初期機関誌から

「文学と教育」第28号
1963年5月25日発行
  ことばと生活体験  佐伯昭定  

 子どもに作品を与えて、まず第一に質問することは、その作品の中で、どこの部分がはっきり頭の中に残っているか、ということです。
 「きゅうり」という作品のばあいでは子どもと母親とが口論するところでした。「こねこのピッチ」ではピッチがほかの動物のまねをして遊ぶところでした。「いもじぞう」ではいもをわざとぬすませるというところでした。「森のようふくや」では、なんでもはいるポケットのついている上着を作ろうとしたところでした。「さやからとび出た五つのえんどう豆」では病気の女の子の家のそばにとんでいったえんどう豆のことでした。
 なぜ、こういう部分がこどもに強く印象に残ったかは、作品の構成の仕方にもよるでしょう。しかし、それだけだろうか、とも考えてみるのです。その部分は、また、わかりやすかったところでもあったのではないだろうかと。
 この「わかりやすい」ということは、具体的なイメージを成り立たせやすい、といいかえてもいいと思います。イメージを成り立たせやすいということは、作品のその部分が、読者(子どもたち)の日常の体験のある部分と対応し得るからだと、そういうふうにわたしは理解します。
 つまり、ここで作品全体といい切ってしまうと多少高い方に飛躍がありますが、とにかく、作品に書かれている事柄、あるいは、その題材となっているものを、読者(子どもたち)は読者独自の場の中で、読者なりの仕方で、その日常の生活の中で体験したことがある。読者のその体験と作品の中の展開とが、なんらかの形で共軛しているからこそ、読者はイメージを持つことができた、まず、そういうふうに考えます。
 文学教育をしていく上で、子どもたちが、一つの作品について、どこの部分に、どんなイメージを持ったかということは、大変重要な要素になります。ところで子どもたちの持ったイメージをどんな形で大切にするかが、また大変むずかしいことです。ここまででは、まだ、文学教育として、成功するのか失敗するのかはまだわからないのです。
 ところで「イメージ」といっても、それはたんなる空想やたんなる想像を意味するものではありません。それは、認識活動のタイプなのです。
 この体験からくる論理だけで、作品を読んでいくと、じつは、必ならずといっていいほど行きづまってしまいます。この行きづまりを無理におしきってしまうと、そこに出てくるものは「道徳教育」であったり、「生活指導」であったりして、要するに、「文学教育」ではなくなってしまうのです。
 そこで問題となるのは、今までの「わかりやすさ」に対して「わかりにくさ」あるいは「むずかしさ」の部分です。作品をいくら読んでも、どうもはっきりしない、なんのことかわからない、この部分を子どもたちにいかに通らせるかが、じつは、その作品についての表現理解の決め手になるのではないかと思います。
 わたしの発表では、このあたりを中心におきたいと思っています。主に、バンク・ヤシ作「森のようふくや」、ノーソフ作「きゅうり」、アンデルセン作「さやからとび出た五つのえんどう豆」の実践を反省した上で、この問題を考えてみたいと思っています。
 読者にとってわかりにくい部分といういい方をすれば、なにか作品をいくつかに分けて、ここはわかるところ、こちらはわからないところとキカイ的に分けて、そのわからないところをわからせれば、それで、作品全体がわかったことになる、というような感じで受けとられるかもしれません。そうではないのです、わかったといったところでも、わからないといったところでも、それは部分でありながらも、同時に、全体の一側面として位置づけられているわけです。
 だから、わからない部分を明らかにしていくことは、わかっている部分のその質を変えていくことにもなるのです。とうぜん変わってくるはずのものです。作品をまるごとに把握し、そこに典型の認識を成り立たせることによって、今までの論理とはちがった新しい論理が読者の中に作られてくるのだと、そう思います。
 「新しさ」はわかっていることだけでは生まれてこない。また、わからないものをそのままにしていても、やっぱり、生まれてはこないはずです。
 わからないことが、わかった時、その時点で、今まで「わかっていたこと」を別の視点で見直すことができる。そこに「新しさ」が生まれてくるのだと思います。
 文学教育の後役
(ママ)をそのあたりに置いたらどうでしょう。
 さらに、中学の段階での問題は、当日の発表なり、討議の中で出してもらう予定です
(明星学園)

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