初期機関誌から

文学と教育 第32号
1964年3月15日発行
 第一三次「日教組研究集会」からの報告  下沢勝井
 日教組が主催する、全国的な規模での教育研究集会、「日・教・研」は今年で一三回めの集会が、今年の一月、岡山市で開かれ、一万余の組合員や父母を集めた。恐らくこれだけのエネルギーを集中する研究集会は、国際的にもあまり例がないだろう。今年は二つの分科会がけずられて、一〇の教科別分科会と一〇の問題別分科会、あわせて二〇の分科会が設定され、その分科会を中心に、四日間にわたって、熱っぽい論議がまきおこった。わたしは東京の正会員のひとりとして、、「国語分科会」に出席し、発言し、学習した。以下はその報告である。

 今まで「日教研」には、おおまかにいって、二つの批判がつきまとっていたように思う。一つは、あのマンモス集会は、日教組のデモンストレーションの場所ではあっても、研究の場ではない。毎年同じような問題が出されっぱなしの、はいずりまわり教研であり、泥んこ集会であるといった批判、今一つの批判は、日教組内部には、教研型と組合型といったような二つのタイプがあって、教研集会は、その教研屋の方のお祭り、一般の組合員は殆んど関心はなく、ましてやどんな問題がそこで討論されているかなどということには風馬牛、といった声。
 このどちらも、ある悪意をもった批評であり、使いふるされた意見には違いないが、今までの教研がこの悪意を骨抜きにしていくだけの実力をもっていたとは、どうも言えないのではないだろうか。しかし今年の教研は、先の二つの批判を通して考えてみるとき、うも
(ママ)少しずつ体質が変ってきていると思う。私は、国語分科会を通してだけしか発言できないので残念だが、(実は数学の分科会出席者からも同じ感想をきいたので)その体質の変化の部分を明らかにしたい。それはひとことでいって静かな集会であったということである。研究の場所、としての分科会が設定されだしたという、あたりまえの事実についてである。参加者全体がきく耳をもち、実践を通して発言され、考えられたということ、次の発言も又前の発言を通して発展したということ、この方向、地味ではあるが、着実で厳粛な空気、現代の状況の中に生きる教師の条件を、問いつめられる道場の中にいるような雰囲気、十分ではではないが(ママ)、たしかにそんな要素が加わってきたと思った。今までのような活発な発言の取りあい、自分の県の研究を発表することの方が目的といった現象は、あまり見られなかった。発言者の資格は、自分の教室を通してといった原則が守られていた。(最終日の講師の感想にも、同じ意見があった。)
 例えば、第二日め、「読み方教育」について、主題のことが問題になり、このに問題で延々五時間にわたって、討議が続けられ、その結果、――作品の読みとりは、作者の意図をさぐる読みとりではない。作品事実を具体的なことがらにそって、主体的に読みとることを通して、はじめて主題に迫る読みができ、又その場合の主題も、「友情」とか「団結」とかいった抽象的なことばにおきかえて、おち着くようなものではなく、感情ぐるみの思想とか、体験とかいった方がより正確な読みとりになり、その感情ぐるみの思想(感動)の質が問題にされることから、読み手の主体が高まり、正しい認識を育てる方向をめざす――これが読み方(特に文学教育)教育の基本ではないかといった意見――又、そのための教材は、ひとりひとりの教師が、自分のものになっている教材をもち、自分の方法〈指導体系〉を確立していくことを通じて、いわゆる、教育課程の自主編成の方向が定められるのではないか。――といった集約の方向、(このまとめ方は不十分かもしれないが。)わたしはこれらの意見を貴重な集約としてかみしめた。はいずりまわりではなく、まさに原則を明らかにするための、苦しみの集会がそこにあった。

 池田自民党政府の人づくり政策が、教育の中味を変えさせる動きとなって(教育課程、道徳教育、学力・能力テスト)集中的に学校教育の中に実現されようとしている動きと共に、その癌となっている教師の側の組織、組合を分裂させようとしている動き、現在では、香川・岐阜・栃木・滋賀などに具体的に見られる攻撃、それは常識では考えられない、あくどい、そして多面的な策略と陰謀にみちている。しかし教研活動家が中心になって、組織しているサークルや研究会に入っている組合員教師は、その分裂策動の意図を完全に見抜き、逆にすばらしいオルガナイザーとなって活動を始めている。民主的な研究の成果を実践に移すには、どうしても教師集団なり、父母を含めた地域の組織化を通してでなければ、実践ができないことを、体を通して知り、又その組織化のためには、よりたしかな学習が必要になっていくという、この不即不離の関係、組合型とか、教研型とかいったあまっちょろい分析ではなく、権力の実体を正しく見抜き、われわれの側の力も間違いなく評価し、学習し、行動する能力が、今自分たちに要請されているのだといった自覚、そんなことがたしかめられた集会であった。

 一三次教研は低調だった、とか「文部教研」と見さかいがつかない、とかいった商業報道も一方にはあった。体制側がしくんでいる息苦しい教育現場の閉そく状態の中からの反映として、この報道も表面的には間違っていない。その意味では一三次教研はより矛盾にみちていた。しかし、性格に展開していく歴史の主導的な部分は、まさに「日教研」そのものが克服しだしているその胎動の部分に明らかに表現され出している。
 わたしは、この集会の性格をこうつかんで帰ってきた。
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