仮名草紙小論      熊谷 孝
  
「国語と国文学」13-1(1936.1)掲載--- 

*漢字は原則として新字体を使用した。 *引用部分以外は現代仮名遣いに替えた。 *傍点の部分は太字・イタリック体に替えた。
*明らかに誤植と判断できるものは訂正した。
*難読語句(文字)には適宜、読み仮名を添えた。


 便宜的な構図から、「恨之介(うらみのすけ)」・「清水物語」・「祇園物語」・「可笑記(かしょうき)」・「仁勢(にせ)物語」・「竹斎」などを当面の対象とすることによって、慶長寛永期に於ける仮名草紙全般への一応の見透(みとお)しを与えると共に、それらと明暦刊行の「他我身の上」・万治刊行の「浮世物語」・寛文刊行の「因果物語」・「為愚癡物語」などとを夫々(それぞれ)比較しながら、前期の仮名草紙から後期のそれらへの発展を触発した契機を明(あきら)かにし、かくすることによって、仮名草紙の歴史的特質を考えてみようとするのがこの小論の目的である。


             1

 いわれているように、慶長から寛文・延宝に至る時期は、町人文学の発展のうえからいっても昂揚的ロマンティシズムの時代であった。しかしながら、あらゆる過渡期の文学がそうした姿を示しているように、そこには、前時代的な伝統をひたすらに追い求め、それをひたすらに擁護しようとしたものも、いわば没落的ロマンティシズムの文学もみられた。というよりは、そうした前時代的反動の攻勢は、なかでもこの時期の前半に於いて熾烈(しれつ)をきわめていたのだった。ということには、まず、『この時期は、室町末期から戦国時代へかけての戦塵の余波が安土・桃山の文化的基礎事業を経て、漸(ようや)く平静にかえろうとしはじめた時期を以て開始される。従って此の時期の当初を支配するものは、中世的な偏見・迷蒙と戦国的暗愚・無秩序以外の何ものでもなかった』(註一)ことを思ってみなければならない。その故にこそ、人々の意識・感情のうえに、なお前時代的観念の支配は決定的でさえもあったのであり、そこにおのずから、已(すで)に現実的意義を喪失し果てた過去の文化――前時代的なそれへの憧憬的・懐古的な態度も生まれてき、そうした特定の「歴史的段階」が要求し、生み出したところの「特定の観念」を、永遠なものと信じ、主張し、それを擁護しようとする態度をすらも齎(もた)らしていたのであった。そして、いってみれば、そのような前時代的な観念は、初期の町人文学――仮名草紙の殆(ほとん)どすべてのうえに多かれ少(すくな)かれ遺存していたところのものであった。それと同時に、後でも述べるように、元禄期以後に於いて決定的なものになってゆく近世社会の経済的・政治的諸矛盾は、すでにこの時期に於いてその萌芽を示しきたっていたのであり、それらの関係が仮名草紙のありかたを一層微妙な、複雑多岐なものにしていたのでもあった。
 さて、そのようにして、近世初期に於いて逆流した中世的反動の潮流と共にあらわれた作品として、われわれは多くのものを指摘しうるのであるが、ここでは謂(い)う所の恋愛物、なかでもその典型的な姿をしているとみられる寛永刊行の「恨之介」を当面の対象とすることによって、没落的ロマンティシズムの文陣への一応の見透しを与えておこうと思う。
 清水詣(もうで)の折、美女を見染めた恨之介は、彼女の所在を知らまほしきことに観音に祈願を籠めた。枕神の託宣は、下京に住む尼の許(もと)を訪れよとのことであった。尼の許にも枕神はあらわれたのだった。求める彼女は木村常陸の遺児雪の前であり、尼は彼女の乳母であったのである。尼と、雪の前の親友である上(じょうろう)との中介によって、やがて二人は恋愛関係に入る。が、逢う瀬のままならぬ思いは遂に恨之介を死に導いた。恨之介の末期の文を手にした雪の前は、悲嘆の余り自害してその跡を追った。尼も侍女も彼女に殉じてゆくのだった。やがてのこと二人の遺骸は黒谷に葬られることになったが、そこに仏の利生が現れ、彼らの極楽往生の姿がありありと示されたのであった。
