独歩 ――「運命論者」 覚書 ――                熊谷 孝
  
法政大学国文学研究室「国文学誌要」3-1 (1935.6) 掲載--- 

  *漢字は原則として新字体を使用した。 *引用部分以外は現代仮名遣いに替えた。
*明らかに誤植と判断できるものは訂正した。 *難読語句(文字)には適宜、読み仮名を添えた。


 『偖(さて)、わが自然主義者の中に、ユニークな道を歩んだ一人は、国木田独歩である。わが自然主義運動が、古典主義への反動として発生し、主として、人生観社会観上の問題に極限されてゐたのに対し、独歩はそれを離れて、独歩の道を展(ひら)いた。即ち、フランスの自然主義に対してワーズワースの道をとつた。独歩は、自然を素朴的に人間に対置する。この自然と人間の関係を無限と有限、永遠と時間、壮大と虚無との関係に於て歌ふ。この両者をつなぐ運命、驚異、生命の神秘が問題にされる。独歩は自然へ向つて人間を解放した。人間を屋根の下に見ずして大自然の一点景として見た。これは日本に於ける近代文学史上に於ける一大功績となすに足りるであらう。』(「自然主義の発生とその没落」)

 
という唐木順三氏の独歩論は、氏の独歩に対する深い理解を示すものであると共に、まさに独歩のあるがままの姿を端的に言いあらわしている。が、問題はそれで終っているのではない。唐木氏的な表現を用いれば、独歩は『自然へ向つて人間を解放する』ための思惟のプロセスとして(、、、、、、、、、、)『この両者をつなぐ運命、驚異、生命の神秘』を問題とすることによって彼自身わが自然主義者の中にユニークな姿を示したのであった。だが、彼の自然へ向けての人間解放も、結局他の自然主義者たちのひたむきな現実追求が「現実暴露の悲哀」に陥らざるをえなかったのと同一の宿命を負うものではなかったか。わが自然主義の運動を透谷につづく封建的反動への闘争、封建的桎梏(しっこく)からの人間解放のためのそれであったとみるならば(ということは透谷的な浪漫主義がそのまま直線的に自然主義へと転化したということではない)、それは『主として人生観社会観上の問題』に於いて、唐木氏の謂(い)う所の『独歩の人』である独歩にあっては自然へ向けての人間解放として敢行されたのである。しかもそれは観念的に敢行されたのである。透谷による人間解放が結局「想界」に於いてのみ可能なものであったように、独歩にあってもそれは単に思惟の世界に於いてのみ、一応具現されたかのように見えたに過ぎない。透谷は克服しえない「想界」と「実界」との相克の苦悶に死をはやめた。多くの自然主義者たちは、現実への良心的な追求によって、「現実暴露の悲哀」を告白する結果をまねいた。独歩にあっては

 「余は、大自然と相面して、自己の双影を顧みる時、今更の如く吾が生の孤独と荒涼と不安とに堪へず、何者か神秘の力に頼らんと欲するの情極めて切なり。此大自然と相面して、宇宙の不可思議に驚異するなく、驚異するも、何物をか希望するの念起らざる人あらんか、そは未だ此大自然に、的確に、真実に、相面せざる人なり。虚偽なる幻影に欺かれたる人なり。
 キリストが四十日四十夜、曠野に髣髴
(ほうふつ)たるを看よ。釈迦が菩提樹下に退きたるを看よ。西行が世を遁(のが)れて浮浪の旅に行脚の生を送りたるを看よ。彼等は実に大自然に真実に相面し、生の孤独を痛切に感じて、何物かを求めんとする情、火の如く熱烈なりしなり。
 人は其習慣の虚偽なる生活を脱して、直ちに大自然に相面し、第一義なる人生の根本を衝く時、其処
(そこ)に必ず生の孤独と悲哀との閃(ひらめ)く影を見む。痛切に胸を打つものは此閃(ひらめ)く影なり。あゝ斯(か)くして、意に何物をか求むることなくして止まんや。人の本性は実にこゝに在り。」(「独歩病床録 死生観」)

