初期機関誌から

文学と教育 第40号
1966年9月10日発行
  第二信号系理論と国語教育  熊谷 孝 
  宮城県教組古川支部と文学教育研究者集団との共催による文学教育研究集会が、一九六六年八月十一日・十二日の両日、宮城県玉造郡岩出山町池月小学校を会場として開催されました。これは、その第一日の午前におこなった講演(演題「教材研究の原理と方法」)に対する聴衆の質疑に答えての談話の一部であります。速記録の不分明な点については若干の補足と加筆をほどこしました。

     1.信号と記号・信号の記号化

 午前ちゅうのわたしの話について、質疑のアンケートをみなさんからお出しいたゞきましたところ、いちばん多かったのは、第二信号系とは? という問題、とくに信号と記号との関係についてもう少し砕いて話せ、という注文が圧倒的でした。中には、「信号としての言語・記号としての言語」というわたしの書いた文章について、その文章が載っているテキスト(後注――文教研共同研究・明治図書刊『文学の教授過程』)は参加者のほとんどがここに用意しているのだから、それを読みながら解説してほしい、というご希望の向きも二、三ありました。ともかく、その辺のことがある程度ハッキリしないと、午前にだされた教科構造論もよくのみこめないのだ、ということのようです。
 いちいち、ごもっともな話でして、前に書いたものも、きょう午前にお話ししたことも、抽象的すぎたようです。「もっとも抽象的なものこそ、もっとも具体的なものである。例をあげるということと、具体的であるということとは別のことである」などと午前のおしゃべりの中で見得を切りましたが、どうやら、わたしのは、ただの悪しき抽象だったようです。反省します。そこで、午前の話題とは切りくちを変えて、別の角度から信号と記号の問題を考えてみることにします。

 先刻、みなさんのアンケートを眼にしていながら、ふっと思ったのです。第二信号系の理論がどうの、というようなことを口にしながら、信号と記号の弁証法だなんてことをいったものですから、信号と記号ということが、えらくむずかしいことをさして言っているみたいな印象になったんじゃないか、という気がしてきたのです。そうじゃなかったんですか? だったら、わたしのいい方がいけなかったのです。記号、信号――別に、、特別の意味はないのです。それは、わたしたちがふだん使っている信号ということですし、記号ということなのです。
 “記号”というのを、和英辞典なり和独辞典で逆探知してみてください。多分、“マーク”(mark)とか、“メルクマール”(Merkmal)と出ているはずです。“シンボル”(symbol)というのも出てるかと思いますけれど、このほうは話が少しややこしくなりますから、一時こう置いておきまして――そこで、ともかく、記号というのはマークのことです。トレード・マーク(商標)などという、あのマークのことです。だから、それを符号といいかえたっていい。この“マーク”ということばを動詞にして使えば、何かに しるし をつけるとか、符号をつける、跡を残すとか記録する、採点する、というような意味になるでしょう。“記号”というのは、要するに、そういうことなのです。そういう意味のことばなのです。
 “信号”のほうは、これは“シグナル”(signal)ですね。事前に予告するもの、導火線になるもの、そういう発信・送信・受信の はたらき のことですね。要するに、ただ、それだけのことです。ごく常識的にお考えになってください。
 そこで、信号というのは具体的には何かある事物の信号なのですけれど、その信号を、痕跡をとどめるかたちで符号に移して記録したものが記号だ、ということになるわけでしょう。児童や生徒たちがどこまでのことがどうつかめるようになったか、何がわかって何がわからないのか、ふたしかな点はどこか、将来への伸びはどうか、というような評価をある切りくちで量に翻訳して50点とか60点というふうに採点しますね。あるいは、クラス全体、学年全体の中でのパーセンテージによる割りふりで、5とか3とか2というふうに評価して記録にとどめますね。そういう評価のしかたがいいかどうかは別として、これもやはり、教師にとっての成績信号の記号化でしょう。
 ところで、その5とか4という記号が何を意味しているのか、ということ――その相対評価法の観念、5なり4なりということの観念が具体的なイメージをともなって信号 としてこっちにやってこないことには、それは記号の役目をしない、していないことになります。この五段階評価法が実施されるようになってからずいぶん長い時間がたつのですが、今でも学校にねじこんでくる親御さんが跡を絶ちませんね。「ペーパー・テストでいつもウチの子は80点以上とっているのに、通知簿の3という評価は解
(げ)せない。何かの間違いでは……」といった、教師に対する親のイチャモンですけど、あれなんか、記号が信号に結びつかないために、記号が記号の役目をしていない実例でしょうね。
 で、そのことの裏を返していうと、記号――マークがマークの役割を果たすのは、それが具体的なあるシグナルとして、こちらにはたらきかけてきたような場合においてだけである、ということになります。記号というのは、まさに信号の符号化・記号化として、つまりはそれをマークしたものとして、信号に奉仕するために(後注――第二信号系の所有者としての人間に奉仕するために)作られた(後注――人間自身によって作られた)ものなのですね。ですから、記号が信号に先行するのではなくて、信号が先在し先行しているわけなのであります。少なくとも、第一次的な、信号・記号の先後関係はそういうことだ、という意味です。信号あっての記号、信号をマークしたものとしての記号……つまりそういうことなのであります。
 五線譜――楽譜のオタマジャクシですが、あれは記号ですね。作曲家は、(一応の意味での話ですが)自己の送り意図、送信・発信の信号をオタマジャクシに移すかたちで楽譜として記号化するのですね。で、それを演奏するとか聴く場合、その記号が記号としての域にとどまっていたのでは、これはどうにもならない。楽譜をよむということは、記号を信号に変えることなのですね。記号を信号に変える、記号が信号になることで、その楽譜がただの楽譜ではない音楽作品になる、という関係です。オタマジャクシの行列が作品なわけではない。それは文字や活字の行列がブンガク作品ではない、というのと同じことです。よく、ベートーヴェンの第九なら第九を楽譜どおりに演奏するとどうなるか、というようなことを言いますが、ナンセンスですね。それは、佐藤春夫なら佐藤春夫の『愚者の死』という詩作品を記号のままのかたちで読むとどうなるか、というのと同じぐらいにナンセンスな問いですね。<注1>
 音楽の演奏に関して、指揮者の解釈、作品解釈ということをやかましくいいますが、それは音楽が再生芸術であるということとも関係することですけれど、<注2>  しかしlそのこと以上に、その記号がどういう信号をマークしたものであるのか、また、それをどういう信号をマークしたものとしてつかむことで意味をもってくるのか、ということで、この“解釈”ということが音楽にかぎらず、あらゆるジャンルの芸術表現の理解にとって必要になってくるのです。記号は、しょせん記号なのです。少し乱暴ないい方をすれば、生徒の学業成績を評価する場合、30点の、50点の、5・4・3・2・1というような記号ではあらわしきれない、そのあらわせないところというか、こぼれたところに問題の本質があるみたいな何かがあるでしょう。記号は、しょせん記号なのです。音楽家には叱られるかもしれないけれども、五線譜みたいなラフな記号ではあらわしきれないものを音楽は持っているのですね。
 記号は、つまりある切りくちで、一つの切りくちでマークしたものだからして実用性をもつ。ある普遍性と、そのかぎりの実用性と有効さを持つわけですが、その反面、別の切りくち、別の発想にもとづく信号に対しては必ずしも有効・有能ではないのです。ことと次第によっては、新しい記号の追加ということも考えられますが、しかしそれにも限度があります。記号というものは、ある程度に普遍性を持たなければ、記号としての意味を失うからです。それがある普遍性において信号受信の方向を間違いなく規制し方向づけるようなものでないと、、記号が記号の役目をしない、という意味です。それで、たいがい、レディ・メイドのマーク、記号で間に合わせることになる。つまり、ほんとうはその記号では間に合わないものを、その記号で代用するわけです。記号というもののもつ、そういう性質を、国語教育を考える立場から、わたしたちはハッキリおさえておく必要がありましょう。

