「本朝町人鑑」試論      熊谷 孝
  
立命館出版部刊「立命館文学」3-4(1936.4)掲載--- 

*漢字は原則として新字体を使用した。 *引用部分以外は現代仮名遣いに替えた。 *傍点の部分は太字・イタリック体に替えた。
*明らかに誤植と判断できるものは訂正した。
*難読語句(文字)には適宜、読み仮名を添えた。


             は し が き

 「町人鑑」[『西鶴織留』の巻一、巻二に相当する「本朝町人鑑(ほんちょうちょうにんかがみ)」]が、一系列の西鶴の町人物のうちにあって、どのような位置づけをもつものであったか、ということを、わたくしは、ここで考えてみようとするのであるが、もしもそうした企てが、歴史的な連関からきりはなされた意味での、作品の示すふかさとか、表現のたくみさといったものから、そうしたものへの関心から試みられてゆくのであるならば、それはおよそ意味ないものとなりおわるであろう。作品の歴史性をかえりみない評価は、なんら評価の名にあたいしない、私人的な嗜好(しこう)か、趣味のいいあらわしにすぎないものなのだから(しかしながら、そうしたディレッタンティッシュな[dilettantisch 好事家的な、半可通の]作品論が、いかに、いまに、おのれを主張していることか)。われわれにとって問題は、古典的制作が、いまの「わたくし」の芸術的欲求をどのようにみたすものであるか、にあるのではなく、その作品のあり方が、現実のあり方との、どのようなかかわりをいいあらわすものであったか、いいかえれば、どのようなかかわりのしかた に於いて文芸的表現をとったものであったか、ということにある筈(はず)である。わたくしの、ここでの企ても、そのような問題のたてかたから出発するのでなければならない。
 さて、この稿に於いては、「町人鑑」に示されている、西鶴の現実観照の態度や描写角度などを、その各巻各説話について明(あきら)かにしてゆき、さらに、それらが、どのような現実のあり方と、どのように結びついて齎(もた)らされたものであったか、という点への一応の見透(みとお)しをも与えることによって、やがて、「永代蔵」から「町人鑑」への展開を触発した契機を明かにしようと考える。以上の道程を辿ることによって、「町人鑑」の歴史的位置も、おのずから明かなものとなるであろう。


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 「町人鑑」を、その全説話にわたって考察し、それらについて構想上の類型を求めてみると、だいたい次のように分類することが出来る。すなわち、その第一の類型は、すでに「永代蔵」などにおいて屡々(しばしば)取上げられているところの構想である「分散」を主題にしたものであり、その第二の類型は、個人の努力・「才覚」が、なんらかのかたちで「偶然」と結びついて、やがて分限になり、長者になるという、いわば「偶然」を契機とした筋のはこびによるものである。
 わたくしが、ここで、第二の構想的類型として指摘したものが、この作品の基本的・特徴的な説話の型をいいあらわすものであることはいうまでもなく、また、じじつそうした構想による説話が、おびただしく取上げられてもおり、いきおい、われわれの考察も、それらの説話を焦点としておこなわれなければならなくなってくる。が、考察の順序として、まず、第一の類型に属する説話から見透しを与えてゆくことにしよう。
 女房の所帯持のわるいために「身上をたふれ」た塗物屋の話(巻一・第三話)、「永代蔵」の巻一・第五話などにその原型を求められるような
あるひは在郷より敷銀(しきぎん)の付(つく)養子又は嫁をよび入(いる)る思案にて、先(まず)居宅(いたく)見せかけにして自然とよい事をしすましたる者も有(あり)、今時の縁付(えんづき)仲人十分一取(とる)によつて大かたはかたり半分なり。
