初期機関誌から

「文学と教育」第17号
1960年8月30日発行
 〈夏期集会の成果と反省〉 全面発達への志向と国語教育
篠原由喜子  熊谷 孝  福田隆義  鈴木 勝  佐藤和男  荒川有史 (発言要旨)

 

  三泊四日の収支表
 
 荒川  国語部会への案内に要約されているように、「統一的視点に立って国語教育の構造的本質をさぐり」つつ、「実践報告を中心に、小・中・高・大を一貫して、子どもの“背面発達”をささえる国語教育のあり方を、方法的・段階的に明らかにする」ことが、今次集会の大きなねらいであった。このねらいがどの程度実現できたか……。
 篠原  私たちの提案が、提案にならなかったような気がする。私自身、そのねらいにほとんど応えていない。
 福田  同感。こんどぐらい自分の不勉強を痛感したことはない。「もっときたえろ」と自分に言いきかせている。
 佐藤  そんなことはない。お二人の実践報告は実に具体的だった。三年の子どもたちが、自己中心的な思考をぬけだして理性的に物事をつかんでいくすじみち、五年の子どもたちが、デコボコの理解を正しながら事柄の本質に迫っていくプロセス等がげんみつに追求されている。
 熊谷  篠原さんは、子どもたちのあいだに典型の認識を成りたたせることができたと思う、とたいへんひかえめにおっしゃった。そうだと思う。十二歳ごろより理性的認識へのレディネスができると言われているが、指導の仕方いかんでは、もっと先に可能であることが、福田・篠原両氏の実験的なこころみで明らかになった。なんか、波多野理論が証明されたみたいな感じだ。
 鈴木  残念なことに、私たちの間でお二人の報告をバックアップする発言が足りなかった。だから、『空気がなくなる日』の校長はカリカチュアライズされた悪玉だが、現実には民主的な校長さんだっているんだ、そういう多様な現実をふまえもせず、ムリヤリ子どもたちに校長を批判させようとする指導に疑問がある、といった見当ちがいな発言を許してしまった。
 荒川  熊谷先生が言われたように、お二人の実験的なこころみこそ、実践をくみあげて理論化するという集会の課題に真剣にとりくんだものだ。
 鈴木  私たちは、どういう視点から現実を整理し実践への手がかりをくみとっていくか、と考える。現実を抽象する角度を自覚した分析こそ具体的だと考える。ところが、参加者のなかに、自己の体験のワクを固定し、そのワクからはみだすものをこむずかしいと規定し、今日の現場に直接役立たぬと感じとる傾向があったようだ。
 熊谷  それと関連するが、高校の報告に対し、ほとんど感想が出なかった。小中の場合、直接古典にタッチすることは少ないにしても、古典論に学ぶことで、文学やことばの本質に迫ることができるはずだし、ひいては、めいめいのせまいわくをうり破っていく手がかりをつかみえたはずだ。
 佐藤  ただし、高校のばあいは、報告の内容に問題があった。不勉強による一夜づけの報告がなんといっても最大の原因である。だから、現場に立脚するとはいいながら、ともすれば即効薬を求めがちの現場主義的な人たちに、問題を探求する意欲をおこさせなかった。
 荒川  そういう現場主義的な考え方をする人たちを予想した報告になりえていない。私たちが怠けたために、報告グループの足なみを乱して申しわけなく思っている。と同時に、福田さんや篠原さんのように、既成の文学理論や作品分析をきちんとおさえて、新しく問題をおしすすめた報告にも、正しい評価がなされなかった。


  全面発達の論理

 佐藤  僕は、鈴木さんや熊谷先生の全体提案もひじょうに興味ぶかく聞くことができた。後の福田さん・篠原さんの提案をリードし、タイアップして、本質をえぐった提案だった。
 福田  鈴木さんの提案は、じつに精緻だった。ただ、国語教育の構造分析として、文学教育、文法教育、論理教育の三つの柱を設定された点に対し、いくつかの疑問がよせられたかと思う。
 鈴木  柱というより、座標軸、抽象軸という意味であって、たんなることばの間違いというより認識不足であった。篠原さんが、文学学習を軸とし、文法学習や語い学習の展開にふれ、さらに論理的思考への訓練に言及しているが、国語教育の構造を考えるさい示唆的である。
 荒川  僕も佐藤君同様、自分の勉強のたりなさをあたたかく批判していただいたような感じで全体提案をうけとった。熊谷先生が、アパート住人のお子さんを例にして語られたことは印象的。「アンポハンタイアンポハンタイ」とくりかえしながら階段を上りおりする“ショウ子ちゃん”には、第二信号系をくぐったことばの自覚がない。小学校の国語教育は、まずそうした幼児言語の否定からはじまる。……たしかにそうだと思う。
 熊谷  本当を言えば、そこから問題を進めてほしかった。ある程度成熟の論理を予想しなければ教科の論理は出てこない。第一次的な教科の論理がかならずしも科学の論理と一致しないのもそれと関係がある。
 福田  先生は、教科の論理と“成熟”の論理の統一として発達の論理をおさえておられるわけだが、そこのところがお恥ずかしい次第ながら、私自身まだよくつかめていない。
 熊谷  つまり、文学教育は文法学の体系と同じではない。故戸坂潤先生は、『科学論』のなかで、研究様式にたいする叙述様式が対象によってちがうことを指摘しておられる。第一次的な教科の構成にも同様なことが言えるのであって、小学校低学年の子どもに文語文法を教えるのでは無茶だ。大よその成熟の論理をふまえて、たとえば文法学の体系をこういう順序でこんなふうに、と構成される。
 荒川  先生は、第二次的な教科の論理は、“成熟”の論理をつきすすめるところに生まれるとおっしゃった。狭いわくでの勉強ではどうにもならないわけだ。
 鈴木  そう。精神労働と肉体労働とにはっきり分れる大人をつくるのでなく、子どもを全面的に発達させていく営みを続けていくかぎり、私たちの仕事ははじまったばかりといえる。


  現場主義との対決

 福田  私たちのねらいが充分にくみとってもらえなかったにしろ、サークル内部としてはいくつかの成果があったと思う。とくに、私たちの現在における力がどの程度ものにであるか、を切実に自覚できた点は収穫だ。理解したつもりでおっても、たんなることばの暗記にとどまっていた面がずいぶんとある。
 鈴木  仲間同士で理解しあったつもりでいても、新しい参加者に納得のいく形で訴えることができない。ただ語りあわれたすべてが理解されなかったにしても、“第二信号系としてのことばの訓練”等々、参加者に多くの疑問と課題をなげかけたことは評価していい。
 福田  今になって思うのだが、こんどの集会は、もっと講習会的な要素を多くすべきではなかったろうか。問題意識をもたずに参加された方がひじょうに多かったという気がする。と同時に、提案が多すぎてみんなの意見をすなおに聞く点が少なかった。主催者側の一人として、参加者の方々にひじょうに申しわけなく思う。
 篠原  参加をよびかけた四団体のそれぞれの性格やルートなどから参加される方々の意向をくみとるべきであった。私自身、小金井の第一回研究集会の延長というような錯覚をもっていた気がする。
 熊谷  それと、全青教の九段・河和・別府に参加した人々の問題意識から判断した。一般の要望を反映したつもりになって過去の経験にのみ頼った計画のまずさに気づかなかった。経験主義的でありすぎた。私たちの失敗と認めざるをえない。

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