明治図書刊 「教育科学・国語教育」118 1968年8月号 掲載
 人間教育の破壊       

 「僕たちは人間として面白味のある人間を育てたいと思うんですが、親たちはそれを喜ばないです。画一的な、型にはまった教育を希望されるんです。」
 『人間の壁』の作者が伝える、(この作品の事実上の舞台となった)佐賀県の現場教師たちのナマの声である。「現在の教育というものが、どこか根本的にまちがっているんじゃないかという気がするんです。」(朝日新聞、4月30日朝刊掲載の石川達三氏の文「権力と教師の宿命的抗争」による。)
 そういう現場の先生の声に接して、この作家は、次のように考える。
 わかるような気がする  画一的な教育を身につけることが、画一的な試験をパスして、画一的な社会人になって行くのに、一番具合がいいのだろう。しかしそれは人間教育というよりは、サラリーマンを大量生産する〝メーカー〟の仕事にちかづいて行く。
 良心的な教師には、いつも懐疑と反省とがついて回る  懐疑は教育の現場での、ひとりひとりの教師の胸のなかの悩みである。文部省とは何の関係もない。いわんや政党の権力争いとは完全に無縁のものだ。しかしその教師たちに、お役所は画一的な指令でもって、やれ、こんどは道徳教育をやれ、こんどは国防思想を教えろと命令する。現場が反発するのは当然のことだ。
 三・三・四休暇闘争のときの文部大臣が灘尾さんだった  その人がまた大臣になった。何か意味ありげでもある。彼が防衛思想教育を口にすると、教科書業者は先走りして、たちまちそれを教科書の中に盛り込むだろう。業者は商売だ。防衛思想が商売に使われる。
 教育、人間をつくること  どういう人間をつくるべきかという所から、問題は紛糾する。(中略)だが、教師たち……わたしの知る限りにおいては、いかにも温和な、誠実な人たちであった。そしてまた、大部分は貧しい人たちであった。あの人たちを、よい環境の中において、上からの圧力のない所で。思う存分の教育をやらせてあげたいと私は思う。どんなに喜ぶだろう……。

 僕自身が教育行政に望むことも、そのこと以外ではない。現場の教師大衆が自分自身の良心にしたがって、ノビノビと「思う存分の教育」がやれるように、教師の身になってその作業をささえることがお役所の仕事なはずだ。(憲法を見よ。教育基本法を見よ。)
 教育行政にたずさわるお役所の仕事は、現場の教育内容に対してあれこれ口ばしを入れることではなくて、現場の作業がスムーズに進行するように教育の環境条件をととのえることである。お役人たちはそのことに専念するべきだし、また、そのことが唯一の 「お役所仕事」になる必要がある。所詮は数ある政党の中の一政党にすぎない、そのときどきの政府与党の文教政策を国会の審議も経ないまま、お役所が教育行政の中に持ち込み、それを教育の現場に押しつけるというようなことがあったら、越権だ。お役所とお役人は、ひたすら、教育の環境条件をととのえるという本来の業務に専念すべきである。そうではないのか。ところが、今は話が逆だ。逆になっている。
 僕たち教師は、学校教育、公教育の場をすぐれて人間教育の場とし、「人間として面白味のある人間」に子どもたちを育てたいと思っている。これまでの子どもにくらべると、知っている漢字 の数はふえたし、毛筆 で字も書けるようになった。そのかわりに、頭は固いし感情はカサカサ、おまけに皇国史観 まがいの神がかりの国家観の信奉者である、というような人間に子供たちをしたくないのである。
 つまり、僕たちは、目の前の子どもを幸福なブタにしてはならない、と思うのである。字が書ける、算数ができるというだけの幸福なブタに、である。高貴な人間性と民族の明日への責任において、子供たちを、だれかが要求するような一時間(ま)に合わせの、消耗品にすぎない「画一的な社会人」などにではなく、「人間として面白味のある人間」」に、と願うのである。
 それゆえの、最近の、教師たちの自主教研への異常なまでの盛りあがりなのである。「人間として面白味のある人間」を育てるためには、まず自分が、自分たちが「人間として面白味のある人間」にならなければならないからである。
