初期機関誌から

文学と教育 第36号
1965年12月15日発行
   悪意と善意―奥田靖雄氏の「批判」をめぐって―  荒川有史 
  奥田氏のさいきんの言動には、きわめて異常なものを感じる。
 文教研の考え方に、ファッシズムのなまぐさい血を感じる。だから、率直に批判したのだという。その判断が正しいか正しくないかは、読者である教師大衆がきめるという。どうもおかしいなと思う。
 批判というのは、問答無用ふうにいやらしいレッテルをはることではあるまい。
 相手の論理と自己の論理とをかみあわせ相互理解の上に、相互の論理の発展をはかるのが、批判の本来の機能であるべきだ。
 奥田氏は、売られたケンかを買ったまでだ、という態度をちらつかす。が、機械的な適用は危険というのは、あくまで論理の問題である。悪意があるというのは、先入観があるからだ。
 また、文教研は分裂主義者の集団だという。が、自由に入会したり脱会したりできるのが、教育研究団体のルールではないのか。脱会したほうが、自分の学習にプラスになるときは、自由に脱会できるはず。
 第一、文教研というサークルは、文学教育の会成立以前から存在していたのであり、何も解散して、現在の日文連に復帰すべきだという組織関係にあるのではない。げんに文教研のメンバーで日文連に参加している人も多数いる。
 奥田氏もかつて児言研に参加しておられたそうだが、現在は脱会しているはず。だからといって、そのことで氏を分裂主義者とは考えない。
 自己の論理と実践に自信があるなら、時間をかけて論理の問題として討論すべきである。
 文教研も、奥田氏と同様、文部省を最大の敵と見なしている。その文部省からクンショウをもらうとき、文教研は、文教研であることをやめるだろう。

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