初期機関誌から

文学と教育 第36号
1965年12月15日発行
   文学の眼をそだてるもの  荒川有史 

月日のたつのは早いもの。
熊谷孝先生が、文教研機関誌『文学と教育』に、《国語教育としての文学教育》を提唱されてから、もう七年になる。
 「石の上にも三年」というが、どうもサークルのあゆみは、遅々とすぎたようでもある。この提案をうけとったときの驚きや感動が、その後のわたしたちの実践面・理論面に十分に反映されていない。まことに恥ずかしいかぎりである。
 が、古人いわく――あやまちをあらたむるにはばかることなかれ、おそまきながら、再出発である。
 ところで、七年前の驚きや感動は、どこから生まれて来たものか。
 第一に、学習指導要領にたいする手きびしい批判が、わたし達の共感をよんだ。
 当時の私達は、文部省・学習指導要領の形式論理にがまんできなかった。今だってそうだが、当時はもっとがまんできない思いであった。国語教育の教科構造を、「話す」「聞く」「読む」「書く」の四領域にわけ、それに文法をつけ加える。文法は、「読む」領域の一小部分にすぎない。こんちくしょうと思った。が、怒りや不満だけが先行して、あるべき教科の構造を、具体的な形をもって示すことができない。それだけに、熊谷先生の提唱は新鮮で嬉しかった。
 第二に、第一とウラ・オモテの関係にあることなのだが、「コトバの認識能力のもつ反映論的な意義」において国語教育を構想している点だ。
 それまでに、私達は、ことばの認識機能を大事にしようと、口ぐせのように言ってはきた。が、そうした強調が、まいにちの授業にどう生かされていくのか、という点にまで結びついていなかった。それだけに、万葉の歌を例に、品詞分解という文法学習さえ、文学史的学習・鑑賞学習・語い学習を前提し、ささえとしているとの分析に、目を見ひらかれる思いがあった。国語科文学教育は、たんに文学作品の内容を教えるといった底のものではない。小さな読者たちの内部に、受け内容が形成されるということは、ことばに媒介された民族の体験をくぐることであり、その過程のなかで現実の自己を凝視し、明日の自分達の姿に思いをめぐらすということにほかならない。文学の眼をそだてるそうした授業は、現実には、文法学習・語い学習・歴史学習等を前提とし、ささえようとすることなしには成りたたない。そういう意味からも、国語科文学教育は、それ自体、一まとまりの国語教育なのだ。
 こうした提唱に接してから七年たつ。
 雑誌『国語教育』一九六五年十二月号で、「国語教育としての文学教育」という小特集さえなされるようになった。
 今では、文教研の基本テーゼともなった「国語教育としての文学教育」が、いろんな角度から検討されるのは嬉しいことだ。
 ところで、小特集のなかで問題を感じたことが二つある。
 一つは、国語教育ないし言語教育が文学教育と癒着したために、文学への感動が疎外されているのではないかという古田足日氏の意見。もう一つは、言語教育・文学教育という柱のほかに、「一般文章の理解表現の訓練」という柱が必要なのではないか、という多少現場人的感覚をふまえた大西忠治氏の意見。古田氏の意見は、文学の世界を完結した世界と見立て、微に入り細に入り分析して、そのあとでこの作品はすばらしいんだなあ、と実感させる方式と真向から対立する。無着成恭氏は、『作文と教育』六五年十月号で、文教研は「文章をていねいに読ませないでおいて、さっと目をとおさせたぐらいで、子どもに対し、“どうだった。どう思った。”というようなことをしつこく聞く。子どもはちゃんと読んでいないのだから、極めて直感的なまちがいの多い感想しか言えないのは当然」と誤解にもとづく発言を展開し、「一行一行くわしく読む」必要を強調している。が、文学でなければあらわせない世界があるからこそ、文学の存在理由があるのではなかったのか。すべて概念のことばに翻訳しないと文学がわかったことにならない、という考え方は、どっかで文学を科学の代用品として見なす考え方と結びつく。
 問題は、文学への感動を疎外せずに、それを質的に高めていくためには、どうあるべきか、ということになるだろう。
