最近の児童読物      熊谷 孝
  
社会教育研究所編集「社会教育」第五巻第九号(1950年9月号)掲載----- 


 出版界は児童読物の洪水だ。去年の秋頃から、出版社という出版社が挙って児童読物に手をつけはじめた。極度に低下した購買力を児童物一本に吸収することで、ギリギリにでも食いつなごうという算段である。「社会教育」1950.9
 親心というヤツで、子供のことなら誰でも多少の無理はする。可愛いわが子のためなら、無い袖もたまには振ってみせようというものだ。――そこのところを狙ったのが、つまり今日のこの児童物の出版である。
 ところで、それがまた最近では、学校図書館や学級文庫といったところの購入をあて込んだ、全巻何十冊という大掛かりなシリーズや、一冊三百円もそれ以上もするような豪華版が刊行される、というふうに変ってきている。つまり、子供の親であるところの一般大衆のフトコロぐあいが、「お寒い」なぞいうヤワなところをとうに通り越してしまった結果である。凍結状態におちこんだ親のフトコロに見切りをつけて、業者はこんどは公共の図書予算の分け前に預かろう、というのである。
 そういうことの結果、思いがけなく出版文化の恵みに浴することになったのは、新制中学の生徒諸君だ。中学生や高校生相手の出版企画は(学習書いがい)企業として成り立たない、というのが業者のこれまでの常識だった。ところが、売り込み先きに公共の施設を狙うほかないとなると、話はまた別だ。で、そういう目で見れば、新制中学というところは、むしろカモなのだ。なにしろ生い立ちが生い立ちだけに、図書の施設はひじょうに手薄だし、それだけにまた当事者は図書の充実に力を入れている。この面の出版活動が、さいきん俄然活況を呈して来たというのも、もとを洗えばこんな事なのだ。
 ところで、そういう図書の選択に教師の好みが大きく反映するのは当然のことだから、業者はいきおい、児童よりも教師自身の好みにマッチした企画をたてるようになっていく。だから、今の児童読物の内容を見れば、教師その人のセンスがわかるという事にもなろう。それで、たとえば、筑摩書房中学生全集のような企画(むろん装幀や何や一切こめてだ)が人気を呼んでいるところを見ると、それは、二〇年代・三〇年代の旧自由主義文化への教師諸君のノスタルジアのあらわれであるとも考えられようし、またたとえば、武者小路実篤の「愛と美の人生」であるとか「哲学するこころ」といったものを収めた梧桐書院中学生選書などを目の前にすると、なにか教師その人の低徊・混迷の姿が彷彿としてくる、という次第である。
 その反面、「歪められた笑い、粗雑な感傷主義、荒唐無稽な英雄主義」の、子供の生活面からの一掃をめざす刀江書院刀江児童文庫の企画(とりわけ、その中の一篇である山本政喜訳ならびに解説の「クリスマス・キャロル」)や、福村書店の叢書「物語シェークスピア」「ラ・フォンテーヌ童話集」などがやはり教師諸君の支持を受けているところを見ると、混迷がたんに混迷として足踏みしているのではない、という気もするのだ。
 おしまいに、もうひとこと。主題の方向をスリ替えた原作の改悪やメロドラマ化が、世界名作ダイジェストの名で流行してきたのにはヒンシュク。いや腹が立つ。
〔法政大学教授〕

熊谷孝 昭和20年代(1945-1954)著作より熊谷孝 人と学問