初期機関誌から

「文学と教育」第15号
1960年4月発行
 日文協の文学教育運動  荒木 繁 

 日文協は、創立当初から文学の研究とともに、国語教育の推進ということを、その目的としてかかげていたが、事実上国語教育部会が発足し活動をはじめたのは、一九五一年のことでたあった。その活動を刺激したのは、国語科指導要領を中心として盛行していた言語技術主義への不満、反発だったといえる。
 一九五二年、協会ははじめて国語教育の大会を独立して持ったが、たとえば小野牧夫氏の「よいことばづかいのために」は、指導要領の言語観が、ことばと思惟とをきリはなした言語技術主義に堕していることを批判したものであり、益田勝実氏の「文学教育の問題点」は、指導要領が文学教育の独自の意識を没却していることを批判し、人間形成のための文学教育の急移
(ママ 「急務」カ)を説いたものであった。
 翌五三年、の国語教育大会で、荒木の「民族教育としての古典教育――万葉集を中心として――」がおこなわれたが、これは指導要領のコスモポリタニズムを批判し、国語教育の上に正しい民族的観点を据えることを主張したもので、きわめて白熱した討論がおこなわれた。この報告は、たまたまそこに出席していた西尾実氏に感銘を与え、氏はこれを文学活動そのものを経験させる教育として位置づけ、問題意識喚起の教育というように整理していった。氏の整理の方向に不満をもった荒木は「文学教育の課題」(文学)などにおいてこれを批判し、自分の実践を方法化しようと試みた。荒木の実践は、現場の小学校の教師にも刺激を与え、鴻巣良雄の「“坂道”をめぐって」の実践を生み出し、次第に方法的に意識化されて現場にひろがっていった。
 西尾氏が問題意識喚起の教育を唱えたことは意味があったが、同時に荒木の実践に含まれている諸モメントを切りすて、主として方法論議の方向に狭めていく結果をも招いた。その点、「立場・方法・内容を分離しないで把握していくことが大切だ」という益田氏の批判(日本文学 しあわせをつくりだす国語教育)は重要な指摘だったと思う。
 日文協では、その後研究と教育の交流と統一ということが唱えられ、国語教育部会も、大学入試問題の批判や副教科書編さんなどかなり活発な仕事をしていったが、理論的には頭うちの状態となり、ことに研究の専門化が進むにつれて教育現場との統一が次第に困難になり、機関誌も交流、統一の紐帯の役割を十分果し得なくなって来た。
 昨年の大会報告、大河原忠蔵氏の「文学的認識と作品鑑賞」などは、理論的にこれまでの水準を脱け出ようとする努力であったが、日文協の文学教育はきわめて難しい隘路にさしかかっているといえよう。


荒木 繁氏
 日文協・一九五三年度大会における「民族教育としての古典教育」という氏の報告は、いわゆる《問題意識喚起の文学教育》論争の起点となった。「その後の文学教育論はまだ荒木氏の所論を越えていない」と最近ある評論家が書いていたが、氏ご自身は現在さらに精緻な古典教育の指導理論を展開している。文学史家、日本文学協会常任委員。
HOME「文学と教育」第15号初期機関誌から機関誌「文学と教育」