何のための主題指導なのか

明治図書出版刊「教育科学・国語教育」61(1963.12)掲載---
(編集部の設定した<主題指導における問題点>というテーマのもとに、熊谷孝「何のための主題指導なのか」と大河原忠蔵「状況認識と主題」が掲載されている。)


   主題ということへの疑問と反省

  じつをいうと、とり立てて主題指導がどうのといったことについて、僕は考えてみたことがない。あるいは、むしろ、故意に考えないようにしてきていた、といったほうが事実に近いかもしれない。というわけは、文学作品の主題というのが、作品表現の何をさしていうことば(概念)なのか、じつは自身につかめないでいる、ということがそこにあるからである。
 それと同時に、読書指導のほうでいう主題というのは、あれは少なくとも文学作品の主題ということとはべつのことなのではないか、と思われるからである。そこで、つまり、主題ではないものを主題だといって生徒におしえ、そういうシュダイをつかませることが表現理解の指導の終着点だ、というようなことになるぐらいなら、主題云々といったことは口にしないほうが、まだましではないか、というのがカケネのない僕の実感なのである。
 それにまた、主題ということばを使って整理しないと指導に支障が起こる、というわけでもない。じつは、むしろ、概念規定をあいまいにした儘そういうことばを使うことから生じる指導上の混乱のほうが、ずっとおそろしい――と、そんなふうに考えるのである。少なくとも、そういう概念(ことば)を使う以上、それを使うことで実益があがる、という、何かそういう意味のある使い方でないとナンセンスだ、というのが僕の考え方である。
 恥をいうようだが、文学作品に関してどういうことを主題というのか、そこでの主題という概念が僕につかめていない。が、しかし、いえることは読解指導のほうで主題という名で呼んでいるものは、あれは文学作品の主題――文学としてのその作品の主題ではない、ということである。
 たとえば、いつか本誌にその教材研究が掲載されていた狂言記の『狐塚』という作品であるが、ある学習指導書によれば、この作品の主題は、「主人と次郎冠者を狐とまちがえた太郎冠者の臆病」ということである、というのだ。また、『花屋日記』の一節を抄録した教材については、「臨終における芭蕉の心境」というのがその主題である、という。
 主題に対するそういう理解がどうやってみちびかれたのか、というと、『花屋日記』の場合についてみると、(1)発病、(2)病中の経過、(3)臨終――というふうに、筋を段落にしぼって追うことで文章を要約し総括する、というかたちでの帰結である。
 『狐塚』の場合も、同様である。(1)山田の番をいいつかった太郎冠者、(2)見舞いにきてくれた次郎冠者を狐とまちがえた太郎冠者、(3)見にきてくれた主人を狐とまちがえた太郎冠者、(4)太郎冠者が鎌をとりに去った後で縛めをといて太郎冠者を待つ次郎冠者、(5)本当の主人と次郎冠者であることがわかって謝罪する太郎冠者――というふうに、段落ごとに筋を追っていって、そういうケッタイなことになったのも太郎冠者の臆病のせいだ、ということでそれを主題と判断すると、という段どりである。
 『花屋日記』のほうの主題把握はバクゼンとし、かつスカッと割り切れないから、かえっていいのだが、『狐塚」のほうは全然ひどい。それは結論がまちがっているから、というようなことではなしに、こういう整理の仕方では文学を文学でないものにしてしまうからだ。いいかえれば、ストオリーの要約プラス・アルファが主題だ、という考え方、おさえ方に問題があるのだ。
