国土社刊「月刊 社会教育」121 1967年12月号 掲載
「転形期の文学」を教える
1 社会教育と文学教育 まっとうな社会教育意識を欠いては、たとえ作業の実際が社会教育の仕事とふれあうところがあるにせよ、それを言葉の正しい意味において〈社会教育〉の〈実践〉と呼ぶことはできないだろう。実践とは、対象的事物(=事態)の変革をめざす合目的々で計画的な、つまりはそのような目的意識的な行為なはずなのだから。――というようなことは、私にもわかっているのである。少なくとも、リクツとしてはわかっているtもりなのだ。だからして、うしろめたい のである。 かりに、なにがしかの成果がそこにあがったとしても、そういう意識を欠いては、それは偶然の所与というほかあるまい。ケガの功名という、あれである。その成果を必然的なものにし、それを持続的・発展的なものとするためには、そこに筋の通った(また筋を通した)社会教育意識が必要とされる。そういう意識に裏打ちされ、またそういう意識に志向されたいとなみであってこそ、それは社会教育の実践、社会教育的実践であるというふうにもいえるわけなのだ。 というようなことも、やはり、リクツとしてはわかっているつもりなのだ。だからして、うしろめたい のである。 ありていにいって、私にはつかめていないのだ。日本の社会教育がいま共通して何を課題とし、どういう方向へむけて歩みを進めているのか、というようなことが、である。したがって、いま現に私が取り組んでいるような作業や作業の組み方が、日本の現代の社会教育の課題意識や実践の方向とどういう関係に立つのか、というようなことが全然といっていいぐらいに、つかめていない。うしろめたい といったのは、そのことなのである。 もっとも、私にしてからが私なりの問題意識や課題意識がないわけではない。そうでなければ、どういう意味にもせよ、作業に取り組むというふうな行動の世界へ一歩だって足をふみ出すことはできないはずなのだから。 だが、私の場合、それは社会教育的関心に発するものであるよりは、文学教育ないし文学研究教育への関心に根ざした課題意識にほかならない。だから、もし、あえて〈実践〉ということをいうのなら、私の実践は、私なりの文学教育意識による実践以外のものではないわけだ。そういうカッコつきの「実践」が社会教育プロパアな視点からみて、どういう位置づけと評価を受け取ることになるのか。というよりも、私としては、こんごの私自身の過誤を可能なかぎり未然に防ぐために、どういう点をどう改めねばならないのかを、大方の社会教育のエクスパートの方々に原理に照らしてご指示、ご指摘いただきたいのである。この稿に対する本来の課題は承知しているが、私個人としてはそういう示唆や批判を期待しての報告がこの稿だということになるのである。 2 社会教育としての文学教育 私には私なりの課題意識があるといったが、それがじつは一本調子の単細胞的なものなのだ。どうぞ、お笑いなく――。 私の考える〈社会教育としての文学教育〉の課題は、学校教育との関係・関連に立っていえば、(1)学校文学教育の失地回復ということである。あるいは、(2)学校文学教育が果たしえなかったもの(こと)を、社会教育の場で、別個の次元において充足することである。さらにいえば、(3)文学教育をもふくめて学校教育そのもののプラス・マイナスの成果をそこに追跡調査しつつ、学校文学教育のはぐくんだ芽がどう実(み)を結んでいるのか(あるいはどう枯渇してしまっているのか)をたしかめ、その結実(枯渇)の仕方に応じて、成人としての現実の生活の場で、生活の土壌に根づいた花としてその芽、その実を開花させる努力をする、ということなのである。 そういう努力を結実させることを期待し得るのは、多くの場合、――というよりは一般的にいって――集団志向に支えられた共同学習の場においてである。集団が集団として自己変革をとげる中で、集団中の個が変革されていくのである。個我のたちなおりと成長が、そこに期待され得るのである。もはや生徒や学生ではない、じかに体制のカベにぶつかり地域の問題の渦の中にある生活者を集団に組織しての、その生活意識と感情を変革する活動――それがおそらく社会教育活動の大きな部分を占めることになるのだろう。私たちの文学教育運動と活動は、社会教育のこの面に参加することをねがっている。 却説。話を一コマ前にもどして、上記の(1)に関していえば、学校文学教育の既往現在の状況は、例外はあるとしても――この例外だけがじつは救いなのだが――多くの場合、文学教育以前の、ただの〈文学教材の読解指導〉の域にとどまっている。