初期機関誌から

文学と教育 第39号
1966年7月30日発行
  太宰治『女生徒』の授業をどうくむか <レジュメ>  荒川有史
 『女生徒』に即して文学の授業をどうくむか、という課題に接近してみようと思う。
 そのことは、わたしたちめいめいの文学観・言語観を、あるいは発達観を、左記のようなテーゼとつきあわせ、検討することでもある。
1. 「文学作品の<送り内容>は、つねに受け手の生活の中にあったものの再組織である」(乾孝氏)
 暗い谷間の民族的体験の典型的要約ともいうべき『女生徒』を、こんにち読みかえす意味はどこにあるのか。
 『女生徒』にべったり共感する子どもの読みを、どこで、どんなふうに問題にしていったらいいのか。<資料2.参照>
 『女生徒』は“私”の分身であり、同時に“私”の告発者でもある、という理解が教師をもふくめて一方に存在する。と同時に、『女生徒』の世界はナンセンスきわまる、という反発が他方に存在する。この相反する方向差を、教室ではどう問題にしていったらいいのか。<資料3.1.参照>
2. 「本来の場面規定をおさえるという操作が同時に、その作品と自分との関係のパースペクティヴを規定する操作にならなければならない」(熊谷孝『中学校の文学教材研究と授業過程』Ⅳ)
 女生徒の生きた時代をぬきにして、なんてじめじめした観念遊戯の持主だと反発しても、それは作品との真の対面を意味しない。また、この作品の登場人物はこういう時代に生きていたのだから、こんなふうに理解すべきだ、ふうの読み手の感動ぬきにした、客観主義的理解も、文学の理解とはほど遠い。結果において文学から遠ざける操作を、文学の授業ではついやりがちだ。
 この点をどう考えたらいいのか。
3. 国語教育としての文学教育という提唱にこたえるために、授業を実際にどうくむか。鑑賞学習・文学理論学習・文学史学習を立体的に構成するというのは、たとえばどういうことか。
4. 『女生徒』を中学後期で教材化するにあたって、どんな教材群の中に位置づけたらいいのか。

<資料1.>
 反発の一語   N・H(女子)
 正直にいって私はこの話が、大キライなんです。不自然でくらいこの話をよんでいくと何かが、私をゆううつのそこにひきずりこんでいきそうな気持にさせるからです。
 それでいてむりに明るく自然にえがこうとしているような気がして、どうもスキになれないの。それにこのえがき方、きもちわるい。アア、胸がむかむかする。イヤァダ!!
 もし、こんな女の子が、私のそばにいたのなら、いいえ、いるはずだわ、そしたら、私、その子を思いきり、ひっぱたいて、こうさけびたい。「なぜ、あなたは、そう何もかもを、みにくい、そしていやらしい物として見てしまうの」って。できないかもしれないけどそうしたい。私だって、バスや電車の中などで、いやだなァとかんじる人はいるけれど、外見だけできめないで、なぜそんなカッコウをしているのだろうと考えて見ます。“ああ、きたない、きたない、女はいやだ”こう彼女は言っているけれど、なぜ、そうなのかを考えない。自分だって女なのだ。その人の一部分を見ただけでそれが全部だと思ってしまう。きたないかっこうをしていたら心もきたないと思ってしまう。アアいやだ。ある人は、彼女にはおとうさんが、いないから、ひねくれているのだといっていたけれど、私はそうは思わない。たしかに彼女は少しひねくれてはいる。けれど、それは、お父さんがいないからではなく、その頃の世の中のせい、つまり、自分の意見をはっきりといえない世の中のせいなんだ。もし、その人のいうとおりに、お父さんが、いないせいだったとしたら、私は、彼女がよけいにくらしく思い、彼女の何もかもがきらいになる。なぜなら、世の中には、おとうさんのいない子、そしておかあさん、おとうさんもいない子もいる。それもたくさん、そして、いてもいっしょにくらせない人もいるのだ。おかあさんの愛情だけでもしあわせなはずなのに。話が少し、それちゃったかナ。
 それに私にこんなことをいう資格があるかどうか、それは疑問だな? だって、私はもっとみにくい人間かもしれないから。
 もう、こんなの、二度とよまないわ。百万円くれるといっても、アア、つまんない。

