不可知論と芸術学     熊谷 孝
  
岩波書店刊「文学」第十五巻第四号(1947年2月号)掲載--- 


         

 本当に芸術を愛するものだけが、芸術を語る資格をもつであろう。けれど、その芸術愛が、美的体験として抽象化された芸術美への陶酔を意味している限り、それは実践に役立つ現実の力とはなり得まい。芸術への関心の高まりが、同時にわれわれ自身の政治的関心と社会的実践への意欲とをよおび起すようなものとしてあってこそ、それはほんとうの意味での芸術愛ということもできるだろう。が、そのためには、芸術は、人民のための芸術にならなくてはいけない。人民の政治が働く人民自身の手によっておこなわれねばならぬのと同じように、芸術はいま、精神貴族の手を離れて民衆自身のものとならなければならぬ。民衆のものとなり切ることによって、芸術は、現実の闘争に参加する人民みずからの生活のよろこびと悲しみを、その希望と夢をあらわすものとなり、やがて人々の心とおもいを一つのものに結びつける社会的な力となるであろう。芸術家は民衆と共にあらねばならぬ。そのことによって、また芸術を真に民衆のものたらしめねばならない。「文学」1947年4月号
 現代の芸術学は、人民の科学としての自覚において、民衆のなかに芽生えつつある芸術への関心を、精神貴族的な美の陶酔から解放すると共に、勤労人民大衆の歴史的未成熟とその文化的低水準につけこむ商業主義の毒手からまもり、それを実践的なものに方向づける任務をになっている。このことこそが、芸術学の現代的課題である。そうした実践的課題を自覚することによって、現代芸術学は、旧(ふる)き自らの立場を超え、新たな視野とスケールとにおいて自らの進路を見出さねばならない。芸術学者自身による芸術学史への反省が、そこに求められる。このエッセイの目ざすところも、芸術学の成立を促がした歴史社会的なモメントに触れることによって、そうした反省に側面的な一資料を提供しようとする以外のものではない。


         

