源平盛衰記論序章――芸術批評の規準にふれて――      熊谷 孝
  
雄山閣発行「古典研究」4-6(1939.6)掲載--- 

  *漢字は原則として新字体を使用した。 *引用部分以外は現代仮名遣いに替えた。 *傍点の部分は太字・イタリック体に替えた。
*明らかに誤植と判断できるものは訂正した。 *難読語句(文字)には適宜、読み仮名を添えた。


            一

 「平家物語」に対する世の高い評価にも拘(かか)わらず、「源平盛衰記」は、これまで、杜撰(ずさん)・冗漫・不透明等々の故を以て、いやしめられ貶(おとし)められ、一般に芸術的価値(芸術品としての価値)に乏しい作品だとして扱われてきた。が、そうした批難も、あながち理由のないことではなかった。これはほんの一例だが、「君すめばこゝも雲居の月なれどなほ恋しきは都なりけり」の歌が、前の部分では(巻第三十三「平氏九月十三夜歌読みの事」)平時忠の詠吟だとされているのに、それが後の方になると(巻四十一「屋島八月十五夜」の条)左馬頭行盛の作として挙げられていたりする、といった始末なのだから。それに、「平家物語」の緻密な作品構成に比べて、遥かに構想的な纏(まとま)りを欠いた作品であったのだから。その意味では確かに「平家物語」に一歩も二歩も譲らねばならぬ作品であったのだ。
 だから、「平家物語」の一異本たるこの作品は、論者によって次のように定位されなければならなかった。――それは、「既存の作を其まゝ見ゆるす雅量もなく、全く新しく創作する自信もない小文才」のさかしらによるものであり、「新たに作るには才の足らぬ添削屋によつて、読む為めの慰み本として、屋上屋を追加された」結果の所産である、という風に。つまりは、あらずもがなの製作だという風に。
 けれど、果してそうとのみ言えるだろうか。少(すくな)くとも一個の古典作品論たる「盛衰記」論が、単なるこの種の創作心理の追求や、作家の人格鑑賞に了(おわ)ってよい筈(はず)はない。第一、作家の心理をとり上げるにしてからが、それを主体的な理解の域に止めてしまうことは、殆(ほとん)ど無意味にひとしいだろう。それが純然たる創作ではなくして「平家物語」の増補版であるということ、しかも破綻だらけの作品であるということ等々から、作家の人柄や製作の心理的動機などについてあれこれ思いを廻らし、何分そうした「小文才」のことだからご覧の通りのものしか書けなかったのだ、なぞと言ってみた処で所詮なんの役に立つものでもない。それはつまる処、作品の在り方から割出した作家の性格的なものによって、逆にその作品を「説明」するというだけのことだろう。現象の説明原理を現象そのものに求めるという、ナンセンスな反復作用にすぎないだろう。(こうした空回りが、実は偶然論の建前(たてまえ)に由来するものであることや、文芸現象を作家の個人的偶然的条件によって説明することの、つまり偶然と必然とを機械的に対立させることの、ナンセンスな所以(ゆえん)について、更にまた人格・素質なるものが本来ディナーミッシュな[dynamisch 動的な]性状のものであり、一般に迷信されているように、魔術的に人間の内奥に繋博(けいばく)されてあるものではない、という点について、筆者は前に「西鶴論断章」――国語と国文学・十二年三月号――、「洒落風俳諧の史的位置」――俳句研究・十二年四月号――などの稿に触れる処があった。)
 だから、「雅量」の有無、「自信」の有無、さては「才の足らぬ添削屋」といった、固定的・抽象的に思念された(いいかえれば、言葉に抽象された)作家の性格的なものによって作品を解釈 する代りに、まずその作家が「既存の作を其まゝ見ゆるす」ことのできなかった理由を、主体的にではなしに客観的に歴史の立場において理解すべきであったのだ。いいかえれば、「平家物語」諸本の存在にも拘らず、その増補訂正版「源平盛衰記」が一般に要求せられるに至った間の事情を、歴史的必然的な関係のうちに求むべきだ、ということなのである。それにまた、この作品を冗漫だといい不透明だというのは、外ならぬ現代に生きるわれわれの鑑賞を規準とした言い分なのであって、作品の製作に際して予想された読者(「盛衰記」本来の読者)のそれではない、という点が反省されなくてはなるまい。そこでは、過去の読者の受取った作品の表現と、現代の鑑賞主観に立脚せるわれわれが読みとった内容(表現)との質的な相違は全く顧みられていないのだ。その揚句は、古典に対する私人的な感想を語ることを以て「評価」に代用しようとする、いや古典の鑑賞 イコール古典の評価 だとする錯誤に知らず識らず陥っていたのである。自己の鑑賞を規準として物を言う限り、いいかえればそれの芸術的価値の評価を目的とする限り、各人各様の鑑賞体験の異(ことな)りに応じて、その数だけの「盛衰記」論が可能とされるであろう。(なぜなら、芸術的価値とは、一般の承認を経た見解にしたがえば、「豆腐には豆腐の価値」がありアスピリンにはアスピリンの価値がある如く、芸術作品だけがもつ芸術品としての価値 であり、それは鑑賞によってのみ理解され得る所のものである、というのだから。)現に或(ある)論者などは、「盛衰記の文学的価値を」「畢竟(ひっきょう)琵琶法師の語り本に過ぎない」「流布本〔平家物語〕以下に下げて見るなどといふ説は、取る事の出来ないものである」と言っている位いなのだから。
 われわれは、われわれの「盛衰記」論をしてこうした掛合(かけあい)に了らしめたくない。で、まず本論に入るに先立ち、古典評価の規準に関する基礎的な問題を、当面の要求に沿って整理しておくことにしよう。


