西鶴と「古典復興」――西鶴作品の現代的意義にふれて――      熊谷 孝
  
雄山閣刊「古典研究」2-6(1937.6)掲載--- 

*漢字は原則として新字体を使用した。 *引用部分以外は現代仮名遣いに替えた。 *傍点の部分は太字・イタリック体に替えた。
*明らかに誤植と判断できるものは訂正した。
*難読語句(文字)には適宜、読み仮名を添えた。


 「万葉へ還れ」「もののあはれ・幽玄の精神に生きよ」というさけびがそこここから聞えて来る。日本的素質が問題になり、日本的「西欧」が問題とされている。古典の復興、そして現代文芸の中に古典的なもの・伝統的なものの血統を探り覓(もと)めること、それがきょうこの頃ひとびとの関心事になって来ているらしい。そうした揚句は、現代作家のヴォキャブラリイの中に「あはれ」「をかし」などの用語例を覓(もと)め統計をとり、そこに彼の日本的素質を見出したり、王朝この方の伝統の「血」を発見したりして驚喜している向きもあるらしい。兎も角も古典の再検討は、今日ひとびとの関心事となって来ている。そうして、それはまた現代文芸の(現代文化の)創造のための、謂(い)わば現代人のひとつの重要な「実践」的課題として問題にされているようである。「西欧的知性」の敗北、日本的知性による更生等々の合唱の中に私たちはそういう事実をまざまざと見ることができる。
 既に明(あきら)かなように、「もののあはれ」「幽玄」「さび」こそは(そしてまた「いき」「粋」なども)最も「日本的なもの」であり、これらの理念(或(あるい)は精神)こそは私たちが日本人固有のものとして他に誇り得るところの財宝である、という考え方がそこには横(よこた)わっている。そして、一見「西欧的なるもの」の支配下にあったかにみえる明治・大正・昭和の文化といえども、その深奥を探っていけば万葉文化このかたの日本的精神の息吹きを感ずることができる、近代日本の偉大な作家の精神の真髄に触れるとき、私たちは寧(むし)ろ「日本的知性」の勝利をさえ思わしめられる、いまにして思えば近代日本を今日の高き水準にまで導いたのは、外ならぬ万葉・王朝このかたの日本精神であったのだ、そういう考え方がそこに横わっているのである。さればこそ、「あはれ」「をかし」等々の言葉を(それが如何(どう)いう意味合いで使われているか、ということなどはお構いなしに)拾い集め、この作家はこの作品では「あはれ」を二十も使っている、いやあの作品の場合はもっと沢山使っている、といった調子で統計をとり、それをもってその作家が日本的に偉大な芸術家であるということを証明する材料に役立てようとしたりする学者も飛び出して来るわけなのである。
 万葉文化を創り挙げた偉大な精神、それはたしかに偉大な日本的精神であった。「幽玄」「さび」の場合とても、「いき」「粋」などの場合でさえもそれを生み出しそれを規定するものが日本精神であったことに変りはないのである。現代日本文化と現代西欧文化とを比較した場合、一方が「日本的」であり一方が「西欧的」であるのは、また至って当り前のことである。現代日本が所有する「西欧的なるもの」が日本的「西欧」であることも一向不思議はないわけである。
 そこで、「もののあはれ」「さび」等々の理念が日本固有のものである、ということは疑いのない事実である。けれども、日本プロパアであるということが、そのこと自体が日本にとって名誉なこととは必ずしも云えぬであろう。早い話が、最近欧州で映画化に際して物議をかもした「ヨシハラ」物のことを考えて見るがいい。「ヨシハラ」「オイラン」といった存在は(それは事実日本プロパアなものであるのだが)不名誉でこそあれそれは日本の名誉をいいあらわすものでは決してないだろう。では、「オイラン」の存在が日本にとって余り名誉でない、という判断はいったい何処(どこ)から生れてくるのか。それは常識で判るじゃないか。では、その常識とは何であるのか、どういう社会で通る常識の謂(い)いなのか。そう判断する私たちの常識は、私たちの知性にかかわる。私たちの知性とは、私たちの世代の知性である。私たちの世代の共有する知性とは、私たちの世代の文化意識にかかわる。かかる知性とは、かかる文化意識とは、も早(はや)自明のように「世界的なもの」である。日本は厳として存在する。しかも地球を考えることなしに日本列島という地理分布も考えられないように、世界的な文化を考えることなしに日本的文化は考えられず、また世界精神を予想することなし日本的精神を問題にすることは既に無意味であるだろう。日本固有ということすら、世界を意識することなしには言い得ないことなのである。
 そこで、「もののあはれ」とか「をかし」とかいう日本固有の美の精神も、それらがただ日本的だ日本的だ、といって安心していたのでは意味がない、ということになる。それが如何(どう)いう風に日本的なのか、という点をはっきり判らせなくては不可(いけな)いことになる。で、そういう点を判らせるためには如何しても世界的な立場に立たなければならない破目になる。私たち日本人が、私たちのいちばん愛する日本の日本たる所以(ゆえん)を日本の特性を知る唯一の方法はこれだけなのである。――こう考えて来ると、万葉文化を規定する、王朝文化を規定する、おしなべて古代から現代に至る日本文化を規定する日本的精神なるものは、世界精神の、それぞれの段階に於ける日本的表現として受取らざるを得なくなって来るのである。もとより世界精神なるものは、一定不変の普遍的精神などとして抽象的に、神秘的に存在するのではない。それはつねに歴史のそれぞれの発展段階に於けるそれぞれの精神として、そしてまたそれぞれの民族・国民のそれぞれの発展段階に於けるそれぞれの精神として具体的に存在する。日本的精神もまた、世界的な観点から、歴史的に・段階的に具体的現実的に理解されるのでなければならない。
 で、話は前にかえって、「日本的なるもの」への探究ということが(私たちの領域にあっては「古典復興」というかたちで)今日とくに喧(やかま)しく叫ばれているのであるが、その場合「日本的なるもの」の把握のしかたがいま見て来たような甚(はなはだ)しい歪みを示しているように私には思えるのであり、かたがたまずもって一応の反省を試みた次第である。殊更(ことさら)前にのべた様に、かかる古典への復帰・伝統の探究なるものが実に私たち知識層の実践の問題として採り上げられていることの故に、いきおい私たちもこうした問題を問題としなければならなかったわけである。そして、本号に於いて私の与えられている西鶴論の課題に正確に応えるためにも、今日の場合かかる問題を問題とせざるを得なかったわけである。