 われわれに対してある世界は一つである。けれど、われわれがそこにおいてあるところの現実は決して一つではない。世界がもと一つであるにもかかわらず、それが現実として知覚され意識される限りにおいて、世界はもろもろの形においてある、ということができる。
 現実的なものは二重の形においてある、とベルグソンはいった。直覚と知性への意識の分裂は、物質と生命との対立による、或いはそれらの複合による、現実的なものの二重性によってもたらされた、と彼は考えた。知性の枠は、生命に対して正確な適用を見出し得ない。知性による認識は、ついに生命の内部に触れることはできない。知性の操作は、単に「その像をでき得る限り多くの外部から写し取りながら、そのまわりを廻っているにすぎない。」(「創造的進化」)生命の内部へ、生命特有の領域へとわれわれを導くのは、直観だけである。直観は、そして直観だけが「知性の所与が生命を対象とした場合にもっている不充分なところをわれわれに把握せしめ、それをわれわれに瞥見(べっけん)せしめる。」(同上)このようにして、科学は物質に対してあり、芸術は生命に対してある、と考えられた。
 物質的現象に対して科学があり、芸術は生命そのものに対してあるとする考えかたは、けれど現実を遊離した形式論理にすぎない。知性の作品である科学は、単に物質的操作の秘密をわれわれにときあかすだけでなく、むしろ生命の秘密に肉薄することを目ざしている。これは知性の欲求であり、知性的人間の要求である。知性的人間は、さらに芸術に対しても、それが単なる本能的なもの・直覚的なものを超えたものとしてあることを求めている。芸術の認識を、単に直感的と見做(な)すことは許されない。芸術は現実の再創造であり、準体験的現実への移項である。創造は英知の、そしてデーモンの協力を必要とする。直観は、それ自身では何ものをも作りはしない。芸術は現実の形成作用として、直感的であるよりはむしろ知性的・感性的な全人間的な実践活動であるということができる。感覚的であり同時に頭脳的である人間の心を満たすもの、そして何よりも行為する人間の実践的要求にかなうものとしてあることが、そこに求められる。
 世界が一つであるということは、外化され対象化された現実が一つであるということである。科学は、まさにそのようなものとして世界を一つの形にもたらすことを目ざしている。そこに、現象の一般化・非日常化がおこなわれ、普遍化的方法による現実の再構成がおこなわれる。科学は、現実を対象的に構成することによって、世界の構造そのものに近づこうとするのであり、世界の構造を反映した、単一の世界像をうち建てようとするのである。世界は一つである。世界が一つであることに照応して、科学もそれが一つの形においてあることを理想像としている。そのようなものとして、科学はまた充分抽象的である。それは、抽象性に徹することによって、現実を真の具体的な姿にもたらそうとするのである。真に具体的なものは、抽象的なものに媒介されたものである。現実は、科学に媒介され抽象化されることによって、却(かえ)ってわれわれに身近かなものとなるのである。尤(もっと)も、科学の与える知識は、生あるものの「生命のない言葉への翻訳」(同上)にすぎぬかも知れない。知性の枠による適用は、生命に対しては、その像を単に外部的に模写する結果をもたらすだけかも知れない。科学の適用は、ついに物質的現象の範囲に限定されねばならぬのであろうか。法則的知識とは、しかしそうしたものである。そうしたものとして、科学の知識は抽象的であり、それが抽象的なものとしてあるがゆえに、科学はわれわれの実践に役立つ現実の知識となるのである。
 しかし、科学のそうした有用性について疑う余地はないとしても、それは所詮知識であるにすぎない。科学のもたらすものは、原物についての知識であって、原物そのものではない。或いは、生の全体感における現象の概括ではない。生あるものの生命は、科学によって剥奪される。それは、ものの外部的・外面的な把握であって、生命の内部に触れたものではない。それが科学の対象とされる限り、歴史的な人間の生も、因果関係において捉えられた人間の生態記述にほかならない。このようにして、また、純粋に知性的なものの適用は、物理的自然に、或いは物質的操作の秘密をときあかすことに限定されねばならぬ、ということにもなるであろう。が、しかし、物質的操作のメカニズムは、それをいのちあらしめている生命と無関係に問題にされ得るであろうか。また、歴史的自然の把握は、単なる人間の生態記述を以て満足さるべきであろうか。世界を、物質と生命との対立ないし複合という秩序においてみる限り、科学はむしろ、生命の秘密に迫ることに目標をおかざるを得ない。
 このようにして、既に前世紀において、生命や精神に対する物理学的ないし生理学的説明が試みられ、やがてそれらを媒介として、物質と生命とに関するモニスムス[一元論]に導かれたのであった。「思想の脳髄に対する関係は、尿が腎臓に対する関係と同じである。」(「人間についての講義」)というK.フォクトの命題は、精神を物質の属性であるとするビュヒナーや、物質と精神とを分ちがたい一体的なものであるとするJ.モレショットの一元論につながっている。けれどこの一元論は、それの素朴実在論的な性格ゆえに、不可知論[*]への道を用意したにすぎない。フォクトは、デュ・ボア・レーモンによって批判されねばならなかった。生命が、また精神現象が、かりに物質的条件によってもたらされたものであるとしても、精神の作用は脳髄の構造から説明されはしない。精神は不可知である。そして、おそらくそれは永遠の謎であるだろう。イグノラビムス[**](「自然認識の限界について」)
[* 不可知論:意識に与えられる感覚的経験の背後にある実在は論証的には認識できないという説。そういう実在を認める立場と、その有無も不確実とする立場とがある。(『広辞苑』)]

[** イグノラビムス:〔羅〕ignorabimus デュ・ボワ・レーモンの著書『自然認識の限界』(1872)によって普及したラテン語で、「われわれは知らぬであろう」の意。人間の認識の限界をあらわす標語として用いられる。
(平凡社刊『哲学事典』)