            二

 尤(もっと)も、対象が文芸作品でないのなら、若(も)しくはそれを単にその時代を理解するための史料として役立てようとするのなら、問題は一応――飽くまで一応だが――別である。けれど、古典を一個の文芸作品として、文芸史の文脈において択(と)り上げようとする限り、当時の読者の鑑賞が蔑(ないがし)ろにされてよい筈(はず)はない。文芸作品――一般に文芸作品は、享受者を俟(ま)ってはじめて芸術作品たり得るのであり、その表現を身を以て 理解することは、作家と体験を同じくする(ヨリ正確にいえば、共軛(きょうやく)する生活局面に生きる)者にとってのみ可能だからである。
 早い話が、こうだ。洒落というものがある。洒落が洒落として成立ち得るためには、話者と聴者との間に体験の融通性が予想されなければなるまい。共軛性を欠いた場合、それはもう洒落にはならない。「洒落のわからぬ朴念仁」という言葉はこの関係をいいあらわしている。冗談を真に受けられて怒られたり、洒落が通用しないためトンチンカンな結果になったり、というようなことは、われわれの日常屡々(しばしば)経験するところである。文芸作品に対する鑑賞にも、やはり同様の相対性があるのだ。洒落がそうであるように、文芸の表現も決して自足的なものではない。それだけでは単なる音の組合せか文字の羅列にすぎなかった表現の媒体(形式 )が、読者の体験の裏づけによって内容 を与えられるのである。同じ一つの洒落が、相手によって受取り方を異にし内容を異にするように、同じ文芸作品も、読者にその内容づけを異にするのだ。(文芸の表現媒体たる言語そのものは、もともと自己の体験を対者に伝達するための、いいかえれば体験の共有財化のための道具なのである。道具としての 音声の使用なのである。表現者の体験〔認識〕が、そのまま内容として言葉〔形式〕の中に封じ込められているなぞと考えることは、言霊信仰でも持ち出さない限り、到底不可能なことである。)
 それでは、文芸の表現は甚(はなは)だ頼りないものではないか、と読者は言われるかも知れない。が、事実、表現者の意図するところが、鑑賞者の表象として喚(よ)び起されるとは限らないのだ。体験に共軛性がなければ全くそれきりなのである。たといそれが技術的に成功の作であったとしても。いや、成功の作であればこそ、文芸は文芸として独自の存在意義をもち得たわけではなかったか。芸術が科学に対して生きた全体だなぞと言われているのも、実はこうした点からだろう。
 芸術の与える全体感、それはも早(はや)明かな如く、われわれの日常体験の全体性に根ざすものである。その限り、芸術性と日常性とは、方向的に同一のものだと言うことができる。では、体験の全体性とは何かということだ。――体験は、体験として体験される限り、それだけで纏まった全体的なものなのだ。(色盲は、自分ひとりでいる限り、自己の知覚的欠陥を意識しない。)体験としての体験では、時空一元、自己の立場というものさえ自覚されていないのが普通である。だから、主観的には全く全体的・具体的であるけれど、それは所詮自己の一身上の立場での(しかもその立場をさえ自覚していないところの)「感じ」に過ぎないのであって、少しく客観的にみれば、或場合には時間の軸を、また或場合には空間の軸を脱落した、充分抽象的なものだということに気づくだろう。謂(い)わば、無自覚の抽象なのである。
 文芸は、体験の言葉として、その融通性に隠れ、そうした体験の曲面から曲面へと全体感を以て迫りゆくのである。つまり、作家の体験の曲面に投ぜられた世界像は、それを平板上――客観的な座標軸――に校正されることなしに、直接、その歪みをもったまま読者の曲面の上に投ぜられるのである。かくて、言葉の融通性と読者の既得体験の融通性とが鑑賞の可能な範囲を規定し、言葉の規定性と享受者の体験の確かさとがその受取り方の正しさを保証することになる。したがって、言葉を媒材とする芸術芸術だといわれる文芸も、最も理想的には、その言葉の言語性の否定でなければならぬのだ。言語本来の図式的な概念性が、読者の表象力によって覆われ得るよう、言葉の融通性の面が活用されねばならぬ、ということなのだ。部分と部分との相剋によって、言葉の単なる規定性を止揚し、そこに全体的な表象を表現しなければならぬ、ということなのだ。
 そこで芸術の表現が読者の鑑賞を俟って、つまりそれとの力学的な関係を結んで、はじめて完結するものであることや、(補注)それの内容づけは、一に読者の生活の在り方によって規定されるものであること、ひいては内容を形式の中に魔術的に封じ込められているものだとする、従来の形式・内容論の無意味なことは略々(ほぼ)明かにされたろう。こうした点に思いを致すなら、私が在来の「盛衰記」論に不信を唱える理由もおのずと明かにされるだろう。
 (補注) ここで当然、現実の体験と芸術の体験との関係、つまり芸術は自然マイナスxかプラスかの、アリストテレスこのかたの課題に答えねばならぬわけなのだが、紙数の制限から省略する。唯シェマティッシュ[図式的、概略の]ないい方で一言しておけば、それは自然の与える印象からxだけ差のある印象を与えるような媒体をつくることが芸術の表現だということである。

