初期機関誌から

「文学と教育」第9号
1959年7月21日発行
 道徳教育と文学教育  小沢雄樹男 
 〈まえがき〉  文学教育の会主催の、第2回文学教育研究集会が、五九年七月二日、港区桜田小学校において開かれた。
  当日は、私たちのサークルから、
    司会  小川   勇
    報告  小沢雄樹男
    助言  熊谷   孝
の三氏が直接参加され、サークル員も多数出席した。ここに掲載した速報は、当日の報告・助言の中心部分である。みなさんのご検討をお願いする。  ――編集部――

  まず結論から

 さきに結論からお話ししてまいろうと思います。その上で、この結論をみちびき出した過程をたどってみる……そういう順序で話を進めていくことにいたします。
 道徳教育ということを、まず特設「道徳」という面にしぼって考えてみました場合、特設「道徳」――道徳教育と文学教育とは決定的に結びつかないということ。これが結論の第一点であります。それは結びつかないどころか、特設「道徳」のもつ宿命的な徳目主義は、なんと弁解しようとも、これは人間性疎外の教育であって、人間性の回復と確立をめざす文学教育とは結びつくわけがないのであります。
 したがって、特設「道徳」がすでに全般的に施行されているからということで、この「道徳」教育と文学教育をどう結びつけるか、ということを考えている向きが多いのですが、こういう論議はナンセンスであるという以上に、事態をよりいっそう悪化させる結果をみちびくものだ、ということ。これが結論の第二点です。
 日教組は、当然この強制実施に反対しております。しかし、その理論は、まだ組合員の一人一人を動かす力にはなりえていません。しかし、それにもかかわらず、この特設時間を既成事実としては認めてはいない教師群もいる。ということ……この現実から、われわれはやはり、これを拡大する組合闘争を行なうべきだ、と考えるのであります。
 いいかえれば、特設「道徳」反対の理論をもっと深め、ナカマをふやし、特設を棚上げさせて、本来の文学教育を推進する。そのために、日教組などとの関連において具体的な闘争を推進していくことが、われわれの当面している一つの重要な課題であろうと思うのです。


  特設「道徳」に対する現場教師の構え

 以上が結論として私の言いたいことなのですが、いささか組合的な発言のように聞えたかもしれません。が、いわゆる組合型教師の組合的発言ではないことを、みなさんに納得していただくためにも、以下順序を追って、右の結論にいたるプロセスをお話ししなくてはならないので、まず、現場教師が特設「道徳」をどう受けとめているか、という点について考えてみますと、現象的には四つの類型が見られるように思うのです。第一の類型は、全然無批判に、かつ積極的に受け入れているタイプであります。
 二番目に見受けるのは、なんとなく批判的だが、やむをえない、という受け入れ方をしている教師群。これが数的には主流に近いようです。この第一類と第二類は、結果的には同じ類型、同じタイプとして考えられる。教師的な感覚というより、サラリー・マン型の受けとめ方であります。
 第三の類型は、真の意味での道徳教育の必要性は認めるが、上から与えられたワク組みによるのではなくて、自主的にコースを選びとろう、自分たちの手で民主的な道徳教育のワクを見つけていこう、とするものであって、「進歩的」と自認している人たちに多く見られる態度のようです、そこが非常に微妙なところですが、一おう特設「道徳」をやっているという看板はかかげる。しかし中味は、それを拒否して独自のコースの内容を盛ったものに仕立てていく、という方式であります。日教組五十万の組合員の主流を占めている考え方だろう、と思われます。
 これに対して、第四の類型は、特設「道徳」は、内容的にはもちろん、形の上でも実施をいっさい認めないという態度です。
 以上、四つの類型を概括してみますと、(1)特設に賛成、(2)無抵抗、(3)形式の上で受け入れて内容的に民主的な再編成を行なう、という立場、(4)絶対反対の立場、とうことになります。
 (1)と(2)とは、さきほど申しましたように、究極において共通の態度・立場を示しております。それに対して、第三と第四の立場は、共通性をもった別の立場であるように見えます。
 しかし、一見そう見えるだけであって、第三の立場と第四の立場は、全然違う立場なのであります。第三の立場は、むしろ第一・第二の立場と共通性をもっている。大阪学芸大学の村田氏が『教育』七月号で明快に分析しているように、結局、「立場」は特設肯定か絶対反対かの二つしかない。二つの立場しかないのです。
 時間が許せば、村田さんの考え方をご紹介したいと思いますが、これは後にまわして、私のぞくしている《サークル・文学と教育の会》での月例ゼミにおけるこの問題に対する討議とその結論にふれることにします。