 それは、文学 を与える代わりに、ただの読みかた 教材として作品の文章を与える、というやり方である。文学という対象の性質に即してその作品を扱うのではなくて、ことさらにそれを文学でないものにするために「段落」に分解 して「文意」をつかみ、さらにそれらをつなげて「全文の大意」をつかみ、「要旨」をつかみ、そして「主題」をつかませる、という、それは指導手順のようだ。それは、まるで、子どもたちを文学から遠ざけるために子どもたちに主題をわからせる、というみたいな格好の主題のわからせ方である。
 ともあれ、「太郎冠者の臆病」というようなことが『狐塚』の主題であるとすれば、たとえ主題はつかめても、その作品の文学としての 面白さや感動点がわかるとは限らない、ということになってしまうだろう。つまり、ここにいう主題とは、文学以前の――いや、文学以外の何かだ。上記の学習指導書の場合についていえば、それはただのストオリーの概念的な要約か、要約プラス・アルファにすぎない。一般に文学教材の読解という名でおこなわれている主題指導の「主題」というのが、文学としての その作品の主題のことではない、と先刻指摘したのは実はこのことなのである。
 ストオリーを要約する作業が無意味だ、というのではない。が、筋の要約はあくまで筋の要約であって、主題ということとは別個のことだ。それを仰々しく主題指導などというのはナンセンスだ、ということだ。さらにいえば、そういうまとめの作業の進行・進度に比例して作品の感動点からしだいに自分を遠のけてゆくような、そういうストオリーの要約では文学 作品の筋を要約したことにはならない、ということなのだ。いいかえれば、そこに要約されたストオリーはその作品のストオリーではない、ということなのである。
 それが真実、その作品のストオリーであるのなら、筋を追うことが同時にある角度から主題にせまることにもなるだろう。たとえば、山本健吉氏がかつて朝日新聞に連載した『小説に描かれた現代婦人像』とうダイジェストの仕事――ああいう仕方での筋の要約だったら、筋を要約することが同時に主題の把握になる、というふうにもいえるだろう。もろもろの読者の感情をくみあげ媒介しつつ、鑑賞者その人の自我を通してそこに筋が要約されているからである。
 そこでは、戦後の小説のヒロインたる地位を要求した三十女のひとりひとりが生きている。『茶色の眼』の美穂子が、『山の音』の菊子が、『武蔵野夫人』の道子が、みんな生きている。生きた姿で問題を投げかけている。つまり、主題 を展開しているのだ。そこに要約された筋のひろがりは、いわば、それぞれの作品の主題展開の軌跡である。
 ――「あなたって、私の心の問題については、何一つ考えてもごらんにならない」
 こう言って、三千代は夫に訴える。だが初之輔の心境は、三千代に言いたいことを言わせっぱなしにして、なに一つ答弁しないというところに落着いている。三千代は、ちかごろとみに、たけだけしくなって、どうかすると、他人のいる前でも、言わでものことを言い出したりする。夜おそく、酔って帰った夫の、正体もない寝姿を見ていたりすると、別れるなら今のうちだと、だれかにささやかれている声がするのである。五年前の“眉目秀麗”も今はただ生活に疲れ果ててしまった、平凡な男の顔でしかないのである。
 これだけ言うと、世の多くの主婦たちは、それはまるで自分のことだと、身につまされる思いがするのではなかろうか。そして、そのような状態を自然と見るまでに慣れてしまって、忍従の「美徳」のうちに閉じこもってしまっているのではなかろうか。いや、家事と育児の忙しさに、そのうような気持もまぎらされてしまっているのではなかろうか。子のない三千代が、もらい子をしたいと言い出したのも、心の不満や不安を、かき消す手段が欲しかったからだ。(「『めし』の三千代」)
 引用をつづけることができるといいのだが、スペースがない。もう先、講談社から単行本で出版されていたが、今はどこかの文庫本に再録されている、という。一読をおすすめする。