 どこかの製薬会社で、テレビのコマーシャルに巨人の長嶋選手を使っていますね。また、別のどこかの製薬会社では王選手をトレード・マークみたいにして、C.M.タイムに使っていますね。目的は、いわずとしれた「スポーツと仕事の疲労回復にはウチの製品を――」というやつですけれど。あの王は王であると同時に、王ではないのですね。王でなくちゃだめなんだが、たんに王ではない、と言ったらいいのですかしら……。あれは超人的な体力と才能・力量をもった、架空の人間ではない実在の人間のシンボルなのですね。さっき、マークとかメルクマールということを言ったとき、ジェスチュアもどきに横にこう置いておいた、その“シンボル”です。王はそこでは、超人的な体力と力量のシンボルであると同時に、ハチミツとヴィタミンなんとかを調合したそのクスリ、疲労回復剤のシンボルなのですね。いや、じつをいうと、その会社のその薬品(=記号)のシンボルなのです。
 で、きょうはクラスの文集づくりの仕事や学級費の集計などで居残りして疲れたから、ひとつクスリでも飲んで帰ろうか、というときに、王がごくん、ごくんと飲んでいる姿が、C.M.タイムのあの格好がイメージとして、信号として、こっちにやってくる。おい、それをくれ、といってその薬品を買うことになる。薬品名をおぼえていないときには、「そら、王が飲んでいるあれを――」といって求めるわけです。こういう事例で考えるかぎり、シンボルというのもマークに一種だけれど、もっと具体的なイメージをともなった、信号に直結したマークだ、ということになりますかしら。もっとも、この規定、この発言は責任をもちません。念のため。
 そこで、ともかく、シンボルとして、マークとして適切な(というのは、こんにちのテレビの普及と野球ブームの地づらにおいて適切な)王という立役者をマークに選ぶことで、製薬会社はガッポリいただき、ということになるわけですね。

