンがずい分いる。 (中略) あれは個性ではなくて単なる特殊性であります。個性というのは個がなければダメであります。それは単なる個ではダメですね。普遍に媒介された個、これが個性ってことになりますね。

 忘れてならないことは最初の自分ですね。それをみつけて行くことです。引き出して行くことですね。普遍に媒介されなければなりません。「我」というのがあります。自我と我はちがいます。我にへばりついていたら、決して個性は生まれない。真の自我にたどりつく、これは何か、個性への道であります。文学の道もまたそうだということになります。

  かんじんなことにふれませんでしたけれど、はっきりと言えることは、あたりまえのことです。文学というのは、ことばという、言語というマテリアルズ(物材)を、再加工して作られるものであります。ここから本論に入るはずだったけど、ダメなんですけど、つまり、他の絵なら絵の物材は線とか色とか、音楽では音ないしオンですね。あれは意味がありませんね。線にそれ自体の意味をもっているわけではない。文学はちがうのです。言語はちがう。意味をもたせているわけですね。机なら机というのに意味をもたせているわけですね。それを更に再加工するわけです。その関係は、実は実朝の歌にふれながら話すはずだったんです。

 それから、実はゴーリキィの文学論を大きく、大幅にとりあげまして、そして彼の短編小説と長編小説論を紹介しつつ……。彼は言っているのでありますが、今の作家たちは、ソビエトの作家のことで、但し一九三〇年代の作家のことですが、今の作家はなぜか、プーシキンがそうであったようには創作の仕事をしていない。いきなり長編からおっぱじめる。書けるもんか、というんですね。短編でもっと苦労したまえってこと言ってるんです。その短編で苦労するってのはどういうことかというと、短編で苦労すると、すぐれた長編を生み出す可能性を持ち得るのだ、それを、井伏の『丹下氏邸』という名作でございますね、最初の段落だけなのですけど、こういうふうな工夫の中で、短編での苦労の中で、どう長編小説作家としての成長をとげて来た彼であるのか、そんなことを縷々お話ししたいつもりだったんですが、本当に何かサブタイトルがでたらめ、うそになってしまって、大変申し訳ないんでございます。

 それから、[【講演レジュメ】]10.のところにあります、太宰の若き日の傑作であります『玩具』、その中の一節でだるまとの対話が描かれているのでありますが、文学精神とは対話精神の所産だ、そして、本当の意味の人間的愛情の世界なんだ、この愛情のあり方を生徒に……、何かそういうことを縷々訴えたかったのでありますが、大変申し訳ありません。時間もたっぷり頂戴したくせに、最初のすべり出しが悪かったばかりでなく、途中の歩き方も悪くて、こんなはめになりました。すみません。またお目にかかる機会がありましたら、埋めさせていただきます。今日はありがとうございました。(拍手)
 一九七七年十二月八日 川越・県立図書館ホールにおける講演の記録
文責・森田高志(所沢高校)

※今日の言語感覚からすれば不適切と思われる用語があるが、引用文中の語句であることを考慮し、そのままとした。
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