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 私たちは、何のために古典を問題にしなければならないのか。古典的雰囲気の中に「現実の圧迫」からの休息所を見出すためであったり、そういう目的ではないにしても単に自己の心を娯(たのし)ませる為であったとしたとしたら、それは現実の問題を問題とせざるを得ない私たちにとって何の意味があろうか。私たちは考える、古典への遡及(そきゅう)もまた、なんらか私たちの現実の課題にかかわるものでなければならない、と。その限り、ひとびとが今日「古典復興」の問題を自己の実践的課題として問題にしている態度と、私たちの古典研究に赴こうとする態度とは全く一致する。けれども、かかる「一致」は実に現象的 一致に過ぎないのである。私たちは、或る種の国文学者や、日本浪漫派の人々の古典「研究」の態度(方法)に信頼をかけることは出来ないのだ。万葉文化を・王朝文化を・近世町人文化を・そしてまた明治文化を・現代文化を規定する「精神」を、抽象的・非現実的に理解された「日本的精神」という言葉 によって概括し、段階的にではなしに非歴史的に、発展的にではなしに固定的(守成的)に把握し、そういう出鱈目を無理矢理ひとに押しつけようとする態度に私は我慢が出来ないのだ。行き詰まった現代文芸の再建のためと称しながら、行き詰まった現状の打開のためと称しながら、それは結局現実そのものへの深き顧慮なしに行われた「研究」に過ぎないのだ。
 悪しき現実を齎(もた)らした根源がいったい何であるのか。どこにその原因は潜んでいるのか。そういう点への反省を全く欠いている。芸術の世界だけが歴史の制約から自由なのではない。現代文芸の行き詰りとても、また悪しき現実のひとつのメルクマール[Merkmal 特徴、指標]に外ならないのだ。そうであるなら、現代文芸の行き詰りをも、それの更生の方法をも、また飽くまで歴史的現実の角度から眺めて見なければならない筈だと思う。そんなことは判りきっている、そんな「公式」をいま頃もち出したところで何の役に立つのか、そうひとは開き直って云うかも知れない。事実そういう居直りに私たちは幾度も出喰わしている。だか、こういう自明のことが自明のこととして判りきっているのなら、それが公式くらいにまで呑み込めているのなら、いま現にこの種のひとびとによって行われているような古典の「研究」は行われ得ない筈である。私たちの現実のためになされている筈の古典の探究が、「現実の圧迫」から遁れるための、古典的雰囲に浸り娯しむための、もっと積極的には悪しき現実をヨリ悪しきものに導くための「研究」であったりはしない筈である。歴史を正視すること、現実を凝視すること、そのことをまず私は要求する。