 例が例にならなかったかもしれませんが、わたしの言いたかったことは、記号がたんに記号としてそこにあっても記号の役目をしない、ということです。むしろ、記号が記号にならない、という点の指摘です。記号が信号に結びつかなければ、それは記号の役目をしない、ということを言いたかったわけです。たんに、これはマークというものである、というようなマークはどこにもありません。それは何かをマークしたものだし、何かのマークなのです。その“何”は“信号”です。事物――ある事物のある信号です。その信号をマークしたものが記号です。ではないでしょうか、ということなのです。
 そのマークが何らかの意味を発信し、何らかの意味をそのマークから受信するという格好になってこないと、それはマークではない、マークですらないことになります。信号と記号とは、つまり、そういう関係にあるわけでしょう。

     2.“ことば”は実体か媒体か

 そこで、いよいよ“ことば”をめぐっての信号・記号ということなのですけれど、たとえば“さしみ”とか“あらい”という“ことば”は信号なのか? それとも記号なのか? といえば、それはある種の魚料理を信号とするところの記号です。記号という切りくちからすればの話です。「きょうの“あらい”は、うまいね、身がしまっている」などと語られる場合の“あらい”という“ことば”は、この“ことば”の記号性に媒介されながら、それが信号として操作されている、ということになりましょう。信号という切りくちからいうとそうなる、ということなのですが。
 いや、そういうことが問題なのではない、“ことば”はほんらい信号なのか記号なのかということをハッキリさせたいのだ、と言われるのでしたら、答はとうに出ているはずです。“ことば”は、もともと信号なのです。早い話が、「梅干」という“ことば”を耳にしただけで、わたしたちは口の中がすっぱくなります。すっぱく感じる程度や何やは人によって違うでしょうが、ともかくそういう反射がわたしたちの上に起こります。“ことば”というものは、もともと、そういう反射を引き起こす条件刺激、信号、媒体なのです。つまり、“ことば”とは“ことば”信号なのであります。
 題は忘れましたが、倹約を通り越したケチンボな男の話、ケチくらべのおもしろい落語がありますね。わたしが話したんじゃ面白くもなんともないが、おかず を倹約してオレはいつも梅干一品だけで食事をすませてるんだ、という男に対して、「そんなことだから、お前はゼニがたまらねえんだ。このオレを見な、全然おかずなしでメシを食ってる」というようなことを言うのでしたね。どうやるのかというと、食膳の上に梅干を置いといて、それをじいーと、にらんでいる。もう、いいかげん口の中がすっぱくなって来たころあいを見はからって、湯漬かなんかをサラサラとかきこむ、というのでしたね。
 ところで、落語の中のケチンボではなくて、その落語を聞いているわたしたちのほうなんですが、そういう話を聞いているだけで、口の中が何かこう、すっぱくなってきます。眼の前に梅干があるわけでもないのに、先刻いったように「梅干」という“ことば”だけで、(むろん、ハナシカの身ぶり、手ぶり、表情などとその“ことば”が支えあってのことですけれども)すっかり、もう、すっぱい感じになってしまいます。“ことば”というものは、つまりそんなふうに、そこにないもの――不在なものをイメージとしてよび起こす信号のはたらき をするのですね。
 いまの事例をもう一ぺんなぞりながら、整理してみますと、(1) まず、梅干を舌へのっけると唾液が出る。すっぱい、という感じになる。これは、梅干という現物、実体による刺激、生理的・直接的な刺激と反射です。もっとも、その反射のしかたは一〇〇パーセント生理的なものだとは言いきれないでしょうが……。というわけは、わたしたちには数えきれないぐらいの梅干体験がある。だから、落語のケチンボと同じことで、それを口にする前にもう唾液の分泌が始まっているのが普通だ。したがって、梅干をはじめて口にする赤ちゃんだか子どもの場合とはちがって、それをただの現物による刺激であるとか無条件反射プロパーだ、というふうには言えないでありましょう。条件結合のしかたは多分に複雑です。少なくとも、そこには、これからすっぱいものを食べるんだぞ、という構えが出てきている。が、舌へのっけてから、いっそう顔をしかめる結果になる、というところを切り取っていえば、そのかぎり無媒介な、現物による直接的な刺激と反応・反射だ、ということになります。
 つぎに、(2) 落語のケチンボの場合ですけれども、これはいま言ったように、その人物の梅干体験が前提になっての反射だ、ということになりますね。こいつを口にしたら、いつものような状態になるぞ、という自分の未来像をさきどりしたかたちで、口の中がすっぱくなるのでしょうね、きょうは、ただにらんでいるだけだ、などと思ってみたって、やっぱり、すっぱくなるのですね。
 このほうは、現物を実際に舌にのっけて顔をしかめるのとは違って、眼のまえ六〇センチか七〇センチの位置にある梅干が唾液を分泌させるごとき“信号”としてはたらいているわけです。つまり、信号による反射、条件反射です。それは、現物が――梅干という現物が“実体”としてではなくて“媒体”としてはたらく反射なのでして、現物を直接舌で受けとめた場合の反射とは次元のちがった反射になるわけです。舌の上の梅干と、眼のまえ七〇センチの梅干――それは同じ梅干であっても、現物と媒体 との違いがあるわけです。
