明治図書出版刊「教育科学・国語教育」102 1967年4月号 掲載

   第二信号系理論は授業にどう寄与しているか
(<特集 授業を支える基礎理論の検討>「基礎理論と国語科授業の関連」 には、大槻一夫、荒井栄、永野賢、西郷竹彦、熊谷孝、最上太門、村石昭三 各氏の論文が掲載された。)

    どう寄与しているか?

 どう寄与しているか? といわれても、じつは困るのだ。条件反射学のこの理論が、筋の通った(筋を通した)かたちで日本に紹介されるようになってから、まだ日が浅い。(たとえば、『パヴロフ選集』の最初の邦訳刊行は一九五五年であった。それが長いこと絶版になっていて、出版社をかえて再発行されるよういなったのが数年前―たしか六二年のことだ。)この理論に関する知識は、国語教師の場合もふくめて日本の知識人一般の常識になりきっていないのである。
 早い話が、「条件反射」だの「信号」だのということばが話題の中に出れば、条件反射? ああ、わかってる、わかってる、ベルとイヌのよだれのあれのことだろう、とくる。話のつぎ穂もなくなるではないか。
 数十年まえに、ひどく中途はんぱな格好で「普及」してしまった条件反射の知識が、わるく作用しているのである。あえていえば、興味本位な、薄っぺらな「知識」がわるく作用して、第二信号系の理論へのまっとうな理解と接近をさまたげているのだ。<注>問題を、こうした状況の面で切り取っていうかぎり、この理論が授業に寄与するもしないもないのである。問題以前――多分、そういっていいだろう。以上のことが一つ。

<注> 以前、安部公房氏と乾孝氏がこの点に関して、こもごも次のように語っていた。数年前の某誌の対談記事からのコピーだが、事情は今でも、あまり変わっているようには思えない。
 ――「条件反射ということば、これがどういうふうに」一般の知識人の間で、「使われているかというと、おそろしく機械的なものか、何か下等なものという意味での代名詞」としてである。「信じられないくらい無知」なんだ、云々(以上、安部氏)。この学説の日本への最初の紹介は、「思考までをイヌのよだれに還元してしまいそうな」そういう紹介であったこと。しかも、それが「アメリカの行動主義経由で日本にはいってきた」こと。「パヴロフの正統派の後継者の理論というのが、ずっと紹介されないできて」いたこと。だから、「スタニスラフスキー・システムは条件反射理論につながる、などといわれると、とまどってしまう」結果にもなっていること、等々(以上、乾氏)。
 かさねていうが、事情はこんにちでもほとんど変わっていない。 
 
 第二に、この理論は理論そのものとしては、条件反射学説による大脳生理学の理論以外のものではない、という点に関してである。つまり、それは、伝え理論 (communication theory) に組みこまれ、具体的に各人のメディア観<注>・言語観に媒介されるようになって、はじめて、各自の国語教育の実践―授業に指示と示唆を与えるものになる、という関係についてなのだが。
 ことばをかさねるが、この理論の国語の授業への寄与は、第二信号系の理論→伝え理論への媒介→メディア観<注>・言語観の変革→国語教育観の変革→授業の反省と方向指示、という、そのような径路、そのような仕方における「寄与」にほかならないのである。
 端的にいって、各人のメディア観への媒介ということを考えることなしに、授業へのストレートなつながりや、直接的な寄与を云々することは、ほとんどまったくナンセンスにひとしい。第二信号系の理論は、それがそのままのかたちで読解や鑑賞、鑑賞指導、あるいは作文指導などの方法論(方法理論)になり得る、という意味での言語、国語の教育理論ではないのだから。また、そのような意味での直接的な国語教育の理論ではなくて、もっと基礎的なというか原理的な理論であるからこそ、かえって国語教育ないし国語の授業のありかたに対して基本的な方向規制をたえず要求し得る立場にこの理論がある、といういうことにもなるのだから。――授業にどう寄与しているか、といわれても、ひとことでは答えられない、答えようがないと、先刻そう語った理由の一半はその辺のところにあるわけなのだ。

