国土社刊「月刊 社会教育」121 1967年12月号 掲載

   「転形期の文学」を教える
(<特集 学習内容の編成>「 国立市・市民大学セミナー」 には、ここに取上げる熊谷孝論文の他に、室俊司「生きる意味をさぐる歴史学習―婦人の戦後史―」、徳永功「市民大学セミナーの構想と実際」が掲載されている。なお、徳永功氏は、国立市公民館主事として、一連の市民大学セミナーの企画・運営に腐心された。近年刊行の著書に『個の自立と地域の民主主主義をめざして 徳永功の社会教育』―2011,11 エイデル研究所―がある。)

    1 社会教育と文学教育

 まっとうな社会教育意識を欠いては、たとえ作業の実際が社会教育の仕事とふれあうところがあるにせよ、それを言葉の正しい意味において〈社会教育〉の〈実践〉と呼ぶことはできないだろう。実践とは、対象的事物(=事態)の変革をめざす合目的々で計画的な、つまりはそのような目的意識的な行為なはずなのだから。――というようなことは、私にもわかっているのである。少なくとも、リクツとしてはわかっているtもりなのだ。だからして、うしろめたい のである。「月刊 社会教育」第121号表紙(コピー改変) かりに、なにがしかの成果がそこにあがったとしても、そういう意識を欠いては、それは偶然の所与というほかあるまい。ケガの功名という、あれである。その成果を必然的なものにし、それを持続的・発展的なものとするためには、そこに筋の通った(また筋を通した)社会教育意識が必要とされる。そういう意識に裏打ちされ、またそういう意識に志向されたいとなみであってこそ、それは社会教育の実践、社会教育的実践であるというふうにもいえるわけなのだ。
 というようなことも、やはり、リクツとしてはわかっているつもりなのだ。だからして、うしろめたい のである。
 ありていにいって、私にはつかめていないのだ。日本の社会教育がいま共通して何を課題とし、どういう方向へむけて歩みを進めているのか、というようなことが、である。したがって、いま現に私が取り組んでいるような作業や作業の組み方が、日本の現代の社会教育の課題意識や実践の方向とどういう関係に立つのか、というようなことが全然といっていいぐらいに、つかめていない。うしろめたい といったのは、そのことなのである。
 もっとも、私にしてからが私なりの問題意識や課題意識がないわけではない。そうでなければ、どういう意味にもせよ、作業に取り組むというふうな行動の世界へ一歩だって足をふみ出すことはできないはずなのだから。
 だが、私の場合、それは社会教育的関心に発するものであるよりは、文学教育ないし文学研究教育への関心に根ざした課題意識にほかならない。だから、もし、あえて〈実践〉ということをいうのなら、私の実践は、私なりの文学教育意識による実践以外のものではないわけだ。そういうカッコつきの「実践」が社会教育プロパアな視点からみて、どういう位置づけと評価を受け取ることになるのか。というよりも、私としては、こんごの私自身の過誤を可能なかぎり未然に防ぐために、どういう点をどう改めねばならないのかを、大方の社会教育のエクスパートの方々に原理に照らしてご指示、ご指摘いただきたいのである。この稿に対する本来の課題は承知しているが、私個人としてはそういう示唆や批判を期待しての報告がこの稿だということになるのである。

