文学教育の側面から

誠文堂新光社刊「生活教育」13-2(1961.2)掲載---
 「特集 国語教育の現状と問題」――〈提案〉として「国語教育の現状と問題」(大久保忠利)と「文学教育の側面から」(熊谷孝)、それに対する〈意見〉として「提案から何を学びどう具体化するか」(土田茂範)と「大久保・熊谷先生の提案に何を学びどう具体化するか」(日台愛子)が掲載された。以下のような編集部の前文が添えられている。
子どもの論理性を育て、感情の質をたかめていくということを、統一的にすすめようという声が、国語教育界とくに現場から強く出されている。つまり国語教育を通して「子どもたちの自己確立をはからせなければならない」というのである。国語科もまた「考える子どもたち」をつくるためにどうしなければならないかを考えねばならない。(編集部)

       1「生活教育」1961.2表紙

 これは、あらたまって提案というほどの内容のものではありません。提案ではなくて、一つの話題提供――それも格別のあたらしい話題をひっさげて、というのではありません。さいきん、人々のあいだで話題になっているようなことを一、二拾って、その論点についてごいっしょに考えあってみたい。そう思うわけです。
 で、そういう話し合いのためというか、私たちが共通の話題で話し合いの場を持つことができるようにするための材料を、ここに拾ってみる、というただそれだけのことにすぎません。あらかじめ、ご諒承をねがっておきます。

 ともあれ、このところ、そこここで文学教育論議がさかんに行なわれているようです。すぐ目につくところでは、たとえば岩波の「文学」です。この雑誌では八月号にひきつづいて九月号、十月号と三号つづけて、文学教育のこんにち的な問題を多角的にとり扱った特集をこころみております。また、たとえば、日本文学協会の機関誌(「日本文学」)でも、その最近号を《文学と教育》特集号として編集しております。
 で、いまかりに、文学と教育といういい方をするとしますと、そこには、文学の側――文学者や文学研究者の側における文学教育への異常なまでの関心の高まりがうつしだされている、という感じなのです。
 異常なまでの関心の高まり?……どうもうまくいえないのですが、根強い関心とその急激な盛りあがり、というほどの意味です。そこをつらぬいているものは、人間と文学に対するケッペキさです。
 それをひとくちにいって、教育課程の改定によってもたらされるところの、教育による(あるいは教育における)文学疎外に対する、はげしいいきどおりと抗議であります。かつてそうであったように、今また教育の名において文学が圧殺され、子どもたちの人間疎外が行なわれようとしていることへの大きな怒りがそこに語られているわけなのであります。
 教育のいとなみが民主的なそれとして、すぐれて人間の変革と形成にかかわるものであるかぎり、それは文学に結びついてこざるをえないし、、また文学は教育によってささえられ、教育のいとなみにおいてはぐくまれなければならない。――という、まさにそうした視点からの、教育の現場へ向けての要求や期待や提案が、そこに同時に語られているのであります。
 そこに語られている現場への要求なり提案は、むろん、原則論の範囲を出てはおりません。(むろん 、というのは、それは現場人としての資格においての発言ではないから、というほどの意味ですが)それは原則論には違いないが、しかし現場的な感覚をはずれたものではないように私には思われます。その要求なり提案をまっとうなかたちで受けとめるなら、それは、おそらく、文学学習の基本路線を文学の論理の脈絡において指し示すものとして、すぐにも教室の実際の指導場面に生かされてくるし、また生かされなくてはならないものを含んでいるように思われます。
 ですから、ここで一ぺんに何もかもとり上げることができないとすれば、話題をさしずめこの問題にしぼってみてもいいか、と思われるぐらいです。