 という、職業的媒酌人とタイ・アップした商略結婚の、悲惨な結末に取材した説話(巻二・第二話)などが、そのティピカルなものであるが、そうした説話が、この時期に於ける経済面の一般的固定化を反映してうみだされたものであることは、いうまでもなく、また、そこに述べられている「兎角(とかく)世間の外聞かまはず聟(むこ)は目下(めした)(なる)を取てよし、嫁も又我よりかるきかたよりむかへてよし」(巻一・第三話)といった教訓的な口吻(こうふん)が、「永代蔵」いらいの(もちろんそうした口吻は好色物などにも見出されはするのであるけれども)町人物の特徴的な口吻ともいうべきものであることも、ここに取り立てて説明するまでもないであろう。要するに、固定化した経済面――現実面(実生活)に処する町人の心構え、といったものが、そこに語られているのである。
 しかしながら、巻一・第二話に織り込まれているところの、悪徳をはたらいた商人のゆくすえが、天罰てきめん、不具の子を生むやら「次第に商売うすく」なってゆくやらした挙句、「此(この)家目前に絶たり」という説話を取上げてみれば、それが、「永代蔵」の巻四・第四話の悪徳商人の説話を変形したものであることは暫(しばら)くおいて、そこに見出される教訓的な態度が、嚮(さき)の二つの説話を通してみられるところのそれとは、おのずから角度を異にしたものであり、いってみれば、不可抗な超自然的な力の現実支配を予想した、観念をいいあらわすものであることが、指摘されるのである。それらについては、しかしながら、後に纏(まと)めて論じよう。
 次に、第二類型に属する説話について、素描を試みよう。
 遊興中に、はからずも 米相場の変動するという見透し話を耳にした蕩児(とうじ)が、「おもしろき最中をおもひ捨」て「早駕籠いそがせ伏見より飛脚船かりて、其の日の四つ前に大阪の北浜へつきて問屋をひそかにかたらひ、米大分買こみけるにはや昼よりあがりて、」ぬけがけの功名、ひと儲けした、という話(巻一・第一話)、貧困の極に陥った男が、
有時(あるとき)宵に焼(たき)たる鍋の下に其(その)(あした)まで火の残りし事、是(これ)は不思議と焼草(たきぐさ)に気を付(つけ)て見しに茄子(なすび)の木 犬蓼(いぬたで)の灰ゆへに火の消(きえ)ん事をためして、是は人のしらぬ事重宝と思ひ付(つき)手振で江戸へくだり、銅(あかがね)細工する人をかたらひはじめて懐炉といふ物を仕出し
 それに利をえて、後には分限にまでなった、という話(巻一・第二話)、夜逃げしようとするまでに行詰った油商人が、ひごろ愛養していた飼猿から思いがけない「金目三匁あまりのむかし目貫(めぬき)」を与えられたことによって、それを資本に努力した結果、家運を挽回することも出来、やがては分限長者といわれる身分にもなった、という話(巻二・第一話)、渡世のおもわしくない挙句、薩摩まで流れてきた大阪の商人が、その身の才覚によって、漸(ようや)く一家をなすに至ったが、「是と申も仏神のおめぐみ」と祇園の社に通う一日
十四五成(なる)艶女(えんじょ)の近寄(ちかより)懐よりふるき絹一巻(ひとまき)取出し、母を養ふたよりにいたせば是(これ)何程に成共(なりとも)(もとめ)て給はれと云(いう)、心ざしふびんにそれまでもなしと折節(おりふし)有合(ありあい)の銀廿匁あまり渡せば、只は申請(もうしうけ)じと是非絹を置(おき)て帰る、然(しか)れば取(とっ)て戻り見る 人に見せければ是(これ)小蔓(こづる)といふ唐織物 世に稀と云(中略)都の人に黄金(きがね)八十枚に代(しろ)なしてより、次第に分限(ぶんげん)
 なった、という話(第二・第二話)などが、その代表的な説話である。
 以上の説話に共通してみられるところの、偶然 は、しかしながら、このばあい、いわゆる意味での偶然をいいあらわすものではなく、天与 のものとして、もしくはそうしたことが背後に予想されながら、取上げられている、という点に留意しなければならなぬのである。すなわち、巻一・第二話の末段には、
