初期機関誌から

文学と教育 第37号
1966年2月26日発行
   全国教研参加の記――信号としてのことばを軸に  夏目武子 
     はじめに

 サークルの機関誌であるから、書きたいことを書いてもいいんだなという一種の安心感みたいなものを感ずる。と同時に、今までの私みたいにサークルに甘ったれないで書きたいという気がする。「文学と教育」bR6に「サークルの中だけだと、とくに私などは、カタコトで話していて、それで相手にそれが通じないと相手の方が悪いと思ってしまう。まともにとりくもうという姿勢のある人と話し合うことは、ときには冷汗をかかねばならないが、自分自身思いをただされる感がする。」なんて私は書いたが、私にとって、全国教研はまさに私自身思いをただされる機会であった。サークルで勉強してわかったつもりであっても、じっさいよくわかっていないことは、討議を聞いていて実感する。おかしいと気がついてもそのことをうまくことばにまとめることはできず、したがって、みんなにわかってもらうように話すことができなかった。反面、みんなと討議している中であれはこういう意味だったのだと、かえってはっきりし、深まったこともある。
 提案者に指名されたら、信号としてのことばの観点から、文学教育について報告したいと思っていた。
 
 ゆがんだ過去の感情体験を、作品と対決することで組み変えなが作品と対決してゆく。それが作品を読む意味であり、作品の表現が示す信号を信号としてまっとうに受けとめることのできる人間に訓練することである。信号として――つまり、「民族の共通の広場(時空的なその共通の場面)の場面規定における共通信号」(文学の教授過程〕P33)として文学の「ことば」をとらえようというのである。作品を読んで感動を受けるというのは、ことばが記号の段階にとどまらないで、この信号として機能してきたときだと思う。
 国語教育という観点から位置づければ……うまく要約できないので引用することにする。
 その「国語教育の大きな目的のひとつは、構文規則なら構文規則をきちんとつかんだ上で、『ことば』を作用因として自由に操作し、民族的な発想において自由に、ゆがみなく、思考活動をくりひろげてゆけるような人間の素地を、段階的につちかうことでありましょう。……作用因としての――つまりは第二信号系としての言語自体の習得と修練ということが、国語教育のだいじな作業領域であります。とすれば、もっとも洗練されたかたちの『ことば』操作(作用因としての『ことば』操作)の体験にほかならない文学(文学体験)の指導を故意にその作業のわくからかずして、国語科の作業が果たして言語自体・国語自体の教育になり得るか、ということなのです」。(『文学の教授過程』P31)

 こうしたことを軸として考えをのべたかった。言語と言語活動にわけることも、なっとくできなかった。文学教育が、文学作品の読み方指導というワクの中におしこまれることもおかしいことだと思う。そういうことを言いたかったのだが、指名はされなかった。したがって、たえず、ある提案に対する質問、意見という形で私は討論に参加していた。
 「主題は作品の中に、客観的にあるもので、分析、総合によってつかむことができる」という提案、「事実を事実としてつかませる」という考え方に対して、「読み手の感情にどうひびくか、読み手の感情とどうふれあうのか」という点から、質問したり、意見を言ったりした。読み手の感情をぬきにして、その文を読むというのはどういう意味があるのか、はたして読んだことになるのかという疑問は、たえずつきまとっていた。読み方指導云々ではなくて、ことばをどうとらえるかにまでさかのぼらなければならないことに気づいてはいたのだったが、「ことばをたんに記号としてとらえる」という面から整理して、(そこに出されている問題を)発言することは、教研の場ではできなかった。
 「国語教育」編集部(明治図書)から、全国教研のことを書くように言われて、私は私のノートを何度も読みかえした。そして、私が何度も立って発言しなければならない気持になったのは、もとをただせばこの信号としてのことばに関係するのではないかと、今は自分なりに整理がついた。 
 文教研では、ずっと前から信号としてのことばという整理にもとづいて研究が進められていた。が、私自身にとって、目の前で話題にされていることと、このことがはっきり関係づけられてとらえられるようになったのは、教研の中で冷汗をかいた結果である。
 「国語教育」bX0に私が書いたのは、「ことばを信号としてとらえないから、言語と言語活動を分けたり、主題は作品の中に客観的に存在し、分析と総合によって全員にわからせることができる、という観方が出てきたりするのではないか」ということだ。
 現在の私たちは、たえず大前提にかえってものを考えることが必要だという気がする。大前提をゆがめず、大前提をいかすとは、現在何をどうすることなのか、確認することが必要だと思う。自分でも気がつかないで、そっくり体制に身うりしていることだってありうるのだから――。 少し背のびをして、大きな問題にぶつかってしまったという気がするが、あれを書くことで、私自身の勉強が始まったという気もする。bX0が活字になったら、うんと批判してほしいと思っている。