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 ところで、これはジャーナリズムの表面にこそ浮かび上がってきてはおりませんが、地方教研の常時活動の場面なり個々の教師集団のサークル活動誌などでの、現場人による文学教育への発言は、さいきん、やはり非常に活発なようです。こうした発言の影響する範囲は狭いし、限られますが、その代わりその地域、その地域の現場におよぼす影響力は、おそらく一般ジャーナリズムのそれ以上に大きいものがあると考えられます。
 で、そうした発言も、多く、原則的なことがらに集中されています。個々の事象を原則的なことがらに還元して、それを原則的・基本的に考えなおそうとしているわけです。話題が教室での具体的な指導の手つづきにまで及んでいないことは、現場人の発言として、一面、なにか物足りなくもあるのですが、しかし、今は指導技術を深めるということ以上に、指導の方向なり指導の筋道そのものをはっきり見きわめたい、確かめたい、ということがあるわけでしょう。つまり、そういう思いが人々の胸にあっての原則的なことがらについての反省である、というふうに考えられるのです。
 それは、あるいは、指導の技術を深めるというためにも、それをどの方向に深めていくのか、という、その方向を今はさぐり求めているのだ、といったほうが誤解を避けることができるかもしれません。ひとくちに「深める」といっても、それをどの方向に深めるかが今は問題であるはずだからです。
 たとえばの話ですが、自分がこれまでいだいていた文学観念による指導の方式では、この作品はつかめないし、生徒につかませることもできない、ということに気づかされるような場合が往々あります。
 そうしたばあい、教師の良心は、その場を糊塗して切り抜けることの代わりに、自分自身の文学観念そのものについて、きびしい徹底的な反省をこころみることになるのだ、と思います。そこに、あらためて「文学とは?……」という問いを自分自身に向かって投げかけることにもなるのであります。
 原則的なことがらへの反省というのは、そういうことなのです。原則にかえって考えなおさなければ指導の進めようがないからこそ、そのことを自分に向かって問いかけ、また周囲に向かって問いかけているわけなのであります。このようにして、こんにち「ことばとは?……」「文学とは?……」という基本的・原則的な問題ととりくんでいる教師の姿は、一見非現場的であるようにみえて、じつはそれこそ真実、現場的であり、現場人らしい姿だ、ということができようかと思われます。
 このようにして、また、こんにちの文学教育論議の特徴は、そこに多様な見解の相違や対立を示しながらも、問題をつねに原則にかえして(あるいは原則にかえって)根底から考えなおすことの必要を語っている点で一致している、ということだろうと思います。
 もっとも、なかには、「原則的なことの批判より、まず地道な実践を」というような発言もないわけではありません。たとえば、「第十三回、全日本国語教育回に参加して」という加藤房和氏(大阪・市岡高校)の報告を読んでみますと、「指導要領を批判するのも結構だが、自分としては実践のなかからの地道な声に耳を傾けたい」というふうな意見を、文部省筋の某講師が語っていた、ということがそこに記されています。
 それは、「つまり実践する前にうるさく言い立てないで、まず実践してからモノを言えということであって、まさに官僚的発想の典型というべきであろう」と加藤氏は語っておられますが、私もまたやはり、そうした発言は批判をおそれる者のことばか、職人のことばでしかないと思うのです。

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 原則にかえっての反省ということが、こんにちの文学教育論議の特徴だ、とさっきいいましたが、そのことはまた、こんにちの状況では文学教育以前の問題が文学教育自体の問題となってこざるをえない、ということでもありそうです。そこで、たとえば、猪野謙二氏などは、「今の生徒に対するもっとも主要な抑圧の根源は何か」ということをつかむことなしには」文学教育は前へ進みようがない、と語っておられます(上記「日本文学」)。つまり、生徒の被抑圧状況が以前とは質的に変ってきている、というのです。抑圧が封建制によるものであった時期には、「そういうものの抑圧とのたたかい」の文学として、白樺派や芥川の作品なども「よい教材」でありえたし、「文学教育の面でも、それが生徒の状況によく適合」していた。しかし、内外の独占資本による抑圧の時代である今の日本で、あいも変わらず白樺派や芥川の作品がモデル教材というのでは「どうもうまくつり合わないのではないか」というのです。
 これは、文学教材選択の基準の問題ともつながることがらですが、私が知りたいのは、現場の先生方がそれをどうお考えになるかということであります。
 「私は文学教育の今後の方向というものも、あくまでもこうした対象としての新しい世代の状況をどうつかむかということによってのみ、はじめてきまってくるのだと思います。つまり、すくなくとも文学教育の立場としては、生徒たちのおかれているこういう状況をアタマから否定的に是正してゆく方向をとるまえに、まずわれわれ教師自身の伝統的な文学観――あまりにもスタティックなヒューマニズムとか善意とかの上に立つ、その倫理家的な本質を根本から反省してゆくということが第一で、新しい文学的状況に適応しえないまま、しらずしらずに既成の自分をおしつけてゆくかぎり、決して文学教育としての新しいみのりは得られない、というように思います」うんぬん。これも猪野氏の意見です。
 右の猪野氏の発言に関連して、森山重雄氏もまた次のような意見をのべておられます(上記「日本文学」)。「先ほど猪野さんが善意の文学とヒューマニズムの文学にたいして、かなり否定的な見解を出されたのですが、これがやはり私にとっては重要だと思うんです。というのは、文学教育――学校教育という範疇をとって考えますと、やっぱり絶えず文学観念の更新をせまるような要素を自己に対して持っていなければならないのではないか。ところが、文学教育における文学概念みたいなものが固定化してしまって、そしてそれがやがて非常に硬化した状況を呈していく。そういったものを内側から破っていくものとしては、やっぱり教育というもの、文学そのものについての観念を絶えず変更して、変更をせまられるような状況を絶えずとらないと、いけないのではないか」うんぬん。
 私が現場の先生方に向かっておたずねしたいのは、こうした森山氏や猪野氏のような考え方をどうお感じになるか、ということなのです。むろん、現場の実践的視点からいってであります。
 ヒューマニズムの文学ないしその文学観念の否定という点では、これはおそらく議論百出かと思われます。この点については、すでに、「ヒューマニズムなんかはだめだ、というふうないい方が非常に簡単にされ」すぎている、という批判(伊豆利彦氏・上記「日本文学」)や、「現代の若者たちがひよわいヒューマニズムとか社会正義なんていうものはだめだ、というふに持ってくると、全体がさか立ちしちゃう……たとえば、ぼくらの小・中・高の現場で、現在のそういう諸状況に対抗して闘いながら、以外に、ヒューマニズムや社会正義が意義を持っている」という反対意見(益田勝実氏・同上)も出されております。
 私としては、ヒューマニズムふうの文学観念を否定するしないは別として、そのことがすぐさま、ヒューマニズムの系列の作品そのものが文学学習の教材として不適当だということになるのではおかしい、と考える訳ですが、しかし、さし当たって問題にしたいのは、その点ではありません。私がおたずねしたいのは、教師は既成の自分や自分の文学観念をおしつけるのではなく、「絶えず文学観念の更新をせまるような要素を自己に対して持っていなければならない」という、森山氏たちの考え方の基本にあるものについてであります。
 そういう問いを発するわけは、上記のような意見は高校か大学の教師にとって必要なことなのであって、われわれにとってはまったく無用な論議だ、という声を、現にそこここの小中学校の現場で耳にするからでもあります。