 しかし、「教育研究はむずかしいです。いっせいストを組織するよりもっとむずかしい」(上記「権力と教師の宿命的抗争」所掲の現場教師の発言)のである。教育環境をととのえるお役所の仕事の一つは、だから教師たちのこの自主教研を、その気になって積極的に援助することである。ところが、今は話がアベコベだ。こうした各種の教師の自主教研の会場に、教室や講堂を提供することを拒む「学校」が最近ふえてきている、という。また、そういう教研の集まりに自校の教員が参加することを喜ばない管理職が目立って多くなってきている、という。自主教研に対するお役所のあるムードや姿勢を反映してである。
 端的にいって、お役人の顔色を見ての身のふりかた、というところである。が、その結果は、こんどは現場教師が管理職の顔色を見て行動するということになる。これでは「人間として面白味のない人間」に教師が変ってしまうことになる。
 教師の人間を通さない教育は、教育ではない。そこでは、まず教師の人間が問題なのだ。ということは、教育行政の問題としていえば、何よりも教師の人間をたいせつに考え、何よりも教師の思想と研究の自由を保障するような行政がおこなわれなくてはならない、ということにほかならない。ところが今のように、お役所が人間のカベ、教師のカベ、教育のカベであるというのでは、話がまるでアベコベだ。
 そのアベコベぶりを成文化して内外にハッキリ示したのが、今度の学習指導要領改定案である。教師の自由を保障するどころか、それは自由の制限、拘束、剥奪である。審議会の答申も相当のものだったが、こんどの文部省案は遥かにそれを上回っている。
 まず、「ここ(指導要領)に示す内容に関する事項は、いずれの学校においても取扱わなければならない。」(総則)というしめつけ ぶりである。第二に、社会科に「初めて国家の安全をおり込んだ。審議会の答申は、〝国家への理解と愛情〟をうたうにとどまっていたが、国家の安全という形で、国を守る気持の基礎をはぐくむ、と文部省は説明している」(朝日新聞、6月1日朝刊)のである。
 たとえば、そういうことが前提にあっての、つぎのような(国語教科書の編集と検定の基準となる)「話題や題材の選定」の「観点」の提示なのである。
   ――「わが国の国土や文化・伝統について理解と愛情を育てるのに役だつもの」
   ――「日本人としての自覚を持って国を愛し、国家・社会の発展に尽そうとする態度を養うのに役だつもの」
 石川達三氏のひそみにならっていえば、防衛思想も商売に、という業者がそれをどういう形で教科書に盛りこもうとするかは見えている。そういう教科書も教科書どおりに教えなければならないとしたら、これはどういうことになるのか。また、教科書と違ったことを教えたら勤務評定が待っているというのでは、人間教育はどういうことになるのか。
 作文指導は大幅に時間を割くという点については一般に評判がいいようだが、①上記の「話題や題材の選定」の観点・基準を前提として考えてみた場合、一般にその内容がどういうものになっていくのか、やはり大きな不安がある。子どもたちが教科書で読まされるものが読まされるものだからである。また、子供たちがそこに書く「題材」、そこにとりあげる「話題」が他動的、自動的に右の「観点」に制約されることになりがちだからである。
 さらにまた、②漢字学習の強化や毛筆習字の必修化とつなげて考えてみた場合には、それがただの読み・書き・ソロバン式の意味での「書くこと」の形式面の指導に終わりかねない危惧も感じるし、③作文や毛筆習字にかなり多くの時間を割いた残りの時間で、これまででさえ不足していた読みや話しことばの指導などが果たしてどの程度におこなえるものか、そうした点でも疑問は大きい。
 〈国立音楽大学教授〉
熊谷孝 人と学問昭和10年代(1935-1944)著作より昭和20年代(1945-1954)著作より1955~1964(昭和30年代)著作より1965~1974(昭和40年代)著作より1975~1984(昭和50年代)著作より