総合読みの一つの型

明治図書出版刊「教育科学・国語教育」63(1964.2)掲載---
 「誌上シンポジウム」として 〈提案〉「総合法による読解指導」(林進治)と、それに対する以下の四氏の〈意見〉が掲載された。「一読主義は読解指導の正しい目標」(時枝誠記)、「形象理論の克服を」(馬場正男)、「総合読みの一つの型」(熊谷孝)、「総合法は望ましい読解指導の方法か」(平井昌夫)、「『部分から全体へ』の重視説ではないか」(国分一太郎)。


   一読主義への誤解

 課題の一読主義に関して、本誌・ナンバー6の編集後記に江部満氏が次のような見解を示しておられる。
 ――さいきん、一読主義への批判がぼつぼつ現われているようであるが、誤解もあるようだ。基本的な文献にあたらずにうわさ話で問題にすると、とんでもない方向へ脱線しかねない。……過日、一読主義(この称呼はあまりよくない)の授業をみる機会を得たが(横浜市奈良小)、子どもが主体的に学習活動を進め、読みの深まりもすばらしいものがあった。近く特集を組み問題にしたいと思っている、云々。
 ここにいう特集の企画というのが、このシンポジウムのことなのであろうか。提案者も、氏がそこに例示・紹介しておられる奈良小の林進治氏である。が、それはともかく、この一読主義に対する否定的な批判のなかには、江部氏が指摘しておられるうように、「誤解」にもとづく批判のあることは、どうやら事実のようである。たとえば、国分一太郎氏が世評を媒介するかたちで紹介しておられたような、次のような「いろいろな批判」である。(本誌・58)
 ――これ(一読主義の考え方等方法)には、いろいろな批判も出てくるだろう。第一に出てくるのは、一読主義とやらは、実用主義に根をおくのではないかということだろう。第二に出てくるのは、子どもの発達とか、能力の発達のためには、やはりくりかえしが必要であるのだろうということだろう。成長中の世代の教育は発達のためのものだから、結果として「一読して内容がわかるよう」にしてやるためには、指導過程として、何回かのくりかえし、単なるくりかえしの指導ではなく、ふかめながらのくりかえし指導が必要なはずだとの論が出てくるにちがいない。そうすると、「通読」「精読」「味読」といったことばを教育用語としてつかうかつかわぬかは別として、その考え方につらなるような指導過程というものは、やはりふまねばなるまいとの意見も出てくるだろう。じじつとして、そうしてやらなければ、子どものよみとりの力はのびないとの実践的意見も出てくるだろう、云々。
 さらにまた、これは一読主義に対する国分氏ご自身の見解を示されたものというふうに理解していいかと思うが、「教育の“結果”ないし“成果”として、おとなになったときにそうあらねばならぬということと、そう発達させていく教育のしごとは、ちがうものだとの自覚がなければならない」云々、という批判が上記の紹介に添えて書きくわえられている。
 このような批判のすべてが「誤解」に終始したものだ、というのではない。後に述べるように、ある種の誤解や疑惑をまねきかねないような論理の未整理な点や説明不足な点が、やはり一読主義を主張する側にあることも確かなようだ。だが、しかし、そこに提示された問題のかぎりでは、それは、誤解が先に立っての否定的な批判であることは否めないように思う。
 たとえば、国分氏が紹介しておられる批判の第一点であるが、「一読主義とやらは、実用主義に根をおく のではないか」というのは、きつい。ひとくちにプラグマティズムといってもピンからキリまであるが、「一読主義とやらは」云々というその語調からすると、これは俗流プラグティズムとことであろう。つまり、それがどんな偉大な作品だろうと一度ざっと目を通すだけで十分だ、といった調子のアンチョクな態度、さらにいえば一読はおろか、シェイクスピアだろうがスタンダールだろうがダイジェストで数をこなし、「話題豊富な」現実適応の社交型紳士としてスイ・スイ・スイと世渡りしてゆくようなタイプの人間――そういう人間づくりをやることになるのがこの一読主義だ、という批判なども、現に目にし耳にするわけだ。
 おなじ誤解でも、こういう誤解はひどい。ことのついでにいえば、きまじめな実践に対して「一読主義とやらは 」式の、相手を小バカにしたみたいな発言の仕方はゲスで、ふまじめすぎる。
  ――文章を読むには、一読してその本質がつかめることが、ただ生活上の要求であるだけでなく、人間の能力として大切なことだと考えて、児童言語研究会では、三読主義を克服して「一読主義読解」を提唱しました。文章を終りまでざっと瀬ぶみをし(通読)、そのつぎにこまかに一語一語をたどって読み(精読)、最後にじっと読んで(味読)、やっと「わかった」という読みかたをしなくては、何が書いてあるのかわからないというようでは困るのです。一読して文章の真髄をつかむ能力の発達は、はじめからそこに目標をハッキリとおいて教師が指導することによってのみ高められるのだと考えます。(大久保忠利氏他著『読解指導過程』――明治図書刊)
 こういう考え方の一体どこが「実用主義」なのであろうか。大久保氏や林氏のいわれるように、いつでも三読主義読解方式の順序をふんで型どおりの読み をやらなくては文意がつかめないというのでは、おとなの場合はもちろん、子どもの場合にしても、これは困ったことではないのか。日常の読書においては、ところで、だれしもがこの一読――総合読みをやっている。つまり、ある個所はさっと流した読みかたで、また別のある個所はじっくり読む、という総合読みの読み方で読んでいる。
 問題は、だから、むしろ、じっくり読まないと真意のつかめないような個所を斜めに読みとばし、反対に、そこを読みとばしたところで別にどうということもないような個所に力こぶを入れる式の、ズレた総合の仕方におちいらないように、まっとうな総合読みの仕方を、子どものうちから訓練し準備することだろう。ではないのか。
 そこで、この点に「目標をおいて」やがて「一読して文章の真髄をつかむ」「つかめる」ようになるための指導の手順を実践的に考えていこう、というのがこの総合読み――一読主義の提唱だろう。そういう発想、そういうこころみは文句なし評価していいのではないか。なおこの点に伏在する誤解について、このシンポジウムの提案者は、
  ――一本勝負読みは一回しか読ませないとして、いきりたっていられる人があるが、およそ学習指導として読解をすすめる場合、一回しか読ませないというばかげたことを考えるはずがない。……一読法で育てられた子どもは、その後、また新たな気持で、その文章の前に立つだろうし、自分からすすんで新たな材料をさがすであろう。
と語っておられる。そのかぎり、批判する側の人たちがいう意味での、指導方法と指導の達成目標との混同がそこにあろうとは思われないのである。


