初期機関誌から

「文学と教育」第6号
1959年4月5日発行
文学と科学――その対象と方法 (1)  小沢雄樹男
 先月の荒川さんの報告とその討議では、文学は主観的で、科学は客観的である、という通念、従って文学は無用な遊び事であり、科学は有用なものである、という考え方の誤ちが話し合われました。科学も文学も共に未来を予見し、予見にもとずいてよりよい実践を行うためのものである、という結論だったと思います。ただ、文学と科学のちがいは、方法のちがいであり、方法の違いは対象の違いに求められるのではなかろうか?という問題が提出され、グルゼンブルグの対象についての整理の仕方が熊谷先生から紹介されたわけです。従って私の報告はこの点から出発します。

 文学の方法と科学の方法は違う。それは文学の対象と科学の対象が違うからだ。とこう言えば、なるほど、と肯けそうなものですが、「対象が違う。従って方法が違う。」という形式論理の割り切り方が、果して正しいものかどうか? 即ち、一般的に、方法と対象とはどんな関係にあるのだろうか?ということを先ず問題にしたいと思います。
 私達は、日常生活の中で、いろいろな事象なり問題なりをそれぞれに判断して生きています。ところがこの判断=認識=の基になるものは主観でありますから、同一の事象に対する認識が自分と他人とではずい分違うことがあるわけです。見たり聞いたり、という与えられ方で我々の主観の目の前に与えられる実在――実在の部分――は、しかし単に認識の素材・材料にすぎません。この認識の材料を、適当に加工して、この内容に、一定の形式・形態を与えた上でなければ、――或る一定主体の意識・観念・思想などによる一定の加工が加えられないかぎり、それは認識の対象にはならないわけです。この加工の手続が、文学なり、科学なりの方法というものだと考えられます。そうすると、この考え方からすれば、あきらかに、一定の方法が、一定の対象を切り取る。方法が対象を決定する、ということになります。しかし、実際言って、対象のないところに方法が成立するはずはありません。で、この方法と対象の関係はどういうものであるか、ということを疑問点として話し合いの問題にしていただきたいわけですが、故戸坂潤氏はその『科学方法論』の中で、大要次のようにこれを整理しております。
 特定の方法と之に対する特定の対象は、相互に決定し合うものである。現に已に一方が他方を決定し、かくして決定された他方が、更に又一方を決定しているのである。然してこれは決して存在論的循環ではなく、相互に他から決定されることによって初めて両者は運動することができるという弁証法的循環である。
 戸坂氏のこの論は、その『科学論』では更に深められて次のように整理されました。
・ 現実の世界の第一次反映として照応するものは「世界観」である。これは歴史的な所産物であって、本来イデオロギーとしての資格を具えている。これが科学的方法と発見に際して側面から有力な条件を提供する。
・ 現実の客観的な現実世界が、実は一定の方法を科学に向って指定する。(第一次的には対象が方法を決定する。)
・ 現実の実在世界とその反映である世界観はそれ自体が指定した科学の方法とイデオロギーとによる構成過程によって、部分部分に分解され、銘々に順次高揚され、やがて又一つの全体を持った世界観となる。この手続きによって、実在界を認識する。(第二次的には方法が対象を決定してゆく。)
 大略このような関係が方法と対象の間に考えられていることを報告しておきます。

 方法と対象の関係をこのように考えておいて、文学と科学のそれとはいったいどう違うか、ということなのでありますが、先月紹介されましたグルゼンブルグの対象についての整理は次のようなものです。
 「芸術は科学と異りその現象を現実に於ける如くでなく、それが芸術家の理念に於てあるべきように、それが彼の創造的空想に映写されたように描く。」という方法論にすぐ引きつづき、
 「学者は事実を取扱うとすれば芸術家は事実の享受を取扱う。即ち、自己の感情が自己の世界観のプリズムにより、如何に屈折するかを取扱うのである。」といっているのであります。(『天才と創造』第一章芸術の享受の理論 五芸術と自然の矛盾

 文献上知られているかぎり、文学と科学の対象がちがうことを最初に指摘したのは、この芸術心理学者だそうですが(熊谷氏談)、この整理の仕方をもう少し話し合いたいということと、グルゼンベルグが文学をあくまで作家の自己表現にとどめている考え方が我々の今日までの文学に対する考え方と違っている点を指摘して、あわせて本日の話題にしていただきたいと思います。
 さて、文学と科学の方法と対象の問題を熊谷先生の整理された(文学教育・文学入門・文学序章・その他)文献に従って、私流にまとめてみると次のようなことになるかと思います。
 対象は方法の目的であり、方法は対象の出発点である。科学の対象は実在であるといわれている。自然科学の方法にとってその対象は自然的事物ではある。しかし単に自然の変化を記録することだけに終るのではなくて法則を求めて抽象する 、という事に真の目的 があるわけである。しかし、抽象するということは認識をともなって初めて可能な作業である。しかも、認識が主観によるある角度での反映であること、従って認識の対象も又主観によって一定角度から切りとられたものであることは、先述の戸坂氏の整理の通りであり、この点では文学の科学の全く同一である。
 で、当面、科学的認識とはどういうものか、文学的認識とはどういうものか、という事を考えることが、同時に文学と科学の方法と対象を考えることになるのではなかろうか。
 科学は、その認識=現象の本質を明らかにする=方法として、現象の一般化、体験の非日常化・抽象化という方法をとる。こうして抽象化された一つの世界が科学認識・科学的世界像である。そしてここでは、現象なり、体験なりは、対象(実在)に迫るデータとして一般化されることにより現象を越え、非日常化されることによって体験を越えてしまう。あくまで対象を把えるデータにすぎない。
 文学は、その認識=現象の本質を明らかにする=方法として、現象を典型化する。日常的体験を、抽象的に把えるのではなく一般的、非日常的なものをなかだちとして、別の体験に移ってゆく。従って、ここでは現象そのもの、体験そのものが科学の如くデータとしてではなくぬきさしならぬ対象として対象化される。一般的、非日常的認識を通して、現象なり体験なりを典型化するということはつまり、文学の作家が、自分の認識のとして見つめるものは、読者のそれに通ずる自分の日常的な生活の実感であり、そうした実感に支えられた思想そのものであるという点に科学滝認識とのちがいがあるわけである。以上、まことに舌足らずですがこれで報告をおわります。
 
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