岐路に立つ国語教育
 熊谷 孝著『岐路に立つ国語教育――国語教育時評集』より

国語教育時評 3
技能主義では“国語”は教育できない
  (初出:「教育科学 国語教育」1965年6月号) 

 “危険な思想家”


 話題の書、『危険な思想家』
(カッパ・ブックス)の中で、山田宗睦氏はこう語っている。「政府は新憲法の祝典をやめ、戦没者追悼式にふりかえた。紀元節の復活をもくろむ動きも、年々つよくなっている。道徳教育から“期待される人間像”制定まで文教政策は反動化している。危険なのは、こういう外的な動きに呼応して、日本人の内がわから、これを是認させようとする動きが出てくることだ」云々。
 著者がそこに“危険な思想家”と呼んでいるのは、「公衆を内がわから言いくるめ」て、このような「外の体制的なうごきにはめこんでしまう」ような役割を演じる思想家のことだ。危険な思想家は、しかし、ひとにぎりの意識的な反動思想家に限定されるのではない。自分は、「戦前、戦中、戦後を通じてかわらない立場をまもっている」と信じ、その「かわらない立場というものの尺度」「永遠の尺度をまもって、これをおびやかすものを批判する」という姿勢、たとでば「戦中はナチス、戦後はコミュニズムの運動」を批判する」というふうな姿勢は、「表面的なファシズムの危険よりもはるかに危険」である、とこの著者は警告するのである。
 引用のかぎり、私自身、山田氏と同じような考え方をしているわけだが、読者諸賢はどうか。
 もっとも、引用のかぎり、という限定つきの話なのであって、個々の問題のとらえ方や処理の仕方については疑問がないわけではない。そこに採られている“告発”という形式や告発の仕方、あるいは予想される告発の結果などについては若干疑問は残る。また、その世代論的な発想と問題処理については、前号のこの欄で述べたような理由で、私は真っ向から反対だ。
 「老人たちと怒れる若者との隔世遺伝のような連合」による「戦後民主主義の否定」であるとか、大正の世代こそ、「戦後の平和と民主主義を、かけがえのないものとして守ろうとしている」唯一の世代であるとか〈期待される人間像〉が、ああいう感覚の反動的なものになったのも、明治の世代の人間が考えたことなんだから、あたりまえさ、といったその発想
発想 ではなくて実証 だと著者はいうだろうが)には同意しかねる。
 「二つの反動世代に大正の世代は、挟み打ちになっている。わたしも山田宗睦も、大正の生まれだ。『危険な思想家』という本は、大正っ子の心情告白のようにも読める」云々(関根弘氏・「週刊読書人」)。――現に、情緒ベッタリのこうした反応の仕方もあるわけだ。きみも、ぼくも大正っ子。な、わかるだろう、この気持。というのでは困るのだ。まして、大正の世代以外は反動世代という片付け方では、各世代のあいだに話し合いの余地はなくなってしまうだろう。世代とは、人間とは、そのように自然法則の中に埋没した
(いわば樹齢に対する年齢のような)宿命的なものなのであろうか?
 この話は、しかし、もうやめよう。私がいま読者にむかって問いかけているのは、最初の個所にしぼっての、その所論の当否である。あなたは、それをどう考えておられるか? 「あなたは、それをどう考えておられるか」というのは、じつは国語教育界自体の問題に移調して、それを、あなたは、どう考えておられるか、ということでもある。とくに、「かわらない立場」「永遠の尺度」の問題についてである。


 国語教育が期待する人間像

 「かわらない立場」「永遠の尺度」による国語教育
(ないし国語教育研究)批判は、最近の特徴的な傾向のひとつである。誤解をさけていえば、そういう傾向を私は、必ずしも一律に「危険」な傾向だと考えているわけではない。ブームやムードにはながされまい、とらわれない目でものを見、考えようとするそのよき意図は、それとして評価されるべきであろう。
 だが、本来的な意味で「かわらない立場」「永遠の尺度」というようなものが実在するだろうか、ということなのだ。学問の立場、学問の尺度というようなものを、そのようなものとしてそこに考えるとしても、しかし言語学なら言語学という抽象的なものが存在するわけではない。現実に存在するのは、具体的なある立場、ある学派の言語学以外ではない。このようにして、時枝誠記氏が、国語教育に対する言語学者としてのご自身の発言を、あくまで「私の言語理論である言語過程説の立場」によるものとして明確にしておられる態度
(本誌・77・巻頭)には学ぶべきものがある。だが、その一方で、
――国語教育研究といふ、一つの学問体系を問題にする時、……時代、思潮、あるいはイデオロギーといふやうなものが、国語教育研究のあるべき姿を決定する要因になるとは考へにくい。(本誌・48・巻頭)