作品の文章を段落 に小分けして、それぞれの段落の要旨 というのをいわせ、その要旨をつないで全文の大意 ――つまり話の筋だ――をいわせ、その筋書き からして「要するに何が書いてあったか」ということをいわせる式のあの指導である。それは、作品の示す強烈な個性的な発想や文体との出会いを故意に回避したも同然の指導である。それは、文体(文体が示す個性的な発想)において文学を――とうのは現実を――考える代わりに、ただの「お話し」の筋として、素材として文学をつかませようとする非文学的なブンガク教育である。 加えて、戦前・戦中の学校教育にあっては文学は、少なくとも文学のエスプリ、反俗のエスプリをもった文学は「青少年」を「柔弱」にし、時として「赤化」にみちびく「教育の敵」として考えられていた。(ちなみに、筆者の世代は、教師の眼を隠れて学校の禁書を読んで育った世代である。国立(くにたち)市民大学セミナーの受講者のかなりの部分が、私と同じこの世代にぞくしている。) 現在の学校文学教育がまた、(体制側の意向を忠実に実行するとすれば)「期待される人間像」をバイブルとした道徳教育以外のものではなくなってしまう状況なのである。来春改訂を予定されている教育課程における文学教育は、(教育課程審議会分科会の委員長意見にしたがえば)「道徳教育もあわせて行なえるような読み物教材集」をテキストにしたブンガク教育に他ならない。戦前が必ずしも戦前になりきっていないのである。――社会教育の場における学校文学教育の失地回復を私が云々する気持、ご諒解いただけただろうか。あわせて、上記(2)の、学校文学教育が果たすべくして果たしえなかったものの社会教育の場での充足、ということを私がいう理由についても、である。 ところで、上記(3)につけ加えていっておかねばならないことがある。学校文学教育のめざすところは、〈文学の眼〉をもって自己内外の状況をたしかめつつ実人生を生きていけるような、〈文学体験〉の〈素地〉を、子どもたちの未来(=未来像)に向けてはぐくむことにあるわけだ。社会教育の場における文学教育活動は、だからして図式的にいえば、そのような作業をひきつぐことに課題と任務があるということになるのであるが、現実の学校教育のありようが、すでに見てきたとおりである。成人としての、生活者としての人々の生活のありようがまた多種多様である。社会教育としての文学教育の学習内容は、まさに、ケース・バイ・ケースというかたちで組まれるほかはない。学習主体の現実の生活体験、文学体験のありように即しての、ケース・バイ・ケースということなのである。 いいかえれば、教材の選択も指導過程の組み方も、学習主体の体験のリアリティーと、またそれを規制する感情のわく 組みに即して構想されねばならない、ということなのである。が、しかし、そのことは、学習主体の実感ベッタリのかたちのものに学習内容を組む、ということとは全然別個のことである。誤解をさけて言えば、相手の実感に即してその実感構造、その感情のわく 組みに揺さぶりをかける、ということにほかならない。 感情のわく 組み? ……別のいい方をすれば、認識の仕方を規制する認知の構え ということである。(なぜなら、感情とは本来、人間の主観的世界・内界の第二信号系への反映にほかならないからである。――その原理的な解明については、拙著『芸術とことば』所掲の「第二信号系と理性体験」「実感の体系としての思想」の項など参照。)社会教育の場における文学教育の作業分担は、学習主体の〈文学の眼〉をたしかのものにしながら、彼らが自分自身の持ち場、生活の場で現代の疎外状況とまっとうに対決していけるような〈認知の構え〉としての感情のわく 組みをそこにはぐくむことである。 文学の眼? ……この点についても注記しておいたほうがいいだろうか。他者の中に移調された自己を見つけ、自我の内側に他我を実感するという主体的な連帯の眼、人間相互の連帯回復の眼である、と一応そういっておこう。 3 学習テーマと対象領域の設定 上記のような課題意識と意図にしたがって、主催者側(国立市公民館主事の徳永功氏)と協議して設定した文学セミナーのテーマは、〈転形期の作家と作品〉というのである。(受講者公募の際、これに「伝統の受けつぎと変革」というサブタイトルを添えた。)このテーマが意味するところは? ……開講式の後の座談会で、受講者へ向けて私の話した談話速記(国立市民大学セミナー・文学グループ編/国立市公民館発行『転形期の文学=国立市民大学ゼミの記録』所収)から引用しておこう。
上記のような基本テーマの設定にしたがって、第一年次(66年度)は近代文学を、第二年次(67年度)は近世文学(「井原西鶴――喜劇精神の文学」)に対象領域を求めた。何れも、学習主体である受講者の希望にしたがい、それにチューターのほうで道筋をつけるという形での学習対象領域の選定である。第一年次の場合について、選定のいきさつを次の私の談話速記(同上『転形期の文学』所掲の座談会記事)からお察しねがうことにする。