    2 社会教育としての文学教育

 私には私なりの課題意識があるといったが、それがじつは一本調子の単細胞的なものなのだ。どうぞ、お笑いなく――。
 私の考える〈社会教育としての文学教育〉の課題は、学校教育との関係・関連に立っていえば、(1)学校文学教育の失地回復ということである。あるいは、(2)学校文学教育が果たしえなかったもの(こと)を、社会教育の場で、別個の次元において充足することである。さらにいえば、(3)文学教育をもふくめて学校教育そのもののプラス・マイナスの成果をそこに追跡調査しつつ、学校文学教育のはぐくんだ芽がどう実(み)を結んでいるのか(あるいはどう枯渇してしまっているのか)をたしかめ、その結実(枯渇)の仕方に応じて、成人としての現実の生活の場で、生活の土壌に根づいた花としてその芽、その実を開花させる努力をする、ということなのである。
 そういう努力を結実させることを期待し得るのは、多くの場合、――というよりは一般的にいって――集団志向に支えられた共同学習の場においてである。集団が集団として自己変革をとげる中で、集団中の個が変革されていくのである。個我のたちなおりと成長が、そこに期待され得るのである。もはや生徒や学生ではない、じかに体制のカベにぶつかり地域の問題の渦の中にある生活者を集団に組織しての、その生活意識と感情を変革する活動――それがおそらく社会教育活動の大きな部分を占めることになるのだろう。私たちの文学教育運動と活動は、社会教育のこの面に参加することをねがっている。
 却説。話を一コマ前にもどして、上記の(1)に関していえば、学校文学教育の既往現在の状況は、例外はあるとしても――この例外だけがじつは救いなのだが――多くの場合、文学教育以前の、ただの〈文学教材の読解指導〉の域にとどまっている。作品の文章を段落 に小分けして、それぞれの段落の要旨 というのをいわせ、その要旨をつないで全文の大意 ――つまり話の筋だ――をいわせ、その筋書き からして「要するに何が書いてあったか」ということをいわせる式のあの指導である。それは、作品の示す強烈な個性的な発想や文体との出会いを故意に回避したも同然の指導である。それは、文体(文体が示す個性的な発想)において文学を――とうのは現実を――考える代わりに、ただの「お話し」の筋として、素材として文学をつかませようとする非文学的なブンガク教育である。
 加えて、戦前・戦中の学校教育にあっては文学は、少なくとも文学のエスプリ、反俗のエスプリをもった文学は「青少年」を「柔弱」にし、時として「赤化」にみちびく「教育の敵」として考えられていた。(ちなみに、筆者の世代は、教師の眼を隠れて学校の禁書を読んで育った世代である。国立(くにたち)市民大学セミナーの受講者のかなりの部分が、私と同じこの世代にぞくしている。)
 現在の学校文学教育がまた、(体制側の意向を忠実に実行するとすれば)「期待される人間像」をバイブルとした道徳教育以外のものではなくなってしまう状況なのである。来春改訂を予定されている教育課程における文学教育は、(教育課程審議会分科会の委員長意見にしたがえば)「道徳教育もあわせて行なえるような読み物教材集」をテキストにしたブンガク教育に他ならない。戦前が必ずしも戦前になりきっていないのである。――社会教育の場における学校文学教育の失地回復を私が云々する気持、ご諒解いただけただろうか。あわせて、上記(2)の、学校文学教育が果たすべくして果たしえなかったものの社会教育の場での充足、ということを私がいう理由についても、である。
 ところで、上記(3)につけ加えていっておかねばならないことがある。学校文学教育のめざすところは、〈文学の眼〉をもって自己内外の状況をたしかめつつ実人生を生きていけるような、〈文学体験〉の〈素地〉を、子どもたちの未来(=未来像)に向けてはぐくむことにあるわけだ。社会教育の場における文学教育活動は、だからして図式的にいえば、そのような作業をひきつぐことに課題と任務があるということになるのであるが、現実の学校教育のありようが、すでに見てきたとおりである。成人としての、生活者としての人々の生活のありようがまた多種多様である。社会教育としての文学教育の学習内容は、まさに、ケース・バイ・ケースというかたちで組まれるほかはない。学習主体の現実の生活体験、文学体験のありように即しての、ケース・バイ・ケースということなのである。
 いいかえれば、教材の選択も指導過程の組み方も、学習主体の体験のリアリティーと、またそれを規制する感情のわく 組みに即して構想されねばならない、ということなのである。が、しかし、そのことは、学習主体の実感ベッタリのかたちのものに学習内容を組む、ということとは全然別個のことである。誤解をさけて言えば、相手の実感に即してその実感構造、その感情のわく 組みに揺さぶりをかける、ということにほかならない。
 感情のわく 組み? ……別のいい方をすれば、認識の仕方を規制する認知の構え ということである。(なぜなら、感情とは本来、人間の主観的世界・内界の第二信号系への反映にほかならないからである。――その原理的な解明については、拙著『芸術とことば』所掲の「第二信号系と理性体験」「実感の体系としての思想」の項など参照。)社会教育の場における文学教育の作業分担は、学習主体の〈文学の眼〉をたしかのものにしながら、彼らが自分自身の持ち場、生活の場で現代の疎外状況とまっとうに対決していけるような〈認知の構え〉としての感情のわく 組みをそこにはぐくむことである。
 文学の眼? ……この点についても注記しておいたほうがいいだろうか。他者の中に移調された自己を見つけ、自我の内側に他我を実感するという主体的な連帯の眼、人間相互の連帯回復の眼である、と一応そういっておこう。

