岐路に立つ国語教育
 熊谷 孝著『岐路に立つ国語教育――国語教育時評集』より
国語教育時評 7
すこし論理がなさすぎる
  
(初出:明治図書刊「教育科学 国語教育」1965年10月号)  


  文部省よ、ほんとに勲章をくれますか

 どんな批評であれ、批判してもらえるということは、ありがたいことだ。たとえ、それがどんなに悪意にみちた批評であろうと、自己診断のよりどころを、そこに与えられることだけは確かなのだから。
 それに、こんどの場合は――というのは、私の所属するサークルの仕事に対する、奥田靖雄氏の批判のことなのだが、私たちの不用意な点、舌足らずな点をえぐり出して見せていてくれるのだから。
 私たちの仕事――先ごろ明治図書から出版した、熊谷孝監修・文学教育研究者集団著『文学の教授過程』のことである。
 それに対する奥田氏の批判――教科研・国語部会の機関誌「教育国語」No.2
(八月刊)に掲載されている、『民族精神』という題名の氏の論文のことである。
 奥田氏の批判をひとことでいえば、熊谷孝は、帝国主義に奉仕する「御用学者」であり、この御用学者の所属する文教研
(文学教育研究者集団)という団体は、「忠君愛国、滅私奉公の思想」をもつ反動どもの集まりである、というようなことだ。熊谷が「民族的発想」ということをいい、同じサークルの荒川有史が「民族精神」ということばを口にしているのが何よりの証拠だ。こういう連中の手になる『文学の教授過程』という本は、だから義理にも「いい本」だなどとはいえないし、「いい本だと思えないだけではなく、そこに無気味なものを感じる」という批判だ。
 
(ちなみに、「この本の六四ページに、たぶん荒川有史氏の筆だと思うが」云々といって、右のような批評を奥田氏はしているが、この部分の直接の執筆担当者は荒川氏ではない。)
 奥田氏の批判に触発されることで生まれた私自身の反省については、紙幅が許せば後でふれよう。その点には後でふれるとして、奥田氏にこうして反動よばわりされる
(させる)ような不用意なまね を、なぜ私たちがやったのか、といえば、こうだ。お互いがお互いに現状況下の日本の教師どうしであるという連帯感、さらには民間教育研究団体相互間の連帯感――そのことに対する、私たちの深い信頼と甘えからくる誤算によるものだった。
 いちいち、民族とはかくかくのもので、また民族精神というのは、かくかくしがじかのことをさす、といったコメントはそこに添えなくとも、まさか私たちが口にする民族的発想とか民族精神というのが、「大和魂」や「武士道の精神」のことである、というような理解
(つまり誤解)を、ほかならぬ 同一姿勢の民間教育研究団体のあいだで生もうとは思ってもみなかったのである。たとえ、ディテールにおいては、いろいろの意見の違いはあるとしても、究極のところ同じ地点をめざして歩みを進めているお互いどうし――という思いが私たちにはあったわけだ。が、全然の誤算であった。

 さて、奥田氏によれば、熊谷孝の国語観・国語教育観は「ことだま主義」の由である。「日本語には大和魂がやどっているとみて、国語教育を日本精神をそだてる」場だと考えているのだそうだ。
 また、熊谷は、じつに「りっぱな民族主義者」である由。
 さらにまた、「文部省がわの御用学者がしなければならないしごと」を、「文部省がわの学者には、理論生産の能力がない」がゆえに、その仕事を代わってするところの「民間がわの学者」が熊谷である由。
 だからして、熊谷が、「唯物論的な反映論の生理学的な基礎づけである条件反射の理論をいくらふりまわしても、感情、体験、外化、表現、自己凝視といういくつかの単語のつながりは、垣内松三にそっくり」であり、「そこに血なまぐさいものを感じる」由。
 ところで、敗戦とともにブルジョア民族主義者どもが一度はすてた、例の「民族精神」「民族主義」を、「帝国主義者の要求にこたえて、御用学者は再び拾いあげた。これが『期待される人間像』である。そこで、もはや明らかだろう、「“民族的発想”を強調するこの本
(『文学の教授過程』)が『期待される人間像』の国語教育版」以外のものではない、ということが――。そのうち、「文学教育研究者集団に文部省から勲章がくるだろう」云々。オソレイリマシタ。