要するに、(1)基本テーマは、歴史・経済・教育など他の各講座と共通する、市民大学セミナーの基本路線(それがどういうものであるかについては徳永功氏による総論の稿参照)にしたがってとりきめを行ない、(2)そのテーマの趣旨を「公民館だより」という公報に掲示して市民一般から受講者を募集し、その上で、(3)具体的な学習対象領域の選定については受講者の自主性・自発性を尊重する、という方針をとったわけである。受講者の学習意欲を保障するためにも、である。 そのおりの私の気持の楽屋裏をいえば、〈転形期の作家と作品〉〈伝統の受けつぎと変革〉というテーマに対して応募した人たちなのだから、そうズレはあるまい、という安心感というか受講者への信頼感が前提にあったことは事実である。ただ、そういう領域への関心とか興味というのが既成の常識、誤まれる常識にもとづく興味や関心によって占められているような点のある場合を考慮して、上記引用のような示唆と方向づけを与えることにしたわけだ。(誤まれる常識――そのような常識の基礎をつくりあげた学校教育に対する私の不信は大きい。受講者とのこの座談のおりに知ったことは、自分は文学に趣味があるとか、これまでに学校教師として国語や文学を教えてきたというような人の文学観念が意外に古い、ということであった。上記引用のようなコメントを添える結果になった理由だ。) さて、上記のような提案をめぐっての全体討議の結果は、第一案の〈幸徳事件以後〉ということでいこうということになった。ただし、第二案の内容にもおおいに関心をそそられるから、どこからどう手がけたらいいか、とうような点について(セミナーの中の一回を講義にかえて)話してくれ、というのである。ともあれ、こうして文学セミナーは出発することになった。男性、3名。女性、15名。20代、8名。30代、5名。40代、1名。50代、3名。それに七十二歳の老女1名を加えて、である。 4 セミナーの流れ 7月から11月に11回のセミナーの学習内容とスケデュールについて、はじめにごく大まかな見とおしを用意することにした。これも受講者全員と協議の上である。
結局、せっかくのその意欲に水をさすことはやめにして、「予定はあくまで予定なのであって、先へ行って変更することのあること」を共同確認して、「してみて、よきにつくべし」ということでスタートさせることにした。こうした意欲のある人たちが、意欲的に作業を進めている間には、作業は通り一ペンなことで片のつくものでないことに気づくときが来る、と考えてのことである。さらにいえば、そういうことに気づくということが、こうしたゼミの収穫でもあるわけなのだ。 結果は、鷗外文学の検討に7回(『最後の一句』の検討に2回、『阿部一族』に2回、『佐橋甚五郎』に1回、『護持院ヶ原の敵討』『大塩平八郎』『山椒大夫』『高瀬舟』に2回)を要した。しかも、「時間的な制約から『山椒大夫』『高瀬舟』については、十分論議を発展させることができなかった。」とセミナーの記録者は書きつけている(前掲『『転形期の文学』)。会期、あますところ、あと2回。どういう運びになったか。上記のセミナーの記録は、次のように伝えている。
こうして受講者の切望と、プロデューサーの徳永氏の配慮によって会期を1ヶ月半(3回)延期して、年末近くまでセミナーを続行することになった。(7月15日にスタートしたゼミは、こうして12月16日まで延々五ヶ月続いたことになる。)延長分3回を加えて5回の学習プランを、こんどは綿密にむだ なく組めた。むだ なく? ……実現可能なように計画的に組めた、という意味である。セミナー方式の学習に対するなれ と、学習の対象物に対する認知の深まり、さらにまた、共通の課題と取り組んでいる者どうしとしてのお互いの人間関係の深まりが、プランを組みプランを進めていく上にロスを最小限なものにしていった、ということがいえそうである。 (1) 講義〈民族の自画像としての近代・現代小説の主人公群像〉1回 (2) セミナー・『大導寺信輔の半生』(芥川)1回 (3) 同・『太陽のない街』『妻よ眠れ』(直)、『一九二八・三・一五』(多喜二)1回 (4) 同・『葉』『畜犬談』『鷗』(太宰)1回 (5) セミナーの総括と鷗外文学に関する補足のための座談会、1回 全体討議の中で組まれた5回のプランは以上のようなものであった。 5 チューターとしての反省 前項に語ったように、第一年次の作業は、 (1) 講義形式によるゼミのためのオリエンテーションに2回 (2) 本番のゼミに10回 (3) その間に、さらに中間のオリエンテーションを1回 (4) ゼミの総括に1回 という順序で進められた。