国語教育としての文学教育を   文学教育研究者集団

日本教職員組合情宣部刊「教育評論」98(1960.7)掲載---

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 学習指導要領の改定が「改悪」以外のものではない、という点については、いまさら、ここにくり返すまでもあるまいかと思います。改定教育課程が、その基本的方向において示す反動性については、すでに多くの批判が行なわれているわけであります。
 が、しかし、現場の実態はといえば、ときたま思いだしたように、それの改悪を口にし、またそれの反動性をうんぬんしながらも、現実にはすでに移行措置の線にそって、それを消化することに汲々としているの全般の実状である、というほかありません。
 現場の全部がそうだ、というのではありませんが、しかしそういう傾向が、ようやく全般的なものになろうとしていることは事実です。それは、いわば私たちにとって、「この目でみた現実」なのであります。私たちは、この現実――この現実の事実に対して、目をつぶるわけにはまいりません。
 ところで、それがいまや、全般的な傾向になろうとしている、ということには、実は、改定が改悪にほかならないという事実が、現場では判然とつかまれていない、ということが、そこに考えられるのであります。
 これはあながちに、現場の弱い部分においてそうだ、というだけではありません。あえて申します。それは全般の傾向であり、むしろ現実の一般的傾向にほかならないのであります。
 つまり、改定が改悪以外ではないという事実認識が、そこに欠けているのではないか、ということなのです。もしも、そうした事実認識が現場全般のものとなっているのであれば、かくもたやすく移行措置が現場に「浸透」し「徹底」し、かくもすみやかにそれが実現する、というようなことはありえない。そう思われるのです。たとえ、権力による強制がそこにあったとしても、なのであります。
 いや、「強制」は、現に手きびしく行なわれているわけなのですが、しかし教育課程の問題は教師にとって、他の問題とはまた違った直接的な切実さを持っております。学級経営者として、また教科担当者として、それは現場教師の日常のありかたを規制する、切実なデイリーな問題にほかなりません。
 したがって、それを「改悪」されたのでは、或いはそれが「改悪」であるならば、日常の教育実践に大きく響いてくるというか、その方向に大きな狂いを生じてくるわけです。さらに、その改悪が一定の限度を越えたそれであるような場合には、教育そのものが不可能にさえなってくるわけなのであります。
 だからして、多くの改定指導要領批判が語っているように、それが「限度を越えた」あるいは限度スレスレの、ともあれ民主教育そのものに狂いを与えるような方向性を示した改悪である、という事実認識が現場全般のものとなっているのであれば、そうやすやすと移行措置に引きずられる、というようなことは考えられない。たとえ「強制」がそこにあったとしても、抵抗路線は、けっして一つではない。幅のある柔軟な仕方ででも、それをハネ返しているわけなのであります。
 が、現場の実状はそれを受け入れ、それを消化することに忙しいとすれば、改定が改悪であるという事実認識はそこにない、と考えざるをえないわけです。で、私たちのサークルでは、そうした事実認識のために、当面の課題を教科論の面にしぼって、文学教育理論の追究を試みることになったわけです。
 一昨年来、《国語教育としての文学教育》という課題のうちだし方をしているのも、右のような理由にもとづくのです。《実践をくみあげて理論化を》――これが、そして私たちお互いの合いことばとなっているわけなのであります。