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 こうしたとき、西鶴は私たちにとっていま一度見直されなくてはならない作家だと思う。これ迄もそうだが、いま現に彼はその否定面だけが問題にされがちな作家であるのだ。いや、その積極的な面すら歪曲されて、徹底的に否定的な作家だとされて、来た人であるのだ。そうして、その否定面だけが、否定的に解釈された「西鶴」だけが問題にされ、却(かえ)ってそのゆえにこそ偉大な芸術家だとして眺められてきた作家なのだ。私たちは西鶴を見直さなくてはならない。
 殊更に彼の積極面を積極面として素直に認識しなくては不可(いけな)い。そのための努力を惜しんではならない。今いったように、特にこの面が、そしてこの積極的な面だけが抹殺されているからである。いや、そういういい方は不可い。彼のもつ否定面なるものも、ひとびとの語っているようなものとしてはありはしないのだから。私たちは、その否定面に対しても、歴史的な立場からもう一度鋭い批判の眼を向けなくてはならない。また、そうすることによって彼の積極的・ポジティヴな世界観の意義――彼の諸作品の主張するところのものを、そしてまた彼の作品がそれぞれ現実に対してわけもったところの役割も正確に把握することが出来るのである。かくすることによって、私たちは、また私たちの対峙している現実への働きかけの仕方・現代文芸再建への具体的なひとつの示唆を用意することも可能となって来るのである。

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 西鶴の作品、殊に「好色一代男」「諸艶大鑑」などの作品が「源氏物語」の構想を模倣しているということの故に、彼が紫式部の亜流である、という様な論が、あのひと時代前の西鶴研究家たち(何かといえば古典との繋がりを云々したがったあのひと時代前の西鶴研究家たち)によってではなしに、今現に学界の第一線に活躍している学者の間に行われている。西鶴にとって問題は「愛」にあるのではなく「性欲」の描きにある、「源氏物語」的な統一を破壊している点に彼の特徴があるのかも知れない、だからあながち彼を亜流扱いにして了(しま)うことは出来ないかも知れない、けれども亜流でないとしたら西鶴はたいした作家ではない、という論旨である。で、如何(どう)でも西鶴を紫式部の亜流として認めたい、そうして彼を群小作家の中から救い上げたい、概括して見たところまあそういうような論である。
 つまり、「もののあはれ」の「血」を西鶴の体内に見出さなければ承知が出来ないのである。というのは、「もののあはれ」こそは日本文芸精神の最も根幹的な基調であり、優れた日本文芸のどれにも息吹いている神秘的なものである、という例の非歴史的・非現実的な「日本的なるもの」解釈に拠るものなのである。「もののあはれ」は時空を超絶し、日本文芸の全系譜を支配する日本的普遍精神だから、というわけである。
 「もののあはれ」が、歴史的制約から解放されてある、いや逆に歴史そのものを規定する神がかり的な・全知全能の「精神」であるか如何かは暫(しばら)く読者の判断にお任せして置く。ともかく、西鶴の、伝統への反逆者としての面にはなるべく眼をそむけていたい、伝統へのよきサーヴァントとしての西鶴とだけ魂の交りを取り交わしたい、といった西鶴論が、つまり西鶴の否定面(それがほんとに否定的な意味をもつか如何かは直ぐあとで述べる)にだけスポット・ライトを当てる、といったやり口の西鶴論が現に行われているのである。「伝統に生きた西鶴」、――否定面に於ける西鶴だけを眺めてみたとしても果してそう云えるであろうか。そうは云えないのである、断じてそうは云えないのである。