    3 学習テーマと対象領域の設定

 上記のような課題意識と意図にしたがって、主催者側(国立市公民館主事の徳永功氏)と協議して設定した文学セミナーのテーマは、〈転形期の作家と作品〉というのである。(受講者公募の際、これに「伝統の受けつぎと変革」というサブタイトルを添えた。)このテーマが意味するところは? ……開講式の後の座談会で、受講者へ向けて私の話した談話速記(国立市民大学セミナー・文学グループ編/国立市公民館発行『転形期の文学=国立市民大学ゼミの記録』所収)から引用しておこう。

  転形期というのは、どなたかのお訊ねの中にあった〈変革期〉ということと同じだ、とお考えくださって結構です。たとえば、十一、十二世紀の院政期――これなど、古代から中世への変革期として典型的な転形期ですね。(中略)つまり、そういうような意味での転形期ということが前提にあっての話なのですけれども、私が〈転形期の文学〉云々という場合の転形期というのは、何かめいめいの〝私〟にとっての転形期というような意味をこめていっているわけなのです。〝私〟が〝私〟自身の生活やその周囲に、あるいは自己の生活の基礎であるその社会の中に転形期を実感する。それは、ある意味では歴史と生活との危機感みたいなものがあるわけでしょうが、その危機感と照応する形でのやはり危機感に苦しんでいる人間の姿を、過去のある時点に発見するとすれば、その時期がまさに 〝私〟にとっての転形期になるのではないか、というような意味なのです。
 私たちが私たちの生活と歴史の奥底に感じる転形期――それと見合うかたちの転形期について考えている文学を現在に、そして過去に追い求める、さぐる、ということなのです。私たちが現在眼の前にあるもの、眼の前にある文学ですべてが満たされるのなら、過去の文学への探求はそのかぎり不要です。現代の文学によってでなくては応答のえられないものがあると同時に、現代の文学が真実〝現代文学〟になりえていない、というか、なり切っていない。そういうことを残念だが実感せざるをえないから過去に眼を向ける、向けざるをえなくなる、ということなのです。〝現代の文学〟ということと〝現代文学〟ということを私は区別して考えます。この時代に制作されている作品ということと、真実こんにち的な課題に答えてくれる文学作品との区別です。で、そういう区別に立っていえば、作家だけではなく私たちごく普通の読者も協力して、これから創りあげていくものが現代文学なのだ、と思うのです。伝統をもりもり吸収し受けつぎながら、それを発展的にこんにちに媒介し変革しながら、であります。

 上記のような基本テーマの設定にしたがって、第一年次(66年度)は近代文学を、第二年次(67年度)は近世文学(「井原西鶴――喜劇精神の文学」)に対象領域を求めた。何れも、学習主体である受講者の希望にしたがい、それにチューターのほうで道筋をつけるという形での学習対象領域の選定である。第一年次の場合について、選定のいきさつを次の私の談話速記(同上『転形期の文学』所掲の座談会記事)からお察しねがうことにする。