家栄へて今妻子は下々(したじた)の見る事もなく(中略)一生安楽をする事も、うき世帯(せたい)の時男によくつかへて堪忍せし身の上、天是(これ)をあはれみ給ふなり天下の御めぐみなをありがたし、
 という、そうした偶然・天恵が、ひごろの善行の賜物として齎(もた)らされたものであるとする、前者と全く同一の観念がいいあらわされているのである(かくして、また、偶然は、因果論的な思想に繋(つなが)る契機であったのである)。第二・第二話の、
(その)後彼(かの)女の許(もと)を尋ね返しに行(ゆけ)どもしれ難し、扨(さて)は祇園女御(にょご)のあたへ給ひし果報とて云々
 という取扱いにも、また同一の態度をみることが出来る――
 そのようにみてくれば、「偶然」とは、けっきょく、われわれが、(さき)、悪徳商人の説話について指摘したところの現実を支配する超絶的な力の存在、を肯定する思想に繋るものであり、また、次のように眺めてみることによって、それが、直接的には、「銀(かね)がかねをもふくる世」(巻一・第二話)と化した、そうした現実のあり方の、人々の心理・感情へのはたらきかけによって齎(もた)らされたものであることが、明かになってくる。すなわち、この一編の基本的・特徴的な説話――第二の類型に属する説話のすべてに於いて、すでに明かなように、ひとしくその前半に、分散、もしくは分散に至るべき経路が縮図的に描きだされており、それにつづく主題的な部分に於いて、特別の才覚・努力と偶然との結びつきによる更生が取扱われているのであるが、そうした筋のはこび方は、要するに、「銀がかねをもふくる世」にあって、いいかえれば商業資本の集中化したこの時代にあって、おのずから分散を避けがたいものにしてきていた、も早(はや)才覚以上の才覚――特別の才覚 によることなしには、みずからの生活を維持しえなくなってきていた、人々(中小商人層)の、偶発的な現象を心ひそかに待望する、そうした心理の、小説の構想にまではたらいていった、一つのなあいを示すものであったのだ、と思う。
 しかしながら、以上のような規定のしかたでは、未だ不十分であり、あいまいでもある。わたくしは、次節に於いて、他の問題を取上げながら、以上の諸点について、いますこし具体的な考察を試みようと思う。


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 くりかえしていうまでもなく、天与のものである「偶然」は、このばあい、おのずから因果論的な思想に結びついてゆくものであった。そのような思想・観念は、しかしながら、町人ほんらいの現世主義的な生活意識とは、およそかけはなれたものであり、あい容れないものであった筈である。にもかかわらず、それが、あたかも町人みずからの心情のいいあらわしででもあるかのように表出されていることには、そこに、なんらか理由があるのでなければならない――では、そうした態度は、どのようにして齎(もた)らされたものであったか。
 近世社会の特殊的な政治的・社会的条件は、ひとも知るごとく、町人生活のうえに不可抗な、否定的な圧力を作用するとともに、彼らの生活から「全き自由」を奪い去ってしまったのだった。抑えきれない自由への欲求を、彼らは、好色生活と経済生活との、そうしたせばめられた生活面に於て、せめてもみたしえた、というにすぎなかった。しかしそのような自由とは、所詮は擬制的な自由であり、形骸的な自由であるにすぎなかった。その故に、みずからの宿命的な地位にたいする諦観は、(それはけっして自覚的ではなかったけれども)彼らの意識・感情のうちにかなり根深く巣食うものとなっていったのだった。そうした諦観が、やがては、彼らに現実諦視の眼をとらしめるものであったことは、いうを俟(ま)たない――