<資料2.>
 『女生徒』は私   S・S(女子)
 とてもおもしろかった。私の家とこの女生徒の家がとってもよくにているということもおもしろかった理由のひとつだ。だから時々おどろくほどぴたりと私の心にせまってくる。私が考えていることとこの女生徒はあまりにもそっくり同じことを考えている時はびっくりしてしまった。この小説は一人の平凡な女生徒の平凡な一日をテーマにしている。だから、とってもおもしろい。S.十三年ごろの女生徒だそうだけれど、考えている事が今の私たちにもピッタリくる。なんか自分の友達の日記でもみているみたいな感じがする。
 この女生徒はいろんな事を考えている。といっても別にしょうらいの希望があってそれにむかっているわけでもなければ、現在の日本の状態についてなど考えているわけではない。女生徒は自分のまわりの事でせいいっぱい。ほめたり、けなしたり、きびしく批判したりしている。その批判が今の私にこれまたピッタリくるからおもしろい。自分の立場とまるでかけはなれた題材もおもしろいけれど、この『女生徒』のようにふつうのほんとうにありきたりの少女をテーマにした小説はよけいピタリとくる。
 この『女生徒』は、夜を最後におわっている。だからこの女生徒の明日は、誰も知らない。もちろん女生徒にだってわからないはず。それでも、この女生徒の明日を私たちはどういう一日かだいたい見当がつく。この女生徒の明日は、多少のちがいはあっても私の明日でもある。だから分るのだ。明日はまた今日のくりかえし。灰色の朝がやってきて、きたないものを見ると不けつだと思い、きれいなものを見るときれいだと思う。そして、またあさっても同じことのくりかえし。
 私の明日だってそうなのにかわりなはい。
 この女生徒もしかしたら私……?

 ふつうの女の子   N・M(女子)
 この小説にでてくる女の子(つまり女生徒)別に変わったところなんてない。普通の女の子じゃない、と読んだ後でそう思った。ところが、皆なの意見を聞いてると、この女の子はどうやら普通じゃないんだそうだ。ということは私が変な女の子だということかしら? だって私、本当にこの女の子と似てるんですもの。女は不潔だと彼女は言っている。そのことだけ違って、後書いてあることなんか、よく私が考えることなんです。外には出さないけど心の中(例えば日記など)でこんなことを考えている人は、けっこう多いんじゃないかな。この女の子に会ってみなくちゃわからないけれど、表面は明るいハキハキとした子かもしれない。今井田さんと会っている時だって彼女は一人でいやがっていても、今井田さんには、けっこう明るい、かわいい女の子としてうつったかもしれない。心の中で思っていることは相手につたわらないで表面の印象だけうつったかもしれない。女の子なんて本当に何考えているかわからない。だから誰でもまわりにこんな性格の人がいたって心の中はのぞけないのだから、その人の心の存在に気づくはずはない。それに別にお道具なんて言ってるからって、下品な感じはしない。何しろ作者は男性なんだから(女の人の心理をここまでえがけたのが気味が悪いっていうより、むしろ不思議です。恋をしていないエミリー・ブロンテが嵐ヶ丘を書いたように……。)どうすれば、女性らしく感じるかと苦心したように感じます。(もっとも、このころの女性の言葉づかいは、みんなこんな言い方みたいだから、むしろこれで自然なのかもしれない。)けっきょく、女の子が気づかない女性の心理をよくとらえていると思います。そこいらにいる女の子をえがいたような、ようするに私がいいたいのは女性の心理を知らないのはむしろ女性ではないかということだ。しつこいけれど、結論として、この小説の女生徒は普通だと思うし、それは今の女の子にも通じていると思う。(私がそう思うだけかもしれないが)別に時代がこうだったからこうだという時代のワクは感じない。ただ彼女、人より少しだけ感受性が強いところがある。そしてチョッピリオセンチ。