            三

 で、「盛衰記」を客観的に正しく理解するためには、――たといそこにわれわれの鑑賞体験の裏うちは必要であるにしても――われわれ自身の「一身上の立場」からの主観的な鑑賞は切り捨てられなくてはなるまい。そうした上で、当時の生活曲面を算出し、その曲面の上に投げかけられたものとしての作品の姿を浮びあがらせ、それを科学の平面の上に投影したものを更にもう一度われわれの曲面に投げかけることなのである。つまり、中世人の生活曲面に投ぜられ、その特定の場において力学的な関係を結んだ「盛衰記」は、「形式」として固定したまま今日に伝承されているため、それを直接われわれの曲面に投影したのでは、歪みが二重になってしまうから、それをいったん歪みない科学の平面(座標軸)に映し出した形で相互に伝え、それを更にわれわれの曲面に投影することによって、作品に対するわれわれの主観的な鑑賞体験の歪みの補充にまで肉化されねばならぬ、というのである。(だから、生は生みずからに帰ることによってのみ、客体は主体化されることによってのみ理解され得るとなし、そこに追体験なぞという神懸かり的な方法を要請する、かの解釈学流のいき方は言わずもがな斥(しりぞ)けられなければならないのだ。自分一個人の一身上の確信を、時空を超越して普遍妥当的に人類一般に通用するものだとする如き、その独善的な思い上(あが)りこそ、実にディルタイこのかたの由緒正しい科学論の特徴であったのだ。)
 作品の価値評価も、こうした点への反省に基(もとづ)いておこなわるべきは勿論(もちろん)のことだ。再三繰返してきたように、(文学・昭和十一年九月号・同十二年四月号所載の拙稿参照)、文芸史における評価も、自然科学の歴史とひとしく、まず或る対象を問題とすることの現代的意義の評価――この点においてそれは文芸時評と交流する――にはじまり、それの歴史的意義の評価に了(おわ)る、唯その一つの軸に沿ってのみなさるべきである。問題は、文芸という社会現象が、最も能率よく歴史の健(すこや)かな発展にプラスし得るよう、現代文芸を可及的に「在るべき様の文芸」の在り方にまで高めることにあるのだから。作品の評価ということも、いわばそうした実践的課題に応えるための手段に外ならないのであって、評価することそれ自体が決して目的ではないのだ。(評価すること自体自己目的々なものにまで昇天してしまえば、評価の規準なども早(はや)問題ではない。読者は茲(ここ)で、リッケルトの価値哲学の体系が、評価の軸を切捨てることによってのみ可能であった、という点に思いを致して戴きたい。)だから、「芸術的価値」の有無(われわれの言葉に翻訳すれば、一身上の立場での鑑賞が齎(もた)らす「感動」の分量の多い少い)によって作品の席次を決めたり、作家に功労賞を捧げたりすることは、せいぜい退屈をもてあつかっている閑人共に任せておけばよいのである。
 そこで、評価の規準も決めないでおいて(いいかえれば、軸も目盛もない奇妙な物差を使って)何でもかでも背競(せいくら)べさせようとすることのナンセンスなわけは明かにされたろう。だから、「平家物語」と「源平盛衰記」とを並べて、いきなりどっちが優れているかなぞと問うのは、はじめから問う方が無理なのだ。(子供の質問には得てしてこの種のものが多い。陸軍大将と文部大臣とどっちが偉い?といった式の。)「平家物語」の緻密な構成に比べて、後者の粗雑であることは争えないけれど、だからと言って、歴史的意義への検討も忽(おろそか)にした儘(まま)、「盛衰記」の方が劣る、なぞとは言えない筈である。こういう理論の通用するのは、学齢以前の子供に対してだけなのである。
 だから、この種の気まぐれな優劣論はも早論外であり、そのそれぞれの作品が果した歴史的な役割の評価、そこにわれわれの問題の焦点があるわけなのだ。八坂本なり流布本なりの存在にも拘らず、「盛衰記」への展開を触発したところの、根本的契機の解明に直接の目標はあるわけなのだ。で、私は以下において、「盛衰記」を流布本平家物語と対比させながら、これらの関係を明かにしようがための準備にとりかかろうとするのであるが、茲に問題になって来るのは成立年代に関する事どもである。