   無意識との対決

 ところで、児言研によるこの総合読み――一読主義の理論構成は、なにかその現実の実践のありかた(水準)を下回って体系づけされ記述されているのではないか、という気がする。どうも、そんな気がしてならないのである。
 というのは、かえりみて他をいうみたいなことになるが、僕もそのメンバーの一人である文学教育研究者集団の場合、理論のかたちで記述された思考のパターンは、日常の教育実践の場におけるサークルのメンバー個々人の実際の思考パターンを、はるかに下回っている、ということがあるからだ。実践の高さに理論が追いつけないでいるというか、実践をくみあげてそれを理論化する際に、かんじんのところがスッポリ落ちて記述もれになる、ということを、自身にいつも痛感させられているからだ。
 それは、こんなふうにいったらいいだろうか。実際に自分の実践を規制し方向づけている自分自身の意識化されない理論と、自分が意識して持っている理論のあいだにはある距離がある、ということなのだ。つもり と事実の違いというか、自己の実践による成果を、それを自分がひごろ主張している理論の実践化による成果だとして評価しがちだが、そういう成果は、自己の意識的な理論とある函数関係はもちながらも、しかもそれを越えたところでもたらされている、というのが一般ではないのか。
 児言研の場合にも、そういうことがありはしないか、ということなのだ。
 つまり、こういうことだ。林氏がそこに紹介し主張しておられる児言研の理論も、また氏がそこに提示しておられる奈良小の実践例も、きれいごと にすぎる、ということなのだ。三読主義を排して一読主義の実践をやったら、児童のなかに「傍観者はひとりもいな」くなったとか、「全員が、こうした話しあいに参加」するようになった、といったいい方には僕としては問題を感じる、ということなのである。
 誤解のないように、ことばを添えるが、この報告はサバをよんでる、などという失礼なことを思ってみているのではない。報告にある通りの学校の状況なんだと思う。ただ、提案の第三項に示されているような授業のすすめ方をした結果、全校の児童一人残らずそういう姿勢に変わった、というのは、指導者のつもり としてそうだ、ということ以外ではないだろう。事実は、教材のえらび方やくみ方が子どもたちをつかんだものになっている、というようなことも前提としてそこにあるように思う。発達に即して発達を促がす、というかたちの教材の選択と配列である。また、氏がそこに報告しておられる以上の、場面場面に応じた、もっともっとキメ細かな授業のすすめ方が底流として実現しているからこそ、本番の一本勝負読みが大きな成果をあげる、ということにもなるのではないのか。
 たとえば、ある授業時間は、授業の流れを知らない行きずりの参観者の目からは、「なんだ、これが一読主義だというのか。味読の指導じゃないか。一時間じゅう、味読ばかりやってる」と感じさせるような時間だってあるのではないのか。また、ときとして、三読法の「通読」方式と一見変わりのないように見える流し読みをさせる時間もあるのではないのか。実をいうと、そういう流し読みの指導をそこに意識的に平行させることが必要なのだ。いつもきまって、どこかで「立ちどまって話し合う」ということで授業が終始していたのでは、「話し合う」ということの内化 ――ひとりで考える 、考えながら読む、というところへは、なかなか行きつけない。奈良小の場合、当然、一方では、一見「通読」方式のそういう指導操作をやっているに違いないのである。そういう操作が、むしろ、一読主義の指導の仕上げにつながるものなはずだからである。
 林氏の報告にしたがえば、総合読みに切り替えてから「自由読書」がさんになり、図書館の貸出しも倍増している、という。が、じつは、むしろ、そういう自由読書を、この一読主義の指導体系の重要な一環として評価し位置づけるべきではないのか。この自由読書と国語教室との関係は、児言研方式の表記法を使わせていただけば、《教室での総合読み》⇔《自由読書のおける総合読み》という関係であろう。教室での立ちどまり読みが成果を収めている、というのも、提案の趣旨を逆にたどれば、じつは一方におけるこの自由読書の支えがあってのことに違いないのだ。
 その辺りのことが――つまり、一読主義が指導の実践面で実際におこなっていることが、そのまま整理されたかたちで正面から打ちだされれば、「やはり三読主義の考え方につらなるような指導過程はくぐる必要がある」といったかたちの批判は論理的には 成り立たなくなるように思うのである。