<資料3.>
 親近感とこわさと   S・H(女子)
 ぜいたくは敵だという時代に、下着にバラの刺しゅうをする女生徒。戦争へ戦争へと押し流されている時、それの原因を作った首相に反発を感じる女生徒。彼女は「王子さまのいないシンデレラ姫」であり、「山賊」であると思う。
 私は彼女に親近感を感じると同時に、こわいものを感じます。彼女が共通点を持っていると同時に、私達の奥にかくれているものを引きずり出すからです。彼女があまり私たちに似ているために引きずり出されるのかもしれません。その点で彼女は山賊です。 「王子様のいないシンデレラ姫」私達もそうかもしれない。いつも夢ばかり見ている。なにか素晴らしい事が、いつかなどと、決して実現しっこない夢、シンデレラには、王子様がいた。夢をかなえてくれる人が、でも彼女や私達にはいない。私は彼女はまだ若いんだなあと思います。
 私達の奥にかくれているもの。それは、自分を飾ろうとしたり、むやみに悲しがったり、おせじを云ったり……といろいろある。それはだれもがもっている。人間くさい欠点だと思う。この小説を読んでいて、ある、私もこんなことがあったなあと思ったしゅん間、ハッとする、そこに私がいるからです。ほんとに、ほんとに、彼女は人間くさい。いやになってしまう。でも、彼女には夢がある。否定しながらでもあると思う。夢があるってことは若いことだ。彼女は今にも夢を失うかもしれない。(年をとると共に)
 私が、女生徒をおもしろいなあと思ったのは、人の描き方が素直な所です。おもしろいよりか、悲しい事かもしれない。だって、まるでその人たちが浮かぶように、詳しく書いてあり、浮かべてみると、よく似た人がいて、アアと思うような文だから。
 それに一番最後の文、ピリッとしていて、おもしろい。いろんな事を想像できて。たとえば、彼女は、小説を書いた、作者が作った今の彼女は、もう存在しないのか、それとも、昔ながらの夢を持ち、おばあさんになってどこかにいるのか、それとも私達と同じ姿で、私の目の前に存在しているのか。……

 現代に通ずる『女生徒』  Y・M(男子)
 この女生徒は、たしかに自分に対しては、正直なのかもしれない。なぜならば自分自身の弱みとか、悪い点、つまりあまり素直ではないというような事を、書いているからである。それが、わかっていてもなおせないなどとも書いている。だから正直なようにみえる。しかし、本当に正直なら、素直に直したり、、悪い点をきちっとしたりできるはずである。それができないというのは、彼女がまだまだ自分自身に弱いということだろう。
 正直であるが弱いということだ。こういう面は、僕と何か共通するような気がする。
 だから僕にとっては、恐ろしいような気もする。しかし、こわいというより何かしたしみがもてるのだ。正直に書くと、この女生徒の考える考え方などは、僕ににていると思う。
 この女生徒の生きた時代に、こういう人は少なかったんではないかと思う。みんなぼうとしているという事は共通しているけど、自分に対して正直である。この人みたいではない人たちは自分をごまかしてしまうのではないだろうか。現在でさえ、そういう人は多い。あまり一つの事に集中せず、すぐ思いが変る。ふと何かむかしのことを思いだす。というような事が多い時代、そういう時代に生きた女生徒。わかっちゃいるけどやめられないという女生徒。現代に通ずるものをもった人。
 だから僕は、この女生徒は好きです。僕たちのもっとも弱い面をズバリ書いた様でこわくもあり、好きでもあるのです。

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