文教研・文学教育研究基本用語解説 W          1968年10月20日発行「文学と教育」第54号に掲載
(原文の傍点部分は斜体に変えた。)
 
   
印象の追跡としての総合読み(その一)


 ここでは、「印象の追跡としての総合読み」を、二つの側面から説明することにする。すなわち、はじめに、文教研がこのテーマに精神的に[後注:「先進的に」の誤植か]取り組んだ課題意識の側面から、次に、「印象の追跡としての総合読み」の方法原理として、これまでに文教研で共通確認されたことの整理という側面から、ということである。
 民族の今日的課題、私たちはそれを「はたらく国民大衆相互の連帯の回復」と考える。民族とは、熊谷氏の整理によれば、「第一義的には、その民族社会の生産労働の担い手である国民大衆=民衆のこと」である。民衆が本来の自己の意識を見失い、他人の発想でものを考え、行動させられる 、という状況の中で、民衆相互の連帯はズタズタに分断されている のである。このことが、あらゆる面で民衆の生活を圧迫し破壊しつづけている大きな原因となっている。私たちが、民衆の連帯の回復を目ざす理由はここにある。
 このことは、私たちが、民族の課題にこたえる教育活動という発想で国語教育を考えるとどういうことになるのであろうか。国語教育では、民衆の連帯回復のための「文体づくりの教育」ということになる。本来の自己を見失い、他人のことば(飼いならされた言葉)でものを考え、行動させられる 民衆を、自分の言葉(野性の言葉)で考え、行動できる 民衆につくりかえていくことである。子どもが生活しているのは、おとなと同じ社会の中である。「白紙」というようなことは絶対にありえない。子どもも子どもなりに飼いならされつつある。飼いならされた言葉(発想)から子どもを解放していく教育活動、これが「文体づくりの国語教育」ということになる。民衆の子供を、未来に向けて、野性の言葉(発想)で考えることのできる民衆に育てていくことが、国語教育の今日的課題である。
 この課題にこたえる読みの作業面の方法が「「印象の追跡としての総合読み」なのである。
 ところで、文章の理解というものは、戸坂潤の用語・発想を援用していえば、受け手自身による自己の「印象の追跡」という形で成立し展開していくものであろう。ここで「印象」というのは、熊谷氏の整理によれば、「一定の刺激に対する受け手の全人間的な反応(反射)」のことである。
 第二信号系理論をくぐれば明かなことであるが、その文章、その言葉は、伝え(=伝え合い)の媒材、媒体以外ではない。とすれば、その文章、その言葉は、思想や感情の容器として、相手にそれらを運搬する道具的存在ではなく、受け手自身の内部に反応・反射としての刺激を与える媒材・媒体として存在するのである。だから、受け手は媒材・媒体である言葉や文章の中に中味を求めてもその内容をつかむ(文意をつかむ)ことはできるはずはなく、それからことば刺激を受けとることにより、反応・反射という形で内容をつかんだことになるわけである。こういうわけで、読みは必然的に受け手の主体を通す形で成立するのであり、そこには印象が生じるということである。くりかえすと、その受け手自身の自己の印象を追跡するという形で読みは成立し、展開していくものなのである。
 この「印象の追跡」による読みの過程をもう少しくわしく、その過程的構造の面でとらえると、およそ次のようになる。
 読みの過程的構造は、三層構造として、@前 A中 B先 ととらえられる。@その文章表現(あるいは記述)が媒介している事象、現象に関し、それと同一の事象に対する、受け手による受け手自身の反応様式の想起として、文章の内容の理解が端緒的に成り立つ。つまりは、先行体験の端緒的成立である。自己の反応様式の想起として、受け手のこれまでの体験が、受け手の新しい体験(準体験)を成り立たせる媒体として機能するという意味で、受け手の過去の体験との関連・関係の中に求められる。このような自己の反応様式に支えられ Aその文章の文体(=発想のスタイル)が示す他者の別個の反応様式との対比・対決を通して、自己の印象の点検・確かめ、印象の転化・深化を促すのである。つまり、そこで立ち止まって考えたり、迷ったり、驚きや感動を覚えたりしながら B予測をたてながら期待をいだいて読みつづける。そして、第二の層の対比・対決を通して既成の自己を越えた新しい反応様式(別個の文体)の喚起をみちびく。
 以上が読みの三層構造であるが、これはあくまでも構造としてとらえた読みの過程であり、実際の読みの過程を形式的に三層に区別するというナンセンスな主張ではない。読みはじめてから最後の行を読み終わるまで、この前、中、先という三層の読みの過程を、何回となく、重層的かつ上昇循環的にくりかえしながら、「印象の追跡」としての読みが実現していくのである。が、読みの目的であるその内容の理解、事物との対決、異なる反応様式との対決のいとなみは、むしろここからはじまるのが普通であろう。くりかえし読む、要所要所を読み返すなどというように。
 この読みの過程を生かした読み、それが文教研のいう「印象の追跡としての総合読み」である。つまり、読みはすべてこういう形なのであるが、教師がそれを意識化してつかみ、それぞれの段階、次元に応じて子どもたちに徐々に意識化していく。それによって、子どもたちに文体の素地を培い、飼いならされた言葉から解放していく。(

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