  最初、徳永(功)主事との打ち合わせでは、中世文学のどこかに対象領域を設定して、とうことだったのですけれども、でも、ご希望の多い近代文学でまいりましょう。近代のどこを、という点についてはチューターにまかせる、ということでしたから、一応私のほうから提案します。あくまで一応なのです。遠慮なくあとでご意見をおっしゃってください。
 案が二つあります。第一案は、〈幸徳事件以後〉とうテーマの切取り方によるものです。日本の近代文学は、見方にもよりますが、自由民権運動の文学面での受けつぎという格好で、まさに文学運動としてスタートします。自由民権運動の壊滅によって失ったものの、文学運動による回復、失地回復みたいな様相で明治二十年代に成立するのですが、二葉亭四迷の『浮雲』のことを思ってみてもいいでしょうけど、むしろ北村透谷たちの「文学界」のロマン派の運動のことを焦点として考えてみたらいい、と思います。その辺のことを考えてみるのが、じつは第二案 なのですよ。
 第一案は、明治も終りに近いころ、例の幸徳事件というデッチ上げ事件が発生しますね。盛り上がりかけた政治意識や民主化運動が、ここのところで息をつめた格好になるわけですけども、逆に文学のほうは、きびしい緊張感の中に息を吹き返すのです。政府と検察当局、裁判所の結託による、デッチ上げによる大量殺人事件に対する民衆と民衆文学者による怒りが、文学の場で爆発します。民権運動とロマン派の文学運動の関係みたいなものが、この幸徳事件とこの時期の多くの良心的でラショナルのものの考え方をする文学者の上に見られるのです。
 具体的には、少年詩人佐藤春夫、石川啄木、永井荷風、森鷗外などの文学者の姿勢――文学に立ち向かう姿勢の転換の中にそれが見られる、ということなのです。で、その辺のところから始めて、芥川竜之介、小林多喜二、徳永直、黒島伝治あたりにふれ、太宰治の『晩年』などのいわゆる〈暗い谷間〉の時代の文学あたりのところまで問題を追ってみる、というテーマの切り取り方をしてみてはどうだろう、というのが私の提案です。それを全部やるのはとてもムリですが。ひとつ検討してみてください。

 要するに、(1)基本テーマは、歴史・経済・教育など他の各講座と共通する、市民大学セミナーの基本路線(それがどういうものであるかについては徳永功氏による総論の稿参照)にしたがってとりきめを行ない、(2)そのテーマの趣旨を「公民館だより」という公報に掲示して市民一般から受講者を募集し、その上で、(3)具体的な学習対象領域の選定については受講者の自主性・自発性を尊重する、という方針をとったわけである。受講者の学習意欲を保障するためにも、である。
 そのおりの私の気持の楽屋裏をいえば、〈転形期の作家と作品〉〈伝統の受けつぎと変革〉というテーマに対して応募した人たちなのだから、そうズレはあるまい、という安心感というか受講者への信頼感が前提にあったことは事実である。ただ、そういう領域への関心とか興味というのが既成の常識、誤まれる常識にもとづく興味や関心によって占められているような点のある場合を考慮して、上記引用のような示唆と方向づけを与えることにしたわけだ。(誤まれる常識――そのような常識の基礎をつくりあげた学校教育に対する私の不信は大きい。受講者とのこの座談のおりに知ったことは、自分は文学に趣味があるとか、これまでに学校教師として国語や文学を教えてきたというような人の文学観念が意外に古い、ということであった。上記引用のようなコメントを添える結果になった理由だ。)
 さて、上記のような提案をめぐっての全体討議の結果は、第一案の〈幸徳事件以後〉ということでいこうということになった。ただし、第二案の内容にもおおいに関心をそそられるから、どこからどう手がけたらいいか、とうような点について(セミナーの中の一回を講義にかえて)話してくれ、というのである。ともあれ、こうして文学セミナーは出発することになった。男性、3名。女性、15名。20代、8名。30代、5名。40代、1名。50代、3名。それに七十二歳の老女1名を加えて、である。