 (3) “ことば”による反対というのも条件反射ですが、このほうはもっと高度の結合・条件結合がおこなわれているわけでして、それはズバリいって二重の媒体 をくぐった(あるいは二重の媒体をへた)反射・反映である、ということが言えそうです。つまり、眼の前の食卓の上の梅干は“すっぱい”信号になるのでしたね。「梅干」という“ことば”は、ところで、その信号のそのまた信号として“すっぱい”感じにわたしたちをみちびくのでしたね。信号の信号だから、これは“第二信号”だということになります。このほうを第二信号とよぶとすれば、その前の信号を“第一信号”とよんで“第二信号”と区別したほうがいいでしょうね。“ことば”というものは全体として、そういう第二信号、二重の媒体のひとまとまりの組織、体系です。つまり、第二信号系なのであります。
 第二信号系というのは、信号の信号――すなわち二重の媒体を組織して、その二重の媒体において事物(=世界)を反映する、そのような組織活動のひとまとまりのシステムのことです。“ことば”をとおして世界を反映する、現実を反映するということは、実はそして現実について反省する、ということにほかなりません。(ちなみに、反射・反映・反省――それらは一つの Reflexion ということばです。<注3>) 反省する? むしろ、反省しつづける、ということです。いいかえれば、反映のしかたをかえて認知を深める、反映のしかたそのものを外界の法則に合致するように自己規制していく、たえずそのような規制をおこなう、ということです。そのことが、第二信号系として“ことば”を操作する、ということです。
 このようにして、“ことば”が第二信号系としての生産的・実践的な機能を発揮するためには、いいかえれば、わたしたちが“ことば”ほんらいの信号(=第二信号)としての生産性を生かしてその“ことば”を操作するためには、“ことば”系を、運動感覚の系、行動の系であるところの第一信号系に結びつくように操作しなければならない、ということになりましょう。いや、こむずかしいことを言っているのではありません。ウ・メ・ボ・シという音声を耳にしても、あるいはまた、平仮名の「うめぼし」、漢字の「梅干」という文字を眼にしても、その音声なり文字が、あのしわくちゃな物体の形やこっけいな色合い、あの口の中がすっぱくなるような感じが、まさに行動の系におけるそのような感じの反射と一体化したかたちで、イメージとしてこちらの内がわに生じなくては、それは“ことば”――“ことば”信号にはならない、という点を指摘したまでのことです。
 子どもの時分、わたしなどが受けた戦前の国語教育は、そういうかんじんの点がスッポリ抜けていました。わたしの友人が大学院に残って勉強をつづけたいという意向を書き送ったところ、くに のオヤジさんから「大学まで出て、まだおぼえる字があるのか」という返事がきたという、落語みたいな話がありますが、教育とは字を教えること、学問するというのは文字をおぼえることだ、というみたいな状況が実際にあったわけです。汎言語主義の教育、汎言語主義の国語教育です。
 いまでもおぼえているのですが、小学校六年生のとき、子ども心にヘンだなと思ったことがあるのです。“国語”といえば漢字の書き取りのよみ 、“ことば”の解釈と称する“ことば”のいいかえ――その“ことば”のいいかえで、「すなわち」というのは「つまり」といいかえればいいんだ、と教そわった。ところが、こんどは、やはり国語読本の別のページに「つまり」という“ことば”が出てきた。先生はいったものだ、「これは“すなわち”といいかえればいいんだ」と。その先生は受験指導のヴェテランで、中学(旧制中学)への進学志望の子どもたちだけを集めた六年の一組というのを毎年、受持っていました。けっして、コンマ以下の先生だったわけではありません。
 わたしの受けた国語の授業というのは、そういうものでした。「つまり」と「すなわち」というのは、どういう文脈の中でどう使い分けたらいい“ことば”なのか、そのニュアンスのちがいは、といった信号としての“ことば”操作のしかたは、“読み”に関しても、“書く”ことに関しても、また“話す”ことに関しても、全然といっていいぐらい教えてもらえませんでした。わたしが小学校の国語の授業でおぼえたものは、ある程度の分量の漢字と、「わ」と発音する字は「は」と書けばいい、という式の仮名づかいと、どんなわかりきった“ことば”でも必ずそれを別の“ことば”にいいかえなければならない、という“国語”に対する構えみたいなものだけでした。
 事情は、中学校へはいってもあまり変わりませんでした。わたしを待ちかまえていたものは、やはり“解釈”と称する“いいかえ”のために用意されているも同然の古文や擬古文でした。また、段落(後注――意味段落)に分けさせて、大意をいわせ、題名と大意・要旨の中間みたいな語数で主題ということをいわせるために用意されているみたいな現代文……うんざりしました。中学の授業でいちばん、あっけらかんとしたのは、短歌や俳句の解釈や鑑賞というのでした。表の意味はかくかくで、裏の意味はかくかくだ。諸君は、かくかくしかじかのことをこの句から感じなくてはいけない。ああ、何たる深遠な境地であることか、などと先生はいうんだが、どうしてそういうことになるのか、こちらは、ちっともわからない。そこで“ことば”のいいかえをおぼえる調子で、先生のいうことをノートにメモしてまる暗記した。試験が終わると、むろん忘れました。
 そこでは、“ことば”が子どもたちの生活から遊離したかたちで、いわば記号を説明するのに他の記号をもってする、という教育がおこなわれていたわけです。「すなわち」とは「つまり」であり、「つまり」とは「すなわち」のことだ、という教え方は、まさにそういうものでしょう。“ことば”がそこでは、それをあらわしているその 事物に結びつかず、“ことば”信号とその事物を媒介する第一信号――行動の系に“ことば”がつながっていなかったわけなのであります。“ことば”は、このようにして、いわば“ことば”系の中で空転してステレオタイプと化し、第二信号系がついに第二信号系になり得なかった、というほかありません。国語教育、国語の授業としてこれは完全にアウトです。

