《 虚構/虚構する 》

 【文教研・文学教育研究基本用語解説 Ⅵ 】から

虚構 (フィクション)  形象の造型、とりわけ典型造型のはたらき。その方法的基本過程。
 「ものを書く人間より、ものは常に巨大である」
(長谷川四郎)わけだが、その巨大な現実を微視的かつ巨視的につかみとる方法は、小林勝ふうに言えば、現実を変形譚の主人公と見なすことである。シノダの狐の変形譚に事例をとれば、美しい人間の女性の中に女狐(めぎつね)の姿を見、いそいそと笑顔(えがお)ではたらく彼女の内奥(ないおう)に苦悩とおののきを見つけることである。あるいは、狐が人間に、やがてまた狐へと姿を変じていく、その変形の中にそのものの本然の姿を探ること――それが虚構のはたらきだ、ということになる。
 それは、体験に与えられた知覚的現実を「ありのまま」に描くことなどではない。書くことで可能性可変性における現実の姿を探る営為である。何のためにと言えば、その人間主体にとって「可能にして必要」な、実践の方向を具体的なイメージとして見きわめるためにである。
 このようにして、虚構がそこに求めるものは、「実践へ向けての自己の行動の選択に関して、その行動の選択に必要な、未来をさきどりした現実のイメージ」(『文体づくりの国語教育』四三ページ)である。可能的現実は時間構造的に未来に属しているからである。

 虚構と主題  文学の場合、虚構は書くこと、読むことにおいて実現するわけだが、書くということで言えば、それは言葉を通すことで主題を自分にハッキリさせていく行為だ、ということもできるだろう。「初めから主題がつかめているのなら、何もわざわざ詩を書く必要はない」(渡辺武信)のである。文学にとって主題とは、生活し実践するその 主体にとって、自己の行動選択に関して主題であるもの、ということ以外ではないからである。
 その意味では、虚構するとは、主題に関してその印象を追跡すること、「印象の追跡において、自己のイメージをよりダイナミックで躍動的なものにつくり変えていくことである」(『文体づくりの国語教育』二二ページ)
、ということになろう。



虚構(フィクション)/虚構する  
            【<文学と教育>ミニ事典】から

  一応、小説の場合に限定しての話だが、
虚構(fiction)のどういうものかということにいついて、A.ティボーデ(Albert Thibaudet 1874~1936) は次のように語っている。それは、人間の生活体験――体験的事実――をえがくことではなくて、体験に即し、かつ体験を越えて人間の無限の可能性をそこに探り、それを描くことである、というふうにである。体験的事実を単にそれとして描くというだけなら、それは日常的な意味においてすらフィクションではないだろうから。
 彼はまた、こうも言っている。ニセモノの小説家は、自分の生活体験を自己の精神の骨格にしたがってなぞる だけだが、ホンモノの小説家は人間の無限の可能性を描く。自分が実際に体験しはしなかったけれども自己の体験としても可能であり得たような、数々の可能な現実をそこに探り求めて描くのである、云々。また、このように、いわゆる意味の現実ありのまま
――つまり体験的事実である――をではなく、可能性における人間の姿を探り、それを描くところに小説の虚構は実現する云々、というのである。
 彼のこうした虚構論は、今日の虚構論一般の視点からすれば、むしろ、書くことで人間の可能性を見きわめようとするところに小説の
虚構が実現する、というふうに言い換えたほうがいいかもしれない。少なくとも、そう言い換えたほうが、よけいな誤解を避けられるかと思う。というのは、次のようなことだ。
 書くということ、描くということ、つまり
虚構するということは、その時すでに自分の内側に成り立っているイメージ――それは、なんらか可能性における人間のイメージである――を、単にそれとしてことばにマークする、ということではないだろう。「最初にイメージがあって、“ことば”はあとからやってくる。」と作家の創造過程について江藤淳は語っているが(『作家は行動する』)、それはことばがイメージをマークする記号として「あとからやってくる」という意味では多分ないだろう。むしろ、それは、ことばを通すことでイメージを確かなものにし、豊かなものにし、またそういう意味で当初のイメージを別個のそれにイメージ・チェンジすることだからである。言い換えれば、人間の可能性への自己のイメージ、自己の印象をことばを通路としてそこに追跡し、そのイメージをよりダイナミックで躍動的なものに変形・変容していく営み――それが虚構するということだからである。 (…)
 
 で、この
虚構ということだが、どういう意味にもせよ、イメージにおいて――というのはイマジネーション(想像・想像的意識)のはたらきにおいて――無いものをそこに在らしめ、逆に在るものを無からしめる営みということがフィクションということばに託されている概念(概念内包)の大筋だろう。
〔1969年、熊谷孝著『文体づくりの国語教育』p.12-14/ 改稿 1973年、熊谷孝著『芸術の論理』p.90-94〕


