《 場面規定(を押さえる) 》
 場面規定     【文教研・文学教育研究基本用語解説 Ⅰ】から
(作品表現本来の場面規定)
 <言葉>が信号としてはたらくのは、人間の具体的な行為・行動の場面において操作される場合だけである。そして<言葉>は、そこでは、信号を地づらとした図がらとして、人間の行動の一形態となる (<言葉>は実体ではない。実体と媒体については、『言語観・文学観と国語教育』p.12-参照) 。したがって、その図がらの模様やその図がらの意味するものは、そのつかわれる場面に制約される (<言葉>の融通性と規定性については『芸術とことば』p.204-参照) 。だから、その文章の表現本来の場面規定をきっちりおさえて読まないと、同じ一つの信号でも、その場面が規定する本来の意味内容とは別個の意味内容として受信されてしまう (鑑賞のズレの原因及びその矯正) 。他の場面における他の人間のおもいや行動をその生きた場面 (単なる時代背景という粗いとらえ方ではない) の中でとらえる、それを自己の地づらに媒介して読む (場面規定は場面規定としてつかみ、あらためて文学として対面するというのではなく、最初から自己の文学体験にかかわる形で、その場面規定をつかむ) ことで自己の地づらそのものを変革する (本来の場面規定をくぐって読む) という操作を発展的につみかさねていくこと (鑑賞学習) で、ひとの言うことを感情ぐるみにわかる (「主題」の項参照) 素地も培われ、どんないい方が相手に説得性をもついい方になるかという表現の素地も養われ (表現学習との関係) ていくことになる。(M.S)
 言表の場面規定    【文教研・文学教育研究基本用語解説 Ⅵ】から
 言表のありようを規定する、言表場面の諸条件の意。したがってそれは、言表理解にとっての必須の条件となる。
 言表が成り立つのは基本的には、送り手と、受け手と、話題の三者によってであるが、実際にそこの場面における話題の組みかたや切り取りかた、主題の追求のしかたなどを規定するのは、受け手の体験のありようを前提とした、送り手の現実把握の発想→文体的発想である。そこで、所与の文章をまっとうに理解するためには、少なくとも、①それが、誰に向けての(また誰と誰との間での)どういう時空的場面における言表 (伝え合い) であるのか、ということの明確な把握と、②自分という受け手が、どういう生活の実感と実践に生きている自分であり、また、本来のその言表場面とどういう関係に立つ自分であるのか、という反省による視点の自己調節がそこに要求されることになる

  場面規定(を押さえる)   【<文学と教育>ミニ事典】から
 言表の場面規定 をおさえて読むという、そういう習慣づけと構えをつくる指導である。中学後期から高校段階へかけては、むしろ、そうした構えを明確に自覚させる指導が必要になるのである。(…)
 この文章が、いったい、どこのだれが、どういう人に向けて、どういう目的で書いた文章なのか、ということがわかれば、それに越したことはないわけだ。筆者の言表の真の目的は文章そのものを終わりまで通して読むことで初めてわかる、というのはほんとうのことだが、わたしたちの言うのは、むしろ、それがほんとうにわかるための解き口 のことだ。解き口をつかむための言表の場面の理解・把握ということなのである。
 たとえば、この文章の題名がわかっただけでも、読みのある方向づけが得られるだろう。また、筆者がどういう人かということがわかり、発表紙(誌)が何々だということがわかっただけでも、おのずとある解き口が用意されてくるだろう、という、そういう意味での「どういう目的で書いた文章なのか」云々ということなのである。(中略)
 場合によっては、そこにもたらされた解き口が、かえって誤読・誤解のもと、というようなこともないわけではない。それにもかかわらず、わたしたちが、
言表の場面規定をおさえた解き口の用意ということを言うわけは、言葉というものの媒体としての限界、媒体としてのそれの性能の限界を思うからである。太宰治のいいぶんではないが、「所詮は言葉だ。」なのである。言表の場面規定をおさえてこそ、その言表は、その行動場面における行為・行動の代理としての機能・性能を発揮することも可能になるのである。
〔1970年、文教研著『文学教育の構造化』p.30-31〕
  

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