 生命の内部に躍入しようとする精神の科学は、このようにして、イグノラビムスの声高らかな宣言のうちに直観的認識を方法としての資格において要請する。知性の枠ははずされて、知性は直観の下僕の地位に迄おとしめられる。なぜなら、生命に調和するのは直観だけであるから(ベルグソン)。直観的方法は、精神科学の体系的枢軸である。このようにして、また、精神科学の求める真理は、存在的真理でなくして存在論的真理であり、法則ではなくして個性が、客観的認識の概念に代るべきものとして主体的認識がそこに要請される。精神科学においても、人間の生態はひとしく問題であるにしても、しかも人間の生態そのものが問題なのではない。人間の生態をしかあらしめている人間的存在の意味が、そこに問われねばならぬとするのである。
 歴史的自然は、主体的に形成されたものとして物理的自然とは明かに次元を異にしている。自然現象が繰返すと考えられるのに対して、歴史的なものは一回的なものである。一回的なものは個性的なものであり、個性的なものとして、それはまた価値的なものである。人間の生態ではなくして、人間的存在の表現する意味がそこに追求されねばならぬ、とされるのである。さらにまた、歴史的なものは表現的なものとして、単に説明さるべきでなくして、理解され解釈さるべきであるとされる。このようにして、精神科学は、また精神の解釈学としてあることが要請される。単に外部から内部を理解するにとどまらず、同時に内部から外部を、特殊から一般を理解することが、そこに求められる。このようなものとして、精神科学は、世界を対象的に構成するのではなくして、それを主体的に形成するのであり、このようなものとして、それはまた直接現実の形成作用となるのである。
 既に明かなように、精神科学の思想の系譜は、不可知論につながっている。それは、紛うかたなく不可知論の嫡出の子である。イグノラビムスの宣言は、機械的唯物論に対するものとして一応意義をもっている。けれどそれは、素朴実在論的なものの否定であって、実在論そのものの否定ではあり得ない。レーモンのいう自然認識の限界とは、機械論的唯物論による自然認識の限界にほかならない。にもかかわらず、それが唯物論そのものの認識限界をつき得たと考えられたところに、またそれが同時に知性そのものの限界線を画するものと考えられたところに、一方には相対主義への隘路(あいろ)が用意され、それと同じ文脈においてまた一方に、知性による知性の自己否定が結果された。精神科学は、このようにして生れた。それは、知性の自虐によってもたらされた。そこでは、知性は直観との同席をしいられる。いな、自ら求めて直観の救いを乞うた以上、それに席を譲らねばならぬのは、蓋(けだ)し当然の帰結であろう。精神科学は直観の学であって、純粋に知性の学、科学ではあり得ない。それは、生命の「科学」であり生の哲学である。ひとは、ここに、自然科学の名において呼ばれた、哲学・科学未分化時代の学問の姿をおもい起さぬであろうか。
 精神科学は、不可知論に出発しているという点で既に大きな矛盾を、致命的な誤謬(ごびゅう)を孕(はら)んでいる。不可知論は、機械的唯物論の否定のうえに自らの立場を樹立したものではなく、それの認識の限界を口にしつつも、自らはその立場の基底にもたれかかっているというにすぎぬものなのである。立場といえば、それが不可知論の唯一の立場なのだ。だから、イグノラビムスという不可知論の帰着点は、――不可知論にとって、それは同時に出発点となるものであるが――いわれているように判断中止を宣言するものでなくして、むしろ自身機械的唯物論の系列にぞくしていることの表白にほかならない。不可知論が唯物論であるというのは、あながちパラドクスではない。なぜなら、機械的唯物論は、観念論のヴァリエーションにすぎないから。
 ビュヒナーやモレショットの物心一如のモニスムスは、観念論的な生命の神秘の肯定のうえに立っている。形而上学的要請による神秘的な生命概念はこれを無批判にうけついだ儘(まま)、単にそれが物質の属性であるといい、物質と一体的なものであるということを、彼は語っているにすぎない。だから、物質と一体的なものであるという限りにおいて生命はもはや神秘的なものとしてあり得ぬけれども、しかしそのことによって生命そのものの神秘性は剥奪されはしない。物質の属性にすぎぬ生命が、かくも精神的なものとしてあり得るのはなにゆえか。だから、それは逆に、生命と一体的であることをいうことによって、物質の神秘をいうことにもなるのだ。宇宙は永遠の神秘である。このようにして、それは、不可知論への道を、さらにまた不可知論を媒介として形而上学への、精神科学・生の哲学への道を用意するものとなったのである。
 そこで、われわれは、次のことを指摘しておく必要があろう。観念論的規定による、或いは常識的な見解にづ基(もとづ)く――というのは、現代社会における常識は、常識化された観念論であるから――生命の概念を無条件にうけいれた儘、ア・プリオリ[a priori 先験的]に物質と生命との複合による世界を設定しようとする限り、断じて問題の解決はあり得ない、ということをである。この両者を対立する二元的なものと考えようと、物質即生命の一元論の見解にしたがおうと、かかる前提を前提としている限り、帰するところは一つ、無解決の解決があるだけである。しかし、話をさきに進めるまえに考えておかねばならぬことがある。芸術学の成立が、精神科学の埒(らち)内でおこなわれたという不幸についてである。


