初期機関誌から

「文学と教育」第15号
1960年4月発行
 巖谷小波とその周囲  巖谷栄二 

 おとなの文学の場合と同じように、児童文学の場合も、封建的なものに単純に「近代」を対立させ、あるいは封建的なものを無視することで、我々が無意識裡に持っている、封建的なものを、一挙に克服することができるように、我々は考えていなかったでしょうか。
 日本の近代文学と、その研究の多くが、封建的なものをよけて通ることで、今なお封建的なもののなかに悩んでいる大多数の国民の心を捉むことができなかったという歴史的事実――この事実は、児童文学の場合でも同じように、我々の前にあるように思われます。そうしたとき、封建的なものを多く含んでいるという理由から、従来軽視されがちであった、明治期児童文学に対する検討が、もっと活発になってよいのではないでしょうか。「お話」という名称で呼ばれている明治期児童文学の開拓者であり、一応の完成者ともいえる巖谷小波の足跡を、便宜上、次のように年次を追ってご紹介してみます。
 @ 明治十年代――幼児の環境。文学教育者としての祖母(京御所に仕えた女官)、継母育ちから来る永遠の母性への思慕。十五歳の折、入塾した川田剛先生の長女綾子嬢(歌人順先生の姉君)に対する少年時の恋等(後に親友紅葉により「金色夜叉」の粉本となった)「若きウェルテル」の愛読など。
 A 明治二十年代――紅葉等の硯友社に入り、文学志望を父兄に許されぬ不満と、綾子嬢との心的交渉を綴った「妹背貝」その他の「少年少女の淡い恋愛小説」(言文一致体)から、二十四年「こがね丸」(文語体)創作に至る第一期。「こがね丸」に於ける小波の児童文学観。掘紫山との間の文体論争。それから得た児童物も結局言文一致であるべきだとの自覚からの、「日本昔噺」「少年世界」主筆としての、日本さいしょの専門的児童文学者として成長して行く過程。
 B 明治三十年代――「少年世界」誌の隆盛と、「世界お伽噺」と洋行――伯林大学に二年教鞭をとった新帰朝者としての社会的地位の向上と、その博文館とのコンビによる児童出版ジャーナリズムの確立と、言文一致体による「お伽文学」の一応の完成。門下生との木曜会に於ける、永井荷風、押川春浪との交渉など。
 C 明治四十年代――大正期。日露戦後、西欧思想の輸入により、児童文学界にも、新しい萌芽(童心主義童話)が芽生えて、小波とその周囲のお伽文学の行きづまったこと。
 D 大正期――昭和八没年まで。国演巡遊家、書画、俳句揮毫家としての晩年、アルス事件(昭二)による博文館との絶交から、日本の資本家に対する絶望感を持つに至るまで。
 以上を四、五十分で話すことは難事ですが、一、二枚の年表プリントなどを使って、アウトラインを紹介したいと思っております。


巖谷栄二氏
  生粋の江戸ッ子。一杯はいるとベランメエが出る。先年、関英雄氏や熊谷孝氏などと三一書房から「日本児童文学大系」を共編刊行。本来の専攻は南北や黙阿弥など近世後期の歌舞伎史だが、最近は一般文学史と児童文学史との接点に関する研究にうちこんでいる。未発表資料を加えた、豊富な資料による氏の縦横談には大きな期待がもたれる。
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