 ことさらに、中世仏教的因果観は、そのとき、も早儒教的世界観とあい反発するものとしてではなく、ひとしく武士の観念的道具と化し、歩み寄りあいたすけ、足並そろえて、諦めと服従の説教者として、彼ら町人のまえにあらわれていたのだった。しかも、この時期に於ける経済面の固定化は、いうまでももなく、商業資本の集中化にともなう現象であったのであり、したがって、それは、早期資本主義の一発展をいいあらわすものであると同時に、また、武士の依拠する物的地盤の動揺をいいあらわすものでもあったのである。その故に、武士は、そのレアクチォネエルな[reaktionär 反動的な]攻勢をますます強力なものにし来(きた)ったのであり、そこに、武士的世界観の、彼ら町人への強制が、あらゆるかたちをとっておこなわれたのであった(好色本禁令・奢侈(しゃし)禁令等々のいわゆる禁令の続発は、この間の事情を端的にしめしている)。かくして宿命的諦観の思想は、武士の世界観を反映することによって、それと同時に、現実面の固定化にともなって、彼ら町人のあいだに、ますます深化され来ったのであった。「町人鑑」がいいあらわす因果観的なポォズをとったところの教訓的な態度は、そのようにして、直接的には、前時代的観念の遺存を避けがたいものにしていた特定の歴史的条件のもとにうみだされたものであり、また、そのこととも関連して、彼ら町人の宿命的諦観、現実諦視が、おのずから齎らしたところの否定的な現実感の、一表現であったのだ、と思う。
 ところで、そうした宿命的諦観が、「町人鑑」にあっては、全編を通じて、貧福にたいするそれとして最も具体的にいいあらわされているのであり、したがって、このばあい、以上に於いて指摘したところの教訓的な態度――因果論的な思想――もまた、おのずからそれと緊密な連関を有するものであるとして、理解されなければならなくなってくる。
親分限(ぶんげん)なれば不孝者も隠れてしれず、親貧なればすこしの悪も包み難し、貧福の親の違ひそんとくの二つ也、富貴(ふうき)の家にうまれ出(いず)るは前生の種なり、兎角(とかく)人は善根をして、家業大事にかくべし、(巻一・第一話)
 「兎角銀(かね)がかねをもふくる世なれば」「世に貧福の二つは是非なし」(巻一・第二話、巻二・第三話)という、貧福にたいする宿命的諦観がけっきょくは因果論的な思想・観念に裏づけられたものであったことを端的に表現しているひとつのばあいであるが、武士的世界観の繋縛(けいばく)から脱しえなかった、というよりは、このばあいむしろ、武士的世界観に織り込まれつつあったところの彼ら町人が、経済面の固定というみずからの生活現象にたいして、なんらか因果論的・宿命論的な解釈を下していたことも、またありうべきことだったと思う。
 さて、以上の引例にみられるような貧福宿命論は、かつて近藤忠義先生が指摘していられたように『「金が金を儲ける」「金無くして金を獲る事は出来ぬ」と言ふ如何ともしがたい事実に対して、人々が探ることを欲した一つの自慰的な解釈法』(「西鶴と其磧」・国語と国文学・昭和八年十月号)であった、と考えられるものであるが、次に、そうした貧福宿命の思想をもちきたした現実的根拠について、いますこし具体的に考えてみようと思う。
然れども望姓(もとで)(もた)ぬ商人(あきんど)は随分才覚に取廻(とりまわ)しても、利銀(りぎん)にかきあげ皆人奉公(ひとぼうこう)になりぬ、よき銀親(かねおや)の有(ある)人はおのづから自由にして何時(いつ)にても見立(みたて)の買置(かいおき)利得る事多し、(巻一・第二話)