 以上が「恨之介」の略梗概なのであるが、そこに中世仏教の思想と結びついた作品の取扱いを明かにみることが出来よう。神仏の超絶した力は、まさに恋愛小説としてのこの作品の構想を統一し、秩序づける根本的なモメントなのであり、おのずから枕神は恋愛を成立させ、発展させるべく不可欠重要な役割を演ずることになるのである。ところで、恋愛の動機をなすものが、いわゆる見染めの形式によるものであることは、上に述べた略梗概によってすでに明かであるが、
つらつら物をあんずるに、我等いかなるゐんぐわにや、か様の姫を見参らせ、何と忘れん方もなし(下略)
 として、その見染めすらもが前世の宿縁に因(よ)るのであろうとする観念がそこにいいあらわされているのである。いわば恋愛の動機をさえも仏教的因果観に結びつけて考えようとする態度が窺われるのである。さらに、恋愛の中介者として登場する上揩フ態度に付いてみれば、「仏神の御引合せ、我なす事にあらざれば」こそ彼女もそうした役割を引受けるのである。そこに、この恋愛小説の作者が、超現実的な仏神の実在を肯定しつつ、その神秘的な力の行使を事実として承認しつつ、それを前提として、筋を進展させようとしている態度をみることが出来よう。雪の前を口説(くぜつ)する彼女の言葉は、この作品のそうした角度を端的に示すものである。すなわち、――
たとひ此事(このこと)もれきこえ、ものゝふの手にわたり、しざいるざいの身となるか、又はすいくわのせめをうけ、くつうくげんをみるとても前世のごうとおもふべし、たゞし千手の御ちかひ、不可称不可思議の、くどくは行者の身にみてり、かくのごときを御じひの、あまねく世界にふかきときく、ことに御ほとけの引合せましませば、其なんものがるべし、きゝ入れたまへ雪のまへ、
 かくして雪の前の、
くわんおんのおつげといひ、一にはそさまの仰(おおせ)といひ、そむきがたくやおぼしけん、
 と、ここに恋愛の成立をみるのである。雪の前は、ここでは全く自我のない女性として描かれている。いいかえれば、ここにみられる恋愛の成立は、なんら雪の前のひたむきな恋愛的な情熱とか、彼女の個人的な意志などによって決定されているのではなく、「くわんおんのおつげ」に背きがたいおもいが、殆(ほとん)どひたすらにそうさせたものとして取扱われているのであり、当然その背後に仏神の活動が予想されつつ筋のはこびがおこなわれているのである。
 次に、結末を取り上げて考えてみよう。
雪のまへ宣(のたま)ふやう、けふを名残(なごり)のかぎり也、それをいかにと申(もうす)に、世中(よのなか)の有為無常、朝(あした)に紅顔有(あり)し身も、いつのまにかはもとの雫(しずく)末の露ときえ、夕(ゆうべ)には白骨となれる身、是(これ)皆ゑどの習(ならい)也(中略)未来永々たらん時にこそ、かさねて又もまみえ申さん(下略)
 という雪の前の、来世に於いて恋愛を完成させようという別離の言葉は、そこに、比丘尼(びくに)物などにみられるような意識的な仏教的教化の態度が示されていることは兎に角、彼らの恋愛の結末にたいして予言的な暗示を与えているのであり、やがて彼女の言葉は実現されて、この物語は終りを告げることになるのであるが、そのような結末の構想に於いて端的に示されているような現実逃避的な生活態度をいいあらわす恋愛(観)は、中世仏教的無常観・来世欣求(ごんぐ)の思想と結びついたそれであることが指摘されるのである。
 以上「恨之介」について簡単な素描を試みたのであるが、この作品が恋愛小説としての構成上、仏神の超絶した力を不可避的に必要なものとしている、という点等々に於いてすでに明かなように、そこには個人の力を否定する思想が見出されるのであり、このことがおのずと恋愛に対する消極的・無気力な態度――この作品のそうした恋愛の取扱い方――を齎(もた)らしているということがいわれよう。(こうした恋愛の取扱い方は、また恋愛物全般に共通したそれなのである。たとえば、「薄雲物語」では、ヒロインが貴公子を見染めたことも明神の導きがそのようにさせたのであり、見染めから結婚に至る全行程悉(ことごと)くが明神の摂理のうちに用意されたものであるとして取扱われているのである。