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 私たちは、国語教育の課題を、第二信号系としてのことばの訓練という一点でおさえて考えております。思考や認識との結びつきにおいて、言語能力をひきだす作業が国語教育である、というふうに考えているわけです。
 文学教育も、そうした国語教育の体系的一環として、《子どもの認識をはぐくむ教育》である、というおさえ方をしているわけです。このようにして、また、文学教育も、まさに《国語教育としての文学教育》として、新しい国民づくりのための、子どもの認識の発達をささえる教育とならなければならない、という考え方をしているわけであります。
 いいかえれば、指導要領のように、それをたんに「経験jを広め心情を豊かにする」情操教育としては考えないわけです。単なる情操教育ではなくて、それは認識をはぐくむ教育である、と私たちは考えているのであります。それを、国語教育としての文学教育として、すなわち認識をはぐくむ国語教育の体系的な主軸の一つとしてつかむとき、それは本来的に認識の発達をささえる教育としてしか考えようがないわけであります。
 いや、そう考えないというより、文学教育活動の実際は、そのいとなみを欠いては、国語教育そのものがカタワなものになり、「思考や認識との結びつきにおいて言語能力をひきだす」という、国語教育プロパアな機能そのものがしぼんでしまうことになるのです。
 指導要領における文学教育疎外は、文学教育を認識 の発達をささえる教育と考えるかわりに、それを情操陶冶の手段としておさえる点に、その理論的根拠ないし前提を見つけているかのごとくであります。(それを情操教育としておさえ考えようとする、その根底にあるものは、文学の本質というか本性をその観照性――観照性の文学に求めるという、かなり時代がかった文学観にほかなりません。この点、機会をえて、くわしく述べたいと思います)
 で、つまり、こういうことなのであります。それを単なる情操教育の手段としてつかむことで、文学教育を――実は文学学習 を、国語教育にとって第二義的なものと考えるわけなのです。指導要領のおさえ方では、国語教育のなかから文学教育はその姿を消し去ったしまっています。いや、消去されてしまっているのです。
 そこにあるのは、文学教育という一まとまりの作業ではなくて、ただの文学学習です。それは、数多くの国語学習領域のなかの一領域、さらにその領域のなかの従属的な一小部分にすぎません。
 文学教育ではない、単なる文学学習、しかも、ただの情操陶冶の手段としてしかつかまれないとき、それがいわば第二義的・従属的なものとして考えられるようになるのは、当然のことでありましょう。従属的なもの、つまりツケタリです。第二義的なもの――それは、しょせんアクセサリーにすぎません。
 移行措置の施行前にあって、この文学学習がともかく一おうの存在理由を認められていたのは(誤解のないように断っておきますが)アクセサリーというもののもつ、必要性の限界内においてでありました。平時にはアクセサリーもまた必要なのであります。
 けれど、戦争街道の早がけ行進に移ろうというときには、もはや平時のアクセサリーは不要・無用のシロモノでしかありません。アクセサリーが必要であるとしても、それはまったく別個のアクセサリーにかえられなくてはなりません。
 改訂指導要領に示されている、国語教育への要求は、右に見るようなものがあるのではないか? いや、そういうものがあると判断することのほうが、ないと考えるよりはやさしい、ということなのであります。
 それかあらぬか、改定指導要領には、ふたことめには「文学に片寄らない指導を」ということばが、くり返されています。そしてそこに同時に、文学に片寄らないで、「古典」の学習指導に力をそそげ、ということが語られているのであります。
 文学に片寄らないで古典をしっかりやれ……ということは、裏を返せば、古典を文学として扱うな、ということにほかならないでありましょう。
 古典を文学として扱わないコテン教育――それは、たとえば『神皇正統記』などを範例とした、戦前・戦中のあの「古典」教育(修身教育の一環としての古典教育)の方向への復帰を、先に予定した事前工作である、と考えないわけにはいきません。
 もっとカンぐっていえば、古典を修身教育の手段として扱うと同時に、文学を危険視して生徒のそれへの接近を極力妨害した、戦前の学校教育のあの方向への逆行がすでに始まっている、とさえ思われてくるのです。
 文学をおそれ、それを排除するのに躍起だったということは、ファッショ的支配者の立場からではあるが、反俗に生きる文学の偉大な力が、それの認識機能において、そこにつかまれていた、ということを言いあらわす以外のものではありません。
 であればこそ、逆に、文学(そして文学教育)を疎外した国語教育、認識としての文学を捨象した、情操教育としての文学教育・文学学習を表面にうちだすことにもなったか、と思われます。
 ともあれ、改定教育課程の示す方向は、戦前のそれとかさなり合うものがあるようです。新しい国民づくりをめざして、文学教育は、こんにち、どのようなものにならなければならないか? 答えは、おのずから明らかであろうと思います。

 これは、私たちが所属するサークル、文学教育研究者集団の共同の見解を示すものであります。月例研究ゼミにおける集団討議の一致点を拾ったものです。
(文責、福田隆義、熊谷 孝)

 (文中、今日の人権感覚に照らして適切でない表現があるが、文章の歴史性を考慮し、そのままとした。)
熊谷孝 人と学問熊谷孝 昭和10年代(1935-1944)著作より熊谷孝 昭和20年代(1945-1954)著作より熊谷孝 1955〜1964(昭和30年代)著作より