一つの発見    徳永 泰 (熊谷孝の筆名と推定される)
  
唯物論研究会発行「唯物論研究」50 (1936.12)掲載--- 

    *漢字は原則として新字体を使用した。 *仮名遣いは新仮名遣いに拠った。*難読語句(文字)には適宜、読み仮名を添えた。

 この四月から始められた芸術学部特別研究会で、丁度テキストの中の「ルネッサンスとその芸術」をやっていた時である。(この部分はエンゲルス『自然弁証法』中の『反デューリング』への旧序文中の一節である)。ルネッサンス期に限らず、十八世紀、十九世紀後半――現代に於てもそうだが、かような急激な歴史の転換期に際して、周知のように多方面の学識と多芸の巨人達が生れたが、これらの巨人は何故あのようにエンチクロペヂストとならなければならなかったか、と云うことが、出席者一同の間に期せずして問題となった。
 そこで種々意見が出たわけだが、確か早川二郎氏だったと思う。それは、それらの諸分野自体の間に客観的な連関があるからだろう、と云った。早速、「うん、そりゃ面白い」と感心したのが戸坂氏だった。
 実際これは大きな発見ではないだろうか。政治、諸科学、諸芸術は、同一の自然及生産諸関係の反映として、元来それらの間に連関がなければならぬ。そこで今その一部門が改変されるとなると、それと連関のある爾余の諸部門でもしぜん改変されざるを得なくなる。糸の一端をひねれば、それは他の一端にまで伝わらざるを得ないのだ。もとよりイデオロギーの改変は多少はいつも行われているわけだが、根本的な改変が而(しか)も急激に行われるのが転換期の特質である。この改変の役を強いられたのがエンチクロペヂストなのだが、改変の分野は広汎複雑な丈(だ)けに、そういう時代には、一般に大小様々のエンチクロペヂストが輩出するわけだが、最も根本的な改変はやはり限られた人によってしかなされ得ない。それがエンチクロペヂストの中のエンチクロペヂストで、巨人と云われるものだ。これで、多芸多識の間に何等体系のない個人的な道楽に過ぎぬディレッタントとエンチクロペヂストの本質的相違も自(おのずか)らうなづけるであろう。
 研究会での愉快な想出の一つ件(くだん)の如し。 
 
 熊谷孝 人と学問熊谷孝 昭和10年代(1935-1944)著作より