     3.民族的体験の共通信号
 
 いうまでもないことだけれども、この第二信号系としての“ことば”の組織は民族によってそれぞれに違います。さらには、その民族のくぐりぬけてきた、それぞれの歴史の曲がり角において微妙な変化をみせております。具体的には、音韻組織や文法組織、文体組織などの側面において、それらが複雑にからまりあいながらそこに見られる、ということなのです。連続の中に非連続が、非連続の中に連続が見られる、というわけなのであります。
 それぞれの民族は、そのそれぞれの民族の生活と歴史の中に浮きあらわれた固有の問題状況に、まさにそれと対応するかたちの固有の具体的なしかたで対処することで、民族の生存と成長・発展をかちえてきたわけであります。その 民族語、その 国語に固有の“ことば”の組織、論理組織というものは、このようにして、その民族が体験した歴史(後注――そうした体験において切りとられた歴史の論理)の第二信号系への反映である、といえましょう。つまり、日本語なら日本語というものは、日本人が日本人に与えられた固有の歴史状況を、その固有の生活体験をとおして反映(=認知)したところの歴史の論理、またそのかぎりでの客観世界の法則と見合うような論理組織をもっております。

 もしも、そうのような論理組織を日本語がもっていないならば、日本の民族が当面してきた歴史状況を、民族の主体性において日本人自身、日本語によって考えるというようなことは不可能であったにきまっています。もっとも、日本語なら日本語の、フランス語ならフランス語のもつ、それぞれに固有なそのような論理組織は数多くの歴史の曲がり角を体験する中で、いわば民族の歴史の中で煮つめられ組織されてきたものにほかなりません。民族語、国語の歴史は、新しい歴史の問題状況に対応していくための新しい思考手段の獲得というかたちでの、自己変革の歴史にほかなりません。連続の中に非連続の関係が見られるわけなのです。
 しかも、非連続の中にやはり連続の関係が見られるわけなのであります。すぐれて民族語はそのようなものなのであります。民族語、国語というものは、単なるその民族社会の成員間の通信上のとりきめ といったものではないからです。ただのとりきめ だったら、変えることもできる。ただのしきたりきまり だったら、相談ずくで変えることも不可能ではない。だが、民族語は、いわばその民族的体験の総決算の反映――第二信号系への反映なのです。民族体験の共通信号の体系なのであります。

 限られた時間の中です。細かいところまで話す余裕はありません。が、ともかく、第二信号系としての“ことば”というのは具体的には、民族語、国語のことです。以上のような性質をもった、それぞれの民族にとっての民族語、国語のことです。そこで、国語教育の究極の目的は、子どもたちの未来へ向けて、国語を国語として使えるような人間の基礎をつくり上げていくことだ、ということになりましょう。
 国語を国語として使う? 使えるようにする?、……民族体験の共通信号の系としての日本語を、それの固有の実践的機能を生かして操作する、操作できるように段階を追ってはぐくんでいく、という意味です。民族的発想において日本語が使えるようになることだ、といってもいい。日本人は日本語でものを考える、という意味での“考える日本語”を身についたものにすることだ、という意味でもあります。外人観光客のあの「ニッポンことば、ペラペラあるよ」式の日本語、つまり無国籍なニッポンことばのしきたり や、きまり をただの約束ごととして教えるのは“国語教育”ではありません。
 先刻、わたしは、“ことば”は不在なものをそこによび起こす信号だ、と申しました。「梅干」という“ことば”の例で、そのことを申しました。例が例だったので誤解があったかもしれませんが、不在なものというのは空間的にそこにないもの、というだけではありませんで、まさに時間・空間的に不在なもの、ということです。梅干の例にしましても、たんにそこにはない梅干という物体というだけのことではなかったはずです。「過去において梅干を食べた体験」云々ということにふれて話したはずです。で、たとえば、兼好法師ではありませんが、古典にしたしむことで「見ぬ世の人を友とする」というかたちの、遠いむかしの不在の先輩をそこに呼び出して会話することも可能になるわけです。“ことば”信号に媒介されてであります。
 また、不在の未来や、やはり不在の自分たちのあすについて、その未来像を予測的にさきどりする形でイメージとしてえがき、お互いにそれについて語り合う、というようなこともやるわけです。“ことば”信号の信号としてのはたらき に媒介されてであります。が、さっき、みなさんと合唱した『しあわせの歌』ではありませんが、未来を語るということが、「甘いおもいや夢」としてでなく、「今の今をより美しくつらぬき通して生きる」という姿勢でおこなわれるようになるためには、その信号が民族的体験の共通信号としてのふくらみをもつものであることが前提になります。民族のつぎの世代である子どもたちに対して、まさに“国語”が教育されなければならないのです。民族的な“ことば”体験が身につくかどうかは“血”の問題、“人種”の問題ではなくて、教育が民族的発想に立っておこなわれているかどうかの問題だからです。