            四

 まず「平家物語」の成立年代から話を始めると、その編次において原本「平家物語」の面影を伝えていると考えられる八坂本の記載を根拠として、その原本は「実朝薨去(こうきょ)以前」源氏将軍時代に成立したものだとされる人に山田博士があり、それに対して「博士の見解は八坂本に藤氏将軍の事が見えないことを根拠として立論されたものである」けれど、仮りに「物語は藤氏将軍設置以後に作られた」として、「その藤氏将軍の事は物語中には書かなかつた」場合も「考へられる」ではないかと反駁し、明確な「理由の提示されぬ限り、博士の所説は容易に信を措き難い」として、寧(むし)ろ「藤氏二代将軍の間の作といふ結論」を採ろうとして居られる人に後藤丹治氏がある。が、一般の見解は前者に与(くみ)するもののようである。たとえば、五十嵐博士は「藤氏将軍の事の少しも暗示されてゐない異本の存在によつて平家物語の最も古い一本は、建保(一二一三年――筆者註)から承久の乱前までの数年の内に出来たものと推定して居られるし、友枝照雄氏も、「平家物語は承久以前に成立し、藤原将軍の頃に増補せられ」たとする山田博士の「推断は、動かし得ない」と言って居られる。
 そのいずれに随(したが)うべきかは速断を許さないが、山田博士が、延慶本巻二の
故中殿基実公御子二位中将殿基通公と申は今の近衛入道殿下の御事也
という記載に拠って、此処にいう『今の』が、執筆当時を示しているかに読みとられる所から、基通公祝髪の承元二年(一二〇八年)以後の筆になるものであること、しかも基通公薨去以後であれば殊更『今の』という必要はないわけだから、基通公薨去の天福元年(一二三三年)以前の製作と見らるべきであること、更に上記八坂本に拠る帰結と相俟って、承元二年以後承久元年に至る十二年間の作とすべきだと述べて居られるのは、寔(まこと)に当を得たものと考えられる。しかしまた一方、後藤氏の所説も論理整然たるものがあり、氏の推定を覆(くつがえ)すだけの資料を求め得ない限りは、承元二年以後天福元年(一二〇八――一二三三)に至る間の、つまり源実朝時代から藤原頼経時代に至る間の作と暫定(ざんてい)しておくの外はないであろう。
 で、兎も角『鎌倉将軍藤氏二代の中に作れるなるべし』という「筆のすさび」説や、「筆のすさびは説明は不充分であるが、その結論は正し」いとされる後藤氏の所説は、少くともその『藤氏二代の中に』という部分を「源実朝・藤原頼経二代の中に」という言葉を以て置き換えらるべきではあるまいか。更にまた、茲(ここ)に推定せられる原本平家物語の作品としての在り方(後述)からすれば、承久の乱以前の作と見做(な)すことの方が穏当のようである。
 次は、流布本並(ならび)に「盛衰記」の成立についてであるが、便宜上まず「盛衰記」の方からはじめよう。
 「盛衰記」の成立年代の考説として信拠するに足るのは、夙(つと)に後藤氏も指摘して居られるように、「湯土問答」の次の条である。
信濃前司等カ 書シ時ヨリハルカ年ヲ経テ後 宝治二年三年(ママ)建長元年 此三ヶ年ノ中ニ書シモノト見エタリ 如何ナレハ 宝治元年巴(ともえ)女ノ 中国ニテ九十一歳ニテ死セシコト 又順徳帝ヲ此書ニ 佐渡院ト記セルトニテ 宝治建長ノ三ヶ年ノ中ニアル事 思ヒテ可知也
巴女ノ死セシ年号ハ 注シ付サレトモ 元暦元年木曾殿討死ノ時 巴女二十八歳ナル由 此書ニ見エタリ 是ヲ以テ九十一年ヲカソフレハ 宝治元年ニ死タル也 順徳帝 仁治ノ年 九月ニ崩シ給フ 佐渡院ト尊号ヲ奉ラレシ 然ルニ此書ニ佐渡院トノミ記タレハ 順徳ト尊号ナキ以前ニ書タルコト明也 夫ノミナラス 文暦ニ撰ハレシ新撰 寛元三年ニ入道アリシ頼副〔頼経〕ヲ 入道将軍ト記シタル如キニテ 盛衰記ハ後年ナルモノ 分明ナリ
 後藤氏の良心的な研究によって、いよいよその史料としての確かさを保証されるに至った、この書の記載する所に従えば、「盛衰記」の成立は、結局宝治元年(一二四七年)以後建長元年(一二四九年)以前だということに帰着する。少くともその巻末に後鳥羽院の謚号(しごう)を記載してある点から、後嵯峨帝以後ということだけは言える筈である。
 次いで流布本平家物語についていえば、「六代切られ」(流布本平家物語・巻第十二)の条下に、文覚が二ノ宮を位につけ奉ろうとしたことや『承久にむほんおこさせ給ひて』とあることによって承久以後の作であること、しかも「後鳥羽院」とあることから、更にその製作年代を、謚号を奉った仁治三年(一二四二年)以後と規定することができること等、すべて山田博士の説かれる如くである。が、若(も)しも「湯土問答」の考説(前述)を妥当だとするなら、そして定説にしたがい流布本平家物語が「盛衰記」以前に作られたものだとするなら、当然その成立の年代を「盛衰記」の製作される以前――宝治以前と規定することができ、藤原将軍の廃止を限界線として設けられた、博士の「建長四年以前」という規定からいっそうその範囲を狭めることができ得るわけである。
 以上、原本・流布本・盛衰記等の成立年代についての諸家の説を出来るだけ簡略に掻い摘まんで紹介しながら、門外漢の強味(?)、恥さらしな素人意見を一二さしはさんでみた迄であるが、それでともかく諸本の年代的な位置や、したがってそれらを取扱う際の基本的な観点だけは略々(ほぼ)明かにされただろう。