 として神秘的な自然の懐の中に無我安住の境地を見出した。
 とみてくれば、独歩に於ける自然への人間解放も、所詮は自然へ向かってのひたむきな逃避行を意味するものであったとしか考えられない。人間は客観的(社会的・人生的)現実の制約に対して結局無力な存在でしかないという宿命的諦観が、「見ざる聞かざる」的な現実逃避の出発である。その逃避所が独歩にあってはまさに「自然」であったのである。とすれば、独歩の自然愛の記録を現実逃避者の記録であるとして一応規定しようとすることもあながちわたしの概括主義がそうさせるばかりではあるまい。

 「真の自由こそ真の幸福ではないか。真の我の如き心に多少の準備ある者が田舎の生活を営むことによつて始
(ママ)めて得られるのではないか……何を苦しんで此賜(たまもの)を捨て、自ら好んで都会の生活に此身を投ずるのだ。『事業のため』『義務を尽さんが為め』『国利民福の為め』『人類の為め』なるほど実にさうかも知れない。希(ねがは)くば以て自らを欺く勿(なか)れである。凡(すべ)て此種の美名を以つて爾(なんじ)を束縛する勿れである」(「帰去来」)

 
ここには明瞭に彼の自然への歩みが刻印されている。そしてこの歩みが「不羈(ふき)、独立、自由! 人は此地上に於て其十分を享有すべき約束を持つてゐない」(「帰去来」)ところからなされた自然への逸脱であるという点は十分注意されねばならない(この点後述)
 「帰去来」の帰結は、当然宿命観への転落である。「運命論者」の誕生は、既に「帰去来」のそれと共に約束されていたのである。「運命論者」は、謂
(い)わば独歩自身のために自然と彼とを連繋(れんけい)させる一契機として生れたのだ。言い換えれば彼の自然への降服を理由づける自己欺瞞のために生れ出でたのだ。彼はこの作品で、幾個かの偶然をプラスして、殆(ほとん)どありえない、だがそうした偶然がプラスされる場合があり得るとしたならばまさにあり得るであろうような、謂わば読本(よみほん)式な数奇な運命をことさらに想定した。生れながらにして暗い影を負わされた「悪運の児」である主人公が、幼い自分を棄て、病床にあった父を見棄てて駆落ちしたいまわしい母を養母とし、実の妹を妻としている自己のむごい運命を呪う姿がそこに展開される。

 「里子は兎も角も妹ですから、僕の結婚の不倫であることは言ふまでもないが、僕は妹として里子を考へることは如何にしても出来ないのです。
 人の心ほど不思議なものはありません。不倫といふ言葉は愛といふ事実には勝てないのです。」

 「自ら欺いて倫理学とかいふ奴隷の信条を招牌
(しょうはい)とすべき義務はない」(「帰去来」)という人間社会の道徳以上のものへの、(彼にあっては)より高い自然の秩序に於ける愛への要求が端的に語られている。謂わば「人を社会の一員として見るばかりでなく、天地間の生命として観んことを求め」ている人間の姿である。
 
 「離婚した処で生の母が父の仇である事実は消えません。離婚した処で妹を妻として愛する僕の愛は変りません。人の力を以て過去の事実を消すことの出来ない限り、人は到底運命の力より脱
(のが)るゝことは出来ないでせう。」

