初期機関誌から

「文学と教育」第4号
1959年2月10日発行
 仲間の体験をくぐるということ――科学と文学との二つの軸から 〈資料による素描〉  荒川有史
 私たちのサークルが、科学と文学との二つの軸から“仲間の体験をくぐるということ”を検討するのは、重要な意義があると思います。一つ一つの事柄を正確に理解しあったつもりでいても、その内容を共通な論理に整理していかないと、たえず無駄なくり返しを続けなくてはなりません。話しあいを重ねるごとに、また、新しい問題を検討するごとに、最初の出発点からやり直すというのでは、明日の実践に役立つことは困難です。その意味で、私たちの基本的な物の見方、考え方に真正面からライトをあてることは、よりよき前進のために必要だと思います。
 ところで、質的におなじ論理に整理するということは、ある特定の意見をことばどおりに暗記することでもなく、また、私たちの考え方の中にある共通な側面を最大公約数として要約することでもないでしょう。
 “仲間の体験をくぐるということ”の課題を批判、検討していく中でこそ、私たちは、正しい視点を見につけうるのではないでしょうか。ここでえた思考の論理は、万能薬ではないにせよ、現実の矛盾を処理していく中できたえられ、とぎすまされていくと思います。
 現在、このサークルに参加している人たちの中には“びわの実”会、“広場”の会、西鶴研究会などで一緒に話しあってきた仲間がかなりおります。そこでは科学や文学の本質について、また文学と教育との関連について、かなりつっこんだ話しあいがなされてきました。で、今後の発展のために、それを具体的に紹介しなくてはいけないのですが、準備不足のため、このレジュメでは、資料による問題点の指摘にとどめます。


  仲間の体験をくぐるとは

 ――「私たちは、作者と同化することはできません。また、作中人物に完全同化することもできません。私たちが、光の君に無条件に共感できないのも、私たち自身、美男でないせいだけではありません。私はまた、高校生の息子にも同化できません。自分の体験の軸で子どもを理解するだけです。息子の場合も同様だと思います。十六歳の息子は、自分の体験に即して、父親の体験をくぐりぬけ、彼なりに理解してくれるわけです。くぐる場合、自己の思想、自己の立場というものがあります。相手を屈服させようとしてくぐるのではなくて、ゆがんでいるときには正し、あるいははねのけ、あるいは共感するのだと思います。共感する、同化する場合も、それが目的ではなくて、あくまでくぐりぬけることで、自己をきたえることであります。皆さんが、これからいろんなことを処理していく場合でも、心の中の仲間と語りあって下さい。仲間の顔を思いうかべながら、あの人だったら賛成する、あの人だったら反対する、と討論してみて下さい。決定するのは自分でありますが、仲間の体験をくぐりぬけることでけっきょく自分自身がつくりあげられていくわけです。」(日本生活教育連盟五八年度研究集会国語分科会席上における熊谷孝氏のまとめより)
 ※ なお、木村敬太郎氏「国語教育と生活教育」、熊谷氏「“生活教育”概念への疑惑」、荒川「生活と認識と」(近刊予定の カリキュラム 増刊号所収)をご参照下さい。

  論理的思考――実践を方向づけるもの

 (1) 二つの側面――「文学的思考と科学的思考とは、論理的思考ないし論理的思考力の二つの側面である。」(熊谷氏『文学教育』 P111)
 (2) 一般的認識の主体化――「文学を生活に結びつけ、生活のうちとそととを、またその基盤である歴史社会をいきいきと形象化し典型化してとらえるという、準体験的な文学的思考力を自分のものとすることは、(それが抽象的、一般化的認識であるというかぎりでは観念の域にとどまっているところの)科学的思考を実践的に主体に媒介することにもなる。」(同右)


  科学と文学の対比から

 (1) 科学は客観的で、文学は主観的か?
 「主観というのは、ある主体に依存して生まれてくる意識であり観念であり思想である。」「誰の、どういう主体(人間)のもつ主観か」で、それの真偽関係が規定される。どういう主体の側に立って、自然を、ないし社会を対象化するかで自然現象、社会現象そのものが違った様相を示してくる。科学も主体的であり、階級的である。(「機能の面からみた文学の本質」(広場16別冊TのP6〜7)
※ 故戸坂潤氏『科学論』(現代教養文庫)、『文学論』(伊藤書店)、乾孝氏「創作と鑑賞」(芸術心理学講座V、中山書店)、熊谷氏『文学序章』(磯部書房)参照
 (2) 文学は、科学で語られた真実を、わかりやすいことばにおきかえたにすぎないか。科学による概念的整理の代用品にすぎないのだろうか。
 (3) 科学は有用で、文学はたんなる遊びであろうか。
 (4) 科学は理性の、文学は感情のはたらきに、それぞれもとづいているといえるかどうか。
※ 「理性、知性、悟性、感性、感情等の相互関係や概念規定については、乾氏前掲論稿、粟田、古在両氏『岩波小辞典・哲学』参照