    4 セミナーの流れ

 7月から11月に11回のセミナーの学習内容とスケデュールについて、はじめにごく大まかな見とおしを用意することにした。これも受講者全員と協議の上である。

(1)  最初の2回、会期中のどの1回かをチューターによる講義にあてる。最初の2回のレクは、セミナーを進めていく上に必要な文学理論の基礎知識、および幸徳事件前後の歴史状況・文学状況について。後の7回のレクは、幸徳事件以前の近代文学の流れについて。また、文学史における戦前・戦後のつながりについて。
(2)  8回のセミナーの中・前半を森鷗外の歴史小説の検討にあて、後半を、それにつづく芥川・太宰・多喜二・直・伝治などの諸作品検討にあてる。(春夫・啄木・荷風については、(1)のレクで扱う。)
 大体、以上のようなプラン・プログラムに落ち着いたわけなのだが、隔週毎回3時間の学習作業としては盛りだくさんにすぎる、というより、鷗外の歴史文学の検討を3回や4回で処理しようとしても処理しきれるものではない。が、「先刻、私が太宰だ、多喜二だと口走ったのは、あれは会期を終えた後のみなさん方めいめいの課題として、という意味だったのですよ。」などといってみても後のマツリであった。とにかく、がんばってやってみる、というのだ。意欲は買うが、やや、コワイモノ知らず、なのである。
 結局、せっかくのその意欲に水をさすことはやめにして、「予定はあくまで予定なのであって、先へ行って変更することのあること」を共同確認して、「してみて、よきにつくべし」ということでスタートさせることにした。こうした意欲のある人たちが、意欲的に作業を進めている間には、作業は通り一ペンなことで片のつくものでないことに気づくときが来る、と考えてのことである。さらにいえば、そういうことに気づくということが、こうしたゼミの収穫でもあるわけなのだ。
 結果は、鷗外文学の検討に7回(『最後の一句』の検討に2回、『阿部一族』に2回、『佐橋甚五郎』に1回、『護持院ヶ原の敵討』『大塩平八郎』『山椒大夫』『高瀬舟』に2回)を要した。しかも、「時間的な制約から『山椒大夫』『高瀬舟』については、十分論議を発展させることができなかった。」とセミナーの記録者は書きつけている(前掲『『転形期の文学』)。会期、あますところ、あと2回。どういう運びになったか。上記のセミナーの記録は、次のように伝えている。

  鷗外の学習が盛り上ってくるにしたがい、会期が残り少なくなるにつれて、もっと深く鷗外の歴史物を勉強したいという声が高まるとともに(中略)この際、会期を延長して太宰治もという希望がメンバーの間に急速に広まっていきました。こうしたみんなの切なる願いを黙って聞いていられなくなった有志の女性四、五人が公民館の徳永主事のもとへ会期延長のお願いにおしかけました。その結果、3回ぐらいなら延ばせそうだとのお返事を幸いにも頂くことができたわけです。メンバー全員、心から感謝しております。云々。

 こうして受講者の切望と、プロデューサーの徳永氏の配慮によって会期を1ヶ月半(3回)延期して、年末近くまでセミナーを続行することになった。(7月15日にスタートしたゼミは、こうして12月16日まで延々五ヶ月続いたことになる。)延長分3回を加えて5回の学習プランを、こんどは綿密にむだ なく組めた。むだ なく? ……実現可能なように計画的に組めた、という意味である。セミナー方式の学習に対するなれ と、学習の対象物に対する認知の深まり、さらにまた、共通の課題と取り組んでいる者どうしとしてのお互いの人間関係の深まりが、プランを組みプランを進めていく上にロスを最小限なものにしていった、ということがいえそうである。
  (1) 講義〈民族の自画像としての近代・現代小説の主人公群像〉1回
  (2) セミナー・『大導寺信輔の半生』(芥川)1回
  (3) 同・『太陽のない街』『妻よ眠れ』(直)、『一九二八・三・一五』(多喜二)1回
  (4) 同・『葉』『畜犬談』『鷗』(太宰)1回
  (5) セミナーの総括と鷗外文学に関する補足のための座談会、1回
 全体討議の中で組まれた5回のプランは以上のようなものであった。