         

 芸術学が精神科学として出発したということは、精神の外化・表現としての芸術の本質は、純粋の知性的認識によっては捉えられ得ぬものであるという前提のもとに芸術の探究がおし進められた、ということである。芸術学は直観の学であって、知性の学ではない。芸術学の前提となるものは不可知論である。精神科学が、その本質において科学の否定であるという意味において、芸術学の成立は同時に科学の否定を意味するものであった。このようにして、芸術史は因果的必然の鎖から解き放たれ、芸術の自律性と永遠性がそこに保証される。芸術は、そこでは永遠の子とされ、また偶然の子とされた。このようにして、また、芸術学の要請する芸術のイデーは、浪漫派的芸術思想の再生であるということもできるであろう。
 ドイツ・ロマンティーク[deutsche Romantik ドイツ・ロマン主義]は、偶然への信仰に出発する。必然的なものは怠惰を意味し、退屈を意味している。啓蒙主義の否定に出発したロマンティケル[Romantiker ロマン派の芸術家、ロマン主義者]にとって、驚異すべきは唯に偶然のみである。なぜなら、それは「より高い実在の接触」(ノヴァーリス「フラグメンテ[Fragmente 断章であるから。われわれは、より高い実在の接触において一つの夢を体験する。「われわれの生は決して夢ではない。けれど、おそらくそれは夢の一つとなり得べきものである。」(同上)このようにして、詩人のあがめるのは偶然だけである。「一切の詩的なものは、メルヘンハフト[märchenhaft メルヘン風]でなければならない。」(同上)したがって、芸術は、それがつねに「自由な歴史」「歴史の神話」(同上)としてあることを要請される。芸術学が文芸・芸術に対して求めているものも、それがつねに現代の神話としてあることである。
 「すべての学は哲学となり、やがて詩となる。」(同上)とノヴァーリスはいった。彼はまた「学の完成された形式は詩であらねばならない。」(同上)とも述べている。彼の友F.シュレーゲルもまた「すべての芸術は学に、そしてすべての学は芸術になるべきである。」と語っている。浪漫派に固有なこの思想は、しかし約一世紀のときをへだてて生の哲学のうちに再生され、詩と哲学との一致がそこにもたらされた。詩が哲学にではなく、哲学がしに一致せしめられることによって、芸術学は一篇のロマンティスムス[Romantismus ロマン主義]の詩に化せられる。詩は、そして同時に詩学であらねばならない。現代の詩学は、理解を方法とする芸術美の解釈学である。いいかえると、それは、美的体験として抽象化された芸術的体験についての解釈学だということである。それはだから、ロマンティッシュ[romantisch ロマン主義的]な仕方における芸術享受の方法論を叙述したものにほかならない。理解は、追体験において成立つ。或いは、追体験は理解を自らの方法とすることによって可能とされる、ということもできる。そこに求められるのは、芸術作品を内在的に理解することによって、創造の過程を自らのうちに再現するということ、詩人の体験を追体験するということなのであるが(ディルタイ「詩人の構想力」)、解釈学的に追体験された詩人の体験は、美的体験として抽象化された体験なのであり、原体験のありかたとはおのずから秩序を異にした、別個の体験であるとされねばならぬ。
 創造の過程は、単に美的体験としてあることはでき得まい。かりに、美的直観の概念をここに持込むにしても、それの作品への結晶には、知性の媒介を必要とするであろう。芸術的体験にとって、むしろ知性と直観とは一体的なものとしてあらねばならぬであろう。芸術的認識が主体的な認識であるというのは、しかしそれが単に直観的なものとしてあるということではない。芸術活動を感性的なものと考えるにしても、それは単に直観的なものとして感性的であるのではなく、むしろ知性的・直観的なものとして感性的なのであり、何よりもそれは行為する人間の社会的実践活動として感性的なのである。芸術家の創作活動は社会的である。芸術的体験は社会的な体験である。それは、単に美的体験として考えらるべきではない。尤(もっと)も、それが社会的であるというのは、科学が社会的であるというのとやや趣を異にしている。