  私たちはこう考える

 私たちのサークルは、その発足以来、最初の三回のゼミを改訂指導要領・国語科編の検討に当てました。そのなかで、この特設「道徳」と国語科との関連を問題にした際に、次のようなことが話題になりました。「理論的な理由も法的な根拠も考えられないのに、道徳の時間を特設するについては、充分政治的意図があり、それが修身科を復活させる一過程であることは疑いない。それがいずれ改悪されて、いっそう修身化することは必然だ。いかなるかたちでも特設道徳を認めることは、そうした、政治的プログラムに組み入れられることになる。」
 この特設道徳は決して認めないという立場の考え方をもう少し整理していえば、一貫していることは、この立場の教師は、人間の主体性の確立を道徳教育の根幹と見なしている、ということであります。
 第一に、この立場に立つ教師は、勤評と道徳教育とは全く内容的に結びつく、と考えています。勤評に対して、主体的な抵抗を示さない人間が、道徳教育をやれるはずがない。勤評という人間の主体性と自由を奪いとろうとする力に抗して、人間の品位――自由と主体性を守ろうとする抵抗の精神なくしては、人間を前進させるべき道徳の教育はなりたたない、と考えるのであります。ですから、特設「道徳」を既成事実としては受けとらない。また、道徳教育は、人間の主体性の確立の教育である、という意識は、必然的に組合運動・政治運動との結びつきを持ってくることになります。 第二に、一方、こうした考え方は当然人間疎外の条件への深い憤りとなり、その条件の排除のために、まず人間そのものをきわめて人間的に育てあげようと志向する。だから、ここでは既成の徳目のワクに子供をはめこむとか、あるいは、ある階級のためにのみ有利な階級社会の道徳、既成道徳は否定され、それぞれの階級に固有な道徳を自ら創造してゆくために、まず、人間が人間としての〈主体性〉を回復することが要求されるのであります。
 この次元において、はじめて文学教育は、人間回復の教育として道徳教育に結合されるわけであります。
 しかるに、特設道徳実施以来の一年余、道徳教育と文学教育は、まことに奇妙な関係をつくりつつあるように思われます。
 文部省の要求としての「道徳教育への文学作品の利用」という要求と、それに応えての「道徳教育のための童話何年生」式の本の流行。それを追い求める教師、これに手をかす児童文学者、あるいは文学教育者と自称する人々もかなり見うけられます。ここには、原則性を無視して抹消技術化した、道徳教育と文学教育のそれぞれに功利的な、利害関係からの野合とも言うべき結びつきが見られます。こうした野合から何が生まれるかは、言うをまたないでありましょう。
 文学教育とは何かということが、ここで重要な問題になってきます。私たちの《サークル・文学と教育の会》で話し合って来たことは、文学の本質的機能は何か、そして、それに即して文学と教育との結びつきはどこに求められるべきか、という点でした。それを認識論的に探究し、それを各々が実践して裏づける、という学習の方法をつづけて来たのであります。以下、その成果をふまえて、最初にうち出した結論の第一点、第二点へのつながりを申上げたいと思います。(以下省略)


〔この「報告」に対しての「助言」という形で、同じ号に熊谷孝「岐路に立つ文学教育」が掲載されている。なお、「(以下省略)」は原文通り。〕
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