  文学的思考をめぐって

 (1) “準体験”――「三〇年代の暗い谷間の時期において、文化ファシストどもが合いことばとして使った追体験――あの追体験を方法とする形而上学、鑑賞主義の文芸学への抵抗の武器として、わたしたちがそこにうちだしたのが、準体験というこの範疇概念でありました。」「それは、認識・表現・理解という、芸術の基本的な三つの側面を一貫する、芸術的体験の性質をいいあらわす。」(熊谷氏「わたしの文学教育論」教育57.11)
※ 熊谷、乾、吉田氏「文芸学への一つの反省」(文学 36.9)、「文学教育の理論と実践」(三一版(三一書房刊『日本児童文学大系 6』)所収)、熊谷氏「不可知論と芸術学」(文学 47.7)・「芸術の論理」(芸術研究 2)・「波多野完治氏の批判にこたえる」(広場16別冊)・「典型と主観」(広場16別冊)・文学入門(学友社)・「創作と時代精神」(芸術心理学講座V)・「創作と批評」(同上)・「芸術教育と人間形成――鑑賞指導の役割」(芸術心理学講座X)
 (2) “追体験”――「ディルタイ流にいえば、すべての個性は、同一の機能と同一の構成要素をもっているものであり、したがって、個性の相違というも根本的には質的なものでなく量的なものにすぎない……。したがって、表現における、いかに個性的なものも解釈者の個性と質的に相違するものでなく、解釈者は自己の個性における機能を、表現者の個性にあわせて伸縮することができ、かくして、表現者の立場に自己の立場をおきかえる事ができるのであると考えられる。「(大久保正太郎氏「解釈主義への一つの批判」教育 国語教育38.4 臨時号)『文学教育の理論と実践』所収)
※ 戸坂氏『日本イデオロギー論』(伊藤書店)、波多野完治氏「文学教育はなぜ必要か」(教育57.6)、桑原武夫氏『文学入門』(岩波新書)、加藤周一氏『文学とは何か』(角川新書)、福田恒存氏『芸術とはなにか』(要選書)、岡崎義恵氏『日本文芸学』(岩波書店)・『古典及び古典教育』(岩波講座 国語教育)
 (3) 文学における客観的世界の反映のし方。
※ 「機能の面からみた文学の本質」(前掲 広場16)、乾氏「“文芸学への一つの反省”補遺」(文芸復興37.8―『文学教育の理論と実践』所収)、本間唯一氏『文芸学』(旧版、新版とも三笠書房)、甘粕石介氏『芸術学』(三笠書房)、片岡良一氏「鑑賞に先行するもの」(『近代日本の作家と作品』〈岩波〉及び『文学教育の理論と実践』所収)
  (4) 典型的場面の体験と感情異化――「無限の可能性を秘めた人間存在。それを、これほどまでに、みにくく薄汚れたものにしてしまっているのは、いったい、どこの誰れなのか? ――西鶴の筆は、何かそことところを考えさせるための、“突き放した人間の描き”であり、“笑い”であったように思えるのです。」(熊谷氏「人間の回復――西鶴の創作方法とその喜劇精神について」広場22)
※ 乾孝・安部公房「芸術と言葉《対談》」(文学58.6)
 (5) 二重の体験をくぐって。本来の読者と非本来の読者――「教師は、……二重の意味において相手――本来の読者と非本来の読者――の体験をくぐって、媒介者としての自分にゆきつかなくてはならぬ……。」(熊谷氏「文学教育の展開」国語教育実践講座 国土社 P208)
※ 熊谷氏「国語教育と文学教育」(カリキュラム 58.3)、木村氏「話しあい可能な作品と、不可能なそれと」(同右)、荒川・小沢・鈴木「文学教育の問題点」(同右) 参照
HOME‖「文学と教育」第4号初期機関誌から