 芸術の社会に対する関係は、科学のそれにくらべてより直接的であるということができる。直接的であるというのは、その結びつきが身体的・有機的であるということである。芸術活動にとって、認識と表現とは別個のものとしてあり得ない。認識を表現に移すのでなくして、認識即表現という関係において、芸術は直接現実の形成作用となるのである。認識することが同時に表現の作用を意味しているというのは、 芸術に固有のことである。科学が一としての世界の認識であるとすれば、芸術は多としての現実の認識であるということもできるであろう。芸術的認識は、日常性における現実の認識である。尤も、それが日常性における現象の概括であるといっても、形象的現実は現象の単なる再現ではない。描かれた現実は、直接的所与の現実を超えたものとして、明かにそれとは次元を異にしている。それは現象の一般化でなくして典型化である。それはまた、事象の典型的な面における現実の移項であり、そのようなものとして準体験的現実の形成であるということもできるであろう。芸術的体験が社会的な体験であるというのは、まずその意味においてである。
 事はしかし創作活動に限られるのではない。享受者による作品の観照も、単に受動的な体験としてあることはでき得ない。ギュヨーもいっているように「読書によって或(ある)感情を経験するには、それを既に自らのものとして所有しているのでなければならぬ。」(「社会学より見た芸術」)読者は、聴衆は、形象との接触において体験の枠を超え、準体験の世界へと導かれるのである。しかもそれは、単に導かれるのでなくして、自らの体験に即して形象の世界を形成するのである。その場合、枢軸となるものは、享受者の体験のありかたそのものである。それゆえに、「印象は決して単純な、受動的な働きではない。同一の現象を見た場合でも、それはすべての人に同一ではない。」(ゲネケン「学的批判構成試論」)のである。このようにして、また「芸術作品が作用を及ぼすのは、その作品がその人の表現となる人々だけである。」(同上)ということすらできるであろう。
 作品は、表現者と享受者との協働の場である。詩が詩としての表現をかちうるのは、詩人と読者との共軛(きょうやく)する体験の面においてである。そして、作品のありかたを規定するものは、より根源的に享受者の現実観照のありようそのものであり、彼ら自身の日常的社会的な実践活動そのものであるとされねばならぬ。芸術家が自らを超えて、民衆の心を心としなければならぬといわれるのも、また彼の生活が生きかたが、彼自身の芸術活動にとって決定的な意義をもつとされるのも、そのゆえである。形式として一つであるところの芸術作品が、内容的には決して一つのものとしてあり得ないということは、単に観照力の違いという文脈において考えらるべきでなく、享受者一人一人の体験がそれぞれ異なったものとしてあるということ、彼らの生きかたがそれぞれありようを異にし方向を異にしているということに基(もとづ)くと考えられねばならぬ。このようにして「感情より生じたものが、次には感情を、しかも同じ感情を惹(ひ)き起す。そこには、ただ程度の弱さがあるだけである。したがって、詩人の体験する過程は、読者あるいは聴衆の体験する過程とその種類において同じである。」(「詩人の構想力」)とディルタイがいうとき、それは既に大きな誤謬に陥っているといわねばならぬ。
 彼のおかしたあやまちは、第一に、感情より生じたものが、歴史の制約を超え階級の枠を超えて「同じ感情を惹き起す」と考えたところに、またそうした普遍人間的な感情の想定のもとに、美的体験の普遍性と超越的な追体験の可能を盲信したところに起因するものと考えられる。芸術的体験は、しかし超歴史的・普遍人間的な体験でなくして、却(かえ)って個人的・個性的な体験である。それは、社会的人間として行為し実践する個人の「感情を道程とする社会性の拡大」(ギュヨー・同上)なのである。感情を道程とするということは、日常的なものを道程とするということである。芸術は、日常性における生活の再組織であり、社会意識の拡充である。そのようなものとして、それは社会的であり、歴史の制約を階級の枠を超えることはできない。したがって、それはまた、単に美的体験というようなものとしてあることはでき得ない。芸術的体験は、人間の主体的な実践活動であり、そのようなものとして社会的な体験であるということができるのである。