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 私自身は、むろん、森山氏たちの意見に賛成です。というより、まったく同じような考え方をしております。文学観念の絶えざる更新の必要、という問題のかぎりではなのですが。
 竹内好氏などもそういっておられるように(「文学」十月号)、文学教育では「教材は従で、教師が主だ」と思うのです。教師が主だということは、教師の文学観――教師が文学というものをどうつかんでいるか、ということが問題だ、ということでもあります。「いまの教科書や、それから教え方の一般的な通弊は、全部わかるという建前になっていることですね。……それが、かえって文学についての真の理解を妨げているのではないか。文学についての表面的な知識を与えることによって、逆に文学をわからなくさせるようなことがあるんじゃないか」(竹内氏・同上)と私も考えるのです。
 桑原武夫氏は、それは「わからなくするんじゃなくて、嫌いにする」のだ(「文学」・同上)、と語っておられますが、つまりその双方なのでして、わからなくするし、だから時として嫌いにもするのです。文学をわからなくしたり嫌いにしたりする文学教育―というのはおかしなものだ、と思うのですが、教育課程の改定がさし示す方向は、現にそういうものであるわけです。
 早い話が、芥川の『蜘蛛の糸』です。特設「道徳」のほうでは、それを生徒の「利己的な行動の反省」に役立たせよう、というのです。大泥棒のカンダタの姿にシンボライズされているものは、ところで、おそらく、エゴイズムに結びつかざるをえない、人間疎外の時代の苦悶とか何とか、そういった方向のことなんだろうと思います。それを一八〇度方向を転換させて、「利己的な行動の反省」というところへ主題をすり替えた大胆さには、ただもう呆れるほかありません。
 「道徳」の時間には、そうした文学作品の「道徳」化・非文学化をやり、国語に時間になると文学をまっとうに文学として扱う、というような一人二役的な芸当は、しかし教師というものにはできないはずです。が、その使い分けをやらなくては、これからの教師はつとまらない。かといって、実際問題としてそんなマネはできない。
 となると、こんごの「国語教育のなかの文学教育という側面は、どうしてもどこかで道徳教育といったものと結びついて」こざるをえない、というなにか「そういう圧力を感じる」(猪野氏・「文学」十月号)ことにもなるわけです。が、じつは、そうした圧力をハネ返していくための文学教育論議であったわけであります。「教育の面への国家権力の反動的な圧力が強くなりつつあるとき、文学教育は、ぼくたちに残される、たった一つの抵抗の場になるのではないかという予感」(山形南高校・芳賀秀次郎氏・「日本文学」同上)にささえられての、こんにちの文学教育論議の盛り上りであり、問題の原則論的な探究ではないかと思われます。
(国立音楽大学)

熊谷孝 人と学問熊谷孝 昭和10年代(1935-1944)著作より熊谷孝 昭和20年代(1945-1954)著作より熊谷孝 1955〜1964(昭和30年代)著作より