感情の素地        

明治図書出版刊「教育科学・国語教育」65(1964.4)掲載 -

(この号の特集は「文学教材の解釈と授業展開」。小松善之助氏の「最後の授業の内容把握」に対し、杉山明男、小島輝正、熊谷孝の各氏が<分析>を加える形をとっている。)

   たった一度の経験だが

 訳文を通してしか知らない作品だけれど、だけれども、すばらしい作品だと思う。原語で読んだら、あるいは読めたら、もっともっとすばらしいと感じることだろう。
 そしてまた、これは、しみじみむずかしい教材だな、と思う。教材化 のむずかしさについて思うのである。
 戦前と言ったらいいのか戦中と言ったらいいのか、ともかく一度、この作品を教室で扱ったことがある。扱ったというより、ただ読んで聞かせたというだけのことなのだが――。戦中のことだから、この中学生は旧制の中学生である。旧制の中学校四年生である。
 そのころ、僕は大学院の学生だった。私立のある中学校へ週に二回、非常勤の時間講師として通っていた。文法と作文が担当であった。この作文教師、文を書かせることより、読ませることに夢中だった。あれやこれや、つぎつぎといろんな本を紹介しては、読むことをすすめ、あるいは、それを読んで聞かせることに時間の大半をついやした。
 ――「きみたち、もう四年生だものな。文庫本の一冊ぐらい、いつもポケットに突っこんでおくようにするんだな。」
 生徒のたれかれをつかまえては、そんなことを口にしたりもした。
 ――彼は本所の町々に自然を発見した。しかし彼の自然を見る目に多少の鋭さを加えたのはやはり何冊かの愛読書、なかんずく元禄の俳諧だった。彼はそれらをよんだために、「都に近き山の形(なり)」を、「うこん畠の秋の風」を、「沖の時雨の真帆片帆(まほかたほ)」を、「闇のかた行く五位の声」を、――本所の町々の教えなかった自然の美しさを発見した。この「本から現実へ」は常に信輔には真理だった。彼は彼の半生の間に何人かの女に恋愛を感じた。けれども彼らは誰一人女の美しさを教えなかった。少なくとも本に学んだ以外の女の美しさを教えなかった。彼は日の光を透かした耳や頬に落ちた睫毛(まつげ)の影をゴオティエやバルザックやトルストイに学んだ。女は今も信輔にはそのために美しさを伝えている。もしそれらに学ばなかったとすれば、彼は或いは女のかわりに牝(めす)ばかり発見していたかも知れない。……(芥川竜之介『大導寺信輔の半生』)
 狭く浅い経験的現実にだけしがみついて、そこから「現実」を学ぶことより、いわば「本から現実へ」という信輔のえらびとった「現実」学習の姿勢を、(後に暗い谷間の時代とよばれた)歴史のこの時点の若い中学生たち――あまり年の違わないこの弟たちに身につけてもらいたかったからである。
 いわば「本」を――教科書以外の本を媒介として、紋切り型にではなしに現実や人間を見る目をやしない、とらわれない目で現実を見なおす、というかたちの「作文」の授業を実現したかったからである。
 本から現実へ――誤解をさけていえば、<現実>→<本>→<現実>ということだ。あそこまで追いこまれた状況のなかでは、「本」を、「ことば」を媒介とする以外に、現実を映す心の鏡からくもり をとり去る方法はない。『最後の授業』を読んで聞かせたというのも、ところで、そういう「本から現実へ」という作業の一環としてであった。
 奇体にこの作品の紹介は、現実を見なおさせるという上記の目的にとって、予期した以上の効果があったようだ。奇体に――というのは、「滅私奉公」「大君の辺(へ)にこそ死なめ」という、そのころの世間一般の愛国ムードのなかにあっては、アメル先生たちの愛国の情熱も、ただの国粋主義的な愛国心と混同して理解されるもの[ママ]、またやむをえない状況だったからである。
 もっとも、そういうことには多分ならないだろう、という自信めいたものがこちらにあっての、この作品の読みではあった。それは、底にこの作品の表現に対する信頼があってのことだが、しかしわがよき弟たち――生徒たちへの信頼感がその先にあった。さらにいえば、彼らをふかく愛し、何年にも彼らに自由のとうとさ、人間のとうとさを教えつづけてきている、同僚の先輩教師たちの仕事に対する信頼感が僕のこの仕事の支えであった。
