文教研・文学教育研究基本用語解説 T          1968年1月20日発行「文学と教育」第48号に掲載
(原文の傍点部分は斜体に変えた。)
 1 精神・意識・発達  2 心的過程  3 認識過程  4 概念
 5 感覚・感情  6 主題  7 読解  8 追体験と準体験
 9 表示と表現    10場面規定   11構造と構造論        



精神・意識・発達

 〈精神〉――それは、脳ずいを器官としてもたらされる、高度に組織された有機物質の特性である。人間の場合、それは生理という物質基礎の上に、具体的な実際の行動をとおして、社会という物的世界を反映することにおいて成立する。社会というこの物的世界をくぐることで、人間精神は、生理をその生理において超えるところまで発達 する。(人間存在の物的基礎は、このようにして、生理社会生活 ――生産と労働を根幹とした社会生活である。しかし、このことは、人間精神が二元的に、バラバラに、生理に結びつき、また社会生活に結びついている、ということではない。まさに、社会という物的基礎、物的世界をくぐって生理をその生理において超えている、ということ以外ではない。)
 たとえば、人間がもの を見るということは、イヌやネコのように、それをただ自分の網膜に映している(視覚的に感覚している)、ということではない。見ることが同時に、そのものの意味について考え、そのものについて(あるいは、そのものを通して)何かを感じ何かを考える、ということにほかならない。見る とは、人間の場合、自己とそのものとの関係において(また、ものもの との関係において)そのものを見なおす 、ということ以外ではない。
 人間は、そのもののこちら側を見ているとき、実はすでに、視覚的(感覚的)には見えないはずの、そのものの向こう側や裏側、その内面なども同時に「見ている」のである。もの を〈知覚〉し、〈想像〉し、〈思考〉するというのは、そういうことだろう。
 このように、またこのようにして、そのものを「見る」「見ている」ということは、さらに、同時に、そのものに対して快、不快、好悪の〈感情〉をいだいて「見ている」ということでもある。それは、もはや、生理としての視覚(感覚)、生理的ないとなみとしての「見るということ」を超えている。
 人間において初めて見られるところの、このような精神の高度の発達段階は〈意識〉と呼ばれる。精神の発達過程は、そこで、
   @人間のこのような意識を準備したところの、遺伝・変異・自然淘汰などの生物学的法則に支配される、
     動物の精神発達の過程
   A歴史的・社会的法則が決定的なキメ手となる、人間の意識発達の過程
という、この二つの過程・段階に分けて考えられねばならない。(この点のケジメのハッキリしない〈発達観〉は、人間の〈発達〉に関して生物学主義的宿命論的な理解に傾斜していくか、〈成熟〉や〈社会性〉無視の精神主義への逸脱をとげるのがオチである。)
 上記Aの、人間の意識発達の過程は、さらに、次の二つのプロセスの相関関係において合法則的に考えられねばならない。すなわち――、
   (1)未開人から文明人への、そして現代人へ向けての、必ずしも単線コースではない(なかった)人類の意識発達の過程
   (2)幼児期から成人にいたる、また成人における意識発達の過程
 文学教育および文学教育研究の実際に即していえば、右の(1)の面に関する無規定なルーズなつかみ方、おさえ方は、教師達の作品把握、教材化、その教授(授業)のありようを、歴史性無視の救いがたいものにしていく。作品の構成や、作中人物の性格・心情・行為などに具体的に反映されている、その作品の創造と再創造(作品鑑賞)をささえた本来の読者 の意識(意識の歴史性)の無視である。
 同様にして、また、右の(2)の面に関する教師や研究者たちの不十分な関心からは、文学主義とでもいうべき、子どもたちの発達に対して無神経な作品(教材)の選択がおっこなわれたりもする。すぐれた児童文学作品は、成人にとっても多くの場合すぐれた文学であり得るが、すぐれた成人文学、必ずしもすぐれた児童のための文学ではない。むしろ、子どもたちに対して媒介不可能なものが多いことが発達の面から指摘されねばならない。この自明のことが主張される必要のあることを、文学教育の現状・現実は示している。
 却説。見えざるものを見ることを可能にした高度な発達段階の精神、すなわち〈意識〉は、具体的には、それぞれの人間主体の(そのかぎり外界の主観的な反映像にほかならない)複雑な〈心的過程〉の緊密な統一体である。(T.K