         

 彼の芸術的認識のありかたを規制するものは、彼自身の日常的・社会的な実践活動である。それゆえに、作品のイデーを決定するものは、作家のまた享受者の日常的なものの見かた・感じかた・世界観であると考えられる。が、それにしても、世界観は実践活動のありかたを制約するものであると同時に、実践と共に動くもの・変化するものと考えられねばならぬ。さらにまた、それは認識活動の拡がりと深まりとにおいて、絶えず微妙に変化しつつあるものというふうに考えられねばならない。同様にして、彼の芸術体験(認識活動)は、同時に彼自身の世界観をより高いものに組織し、彼の社会的実践に大きく作用するものとなるのである。芸術の意義は、社会的規模において考えられねばならぬ。
 にもかかわらず、芸術的体験が単に美的体験として考えられ、芸術的享受即美的享受であるとされているのは、人々が無前提に芸術の目的を美にあると考えていることに基いている。美の解釈学は、こうした一般の常識に照応するものをもっている。既に指摘したように、現代の常識は、常識化された観念論にほかならない。そうした常識の支持、世論の支持において近代観念論美学の小集成としての美の解釈学は、美に対する一般の迷信をいっそう深いものにするにあずかって力あったものである。美は、芸術をして芸術たらしめるいのちである。芸術の生命は美である。芸術の社会的効用について疑う余地はないとしても、美を抜きにして芸術を論ずることは殆(ほとん)ど全くナンセンスにひとしい。このようにして、ギュヨーさえもが「芸術の究極の目的は、社会的性質の美的情緒をうむことである。」(同上)と考えた。このことは、後期の芸術社会学においても例外ではない。そこでは、単に、美は社会的なものであり、それは社会的なものとして歴史と共に変化するものということが語られているにすぎない。われわれは、ここで社会科学としての芸術学、芸術社会学の成立事情に触れておく必要があろう。