            五

 「源平盛衰記」をも含めて、「平家物語」も基調をなすものが、無常因果の宗教的世界観であることは、殊更とり立てて言う迄もあるまい。『祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響あり。沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理を顕す。奢れる人も久しからず、たゞ春の夜の夢の如し。猛き者も遂には滅びぬ、偏に風の前の塵に同じ。』という開巻第一章は、いわば全篇の基本的構想を端的に示すものであり、奢れる人・猛き者も遂には滅びゆく、人間生のはかなさが、平家興亡の姿においてゆくりなくも描かれてゆくのである。しかも、かかる盛者必衰の理法が、現実には『旧主先皇の政にも随はず、楽を極め、諫をも思ひ入れず、天下の乱れん事をも悟らずして、民間の憂ふる所を知らざ』(巻初)る人間の場合において、もっとも具体的な表現をとるものであることが縷説(るせつ)されており、またそうした秩序にしたがって事件は織りなされ、人物の位置づけはおこなわれてゆくのである。たとえば、清盛・義仲の興亡は、そのような場合の典型として挙げられているのであって、前者にあっては重盛、後者においては今井兼平がそのそれぞれの訓戒者として配置され、恰(あたか)もこの理法を語ろうがために登場するかの如き観をさえ呈している。また、『心も詞も及ばれ』(巻初)ぬ迄の清盛の悪行こそ、やがて『三位禅師(ぜんじ)斬られて』『平家の子孫』『永く絶え』(「六代斬られ」)るに至る根本的な因をなすものであるとして、平家の滅亡は、いわば最初から予定された運命として扱われているのである。既定の宗教的観念によって、人間の生をはかなきもの・無常なものとして把(とら)え、そこに因果応報の理法の顕現を見出しているのである。「平家物語」は、だからその基本的な身構えの点では、所詮アイデアリズムの方法による作品だった、と言わなければならぬ。
 ところで、そうした否定的な身構えにも拘らず、「平家物語」の作者は、一方には現実の最も典型的な面をリアルに描こうとし、また事実描き得ているのである。現存「平家物語」諸本の在り方は、明かにそのことをもの語っている。謂わばそうしたリアリスティックな態度、生きた現実面に対するリアルな客観描写は、外でもない、合戦の場における武人の姿の描きにおいて、或は既成の権威・権力にたち向う新興武士の(乃至(ないし)は武士的なるものの)果敢なる闘争の姿のそれにおいて、ヨリ具体的な・最も特徴的なあらわれを示しているのである。合戦の描きについては言わずもがな、「殿上の闇討」における忠盛の圧倒的な勝利の姿、「殿下(てんが)の乗合」における平家の『兵(つわもの)ども』の『御摂録(ごせつろく)』に対する『奇怪』なる『振舞』等々々。因(ちなみ)に、後の例についてみれば、『常の御出よりはひきつくろはせ給ふ』殿下の行列は、『六波羅の兵ども』三百余騎にとり籠められ、『今日をはれと装束したる』前駆(せんぐ)・御随身(みずいじん)どもも『さんざんに凌轢(りょうりゃく)』され『一一に皆髻(もとどり)を切』られるのであり、かくして『御車の内へも弓の弭(ゆはず)つき入れなどして、簾(すだれ)かなぐり落し(中略)さんざんにしちらして、悦(よろこび)の鬨(とき)をつくり、六波羅へ』凱旋(がいせん)する、むくつけくも逞(たくま)しい武人の姿は殆ど剰(あま)す処なくリアルに写し出されている。一方無力化せる過去の「権威」――摂録基房公自身の姿は『束帯の御袖にて、御涙を抑へさせ給ひつゝ還御(かんぎょ)の儀式あさましさ……』という風に、その弱々しい姿を浮彫にして見せているのである。尤(もっと)も、作者は、『これこそ平家の悪行の始なれ』として、明かに『猛き者も遂には滅び』ゆく平家滅亡の原因の一つに数え挙げているのであり、狼藉(ろうぜき)をはたらいた『侍ども、皆勘当』し、資盛を『伊勢国へ追ひ』やった重盛の行為に絶大な好感を寄せつつ、『この大将をば君も臣も御感ありけるとぞ聞えし』という風に結んでいるのである。そこに旧き権威へのせめてもの心遣をみせているのである。
 そこで次のように言うことができる。流布本「平家物語」十二巻は(及び私の見た限りでの同種の諸本は)、その各部分を有機的な繋りにおいて、つまり全篇構想の上から、観察する限り、無常因果の世界観がその基調をなしていることはいい得るとしても、各巻・各章を一応独立した部分として取扱う場合、最小限その一章の範囲内においては、この作品に基本的な世界観とはおよそ対立的な世界像をさえ映し出している例が少くない、ということなのである。事実それは、志田義秀博士も言われたように、「各事実〔各部分〕は並立的な性質を持」ち、「連続的な事実〔同上〕の羅列に過ぎ」ず、結局「全体としての有機的な関係の興味よりは局部の興味を感ぜしめるものになつて」さえいるのだ。(尤も、この言葉は軍記物一般について言われたものであるが。)けれど、それはおそらく「平家物語」の原型が示す作品の在り方とはかなり大きな距(へだた)りをもつものなのであって、その原本が山田博士の推定して居られる如く三巻本であり、各巻それぞれ清盛・義仲・義経を中心とする作品構成によるものであったとすれば、「羅列的性質を有するに至つたのは、所謂語本(かたりぼん)として整理されてからの事であつ」た(友枝照雄氏)、と見らるべきであろう。
 で、今、山田博士の推定を拠り所として、叙上の矛盾――たとえば「殿下の乗合」などの章においては内部的な矛盾として露呈されるところの――に思いをめぐらせば、原本「平家物語」は、各巻各章相互が有機的な連繋を保ちつつ、しかもそのそれぞれが『盛者必衰の理を顕す』ものとして、作品全篇の基本的構想に緊密に・不可分離に結びついていたかに考えられる。尤も、これは、理想像の彫刻にすぎないかも知れぬ。現実の典型的な面に取材した「平家物語」において、上記の矛盾を示さないというようなことは、その作家の身分・教養・環境などからしても、あり得ないことなのだから。(この点後に詳しい。)しかし推測の方向にズレがないとすれば、「平家物語」が、原本の示すような在り方のものから流布本のそれにまで書き換えられ、増補されていったことの客観的理由はどこにあるのだろう。それが次の問題である。が、この問に答えるに先き立って、われわれは先ず、小論の直接の対象である「源平盛衰記」を茲で前景に出さなければならぬ。なぜなら、四十八巻本の「盛衰記」に至っては、その夥(おびただ)しい量的な増加とともに、作品の在り方を、も早異質的なものにまで変えて了っているからである。いいかえれば、流布本平家物語にあっては兎もかく基調をなしていた筈のその無常観が、「盛衰記」では全篇の作品構成に抜き差しならぬ程、それほど明瞭には主張されていないこと、言葉に抽象される限り同じでも、「無常観」そのものの内容に性格的な相違の窺(うかが)われること等々の故である。(かかる変容が、一般に「俗悪化」の一語を以て片付けられて来たことについては繰返すまい。)
 そこで、次節においては、流布本平家物語と「盛衰記」とを二三の点において比較しながら、「平家物語」が、原本から流布本へと、更にまた「盛衰記」へと変容されていった、その歴史的・客観的理由について考えてみることにしよう。こうした対照が、自然「盛衰記」の特質に触れることにもなるだろうから。