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心的過程

 〈意識〉の構造を機能 の面からみた場合、〈心的過程〉と呼ぶ。切りくちで分類の仕方もさまざまだが、それを次のように分けて考えるのが一般のようである。
   @認識過程
   A感情過程(あるいは情動過程)
   B意志過程
 無用の混乱をさけて、あらかじめいっておかねばならないことが二つある。
   (1)上記の分類はあくまで分類 なのであって、それを分割 して考えることはナンセンスだ、ということである。認識は認識だけで単独に、独自に進行し、感情は感情で認識や意志の支えなしにそこに生起する、というふうに考えることは現実の事実に反している。認識・感情・意志――それは、本来、分離・分割して考えられない、ひとまとまりのものである。現実にそこにあるのは、複雑な構造をもった一つの心的過程である。心的過程のその複雑さを、しかし、ただのカオス(もやもや)にとどめないための、それのもつ機能的な諸性質にしたがった分類(整理による単純化)が、つまり上記三通りの分類にほかならないのである。以上の事の確認が一つ。
 次に、(2)心的過程は必ず行動として結果するということ、それは行動の中で起こり、行動に作用し、行動をひき起こし促す、という点が見すごされあてはならない。もっとも、その行動は必ずしも外的な行動(=運動)のかたちをとって現象するとは限らない。内心の怒りが、その怒りと見合うかたちの表情や行動として外化されるとは限らない、という意味においてである。(ゴーゴリの『外套』の主人公の場合、内心の怒り、その内面の行動運動 のかたちをとるのは死後――幽霊になってからであった。)(T.K

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認識過程

 外界の事物・現象が感覚器官に刺激を与え、その興奮が求心神経によって脳ずいに伝えられて〈感覚〉と〈知覚〉をよび起こす。いいかえれば、感覚器官に作用する事物の反映として、私たちは、音や色や匂い、寒暖などを感覚し、また音楽や絵画、言葉などを知覚する。感覚は、認識過程のいわば基本過程であり、その基本過程と他のさまざまの心的過程との組み合わせの上に、知覚が成り立つ。
 ところで人間は、現在、眼の前にないものの像を思い浮かべたり、それについて考えたりすることができる。そのように、私たちが実際に知覚していない事物の像を〈表象〉という。
 つまり、感覚や知覚、表象、想像、思考などのはたらきを通して、人間が社会的に行動し実践していく中でつかみとる、現実世界の反映過程が認識過程にはほかならない。その認識、その反映の真偽は実践の結果によって、まさに実践的に点検され検証される。(T.K

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概念

 〈思考〉による世界(=事物)の把握は、事物・現象の一般的性質の反映にほかならないが、その反映は〈概念〉のかたちをとる。前述の〈表象〉は、いわば直覚的な性質をもつ事物の像 であるが、〈概念〉は事物についての思考 である。私たちが思考を組み、思考活動を進めていく際に操作する〈言葉〉が、一定の事物をさしていると同時に、つねに一般的な意味を示している点に注目。たとえば、「本」という言葉は、眼の前のその本のことをさしていると同時に、それと同類の、本というもの一般を含んでいる、等々。(T.K

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感覚・感情

 〈感覚〉は、人間の自意識と無関係に存在する事物・現象の反映である。たとえば、マドをあけたとたんに外気の冷さを感じる、というふうにである。それは、外界の現象が感覚器官に作用し、その興奮が求心神経により脳ずいに伝えられた結果にほかならない。(「認識過程」の項参照)
 ところで、その冷いという感覚や、冷さの認識が、人により時により、こころよい感じや不快の念をよび起こすわけだが、こうした体験が〈感情〉である。直接間接に自分に対してはたらきかけてくる外界の事物や現象を、生活し実践する自己の立場で認識するところに生じる喜びや悲しみ、あるいは憎しみやいきどおり、またおそれ など。それは、認識と行動に対する自分自身の態度 、自己の事物認識と行動に対する自分自身の関係 の体験である、ということができよう。
 たとえば、アメリカのヴェトナム北爆に対する怒りといきどおりの感情は、一定の実践的・行動的立場による事実認識にもとづいている。それは、自己のそのような認識と行動に対する自分自身の関係、態度をあらわしている。人間は無感動に事物・現象を認識するのではない。(私たちは、いきどおりの感情を伴うことなしに、ヴェトナムにおけるアメリカの侵略の実態と本質を認識することは出来ない。)
 概念的認識と感情による認識、形象的認識ということにふれていえば、概念 が反映するのは、思考による事物の一般的性質であるのに対して(「概念」の項参照)、感情 に反映されるのは、事物(事物認知)に対するその人、その人の態度である。同一事物、同一の現象に対する感情は、だからめいめいに異なるのが普通だ。だが、そのことは、めいめいの感情のありように応じて、めいめいの認識のありかたが異なる、ということでもあるわけだ。いわゆるブルジョア科学における概念的・一般的認識と、プロレタリア科学におけるそれとの基本的な相違、等々。逆にまた、その認識の相違に応じた、ブルジョア的感情、プチ・ブル的感情、労働者的階級感情・農民感情等々の感情のありようの相違。
 感情は気まぐれなものであり、反理性的(あるいは非理性的)なものだといわれるが、それは主として〈気分〉とか〈感傷〉と呼ばれる感情に関してであろう。気分や感傷がある気まぐれな要素をもつことはたしかだが、その「気まぐれ」さかげんには、やはり一定の法則性がある。(感情の法則性の把握ということは、文学教師にとっての資質的条件である。)〈気分〉は感情一般と異なって、一定の対象をもたない、そのような感情のことであり、〈感傷〉は事物との対決を回避する、いわば非行動的な感情のことをさすわけだが、そういう感情のもつ気まぐれさのゆえに、それがすべて「非生産的」であると断定することは多分まちがいだろう。
 ここに、ちょっぴり、条件反射学説の理論(第二信号系の理論)を媒介させて、その視点からの整理を書きそえれば、〈感情〉というのは、人間の内界(=主観的世界)の第二信号系への反映である、というふうに規定していいだろう、ということなのである。第二信号系、すなわち言葉 への反映である。第二信号=言葉への反映ということではない。誤解なきよう。
 ともあれ、感情が、事物(事物認知)と自己との関係、事物に対する自己の態度の体験であるというのは、条件反射の問題としていえば、自己の内面的世界の第二信号系への反映だ、ということ以外ではなさそうである。(T.K