 で、そのような意味での民族教育としての国語教育の推進のために――ここで先刻の“ことば”信号の記号化ということに話をもどしますが、共通信号としての国語の受けつぎと保存の拡延のために、“ことば”信号をマークとしてプールする、という必要が生じてまいります。
 信号の記号化による、信号の共通性の獲得と確保ということは、各民族に共通の知恵であります。辞書のことを思ってみてください。そこには“ことば”は記号として、あるいは記号化されて書きとめられ配列されております。「梅干」なら「梅干」という“ことば”は語彙
(い)として切り取られ、国語辞典でいうとそれは五十音順に「う」の項に配列され、また「う」の項の中のマ行の「め」の項にというように順をたどって並べられています。だから、この“ことば”を全然しらないような人であっても、その項を引いてみることで、その意味がある切りくちでつかめるようなしくみ になっています。意味というのは、その“ことば”の共通信号としてのさまざまの操作のしかたを、作用果(=結果)の面で切り取って説明を加えた、その説明のことですけれど。<注4>
 だからして、また、「梅干」というのは梅の実を干して、シソの葉と塩で漬けたものだとか、製法のことは別として物として、味としてしっている、というような人であっても、この“ことば”の信号としての他の使用側面を辞書を繰ってみることではじめて知る、というようなことがないわけではありません。「梅干ばばあ」だの、「日の丸弁当」だの、多義的なこの“ことば”のいろいろな信号としての用法に接することができるわけです。そういうもろもろの民族体験の反映としての“ことば”を知る足場が、“ことば”信号の記号化により、記号を媒介とする事で可能になるわけです。 “ことば”信号の記号化、それは偉大な人間の知恵だと先刻わたしが言ったのは、そういうことがあるからです。
 現実の、実際の辞書のことは別として、わたしたちの頭の中には一種の辞書が備えつけられている、と考えてもよさそうです。辞書というものが作られる以前の人たちの間にも、それがあったし、また、辞書というものにわたしたちが接する以前において、やはり備えつけの辞書を用意していた、ということがいえそうです。それは、かなり落丁の多い、そして索引もかなりでたらめ な、その代わり、いきいきとした実用的な辞書です。つまり、わたしたちは、絶えず信号を記号としてマークする操作をとおして、“ことば”信号を“ことば”信号として使うことも可能なものにしている、という現実の事実を見おとすまい、ということなのですが。