といい、  

――国語教育といふ教育的実践活動は、多分に時代の制約を受けることは当然であり、またさうなければならないのであるが、学問の体系は自らそれとは別であらう。(同上)
というとき、上記のような「かわらない立場」「永遠の尺度」への要請が、氏の学問観・学問論の中にひそかに根をおろしているようにも思われてくるのである。
 「国語教育の指導原理は、国語教育そのものの中に求めなければならない」というのが、氏のこんどの提唱(上掲、77)であるが、しかし国語教育の中にそれを求めるということの具体的な内容は、学問自体の〈かわらない立場〉〈永遠の尺度〉によって「国語教育を観察し、分析」して、「指導原理を明らかにする」ということ以外ではなさそうである。
 いいかえれば、それは、教育実践への反省において理論の尺度を規制しつつ指導原理をさぐる、ということとはウラハラのようである。
 このようにして、そこでは、「表現し、理解する活動・行為そのものが言語である」という考え方
(言語過程説)にしたがって、(1)「生徒の外にある国語を生徒に与へることではなく、生徒の表現・理解の実践活動を調整・育成することが、国語教育の内容となる」とされる。したがって、(2)国語教育は、そういう調整のための「態度・技能・方法の教育」すなわち「能力主義・技能主義の国語教育」にならねばならない、とされる。国語教育理論に移調された言語過程説は、だからして、現行指導要領と軌を一にした能力主義であり技能主義である。
 このようにして、また、(3)内容主義を排して能力主義・技能主義に徹した「昭和三十五年の指導要領の改訂」に対する絶賛がそこに語られ、(4)「秀れた教材」をもちい、その「教材の思想内容によって、生徒の人間性にある感化を与へようとする」「従来の考へ(?)」がそこに批判される。そこに具体例としてあげられているのは、文学教育である。人間的感動において文学を体験させようとする、従来の(?)文学教育の考え方が真っ向から否定されているのである。
 何か、どこか、おかしくはないか。時枝氏ご自身みとめておられるように、「教材の思想内容」が、「生徒の人間性にある感化を与へるといふことは、表現・理解の教育の完成の結果として、自然に成就される」ことなのである。だとしたら、結果としてある感化を与えるにきまっている当の教材が、思想内容の面で「秀れた教材」でなくていい、というはずはないのである。
 第二に、「生徒の外にある国語を生徒に与へること」がそこに否定されているわけだが、生徒の内にある国語
(手持ちのことば)を「調整」することだけで、民族の共通信号としての国語(第二信号としての「ことば」体験)を生徒自身のものとして「育成」することができるだろうか。
 国語教育は、むろん日本語の教育だ、だが、その日本語教育は、先ごろのオリンピック・ムードの中での、ガイド用外国語学習みたいな調子の日本語学習
(学習指導)ではないはずだ。ニッポンことば、ペラペラあるよ、といった人間像は、「国語教育で考へられている人間像」ではないだろう。そうではなくて、民族的発想において国語を国語として操作し、また国語を操作することで、民主的・民族的自我形成をたしかのものにしていけるような人間、人間像。それが国語教育の期待する人間像ではないのか。
 話題がその点にいくと、きまって思いだすのは『かささぎ』という川端康成氏の文章である。わが家の庭にいつもやってくる鳥が「かささぎ」だということを知ったとき、「その鳥がたちまち私の情感にしみこんできた。」「日本の古歌に多く歌ひこまれてゐる“かささぎ”を思ひ出したからである。“かささぎの渡せる橋”もある。七夕
(たなばた)の夜、天の河で会ふ彦星(ひこぼし)と織女(たなばた)星のために、かささぎが、つばさを連ねて橋をつくる。そのかささぎが、毎日のように、庭へ来てゐるのであった。」「かささぎといふ名を知った今と、知らなかった前とでは、その鳥は私にはもはやおなじ鳥ではなくなった。……かささぎといふ言葉の、日本の古歌の流れは、私のなかに浮きあらはれて、なつかしい瀬音も聞えさうだった」云々。
 国語を国語として操作する、というのは、たとえば、そういうことなのである。「かささぎ」という鳥のことをアメリカでは、フランスでは、ドイツでは、それぞれに別の音声、別のことばでいうだろう。だが、エルスターといっても、かささぎ といっても、それは結局同じもの を指していることばだ、というのは半分の真実にすぎない。日本人にとっては、「かささぎ」というこのことば は、「なつかしい瀬音も聞え」てきそうな、そのようなことば
(ことば信号)にほかならない。
 けれど、カ・サ・サ・ギという音声が、そのような意味に結びつく信号
(条件刺激の媒体)として機能し作用するようになるためには、「国語」が教育されなくてはならない。「なつかしい瀬音」が聞こえてくる、こないは、“血”の問題ではなくて、民族的「ことば」体験の問題だからである。「生徒の外にある国語を生徒に与へること」が、そこに要請されるのである。