 
虚構するとは自己のイメージに関してその印象を追跡することだ (…)。また、(…)虚構するとは、そのような印象の追跡において、自己のイメージをよりダイナミックで躍動的なものにつくり変えていくことだ(…)。今、そのことを少し視点をずらして言うと、感情を組み替えることでイマジネーションのありようを組み替え、自己のイメージの示す虚像性と実像性との交錯・対立を止揚・統一していく営みが虚構するということだ、ということになろう。
 サルトル(Jean-Paul Sartre 1905~ )ふうに言えば、それは、〈飼いならされた言葉〉を〈野性のままの言葉〉にもどす営みである。あるいは、そうした営みの中に
虚構が実現する、ということなのである。野性のままの言葉を自己に回復することで、イマジネーションに活力と自由を与え、想像の自由な飛翔(ひしょう)によって、これが現代の実像だというものをつかみ取ろうとする、それが虚構――虚構精神である。「まちがっているかもしれないし、理論的には所詮仮説なんだが、しかしそれが自分たちの結論だというものを自己の責任において、これが現代だ、現代だというものだ、これが現代を生きる人間の生きかただ、というふうに大胆にぶっつける。それが文学だ。虚構するというのは、そういうことだろう。」という意味のことをある現代の作家は語っているが、論理的にオチやコボレがあるにしても問題の核心を突いた整理だと思う。
 ともあれ、そのような「まちがっているかもしれない」が、その限り具体的で鮮明なイメージが先行し随伴していなくては、人間は、実践の名に価するような合目的的で計画的な行動を選び取ることはできない。単に、こうあるべきだ、こうすべきだという観念だけでは、実践への情熱と意欲を自分自身にかき立てることはできない。そこに必要とされているのは、その実践をいわば自己の生涯のものとしていく、持続的なイメージ である。行動の系とのつながりである。“思想”としての、観念の内化、そのための観念とイメージとの統一の実現である。
〔1973年、熊谷孝著『芸術の論理』p.110-111〕



 
[藤原定家の「こしらへ出(いだ)す」は]虚構意識においてこしらえ出す のである。あるいは、意識的虚構において創作・創造するのである。何にしても、それは意識的、自覚的な制作の営みである。「こしらへ出す」とは、また、「なほざりによみ捨つる」態度とは対蹠的なものである。あるいは、無縁のものである。それは、現実を傍観するのではなく、現実に「執する心」のみがもたらす創作の態度・姿勢であり、また方法意識であった。
〔1973年、熊谷孝著『芸術の論理』p.113〕


  未来をおもうことが意味をもってくるのは、本来、可能にして可変的な、またその意味で必然的で必要な
――つまりは、自己の行動の選択にとって必要な未来を思索しイメージするという、そのことにかかわるのではないか。ともあれ、未来のさき取りなしには、未知を既知に変える虚構の営みは実現されえないのである。

 
虚構する精神とその精神の母胎は、つまり藤原定家の場合に見るようなものだろう。むしろ、現実がカオスとして映ずればこそ、あるいは、明確な観念の対象としてそれをつかみきれないからこそ、虚構による現実の転位・移調(transposition)において現実そのものを見きわめようとする意欲も沸き立つわけのものだろう。
 やや比喩的に言えば、それは少なくとも第一次的には、自分にとって発声可能な音域への移調ということが大前提であるとすれば、当然そういうことになるだろう。だが、芸術的虚構の本命は、その移調された現実がいわば現実以上に現実的であるということ、そのような“現実以上の現実”を具体的なイメージとして造型する、ということにあるわけだろう。
〔1973年、熊谷孝著『芸術の論理』p.117〕


  ティボーデの言う、人間の無限の可能性を探る虚構ということも、また小林勝たちの言う、虚構による人間の可能性の発見ということも、それは、主体的、実践的にキャッチされた未来像のありように応じての、可能にして可変的な人間の姿の典型化
――具象的なイメージとしての顕在化――を意味する以外のものではないだろう。つまり、それは、そこにつかまれた未来像に応じて、何が可能で何が不可能なのかということ、またどのように、どの程度にそれが可能なのかということがつかめてくる、という意味での無限の可能性、可能性の無限ということにほかならないだろう。もし、そうでなければ、その虚構――とりわけティボーデの虚構論を裏打ちする人間観は、底抜けのただのオプティミズムにすぎない、ということになってしまうだろうから。
〔1973年、熊谷孝著『芸術の論理』p.140〕

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