初期機関誌から

文学と教育 第33号
1965年5月20日発行
  文教研の“家庭の事情”  熊谷 孝 

 この夏、館山集会のあと、法政大学の公開講座にかりだされて、、《創造過程における自我対象化の問題》という標題でおしゃべりしました。そのおり、聴衆から、「民族文学創造へのわれわれの協力・参加の姿勢はどうあるべきか、という点について講師の考えをききたい」という意味の質問が出て、立ち往生しました。これは、どうにも一般化しようのない問題でして、むりに一般化して答えようとすれば、オシャモジ運動めいた発言するほかない。すっかり答に窮しました。
 困ったあげく、僕自身の協力の仕方はこうだ、という答にならない答をだして逃げたのですが、僕がいまここで語ろうとする文教研の“家庭の事情”に直接関係することがらなので、当日の速記録(法大心研編『集団の中の自我形成』所収)から、その部分を引用しておきます。
 「僕個人の協力の仕方ということでいえば……偉大な民族文学創造の土台は偉大な読者である、という、さっきの僕の発言、その土台づくりの仕事に自分なりの仕方で参加するという姿勢ですね。つまり、そういう土台づくりの仕事に関心を持っているような人たちとサークルをこさえて、サークルの輪をだんだん大きくしてゆく仕事です。それをやる。また、そういうサークル、そういう集団の体質をつねに向上してゆくように、他のサークルとも交流し、それから自分たち自身の積極的な学習活動をつみあげる。急がば回れでして、集団のなかの一人、一人が少しでもましな文学の読者になることが日本の文学教育の創造に参加することになると考えて、僕たち、勉強をつづけております。
 「急がば回れ――本当にそう思うんです。文学教育の研究サークルだなんていいながら、サークルのなかでは、もっぱら文学の勉強です。そういう勉強が結果として、めいめいの文学教育の仕事に結びつくところが出てくるだろう、という、えらく気の長い、ノンビリした協力の姿勢です。」云々。
つまり、そこでしゃべったのは文教研のことだったわけですが、文教研というこのサークルは発足の当初から、そういう姿勢の集団でした。ここの指導手順をどうはこぶか、ということを話し合う場であるよりは、自分たちめいめいの仕事の前提条件をととのえるための集まりでした。教育現場におけるめいめいの実践も、ここでは研究実践 の視点から実験的意味においてとり上げられる、というのが一般でした。めいめいの実践を媒介し組みこむ形で、文学のそれを極として「ことば」の伝え・伝え合いの機能やその構造について交流して勉強し合う――そういう集まりでした。
 すべては教育実践のために――ということなのですけれども、実はそれゆえにこそ、教師くさくならないで、学生時代にかえったつもりでノンビリ、かつモリモリやろう、ということだったわけです。
 ところが、この一、二年来、文教研の“家庭の事情”が少し変わってきました。荒川有史君が大阪で高校の先生をしていた時分、大阪の正会員として日教組全国教研に参加しました。また、今の職場(明星学園)に移ったあと、東京都教研の正会員として全国教研に参加しました。そのあたりから、同君の発言はもとより、多くのサークル・メンバーの教研や教育ジャーナリズムでの発言が、《文教研方式》としてレッテルをはられるようになってきました。それと同時に、また、次のような批判の声を耳にするようになりました。
 ――「文教研はいつも批判する側にばかり回っていて、こういう手順でこう指導するのだという、ポジティヴな指導体系を示さない。文教研方式の指導体系というのを提示した上で、批判するなら批判したらいい」云々。
 つまり、そういう声が諸方から聞えてくるのですけれど、だけれどもノンビリしてるのが文教研の体質的な特徴みたいなものでして、だれも、一丁やったろ、という気は起こさないのです。「作文はオックウだからな」なぞと、ボソボソいっているだけです。上記のような、このサークルのたてまえからいって、オックウだオックウでないではなくて、集団の旗をかかげて集団ぐるみの活動(対外活動)に移る、というふうなことにならないのが本来の姿だろう、と思うのです。文教研は、理想像としては、教師にとっての“私の大学”であり、相互変革のゼミナールの場なのですから。
 しかし、転機がおとずれました。夏の館山集会が転機でした。文教研に期待し信頼して、遠く鳥取県から、宮城県から、新潟県からかけつけてくれたナカマたち。会場地元の千葉県のナカマたち。東京・神奈川から、やはり泊まり込みでやってきてくれたナカマたち。――そういうナカマたちの、この指導体系への実践的で熾烈
(しれつ)な要求に接したとき、「一丁やったろ」が生まれました。ブショウで自己中心的で、しようのない私たちですけど、館山集会のこのナカマたちと協力してなら出来ないことはあるまい、と、そう考えました。
 そこで、この号の機関誌がみなさんのお手もとに届くころには、私たち、泊まり込みで、学習指導体系の文章化の仕事に着手しているはずです。完成するのは、だいぶ先のことになるでしょうが、一九六三年・12月27.28.29の三日、東京・千葉・神奈川・新潟のナカマたちが集まって、具体案の検討をおこないます。
 全国各地の会員や誌友のみなさん。指導体系に関して、どうぞ積極的なご意見・提案をよせてください。また、どうか、うんと注文をつけてください。直接この事務にたずさわる私たちは、みなさんの指でありぺんにすぎないのですから。

 ところで、ブショウモノの私たちとしては「画期的」な、そういうフンギリをやったわけですが、これからそういう「事務」が忙しくなればなるほど必要なのは、このサークル本来の“文学の勉強”である、という反省が私たちのあいだに高まってきております。源泉を枯らしては元も子もない――そういう思いです。そこで、定例の理論研究会と実践研究会のほかに、だいたい月二回ないし三回、作品研究会を開催することになりました。さし当たって、西鶴・太宰の作品研究です。12月14日現在で、すでに四回の集会をもち、『万の文反古』巻一所収の四つの短編と、『葉』『道化の華』などについて活発な討議をおこないました。12月21日には『文反古』の巻二に移ります。次号には、会の模様や成果について多少くわしい報告を書くつもりでおります。
 みなさん。よいお年を。  63年12月28日
※二年前の原稿を、そのまま掲載しました。こうなりました第一の要因は郵便事情でした。つまり、犯人は郵政省なんです。(編集部)
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