   作品鑑賞と主題の把握

 学習指導書ふうの上記のような主題のつかみ方は、しかし、ともかく、作品に実際に書かれてあることに即して主題をさぐり求めようとする姿勢を示している。ところが、一方ではまた、「作者は、この作品で何をいおうとしているのか?」というような発問の仕方で主題をつかませようとする指導がおこなわれている。作者の表現意図(――作者が意図した主題)が、とりもなおさずその作品の主題である、という考え方である。これは、本誌に掲載されている論文などにおいても、しばしば見かける論調、考え方である。主題指導とは、そこでは、つまり「作者の意図にせまる」作業だ、ということにされてしまうのだ。
 しかし、これは、ごく常識的に考えてみてもわかるように、つもり と事実、意図と実際の結果とを混同した考え方である。いいかえれば、意識と行動とがつねに対の関係にあるとする、プリミティヴな考え方によるものである。
 表現は、むろん多分に意識的な行為だ。が、作者の表現意図をこえ、作者の意識の面にはのぼってこない、にじみ出る表現――流露をそこに伴うのが、むしろ普通である。芥川龍之介も、みずからの作品をかえりみて、こういっている。 
 ――芸術家はいつも意識的に作品を作るのかも知れない。しかし、作品そのものを見れば、作品の美醜の一半は芸術家の意識を超越した神秘の世界に存している。一半? 或いは大半といってもよい、云々。(『侏儒の言葉』)
 話をそこまで持っていかなくても、たとえば技術が伴わないために、トラを描いたつもりが結果はネコにしか見えない、というようなことだってある。文章表現の場合も、おなじことだ。作者の意図した主題がその作品の現実の主題である、というふうには必ずしもいえないのである。

 ところで、トラを描いたつもりがネコになってしまった、というこの例だが、トラがトラに見えなくては、これはどうしようもないけれど、しかしそれがトラだということがわかる、というだけでは芸術体験はそこに成立しない。トラに象徴されている意味 が、感情体験においてさぐられ、たしかめられなくては、それは芸術としての絵にはならない。芸術体験は象徴体験である。文学・芸術における形象(トラならトラという形象)は、つねに意味形象(象徴)である。
 思うに、そこで、その形象に象徴されている意味 を感情まるごとに体験する(鑑賞する)、といういとなみのなかでその作品(形象)の主題もつかまれてくる、という関係にちがいない。それは、そのときどきの鑑賞者の自我の状況に応じて、そのように つかまれるものである、ということだ。
 文学・芸術の――つまり芸術作品の主題は、このようにして、やはり感情まるごとに体験される何かである。それを、ことば(概念)にいいかえてみたって、しようがない、という場合もあるのではないか。また、ことば(概念)では、いいかえれば説明という手段では尽くせない何かが、つねにそこに残るのではないか、ということだ。
 なるほど、ベートーヴェンの第九の主題はこれこれしかじかだ、というふうに、それをことばに要約することはできるだろう。しかし、この作品の主題そのものは、自分が自分の耳で聴いて感じるほかないものだ。
 文学作品の場合も、おなじことだ。鑑賞者の自我に対して揺さぶりをかけてくるその何かを概念に要約してみても、それは主題の説明 なのであって、主題そのものではない。他人の鑑賞体験の要約(主題の要約)を手がかりにして作品を読む、ということは、ときとして必要なことではある。が、それはあくまで主題への手がかり であり説明 なのであって、主題そのもの ではない。主題をつかむためには、やはり自分で作品を読むほかないのである。
 問題を教育の場にかえしていえば、主題の要約や、要約された主題を提示することなどが表現理解の指導の到達点である、というふうなことになってはナンセンスだ、ということなのである。指導の本番は、むしろ、要約の提示という、そこのところから始まる、といっていいのである。要約された主題(主題の説明)と主題それ自体との関係は、いわば山の案内書や山の地図などと、実際に登山の体験からえたものとの関係のようなものだろう。山によっては地図は不要だ。が、やはり地図にたよらなくてはならないような未知の山、けわしい山などもある。しかし、いくら地図をそらんじてみたところで、登山の醍醐味は、実際に自分で登ってみないことには、わからない。
 thématologie(主題学?)でいう一般的規定にしたがっていえば、主題(Thema, subject)というのは、素材とともに与えられる作品の内容的統一の契機である。ところで、また、鑑賞体験は、そこに与えられた素材(素材の配列の仕方)にしたがって、自我の感情を組みかえ育ぐくみつつ、その内容を再構成・再創造するかたちで統一する体験にほかならないであろう。
 それは、いわば、素材とともに与えられた作品のテーマと、その同一素材に対していだく自己のテーマとの対決の体験である。そのことを、もう一コマ前のところでいえば、作品とむかい合うまでは、バクゼンとした形でしか意識されていなかったような、その事物(素材)に対する自己の感情にテーマを与えることで区切りをつける体験である、というふうにも考えられる。つまり、こういうことだ。『めし』のヒロイン、三千代の体験にふれて、「世の多くの主婦たち」が「それはまるで自分のことだと、身につまされる思いがする」(上記、『小説に描かれた現代婦人像』からの引例参照)というような鑑賞の仕方、感情の交流の仕方が、僕がここにいう「自己の感情にテーマを与える」いとなみの第一歩だ、ということなのである。
 ともあれ、文学作品の主題指導ということも、そこに見るような「自己の感情にテーマを与える」というかたちでの子どもたちに対する指導になってこないと、その指導は逆に、主題をわからなくするためのシュダイ指導という結果に終わることは歴然である。


