明治図書出版刊「教育科学・国語教育」123 1969年11月号 掲載
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“伝え合い”の機能を確かなものにするために 課 題 この稿に関して、所与の課題は次のようなことである。@これまでに、「なぜ教育の現場で、児童・生徒の映像読解力が問題にならなかったのか」という点について考えてみること。さらに、Aそのことの根源を問うことの中で、「文章の読み方中心の国語教育について、映像の読みをどう関連させていくべきか」について考えてみること。以上の二点が本誌編集部から与えられた課題である。 この課題に示されている「映像読解力」ないし「映像の読み」というのは、東京学芸大の多田俊文氏の用語によるのだという。私などには耳なれない言葉だが、それは、むろん、ひゆ 的な意味での映像の読み 、読解力 ということだ、と解していいだろう。私自身、これまでに何遍か「映像の言葉」とか「映画の文法」というような言葉を用いてきたが、同様に、これもやはりひゆ的な用法なのだろう。 もっとも、それはひゆ には違いないけれども、しかしまた単なるひゆ にとどまるものではなさそうである。映像読解カ というふうに、あえて「読解カ」といういい方をしているところには、「読み」や「読解」という概念の拡充(あるいは拡大)の意図が感じられるし、映像的認知をはぐくむ作業もまた国語教育の作業である(であるべきだ)、という主張を含んでいるようにも思われる。国語教育のほうで普通にそういっている読解の作業――その読解をたんに文章のそれにせまく限定してしまっていいのか、というふうな批判の声がそこから聞えてきそうな気もする。 が、多田氏のその 論文を実は私は読んでいない。送られてきた原稿依頼状の記載によって内容の一端を推測するだけのことである。所詮、推測であり憶測なのだが、たぶん、それに近い主張なり提唱なりがそこにあるわけなのだろう。また、そういう提唱をくみあげての、本誌のこんどのこの企画なのであろう。 言葉はひとり歩きできない 最初から推測でものをいうような結果になってしまって恐縮だが、もしも上記のような提唱にもとづく「映像の読み」の提唱の必要ということであれば、(一、二留保して考えてみなければならないような点は残るが)方向として 私は賛成だ。考え方の方向として賛成だというのは、私自身、これまでに機会あるごとにロにもし、書きもしてきているように、国語教育のほうでそのことの指導を積極的におこなわなくては、国語教育が国語教育にならないからである。 国語教育が国語教育にならない、云々。端的にいって、それは次のようなことだ。国語教育というのは、どういう意味にもせよ、母国語に関する言葉メディアの操作のしかたの指導をおこなう教育活動のことだろう。ところで、その言葉なのだが、言葉がコミュニケーション・メディア(=伝え合いの媒材・媒体)として有効に生産的に機能するのは、言葉メディア以外の他のもろもろのメディアとの協働・協力関係、相補関係が成り立つ場合においてである、ということ。 早い話が、「おはよう!」というあいさつの言葉ひとつにしても、にこやかな表情(視覚による訴え)や、明るくはずんだ語調(聴覚による訴え)でそこに語られる「おはよう」と、反対に、ぶっきらぼうな調子、こわばった表情でロにする「おはよう」とでは伝えの中身が違うだろう。さらに、その言葉がロにされるその場面の人的関係や、雰囲気やムードなど具体的な状況によって伝えの中身は違ってくるだろう。ヘンに言葉というものにこだわった、ギクシャクした考え方におちいらない限りは、コミュニケーション全体としてはそれは伝えの中身が「違う」「違ってくる」というふうに考えるのが至当だろう。 ヘンに言葉というものにこだわる、とらわれる云々――そのときの表情がどうであろうと、その言葉がどんな場面で使われようと、「おはよう」は「おはよう」であって「おそよう」ではない、といった調子の、言葉の一義的な指示性への迷信に立ったイシアタマなこだわり方である。それは、一にも言葉、二にも言葉の言葉主義=汎言語主義のコミュニケーション論の展開の軌跡が描くカリカチュアである。 