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主題

 解釈学的国語教育の立場では、文章の要約にもいくつかの段階がある。比較的長い文章で要約したものを大意とよぶ。もとの文章の言いまわしや語いを広範囲にとりいれることができる。さらに、いくつかの段落にわけ、段落ひとつひとつの要約の総和を要旨とよぶ。主題は、この要旨をさらに煮つめるところに生まれる。往々“愛情”という一単語であったり、せいぜい「貧しさに負けずはげましあう親子の愛情」という一文であったりする。いずれにしろ、大意、要旨、主題という概念は、あらすじの要約という点で共通している。ちがうのは、その要約の長さだけである。
 主題学(?――Thematologie)の一般的規定にしたがっていえば、作品の主題とは、「素材とともに与えられる作品の内容的統一のモメント(契機)」のことである。つまり、主題は素材をはなれて存在せず、また、読者の鑑賞体験をまって形成される受け内容と、別個のところで存在するものでもない。主題は、内容とともに、いや、内容を統一するモメントとしてのみ存在する。
 作品の世界にとりあげられた素材は、日常的体験において、読者は何らかのかたちで知っている。が、作品の世界の素材(それは題材とよんでいいものだが)は、日常性の存在形式とは異なった姿であらわれる。常識でつかんでいる素材(事物)とはちがう新しい側面をもって登場する。それは、日常的秩序の変形とでもいうべき典型的世界において、素材が配列されているからである。読者に新しい反応様式を喚起する媒体として、素材は題材に転化する。その質的な転換を保障するものが主題である。その点で、主題は、素材をはなれて存在しない。
 したがって、主題を追求するということは、同一素材(事物)に対する読者ひとりひとりの感情を、作品に示された別個の感情で見つめなおす、ということにもなるだろう。主題は、現実の鑑賞過程をとおして、読者の受け内容としてのみ成立する。別個の感情による感情の再評価という過程でのみ、新しい主題は実現する。(Y.A)