 子どもたちの幸せを願い、本気で教育しようと思っている人々が、全国から集まってくる。たった四日間で、国語教育のすべての分野を検討しようというのだから、ものすごくたいへんだということはわかるのだが、柱のたて方や、運営のしかたで、もっと全国の仲間の討論をかみあわせることができるという気がした。司会者、講師団へのおねがいという形で、そのことを私は書いてみた。
 論がかみあわなかったり、誤解されたまま訂正する機会がなかったり、講師のまとめでその柱の討議がすべて要約されたみたいになってしまうと、涙がでそうな気持になるものだ。

     一、 描写ということをめぐって

 困ったことの一つは、使われていることばの概念規定がまちまちであって、それがべつに問題にならなかったということである。たとえば、「描写形象と表現形象を分けて読みとる」ということばにぶつかり、私はあたふたとしてしまった。隣の席が東京代表の方だったので、ときどき私の困惑ぶりをみて、私のノートに書きこんで説明をしてくださったりした
。描写形象という場合の、“描写”は、文教研でいう説明文体と描写文体という場合の“描写”とはちがう。「それが文学であるかどうかは、たんなる説明に終らないで、部分と部分の相克と統一によって、描写として実現しているかどうかにある」。こんな文脈で描写ということをとらえていた私にとって、描写形象と表現形象を分けて読みとるということは、とっても奇異に感じられた。描写形象の方が、表現形象より低次であるらしいことを知ってなおさらであった。
 福島提案によると、形象の知覚の段階では、描写されている事実(描写形象)をまず読みとらせることがまず必要だという。それは文の部分をたんねんに読みとることで実現する。その部分が、文脈、場面の中で、どういう意味をもつのかをつかませるのが、表現形象を読みとることであるらしい。
 たとえば、『ごんぎつね』の場合だったら表現形象を読みとるというのは、最後の、青い煙が筒先から出ている場面を、悲劇性、あわれさとしてつかむことだというのだ。
 表現形象ってどんなことだろうという期待をこめてきいていたら、何かすっぽかされたような気になってしまった。
 書かれていることが、意味をもつ、あるいは書かれていることの意味をつかむとはどういうことなのだろうか。読み手とのかかわりあいなしでできることなのだろうか。意味をもつというのは、ある人の、あるかまえにおける意味ではないだろうか。ある読み方をするから出てくる意味ではないだろうか。描写形象、表現形象ということを考える前に、もう一こま前にさかのぼって考えることが必要ではないだろうか。その作品がすぐれた作品か、今日読む意義があるのか、子どもに与えるとしたらどこを教材化するのかという視点がなかったと思う。
 柱のたて方そのものがおかしいと教研の席上私は何度も言った。たとえば、文学作品の読み方指導という項では、
  @作品の中に描かれている生活現象をどうとらえさせたか
  A作品の主題、理想をどうあきらかにしていったか
  Bひとつの教材について右のような指導をどんな段階に組みたて、授業の流れを組織したか
  C自主的な教材選定の基準は基準は何か?
というようになっている。
 言語と言語活動とに分け、その言語活動のひとつとしての読み方指導というワクの中では、こうした方向でしか考えられないのかなという気がしたのだが。この柱のたて方をみると、どう何々したか という結果が問題になっている。どうあるべきか、というのは、もう解決ずみというのだろうか。また、その作品がよい作品かどうかは、自明の理として、指導過程に重点をおかれているという気がする。
 何度でも言いたいし、何度でも書きたい。今、私たちに必要なのは、大前提にたえずかえって、問題を確認することである。
 文学教育に関していえば、教師みずからがその作品に感動することから、文学教育ははじまると思う。教師自身が、文学を文学として読むことが、出発点だと思う。教師の姿勢が狂っていたらおしまいなのはいうまでもない。きちんと授業するということは、教師自身をも変えていくと思うのだが。
 その作品をどう読ませるかという方法(手順という意味の)が先にくれば、くだらない作品をも、作品とは別の次元で感動させることにもなり、すぐれた作品からうける感動をも、異質なものへと変形する危険がある。作品の表現が示す信号を、まっとうな信号としてうけとれない生徒を、教師が作ることになってしまう。
 描写形象をきちんと、たんなんに読むといわれるが、作品のある部分をどう読むかは、じつは作品全体をどう読むのかとかかわるし、読み手の感情体験ときりはなして考えられないわけだ。
 教研で報告された指導過程も、いきなり、形象をどう読みとらせたかという形でなく、作品評価と一体になった形で報告されたら、私ももっと救われることがあっただろうと思う。
 秒所形象、表現形象とは何をさすのか、そう分けて指導過程を組むのはどういう意味があるのかを、もっときちんと質問しなければいけなかったと思う。用語の定義をはっきりさせることは、その考えの大前提を確認しあうことでもあったのだ。