  “日の丸”と“アカハタ”と

 先刻いったように、批判はありがたい。どんなに悪意にみちた批評であろうとも、である。
 が、それは当事者にとっての話である。批評の果たす社会的な役割と責任ということでいえば、奥田氏のこのような批評はやはり困りものだ、と私は思う。事実に即して真実をさぐるべき批評(批評というもの)が、ここでは事実さえつかめていない。自分自身の傾斜した視点や角度、問題の解き口(カインツのいわゆる“話の志向性”“解き口”である)に対してまったく無反省だ。「あいつは反動だ」という先入見と偏見だけでものを言ってるみたいな、こういう批評の流す害毒は、はかりしれないものがある。
 「児言研国語」No.3によると、大4次全国教研・国語教育分科会・第三日の席上、児言研理論に立つ「神奈川や埼玉や東京荒川は反動である。自分はこのような反動をぶっ潰そうとしているのだ。」という発言を、教科研のある会員がおこなった、という。ところで、こんどは、教科研常任委員である奥田靖雄氏が、その教科研の「公器」である機関誌「教育国語」で、文教研を反動呼ばわりする。この人たちは、どうして、こうも「反動」というレッテルを貼ることが好きなのだろう。
 「教育国語」の《創刊のことば》によれば、この機関誌は、「わが国の国語教育につよい責任を感じ、その水準を向上させる」ための「たいせつな公器」である、という。そういう公器だと思うからこそ、さっそく私は、本誌八月号のこの欄で、
  今月のうれしいニュースは、教科研・国語部会の機関誌が創刊されたことである。「日本文学」(日文協)、「作文と教育」(日作)、「児言研国語」(児言研)、そしてこの「教育国語」と並べてみると、民間教育運動の明日への期待がより大きなものになってくるのである。
といい、「どうぞ、がんばっていただきたい、民族の明日のために」と書きつけたのだった。(「民族の明日のために」の「民族」がまたいけませんか、奥田さん――。)
 ところが、その「たいせつな公器」を使って、他の民間教育研究団体を御用団体・反動団体よばわりし、世の多くの教師大衆の疑惑と不信感をその団体に対してつくりだし、教師大衆相互の反目と対立をそこにみちびく。これが「わが国の国語教育」に対して「つよい責任を感じている」者のする行為であるのか。一体これは、教科研・国語部会という部会全体の姿勢を示すものであるのか。それとも、奥田氏個人の姿勢なのか。
 「児言研国語」からの引用をもう少し先までつづけると、上記「児言研は反動だ」という全国教研・第三日の某氏の発言に対して、第四日には次のような内部批判的発言が行なわれていた、という。「われわれも教科研に属してはいるが、きのうの教科研会員のような考え方はしていない。お互いにすぐれた点を学び合うべきだ、と考えている」云々。さて、奥田氏の上記のような発言に対しては、他の教科研の方々はどのような見解と判断を示しておられるのか、ということなのだ。
 私がそんなふうなことを言うわけは、次のとおりである。全国教研の場面での、児言研に対する反動よばわりは、たまたま教科研の会員であったというにすぎない、某氏の個人的な見解にすぎないことが「立証」されたかたちなのだから、その点まあまあである。だが、こんどの奥田氏の文教研に対する反動よばわりは、この団体の公的な対外活動、団体ぐるみの運動(教育運動)の「公器」である機関誌を通じて行なわれている。私が引っかかるのは、その点である。
 で、もし、氏の発言が教科研・国語部会の
(公的とまではいわないまでも)全般的な見解を代弁するものであるとすれば、ことは重大だと思う。平家にあらずんば――いや、教科研にあらずんば民間教育団体にあらず。自分たちと意見を異にする民間団体は、すべてこれ御用団体である、というような判断になっては、日本の民間教育運動は四分五裂だからである。が、まさか、である。
 私は先刻、朝食をとりながら、「朝日」の《声》欄で次のような読者の投書を眼にした。45歳の土工さんの書いたものである。 
 私は、きっと私のこどもたちに話す。沖縄は、施政権がなんであろうと日本のものであることを。私は、アメリカの飛行機が、ベトナムの人々を殺しに卑劣な口実で日本から飛立ったことを、私はこどもたちに話す。そしてその時の日本の総理大臣は佐藤栄作という人であったことを。
 お前たちの父親は、そのとき貧しい無力な土工であって、何もすることができず、新聞に投書するのがせいいっぱいであったことを話す。(中略)私の愛する日本が、私の意志に反して、他国の人々を傷つけるために利用されるくやしさを、私はこどもたちにきっと話す。
(『私はこどもたちに話す』――赤松秀庚氏)
 そこに示されている“民族意識”や“民族主義”を、奥田氏は、どう評価されるであろうか?
 こんな短い文章からでは判断のしようがない? そんなことはない。日本人が現在当面している状況の中での
(その中からの) 発言である、という場面規定をおさえれば、半世紀、一世紀後の人でも十分評価は可能である。もっとも、解き口 を誤まり場面規定をまちがって理解すれば、それは、ただの「ブルジョア民族主義」にすぎない、ということにされてしまうかもしれない。が、しかし――である。
 百歩ゆずって、これがブルジョア民族主義にすぎないとして、しかし、こういう民族主義や民族主義者をも組織して、それこそ民族的・国民的規模における反帝闘争を組むということが、じつは奥田氏たちの考え方ではなかったのか? それともことはすべて前衛の手で、という前衛エリート主義に立っているのか?
 いや、実はここで話題にしようとしたことは、平和を愛する全世界の民衆が、そして直接的にはその一環としての日本の国民大衆
(私のいう民族、日本民族だ)が、いま、こぞって赤松氏が実感しているような「利用されるくやしさ」と憤りを実感している、という現実についてであった。そういう現実(あえていうが、この民族的現実)の中で、民族の明日に対して責任を負う、日本の民間教育研究団体のこの分裂的傾向を一体どう考えたらいいのか、ということを私は話題にしたかったのである。