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 ひとり西鶴の場合に於いてばかりでなく、古典への模倣は、近初町人文芸のとったひとつのポーズであった。西鶴のみについてみても、「一代男」「諸艶大鑑」ばかりでなく「大下馬」などなどの構想に・脚色に多くの古典に負うところのものを見ることが出来る。だが、私たちにとって問題は、古典に負うところが多いということにあるのではなく、それがどの様に古典的遺産を継承・摂取 したかにある。そして、そうした古典的遺産の摂取が、どの様な歴史社会的要求のもとに行われ、どの様な任務を当該文芸時代に分けもつものであったか、だからまたどの様な役割を担当するものであったか、という点にかかっている。古典と該作品の繋がりを指摘することは十分必要なことであり、充分意味のあることなのである。しかも、それは該作品の歴史的意義より具体的に闡明(せんめい)する、という目的のためになされる場合に限っての話であるのだが。
 で、西鶴に於ける古典的遺産の摂取が如何いう意味をもつものであったか、という点を正確に理解するための手続きとして、私たちはまず近初町人社会の歴史的構造を問題としながら、近初町人文芸の全領域に亘って見られるところの「古典復興」現象の本体を衝かなくてはならない。

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 近初町人文芸における「古典復興」の現象を、私たちはまず、何らの文化の伝統をも教養をも持ち合せなかった新興町人階層が自らの独自的な文芸・町人文芸らしい文芸をうち建てようがために必至的に採るに至った、また採り上げざるを得なかった「古典の復興」をいいあらわすものとして見る。貞門・談林の俳諧において(拙稿『西鶴論断章』国語と国文学・三月号参照)金平浄瑠璃において、模擬物・教訓物等々の仮名草紙において(拙稿『仮名草紙小論』国語と国文学・昨年一月号、同拙稿『永代蔵の成立過程』文学・昨年三月号など参照)私たちはそうした事態をはっきりと看て取ることができる。西鶴の場合とても例外ではない。
人 は い さ 心 も し ら ず ひ ぜ ん が さ         松  意
床 へ は 入 つ た が さ は り も せ な ん だ       西  鶴
く ら ま ぎ れ 鼠 の 引 し 新 枕              江  雲
や が て 別 れ の と り も ち を ね る           松  意
此 跡 の 太 夫 を 惜 し む よ し の 山           西  鶴
 「虎渓の橋」(延宝六年刊行)に見えている西鶴らの付合(つけあい)であるが、そこに見られる古典〔古歌〕摂取の態度は、今日の日本浪漫派の人々の採っているような伝統への守成的態度によるものではなく、自らの生活現実(町人的現実)を表現する一つのよすがとしての古典の表現技巧に拠っているというだけのことなのであって、そこでは古典の伝統性は問題なのではなく、自己の生活現実の再現が問題となっているのである、唯、前にも述べた通り、自らの文化的水準の低さのゆえに、自らの詩の創造の機縁としての古典が問題とされているというにすぎない。「人はいさ」の古歌は「ひぜんがさ」によって、「床へは入つたが」の句によって卑俗化され、やがて「くらまぎれ」「やがて別れの」等々の句によって、町人自身の「生活」の表現と化せられて了うものであった。そこに私たちは果して古典の「伝統」を「血」を見ることが出来るであろうか。
 それが彼にとって意識的であると否とにかかわらず、西鶴に於ける(他の近初町人文芸作家の場合とても同じことであるが)古典の摂取は、明かに「現代文芸」創造のためのそれとして行われたものであった。そしてこの場合、「現代文芸」(吾等の文芸)建設のプリンシプルは既に明確に樹立されていたのであった。さればこそ、古典への探究は、西鶴にあっては伝統への屈服を意味するものではなく、寧(むし)ろ伝統への反逆をいいあらわすものとして行われたのだ。行き当りバッタリに古典を模索するのではなく、特定の心構え・特定の用意されてある心構えによって古典に対峙して行ったのだった。「古典に還れ」「万葉に還れ」というあの洞(うつ)ろな叫びとは似て非なる「古典復興」が近世社会には現象していたのである。