 という章句が端的に示しているように、商業資本の集中化するにつれて、町人階級に於ける大商人と中小商人との二つの層への分裂が、漸(ようや)く決定的なものとなってきたのであり、「望姓持ぬ商人」としていいあらわされている中小商人層にとって、も早「随分才覚取廻しても、利銀にかきあげ」るというのが、ひとつの生活現実となってきたのであるが、そうした現実のあり方が、やがて「兎角銀がかねをもふくる世なれば、せつかくかせぎて皆人のためぞかし、」(巻一・第二話)といった、貧福宿命の思想をうみだす心理的基盤、をかたちづくってゆくことになったのである。とすれば、それは、この時期に於いておこわなれたところの、商業資本の集中化を契機とする、町人階級の、二つの層への分裂に、それの発生の根拠をもつものであり、まさに中小商人層の悲観的・諦観的な生活意識・感情の、おのずからなるいいいあらわしであった、と考えられるものである。
 こうした思想・観念は、しかしながら、「町人鑑」に至ってはじめてあらわれたものではなく、すでに「永代蔵」に於いて見出されるところのものであった。
分限は才覚に仕合(しあわせ) 手伝(てつだ)はでは成(なり)がたし、随分かしこき人の貧なるに愚なる人の富貴 此(この)有無の二つは三面の大黒殿(だいこくどの)のまゝにも成らず、(「永代蔵」巻三・第四話)
 というのが、「永代蔵」に語られている貧福宿命論の、ひとつのばあいであるが、そこに、ひとつの貧富の運命を支配するものとして指摘されているところの「仕合(しあわせ)」という契機が、われわれが嚮に見てきたところの「偶然」をいいあらわすものであること等については、取り立てて説明するまでもないであろう。「町人鑑」の基本的な説話の型を構成する「偶然」という契機は、まさに、そのようにして、貧福宿命の思想に繋(つなが)るそれであったのである(そのようにみてくれば、巻一・第四話の、細心の注意分別が却(かえ)って仇となって金を失うという説話――万屋甚平の話――は、いわば「仕合手伝は」なかったばあいであり、その「我(われ)一生何程かせぎても、銀三百目より内の身体(しんだい)に極(きわま)る所を覚悟して世を渡りぬ」という結びを取上げてみれば、そうした説話が、才覚・努力によってはも早利を獲ることが出来えなくなってきていた現実にたいする、中小商人の視角からなる自慰的な解釈の、一つのあらわれであった、と考えられるのである)。
 ところで、「永代蔵」にあっては、そうした貧福宿命の思想と、それとはおよそ対蹠(たいせき)的な、努力・才覚によってみずからの運命を開拓しようとする、いわば個人を単位とし、個人の自由意志を基調とした思想とが、対立したかたちのまま投げだされているばあいが多く、そこにおのずから説話の構想的破綻(はたん)もおこり、一編の構想的不統一をも結果しているのであるが、そうした対立が、「町人鑑」に至って一応 解消され、統一にまで齎(もた)らされている、ということが指摘されるのである。およそ個人の努力・才覚を基調とした運命の開拓、という観念は、いまは過ぎ去った、自由競争期に於ける、町人の昂揚的な階級心理・生活意識をいいあらわすものであったけれども、自由競争期を去ること未だほど遠からなかったが故に、それがなお一般の人々の意識のうちに残存しえていたのであり、なかでも大商人層にあっては「何時にても見立の買置利得る事多」かったが故に、そうした意識の支配は決定的でさえもあったのである。
 したがって、それらの思想は、反発しあいながらも、なお中小商人のあいだに於いてすらも並立しえていたのであり、そうした現実面をレアリスティックに取上げたところに、「永代蔵」の構想的破綻もまたおのずから齎らされたのであった。そのようにして、「永代蔵」の内包する思想的矛盾は、自由競争期いらいの伝統的観念と、しかも直接的には大商人の生活意識と、中小商人のそれとの対立をいいあらわすものであったのであるが、それにたいして、「町人鑑」の示しているすがたは、まさにそうした矛盾の克服へのそれであったとみられるものである。ということは、また、次の比較によっても、おのずから明かであろう。
無理なる欲はかならずせまじき事ぞかし、ならねばなるやうに世わたりはさまざま有(あり)、然(しかれ)ども望姓持ぬ商人は随分才覚に取廻しても、利銀にかきあげ云々(「町人鑑」前掲)