            六

 無常観が、「盛衰記」に至って、も早抜き差しならぬ底(てい)のものではなくなって来ている、という、その質的な変化が、「平家物語」に対する――直接どのテキストを択(と)り上げたかは別問題とするも――増補者(「盛衰記」作者)の批評意識によって齎(もた)らされたものであることは言う迄もあるまい。われわれは、そこから、作者自身に本来的な態度の如何なるものであったかを導き出すことはできる。けれど、忘れられてならないのは、作品の表現を具体的・積極的に規定するものとしての読者大衆の存在である。芸術の表現は決して自足的なものではないこと、芸術作品は享受者を俟(ま)ってはじめて芸術作品たり得るものであることなどについて語った、第二節の叙述を想い起して欲しい。承久の乱を経ていよいよ封建武士的生活体験を深めつつあった時代が、旧い型の「平家物語」に満たされないものを覚えてきていたことは、あり得べき必然であり、漸(ようや)く文芸への道を開放された武士階層が、複雑な技巧による作品構成には背を向けて、寧(むし)ろ素朴な技巧による文芸作品に自らの享受の対象を求めていたことは想察に難くないのである。(延慶本に次いで、長門本がこの時期において成立したという一般の推定は、私の結論をいよいよ確かなものにしてくれる。)「盛衰記」は、だから、かかる現実の要請にしたがって生れ出でた作品であった、と考えるのがいちばん穏当だろう。(「平家物語」が、原型の三巻本から六巻本、更に十二巻本へと変容されていく過程について同様のアナロジイが許されてよいのは勿論(もちろん)のことである。)
 だから、この量的な増加は、も早単なる量の問題ではなくして質の問題であり、しかも人々の言うが如く「改悪」とのみ断定し難いものがある。暫く、この点について考えてみよう。
 若しもその増補者が、流布本平家物語に於けるような深刻さを以て、無常因果の説法を「盛衰記」の世界に意図したのであったなら、それは一応技術的に不成功の作だ、と言わざるを得まい。けれど、繰返し述べてきたように、作品の表現――在り方を規定するものは享受者の生活内容だ、ということである。「盛衰記」の享受者層の中堅分子たる武士は、も早往年の武士身分ではない。武士的生活体験の深まりと共に、その独自的なモラルを武士道にまで形式化した頼時執権時代の武士なのである。上層武士間における禅宗への帰依についてみれば、当初においてこそ、その隠遁思想へと結びつく可能性をもっていたけれども、この時期においては、専(もっぱ)ら精神鍛錬の手段として、「護国家利衆生」の宗教として尊ばれていたにすぎない。なまなましい無常観など、もうそこに見出すことはでき得ないのだ。来世欣求(ごんぐ)・現世否定の宗教観念へと結びついていったのは、(守護地頭の設置以後・承久の乱を経て政治的・経済的に徹底的に打ちのめされた)没落宮廷貴族であり、高率の租税の過度の賦役の負担にあえぐ農民であって、武士身分の中からは僅(わず)かにその下層に属する一部が之(これ)に参加しているにすぎなかった。しかも、これら下層武士大衆たるや、その大多数は無学の徒に属するのであったから、この場合、計算の中に入れる必要はないのである。だから、「平家物語」において基調をなしていた、その無常観が、今や、「盛衰記」において、作品の奥底から滲み出る如きものとしては受取り難くなっているということも、あながち偶然ではなかったのだ。
 では、「盛衰記」の作者は、「平家物語」に対し、事実どのような批判のメスを振うことによって、読者大衆の要求に応えたであろうか。
 まず、それを流布本平家物語に示された製作態度との比較においてみてゆくと、眼につくのは、「平家物語」には有って「盛衰記」には無い記事のもつ、性格的な特徴である。たとえば、忠盛に関して次のように語られている部分である。
(前略) その頃、忠盛備前国より都へ上られたりけるに、鳥羽院「明石の浦は如何に」と仰せければ、忠盛畏(かしこま)つて、
   有明の月も明石の浦風に波ばかりこそよると見えしか
と申されたりければ、院大きに御感ありけり。やがて、この歌をば金葉集にぞ入れられける。忠盛また仙洞に最愛の女房を持つて通はれけるが、或時おはしたりけるに、この女房の局に、つまに月出したる扇を取り忘れて出でられたりければ、かたへの女房達、「これはいづくよりの月影ぞや。出で所覚束(おぼつか)なし」など笑ひあはれければ、彼の女房、
   雲井よりたゞもり来たる月なればおぼろけにてはいはじとぞ思ふ
と詠みたりければ、いとゞ浅からずぞ思はれける。薩摩守忠盛の母これなり。似るを友とかやの風情にて、忠盛もすいたりければ、かの女房も優なりけり。(「鱸」)
 