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 西鶴のこうした対古典的態度は、浮世草紙の場合とても全く同じことなのである。例えば、松風村雨の故事を取上げた「好色一代男」の巻一『煩悩の垢かき』のごとき、須磨に旅した世之介が
「……宵の程はなぐさむ業(わざ)も、次第に、月さへ物すごく、一羽の声は、つまなし鳥かと、なを淋しく一夜も、只はくらし難し、若ひ蜑人(あま)はないかと、有(ある)ものにまねかせて見るに、髪に指櫛(さしぐし)もなく、貌(かお)に何塗(なにぬる)事もしらず、袖ちいさく、裾みじかく、わけもなふ磯くさく、こゝちよからざりしを、延齢丹などにて、胸おさえ、昔し行平(ゆきひら)何ものにか、足さすらせしんきをとらせ給ひ、あまつさへ別(わかれ)に、香包(こうつつみ)、衛士籠(えじかご)、しやくし摺鉢(すりばち)、三とせの世帯道具まで、とらせけるよ。……」
と、古典世界との対比に於いて、須磨の海女(あま)に対する自らの感覚を飽くまでも主張している点、「延齢丹などにて、胸おさえ、昔し行平何ものにか足さすらせ云々」と宮廷詩人に揶揄を送っている点、それは
け ぶ り 立(たつ) (えぞ) の 千 嶋 の 初 や い と
あ ま の あ か 子 も 田 鶴(たず) も な く 也
小 便 や も し ほ た れ ぬ る 朝 ぼ ら け
須 磨 の上 野 に は ゆ る つ ま み な 
という、「大坂独吟集」(延宝三年刊行)に示されている西鶴の一連の句における態度と全然同じ態度をもの語るものであろう。貴族詩(和歌)の世界にあっては、情趣化され(いいかえると和歌的に美化され)て対象化されたところの、
   田むらの御時に、事にあたりて、つのくにのすまといふ所にこもり侍けるに、
   宮の内に侍ける人につかはしける           在原行平朝臣
わくらばにとふ人あらばすまの浦にもしほたれつゝわぶとこたへよ(古訓和歌集・巻第十八)
このようにして創り上げられた詩の世界が、肯定的にではなしに否定的に、伝統的にではなしに現実的に、全部的に町人詩の世界に置き換えられて了っているのである。
 こうした意味での古典の摂取を可能ならしめたもの、それは前にも一応触れたように、彼等町人の(その最もよき代弁者としての西鶴)の逞(たくま)しい現実主義の態度であり、すべての事象を己(おの)が「生活」の角度から飽くまでレアルに見凝(みつ)めていこうとする彼等の健康な・発展的な世界観であった。も早明かなように、古典を取上げることによって、伝統の世界に自らの逃避所を覓(もと)めようとするのではなく、古典は・伝統は寧ろ自らの現実に奉仕するものとして対比的に・機縁的に把(とら)えられているというにすぎない。それが西鶴の場合に於ける古典復興であったのだ。
 「源氏物語」の構想を模倣しているという点で「好色一代男」などがそれの亜流的作品であり、ひいては西鶴が紫式部のエピゴーネ[Epigone 亜流]である、というかの恐るべきもののあはれ主義西鶴論の逆立ち振りに対しても、私たちは同様の理由からして反駁を展開しなければならない。光源氏に倣(なぞら)えて世之介を登場させ、五十四帖(ごじゅうよじょう)に模して五十四篇の構成をとり、宇治十帖との対比に於いて「諸艶大鑑」の続編をものした、とは屡々(しばしば)論者によって語られているところであるが、しかし、前にもいったように単に古典的遺産を継承・模倣したということ、そのこと自体が亜流である所以を語ることにはならない。それがどの様な意味に於ける古典の摂取 であったかに問題は存する筈であった。――また或る論者は紫式部のエピゴーネン[Epigonen 亜流(複数形)]として西鶴・「田舎源氏」の作者・「弓張月」の作者等々を数え、田舎源氏や弓張月は真に亜流とするに足りない、西鶴こそ最もよき意味に於けるエピゴーネ[Epigone 亜流(単数形)]であった、といっている。しかしながら、その成立の地盤を全く異にした文芸を把えて、亜流であるとか亜流とするに足りないとかいうことを論じること自体意味ないことではあるまいか。そういう現象を現象として、指摘しただけでは何の役にも立ちはしないのである。私は前にその作品の歴史的意義をヨリ具体的に把握する手段として行われてこそかかる現象の指摘も意義を生じてくる、またそういう目的のもとに行われる場合に限ってだけ充分意味のあるものともなって来る、ということを語ったのであるが、この種のもののあはれ主義者の場合とても、やはり「現象の指摘」は明確にひとつの目的のために行われているものであったのだった。「もののあはれ」こそは普遍人間的・神秘的な日本的精神であり、かかる神がかり的な「もののあはれ」は平安朝的限界を超え、時空を超越し近世町人的現実にまで喰い込み「一代男」などの世界に於いても空うそ吹いているものである、一平民詩人西鶴にまで取り憑(つ)いているものである、ということを証明するための手段で実はあったのである。そうでなくて、西鶴の描きが「愛」にあるよりも「性欲」にあるという事実を、「源氏物語」的統一を破っているところに彼の特色があるという明確な事実を、事実として認めるにもかかわらず、どうして紫式部の亜流だなどいう言いくるめに腐心する必要があろう。伝統の血を如何でも彼の体内に潜んでいることにしてしまわない事には承知が出来ないという態度、事実を歪曲してでもそうしないことには自分の顔が立たないという態度、そういう態度が悪しき現実の中に根ざすところの、今日の特殊症状が生み出したところのひとつの特徴的な「態度」であることは敢(あ)えて説明を要しないであろう。