結果的にそうなったということなのだが、大体この辺がムリのないプログラムの組み方ではないかと思ってみている。(したがって、第二年次のプログラムも第一年次に準じて編成、目下進行中というところである。) セミナーは、報告者・司会者各1名を毎回交替に立てて進めることにした。報告をめぐっての全体討論は、ムリに一本の結論にまとめることを避けて、一致点と不一致点を明確にして回を重ねる中で検討しつづける、という方針をとった。チューターは、つとめて自己の見解や判断を述べることを避けて、論理・論脈のあいまいな点を指摘したり、判断の資料となる事柄の提示や文献の紹介をおこなう、という態度に自分をおさえた。(十分におさえることが出来たかどうかは自信はないが。)問題の解明が最終的には学習者自身の手で行なわれる、ということを期待しての措置だが、結果はまずまず所期の通りというところであった。 最初の私の心づもりでは、本番8回で終ることを予定したこのセミナーでは、鷗外の歴史小説を『最後の一句』から始めて『高瀬舟』あたりまで扱えれば、まずは悔いはない、というつもりであった。「歴史其儘」の世界へと鷗外を引きずり出した、幸徳事件前後の(とくにその後の)歴史社会的状況の中にその作品群を位置づけて、それを現代のこの疎外状況とのパースペクティヴにおいて〈自分の眼〉で見得るようになれたら、それで十分ではないかと考えた。 幸徳事件に際しての佐藤春夫や石川啄木の抵抗詩(春夫の『愚者の死』、啄木の『墓碑銘』など)、永井荷風の文学廃業宣言(『花火』)等については、曲がりなりにも最初のレクの中で語ってある。だから、そういう背景の支えの中で鷗外の歴史文学の意義がわかってもらえたら、それで十分ではないかと考えたのである。 それと同時に、二回、三回とゼミをかさね鷗外作品を読み進めて行って、なおかつ受講者たちの関心がそこにないような場合、私としては啄木なり芥川なりに、取材の方向を転じようと考えていた。勝負のしどころを他に求めよう、というのである。そういう場合も予想して、自分なりの評価にしたがって、ぜひこれだけはと思う二つの作品――『最後の一句』と『阿部一族』を最初にぶっつけることにした。(もっとも、どのみち『最後の一句』は最初に扱う予定にしていたわけなのだが。) が、そのおりの自分の片側の気持をいえば、この二つの作品の学習指導に自分を賭けた、ということも事実であった。鷗外の歴史小説をかけ足で走りぬけるのでは、〈幸徳事件以後〉というテーマがほとんど意味をなさなくなるからである。この時期におけるこの作家の自己変革と成長の姿、そして挫折の姿をたどることなしには、ある意味ではこのテーマは成り立たないからである。 受講者の中には鷗外を敬遠(あるいは毛嫌い)している人も少なくなかった。「鷗外はどうも好きになれない。」というようなことを気楽に口にする人も少なくなかった。泣きたいみたいな気持だった。「なにも好きになれというのじゃない。」とか、「好き嫌いの問題じゃないのだ。」とか、「たんに好き嫌いで学問の問題を考えてもらっちゃ困るのだ。」とうような言葉がノドまで出かかって自分をおさえた。ともかく必死だった。そして、二つの作品にこのゼミの成否を賭けた。 結果は前項の引用が示しているように、「もっと深く鷗外の歴史物を勉強したい」という方向への高まりを見せるようになったのであるが、はじめはとても鷗外がやれる状態ではなかった。が、やがて、徐々に、多くの人々が鷗外のあのかわいた 文体に魅せられるようになって行った。ということは、そのかわいた 文体を通して〈幸徳事件以後〉の現実像をまざまざとそこに見、その現実像と重ね合わせに今日この只今の現実像のある断面をそこに見つけた、ということのようである。『最後の一句』や『阿部一族』の検討の中で提出された話題を二、三、記録(前掲『転形期の文学』)にしたがって摘記しておこう。
紙幅が尽きた。くわしく述べる余裕はないが、社会教育のわく 組みの中で考えられる〈幸徳事件以後〉というこの文学教育のテーマに関していえば、(文学史的な評価とは別個に)プロレタリア文学の面からの取材作品としては、むしろ、黒島伝治の初期の作品のほうが妥当ではなかったかと、今は思ってみている。ノン・フィクションの『軍隊日記』、そして『電報』『豚群』『二銭銅貨』『渦巻ける烏の群』などの一連の作品である。
|
||||||||||
∥熊谷孝 人と学問∥昭和10年代(1935-1944)著作より∥昭和20年代(1945-1954)著作より∥1955~1964(昭和30年代)著作より∥1965~1974(昭和40年代)著作より∥ |