 このエピソードが「殿上の闇討」の後を承けて、しかも直接それに繋(つなが)る部分に定位されてあることを思えば、単なるエピソードとしてのみ読み過すことはできまい。猛き武夫の優雅な一面を描いたもの、――そういう言葉に無論間違いはない。けれど、それではなぜ、此処にこうした話題が提供されているのだろう。
 少し勘ぐり過ぎた言い方のように聞えるかも知れないが、それは結局、貴族プロパアな観念・知識・教養のすぐれて偉大なる所以(ゆえん)を語ろうがためのエピソードなのである。「殿上の闇討」の章において、新興武士の全面的な勝利を約束するかの如く颯爽(さっそう)登場せしめられた忠盛は、けれど此処に至っては、即席に和歌の一首も詠じ得る迄の貴族的教養に教養づけられた人間として描かれているのである。貴族的教養に屈服した忠盛――と言っては言い過ぎかも知れないが、少くともそうした教養の所有者たる一面をもそなえているが故に、全人格的に礼賛されてよい忠盛、という風には描かれているのだ。尤も、この主張は、も早言葉の裏に秘められて、一見打ち見たところ、それこそ武人忠盛の優に雅しい一面を点描したかにすぎぬ形相を示しているのではあるが、いわばそうした描きに、滅びゆく貴族へのせめてもの心遣を示しているのである。だからこの一挿話は、上記「殿下の乗合」倶共(ともども)「平家物語」の矛盾性を最も端的に露呈する一篇であったのだ。
 新興武士の典型忠盛を、その貴族的教養の面において描かずにはおかない態度、それはリアリズムに徹して、歴史の進展をあるが儘に凝視しつづけることには堪え得ない、中間者的な彼ら平家物語作家の世界観的立場が齎(もた)らすところである。それは謂わば作家の内にひそむ世界観的矛盾の、彼らの内部生活を攪(か)き乱す世界観的相剋の、おのずからなる表出に外ならなかった。所詮は因習と伝統の支配する社会――宮廷貴族の社会をその原郷とする、彼ら作家たちの世界観が、その最も基本的な点において現実否定的なものであったことは極めて自然である。が、彼らは、出家・隠遁という形式によって、一応は 自らの原郷を否定し去っている。が、しかし、彼らがそうした隠遁生活に徹し得なかったことも亦(また)ひと皆いうが如くである。にも拘らず、彼らがかかる生活面の切り換えを行うことによって、今や古き自らへの(ひいては貴族生活そのものへ)の批判にたち向う可能性を与えられたわけである。しかも、その隠遁生活たるや、極めて徹底を欠いたものであり、俗世間との交渉を断つはおろか、物語製作への意欲を捨て得ないほどのものだった。だから、この「隠遁」の生活は、同時に彼らを歴史的現実へと、時代の積極面へと結びつける可能性をも条件づけたのである。が、それは一方には自らの原郷への復帰を意味するものであった。「平家物語」は、そのような条件の下に生れ出でたのである。この作品を貫く矛盾性は、だから作家を主体としていえば、新しい立場には移行し切れず、古きモラルにも固執し得ない、貴族階層出身作家の、内なる苦悶の表出だった、と言うべきである。
 で、話は前にかえって、「盛衰記」におけるこの種の記事の除外は、当然貴族的教養の、ひいては貴族的観念の否定だったと言わなければならぬ。「盛衰記」においては、武人の典型は、も早貴族的教養の持主たることを必要としないのである。却(かえ)って寧ろ、ヨリ以上に武士的な性格をそなえた、武士的なモラルに貫かれてある人物たることが要求される。すなわち、平家物語の「殿上の闇討」の部分にあたる「五節の夜の闇討」の条においては、前者に比べてヨリ積極的に忠盛の果敢な行動を描き出しているのであるが、それはまた公家の怯懦(きょうだ)へのさげすみを言いあらわすことによって、いっそうその表現のリアリティーを確保される。たとえば、当夜の『闇討の張本』であった経房卿自身、既に忠盛の一喝に遭って卒倒するの醜態を演じ、助け起された後まで『臆病の自火に攻められて絶え入りたりけるにや』なぞと『戦(わなな)く戦く弱々しき声』で言うのである。「平家物語」に見られるような、滅び行くもの(過去の権威)への細かな心遣なども早そこに見出すことはでき得ないのだ。
 こうした「平家物語」と「盛衰記」との相違は、横笛・滝口の恋物語、「土佐房斬られ」の事件、鼓判官の始末譚その他における両者の取扱い方の上に見受けられる所であるが、それを今「義経行家都出づ」の条(「盛衰記」)について確かめておこう。
(およ)そ義経京中守護の間、威ありて猛(たけ)からず、忠ありて私なし。深く叡慮(えいりょ)を背かず、遍(あまね)く人望に相叶ひ
引用は、義経が都落ちするに当り、『貴賤上下惜しみ合へ』る理由を説明した一句であるが、それが武士的モラル(というよりは寧ろ武士道)の建前(たてまえ)からの批評を言いあらわすものであることは言う迄もあるまい。そういう建前からして、
昨日は義経が競望(きょうぼう)に依つて頼朝卿に追討すべき由宣旨(せんじ)を下され、今日は頼朝の威勢に恐れ義経を捕り進らすべきの由院宣(いんぜん)を下さる。
という朝令暮改の有様に対しては、
朝に成りて夕に敗る。誰人か綸言(りんげん)を信ぜん。何輩か勅命に帰せん。
という風な批判も試みられて行くことになるのである。そして、この部分は、「平家物語」における
朝に替り夕に変ず。たゞ世間の不定こそ悲しけれ。
という、無常観を以て語られている部分に対応するものであることを思えば、更に義経を武士道の鑑として絶賛している部分が(典拠の有無は別として)全く「盛衰記」作家の創作になるものであることを思えば、これらの作品の位相はおのずと明かだろう。(『忠臣は二君に仕へず』『軍の習、討死は期する処』等々、武士老道精神を言いあらわす言葉は、「盛衰記」の随所に見出される所である。その他この作品の構想的破綻の一因だなぞと言われる、夥しい故事の引例そのものが、武士道徳を強調しそれを裏づける如きものだったことは注目に価する。)