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 「一代男」がああした短篇物の寄せ集め的な・半ば旅行記風な・半ば遊里案内記風な構成を採り上げたということ、また採り上げざるを得なかったということ、それは近初町人文芸の特質を、或る意味からいえばその積極性を、また或る意味からすればそれの否定的・宿命的な性格をいいあらわす以外のものではなかった。何故かというに、――私自身もこれまで屡々述べてきたように(国語と国文学・文学・国文学誌要・その他に発表してきた近初町人文芸に関する拙稿を参照ありたい)近世初期の社会を覆うて前のめりなものに方向づけた、新興町人のあの逞しい知的探究の精神のひとつの具体的な表現である地理的興味に基(もとず)くものでそれはあった。西鶴の諸制作に一貫している作品の地理的構成・謂うところの諸国咄的説話構成は、まさにかかるものとしてあったのである。それは集権的封建制への社会体制の交替に伴う諸国交通の発達の結果ではあったが。地誌・名所記類のこの時期に於ける続発は、まさにかかる町人の、如何にも新興町人らしい積極的な要求の一具現でなければならなかった。この場合、それが町人の文芸としてあるためには「一代男」も必至的に旅行記風の構成を採らざるを得なかったわけである。
 この時期に出版された名所記類が、諸国の珍談・奇談を収集するとともに、また諸国の遊里案内記的な性質をも内包するものであったことは誰でも知っていよう。それがどのような要求に基くものであるかについては私は既に屡々語っている。条件つきな意味に於いてではあるけれども、それは兎も角町人の逞しい(この場合積極的な意味をもつところ)の好色生活の中に根ざすものであった。そうした好色生活を通しての自由への・市民的自由への飽くことなき要求を指し示すものであった。遊里案内記・遊女評判記などの当代に於ける頻発的な出版は、こうした要求の反映に外ならぬものであった。「一代男」が、諸国の遊里案内記・遊女評判記風の構成を採らざるを得なかったのも、またひとつの歴史的必然であった。

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 いまひとつ「一代男」の成立に関して、「源氏物語」その他古典俗解書の刊行がそれの条件として考えられねばならない。近初に於ける「古典復興」はまさにかかる俗解書の出版によって先行されていたのである。しかも当該時代が、新しい文化を生み出しつつあった当該時代が必然的に要求するに至ったところの古典的遺産の摂取のために行われたところの、俗解書の制作としてそれはあったのである。もとよりそれは新社会の技術的条件が齎(もた)らした印刷術の発達に負う現象ではあったが。
 こう見てくると、「一代男」が「源氏物語」の構想を追うたということの故に、ただそれだけのことからして、西鶴が「もののあはれ」の伝統のもとに身を置いた、という結論を出すのは、公平にいって独断だということになるのではあるまいか。ひどい事実の歪曲だと私は思う。――それが彼の主観にとってどのようなものにてもあれ、西鶴が「源氏物語」的な構想をとったというのも、上述のような一般の要求に応答する手だてとしてああした五十四篇の説話構成に拠ったのだと見なくてはなるまい。ただそれだけのこととして眺めて見ていいのだと思う。それで十分だと思う。
 いまひとつの面(否定面)からすれば、「一代男」があのような切れ切れの説話の寄せ集め的な形式を・あのような半ば旅行記風の・半ば遊里案内記風の構想に終始しなければならなかったという点に、結局事象を全面的に把握する能力を奪われた町人文芸の否定的な・宿命的な姿が見られるのだと思う。近世町人の認識のありかた・その水準がそこに示されているのだと思う。世之介の生活・遊女や地女とのかかわり、すべてがすべて内面的な生にかかわりのないものではなかったか。たとい人間の内部的な心理が問題にされようとも、結局粋な捌(さば)き・わけしりな態度、それ以上に突っ込んだものではなかったのだ。所詮は軽いうわつらな現象主義者の態度以外のものではなかったのだ。そこに、自由を欲求して擬制的な「自由」をしか与えられず、自らのレアルな現実感に生き抜こうとして徹し得なかった彼ら町人の、いきおい現象主義者に堕せざるを得なかった彼ら町人の姿が示されているわけだと思う。個性描写はそこでは問題ではなく、また要求されても居らず、そしてまたその様な描きは町人文芸の圏外のものであったのだ。
 「一代男」的な世界を超えてヨリ深い人間の内面に徹していったとき、しかしそこに描き出されてくる人間の姿は「一代男」的な逞しい世界観によって貫かれた人間の姿ではも早なかったのだ。歴史は進み過ぎたのである。西鶴の(最も前進的な町人の最もよき代弁者西鶴の)あの逞しい積極的な世界観が概念としての域を越え日常性にまで浸透しモラル化されて来たとき、それは「一代男」的な積極的な意識のモラル化をいいあらわすものではなく、少(すくな)からず不健康な・反歴史的な性格を帯びた世界観の肉体化としてあったのである。私たちは、「一代男」から「五人女」「永代蔵」、やがては「置土産」へと展開していく西鶴の文芸的「発展」をまさにかかるものとして見るのである。私たちは、そこに、町人の世界観としての近世リアリズムの宿命的な姿を見るのである。