     4.教科構造論の前提となるもの
 ところで、ナマ半可な知恵というか中途はんぱな知識というのは困ったものでして、“ことば”はほんらい 記号であり、その本質は記号性にありというに近い考え方が、信号の記号化のプロセスの中で生れてくるような場合が間々あるわけです。記号主義? ……そんな名称はどこにもないが、まあ、そう言ってもいいでしょう。もう少し厳密ないい方をすれば、汎言語主義的なメディア観、言語観のわく 組みによる考え方ということになりますけれども、きょうの話題のかぎり、名称の問題は一応まあどうでもいいでしょう。ともかく、それは、一定のマークの中には一定の意味内容が内包されている、という考え方です。また、その意味内容はやはり、マークとしてとらえるほかないものだ、という考え方です。したがって、この考え方でいくと、マークをマークとしてつかませることが出来れば、それでりっぱに国語教育が実現する、ということになる。むしろ、そのことを順序を立ててきっちりやるのが国語教育の仕事だ、というのですね。こういう考え方が、今の国語教育の世界ではかなりハバを利かせている。
 これはつまり、先刻紹介したところの、小学生として、また中学生としてわたしが経験した戦前の国語教育の発想と同質のものですね。「すなわち」を「つまり」に、「つまり」を「すなわち」にというように、その 記号を別の記号 におきかえてその“ことば”の説明に代用し、その別の記号を生徒に棒暗記させて授業を終わる、という戦前のやり方と、一つの作品には一つの客観的な内容がある、その内容はかくかくしかじかのものである、わかったね、といって終わる授業と一体どこが違うでしょう? 一つの作品には一つの内容が、一つの主題が――という場合のこの作品というのは、思うに、音楽のほうでいえば作品以前のただの楽譜みたいなもののことでしかなさそうです。
 くり返しになりますが、記号というのは信号をある切りくちでマークしたもののことです。菊の紋章なら菊の紋章というマークは、これは、ある状態・状況の天皇家をシンボライズした記号です。戦前にあっては、現人神(あらひとがみ)――人間にして神であるところの天皇一家のシンボル、マークでありました。
 が、いまは違う。いまは、だれも、それをアラヒトガミの象徴だ、記号だ、などとは思ってはいません。記号はしょせん記号なのであって、その記号が結びつく信号は、一方に、その信号が媒介する事物(天皇家なら天皇家というもの)のありかたの変容と関係し、それとの関係において他方、受け手の地づらのありかたによって制約されます。記号はあくまで記号なのであって実体――スタティックな意味での事物の永遠の本質などではありません。
 “ことば”が実体だったら、国語教育はただ、記号として“ことば”を教えればいいことになるが、それでは“国語”の教育にはならないのですね。国語というのは民族的体験の共通信号の系、つまりは信号 だからです。それに、記号を記号として教えてみても、それは記号を教えたことにならないからです。されにいうと記号を信号と切りはなしたかたちで教える、というようなことは実際上不可能なことなのですね。
 そこで国語教育の基礎構造にふれてなのですが、民族体験の共通信号として国語を操作できる人間の基礎を子どもたちの間につちかうために、一方に、“ことば”信号を記号化してつかませる文法教育や文体教育が国語教育活動の重要な側面として要請されてくるわけです。“ことば”をその作用果の面において、構文規則や形態法則として記号化してつかませるのが文法教育ですが、文法教育は作用因としての“ことば”の動的な働きを文体意識において、やはり記号化してつかませる教育活動です。基礎科学(=言語心理学・文体論)の未成熟がこの文体教育の体系化を困難なものにしていますが、現状ではむしろ、教育実践に実験の意味をもたせた実践の理論化の方向にその体系化への期待がかけられます。

 文法教育や文体教育などの、いわば記号化教育との支えあいにおいて、他方に、“ことば”信号の信号操作の教育活動の側面が大きくクローズ・アップされてまいります。具体的には、それは、“ことば”信号の概念的操作の教育と、形象的操作の教育との二つの教育活動の側面をもつわけであります。
 以上は、しかし国語教育の基本的な基礎構造であって、それが、そのまま国語科の教科構造におきかえられるわけではありません。現実の教科構造としては、わたしは、やはり今でも『文学の教授過程』の序論の中に書きつけたような、(1)文学教育、(2)文法教育、(3)論理教育の三側面の統一という構想に立って国語科の教育活動を考えております。<注5> 構想? ……むしろ、ただの発想にすぎませんけれども、ともあれそういう発想がどういう考え方にもとづくものであるのか、ということを、ここで話してみたまでです。
 表示しますとここに(後注――黒板に)こう書きつけてあるようなしくみ になるわけです。


 1. 国語教育の基礎構造
  (1) 記号化操作の国語教育活動
   ① 文法教育と音韻教育
   ② 文体教育(“ことば”信号の記号化において、文体意識をつちかう教育活動・文法教育にあっては、
         “ことば”は作用果としてとらえられ、構文規則ないし形態法則として記号化されるが、
         ここでは、作用因としての“ことば”に関して、それをいわば文体原則として記号化して
         つかませることが課題となる。)
  (2) 信号操作の国語教育活動
   ① “ことば”の概念的操作の教育
   ② “ことば”の形象的操作の教育
 2. 国語科の教科構造
  (1) 文法教育(文法・音韻の教育)
  (2) 文学教育
  (3) 論理教育(仮称)