     二、 三読法、一読法は方法の問題か

 三読法と一読法についても同じことがいえる。言語観の問題か、方法論の問題化という質問が佐賀から出されたが、これのほり下げはぜんぜんといってよいくらいなされていない。指導過程を考える中で、手順の問題として討議されたといってもよい。
 言語観の問題として位置づけるべきだということを、最後の日、私はちょっと発言したが、ほんのちょっとに終わってしまった。
 文学作品は三読法で、説明文は一読法でやった方がよいという声もあったが、どうしてそのほうがよいのか、私にはわからなかった。

     三、 主観主義というレッテル

 主観主義者ということばが、何かワルモノのように使われていたという印象がのこっている。私も主観主義者だとよばれるのが、何だかこわいような気がして、途中で[私は主観主義者なのか」とたしかめ、そうでないことを確認したほどである。主観主義というレッテルをはられることを恐れるのが先で、主観主義とはなにをどうすることなのか、たしかめることをしていなかったと思う。
 教研で“主観主義”ということばがどう使われていたのだろうか。
 中央教育課程研究委員会国語部会報告書では、「戦前の読みかた指導の理論的なささえとなっていた“解釈学”は文章を、筆者の主観の外化されたものとしてとらえ、文章の読みとりを、その筆者の主観を“追体験”することとしてとらえるものであった。この“解釈学”によって裏づけられた“主観主義的”な読み方指導が、なんらかの形でこんどの改定(四十三年を目途にした教育課程の改定)でも脚光をあびるのではないか。すでに、沖山光の“構造的読解”の理論が、そのひとつとして普及された。」と解釈学に基づく主観主義批判をおこなっている。こうした方向での沖山批判には大賛成なのだが、それが主体とのかかわりにおいて作品を読むことすら、
主観主義批判という形で拒否するのだったら、私はとまどいを感ずる。沖山理論をこえる形で、主観主義が検討されなかったのだという感じがする。

 速報第二号にこんなふうに書かれている。
 <神奈川>の意見は、作品(作者ということか? ――夏目注)の意図をこえて表現されたものとして,主題が読み手の心の中に描かれる ということであるが、それは、作品の理想にかかわることであり、この場合、あくまでも形式である作品の叙述、構造などをぬきにして考えることは、主観主義 におちいるだろう。(奥田講師のまとめ、なお圏点は夏目)

 自分の言いたいことを相手にわかってもらうというのはむずかしいことだとつくづく実感した。 書かれていることが読み手の感情とどうかかわるかということを問題にしたくて、つまり信号として、その表現が読み手にどうひびくかを問題にしたくて、佐多稲子氏のことば(「教育国語」bP)を引用したのだった。「主題が読み手の心の中に描かれる」というのは、佐多氏のことばである。
 作品のすじをたどること、表現を読みとることを否定したつもりはない。読み手の主体をぬきにして、作品を読むというのはナンセンスだということを強調したかったのだ。
 主題は作品の中に客観的に存在するというのは、素朴唯物論の立場だと思う。第一に、作品の中に一定の内容が封じ込められているという前提、第二に、客観世界を反映する主体が、ゆがみないものという前提がそこにはあるように思われる。主体のゆがみをゆがみとして自覚することで、客観世界を正しく反映していくことができるのではなかろうか。
 私は、全国教研へ行くまでは、主体とのかかわりで作品を読むというのを、あたりまえのことと思い、何ら罪悪感なんてものをもっていなかった。だから、主体とのかかわりを問題にすると、主観主義になり、文部省的だとされてしまうと、アタフタとせざるを得なかった。
 全国教研から帰って『芸術とことば』(熊谷孝著)を読み返してみた。
 「主観を越えるというっことが、しかし自分の主観を切り捨てて、さっと客観に早がわりする、というふうなことじゃないわけですね。自己の主観の主観性を自覚する、という形での客観的視点の獲得……つまり、そういうことなんでしょうね。」(P233 対談の中での熊谷氏の発言)
 主観と客観ということについて、もう少し勉強したいと思っている。