 戦前・戦中において、それこそ帝国主義の御用学者どもは、まるでそのことが趣味であるみたいにして「赤」というレッテルを相手に貼りつけることをやった。学説上の見解の対立する相手に対して、「赤」よばわりをすることでその言論を封殺した。大学院の一学生にすぎなかった、私みたいなかけだし さえもが、これにやられた。そのころ私は、東北大の岡崎義恵教授と論争ちゅうだったが、「文学史における古典評価の基準は、その作品を問題とすることの現代的意義の評価にはじまり、それの歴史的意義を評価する」という構えにおいて保障される、云々
(岩波「文学」所掲『古典評価の基準の問題』)というふうなことを私は書いた。
 これに対して、岡崎教授は、最後にこういい放った。「此処にいう“現代的意義”の評価なるものは、階級闘争によるプロレタリアの進出を助けるが如きものを価値ありとする」ことだ。「“歴史的意義”の評価なるものは、かかるプロレタリアのイデオロギーに理論的基礎を与えるような、階級闘争の為に役立った文芸の実践力を明らかにする」ということだ。「かかる立場に立つ潜行的マルクス主義者が、国文学界に活躍し、教育界に巣食うという事は、いかように考えたらよいものであろうか」云々。
(「岩波講座・国語教育」所掲『古典及び古典教育』)
 人間、自我水準が低下すると、こうも論理を踏みはずすようになるものか。岡崎教授のふったハタは“日の丸”だったが、その“日の丸”が“アカハタ”に代わったというだけで、精神構造はどうやら同じだ。かつては自分と考えの違うものはすべて「赤」だったが、それが今では「反動」である――というようなことになっては、うまくないな、と思うわけなのだが。

  残された問題、その他

 上記のように、奥田氏の所論をこの欄で大幅にとりあげたのは、氏に対する反批判のためではなかった。寒川道夫氏のことば(わすれられないことばだ)を借りていえば、「分裂的傾向へのいましめ」(本誌・No.66)の為であった。個人的な理由からではない。
 この欄は「公器」である。奥田氏と私との間でのやりとり は別の土俵、リングで行なわれるべきだ。どの雑誌か新聞ででも、そのリングを提供してくれないだろうか。いっそ、本誌で20枚前後のスペースを私に提供してくれないだろうか。心おきなく、論理の問題として反批判を書きたい。
 というわけは、上記の奥田氏の批判に対しても、その論理・論法を論理の問題としては この稿では、ほとんど私はとり上げていない。「ことだま主義」だ、「垣内松三(生哲学・形象理論)にそっくり」で、「血なまぐさい」云々といった批判にも答えていない。
 ばかりか、上記に紹介した以外にも、(1)熊谷の言語観・国語観は、「形式においては民族的、内容においては国際的」という、レーニンのテーゼに反しているとか、(2)熊谷のいうことは結局、「日本の労働者」や「農民」も「古代語」かなんか使って、『新古今』的な「古代貴族の感情とイメージで対象をとらえなければならない」といっているも同然で、その点に熊谷の「ブルジョア民族主義」の世界観がはっきり出ているとか、(それこそ日本の国語教育に責任をもつためにも)私として回答を迫られている問題が、まだいろいろあるのだ。
 かさねていうが、どこかの雑誌で誌面を提供してくれないだろうか。

 「生活教育」(日本生活教育連盟)で一年ぶりに国語教育関係の論稿を掲載した。教科研理論を実践に即して批判した、木村敬太郎氏の所論(八月号)である。日生連の運動が、荒木繁氏のようなすぐれた理論的指導者を得て、国語教育の分野へ手を染めはじめたことを、木村氏の論文内容は示している。
 また、教科書のP・R誌としての性格にとらわれることなく、斬新でユニークな編集をつづけてきている、三省堂『国語教育』は、五月号につづく六月号と九月号において、現場の声を多角的にキャッチし反映させながら、文学教育の方法原理を実践的に追究している。国語教育の右旋回と「道徳」化の傾向いちじるしい現状に対して、それは教育現場の内側から問題の真のありかに照明をあてたものになっている。
 詳細、次号に――。


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