 <注> メディア観~ 「端的にいって、コミュニケーション・メディア (communication media 伝えの媒体) についての、人それぞれの考え方のことです。(中略)コミュニケーション・メディアとしての、“ことば”メディアや、視覚メディア、聴覚メディアなどについて、そのはたらき の性質(=機能的性質)をどう考えるか、その相互の関係や関連についてどう考えるか、というその考え方のことです」云々。(拙著『言語観・文学観と国語教育』明治図書刊、45-46ページ。)

 第三に、上記のことに加えて、次のようなことがある。国語教育の原理理論ならびに方法論に位置づけて考えられる第二信号系の理論というのは、そこで伝え理論に組みこまれたかたちのもの以外ではないわけだ。ところが、だ。伝え――コミュニケーションということを云々すること自体に、妙な勘ぐりと反発があるわけなのだ。
 妙な勘ぐり?……切りくちをかえていえば、むしろ当然な疑惑だということにもなるわけなのだが、文学関係者の間にそれがある。また、進歩的な意識をもって国語教育なり文学教育の仕事を熱心にやっているような人びとの間に、意外とそれが多いのである。
 つまり、こうだ。コミュニケーション? 電話のかけ方だの、あいさつの仕方だのという、あれのことか、というわけなのだ。コミュニケーションのいろんな場面に関して、How To を並べ立てた、もう先のあの教科書には手を焼いた。こりごりだ。だいいち、言語や文学の本質的な問題が、コミュニケーションがどうのというようなことで片がつくと思ってるのかね。いいかげんにしてくれ、というわけなのだ。
 そこには、戦後の一時期におこなわれた(じつは今また、よそおいを新たにして左右両翼から再提出されつつある)言語道具説のあの薄っぺらなコミュニケーション論との混同・同一視があるわけなのだ。コミュニケーションといえば(それこそ反射的に)それは実用主義だろう、言語技術主義のあの How To のことだろう、ときめてかかる、(あえていうが無知ゆえの)こうした先入見から自由にならないかぎり、第二信号系の理論の国語教育理論への全般的定着は、まず不可能に近い、といわなくてはならない。
 で、伝え理論としての第二信号系の理論が、先行する認識論や言語理論に対して、どのような役割りをになって登場してきているか、という点について一応、当たりをつけておく必要がありそうだ。旧稿をむし返して恐縮だが、当面の課題にふれて書いた部分を旧著(『芸術とことば』牧書店・一九六三年刊)から引用しておくことにする。先刻ご熟知の言語技術主義の伝え理論の果たした(また果たしつつある)役割りと対比して考えてみていただくために、である。(言語道具説・言語技術主義の伝え理論の役割りへの私自身の評価については、本誌前号所掲の二つの拙稿についてご承知いただきたい。)

 ――認識活動もやはり、人間のいとなむさまざまな社会的反映活動の一種にほかならない、と考える僕の立場からは、芸術の認識機能の性質を問題にしてゆく過程において当然、第二信号系の理論との出会いを経験することになります。条件反射学のこの理論のある側面に媒介されることなしには、言語と芸術の認識について、これ以上先へ考えを進めることは不可能に近いからです。ある側面?……伝え理論としての側面であります。
 ――もっとも、原理的・原則的な意味での問題の構造的な理解は、すでに弁証法的唯物論の成立の当初において行なわれていたわけです。すなわち、人間の反映活動の特徴は、その活動がナカマ体験に媒介され、ナカマたちという媒体に屈折した事物の反映であるという点に求められる、という理解の仕方においてであります。(中略)このような構造的理解に立って、人びとは当時すでに(中略)素朴実在論の、主体喪失のあの反映理論(認識論)から自分たちを区別していたわけです。しかし、この点に関して、それを生理学と心理学との裏打ちにおいて“伝え”の機能の面から示唆を投げかけたのは、おそらくこの伝え理論(――伝え理論としての第二信号系の理論)が最初ではないか、と思われます。
 ――そこで、割り切ったいい方をすれば、第二信号系の理論による認識機能のこの機能的理解に裏打ちされて、弁証法的唯物論も、いまや仮説の域をぬけだして、認識の構造的理解としての信憑性をみずからのものとなしえた、ということ以外ではありません。(中略)パヴロフは語っています、「いろいろな論議、さまざまな冗舌のおこなわれた、人間の思考の発生という問題を、われわれは理解しはじめている」と。それは、ほかでもない、「脳皮質に形象と言語による思考の担い手である第一信号系と第二信号系がある、という注目すべき思想 がわきあがる」ことによって実現した「理解」なのであります。