 それは、ひとくちにいって、この作品の示す体験や感情を理解できるだけの感情の素地が、すでに彼らにはつちかわれている、という安心感だ。(素地を欠いては、その感情を感情として理解できるはずがない。火のないところに――素地のないところに感情が揺さぶられる、感動するという、感情の発酵状態は生まれない。)ともあれ、校舎はボロボロだったが、この学校の同僚たちは、すばらしかった。
 が、しかし、やはり
 ――先生は黒板のほうを向かれました。そして、はくぼくを一本手にとり、ありったけの力で、しっかりと大きな字で
 フランスばんざい!
と書かれました。
という結末のところなどでは、そこにある程度のコメントを必要としたように記憶する。それは「フランスばんざい」なのであって「フランス帝国ばんざい」ではないのだよ、というようなことばを、そこに、そっといい添えたりもした。また、アメル先生のこの最後の授業は、神話的な(あるいは神話的に)国柄(くにがら)のありがたさを説いているのではなくて、自分たちが日常現実に使っている祖国のことばと、その自由な祖国の文化への愛と信頼を語るものであることなども、ひかえめだが、そこにつけ加えたりもした。
 生徒たちの迷いは、けれど、むしろ、そういうような点にはなかった。アメル先生のいうように、「フランス語が、世界でいちばん美しい、いちばんはっきりした、いちばん力強いことば」だとすれば、日本語はどういうことになるのか? という点に多くの生徒の疑問は集中した。無前提に自国のことばを至上絶対とするアメル先生は、やはりまた排他的で独善的な国粋主義者の一人にすぎないではないか。敗戦につづく占領下の発言である、という点で十分肯けるものがあるし、そういういい方をさせていることで、占領下のフランス人民のいきどおりの感情をリアルに表現していることになるのだけれども、だけれども発言の内容そのものは今の日本の排外的な国粋主義者と少しも変わりがないではないか――と、生徒たちは口々にいうのである。
 これは、世間一般の軍国調・愛国ムードがみちびいた表現理解のズレではない。そのかぎり、反国粋主義的な生徒たちの感情のムードがもたらしたところの誤解だ、といっていいだろう。
 誤解? ……たしかに、究極において、それは誤解にちがいない。しかし、また、そのとき教材としてとり上げた訳文のその個所に多少問題があったのではないか、と今でもそう考えている。問題はどういう角度、どういう視点からみてフランス語がいちばん美しいか、であろう。別の角度からみれば、或いは日本語がいちばん美しい、ということになるのかもしれない。つまり、そういう視点・角度なのである。その点、じつはある程度に、このアメル先生のことばは尽くしているように思う。それが「はっきりしたことば」だということ、いいかえれば論理的な明晰さという点で、フランス語は「いちばん美しい」というふうにである。
 この点の説明はつくし、生徒たちに対してもそういうふうに説明することで、ある程度「誤解」をとくことはできたが、フランス語が「いちばん力強いことば」だというのは、生徒ともども、こちらが納得いかないのである。力強いのは、なにもフランス語にかぎったことではない。それぞれの民族語がそれぞれに(あるいはそれぞれの)力強さを持っている、というほかあるまい。しいていえば、その論理的明晰さからくる力強さということだろうが、なにかハッキリしない。まだ、たしかめることもせずにいるが、訳語・訳文に問題があるのではないのか。そうとしか思えないのである。
 さらに、ここに、次のことをいい添えておいたほうがよさそうに思う。
 「――ある民族が奴れいとなっても、その国語をもっているうちは、その牢獄の鍵をにぎっているようなものだから、わたしたちはフランス語をよく守りとおして、けっして忘れてはならない」云々
というアメル先生のことばについてである。僕は、フランス語に対するフランス人民のこの民族的実感を、ついに生徒たちにつかませることができずに終わった。いや、自身につかめなかったのである。自分につかめなかったから、つかませることができなかったのである。教師である僕自身の国語観がヘナチョコだったせいだ。
 当時支配的だった言語主義的な言語観、言霊(ことだま)的な国語観に反発するあまり、しらずしらず道具主義的言語観におちこんでいた、そのころの自分だった。「ことば」をただの約束ごと、ただの道具としてしか考えず、国語を民族的体験の総決算の反映としてはつかんでいなかった自分に問題があったわけだ。こうした作品の教材化にとって決定的なのは、教師その人の現実観・文学観・言語観である。