また、「薄雪物語」の愛人の死によって主人公が出家するという構想、「あだ物語」の三角的恋愛の中心におかれたヒロインが、かくなるもわが身故と自害して果て、やがてその死が諸鳥の発心の機縁になるというそれ等にも全く同様の態度が窺われると共に、そこに比丘尼物と共通した取扱いをみることが出来よう。)「恨之介」に於いて(また恋愛物全般を通じて)見出される個人の力を否定する思想は、過去の階級として歴史的に宿命づけられた没落的貴族の悲観主義的な階級心理――現実に対しても早(はや)なんらの希望をも繋ぎえなくなってきていた彼らの現実逃避的な生活意識(態度)がおのずからうみだしたところの思想に他ならぬのであり、直接的には彼らの観念的な支柱である中世的仏教思想の端的ないいあらわし――その集中的表現であると考えられるのである。(しかも恋愛物は、その前時代的な性格にもかかわらず、進歩的なモメントをも内包するものなのであり、そのようなところに、過渡期の文学としての仮名草紙の多様さもみられるわけであるが、それらについては後に纏(まと)めて論じよう)。中世仏教は、まさにそうした貴族の没落的な・悲観主義的な階級心理を反映して、現世否定的・来世欣求の無常観を決定的なものにしていたのであり、それは嚮(さき)に述べた社会的諸条件の故に、近世初期に於いてなお遺存し、中世的・前時代的残存勢力の指導的モメントとして威力を発揮していたのであった。仮名草紙がいいあらわす「中世的なるもの」の基調をなしていたところのものは、まさにそうしたものであったのである。
 ところで、そうした中世的悲観主義の最も積極的ないいあらわしを、われわれは、「七人比丘尼」以下謂う所の比丘尼物に於いて見出しうるのであるが、ここでは単に、それらが、要するに恋愛物と共通の地盤に於いて、無常観・因果応報の理法の目的意識的な教化を企図したものであり、いわば前時代的観念を擁護する立場にたつものである、ということを指摘しておくにとどめよう。
(註一) 近藤忠義氏「日本文学史概説・上方江戸時代」(岩波講座 日本文学)第一〇頁
(補注) 嵯峨本の刊行と仮名草紙の成立との関係は、きわめて重大に取上げられねばならぬ問題であるけれども、周知のことに属するから、それらについては一切割愛した。


             2

 「因果物語」(寛文刊行)は、ひとも知るごとく、仏教的教化の目的を以て制作された因果応報の説話集であった。
正三老人因果歴然の道理面前の事どもを記し認(したた)めて以て諸人発心の便りをなさんと誓ふ
 という序文の一節は、この作品の内容の端的ないいあらわしであると共に、それが比丘尼物等と共通の地盤にたつものであることを明かに示しており、そこにこの作品の前時代性も窺われるのではあるけれども、しかも、「面前の事どもを記し認めて」として題材を日常生活的なもののうえに(歪曲されたそれであることは兎に角)求めてゆこうとする制作態度が、おのずとそれらの説話の性質を日常生活訓的なものに、したがってまた、現世肯定的なものにしているのである。すなわち、上巻・第一九話「善根に因て富貴の家に生るる事」、中巻・第一四話「破戒の坊主死して鯨と成る事」等の説話にみられる日頃善根をつんだ人間が、やがて転生して善果をえ、悪業を働いた僧侶が輪廻して鯨に化した、といった卑近な、皮相的な一種の日常生活訓的な態度である。
 こうした「因果物語」の制作態度と比丘尼物のそれとを比較するならば、そこには共通して因果応報の理法の鼓吹がみられるのではあるけれども、しかも比丘尼物にあっては、この思想が悲観主義的な観念と緊密に結びついて、現世を否定し、遁世の要を強調することになるのであり(註二)、「因果物語」に於いては、その生活訓は来世への手段としてのそれではあるけれども、兎にも角にも現世を肯定的にながめてゆこうとしている態度をみることが出来るのである(「薄雲物語」に於ける かなをかの長者が善根をつむことによって現実に善根を招来する、という取扱いにも一応 同様の態度がみられよう)。かくして「因果物語」がいいあらわすところの仏教思想は、きわめて近世化された、いいかえれば、現世肯定的・日常生活訓的なそれであることが結論されよう。かかる比丘尼物から「因果物語」への展開は、中世仏教の近世化への道程を示すものであり、没落的ロマンティシズム文陣の壊滅の相貌を示すものであると考えられるものであるが、その背後に「清水物語」(寛永刊行)・「可笑記」(寛永刊行)・「他我身の上」(明暦刊行)以下謂う所の教訓物の遂行した進歩的役割を省みることなしには、こうした現象は正当に理解されえないであろう。