    言語技術的指導への基本的反省

 恐縮。上記引用のゴシック活字の箇所に、もう一度眼を通していただきたい。“考える”“思考する”ということは、言語を操作して“思考を組む”ということ以外ではない。
 そのことは、また、“言語を操作する”ということが、ある仕方で思考を組み認知を成り立たせる、ということにほかならないからである。「脳皮質に形象と言語による思考の担い手である第一信号系と第二信号系がある」というのは、言語を中心にしていえば、そういうことだろう。
 で、生理的・社会的な事実の実証としてそう考えるほかないとすれば、言語と言語の教育の問題は究極において、思考と言語との関係把握の問題としてつかみなおされなくてはならない、ということになるだろう。言語の機能を、上記のように第一信号系と第二信号系の間の問題として、その物質的な基礎にまで立ちもどって考えてみた場合、そういうことになりはしないか、ということである。
 いいかえれば、内語(internal-speech) による“内なるナカマたち”との伝えあい(体験の交換・交流、つまりは自己の思想・感情の組みかえ)としての、すなわち、内部コミュニケーションとしての思考のはたらき について考えてみた場合、そういうことになりはしないか、ということなのである。ちなみに、人間の思考のはたらきを、内部コミュニケーションによる、第二信号系という二重の媒介(信号の信号)をくぐってするところの反映活動としておさえている点は、第二信号系の理論の特徴的なことである。<注>

 <注> 前掲・小著『言語観・文学観と国語教育』の記述にしたがってこの点を補足すれば、次のようになる。
 ――私たちの伝え理論からすれば、“伝え”というのは、“伝え”というもののはたらき の本質からいって“伝えあい”である、ということになります。(中略)“思考”ということのはたらき の本質も、やはり“伝えあい”以外ではない、ということになる。いうところの“ことば” (external-speech) の内化されたかたちの内語 (internal-speech) を操作しての、そしてまた、やはり、内化されたかたちのナカマたちを相手の“伝えあい”――内部コミュニケーションが“思考”ということだ、ということになります。
 そこで、話すとか聞くとかいう実際の“ことば”操作による“伝えあい”がおこなわれるためには、ただ、external-speech が external-speech としてはたらけばよいのではなくて、そこに internal-speech による思考活動がともなわなくては、話すことも聞くとことも、また書くことも読むことも実現しないことになりましょう。
 ――第二信号系というのは、信号の信号、すなわち二重の媒体を組織して、その二重の媒体によって事物(=世界)を反映する、そのような組織活動のひとまとまりのシステムのことです。“ことば”を通して世界を反映し現実を反映するということは、じつはそして現実を反省する、反省しつづける、ということです。いいかえれば、反映のしかたを変えて認知を深める、反映のしかたそのものを外界の法則に合致するように自己規制していく、たえずそのような規制をおこなう、ということです。そのことが、第二信号系として“ことば”を操作する、ということです。