   むしろ高校段階の教材として

 ともあれ、たった一度の経験だが、上記のような過去の経験からも、さらにまたこの与えられた機会に訳文を読み返してみて、ドーデのこの作品を小学校段階の文学教材として扱うことには、かなりの困難と無理が伴なうような気がしてならない。本来これは、高校段階において教材化されることが望ましい作品なのではないかと思う。小学校段階の教材としてこの作品を位置づけた場合、たとえば小松氏が《最初の印象とその確かめ》《児童の反応分析》などの項において指摘しておられるようなかべにつき当たらざるをえない。
 むろん、その指導がどんな内容のものであったのか、ということが先に問われなくてはならないだろう。が、それにしても、この教材について学習した小学生の十人が十人まで、「あまり心に残っていない」作品だといい、「つまらなかった」と語っている(上記《最初の印象とその確かめ》の項)、という。小学校段階でこの作品を教材化することのむずかしさを、それは端的にいいあらわしてはいないか。さらにいえば、《授業のあらまし》の各項に示されているような面で――たとえば、《前段の読みとりのあらまし》の(3)・(4)・(5)に引例されているような個所について、教師がそんなふうに手とり足とりの懇切な指導をおこなわなくては、一おうの意味の表現理解さえ成り立たない、という点にむしろ教材としての問題はないか、ということである。
 そのことは、しかし、高校生なら抵抗なしに読める、という意味ではない。むしろ、高校段階でもむずかしい作品だ、という意味なのである。ただ、そこには小学生とは質の違った成熟と発達がある。「本から現実へ」という姿勢(前項参照)も、ある程度できあがっている。この作品に示されているような感情を、なんらか理解できるだけの感情の素地が、そこにつちかわれているのが普通だ。あるいは、そうした感情の素地を自我の内面に育ぐくみ得る可能性を、少なくとも成熟と発達として用意している、ということだ。
 それは、つまり、こういうことだ。なるほど、この作品は少年フランクの行動と感情と認知にしたがって筋がくりひろげられている。たとえば、
 ――「フランクか、早く席に着きなさい。もう、こないのかと思って、始めるところだった。」
 わたしは席につきました。そして、気持が落着いてから、ふと見ると……
というふうに、「わたし」が目にし耳にし、「わたし」の感じたことが、そこに描かれてはいる。だが、それは、アメル先生ならアメル先生というおとなの感情が、おとなの感情においてはつかまれていない、描かれていない、ということではないようだ。そこには、フランツの感情がだいじに扱われていると同時に、フランクの感情をこえたアメル先生たちの感情が、それとしてくっきり描かれている。フランツの感情はそこに影を投げかけながらも、むしろその感情を支えとし通路としつつ、アメル先生の自我の内面をつかみだしてみせている、という格好なのである。それは、この非常事態がフランツの心をどう揺さぶったか、ということを描く以上に、事態そのものを克明に明晰に描く、というペンのはこびにおいて実現されている。
 語り手フランツは、その意味では むしろ、この作品の主人公ではない。彼は、いわば現実を映写するキャメラだ。キャメラマンというよりはキャメラに近い。焦点はアメル先生に合わされている。この作者がフランツの感情をたいせつに扱っている、といったのは、このことなのである。けれども、これはキャメラなのだ。いや、フランツを被写体として見ると同時に、また一面彼をキャメラとして位置づけて見得るような鑑賞の仕方だけが、この作品のまっとうな表現理解をみちびくことになる、といってよさそうだ。ではないのか。
 その辺のことをもっとひっくるめて、これはやはり小学校段階の文学 教材としては無理だ、ということになりそうである。理解できるだけの感情に素地がまだできていないのである。小松氏がそのすぐれた指導によって、努力に努力を重ねて、ようやく取りのぞいたようなカベは、ところで高校二、三年生ともなれば、もはやカベではない。スーッとはいっていけるのが普通だ。このスーッとはいっていけるということが、じつは文学教材としての望ましい条件だ、と僕は考えている。これは、「たまには歯ごたえのある作品を」ということとはオーダーの違う話である。
 しかし、《授業態度の確立》の項で小松氏が述べておられることには一、二疑義はあるが、大づかみにいって賛成である。(疑点は「イ、ロの表現が弱い」としておられる点などに関してである。)ともかく、文学疎外の現行教科書の教材配列からすれば、この作品をカットして扱わないという手は確かにないだろう。そこで、ただ、僕が望みたいのは、学習者の感情の素地に応じ、その素地を育ぐくむという指導の視点での、近作品の教材化ということである。理由は前に述べたとおりだ。
 翻訳作品は教材として扱いにくい。訳文がどの程度に原作の文脈に忠実であるのか、ということが、まず問題になる。『最後の授業』の場合も例外でないことは、前に述べたとおりだ。「国語」の授業では、ともかく訳文を前提とし、その文章について学習をおこなうほかないわけだが、しかし小松氏が《児童の反応の分析》の項で例示し批判しておられる学図版のような訳文では、これは指導の進めようもないことになろう。どうやら検定教科書の現状では、<教材解釈>と<授業の展開>の前提として、まず教材批判の姿勢と態勢をととのえることが教師全般に対して望まれる、ということになりそうである。
      〈国立音楽大楽教授〉   
熊谷孝 人と学問熊谷孝 昭和10年代(1935-1944)著作より熊谷孝 昭和20年代(1945-1954)著作より熊谷孝 1955〜1964(昭和30年代)著作より