古田氏は、「読んでしまえばその作品はすでに理解されている。」という前提にたつ。そして、「この第一次の文学的体験をより高度なものにしていく」のが文学教育だと考える。「読んでしまえば、うんぬん」には、もっと追求したい問題もあるが、さしあたっての問題に焦点をしぼれば、最初の感動を殺さずに、文学的体験を深めるには、どのような分析が必要か、ということになるのである。
 ところで、文学の授業は、古田氏によれば、緊張した大人の研究会と似ている。つまり、「おたがいに感想を出しあい、その感想のぶつかりあいによって作品が見直され、感想の細部が訂正され、あるいはとるに足りないと思っていたことがふくらみはじめて感想は姿をかえる。」
 まったく賛成である。が、こうした文学の授業は、古田氏によれば、国語教育との癒着のない授業であり私達の場合は、それこそ一まとまりの国語教育であると考える。たとえば、ドーデの『最後の授業』について考えてみる。
 沖山光氏のように、この作品には、「目をむき力みかえっている、反抗的な姿とか、占領軍に対する憎しみといったせっぱつまった、自分を小さな袋小路に追いこんでいる姿は、どこにもない。」と考え、そこにいかなる危機の瞬間にも、フランス人としての誇りを失なわず、堂々と生きぬく、えい知の姿を読みとる子共もいるかも知れない。あるいは、物理的距離においては近いけれど、心理的な距離感では遠いかなたの世界であった沖縄や厚木基地などの問題が、アメル先生の体験をくぐることで、自分につながる問題として実感しはじめた子供もいるにちがいない。そうした相対立する感想のぶつかりあいは、表現に即してどうなっていくのか。
 沖山氏のように、「できるだけ外面からの付加物や解説や先入観を除去する」という生哲学式発想で可能になるのか。
 大西忠治氏のように、文学的表現を、非文学的文章の特殊化・具体化と考え、いつ、どこで、だれが、どうしたか式に、事柄を追っていけば、読みとりの基礎はできていくものなのか。
 が、ことばはあくまで「部分で全体を代行するものです。……その『ことば』が意味するその事物の全体性、全体像は、その『ことば』のおかれている文脈(場面規定)にしたがうわけです。」(『文学の教授過程』)先入観を除去するという名目で場面規定をはなれたばあい、どうなるか。
 沖山氏のように、「ああ、思い出の最後の授業よ。」という感傷をうみ出すだけではないのか。
 プロシア軍による占領。
 あすからは、ハトまでドイツ語でなかなければならないのか、というフランク少年のおもい。
 子どもたちといっしょに初等読本をひろい読みしているオゼール老の心情。
 そうした感情の基調として、民族の屈辱感が問題にされている。そして、その屈辱感を基調としながらも、明日への道が模索されているのである。
 かつて、フランスにおこった民族の悲劇としてのみ表現されているのではない。
 「ある 民族がどれいとなっても、その国語をもっているうちは、その牢獄のかぎ をにぎっているようなものだ」というアメル先生の訴えは、フランス民族の屈辱と栄光の体験を媒介する事で、「半」占領の状況におかれている民族へのインターナショナルな訴えにもなっているのである。
 そこでおこなわれる「牢獄とは?」「国語とは?」という問いかけは、たんに言語教育としての語い学習、場面規定をはなれた語い学習では解明されないのではないか。
 さらに、読者の感動にゆさぶりをかけるには大仏次郎『パリ燃ゆ』のような形で、時代の反映としての普仏戦争史が、授業の中に位置づけられることも必要になってくるだろう。また、悲しみの場面で泣き笑いの感情が生まれてくることについても、文学理論の側からの整理が必要になってくるだろう。
 そうした作業をふくみこみながら、文学の授業は展開していくのではなかろうか。
 場面規定の理解を欠いて、ダイナミックな展開は望めない。場面規定において文章を理解するということは、ことばの反映機能に即して理解することである。
 思考活動を成りたたせる言葉のはたらきを軸として、私達は国語教育を構成する。そこから科学コースとしての文法教育・論理教育(仮称)が生まれてくるのであり、芸術コースとしての文学教育が生まれてくる。話しことばや作文は、こうしたコースの中で位置づけられる。
 古田氏への共感と疑問は、大西氏への批判にまで発展するが、次回にくわしく論証したいと思う。

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