初期機関誌から

文学と教育 第34号
1965年8月14日発行
   〈基調報告・1 レジュメ〉 文学教育の方法原理  熊谷 孝 

1. サークル会議で、当日の私の報告について、次のようなことが課題された。教授過程の〈ねらい〉と〈手順〉についての夏目報告の前座をつとめる、ということが一つ。つまり、夏目さんの報告は、技術としての方法 という点に焦点をすえた報告になるわけだが、私には、いわば原理としての方法―文学教育の方法原理について話すことが課題されているわけである。その点についての、文教研の考え方を代弁することである。
 この場合は、持ち時間、40分。

2. 助言者の乾孝先生においでねがえる時日がハッキリしないので予測がつかないが、第一日の午前にご参加ねがえた場合、急きょ 、右の1.の私の報告はカットして、先生の講演にきりかえる、という打ち合わせ。その場合の私の役目は、先生のお話にあらかじめ注文をつける(ことばが悪くて、すみません)こと。先生には〈発達〉の問題について講演していただくわけだが、文学教育の視点からの質問を事前に並べておいて、その質問にこたえるという形でお話ししていただこう、というハラづもり。
 そういう場合でもひとこと、ふたこと、上記1.の話題にふれるように、というサークルの諸君の仰せ。持ち時間、15分でそれをやれというのだから、ムリというものです。乞う、ご明察を――。

3. 上記1.の条件(持ち時間、40分)で話す場合を仮定してのことだが、文学の体質というか、その体質の論理――(文教研スラングでいえば)“文学の生理”について、まず考えてみたい。文学の生理を考えない文学論、作品評価、そして作品の教材化は、(右と左とを問わず)イデオロギー一辺倒の悪しき〈素材主義〉にすべってしまう。つまり、そういうことが現実の事実としてそこにあるからである。そのことが、また、こんにちの文学教育のガンになっているからである。
 各民間教育研究団体間の文学観の対立といわれているものが、イデオロギーとしての文学についてのイデオロギー的対立をあらわしているようにいう人が少なくない。けれど、実際は、この“文学の生理”についてのつかみ方の違いに起因した対立(?)にすぎないように思う。〈教授過程論〉のうえの意見の対立も、イデオロギー的対立を反映したものであるよりは、やはりこの“文学の生理”のつかみ方の違いに、そのもと がありそうである。(生理のつかみ方の違いがイデオロギーによって左右される面もあることは見のがしえないにしても、である。)
 このようにして、現時点でいえば、“文学の生理”をどうつかむか、ということは、文学教育のいちばん基本的な問題である。当日、その辺の問題について考えてみたい。

4. 右の体質の問題と関連して、〈文学教育の目的〉をハッキリさせたい。この点についての私たちの見解については、テキスト(『文学の教授過程』)の13・14ページをごらんいただきたい。
 なお、学ぶところ多い、大河原忠蔵・益田勝実・広末保など日文協関係の諸氏の見解に、ここでふれておきたい。真鍋呉夫氏の見解にも――。

5. 上記4.の、〈文学教育とは何か〉の〈何〉が、〈文学教育の方法はどうあるべきか〉――つまりその方法原理を規定する。私たちの考える〈方法原理〉を、である。手塚富雄氏や真鍋呉夫氏・伊藤整氏などの見解には学ぶべき点が多い。
 伊藤整氏の見解については、テキスト(『文学の教授過程』)の14・15ページをごらんいただきたい。手塚・真鍋両氏の見解については当日紹介する。

6. なお、〈方法〉とは何か? 〈教材〉とは何か? 方法や教材と教師の主体、教師の自我の関係などに、ぜひ言及したい。
この点について、テキストの17ページと、42・43・44頁の記述に、あらかじめ目を通しておいていただきたい。

7. さらに、文学教育の方法原理の問題として、作品の〈筋〉と〈内容〉〈主題〉などとの関係について語りたい。筋は(内容や主題と大いに関係はあるが)内容や主題とは別のものだし、「筋の中に内容も主題も存在しない」のである。筋の中に内容や主題を求めようとする〈読み方教育〉は原理論的にも方法論的にも大きな誤謬を犯していることになるのではないのか。
 筋の中に内容はない、ということは、しかし筋を通さなくても内容がつかめる、ということではない。筋を通さなくては内容はつかめないのである。それでは、〈筋〉をどう読みとることで、ゆがみのない表現理解が実現するのか? 〈場面と言語〉〈言語の場面規定〉〈信号としての言語〉〈本来の読者〉〈解き口の構え〉〈媒介の視点〉等々の問題にここでふれざるをえないわけだが、上記1.の条件の場合でも持ち時間は40分どまり。どの一点にか問題をしぼって話すほかはないだろう。 

(国立音楽大学教授)
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