初期機関誌から

「文学と教育」第7号
1959年5月11日発行
 文学の方法――『桜の園』を中心として〈報告要旨〉  篠原由喜子  
  一、 十九世紀末におけるロシアの現実

 ロシア史において画期的な一八六一年の農奴解放はアレクサンドル二世による上からの改革であった。ツァーリにこの改革をせまった力は、1.資本主義経済発展のために農奴制の廃止を要求する力と、2.農奴自らの解放を求める要求とであった。しかし、ブルジョアジーの未成熟のために完全なエネルギーとはならず、みせかけの改革にとどまった。したがって、農奴は人格的に解放されたとはいえ、分与地が与えられても、それは恒久の用益権にすぎず、これが所有となるためには、不利な買戻し操作によらねばならなかった。 
 改革後の二、三〇年間は、生きのこった半農奴制的自然経済的な農業が生産物の商品化によって崩壊していく時期で、したがって実質的には農奴制は二〇世紀初めまで存続した。以上のような農奴解放は産業資本発達の条件を不完全ながら準備した。この結果、主要な工業部門の生産は改革後の最初の十年間に早くも二倍ものび、一八八一年から八二年の恐慌を契機として、その後約十年間、ロシアの産業界は不況におちいり、生産は停滞し、「八〇年代」の暗い反動期をむかえた。
 ロシアでは、革命的な伝統は古く、七〇年代以後さらに農奴制に対する関心がたかまり、啓蒙化された農民の力で、ツァーリズムを打倒しようというナロードニキの運動があった。彼等は、西欧のように資本主義の段階を経ず、社会主義に進みうると考え、さかんに「人民の中へ」入って行ったが、農民は立ちあがらなかったので、テロリストと化して行った。


  二、レーニンに於ける『ロシアの資本主義の発展』(一八九五年〜九六年)――科学における反映としての『ロシアにおける資本主義の発展』

 レーニンは現実の分析から出発して、国内市場成立の事実を示し、ナロードニキのあやまれる理論をうちくだき正しい現実の反映をもたらして、芽生えつつあるプロレタリアートに指示を与えたのであった。


  三、文学における反映としての『桜の園』

   A. チェーホフについて
 テロリズムに対する極度の反動におちたこの時期は、無抵抗主義の流布する時期でもあった。レーニンが獄中で『資本主義の発展』を執筆しているころチェーホフはこのような社会に生きる人間が、どんなにうすよごれ、あさましいものになり下るかということを、短編によって示していた。
 農奴解放の前年(一八六〇年)チェーホフは南ロシアに生まれた。町の小商人の子としてであった。祖父はこの時代に自力で自由を買いもどしたもと農奴。
   B. 『桜の園』について
    (1) 典型化における新しさの問題
 文学の方法は典型化であるといった場合、「典型的な情勢における典型的な性格の表現の正確さ」といったエンゲルスの定義がすぐ思いおこされるのであるが、作家が複雑な現実の中から何をもって重要なものとみなし、何を表現しようとするかによって、新しさを保証できるかいなかがきまってくる。
 「時代に共通する本質的な問題、時代にとってもっとも新しい」課題をになって生まれて来た階級の側に、チェーホフは生きたということは幸いなことであった。
 「親父はその時分この村で小さな店をやっていたんだが。」(一幕)
 「わたしの親父は、あなたのお祖父さまやお父様の農奴でした。ところがあなたは、わたしのために大変よくして下すたことがあるものですから、(中略)すべてを忘れてお慕いしているのです。」(一幕)
 始終打たれてばかりいて読みかきもろくにできないあのエルモライ、冬もはだしでとびまわっていたエルモライが世界中に類のないほど美しい領地を手に入れたのです。わたしは祖父や親父が奴隷奉公をしていて台所さえ入れてもらえなかったほどの領地を買ったのです。」(三幕)
 ロパーヒンの生いたちについてみるとき私はチェーホフの生いたちを思いうかべる。しかしこれはチェーホフ自身のモデル化などということを言いたいがためではない。チェーホフの立場が正真正銘芽生えつつある側に立っていたことをいいたいのである。これが、かの新しさを保証したと。しかし、ここで必ずしも存在と意識は一致するものではないといわれるかもしれない。それには、次のようにこたえよう。
 スタニラスフスキーは『私の芸術的生涯』の『桜の園』に関した部分で、「あらゆる企てを麻痺させる不満足性、父祖伝来のスラヴ的なユウウツのために、エネルギーや完全な自由をおし殺す無希望性」等々の社会に生きたチェーホフの過小評価に抗してこうのべる。「こんなにもはげしく彼はあらゆるものの中に未来のロシアの精神的な面ばかりか物質的な面をも含めたすべての人々のための文化の予言を求めていた。八〇年代を支配していた失意の中にあって彼の心はたえず明るい――。」もちろん、彼は手放しの楽天家ではなかった。「息苦しい時代」にあって、「古い生活の破壊をとき、新しい思想を準備すること」「この仕事を遂行していた人たちと共同して働いて」いたのであった。彼の認識は革命の必然性にまで進む。
 「恐ろしいことです。しかしこれがなければ駄目なんですよ。」という一九〇三年の日露戦争ははじまったのであった。
 ロパーヒン。のびつつあるものの代弁、チェーホフは医師としての目で観察し、アーニャ、トロフイーモフたちにも新しい人間としての可能性を与える。意識と存在の一致を以上の点にわれわれはみることができる。
    (2) 全き形象化について
 この場合、チェーホフは、新しい歴史的現実的課題という内容を作品の中でどう示したか。たとえば、没落階級ラネーフスカヤ夫人らについては、その行く手の必然性を、しかし受けつぐべきののあるゆえに愛情をふりそそいだ表現を与える。
 生きた人間として行動させる中で、すなわち「日常的な感覚・感情の起伏」においてさし示したのであり、直接的理論でそれを示したのではなかった。(形象化の素晴らしさについては、広場 その他で熊谷先生のこれもまた素晴らしいご指摘を思いだして下さい。)


  四、疑問としていただくいくつかの問題

 A. チェーホフの存在と意識が一致していたのであれば、特に、「ロパーヒン」を典型化において示そうとしたことは、意識されていたかどうか。作家の作品に対する意識性、無意識性の問題についてである。熊谷先生は『芸術の創作』において次のようにのべておられる。「無意識を内容づけるものは、社会的なものであるということ。無意識から意識への創造的移行のモメントを予想することなしには、じつは典型の認識・表現としての創作のいとなみも考ええないということ」これらについてくわしく検討したい。
 B. リアリズムと社会的リアリズムとの相違。
 C. 文学の創作と批評について。

参考文献
『資本主義の発展』(レーニン)、『私の芸術的生涯』(スタニスラフスキー)、『創作と時代精神』(熊谷孝)、『文学芸術論』(マルクス・エンゲルス)

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