 排仏崇儒の旗幟(きし)をかざしてあらわれた「清水物語」は、いうまでもなくこの時期に於ける啓蒙精神の積極的ないいあらわしであったのであるが、それに対する中世仏教の陣営からの反駁が、「祇園物語」(寛永刊行)によって代弁されたことはひとも知るごとくである。けれども、その反駁が何ら儒教排撃というポォズを示すことなく、単に排仏論の無意味であることを述べ、儒仏一致の関係を力説しているということは十分注意されてよいであろう。われわれは、それを次のように考える。すなわち、「祇園物語」がいいあらわすところのものは、仏教の側からなされた儒教思想への歩み寄りなのであり、このことは、中世仏教の依拠する地盤がなんら現実的意義を有するものではなく、したがって、も早儒教思想と妥協することなしには、存在しえなくなってきていた事実を裏書きするものである、と。「祇園物語」以下謂う所の両教一致の制作を以て、単なる両者の歩み寄り、もしくは両者が相互的に宗教的共軛(きょうやく)性を見出すことによってなされた結合を意味するものであると見做(な)すような現象的把握は(そのことが、仮名草紙作家の社会的地位から来る、彼らの属する層の心理的な一面を代弁する協調主義的な態度によって決定されている、ということは主観的にはいいうるとしても)、なんら問題の核心に触れていないのみでなく、やがては事実の正当な理解を歪曲するものとさえもなってくる。それは決定的に仏教の側からなされた歩み寄りをいいあらわすものなのであり、したがって、儒教思想(武士的世界観)の中世的仏教思想に対する勝利を意味するものなのである。いいかえれば、仮名草紙の発展の過程に於ける中世的なるものの克服の一様相を示すものなのである。
 さて、そうした中世的なるものの克服の相貌は、後期に入って決定的なものになってゆくのであるが、次に、「為愚癡(いぐち)物語」・「他我身の上」などを取り上げて、そのような関係を考えてみようと思う。
「為愚癡物語」
目には見えずにたしかに有(あり)て、よろづ生有者(あるもの)の過去、現在、未来三世の善悪をただし、善ある者には賞をあたへ、悪ある者をば罰し給ふ、天命はあるじと見えたり、爰(ここ)を以てあんずるに、過去の罪を罰する所を因果と云(いい)、現在の罪を罰する所を天命と云(いう)、されば因果と云(いう)も天命のなす所、天命と云も因果のなす所にして、天命因果べちにわく所なし(巻一・第三「儒道天命の事」)
 中世的仏教思想の儒教的合理化・近世化への過程が、そこに明瞭に示されている(なお、巻一・第四「仏法因果の事」をそれと対照することによって、この関係は一層具体的に理解されるところのものである)。また、「他我身の上」に於いても同様の姿がみられるのである。
仏の四つの恩をときたまふうちには、衆生の恩あり、もし我は我、人は人たるといふならば、さまでの恩といへるまでは有(ある)まじき事なれども、たとへばあみを大空にはり、鳥のかゝれるあみの目は、わずかにひとつふたつに過(すぎ)ねども、目ひとつふたつ、ないし十二十なるあみにて、鳥をとらん事を求めんには、いつまで求むとも、鳥かゝるまじきが如く、我一人にて世をわたるといへる事は、有まじき事なり、(「他我身の上」巻一・『郷に入りては郷にしたがへというふ事並(ならびに)仏の四恩の事』)
 「他我身の上」は、「可笑記」と共に武士階級の歴史的要求を、文学の領域に於いて代弁した作品であったとみられるものであるが(註三)、しかも「可笑記」にあっては、中世的悲観主義に繋縛(けいばく)されている姿をもなお部分的には示しているのであり、そのようなところに、初期の仮名草紙の微妙なありかたがみられもするのであるが、それは兎に角、そうした中世的な残滓(ざんし)は(それが別個の形で残存することはすぐ後で述べるが)「他我身の上」に至って一応克服され了(おわ)っていることが結論されるのであって、そこに、「可笑記」の発展としての「他我身の上」の位地を考えてみることも出来るわけである。例証を挙げよう。