  そこで、言語と思考とのこうした関係把握に立って考えてみた場合、国語の授業はどういうものにならねばならないか、ということである。まず明らかなことは、こういうことだ。“ことば”操作の技術・技能を子どもたちの身についたものにしていくためには、その授業は意図し意識して、論理が示すまっとうな方向に子どもたちの思考活動を組織し、まっとうな認知の構えをそこにはぐくむ作業にならねばならない、ということである。言語技能の指導はそれとしてやり、「思考力を養う」作業はまた別個に、というような発想の授業では、“ことば”操作の技術・技能は身につくはずはない、ということである。
 そこで、たとえば、“読み”の指導に関していうと、説明文体と描写文体との双方の文体に関して、すぐれて論理的な(――感情には感情の論理があるという意味での、認知の構えとしての感情の場合もふくめての、論理的な)「思考力を養う」うえに必要で適切な文章が教材化して与えられる必要がある、ということだ。教材化して与える?……発達に即して発達を促すというかたちで、作品を選択して子どもたちに与える、というほどの意味である。そのことは、また当然、教師はその教材を教材群の中に位置づけて、まさに教材体系として自分のものとして所有する必要がある、ということでもある。
 もう少し具体的にいおう。要は、言語技能を身につけさせることにあるのだから、教材の思想内容など問題ではない、というような発想の授業では“国語”は教育できない、ということなのである。無内容な(つまりナンセンスな)、あるいは、ゆがんだ思想内容の文章が教材では、まともな「思考力」は養われない。まともな認知の構えは養われない。したがって、また、まともな“ことば”操作の技能は子どもたちの身につかないのである。
 ちなみに、思考力一般というようなものは、どこにもありはしない。言語技術主義的な授業の発想の特色は、ありもしないこの思考力一般というようなものを暗黙の前提としている点に求められる。くり返しになるが、そこで教材の思想内容は問わない、という論理になるのである。が、この論理は、ただの論理にすぎない。それは、中道政治の論理みたいなもので、現実の行動はけっして中道などではないのである。つまり、現実に選択する教材は中道どころか、札つきの右寄り<期待される人間像>の期待にこたえるような教材であったりすることは、本誌前号でふれたとおりである。
 言語技術主義は、そこで教材選択の面では、じつはイデオロギー主義的な素材主義なのである。いま、そこにあげた例は右寄りのイデオロギー主義、素材主義の場合だが、現実に見聞する事例は、必ずしも右寄りとだけは限らないのである。選択する素材(教材)の方向が違っているというだけで、指導体系や指導手順に関する発想は基本的には全然同じだ、というようなケースもないわけではない。もっとも、前者は言語技術主義者をもって自任し、後者は自意識の面ではそれを否定している、という違いは見られるのだが。
 両者の発想が、基本的に一致しているというのは、思考と言語との関係把握のしかたに関して、双方の理解が究極において言語道具説のそれ以外のものではない、ということに起因しているようだ。道具説の伝え理論では、言語はいわば思想や感情を(送り手から受け手へ向けて)はこぶ貨車として考えられている。それは、どのような思想をでも(中身に変改を加えることなしに)はこぶ、そのような意味での思想 運搬の道具である。
 だから――と、そこでは考えられている――、その「道具」づくりや「道具」の操作のしかたの訓練は、思考を組み立てたり思想を形成する作業とは別個の作業である。このようにして、“ことば”操作の習得はそれとしておこない、「思考力を養う」作業はまたそれとは別個におこなう、という発想になるわけなのだ。むろん、「思考力を養う」ための教材選択の基準も教師その人の、あるいは“あなたまかせ”のイデオロギーにしたがってまた別個に、というわけなのである。
 第二信号系の理論による伝え理論は、しかし教師個々人に向けて語りかけている。言語は、思考を組み立てて認識の構えを用意し、思想を変革し形成する、そのような意味での思考の具であることを。“ことば”操作の技術の習得は、“ことば”をそのような思考の具として、「思考力を養う」作業の中でしか実現しないことを、である。
 紙幅尽き、教材選択の問題にふれえない。また、道具説(=言語技術主義)では、言語をただの思想運搬の具であると考えることで、民族の共通信号の系としての国語を抽象的な言語一般にすり替え、国語教育を国語教育でないものにしてしまっている点への批判にふれえない。またの機会に。
  <国立音楽大学教授>
熊谷孝 人と学問昭和10年代(1935-1944)著作より昭和20年代(1945-1954)著作より1955~1964(昭和30年代)著作より1965~1974(昭和40年代)著作より