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 西鶴が、反歴史的条件のもとに自らを「置土産」的な、所謂「芸術的」には深みのある・しかしながら世界観的には退嬰的消極的な境地に身を置いていった頃おい、一方蕉風は蕉風としてその独自的な詩の世界を俳諧の領域に主張しつつあったのである。謂うならば、それは西鶴晩年のそれにもにた境地をいいあらわすものであった。
 私がかつて『西鶴論断章』(国語と国文学・三月号)の最後の章に於いて語ったように、蕉風の成立は(西鶴らによってひと度おし斥(しりぞけ)られたところの)和歌このかたの伝統〔王朝貴族的な花鳥風月趣味・中世末流貴族的僧侶的な寂びの趣味〕の「復活」をいいあらわすものであった。かかる伝統の・古典的なるものの「復興」を可能ならしめたものこそは、近世社会の歴史的構造性の中に潜むところの否定的な条件であったのである。(なお、この問題に関する詳細は前掲「西鶴論断章」及び「批評精神の喪失」〔文芸復興・創刊六月号〕などを参照ありたい。)
 このように見てくるとき、近初町人文芸の圏内にあって「古典復興」は、二つの対立的な・全く相容れない形相に於いて現象したことが知られる。一は金平浄瑠璃・談林の俳諧・模擬物教訓物等々の仮名草紙・そして西鶴の場合であり、一は蕉風の場合である。近世に於けるかかる古典復興は、既に明かなように偶発的に現象したのではなかった。一定の地盤の上に特定の 歴史的要求の具現として行われたのである。しかも、前者にあっては文化創造の逞しい意欲のあらわれとして敢行され、後者に於いてはひたすら守成的な伝統への迎合として表現をもったのである。芭蕉に於ける古典の復興は、文化を促進せしめるものとして行われたのではなく、かえって町人文化に対する全き否定として行われたのである。
 西鶴・芭蕉に於ける古典的復興が、それらが「古典復興」であるという限りに於いては全然ひとつ言葉によっていいあらわされるものである。しかもその言葉の上での一致にもかかわらず、この二つの場合は全く相容れない・その意味を異にする・その働きを全く異にするものとしてあったのである。私は、現代に於ける古典研究の態度に、その現象的一致にもかかわらず、全く対立的な二つの傾向の存することを思い、それが宛(あたか)も西鶴に於ける・芭蕉に於ける「古典復興」の場合と共軛(きょうやく)するものであることを思い興味深く感ずるのである。在りし日の古典復興と現代に於けるそれとのかかる共軛性は、まさに歴史そのものの共軛性である。それは歴史的なものである。現実への否定にはじまり、文化の否定に終る、その様な「古典復興」は実は歴史的なものである。
本稿の執筆に際して多大の助力を与えてくださった鈴木福太郎兄に深い感謝を捧げる。(昭和十二年五月十日深更稿)
 
 熊谷孝 人と学問熊谷孝 昭和10年代(1935-1944)著作より