「可笑記」巻二第一
それ世の中のはかなき事を思へば、身のおき所もなき心ちこそすれ、とくして世を遁(のがれ)、しづかなるかたにこもりゐて、後の世を願はざらんにはしかじ、
(補註) なお、巻三・第一六を参照されたい。

「他我身の上」巻一・『後世のねがひにしなじな有る事』
誠に後世を大切と思はんとならば、先づ一番に我慢をやめ慈悲を専(もっぱら)とすべし、
 ところで、「他我身の上」・「為愚癡物語」などにみられる中世的仏教思想の儒教的合理化への過程は、いうまでもなく、仏教の側からなされた儒教思想への歩み寄りという「祇園物語」がいいあらわしている関係に於いておこなわれているのであるけれども(それが「祇園物語」と異(ことな)った立場に於いておこなわれていることが指摘されることは兎に角)、他面、武士の反動化を物語る具体的な表現でもある、という点を見遁(のが)してはならぬものである。新興階級として漸(ようや)く歴史の前面に登場しつつあった町人階級は、嚮に述べた不可避的な社会的諸条件の故に、なお前時代的な観念に繋縛されていたのではあったけれども、しかもほんらい的には、生れながらの現世主義者であったのであり(「仁勢物語」・「竹斎」等に於いてわれわれは、そうした町人のほんらい的な、典型的な姿を見出しうるのであるが、それらについては後に考察しよう)、現世主義的観念に裏づけられた彼らの批判精神は、おのずと宗教的桎梏(しっこく)からみずからを解放してゆき、あらゆる権威を否定し、人間万能の、個人の自由への要求へと展開しつつあったのである(それが彼ら町人の飛躍的な階級的発展の反映であり、その階級的発展につれて、彼らみずからの世界観――レアリスティックな現実観を成長せしめつつあった事実を示すものであるということについては、取り立てて説明するまでもないであろう)。そのときに際し、彼らの依拠する物的地盤の動揺につれて漸く反動化への第一歩を刻印した武士階級が、前時代的残存勢力との結託を遂げることによって、新興勢力――町人階級への抗争力を倍加しようと企てたことはきわめて自然であった。武士階級にとって、いまや自己の存在を合理化し、荘厳化することは絶対的に必要であり、町人階級に対して(彼らの被治者としての地位に対して)宿命的諦観を強制することこそ現下の急務となってきたのである。
 かかる役割を果すべく最適の条件を具えたものは、このばあい、儒教的律法主義であり、仏教的因果観であった筈(はず)である。かくして、それらは武士の(そうした意味での)観念的道具と化し、ここに儒仏一致の関係の成立をみるに至ったのであった。そうした機械的な条件が(そこには鎖国政策等々の近世史の運命を決定した政治的手段が予想されるのであるが)、やがては、元禄期に入ったさえも中世的悲観主義の遺存を避けがたいものにしてゆくことにもなるのであるが、それは兎に角、「他我身の上」・「為愚癡物語」がそうした側面をも内包するものであった、ということをここでは注意しておきたいと思う。
(註二) たとえば、「七人比丘尼」の『左京の御台の事』・『兵部の御かたの事』等の説話を参照されたい。
(註三) たとえば、「可笑記」の巻一・第一六と「他我身の上」の巻三・『むこいりの事』とを比較すれば、それらにみられる教訓的な口吻(こうふん)が、共通して封建的秩序のためにのそれであることが指摘されるのである。
(補註) 比丘尼物・恋愛物・教訓物等々に共通してみられる教訓的・教化的な制作態度は、この時期の啓蒙期としての歴史的条件がおのずから要求し、齎らしたところのものであったと考えられる。そこに、表現技法として問答体・談義体の形式が必至的に要求され、取り上げられることになったのでもあった(手法上の問題については、近藤忠義氏が「上方・江戸時代」〔前掲〕第一八頁―第一九頁に於いて、詳細に亘って論じていられるから、同書を参照されたい)。