 芸術社会学が学としての形をととのえはじめたのは、精神科学としての芸術学(美の解釈学)の成立とほぼその時期を同じうしている。精神科学が不可知論の前提のものとに出発したとすれば、社会科学は、不可知論によって導かれた相対主義の泥沼を乗越え、まさにその名にあたいする実在論の立場に立つことによって、新たな発足を遂げたということもできるであろう。社会科学のパイオニアたちは、純粋に知性的な認識だけがもののまことに至る道であり、また実践と結びつくことによってのみ、合法則的な思惟の合理性が約束されるということを知っていた。そのことを彼らに教えたものは、古代・中世社会の総決算としての近代の資本主義的現実である。ところで、そのような思考様式・認識形式の原型を提供したものが、実は却ってオーソドックスなドイツ観念論哲学であったことも、こんにちでは既に常識となっている。精神科学は、それの実質的な役割において、社会科学の対立物として生まれたものだとさえいい得るのである。しかもそれは、社会科学的認識を否定的に媒介したものでなくして、却って不可知論にまで逆行し、それを唯一の盾とするところの世界の神話的解釈にほかならなかった。それは、所詮小器用に纏(まと)められたドイツ古典哲学の縮小版にすぎなかったし、しかもそれの小集成の過程において、近代観念論哲学にとって最も本質的な――或いはそれの唯一の取柄(とりえ)であるところの――批判精神(社会的関心)を脱落せしめたということは生の哲学にとって特徴的である。
 ともかくも、このようにして、美の解釈学とオーヴァラップしつつ、芸術学は一方に社会科学としての始発点を与えられたのであった。けれど、何よりも政治・経済機構の史的究明に当面の問題を見出さざるを得なかった社会科学の成立・発達の事情は、長くそれを未開拓の分野として放置するの結果を招いた。芸術社会学に関するアルバイト[Arbeit 研究]は、社会科学の徒にとっては殆どつねにネーベン・アルバイト[Nebenarbeit 副次的な仕事・研究]であり、それはハウプト・アルバイト[Hauptarbeit 主要な仕事・研究]たり得なかった。まれにこの部面にハウプト・テェマ[Hauptthema  中心的な主題]を求めた人があったとしても、基礎的部門の未発達がまたその出足をにぶらせる結果となったのである。
 芸術社会学の未成熟については、それらのことと結びついて、さらに二つの理由が考えられる。一つは、資本主義社会がそれに対して正当の市民権を与えることをこころよしとしなかったということであり、もう一つの理由は、対象の特殊な性質――芸術的体験の日常性――によってもたらされたものである。すなわち、芸術の表現が自足的なものでなく、享受者の観照において成立つという、それの準体験的な日常性のゆえに、芸術の自律性と永遠性とに関する観念論美学の教説が、人々の常識にマッチするものをもっているということである。そのことが、芸術社会学の発達を遅らせることに大きく作用し、また芸術社会学の未成熟が、そうした悪しき常識の温存を可能ならしめる結果を導いたといえるであろう。
 芸術のアウトノミィー[Autonomie 独立、自律性]に関する理論を裏づけるものは、美の観念についての形而上学的な理解である。形而上学的要請にしたがって美は永遠の今に位するものとされる。芸術社会学が、自らの理論的体系をうち樹(た)てるべくまさにこのような美の観念と闘わねばならなかった。そして、やがて美をきっぱりと芸術の国から追放するに至った。けれど、それを追放した結果は、芸術作品は歴史と時代を語る単なるモニュメントにすぎぬものとなった。芸術作品を他の文化財から区別するものは何であろうか。このようにして、美は再び迎えられて芸術の国の王座に着くことになった。尤もそこでは、美は歴史と共に変化する相対的・可変的なものとして規定し直され、ギュヨーにしたがって、美的情緒は社会的性質のものとされた。このようにして、貴族芸術には貴族芸術固有の美があり、市民芸術はそれと異(ことな)る市民芸術固有の美をもつと考えられた。けれど、それを超越的なものと考えようと、可変的なものと考えようと、芸術的体験を美的体験として思念する限り、芸術は結局永遠の子とされねばならぬ。なぜなら、芸術的体験を美的体験と見做(な)すことのうちに、既に美の観念に対する神秘的な解釈が秘められているからである。
 ところで、社会科学は、或(ある)意味からすれば、形而上学的生命概念の否定のうえに成立したということもできるであろう。芸術社会学も、社会科学の一翼として当然そのような前提に出発すべきであった。けれど、芸術社会学が自らの論理的基礎として要請したものは、美的体験以外のものではなく、また不可知的な美の観念以外のものではあり得なかった。このようにして、社会科学の全分野のなかで、ひとり芸術科学だけが素朴実在論的認識の泥沼のなかに取残される結果となったのである。そして、この禍根がなお現代において取除かれ得ていないという点にわれわれの関心があるのである。
 芸術社会学の未成熟を導いた要因は、同時に精神科学としての芸術学の発達を促すに大きく役立った。近代の市民社会は、これに市民権を認めるはもとより、選良としての地位をさえ付与したのであった。特権階級の代弁者であるこの選良は、芸術が有閑的な精神貴族の独占物であることを宣言し、人民大衆を芸術の国から締出しにしたのである。そのことによって、芸術が民主主義革命の側に赴くことを阻害すると同時に、芸術に対する民衆の関心をひたすら精神貴族的な芸術愛のなかにつなぎとめようとしたのである。
[ ]内は、このサイトに掲載するにあたっての注記です。


熊谷孝 昭和20年代(1945-1954)著作より熊谷孝 人と学問