 そこにみられる矛盾・撞着は、しかしながら、「永代蔵」の
俗姓筋目にもかまはず只金銀が町人の氏系図(うじけいず)になるぞかし たとへば大しよくはんの系(つり)あるにしてから町屋住(ずま)ゐの身は貧なれば猿まはしの身におとりなりとかく大福をねがひ長者となる事肝要なり……人は堅固にて其(その)ぶんざいさうおうに世をわたるは大福長者にもなをまさりぬ、(巻六・第五話)
 という矛盾に比して、はるかに整理されたかたちに齎(もた)らされているものであることが、いいかえれば、視覚的に 一応統一づけられているということが、明瞭に読みとられよう。そのような統一的な態度は、誤解をまねき易いいい方であるけれども、作家が中小商人ほんらいの立場に立って、現実を諦視することによってのみ、はじめて可能なものにされたのである。すなわち、右の引例についてみても、また
富貴は悪をかくし貧は恥をあらはすなり、身体(しんだい)時めく人のいへる事は 横に車も のいて通し、世を暮しかぬるものゝいふ事は人のためになりても是をよしとは聞(きか)ず、何に付(つけ)ても金銀なくては世にすめる甲斐なき事は今更いふまでもなし、(巻一・第三話)
 といった個所を取上げてみれば一層具体的な理解に導かれるであろうように、「貧福の二つは是非」ない現実をみる眼は、みずからの宿命的位置を自覚し、諦視している中小商人のそれであることは明かであり、そこに、おのずから、そうした貧福論が、大商人の生活への中小商人的な羨望的・憧憬的態度も、また一方にはみずからへの悲観的・自棄的な口吻をも ともなうものとなっていっているのである。
 以上と同様の結論を、説話の構想的な点からも導き出すことが出来る。すなわち、「町人鑑」一編の基本的構想は、すでに明かなように、「永代蔵」に於ける構想的破綻への統一的ポォズを示すものであるが(そのことは、また、そうした構想的統一への企てが、すでに「永代蔵」のうちにあって試みられつつあったことを具体的に物語る巻二・第三話、巻四・第一話等々特別の才覚・偶然などを主題とした説話が、整理され、発展させられたかたちに於いて、「町人鑑」に取上げられているということによって、裏づけられるところのものである)、そのような企てが、じじつ中小商人的な視角に統一づけられたすがたに於いて(またそのように視角づけられることによってはじめて)、現実にまで齎らされているということから――(前節参照)。
 さて、以上のようにみてくれば、「町人鑑」に示されている西鶴の現実観照の態度が、宿命的諦観に陥った中小商人のそれをいいあらわすものであることは明かであり、また、そうした彼の態度が、(それが彼にとって意識的であると否とにかかわらず)彼自身の中小商人的な生活のあり方(社会的位地関係)によって規定されているものであることも、ことさらに取り立てていうまでもないであろう。しかも、「永代蔵」に於けるそれとはおのずから異(ことな)った制作態度(視角)を彼にとらしめたものは、いいかえれば、「永代蔵」の示しているようなすがたから「町人鑑」のそれへの展開を触発した契機は、嚮に述べたような歴史的・社会的条件に存すると考えられねばならぬものであり、したがって、これら二つの作品のあり方の相違は、けっきょくは、町人の階級的発展の姿相に根柢をもつ歴史的な相違をいいあらわすものであるとして理解されなければならぬものである。そのようにして、「町人鑑」は、はやくもみずからの現実観を凝固せしめつつあった元禄町人の、生活相の再現をいいあらわすものであったのであり、当時の町人文学が漸く発展性を見失ってゆこうとする、そうした過渡的なすがたを示しているものであったように考えられるのである。
この稿を草するに際して、近藤忠義先生から御懇切な御指示を賜りました。茲(ここ)に銘記して、心からなる謝意を表する次第であります。
 
 熊谷孝 人と学問熊谷孝 昭和10年代(1935-1944)著作より