 なお、教訓物のそうした教訓的題材として経済生活面が頗しく取上げられていることも、経済的・社会的構成が転換の時期に際していたことによって、経済面に対する関心がおのずと喚起されつつあったことの文学的反映であったと考えられるものであり、そうした現実 に対する武士と町人との視角の相違は、また、「可笑記」と「浮世物語」とを比較することによって明らかにされるところのものなのであるが、それらについての考察は、すべて、後に発表する「永代蔵の成立過程」に譲る。

             3

 「仁勢物語」・「尤の草紙(もっとものそうし)」(寛永刊行)以下謂う所の模擬物が、この時期に於ける古典俗解書の刊行に触発されて制作されたものであることはいうを俟(ま)たない。ここでは、そうした前提のもとに、「仁勢物語」を当面の対象とすることによって模擬物の特質を考え、傍(かたわ)ら「竹斎」(寛永刊行)・「恨之介」などへの一応の見透しをも与えながら、それらと後期の仮名草紙、なかでも「浮世物語」(万治刊行)などとの繋りを明かにしておこうと思う。
 近世初期は、ひとも知るごとく、武士支配の社会再建への努力をいいあらわす過程であったのであり、したがって、社会面は一般的には創生期の面貌を呈していたのではあるけれども、町人階級がやがて反封建的階級へと発展を就げようとする萌芽を示していたという事態をも反映して、部分的には、転形期の不安定性をも同時に帯びていたのであった。「仁勢物語」は、そうした転形期の間隙から生れいでたところの、いわば転形期の性格を担う作品であったのである(とすれば、「可笑記」以下の教訓物は創生期の性格を担う作品であったといえよう)。そこにこれら模擬物が、教訓的要素を払いおとした姿を示しえて、教訓物との質的な相違を決定したことの根拠があると考える。
 われわれは、嚮に「薄雲物語」を取り上げて、その取扱いのうえに、一応 「因果物語」に於けると同様の関係がみられるという事実を指摘したのであった。ところで、「恨之介」の取扱いのうえにも、たとえば恋愛を中世的仏教思想と結びつけて取扱うことのうちに、おのずとそうした前時代的観念を近世的なものへと方向づけていることが指摘されるのであり(前掲引用文参照)、なお巻初の
夢のうき世をぬめろやれ、あそべや狂へ皆人と、世に有貌(ありがお)はうらやまし云々
という個所を取上げてみるならば、それが無意識的にもせよ中世悲観主義への反発的な態度を織りなしたものであることが明かになってくる。そして、そこにみられる反発的なポォズは、武士の角度からなる反発のそれをしめすものではなく、却(かえ)ってほんらい的な 町人の角度に於けるそれをいいあらわすものであることが指摘されるのである。
 「恨之介」のそのようなありかたは、まさにこの時期の二重性――創生期と転形期との複合による――によって決定されているものと考える。
 ところで、「仁勢物語」・「尤の草紙」等の模擬物の多くが、貴族社会の発展期の、したがって貴族文学の頂点を示す作品である「伊勢物語」「枕草子」等を模倣し、それらを再制作することのうちに進歩的性格を担いえたということは十分注意されてよいであろう。発展期に於ける貴族の自由な生活感情こそ、やがて歴史の前面に押し出されようとしていた、新興町人の階級心理と一味共通したものであった筈である。模擬物がいいあらわす過去の文学遺産の摂取というポォズは、一般的にいって建設期(過渡的段階)に於ける新興階級が、みずからの文学を創造するための道程に於いて不可避的にとらなければならないそれであると考えられるものであるが、模擬物にあっても、そうした文学遺産の継承が、盲目的な踏襲としてではなく、みずからの必要に応じて、あくまで明日の文学への橋渡し的なポォズに於いておこなわれているという点に留意されなければならぬものである(教訓物に於ける問答体手法の取り上げもまさにそうした必要によるものであった)。模擬物が、古典文学への追求として表現をもったことも、けっして偶然ではなかったのである。比丘尼物以下中世末期の没落的貴族文学の改作物・類作物と、これら模擬物との似而非(にてひ)なる性格は、おのずからそこに決定されているのである。
おかし男、ぬかみそをおもひけり、つぼある人のもとに
こねわびぬあのぬかみそを入るてふしほからつぼもくだきつるかな