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読解

 読解とは何か? それは、字義通り「読み解く」ことである、という。だが、それでは一体、何をどう読み解くことなのか、と問うと、答は一向に明瞭でない。つまり、「読解」ということの概念規定ははなはだしく明確を欠くのである。
 現在おこなわれている「読解指導」という作業に即していうと、それは、@通読・精読・味読ということの「読」、あるいはA知覚読み・理解読み・表現読みの「読み」のことであるか、それともB総合読みといわれている、その「読み」のことであるようだ。
 右のBの総合読みの「読み」については、それを読解として位置づけて考える考え方あり、然らざる考え方ありで、別項、別号で整理することにしたい。そこで、上記@Aのいわゆる三層読み を主張する側でいうところの〈読解〉とは、語義や文意の把握に加えて、文章まるごと を通じての鑑賞操作にいたるプロセス全体をさして言っているらしいのである。それは、(1)語義・文意の把握はそれとしておこない、その前提に立って、(2)鑑賞は鑑賞として別個におこなう、ということのようである。上記@の場合に即していえば、〈味読〉の段階がそれに当たるわけだろう。
 だが、それは考えてみれば、おかしなことである。その 作品のその場面で使われている、その 言葉の語義や文意は、鑑賞の支えなしには実現しえないはずである。すぐれてみずみずしく豊かな感情(まっとうな認知の構え、態度――「感覚・感情」の項参照)によって指向されることなしには、その 言葉、その 文章の場面規定(その場面における語義・文意)は、まっとうに理解されるはずはないのだ。
  “ことば”には、その“ことばを用いた送り手の思想なり感情なりが(むしろ、送り手その人のたましいが)内容として封じ込まれている式の言霊(ことだま)的な言語実体観の立場をとり、それゆえ、ある作品には作者の意図する一定の内容が盛り込まれていると考え“追体験”(相手の体験に同化する体験のしかた)によって作者の意図することにせまることを究極の目標とした文章理解。
 戦前の国語教育界の解釈学的指導過程の流れをくむ「読解」の代表的な 指導過程は、三層読みである。通読、精読、味読の段階をふむこの指導過程が、文章を忠実に記号どおりにたどっていけば、その作品の主題を客観的につかまえることができるという、言語実体説、追体験方式をとっていることは明らかである。
   ○これに対して文教研の立場
   ○一読主義読解の問題
   ○解釈学の国語教育界の流れとディルタイ
 これに対して文教研では“ことば”を事物の意味において媒介的にコミュニケートする信号としてとらえる第二信号系理論の立場をとる。したがって、作品も媒体であると考える。国語教育で作品を扱う場合は、作品に封じ込められた作者の意図を追体験させるのではなく、読み手が準体験する、という形で指導をする。これを文教研では、いわゆる「読解」ではなく鑑賞指導、表現理解とよぶ。(M.K)

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準体験と追体験

 〈準体験〉という概念は、一九三〇年代に熊谷孝らによって、ディルタイふうの生哲学方式の「追体験」概念の批判として提起された。
 「追体験」は解釈学に基づく概念であって、教育界においては、国語科の読解で、作家の体験を追体験することが正しい鑑賞であるとして、幅をきかせた。
 その論理は、相手の体験に同化することを理想として、批判を許さない、主体を喪失させる論理だといえる。そのために戦時中より、現在にいたるまで、文部省の指導理論となりえている。
 これに対して、〈準体験〉とは、現実のデイリーな体験とはちがうが、しかも現実まるごとの実感に支えられた体験をいう。日常性から科学性へ、という科学の抽象と、およそ対照的な、日常性から芸術性へ、という芸術の抽象(感情を別個の感情でつかみなおす)において働くのが、この〈準体験〉であって、これは芸術体験(創作体験、鑑賞体験〉において、もっとも典型的にその機能をはたす。この意味では、準体験は典型の認識を成り立たせる体験だといえる。作家の側からいえば、読者という媒体に屈折した現実をまるごとに媒介して、そこに現実まるごと(読者のリアリティーにおける現実)の感じの世界を、象徴として創作することであり、読者からいえば、このように創作されたものを読んで、場面も性格も自分とはちがう作中人物に対して、自分を感じる、自分の周囲の人たちを感じるということになる。
 しかし、〈準体験〉は芸術体験に限るわけではなくて、日常体験もすべて準体験といえる。つまり、それは体験に区切りをつけ、体験のしかたを構成するという意味で、すべての体験は準体験を伴い、準体験に支えられている。(『芸術とことば』p.91-94/p.201-204/p.264-265、『言語観・文学観と国語教育』p.152- 参照)(F.S)

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表示と表現

 「表示」(manifestation)とは、デューウィの設定した概念であって、人間の外化行為の一つである(他に「記述」、「表現」)。
 これは感情の発散といい、衝動的で、一方交通の外化行為である。つまり、自己の感情のストレートな発散という形の、何ものにも媒介されない、自己目的的な、自己の感情をむき出しにした外化行為である。したがって、そこには事物との瞬間的な対立はあっても、持続的対決はない。その効用はカタルシスであって、この行為においては問題は解決されない。しかし、内に促すものがあっての〈内なるものの外化〉という意味で、表現への契機を内包している。
 「表現」(expression)は、表示とはちがって、問題解決のための行為である。つまり表現とは、環境、他我との抵抗、摩擦において、自我を意識し、同時に自我をつきはなすかっこうでみつめるというかたちで、感受まるごとの自己凝視、自我の対象化を実現させていく伝え、伝えあいであって、もともと受け手の体験をくぐって(準体験して)、受け手の実感の文脈にそって伝え、伝えあいする行為をいう。媒介による外化、手段としての、自意識に支えられた行為である。その意味で、表現は、自他変革の行為であり、事物との対決は、現実変革のための持続的な対決である。それは、感受の組みかえ作業であるといってもよい。しかし、この「表現」は手段であって、目的ではない。(ただし、目的遂行のために欠くことのできない手段である。)(F.S)