 私に与えられた四〇分の時間も、もうそろそろです。端折って申しますが、この教科構造の面に関していうと、実際にそこにあるのは一つの国語教育活動なんだ、というのがわたしの基本的な発想です。文法教育というかたちで国語教育がいとなまれ、また文学教育というかたちで、その側面においてひとまとまり の国語教育活動が進められていく、という、ただそれだけの話なのだ、というわたしの考え方です。ですから、この(1)と(2)と(3)とは、それぞれが、そのそれぞれの作業の前提となり支えとなることで、そうした支え合いの関係において一つの国語教育の作業がそこに実現していくのだ、という考え方に立つわけです。
 むろん、小学校の低学年と高学年とでは、さらに中学校の後期から高校段階へかけてということになりますと、作業の分化が進み、教科としてもいわば言語科と文学科という教科の分化まで考えられるわけです。で、そういう教科の分化・独立を予想してみた上で、なおかつ、わたしは、文学教育なら文学教育は国語教育である、と考えるわけであります。国語教育をだいじに考えるからこそ、国語教育というものをたいせつに扱いたいからこそ、中学後期あたりで、その発達と見合うかたちで、“国語教育としての文学教育”のための教科を文学科として国語科から分化させたいと、そう考えているわけなのです。<注6> 誤解なくご諒解いただけたかと思いますが、わたしは、国語教育というものをベッタリ未分化に考えているわけではありません。そう考えて“一つの国語教育”と、こういっているわけではありません。
 時間切れです。この表のこの(2)文学教育について、それとこのほうとのつながりにひとことだけふれて終わりにします。
 1.のどこへつながるか? 1.の全部につながる、というほかありません。そのことは、いまの教科構造の話によってもご諒解いただけることだろう、と思います。が、中心になる作業領域というか、作業の側面はむろん、あるわけです。少なくとも、小学校から中学前期へかけての文学教育活動の当面の目標は、1.の(2)の②の、“ことば”信号の形象的操作の指導をとおして、文学の“眼”、文学体験の素地をつちかう、という点に求められます。つまり、そこが文学教育活動の目標になるわけです。
  しかし、その目標、目的のために手段を組むことが文学教育の実際の作業なのでして、その実際の作業内容としては、1.の(1)の②の、文体教育や、1.の(2)の①の、“ことば”信号の概念的操作指導の作業を内に含みこんだものになるわけなのであります。<注7> ……先刻の“国語教育としての文学教育”云々ということに関しては、部分的にですが、わたしの講演速記の改稿が文教研(文学教育研究者集団)の機関誌(「文学と教育」)№36に掲載されておりますので、それについてご承知いただきます。<注8>


 <注1>   『愚者の死』~ 幸徳事件に取材した佐藤春夫の詩作品。一九一一年三月、「スバル」に掲載。“愚者”とは、この場合、権力によって飼いならされた大衆の眼に「日本人ならざる者」「愚(おろか)なる者」として映った、事件の被告、大石誠之助のことをさしています。春夫のこの七連の詩作品は全編、反語と逆説をもって書きつづられています。くわしいことは、拙稿「幸徳事件をめぐる一連の詩作品(春夫・啄木)」(文学教育研究者集団著『中学校の文学教材研究と授業過程』・明治図書刊・所収)についてご承知ください。

 <注2>   再生芸術~ Reproduktionkünste の訳。なお、拙著『芸術とことば』(牧書店刊)三三ページ参照。

 <注3>   反射・反映・反省~ 「ここに注記しておきたいのは、条件反射の“反射”ということば(概念)が、“反映”や“反省”ということばとシノニムである、という点についてです。むろん、それは、それぞれにニュアンスの違うことばです。しかし、この三つの“ことば”は、Reflextion という一つの“ことば”の、それぞれの文脈に応じた三つの訳語にほかなりません。ことば遊びみたいなことになりますが、たとえば“反省”というのは、ゆがんだ“反映”を改めて、まともな“反映”を実現させるために、別個の条件刺激を組み立てることで、別個の“反射”を成り立たせることだ、というふうにいってみることも出来そうです。それを、ただ、訳語の違いにすぎない、といったのでは、こぼれるところも出てきますが、しかしそれらの“ことば”の概念内容は本筋において一つだ、ということだけはハッキリさせておいたほうがよさそうです。そのことがハッキリすれば、この第二信号系の理論が、認識の反映論的な機能をそれの大脳生理学的な基礎づけにおいて追求しようとするものであることも、いっそう明確になってくるかと思います。また、そのことがハッキリすれば、この理論を、反映論そのものと原理的に矛盾するような言語理論や文学理論、教育理論などと折衷させようついうような企てやこころみが、どんなにバカゲたものであるかも、しぜん明らかになってくるとと思うのです。」(前掲・拙著『芸術とことば』一七六ページ) 

 <注4>   作用果~ 拙稿「国語科の教科構造と文学教育」(文学教育研究者集団著『文学の教授過程』・明治図書刊・所収)参照。とくに、その(2)「記号としての言語・信号としての言語」、(3)「国語自体の教育としての文学教育」、(5)「方法体系」の三つの項をお読みいただきたい。

 <注5>   文学教育・文法教育・論理教育云々~ 上記<注4>に紹介した拙稿「国語科の教科構造と文学教育」の(4)「文学の授業・文法の授業」および(5)「方法体系」の項など参照。

 <注6>   文学科の分化・独立~ 前掲拙稿「国語科の教科構造と文学教育」の(6)「国語科と文学科」および、拙稿「中学校文学教育の課題と方法」(前掲『中学校の文学教材研究と授業過程』所収)の3「文学の授業構造」の項など参照。

 <注7>   その具体的な事例については、明治図書から近刊予定の拙著『言語観・発達観の変革と国語教育』の3「汎言語主義的メディア観からの解放」の(3)「わく 組みによる認知」の項を参照していただきます。

 <注8>   講演記録「国語教育としての文学教育」~前掲『言語観・発達観の変革と国語教育』に再録しましたから、ご参照ください。機関誌に掲載する以前の(改稿以前の)、これは談話速記のままのかたちのものです。 

( 国立音大教授 )  
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