「仁勢物語」の一節であるが、それが「伊勢物語」の
むかしおとこ人しれぬものおもひけりつれなき人のもとに
こひわひぬあまのかるもにやとるてふ我から身をもくたきつる哉
 から脱化したものであることは、ここの取りたてていうまでもないのであるが、「仁勢物語」の作者が、古典をあくまで町人の視角から見つめ、類似の章句を求めて、そこに町人生活のあるがままの姿を再現させようとしている、いいかえれば、古典を近世化することによって、自己の生活感情を吐露しようとしている態度をみることが出来る。
 同様の態度を「竹斎」に於いても見出すことが出来よう。すなわち、――
とよ国大明神に参りて(中略)大仏殿をふしをがみ、一しゆつらぬけり、
ゆゝしげに顔をば見せてひでよりのやくにもたゝぬ大ぼとけかな
 及び同書の主人公が北野天神に詣でて詠ずる狂歌、
だち馬ににほひおこせよわさ米をつかひなしとてあきなわすれそ
 われわれは、そこに「仁勢物語」と共通して、ロマンティスト町人のほんらい的な姿――現世主義的・楽天的な生活態度のさながらなる再現をみるのである。
 以上に於いて、われわれは、近世初期の創生期と転形期との複合的な二重性を考え、転形期の性格を示す典型的な作品として「仁勢物語」・「竹斎」などを取り上げ、さらに、そうした現実面の反映を「恨之介」について瞥見(べっけん)してきたのであった。ところで、そうした転形期の面貌は、明暦・万治のころに至ってみまがうべくもなく決定的になものになってきたのである。いいかえれば、、この時期は、町人階級が商業市民階級としての結成を就げようとする前夜をいいあらわしていたのであった。前にも述べたように、武士階級は、そのときすでに反動化への第一歩を踏み出していたのであり、かつては社会発展の指導的モメントであった儒教思想も、も早町人階級にとってみずからを指導するものとしてではなく、却(かえ)ってその健(すこや)かな発展を阻止する桎梏と化してきたのである(漸く武士の世界観と町人のそれとは相剋しはじめたのである)。かくして、町人階級にとって武士の世界観のそのような桎梏からみずからを解放することこそ、彼らみずからの世界観を確立すべく現下の急務となってきたのであった。そして、このばあい、武士階級によってなされた前時代的残存勢力との結託という事情は(前項参照)、彼ら町人の、武士の世界観への反発の表現を一は儒教的禁欲主義・律法主義に対して示すと共に、中世的悲観主義への抗争というポォズに於いて示すことになったのである。そうした町人の階級感情を文学の領域に於いて代弁したのが「浮世物語」であったのである。
 「浮世物語」については、ここで詳述することを避けるが、たとえばその巻一・「傾城ぐるひ異見の事」を取り上げてみるならば、前に述べた武士の世界観への町人の二重的な反発が、そこでは刹那的享楽主義として表出されていることが指摘されるのであり、そこになお前時代的観念に繋縛されている姿を示していることは兎に角、町人生活の現実をほんらい的町人の視角から見つめ、それをあるがままの姿に於いて再現させようとしている態度が窺われるのであって、そのようなところに、この作品が「仁勢物語」・「竹斎」等の嫡出子であることが明瞭に示されていると共に、模擬物が古典の再制作の過程を通してみずからの再現を企てているのとは異(ことな)ってここではも早古典への仮託をも必要とすることなく「町人文学」の創造が見事に実現されている事実をみるのである。そのようにして、われわれは、「浮世物語」に於いてすでに浮世草紙的なるもの をさえ見出しうるのであるが、この作品のそうした飛躍的な姿が、模擬物がいいあらわす過去の文学遺産の摂取の過程を通して、はじめて齎(もた)らされたものであったということを、このばあい、見遁してはならぬものである。こうした模擬物から「浮世物語」への発展は、一般的にいって、町人文学に於けるロマンティシズムからレアリズムへの発展の過渡を示すものであり、町人の階級的発展の姿相に根柢をもつ歴史的な関係 をいいあらわすものであると考えるのである。

 
 熊谷孝 人と学問熊谷孝 昭和10年代(1935-1944)著作より