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場面規定

(作品表現本来の場面規定)

 〈言葉〉が信号としてはたらくのは、人間の具体的な行為・行動の場面において操作される場合だけである。そして〈言葉〉は、そこでは、信号を地づらとした図がらとして、人間の行動の一形態となる(〈言葉〉は実体ではない。実体と媒体については、『言語観・文学観と国語教育』p.12-参照)。したがって、その図がらの模様やその図がらの意味するものは、そのつかわれる場面に制約される(〈言葉〉の融通性と規定性については『芸術とことば』p.204-参照)。だから、その文章の表現本来の場面規定をきっちりおさえて読まないと、同じ一つの信号でも、その場面が規定する本来の意味内容とは別個の意味内容として受信されてしまう(鑑賞のズレの原因及びその矯正)。他の場面における他の人間のおもいや行動をその生きた場面(単なる時代背景という粗いとらえ方ではない)の中でとらえる、それを自己の地づらに媒介して読む(場面規定は場面規定としてつかみ、あらためて文学として対面するというのではなく、最初から自己の文学体験にかかわる形で、その場面規定をつかむ)ことで自己の地づらそのものを変革する(本来の場面規定をくぐって読む)という操作を発展的につみかさねていくこと(鑑賞学習)で、ひとの言うことを感情ぐるみにわかる(「主題」の項参照)素地も培われ、どんないい方が相手に説得性をもついい方になるかという表現の素地も養われ(表現学習との関係)ていくことになる。(M.S)

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構造と構造論的
【後注:執筆担当者の原稿が期限に間に合わなかったため、当時、「構造主義」の日本への紹介に先進的な役割を果たしていた刊行物の一つ「朝日ジャーナル」の記事の一部を引用することとなった

 レヴィ=ストロース自身、マルクス主義に興味というよりも関心を非常に深く持っています。マルクスはよく「構造」ということばを使っていますが、従来のマルクス主義では構造と過程の問題が、マルクス主義の中の歴史主義の残滓にさまたげられて、うまくかみ合っていない。それをレヴィ=ストロースは「構造」概念とその方法の導入によって解決し、克服しようとしたわけです。
 構造というものが、研究される現実的対象の中にあるのか、それともこっちのモデルの中にしかないのかというような問題は、私の考えでは、多分に用語の問題に帰着する面があります。研究者がモデルをつくる場合には、モデルを完全に操作できるように組立てるわけです。実際にそこにあるものには、そういうモデルにあらわされたものの一部分がそこに実現されて備わっているにすぎない。しかし、これを操作できるようにするためには実現されている部分だけでなくて、可能ないろいろな変形がみんな導入できるような形に設定されていなければならない。そういうモデルでないと、比較研究や未知のものの発見に役立たないのです。だから実際にあるものとモデルとは違うわけです。
 たとえば言語というものには文法がありますね。普通しゃべっている人たちは別に文法がどうということは考えない。それで日常、いろいろのことをしゃべっているわけです。ところが言語学者が理論的に文法をつくって、システムを組立てる。そのシステムによっていろいろな文や言い方が可能なわけで、システムさえあれば、可能なあらゆる場合が導出できるというわけです。ところが実際に人がしゃべっているのはそれを全部しゃべりつくしているわけではなくて、一部分しかしゃべっていない。システムを意識してもいない。そういう違いがあると思うんです。
 「意味するもの」と「意味されるもの」は不可分である。古い美学でよく形式と内容ということをいいますが、形式と内容は分かれたものではなくて、形式がすなわち内容であり、内容がすなわち形式である。つまりそれを、レヴィ=ストロースは構造と名づけたわけですね。ですからあらゆる具体的な事物の中に常にそういう一体的なものがあらわれてくる。
 モデルと構造の考え方ですが、レヴィ=ストロースの弟子になるんだと思いますが、プイヨンなどは、構造ということにかんして用語を使い分けています。「構造的」というのと「構造論的」とでもなりましょうか。「構造的」というのは具体的な事物についていわれることで、構造的な実在があるんですね。これを認識するためには「構造論的」なモデルをつくらなければならない。そういうふうな用語の使い分けをしています。(石田英一郎・田島節夫・北沢方邦「座談会・人間と文化の新たな探求――構造主義とは何か」 朝日ジャーナル1967年11月26日号所収による。)

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