            七

 「盛衰記」の典拠となった諸製作とそれとの関係、口語使用の問題等々なお論ずべきことは多いが、も早所定の枚数も超過して居り、締切日も遥かに経過している始末であるから、さし当り必要な次のことを結論的に述べて、ひと先ず筆をおくことにしよう。

 「源平盛衰記」は、「平家物語」と比べて頗(すこぶ)る破綻多い作品だった。記事の重複やら、部分主題との矛盾において。いいかえれば、現実肯定と現実否定との主題・構想の相剋において。それに表現の技巧もひどく素朴だった。けれど、そうした矛盾を露呈するような作品であったればこそ、また素朴な技巧によったればこそ、それは、ヨリ武士文芸らしい 性格をそなえた作品ともなり得たのであった。だから、「平家物語」から「盛衰記」への展開は、価値の関係において観らるるよりも、まず武士的生活体験の深化に伴う必然的な変容の過程として観らるべきであろう。
 しかも、それが純然たる創作ではなくして、所詮は「平家物語」の改訂版であったということ、彼ら武士身分が純粋といい得るような武士文芸を遂に確立し得なかったということ、そのことの意味がなお疑問として残されるが、これらの問題の解決は、彼らの依存する生産関係がその最も根本的な点において旧貴族と変りないものであった、という点に求めらるべきであろう。なお付言すれば、旧来の和歌文芸が「すべてよむまじきすがた詞といふは、あまり俗にちかく、又、おそろしげなるたぐひを申侍べし』(「毎月抄」)として、生ける現実面に取材することを却(しりぞ)け、歴史の進展に眼を覆うていた中にあって、これら軍記物の、とりわけ「源平盛衰記」の遂行した役割は大きかったと言わなければならぬ。

 
 熊谷孝 人と学問熊谷孝 昭和10年代(1935-1944)著作より