    5 チューターとしての反省

 前項に語ったように、第一年次の作業は、
  (1) 講義形式によるゼミのためのオリエンテーションに2回
  (2) 本番のゼミに10回
  (3) その間に、さらに中間のオリエンテーションを1回
  (4) ゼミの総括に1回
という順序で進められた。結果的にそうなったということなのだが、大体この辺がムリのないプログラムの組み方ではないかと思ってみている。(したがって、第二年次のプログラムも第一年次に準じて編成、目下進行中というところである。)
 セミナーは、報告者・司会者各1名を毎回交替に立てて進めることにした。報告をめぐっての全体討論は、ムリに一本の結論にまとめることを避けて、一致点と不一致点を明確にして回を重ねる中で検討しつづける、という方針をとった。チューターは、つとめて自己の見解や判断を述べることを避けて、論理・論脈のあいまいな点を指摘したり、判断の資料となる事柄の提示や文献の紹介をおこなう、という態度に自分をおさえた。(十分におさえることが出来たかどうかは自信はないが。)問題の解明が最終的には学習者自身の手で行なわれる、ということを期待しての措置だが、結果はまずまず所期の通りというところであった。
 最初の私の心づもりでは、本番8回で終ることを予定したこのセミナーでは、鷗外の歴史小説を『最後の一句』から始めて『高瀬舟』あたりまで扱えれば、まずは悔いはない、というつもりであった。「歴史其儘」の世界へと鷗外を引きずり出した、幸徳事件前後の(とくにその後の)歴史社会的状況の中にその作品群を位置づけて、それを現代のこの疎外状況とのパースペクティヴにおいて〈自分の眼〉で見得るようになれたら、それで十分ではないかと考えた。
 幸徳事件に際しての佐藤春夫や石川啄木の抵抗詩(春夫の『愚者の死』、啄木の『墓碑銘』など)、永井荷風の文学廃業宣言(『花火』)等については、曲がりなりにも最初のレクの中で語ってある。だから、そういう背景の支えの中で鷗外の歴史文学の意義がわかってもらえたら、それで十分ではないかと考えたのである。
 それと同時に、二回、三回とゼミをかさね鷗外作品を読み進めて行って、なおかつ受講者たちの関心がそこにないような場合、私としては啄木なり芥川なりに、取材の方向を転じようと考えていた。勝負のしどころを他に求めよう、というのである。そういう場合も予想して、自分なりの評価にしたがって、ぜひこれだけはと思う二つの作品――『最後の一句』と『阿部一族』を最初にぶっつけることにした。(もっとも、どのみち『最後の一句』は最初に扱う予定にしていたわけなのだが。)
 が、そのおりの自分の片側の気持をいえば、この二つの作品の学習指導に自分を賭けた、ということも事実であった。鷗外の歴史小説をかけ足で走りぬけるのでは、〈幸徳事件以後〉というテーマがほとんど意味をなさなくなるからである。この時期におけるこの作家の自己変革と成長の姿、そして挫折の姿をたどることなしには、ある意味ではこのテーマは成り立たないからである。
 受講者の中には鷗外を敬遠(あるいは毛嫌い)している人も少なくなかった。「鷗外はどうも好きになれない。」というようなことを気楽に口にする人も少なくなかった。泣きたいみたいな気持だった。「なにも好きになれというのじゃない。」とか、「好き嫌いの問題じゃないのだ。」とか、「たんに好き嫌いで学問の問題を考えてもらっちゃ困るのだ。」とうような言葉がノドまで出かかって自分をおさえた。ともかく必死だった。そして、二つの作品にこのゼミの成否を賭けた。
 結果は前項の引用が示しているように、「もっと深く鷗外の歴史物を勉強したい」という方向への高まりを見せるようになったのであるが、はじめはとても鷗外がやれる状態ではなかった。が、やがて、徐々に、多くの人々が鷗外のあのかわいた 文体に魅せられるようになって行った。ということは、そのかわいた 文体を通して〈幸徳事件以後〉の現実像をまざまざとそこに見、その現実像と重ね合わせに今日この只今の現実像のある断面をそこに見つけた、ということのようである。『最後の一句』や『阿部一族』の検討の中で提出された話題を二、三、記録(前掲『転形期の文学』)にしたがって摘記しておこう。