   対象と方法

 三読主義に飼いならされた付属の子どもを相手にしていて、味気ない思いをした、という追憶を林氏は語っておられる。それは、彼らが「教室に入る前にすでに読解でなすべき仕事の大半」を処理していたからだ、という。この気持は、わかる。わかるけれども、それは別のいい方をすれば、子どもたちが予習をよくやる「よい子」たちだった、ということでもある。ただ、それが三読主義の紋切り型にスッポリはまりこんだ予習の仕方でしかない、という点に、やりきれない思いがした、というまでのことだろう。
 ところで、一読主義では、「文章を読むには、最初の出会いこそもっとも大切にしなければならない」(林氏)というのだが、その大切な最初の出会いである家庭での下読み(予習)を体系的にどう位置づけ、またどう処理しているのか、という点が提案ではハッキリしていない。
 また、この方法でやればどんな教材でもこなせる、という、たてまえのようだが、まかりまちがうと方法主義に滑べる危険があろう。じつをいうと、どんな内容、どんな性質の文章でも一律にこなせるような、万能なただ一つの読解の方法といったものは考えられない。対象(目的)の性質によって、方法(手段)は異なってこざるをえない。たとえば、文学という対象――その対象の性質にしたがって規定され制約される方法は、どうもこの総合読みの方法とは別個のもののようである。総合読みそのものの限界をいうのではない。別個の仕方の総合読みがそこに要請されなければならない、というのである。
 それは、たとえば、提案者が引用しておられるような、「個々の事物の統一的形象から離れてものを考える」(スミルノフ)というかたちの「ことば」の操作の仕方を根幹としたつかみ方では、芸術形象としての文学作品の表現はつかみようがないのではないか、と思う。
 「思考は概念の操作によって行なわれ、その概念はことばの操作によって形づくられる」という考え方が、「先人の貴重な研究の成果」として提案に示されているが、むしろ僕は、「脳皮質に形象と言語による思考の担い手である第一信号系と第二信号系がある」とするパヴロフの「注目すべき思想」(『パヴロフ選集』邦訳・六五一ページ)にしたがいたい。あらい言いかたをすれば、文学の思考は「ことば」を媒体 とした「形象による思考」である。もっとあらい言いかたをすれば、そこでは「ことば」は、事物の意味の等価物としてではなく、感情ぐるみの事物の意味 の等価物として操作されるのである。
 ともあれ、さし当たってここでいっておきたいことの一つは、児言研方式の一読主義も、やはり総合読みの一つのティプス(型)以外ではないだろう、ということだ。それは非常にすぐれた手段・方法ではあるが、しかも唯一万能の手段ではない、ということである。
 それはあくまで方法である。当然のことながら、そこから教材選択の原理はみちびかれてこないわけだ。むしろ、それは、対象(ある一定の対象の対象性)からみちびかれた方法にほかならない。そこで、この総合読みに具体的な内容を与える教材選択の原理は、また別個に追求されなくてはならないし、さらにまた、そういう原理と統一的に語られるようになってこそ、一読主義ももつ方法的な意味も、十分ひとびとを納得させ得るものになってくるように思われるのだ。
(国立音楽大学教授)

熊谷孝 人と学問熊谷孝 昭和10年代(1935-1944)著作より熊谷孝 昭和20年代(1945-1954)著作より熊谷孝 1955〜1964(昭和30年代)著作より