初期機関誌から

文学と教育 第34号
1965年8月14日発行
   〈報告〉 『りょうしと金のさかな』(四年)  佐伯昭定 

 (1) 報告は指導過程を中心に
 『文学の教授過程』の「V 中学年の授業」の中に、『りょうしと金のさかな』(プーシキン作)がとりあげられている。
 じつは、去る六月、私は『文学の教授過程』のそこに述べられているような考え方に基づいて授業を行なった。ここで発表するこの報告は、そのときの実践を紹介しながら、私の考え方を述べてみようということなのである。
 結果からみると、指導過程の組み方に、大幅な変更が加えられることになった。
 したがって、この報告では、指導過程論を軸にして発表する予定である。
 プーシキンの作った『りょうしと金のさかな』という作品を、四年生の子どもに読ませるのに、具体的にはどんな指導過程を組みたてたか。そしてまた、そのような過程を組みたてたわけを三つの側面、つまり、作者プーシキンの状況からと、『りょうしと金のさかな』の作品論的な側面からと、そして、現実の読者としての教室の子どもの発達的な側面からできるだけ明らかにしていきたいと思う。

 (2) 指導過程論を明らかにするために
 文章をどう読ませるかについては、昨今の国語教育界の中で、はなばなしい論議が展開されているのは周知のとおりである。「批判読み」「三読法」「総合読み」などなど。
 「あなたは何読みに立っておられるのですか」とよく質問される。そんなときには、「あなたが私の授業を観て、どういう読みだと感じましたか」と私は逆に質問することにしている。そうすると「三読法に似ている」とか、「いちおう、総合読みのスタイルになっている」とか、いろいろな批評を受ける。そんなとき、私は「では、そういうことにしておきましょう」と答えるよりしかたがない。というのは、私自身、私の指導法に特別、名前をつける必要を感じないからである。
 作品の読ませ方には、ある特定の方法があって、どんな作品でも、そのやり方でやれば必らず成功するなどというものはない。そう考えている。
 こんな言い方をすれば「そんなムチャな!」とすぐに反論が出そうな気がする。
 私が言いたいのは、どんな方法であってもかまわないと言っているのではないということ。たぶんに仮説的な構えではあっても、この方法でなければならない、というものは、その個々の状況に応じて、とうぜん考えられなければならないし、必らず作らなければならない。その限りにおいては、確定した一つの方法を作ることは必要である。しかし、だからといって、そのとき、その場合、うまく成功したからといって、そのときの方法が、他のどんな場合でも、成功するとは限らないのだ、ということなのである。いわば、ごくあたりまえの話である。
 ある唯一のものは、あくまでも方法原理であって、具体的な方法そのものではない。
 じつは、指導過程論をめぐりながら、この問題が討議できればと思っている。そのために私が報告という形で、一つの資料をみなさんに提出する、そういう報告をしたい。
(東京・明星学園)
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