   感情を育む読みの作業

 くり返しになるが、文学作品の主題というものは、自分でその作品を読み自分自身で発見するほかないものだ。ということは、つまり、文学は究極において自分でわかるほかないものだ、ということでもある。
 そこで、教師の任務は、作品の表現が示しているような、まあたらしい感情、感情体験につながっていけるような感情の素地を、子どもたちの体験のなかにさぐり求めて、それを子どもたち自身に自覚させることである。素地がなくては、そういう感情は理解でしない。また、素地があっても、それが意識にもたらされなければ、やはり理解は成り立たない。素地について自覚をもたらすと同時に、そういう感情の素地を一まとまりの感情体験にまで育ぐくむ仕事――それが「自己の感情にテーマを与える」ということの実質的な内容にほかならない。
 素地(感情の素地)と感情体験――その間を媒介するものが作品の読み である。読みの指導である。そのようなイデーによる読みは、(前項の引例に即していえば)それがトラであることを、まずわからせてから、トラのもつ意味(そこに象徴されている意味)について考えよう、といった木に竹をつなぐみたいな方式の読み によっては実現されない。そこでは、抽象的なトラというもの一般が問題なのではなくて、それがどういうトラかという、いわば個性的で具象的なトラの問題(主題)だからである。
 ともあれ、表側の文意の把握は文意の把握、裏に隠された内容的な意味の把握はまた別個の操作で――といった方式の文意の把握の仕方では、じつは文意そのものがつかめないのである。内容(意味)から切りはなされた「文」「ことば」は、すでに「ことば」としての機能を失っている。「ことば」は事物の等価物ではなくて、事物ないし感情ぐるみの事物の意味の 等価物だからである。このようにして、「ことば」がただ「ことば」系(第二信号系)のなかだけで空転していて第一信号系(運動感覚系)の反射につながらなければ、そこにはイメージ体験も成り立たないし、したがって「ことば」は感情をつくり変え育ぐくむものとして機能しない。上記の例について、例のとり方を少し変えていえば、つまりトラならトラという「ことば」がそこでは、具体的な個体としてのトラのイメージをつくりあげるような「ことば」刺激になっていない、ということだ。そういう「ことば」の指導、読みの指導では、「作品の主題にせまる」ことなど思いもよらない、ということになろう。
 主題にせまる――などと口走ったが、教師が子どもたちにかける期待は、けれど子どもたちめいめいの自我と素地に応じた主題のわかり方が実現する、ということ以外であってはならないだろう。ことばを重ねるが、文学は自分でわかるほかないものだ。子どもたちの自我の成長と鑑賞体験の蓄積・深化が、やがて五年先、十年先に別の次元での主題理解を彼ら自身にもたらすに違いないのである。

 この稿は、先に書いた小稿『文学教育の現状と問題点』(岩波書店刊・「文学」10月号)をある程度前提としている。つなげてお読みいただければ、しあわせである。
(国立音楽大学教授)

熊谷孝 人と学問熊谷孝 昭和10年代(1935-1944)著作より熊谷孝 昭和20年代(1945-1954)著作より熊谷孝 1955〜1964(昭和30年代)著作より