 まさに運命への降服である。独歩の素朴唯物論()な自然観がこうした神秘的な宿命観の袋小路に逢着したことは自然のいきおいであろう。 

 独歩の自然愛は、彼の素質的なものに由縁
(ゆえん)しているのであろう。彼のワァズワスへの傾倒も一にはこの点に起因しているのであろうし、またワァズワスからの影響がこのような彼の素質を育んだのだとも言えるだろう。他の自然主義者たちのように、自己の生活現実をたとえそれが醜であろうと何であろうと現実を現実としてそれへのひたむきな追究をつづけようとする態度を示すことは彼にとっては素質的に不可能であったのだとも言えよう。といって矛盾にみちた現実をそのままの姿でことさらに美化することも、その中に真実を想定することも良心的な彼としてはなおさら不可能であったろう。彼にあっては矛盾ははあくまで矛盾であった。しかもそれは克服しえない矛盾であった。とすればそのような矛盾、現実は宿命的なものですらある。人間は不可避的に矛盾多い虚偽の生活を強いられている。人間は、遂にこうした現実の桎梏から逸(のが)れえないのであろうか。宿命的諦観は、彼にあっては遂に諦観として止(とどま)りえなかった。「人の他の動物と異なる点は習慣を脱して、裸々然天地に対することを得る事なり。」「人は其習慣の虚偽なる生活を脱して、直ちに大自然に相面し、第一義なる人生の根本を衝」き得るとしたところに彼の飛躍があった。彼の自然愛の文学もそこに生れた。が、それは同時に現実遊離を意味していたし、だからその文学は謂わば現実逃避者の手記であったのだ。
 とはいえ「竹の木戸」等では、宿命的諦観の眼を現実凝視に向けようとする努力を示している。誰かも言っていたように、それはたしかに社会的構造と個人生活との関係について一の問題を提供している作品であった。といってそれが積極的に、あるいは意識的になされているのではない。そこに付き纏
(まと)うものは、やはり宿命的諦観に裏づけられた暗さであった。そのようなところに現実凝視に堪えかねて『自然』に眼を転じようとしている彼の姿がみられないこともない。独歩にあっては、自然は謂わば彼が生れながらにして胸に抱いていた心の故郷でさえあったのだと思う。と考えてくれば彼は結局トマンティストだったのではないか。「竹の木戸」等に於て自然主義的な作風を示した彼ではあったけれども、しかし生れながらのロマンティストであったのではなかろうか。絶えずロマンティストの夢を失わずにもちつづけていた人ではなかろうか。
 ところで彼自身の(にが)
い生活体験・生活環境といったものが、彼の自然への接近をはやめさせる拍車となっていることも見遁しえない点であろう。彼の言葉は、十分そのことを示している。そういう眼でみれば「帰去来」・「運命論者」等に彼自身の暗い生活の影がみられないこともない。
 だが、こうしたさまざまな個人的な条件以外に独歩の自然への歩みを決定した、彼を宿命的人生観にまでつきおとしたもっと根本的なものがある。彼自身の言葉をかりれば「不羈、独立、自由! 人は此地上に於て其十分を享有すべき約束をもつてゐない」ということだ。透谷を死に導いたのもそれであった。多くの自然主義者たちに「現実暴露の悲哀」を感じさせたのも結局それであった。独歩のこの言葉は、謂わばこの時期の於ける良心的なインテリゲンチャ層の生活感情を代弁するものであったのだ。も早観念的にしか自由主義をもちえなくなっていら彼らの悲観主義的な生活感情は、おのずから現実回避的なものをすら内包していたのだった。独歩の「自然」の文学(ひろい意味での)は、この層のこのような心理・感情の鋭い言いあらわしであった。ただひたすらに現実から解放されようことを求めている気持、それが彼の全部であった。と同時にそれは、彼と同じ時代に生きたひとびとが多かれ少かれもっていたところの――共有していたところのものだった。独歩の個性的なるものは、彼の生活体験・環境・教養に育まれて、しかもそうした時代的な地盤をえて自然愛の文学にまでそれを結晶させて行ったのだ、と思う。
  
  すこし簡単に片づけ過ぎたきらいがあるけれども、独歩に於ける宿命観と自然愛との関係・繋りを、そして彼の作品が言いあらわしているところのものを今のところわたしは(結論として)以上のように考えている。
 ――旧稿整理による――


 【付】同誌・同号巻末「彙報」より
 □ 研究室助手に熊谷孝君就任
 昨年度の卒業生熊谷孝君は四月一日付を以て国文学研究室助手に就任された。我学科は従来研究室に助手を欠き、研究室整備又学会発展の上から色々の支障を生じてゐたが、同君を迎へるに及んでさうした杞憂は今後無くなつたわけである。同君は在学生一同から信頼される好学の士、亦之(これまた)学会の喜びの一つである。

   ‖熊谷孝 人と学問熊谷孝 昭和10年代(1935-1944)著作より