初期機関誌から

「文学と教育」第28号
1963年5月25日発行
  言語主義との対決  熊谷 孝  

  課題の設定

 誤解をまねきやすい題を付けてしまったことを、後悔しています。誤解がそこに――というのは、受けとり方によっては、それが何か気負ったものを感じさせないこともない題名だからであります。が、この標題の意味するところは、じつは自己内心の言語主義との対決・反省ということ以外ではありません。
 楽屋を申しますと、集会運営委員の側から次のような指示があったわけです。先ごろ刊行の小著の主張点の、どこか一点にテーマを見つけて、後の討議に話題を提供するように、というふうな指示が――であります。が、私としては、オウムみたいに同じことばを、ここでくり返す気にはなれません。むしろ、この与えられた機会に自己反省を、と考えます。とくに、言語主義の面に関してであります。そういうことで選んだ、これは《言語主義との対決》という題目であったわけです。
 言語主義に関して、自分自身の観念のひずみと、ぬるさが剥きだしに出ているのは、ところで、あの本についていえば、デュウィー批判の部分においてである、というふうに自分では反省しています。当然、その部分を再整理するというかたちで、当日報告をおこなうことになるかと思いますが、報告の具体的な内容については、まだ考えがまとまっておりません。いまは、ごく大まかな見とおしを項目のかたちで並べることと、報告のなかで当然ふれるであろうデュウィーの見解を摘記・紹介しておくぐらいのことしかできません。


  当日予定の話題

 所与の三、四〇分のわくのなかで、以下に掲げる主題にどの程度切りこめるか、自信ありません。話題を当日、大幅にしぼるほかないかもしれません。あらかじめ、ご諒承ねがっておきます。

 @ 言語主義プロパアな「ことば」概念について
――「ことば」は実体か媒体か、というような点について考えてみたい、と思いますが、こんごの報告分担のうち合わせの結果によっては、或いは私の報告からカットすることになるかもしれません。ともあれ、私としては、「コトバ」の実践的なはたらきのもつ反映論的な意義について、みなさんとごいっしょに考え合ってみたい、思っているわけです。
 A 言語過程としての芸術過程〈言語主義のヴァリエーション(一)〉
――今のところ、まだ、第二信号系理論は、芸術過程を包括的に説明し得るような形の伝え理論にはなりえていないように思います。ということは、また芸術過程としての、言語過程、すなわち文学の伝えの機能を説明する理論としてみても熟していない、ということでありましょう。
 概念的な伝えを説明するやり方で、文学・芸術の伝えを一義的に割り切ろう、とするとき、第二信号系理論はえせ 信号系理論に――第二の言語主義にすべっていくように思われます。ここでは、その辺の問題を、と考えます。
 B デュウィーの言語主義批判(その意義と限界について)
――小著、一八四〜一九〇ページ参照。
 C 言語主義と経験主義との関連〈言語主義のヴァリエーション(二)〉
―― デュウィーの意識的な世界観とその基本的な姿勢が、言語主義のヴァリエーションにすぎないことを、芸術観の面において明らかにしたい。と同時に、現実の彼の果たした芸術論上の仕事が、その意識的な芸術観をこえている点に目を向けてみようと思います。
 D 課題の文学教育的意義


 デュウィーの所論・見解

 @ 芸術は表現であり、したがって一つの言語である。いや、むしろ、もろもろの種類の言語である。どうしてかといえば、それぞれの芸術はそれぞれの媒体をもっており、その媒体はある種の伝えにとくに適しているからだ。それぞれの媒体は、ほかの言語では上手にいえないし、完全にはいえないようなことを話すのである。日常生活の必要は、伝えの一様相である「ことば」に、この上ない実際的な重要性を与えた。このことは、建築や彫刻、絵画、音楽などにおいて表現される意味が、ほとんどそこなわれることなく「ことば」に翻訳できるという通念を、不幸にも生んでしまった。ところが実際は、それぞての芸術は、同じ事柄についてではあっても、ほかの言語ではいえないような事柄を伝えるような話し方をするものである。(『経験としての芸術』第六章)

 A 詩に対する読者の感興のかたちや感じ方しだいで、読者はそれぞれ異なる経験をするのであるから、一編の詩にも無数の性質、種類があるということも事実である。(同右)
(国立音大)

HOME「文学と教育」第28号初期機関誌から機関誌「文学と教育」