 国語自体の教育ということ

 国語教育は、時枝氏がそこに考えておられるように、「ことば」自体、国語自体の教育である。国語自体の教育だからこそ、それは、民族的な「ことば」体験をそこにはぐくむ、そのような教育にならなければならない、と私は考えるのである。
 「ことば」を「ことば」として教育する
(国語を国語として教育する)ということは、その思想内容・感情内容ぐるみに、その意味につなげてその 文字、その 音声を「ことば」として習得させる、ということだろう。意味を伴わない音声は「ことば」ではないからである。いや、意味認知を触発しないような音声や文字は、「ことば」信号にならないからである。オウムが口にする「オハヨウ」は、音声だが「ことば」ではない。
 「かささぎ」というのは鳥の名まえだ、あの鳥 のことをいうことば だ、というふうに、その 事実にその 音声を結びつけて教えることができれば、それで「ことば」の教育
(国語教育)としての任務は一応終わる、と考える人があるかもしれない。だが、「ことば」は事物の等価物ではない。それは、事物の意味の等価物 なのである。その意味、その思想内容、その感情内容――「なつかしい瀬音」が聞こえてくるようなところまで(あるいは、それが聞こえてくるような感情の素地をはぐくむところまで)指導が行われてこそ「国語」自体の教育だ、といえるのではあるまいか。
 「ことば」自体、国語自体というこのことばは、ところで、ごまかされやすいことばだ。ごまかされやすい? ……自己暗示にかかりやすい、という意味である。作用因としての「ことば」を疎外して、作用果としての「ことば」を、あるいは「ことば」の内容面を捨象して、その形式面を扱うことが「ことば」自体を扱うことである、という錯覚をひき起こしやすいのが、この「ことば」自体
(国語自体)ということばなのである。ことばは魔術師と、そういっていいかと思う。
 作文指導に例をとれば、国語教育の「分
(ぶん)」を守って(?)、誤字の訂正や仮名づかいの修正、主述関係や修飾・被修飾の関係、あるいは語句と語句、文と文とのつなげ方、用語の適・不適の指示などに指導の任務を限定している、という先生が少なくない。だが、そういう部分的な修正や指導で、その文章がよくなるか――いや、その子どもが筋の通った文章が書けるようになるか、ということだ。
 事実は、思想のわく 組みが混乱しているから、文章が混乱するのだ。つまり、文脈のみだれは論脈のみだれと不可分の関係にある、ということなのだが。だから、作用果としての「ことば」の面だけを、「ことば」の形式の面だけで修正してみても、いっこう通りのいい文章にはならないのである。
 そこで、作用果としての「ことば」の面に目を向けた指導を行なうとすれば、そこに当然、感情の素地をはぐくみ、感情のわく 組みをくみ変えるというかたちで、思考の構えや姿勢そして方法を変革する教育にならざるをえないだろう。そういう教育が、じつは国語自体の教育なのだ。
 このようにして、国語教育を真実、国語自体の教育にまで濾過し純化するために、研究者も実践者も、まず、ことばによる自己暗示から自由になる必要がある。先刻指摘したような意味での「ことば」自体、国語自体ということばによる自己暗示から自由になる必要がある、ということなのである。

 「児言研国語」3が発行された。所収の論文には、大久保忠利氏の『文学のコトバ研究』その他注目すべきものが多いが、紙幅の都合で次回の話題にゆずる。ただ、「教師サークルでの文法研究には、ぜひ専門の研究者を加えるようにしたい」という意味の、そこでの大木正之氏の発言に対して、ひとこと賛意を表しておくことにする。
 というのは、これは文法教育ではなくて文学教育面の話だが、学界ではとうに批判ずみの、文学理論や文学史の旧説を「定説」みたいにして後生大事に持って回っている、というようなことが現場人のあいだにないわけではない。また、専門の研究者のあいだで甲論乙駁の未解決の問題に対して、なんの論証もなしに一義的に割り切った結論をだして得々としている、というようなことがないわけではない。
 いってみれば高等数学でしか解きようのない問題を算数で解けといい、また算数でそれが解けると考えているような、そうした考え方なども、そこにないわけではない。つまり、それとあい似たような事態が、文法教育や文法教育研究の面についても指摘されるのではないか。そこに、上記のような大木氏の提案の意味も、また「自信の持てないことが出てきたら、無理おししないで、疑問のままに置いておくのがいい。」という松山市造氏の提言
(「児言研国語」3)の意味もあるのだろう。


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