     四、 形式の重視ということ

 形式を無視してはいけないという講師の指摘があった
。大賛成だ。私は、文学とはまさに内容形式一体のものという文脈で形式を考えたいからだ。が、教研で問題になった形式というのは、それとは意味がちがうのかなという気がするので、あえて次のことを問題にしたい。(ここから後は、「国語教育」の原稿用にかいたのだが、紙幅が尽きて載せられなかった分)
 文学作品の選択の基準として、つぎの諸項目が指摘された。
1.短編であること、 2.原作に忠実であること、 3.難語句があまり多くないこと、 4.すぐれた表現形象をもち、読み手に内容を豊かにイメージ化できる作品であること、 5.作品の主題理想が子どもの正しく豊かな物の見方、感じ方、行動のしかたに寄与するものであることetc.。
 また、右の基準に見あう作品としてたとえば、つぎのような作品内容が語られた。A戦争の悲惨さ、残酷さを訴え、平和な世界を築きあげるような勇気を与える作品。B大衆の苦しみを描き、大衆の喜びを描き、大衆の力強さを教え、働く大衆の力によって歴史が進展していることをわからせることによって、、正しい歴史形成者と考え、行動していくような人間を作りあげる作品etc.。
 講師のまとめにおいてもこの提案はほぼ支持された形で承認された。
 二年生の共同研究の成果としてまとめられたレポートに敬意を表するとともに、これだけだと素材主義ではないかという気がする。何がとり上げられているかではなく、何がいかに描かれているかを統一的に検討することが文学の問題だと思う。文学は、内容と形式のまさに一致したものなのである。主題と形象とを二元論的に分けて追求することはナンセンスである。ここにあげられたような主題のみが必要なら、文学作品をわざわざ読まなくても、大人でいうのなら社会科学の論文にあたるものを読んだ方がもっとすっきりするだろう。文学でなければならないものを、文学に求めるべきだ。

     五、 本質とは?

 東京会員は、「本質はヴェールをかぶっている。ヴェールをとればよい。本質にふれた感動を表現よみとしてあらわす」という意味の発言をしたが、主題が本質で形象はヴェールという意味なのだろうか。
 今次教研で、本質ということばが、ずいぶん使われていたという印象をもったが、本質というのは、ヴェールをかぶって、どこか奥の方に鎮座しているものだろうか。
 現状をシャープに、ダイナミックにとらえることが必要であると思うのだが、本質々々といわれても、本質にせまらないもどかしさを私は何度感じたことだろう。
 本質は現象相互の関係だといってみたところで、そんなに簡単につかめないと思う。
現象をみつめる自分自身、体制にそっくり身売りしていることだって(気づいていないだけで)ありうる現象をみつめる自分自身をたえずみつめる眼がなければ、現象すらつかめない。今私たちがおかれている疎外状況をシャープにつかんでいく眼が必要なのだ。
 作品を読む中で、現在の私たちに失われてしまったもの、形を変えて現在の私たちの中に生きているものに気づくことによって、現在の自分をみつめることができると思う。そうした自己凝視のプロセスのなかで、自分をまた他人を変えて行くきっかけがつかめると思う。

     六、 読み方教育と文学教育

 何のために文学作品を読むのか、また文学教育が必要なのか、という問題意識が右のテーマと関係するのだと思う。
 文学作品を読むのは手段であって、ねらいは読み手の感情のワク組みを変えていくところにある。文学教育は読み手の文学体験をはぐくむ教育だといいなおしてもよいだろう。
 言語と言語活動に分け、その言語活動のワクの中で、主題とは、形象をよみとるには、という発想をするのではなくて、はっきり文学教育としてとらえてもよいのではないだろうか。文学作品を文学としてとらえ、文学教育という視点で指導過程を考えるとき、主題、形象がもっと有機的に一体なものとなり、指導手順も固定化されたものではなくなるような気がする。私にはまだ、読み方指導の中味がよくつかめていないらしい。

 (神奈川・大綱中)
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