したがって―と、多分いっていいだろう―国語教育の任務は、母国語に関して言葉メディアの生産的な操作のしかたを指導することにあるわけだが、言葉メディア以外の他のメディアとの関連においていきいきと言葉を操作できるような、イシアタマでない人間に子どもたちの主体をはぐくむのでなければ、国語教育本来のそうした任務は果たせないだろう、ということなのである。 誤解のないようにいいそえておくけれど、言葉操作云々とここにいうのは、たんに話す とか書く という場合だけを想定していっているのではない。ひとの話を聞く 場合も、自他の文章を読む 、読み返す というような場合も含めてのことである。さらには、内語(インターナル・スピーチ)による内部コミュニケーションとしての思考 活動の場合をも含めてのことである。 そう語ることで、また大方の諒承をえられたかと思う。ここにいうコミュニケーション云々―ひところ国語教育界に支配的であった、経験主義ないし言語技術主義の想念における安手なコミュニケーション論のそれとは無縁である。あえていえば、私たちのいうそれは、第二信号系の理論に裏打ちされたコミュニケーション理論にもとづくところの“伝え合い”のことである。伝える とは伝え合う ことであり、それは感情を組みかえつつ思考を組み、また想像(イマジネーション)をかき立てつつ、イメージにおいて虚構し、イメージに支えられて概念を構成する、まさにそのようないとなみ とはたらき のこと以外ではない。 読解とは何か 先刻、一、二留保して考えたいといったのは、たとえば次のようなことである。 その一。「映像の読み」のほうはいいとして、「映像読解力」といういい方はやめたほうがいいんじゃないか、ということ。 編集部からの原稿依類状に摘記されていた多田氏の言葉だが、「国語教育がどうしてもことばの技術的能力の形成に傾いてしまい、表現と鑑賞のメカニズムの成長に焦点をあてた指導になりにくいことへのいらだち」と、そのことが「児童の映像読解力、鑑賞能力の低さ」に関係してきているのに、「それが問題となってこないことへのいらだち」を氏は語っておられるわけだ。同感だからいうのだが、そんなふうに多田氏にいらだちを感じさせている当の「国語教育」というのが、(けっして国語教育一般ではなくて)まさに「読解」「読解力」の指導ということを合い言葉にしている汎言語主義の国語教育以外のものではない、ということを多田氏ご自身にも諒解していただきたいのである。 「読解」とか「読解力」という言葉は、国語教育の世界では伝統的に 特定の意味をこめて使われている「持続的に固定した生の表現(=言語作品)」の、「外部からの感性的に与えられている諸記号―つまり言葉だ―」による「追体験」? ……私心をさしはさまず、己れを虚しうして相手に同化する体験である。 こむずかしくいえば、そういうことだが、要するに言葉(作品の文章)の中に作者のたましい が二重三重に封印してしまい込まれている、というのだ。言霊(ことだま)である。で、作者(送り手)の心をわが心とするために、たとえば通読・精読・味読というふうな一定の手続きをふんで言葉の封印を順々に剥がしながら無心になって読む。ときとして言葉の指示性に即して、またときとして「眼光紙背に徹する」かたちで読みを進めていく。これが「読解」ということだ、というわけなのである。 もっとも、「読解」という言葉に、転用として―国語教育界の場合、それは転用である―もっとドライな用法がないわけではない。が、その場合も私たちのところでは、なぜか、どこかにこの汎言語主義・追体験主義のシッポを残しているのが一般である。 「読解」という言葉がいつから国語教育用語になったのか、私はしらない。が、解釈学的国語教育学者、故石山脩平氏の戦前の論文、著書などには、ディルタイやベェークなどにふれながら、やはり言語作品の追体験的理解という意味にこの用語がもちいられている。ともあれ、それが追体験主義・汎言語主義の想念に立つ、戦前・戦中の「解釈学的国語教育」の指導過程論―通読・精読・味読のいわゆる三層読みの指導法―の形成の中で、全国の師範学校教育を一手に掌握するかたちで普及させて行った概念と用語であることはまちがいないようだ。 