  ――幸徳事件の被告たちの心情と阿部弥一右衛門(『阿部一族』の主人公群の一人)のそれとの共通性を考えてみたい。ついでにいえば、作中人物の苦しみが、ごく身近に具体的に自分自身の苦しみに通じることを実感する。日常のこまごました問題をせんじ詰めていくと、結局のところ政治にまでつながっていくことを知るようになった。それに伴って、世界観らしい世界観も持たずに生活していくことの無力さを、ますます感じないわけにはいかない。今では、作品を読むことがかえって、自己の内面の葛藤を生み育てていくように思われる。
 ――この作品(『阿部一族』)で江戸時代に舞台を設定したのは、鷗外の生きた明治・大正という〝現在〟と、幕藩体制下の〝過去〟との間に社会構造的な共通性を見たからではないか。過去を語ることで現在を語ることになり、問題への関心を主観的なものに終らせないためにも、時間的距離の上に立って、事実をもって客観的真実を語らせたのではないか。
 ――『最後の一句』の事件は元文年間、八代将軍吉宗の治世のこととして設定されている。ちょうど封建体制が破綻に向いつつあった時代のことだ。明治の末から大正へかけての時期、すなわち鷗外に時代との間に、社会・政治体制の面で共通するものを見いだすことができそうだ。そうした目でこの作品を読んだ場合に、その性格とか、書かれた必然性とかがハッキリつかめてくるのではなかろうか。
 ――幸徳事件をきっかけにして、官僚的なものに対する不信感が怒りにまで高まり、かといってそれをあらわに表明することもできない、といった状況の中からこの作品(『最後の一句』)は生み出されていると思う。どうぶちまけようか、という心の葛藤が、読んでいて胸に迫ってくるようだ。
 ――『最後の一句』は太田南畝の『一話一言』に取材して小説化したもので、いたって平凡な話だ。助命されるという結末は読者の予想を裏切る。やはり残酷だが、殺されるべきでは……
 ――重要なことは、原話をどのような切り口で切り取っているかということだ。原話は、ただの親孝行賛美に終始している。
 ――これは外側からの忠孝の押しつけによる孝養としてではなく、少女の行為の主体性を強調している点が注目される。主人公のこの少女は、命をかけて相手(官僚)に行為の変革を迫っているのだ。

 紙幅が尽きた。くわしく述べる余裕はないが、社会教育のわく 組みの中で考えられる〈幸徳事件以後〉というこの文学教育のテーマに関していえば、(文学史的な評価とは別個に)プロレタリア文学の面からの取材作品としては、むしろ、黒島伝治の初期の作品のほうが妥当ではなかったかと、今は思ってみている。ノン・フィクションの『軍隊日記』、そして『電報』『豚群』『二銭銅貨』『渦巻ける烏の群』などの一連の作品である。
  (国立音楽大学教授)

熊谷孝 人と学問昭和10年代(1935-1944)著作より昭和20年代(1945-1954)著作より1955~1964(昭和30年代)著作より1965~1974(昭和40年代)著作より