その解釈学的国語教育が言語技術主義との結びつきにおいて今日「国語教育の現代化」の名のもとに再びいきおいを盛り返してきている。その合い言葉は依然として「読解」である。それが「現代化」を看板とする以上、たとえば視聴覚的教具・教材の利用というようなことは口にするが、それも直接経験の代用、作品を読むことの代用というかたちの「利用」にすぎない。映像を媒介としてでなければつかめないものを、そこでつかませ、映像鑑賞に固有の映像的認知をそこに成り立たせよう、というのではない。本筋はあくまで例の「読解」である。 読解―もう一度くり返すが、それは、言葉(文章)に封じ込められている送り手のたましい (生)を一定の言葉操作(呪文)によって引き出す作業だ。言葉操作によって? ……むしろ、言葉だけの操作で、なのである。他のメディアとの協力においてではなく、言葉だけの操作で、なのである。その点が汎言語主義の汎言語主義たるゆえんである。 どうか、その辺のことを思ってみていただきたいのである。「映像読解カ」という言葉(用語)を国語教育論の中に持ち込むことは、だからこの際けっして好ましい結果にはならないだろう、ということなのである。それは、たんに用語(言葉)の問題にとどまらず概念(思考形式)の問題になってくるからである。 国語教育と映像教育と 承前、その二。上記のように、国語教育がその作業の一環として「映像の読み」を積極的にとりあげる必要があることはいうまでもない。その必要は、国語教育にとっていわば必然的な必要である。が、そのことが必要だというのは、言葉メディアの生産的で実際的な操作のしかたを子どもたちの身につけさせるという、国語教育本来の目的からいってのことである。* 国語教育の内側からいえば、そういうことになるだろう。
そこで、しかし、教科の主要任務ということでいえば、「映像の読み」の指導というこの作業を中心になって進めるべきは実は芸術教科であるはずだ、ということなのである。 けっして形式的な意味で教科の分業、あるいは教科の縄ばりみたいなことをいっているのではない。私がいいたいのは、むしろ、現在の芸術教科がup-to-dateな意味での芸術教育の役割をほとんど不十分にしか果たせないでいることへの疑問である。ひとくちにいえば、今日のこの映像文化の時代にあって、「芸術教育としての映像教育」をその本筋のファクターとして考えていないような教科が、芸術教科の名において六・三・三の教育課程の中に位置づけられていることへの疑問である。 多田氏のいわゆる「児童の映像読解力、鑑賞能力の低さ」を決定しているものは、その意味では、むしろ、今日の芸術数科・芸術数育のありかたである。より根源的には、それは教育課程のありかたと教育発想そのものの問題である。「国語教育が表現と鑑賞のメカニズムの成長に焦点をあてた指導になりにくい」状態をつくり出している根源と要因も実はそのことに関係し関連している。困った連鎖反応がそこに生じているのである。 そういう困った連鎖反応が、そこここで起こっている現状だからこそ、教科のわく を越えてでも、必要な―というのは子どもたちの“人間”にとって必嬰な―教育はおこなう、というのが実は私の結論なのである。国語科にとって映像教育がそういうものとしてある、ということなのだ。 うんと乱暴ないい方をすれば、それが国語教育的かどうかは別として教育的だ、といえるような教育実践をすることだ。要は、集団の中の個として、またそれ自身複数にして単数的存在である一人の人間として、“伝え合い”において未来を生きつづける子どもたちの、その確かな、“伝え合い”のしかたを保障することである。それが国語教育であり、映像教育である。
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‖熊谷孝 人と学問‖昭和10年代(1935-1944)著作より‖昭和20年代(1945-1954)著作より‖1955〜1964(昭和30年代)著作より‖1965〜1974(昭和40年代)著作より‖ |